散日拾遺

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長崎と「現実性」/杭瀬川

2013-08-09 06:53:15 | 日記
2013年8月9日(金)

長崎の日。

当初、小倉とされていた投下目標が、天候不良のためその場で長崎に変更されたことを思い出す。
周到なものだ。

一年後の同じ日、戦後初の国民体育大会が開催された。
参加者は食糧持参だった、とラジオが告げる。さもありなん。
昨日開催された甲子園大会も、戦後しばらくは食糧自弁だった。
負けて帰るチームが、勝ち残ったチームのために米を置いていった逸話を、どこかで聞いたことがある。

二年後の同じ日、先日話題にした全日本水泳選手権が行われ、古橋広之進が驚異的な世界記録を出した。
当初は「時計が間違っているのだろう」と揶揄されたそうだ。

長崎市の田上市長は今日の平和宣言の中で、「核兵器の非人道性を訴え核兵器廃絶を求める共同声明」の署名を日本政府が拒否したことへの批判を述べる予定だという。
この件、「気持ちはわかるが、米の核の傘の下にいる以上、政府として署名できないのはやむを得ない」という「現実論」がつぶやかれることだろう。
これについては少々持論があって、日米安保条約を基本政策とするとしても、あるいはそうするからこそ、こうした声明には積極的に賛成していくのがよろしいと思っている。
それこそが「現実的」であり、すべてに関してアメリカの顔色を窺うことのほうが「非現実的」だとね。

これ、「朝飯前」にはとてもおさまらないから、また後で。
今日は診療日、それに珍しく夜の予定があるんだから。

*****

名古屋のM先生より、お便りと小さなお荷物あり。
開けると、書籍が一冊。
『杭瀬川』と題した句集である。

M先生には中学三年の時に担任していただいた。
歴史の先生だったが、数学もある程度こなされ、さらに書道の達人でいらした。
さらに短歌・俳句を趣味とされ、旺盛に創作を続けていらっしゃる。

大戦時には満州にあり、ソ連軍の戦車を破壊するため手榴弾を懐に道に潜んでいた。
戦車部隊は二股道を反対側に進み、そちらに待機した戦友たちが自爆する轟音が聞こえた。
命永らえたが抑留され、ラーゲリであらためて死に瀕する。
『終わらざる夏』(浅田次郎)そのものだ。

抑留された11人の仲間のうち、無事に故国の土を踏んだのは2名だけ。
そんな話を声を震わせながらしてくださったのが、1971(昭和46)年度の名古屋市立S中学校の教室だった。
そう、そしてM先生も水泳の達人でいらしたっけ。

あとがきから、少しだけ。

 杭瀬川は、昔も今も水量豊富な私の故郷の川である。関ヶ原役の緒戦「杭瀬川の小戦があった。慶長5年9月、杭瀬川を挟んで、石田三成軍は大垣城に、徳川家康軍は岡山に陣地を構えて戦った。
 杭瀬川は蛍の名所でもある。江戸時代のはじめの寛永のころ、大垣城藩主初代戸田氏鉄が流域を「天の河蛍」として保護した。大正13年6月岐阜県庁は、流域沿岸50メートルを蛍の捕獲禁止区域にした。爾来400年余、蛍は大切にされて居る。此処の源氏蛍は体躯が大きい。光度が強烈で他に類を見ない・・・」

本文から、3句だけ。

 卒業証書書きて定年われも去る

 はち切れて落ちなんとする燕の子

 ひとつふたつ家をかぞへて蝶の舞ふ

先生、ありがとうございます。
行って参ります。