日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

諸宗教の施設が集う、ベイルートのナジュム広場

2005年12月26日 17時26分20秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)23日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)

ナジュム広場の中央あたり。ヨーロッパっぽい雰囲気が漂う。

 
 レバノンは、地中海とレバノン山脈に挟まれた平地が回廊のようになっており、ここを多くの民族が往来した(地図上の黄色い矢印参照)。
 かのアレクサンドロス大王もここを通っていった。


 それと同時に、山がちの地形は、迫害された宗教の信者たちが身を隠すには適した場所だった。
 その結果、レバノンにはさまざまな宗教が共存することとなった。


 そのレバノンは1975年から1990年まで内乱で荒廃した。レバノンに逃げ込んだパレスチナ人が、レバノンからイスラエルに向かって攻撃を加えたことがきっかけになったという。


 イスラエルはレバノンに報復攻撃をした。この攻撃に対し、レバノン国内のキリスト教徒は、イスラム教徒を非難した。「お前たちのせいだ!」
 こうして対外的にはイスラエルと戦いつつ、国内ではキリスト教徒とイスラム教徒が内乱を演じることとなった。


 結局、シリア軍の援助(介入?)もあって、長い争乱は終わったが、国は荒れた。そんな中、救世主として登場してきたのが、ラフィク・ハリリ率いる、大手ゼネコン、ソリダール社だった。


 ハリリはサウジアラビアで興した建設業で成功を収め、サウジアラビア国籍を取得していたが、レバノン内乱終了後、祖国に戻り、首相に就任。急ピッチでレバノンは復興していった。


 ベイルートの中心地、ナジュム広場(アラビア語で「星」の意味。フランス語でエトワール広場とも言う)には、宗教共存の願いを込めて多くの宗教施設が再建されていった。


 残念ながら2005年2月14日、ハリリ首相は暗殺された(詳細は次回)。しかし、この広場が宗教共存のシンボルとなることを、そして平和のシンボルとなることをレバノンの人々は願っている。
古代遺跡も混在。ローマ公衆浴場跡。ギリシアカトリックの聖エリアス教会。
アル・アミン・モスクとキリスト教マロン派の聖ジョージ教会が並ぶ。ギリシア正教の聖ゲオルギオス教会。




 ギリシア正教の聖ゲオルギオス教会の内部。内乱で銃弾の穴だらけになった壁画が修復されていた。

 
 ただし、イエス(イーサー。彼の上に平安あれ)の絵だけは、わざと銃弾の痕跡を残したままにしてある。(左の写真では入り口のすぐ左の人物。右の写真は拡大)


 人類の罪を贖うために犠牲になったという、キリスト教の教義に、銃弾を受けたイエスの姿をだぶらせている。


 アル・アミン・モスクの近くには、アルメニアカトリックの聖テリウ教会もあった。


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