いなば路快速の日記帳

鉄道ファンの管理人が日々の出来事・雑感などを綴っていきます。

鳥取駅南の鉄道公園・「鳥取鉄道記念物公園」のはなし(展示物観察1:線路まわり編)

2019年02月23日 | 日々の出来事

○『鳥取駅南の鉄道公園・「鳥取鉄道記念物公園」のはなし』シリーズ記事一覧

鳥取駅南の鉄道公園・「鳥取鉄道記念物公園」のはなし(あらまし編)→こちら

鳥取駅南の鉄道公園・「鳥取鉄道記念物公園」のはなし(展示物観察1:線路まわり編)←現在地

鳥取駅南の鉄道公園・「鳥取鉄道記念物公園」のはなし(展示物観察2:機器類展示コーナー編)→こちら

鳥取駅南の鉄道公園・「鳥取鉄道記念物公園」のはなし(展示物観察3:地上駅再現ホーム編)→準備中


前回(あらまし編)の記事では「鳥取鉄道記念物公園」についてのあらましと、過去の『とっとり市報』などの資料を参考にしながら、この鉄道公園は鳥取駅の高架化事業などの完成を記念して、かつての地上時代の鳥取駅の雰囲気を残すために「沢井手公園」内に開設されたという話を書きました。

さて、今回からは現在の鉄道公園に残っている(あえてこう書きます)色々な展示物についてご紹介する記事を書いていこうと思います。

この公園には敷地の中央を南北にのびる線路が敷かれており、その周辺にホーム、信号機、踏切などの展示物が配置されています。
ただ残念なことに、それらの展示物について解説する案内板は現状ではほぼ失われてしまっています。

(2020年4月追記:鉄道公園開設の経緯と展示物の名称を記した案内板が設置されました→こちら)

そこで本記事では、大変差し出がましいながらも、筆者の浅い知識でもってネット上の詳しい情報の助けを借りつつ、これら展示物についての解説を試みようというものです(汗) まあ、多分に自己満足的なものが強いのですが・・・
(ネットの鳥取鉄道記念物公園について書かれたブログ記事などでも、自分が見た限りは個々の展示物についての解説は意外と少ないです)

以下、筆者のうろ覚えの記憶に頼っている記述もあり、もしかしたら覚え違いによる事実との誤りなどがあるかもしれませんが、なにとぞご容赦ください。

では、まずはこの鉄道公園において最も「鉄道」っぽさを感じさせる要素である線路とその周辺にあるものから見ていきましょう。
(特記のない写真は2018年8月・鳥取鉄道記念物公園にて撮影)


展示物観察1:線路まわり編もくじ

(見出し文字列または写真クリックで該当項目へジャンプします)

線路・分岐器(ポイント)
おもり付転換器
特殊信号発光機
入換信号機
踏切警報機
踏切遮断機
踏切渡り板
車止め
腕木式信号機(場内信号・通過信号)
腕木式信号機(出発信号)の設置跡?

 


○展示物観察1:線路まわり編

  • 線路・分岐器(ポイント)

プラットホーム付近から分岐器(ポイント)・踏切側を見たところです。
一応、線路はマクラギの上にレールが固定された一般的なスタイルですが、バラスト(敷石)は敷かれていないようです。
もっとも、線路にバラストがないのは、投石によるイタズラ防止的な意味合いもありそうな気がします。
線路と右側の広場のスペースとは細長いコンクリートブロックで区切ってあったようですが、部分的に削られてなくなっています。

同じくホーム付近より低いアングルから。レールは背が低くて細く、古びた赤黒い色をしています。
このレールは列車の行き来の少ないローカル線や駅の側線で用いられた30kgレールか37kgレールあたりでしょうか?
レール幅(軌間)は測っていませんが、たぶん国鉄在来線標準の1067mmでしょう。

現状はレールだけを残して線路は土に埋もれ気味で、石がごろごろした普通の線路のイメージとは異なりますね。
廃線跡ともちょっと違うような・・・。

前回の再掲写真ですが、線路づたいにホーム先端部まで進んでみたところです。
分岐側がぶつっと途切れた不自然な配置の片開き分岐器と、線路脇に設置された背の高い・低い2基の信号機が見えてきます。
ささやかなストラクチャーながら、ただ線路が敷かれているよりもなんとなく鉄道施設っぽい雰囲気が盛り上がりますね(?)

分岐器付近はホーム付近と比べてマクラギがほぼ完全に土に埋もれており、雑草が生えてきて線路が次第に草生しつつあります。
その分岐器自体はちゃんとした本物のようで、色々な形状に加工されたレールが組み合わされてできていることがわかります。
分岐器の構造についての詳しい解説はウィキペディア「分岐器」の項目へどうぞ。

分岐器を線路が分かれる根元側から見てみます。ここで線路は直進あるいは右方向へと分岐しています。
この部分は手前の細長くとがった形状のトングレール(先端軌条)が左右に動くようになっていて、そのトングレールに誘導されて列車の進路が切り替わる、分岐器の中でも特に主要な部分です。

しかしながら、この分岐器の可動部分は上述の通り土で詰まったり埋もれたりしており、もう分岐の向きを切り替えるのは無理そうです。
傍らには一応、分岐器切り替え用のレバー(おもり付転換器)が設置されていますが、そこからトングレールに繋がっているはずのロッドも、土に埋もれています。
(おまけにすっかり錆びきっていることでしょう)

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  • おもり付転換器

分岐器の傍らにある切り替え用のレバーです。
これは「おもり付転換器」と呼ばれるタイプで、ダルマ式とも通称されるものです。
駅や車庫などの側線にある手動分岐器を切り替えるのに古くからよく用いられました。

おもり付転換器はレバーを起こして内部のクランクを動かし分岐器を切り替える仕組みだそうですが、
そのレバーにおもりが付いているのは、その重みでクランクを介してトングレールを基本レールにしっかり密着させるためで、
これで車両通過時に分岐器が不意に切り替わり脱線するのを防ぐ意味合いがあるそうです。

現在では別項で紹介するポイントリバーS形転換器など後継の手動転換器や電動式転轍機などに取って代わられているようですが、
まだ現役で使われているものも見かけることがあります。

なおこの転換器については
ブログ「懐かしい駅の風景~線路配線図とともに」さんの記事「手動の転てつ器 その2」
(http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-9c4d.html)
が参考になります。


(おもり付転換器の設置例、2011年6月・長野電鉄須坂駅)


(おもり付転換器の設置例、2015年10月・上毛電鉄大胡電車庫一般公開)

レバーに付いているおもり部分の半分が白、もう半分が黒くなっているのは分岐器の開通方向を見分けるための目印のようなものです。
上半分が白く見える場合は分岐器が定位(いつも開いている方向)に開通していることを示し、上半分が黒く見える場合は分岐器が反位(使うときだけ開く方向)に開通していることを示します。

ちなみにこの鉄道公園の転換器には途中にレバーの動きをブロックする棒(南京錠が掛かっている部分)が仕込まれていて、
むやみに分岐器を切り替えられないようになっています。

このレバー部分のおもりはかなり重さがあり、
分岐器や転換器の可動部分に足や手を挟まれると大変なケガにつながるので、
事故防止のためにもともと切り替えられなくしてあるのでしょう。

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  • 特殊信号発光機

分岐器付近にある背の高いほうの信号機です。正五角形の本体に赤いレンズが5つ組み込まれています。
この信号機は「特殊信号発光機(回転形)」と呼ばれるもので、異常時に赤色灯が2つ反時計回りに回転して走行する列車に直ちに停車するよう知らせる仕組みです。
詳しい解説はウィキペディア「日本の鉄道信号#特殊信号発光機」の項目へどうぞ。


(特殊信号発光機(回転形)の点灯例、2019年8月・京都鉄道博物館)

ゲーム「電車でGO!」シリーズの踏切事故イベントで「非常ブレーキ使え」のテロップと同時に出てくるお馴染み(?)のアレですね。
この鉄道公園での設置例は、前方に見える踏切が自動車の立ち往生などで支障され、非常ボタンが押された場合に緊急停止を知らせるという想定なのでしょう。

ちなみに信号機本体の背面には、内部の電球交換用と思しき蓋があります。
見づらいですが、上に取り付けられている蓋には逆三角形の刻印があります。
たぶんこの信号機を製造したメーカーのものなのでしょうか?

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  • 入換信号機

次に、もうひとつの背の低いほうの信号機を見てみましょう。かまぼこ形の本体に3つ、その下に1つ点灯する部分があります。
これは「(灯列式)入換信号機」と呼ばれるもので、駅や操車場の構内で車両を移動させる(入換する)場合に用いられる信号機です。
やはり詳しい解説はウィキペディア「日本の鉄道信号#入換信号機」の項目へどうぞ。

ちなみに、鳥取駅と湖山駅近くにある車両基地(西鳥取車両支部)の間を回送する列車は、通常の信号機ではなくこの入換信号機の現示(信号の表示内容)に従って運転されているようです。


(入換信号機の点灯例、2018年9月・日光線日光駅)

灯列式の入換信号機はかまぼこ形の本体に3つある白色灯のうち、2つの白色灯の並びによって車両の進行・停止を指示します。
点灯例の写真は停止現示で、近年は右下が赤色灯になっているタイプも見かけます。
本体の下にある青紫色に点灯する部分は「入換信号機識別標識」と呼ばれるものです。
この標識灯が点灯していれば上の本体は「入換信号機」、点灯していないもしくは設置がない場合は「入換標識」として機能します。

ところで、入換信号機の本体背面には塗りつぶされながらも製造銘板が残っていました。
それによると
「電気入換信号機機構、製造番号6497、製造年月昭和49年7月、東邦電機工業株式会社」
と書かれているようです。

また、入換信号機識別標識にも同様な製造銘板があり、
「入換信号機識別標識、種類柱上(?)用、製造番号3283(?)、製造年月昭和49年7月、東邦電機工業株式会社」
とありました。

メーカー名の「東邦電機工業株式会社」は現在も盛業中の会社で、おもに鉄道用の通信・信号・保安機器の設計製造を手がけているそうです。

それにしても鉄道公園の入換信号機はレンズが割られていて無残な姿です。
背が低いため破壊活動の標的になりやすく、石をぶつけられたり棒でつつかれたりしたのでしょう。
2018年当時、レンズ部分にはガラスの残骸があり危ない状態でした。

(2023年10月訂補・追記)

(2019年4月撮影)
その後、この入換信号機のレンズ部分に残っていたガラスの残骸は除去されていました。

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  • 踏切警報機

さて、今度は分岐器から線路の終端のほうへ進んで、踏切周辺を見ていきます。

まずは踏切全体を若干引いたアングルから。よく見かける黄色と黒の塗り分けの警報機が備わった意外と立派な(?)踏切です。
設備としての踏切の詳しい解説はウィキペディア「踏切」の項目へどうぞ。

この付近は踏切一式、おもり付転換器車止め腕木式信号機など、この鉄道公園では展示品の密度が高い一角となっています。

踏切の東側、山白川沿いの入口方面から踏切を見たところです。
こちら側には赤色の警報灯が横に並んだタイプの踏切警報機(非常ボタン付き)が設置されています。

こちら側の踏切警報機ですが、全体的に傷みが進んでいて、×字形の踏切警標(クロスマーク)は左下の部分がなくなっています。
警報灯のレンズが割られていないのがまだ救いでしょうか。
見えづらいですが、柱の上には警報音を鳴らすスピーカーが取り付けられていたと思しきステー(支持具)があります。
しかしスピーカーそのものはありませんでした。

踏切警報機の柱に取り付けられている非常ボタンスイッチです。
踏切で自動車が立ち往生した場合など、非常時にはこのボタンを押して・・・、と言いたいところですが、このスイッチは肝心の押しボタン部分がなくなってしまっています。

黒く塗られていますが、ところどころ色がはげて下地が見える部分から察するに、かつては水色っぽい塗装だったようです。

この非常ボタンにはわかりやすいことに正面に製造銘板が取り付けられていました。
それによると
「踏切支障報知用操作器、定格DC24V、接点電流容量3A、製造番号476410、
製造年月昭和47年2月、東京 株式会社三工社 幡ヶ谷」
とあります。

メーカー名の「株式会社三工社」は鉄道用信号機器や鉄道車両部品はじめとして、交通信号機器、道路標識、ガス機器など様々な製品の設計製造を手がける会社として現在も盛業中のようです。
逆三角形の会社のマークが目立ちますが、そういえばこのマークは上で紹介した特殊信号発光機にもありましたね。

次に踏切を渡って西側にある踏切警報機です。
こちら側のものは赤色の警報灯が縦に並んだタイプです。非常ボタンはありません。
反対側の警報機とは対照的に、こちらはそんなにボロボロになっている感じではなく、ちょうど傍らのヒマラヤスギの木に雨風から守られている格好のようでした。

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  • 踏切遮断機

一見するとこの鉄道公園の踏切は踏切警報機だけが設置された踏切(第3種踏切)の再現に思えますが、上の写真の所々で写っているように、遮断棒がなくなって動作部分の本体だけになった遮断機が2つあります。
したがって、一応は警報機や遮断機一式がすべて備わった踏切(第1種踏切)の装いではあるようです。

こちらは東側(入口側)の遮断機です。
遮断棒は取り付け部に保持されている部分を残して折れてなくなっています。
遮断棒の取り付け部はつり合い用おもり(見えづらいですが)の作用で斜め上を向いた状態で止まっています。

遮断機本体に製造銘板が残されていたので、記録しておきます。
「腕木式電機踏切しゃ断機、種類B形、定格電圧D.C.24V、
会社形式MCG-6SD、製造番号A32526、昭和49年12月製造、株式会社京三製作所」
と書かれています。

メーカー名の「株式会社京三製作所」は鉄道信号システムや交通管理システムに関係する製品を手がける会社で、身近なところだと街中に設置されている道路信号機などでもよくその名を見かける、お馴染みのメーカーですね。

こちらは西側の遮断機です。こちらも遮断棒はありません。
こちらの遮断機は反対側のものとは異なり遮断棒の取り付け部が線路から見て外側にあります。
同じ正面向きから見た場合、遮断棒が降りる向きの左右が入れ替わったタイプと見ることもできそうですね。


(2019年4月撮影)

こちらの遮断機の製造銘板は写真の通りで、
「腕木式電機踏切しゃ断機、種類B形、定格電圧D.C.24V、
会社形式MCG-6SD、製造番号A32571、昭和49年12月製造、株式会社京三製作所」
と書かれていました。

ところで、うろ覚えの話ですが自分が子供の頃はまだこれら遮断機の遮断棒が健在で、手で上げ下げして遊んだりした記憶もあります。
ところがいつの間にか遮断棒は根元からぼっきり折れていて地面にうち捨てられてしまい、気がついたときには姿を消してしまっていました。
以後、修復されることはなくやはりそのまま放置です。

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  • 踏切渡り板

さて今度は踏切の渡り板を見てみます。
コンクリートではなく白っぽい材質の石でできた渡り板で、いかにも古めかしそうなタイプです。
ちゃんと脱線防止ガードレール(護輪軌条)にフランジウェイ(車輪のふちが通る溝)が設けられた本格的なものですね。

渡り板の幅は測っていませんがそんなに広くなく、だいたい幅3mちょっとくらい、普通乗用車1台分程度といったところでしょうか。

線路の両脇にある渡り板と走行用レールの間にすき間がありますが、ここには以前、木の板が敷き詰めてあったような気がします。


(踏切渡り板の例、2017年1月・一畑電車一畑口駅付近)

この実例ではコンクリート製の渡り板ですが、雰囲気は似ています。
木の板はまさに渡り板と走行用レールの間にこんな風に設置されていたような気がします。

しかし結局、現在はその木の板も朽ちて取り払われ、固定していた釘だけが残っています。
(その釘やらすき間やらにつまづくと危なそうですね・・・)
前述の折れた遮断棒も、一時期はこのすき間の中に放り込まれていたような・・・。

石の板の並びがガタガタになり、まだらに黒ずんだ渡り板のこの雰囲気が、設置されてからの年月の長さを物語っているような気がします。

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  • 車止め

今度は踏切の渡り板の先、というかすぐ隣にある車止めです。
車止めとは読んで字の通り、線路の終端部分において車両が線路外に逸走してしまうのを防ぐために設置される設備です。
設置された場所は公園の敷地の端、道路までぎりぎりになっています。

車止め標識はありませんが、黄色と黒の警戒色でここで線路は終わりなんだ、と強く主張していますね(笑)
このようなレールを曲げて作った車止めは「第3種車止め」と呼ばれるタイプに分類されます。
詳しい解説はウィキペディア「車止め」の項目へどうぞ。


(第3種車止めの例、2017年8月・若桜鉄道若桜駅)

このタイプの車止めはおもに駅や車庫の側線の終端部に設置されることが多いようです。
車止め本体には設置例の写真のように色が塗られることもあれば、無塗装のものなどもあり様々です。

ちなみに写真の手前方向、駅のホームから続いてきた線路は、踏切を過ぎると数十cmも行かないうちに車止めで終了です(笑)
現実にはおよそなさそうなシュールな状況が、この車止めの存在感をいっそう際立たせているような気がします。

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  • 腕木式信号機(場内信号・通過信号)

つぎに、踏切のそばにある背の高い信号機です。
これは「腕木式信号機」と呼ばれる古いタイプの信号機で、電球やLEDの光の色で信号の現示(信号の表示内容)を知らせるいわゆる色灯式信号機とは異なり、腕木式の名の通り上下する信号腕木の傾き具合で機械的に信号の現示を知らせるものです。

腕木式信号機は色灯式信号機や自動閉そく方式などが普及する以前は全国の鉄道で広く使われましたが、2019年現在では保存目的で残っているものを除き、現役で使われているものは青森県の津軽鉄道にわずかに残るのみです。
鳥取近辺では、因美線の智頭~津山間、美作加茂駅で1999年まで使われていたものが最後だと思います。

腕木式信号機は鉄道にあまり詳しくない人でも、なんとなく蒸気機関車の時代のイメージというか、古い時代の鉄道設備であることは伝わりやすいのではないかと思います。
したがって、この手の鉄道公園では割と見かけやすい定番(?)アイテムだといえるでしょう(荒廃しているものも多いですが・・・)。

腕木式信号機の解説についてはウェブサイト「きはゆに資料室」さんの「特集 腕木式信号機」というページ
(http://www.kihayuni.jp/SP/sp-udeki-1.html)や、
ウェブサイト「LazyJack」さんの「信号装置 腕木式信号機の細部」というページ
(http://www.lazyjack.co.jp/home/non.php?catid=31&page_3.html)
が参考になります。

信号腕木部分のアップです。もはや隣のヒマラヤスギの枝葉の中に埋もれてしまっています。
この信号機は信号腕木が2つ付いていますが、上の赤と白の腕木が場内信号機(主本線用)、下の黄と黒の腕木が通過信号機です。

場内信号とは駅などの停車場の入口に設けられるもので、その停車場の線路に進入してよいかを指示し、通過信号とは停車場を通過する列車に対し、出発信号機の現示(その停車場を停車せずに通過できるか)を予告する信号です。
写真の状態の場合、どちらも信号腕木が水平の状態なので、この信号機は「場内停止」「通過注意」を示していることになります。

信号腕木の右側には夜間など腕木の状況が確認しづらいときに補助手段として信号の現示を知らせる色付きレンズの点灯部分があります。
レンズの後ろからカンテラや電灯で照らすものですが、上の場内信号のレンズはなくなっています。


(場内・通過用腕木式信号機の保存例、2019年8月・鹿児島本線門司港駅)

なお、腕木式の場内信号機は青=進行、赤=停止、通過信号機には青=進行、黄=注意のレンズがはめ込まれますが、この鉄道公園の通過信号機に残っているものは気のせいか注意現示が妙に赤っぽく見えるような・・・。

腕木式信号機根元の部分です。ここには信号腕木を動かすリンク機構が設置されており、柱の上の信号腕木から下へのびていた動作ロッドが写真右上のエスケープクランクに接続されています。
さらにこのエスケープクランクは円盤状のおもりが付いた動作かんと組み合わされています。
(この信号機の場合、場内信号機と通過信号機それぞれの動作用に2組あります)


(腕木式信号機の動作かんとワイヤーの接続例、2019年8月・京都鉄道博物館)

この動作かんの上がっている側の端部、リング状の部品があるところは実際には動作用ワイヤーが接続されていた部分で、これを駅の信号扱い所にある信号てこで操作することにより、信号腕木を上下させていました。

ちなみにおもりが下がっている状態が腕木式信号機の定位(いつも表示している現示)、信号てこでワイヤーを操作し、おもりが上がった状態が反位(使うときだけ表示する現示)です。
もし動作用ワイヤーが切れてしまっても、おもりの作用で自動的に信号機が定位(この信号機の場合は停止信号)に戻る仕組みとなっています。

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  • 腕木式信号機(出発信号)の設置跡?

ところで、この鉄道公園の腕木式信号機ですが、実はかつてもうひとつ存在していたようです。
写真は上の項目で紹介した特殊信号発光機おもり付転換器との間にあるコンクリートの土台ですが、信号機の柱を固定するための4本のピンの跡が土台に残っています。

ここに出発信号用と思われる腕木式信号機が設置されていたようです。
出発信号機とは駅などの停車場から出発する(通過する)列車に対して、文字通り出発してもよいかを指示する信号機です。


(出発用腕木式信号機の保存例、2017年8月・岡山県美咲町柵原ふれあい鉱山公園)

この腕木式信号機は今も残っている場内・通過信号用腕木式信号機が駅のホームを背にして建っているのとは逆に、出発信号用ということで駅のホームを向いて建っていたようです。
現存しない理由は定かではありませんが、老朽化のため撤去されてしまったのでしょうか?

撤去には仕方ない事情があったのだろうとは思いますが、せっかく駅のホームが再現され、場内信号機・出発信号機とそれらしいシチュエーションで揃っていたのに、出発信号機だけがなくなってしまったのは惜しいことだと思いました。

なお、この腕木式信号機はあらまし編で紹介した『とっとり市報1981(昭和56)年12月号』の記事内に設置された当初の姿が写されています。
(白黒写真でほぼ柱の部分しか写っていないのでちょっと分かりにくいですが)
また『とっとり市報1999(平成11)年11月15日号』の記事「シリーズ 公園に行こう⑥ 沢井手公園(鳥取鉄道記念物公園)」に掲載されている写真にもこの信号機の姿が見られるので、1999年の時点ではまだ健在だったようですね。

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以上で鉄道公園の線路まわりにある展示品についてのはなしは終わりです。
次回は公園西側の隅にある鉄道用器具の展示コーナーについて記事にしていこうと思います。
展示物観察2:機器類展示コーナー編


鳥取駅南の鉄道公園・「鳥取鉄道記念物公園」のはなし(あらまし編)

2019年02月10日 | 日々の出来事

○『鳥取駅南の鉄道公園・「鳥取鉄道記念物公園」のはなし』シリーズ記事一覧

鳥取駅南の鉄道公園・「鳥取鉄道記念物公園」のはなし(あらまし編)←現在地

鳥取駅南の鉄道公園・「鳥取鉄道記念物公園」のはなし(展示物観察1:線路まわり編)→こちら

鳥取駅南の鉄道公園・「鳥取鉄道記念物公園」のはなし(展示物観察2:機器類展示コーナー編)→こちら

鳥取駅南の鉄道公園・「鳥取鉄道記念物公園」のはなし(展示物観察3:地上駅再現ホーム編)→準備中


  • 「鳥取鉄道記念物公園」のあらまし

JR鳥取駅南口から山白川という小さな川に沿っておよそ徒歩5分ほど、住宅やマンション、鳥取市役所駅南庁舎といった施設が立ち並ぶ一角に、その名も「鳥取鉄道記念物公園」という、なにやら仰々しい名前の公園があります。
写真右側奥の木々がうっそうと茂った一角がそれです。


Googleマップだと鳥取駅南口付近のこのあたりになります。

山白川に面した正面入口には踏切警報機(×字形の踏切警標・クロスマークは失われている)が鎮座し、レンガ積みを模した土台には公園名を記した銘板が設置されています。
「鳥取(機関車の絵)鉄道記念物公園」の切り抜き文字が取り付けられた緑色の門柱もなにやら意味ありげです。

この公園には別の入口もあり、南側の入口には正面同様のスタイルで設置された公園名の銘板やポイント切り替え用のレバー(おもり付転換器)と、やはり緑色に塗られた柱(機関車の正面が描かれた板付き)があります。

また、駅に近い北側の入口には鉄道部品のモニュメントはありませんが、公衆トイレの建物に沿って奥へ進むと踏切が再現された一角が見えます。

正面入口から園内に入ると、砂地の広場と若干のベンチ、そして大きな存在感を放つ再現されたプラットホームとその上屋や付属物が目に付きます。

昔ながらの客車用の低いホームに、古レールを利用した上屋が設けられています。
柱や屋根裏はアイボリーっぽい色で塗られていますが、ややくたびれた雰囲気です。
ホームの下には線路も敷かれています。公園の広さ相応の1面1線(?)の短いホームです。

ホーム付近から線路の伸びている方向を向くと、片開きの分岐器やいくつかの信号機、さらに前述の踏切や線路周辺に関連する機器類が展示されたコーナー(写真左奥)があります。

また、目立ちませんが線路の北側の終端である車止め付近にも入口があり、ここからは腕木式信号機や踏切越しに伸びる線路、ホームなどが見えます。

以上がこの公園の見たところのあらましといったところでしょうか。
地図読みでだいたい50m四方、街中の小さな公園といった感じですが、やはり公園内に線路が敷かれ駅のホームや踏切があるインパクトは大きいです。

ただし、見ての通りこの手の公園につきものの機関車や客貨車といった保存車両の姿はありません。
まあ、見かたによってはここは鉄道施設の再現に特化した公園という、ある意味マニアックで鉄分の濃いぃスポットともいえるでしょう(笑)

しかしこの公園は鳥取駅から近いながらも割と静かな場所で、どこか鉄道ファンやマニアの人々からも忘れられているような、なんとなくひっそり、寂寞とした雰囲気が漂っていたのでした。
(写真を撮影したのが8月のお昼前後だったので、単に暑くて誰も外出していないせいもありそうですが)

  • 「鳥取鉄道記念物公園」開設のいきさつ

さて、この「鳥取鉄道記念物公園」ですが、確かにそれっぽい展示物がいくつも見られる割にはこれらが結局どういう意味を持った「鉄道」の「記念物」なのかという解説が現地にないので、敷地の中に途切れた線路のある、ぱっと見だとある意味謎の公園ではあります。
なぜ、駅のホームや線路がこれほどの規模で再現されているのでしょうか?

(2020年4月追記:公園開設の経緯や展示物の名称を記した案内板が設置されました→内容に関してはこちら)

(2023年10月追記:一部の展示物に新たに名称や概要を記した説明板が設置されました→こちら)

筆者自身にとっては幼少の頃から慣れ親しんだ公園であり、一般に「鉄道公園」とよく呼ばれるくらいには街の人々にも馴染みのある公園ではあると思うのですが、自分が子供の頃は「ホームや線路とか踏切がある公園」という見た目そのままの程度の認識だったので、今回あらためてこの公園について、ここがどういう場所なのかをちょっと調べてみました。

この公園は鳥取市が管理する公園ですから、調べ物をするにも鳥取市の公式ホームページにある検索コーナーから「鉄道記念物公園」「鉄道公園」などとキーワードを入れて検索するのが手っ取り早そうです。
その検索結果の中から、個人的に目に付いたものを以下にピックアップしていきます。

まず『鳥取市公式ウェブサイト:公園』によれば、この公園は正式には都市公園「沢井手公園」という名称だそうです。
つまり、表向きには入口に銘板まで取り付けられてその名をアピールしていながらも、あくまでも「鳥取鉄道記念物公園」は愛称的な位置付けなのでしょう。

また、これに関連して『鳥取市都市公園一覧表』によれば、沢井手公園は昭和43(1968)年4月1日が供用開始の期日(利用開始日)とされており、公園そのものはかなり古くからあることが分かります。

では、沢井手公園は昭和43年の開設時点から現在のような鉄道公園だったのでしょうか?

結論から言うと、沢井手公園が「鳥取鉄道記念物公園」となったのは開設から13年半後、昭和56年(1981)年10月14日のことだそうです。


(画像出典:とっとり市報1981(昭和56)年11月号)

これは過去の『とっとり市報』をPDF化したものが閲覧できる『とっとり市報アーカイブ』内の『とっとり市報1981(昭和56)年11月号』に掲載されていた記事で、記事の内容を引用すると

旧鳥取駅を再現
鉄道記念物公園オープン
旧鳥取駅で使用されていた機械・機器を保存、展示する鳥取鉄道記念物公園が扇町にこのほど完成、鉄道記念日の十月十四日、金田市長や清原延夫・米鉄局長ら関係者ら約二百五十人が出席して開園式が行われました=写真。
同公園は市民の憩いの場であると同時に、鉄道の歴史を知る場ともなるよう、国鉄の協力で旧鳥取駅のプラットホームを再現したほか、各種レール、各種信号機、踏切しゃ断機など三十種約五十点の機器類を展示しています。特に、全国でも珍しい双頭レールを使ったプラットホーム上屋や「鉄道神戸・明四一」の作成年代の刻まれた跨線橋の橋脚柱を使った門柱・照明灯は、貴重なものです。
開園式のテープカット後、園内では行先票、改札ばさみなどの展示即売が行われ、徹夜した鉄道マニアの若者らが殺到し十分あまりで売り切れてしまう大盛況でした。

とあり、この公園は鳥取市が国鉄の協力を得てかなり気合を入れて作ったミニ鉄道博物館的な場所だったことが伺えます。
あの存在感のある大きな屋根の古めかしいホームは、旧鳥取駅(=高架化前、地上時代の鳥取駅)のホームの一部だったのです。


(画像出典:とっとり市報1981(昭和56)年12月号)

なお、『とっとり市報1981(昭和56)年12月号』に掲載されていた「ことしの市政をふり返る」という記事内にも10月に鉄道公園がオープンした旨の内容が書かれています。
やはり、公園の特徴として地上時代の鳥取駅のホームを再現したことや、各種鉄道設備の展示について言及されています。

ただし、これらの記事から察するに公園のコンセプトはあくまで地上時代の鳥取駅の設備の再現や保存にあるのか、機関車や客貨車の展示については言及がありません。
(車両があればそれこそ展示物の目玉的扱いになるでしょう)

施設としてはある程度の長さのレールが敷設されていながらも、おそらくこの公園ではもともと鉄道車両の保存展示はなかったのではないかと考えられます。

ところで、その地上駅だった鳥取駅が新しい高架駅に切り替えられたのは鉄道公園オープンの3年前、昭和53(1978)年11月のことですが、その当時の『とっとり市報』の内容から


(画像出典:とっとり市報昭和53(1978)年12月号)

これは『とっとり市報昭和53(1978)年12月号』に掲載されている高架開通記念特集の座談会記事ですが、
最後の金田市長(当時)のコメントを一部引用すると

駅南に「鉄道公園」
(前略)高架化事業と駅前都市改造事業が完成したら、(中略)旧駅舎の使用しないものなどの諸施設を集めて、駅南に「鉄道公園」のようなものを作りたいと計画しています(後略)

とあり、もともと市長自身の考えとして鳥取駅高架化事業や鳥取駅周辺土地区画整理事業の完成記念として、鉄道公園の建設に意欲を見せていたことが分かります。

現状はともかく、オープン当初の鉄道公園の施設の充実ぶりを上の記事から察するに、高架化より前、長い間鳥取市の玄関口であった地上駅の名残を何とか残しておきたい、という考えがあったのかもしれません。
(これは前述の鉄道公園オープンの記事で「鉄道の歴史を知る場」と書かれているのに関連していそうです)


(高架化された鳥取駅と地上駅跡地に整備された駅前広場の現在、2018年8月)

そして、その高架化事業などがすべて完了したのは、当時の『とっとり市報』によれば、鉄道公園のオープンに先立つこと約半年前、昭和56年(1981)年3月のことだったそうです。

つまり、「鳥取鉄道記念物公園」はこれら一連の鳥取駅を中心とした都市改造事業の完成を記念して、高架化で失われた地上時代の鳥取駅の雰囲気を再現するべく、ちょうど「エキチカ」だった沢井手公園をリニューアルする形で開設された公園ということになるのでしょう。

公園の名前にある「鉄道」の「記念物」とは、再現された地上時代の鳥取駅ホームといった設備や、その周辺で使われていた(とされる)信号機をはじめとした様々な機械・機器といった展示品のことを指しているようです。


(画像出典:とっとり市報1999(平成11)年11月15日号)

ちなみに時代は少し下って、『とっとり市報1999(平成11)年11月15日号』に掲載されている
「シリーズ 公園に行こう⑥ 沢井手公園(鉄道記念物公園)」という記事には、はっきりと沢井手公園に鳥取鉄道記念物公園が開設されたこと、およびその経緯が書かれています。
やはり解説文には「鉄道の歴史を後世に伝えるため」と書いてある通り、かつての地上時代の鳥取駅の雰囲気をこの公園に残しておこうという鉄道公園開設の意図が感じられます。

この記事にはカラー写真5枚で1999年当時の鉄道公園の様子が掲載されており、在りし日の鉄道公園の様子を知るうえでこれらも大変参考になります。

なお、この公園を指して「地上時代の鳥取駅の跡地」とする記述も一部で見られますが、上に掲げた資料の通りここはあくまでも鉄道公園がオープンするまではもともと普通の公園だった場所であり、それまでは駅や機関区などの鉄道施設とは無関係な場所だったのではないかと思います。

さて、これで「鳥取鉄道記念物公園」のあらましと開設についてのいきさつを探る話は終わりです。
正直を言うとネットで調べればこの鉄道公園が鳥取駅の高架化に伴って地上時代の駅を記念して作られた、程度の記述はいくつかヒットするのですが、この記事では裏付けとなる資料を使ってもう少し情報を掘り下げてみた次第です。

次回以降は、この鉄道公園内の展示物を観察したはなしを書いていこうと思います。
展示物観察1:線路まわり編へ

(以下2020年4月追記)

  • 鉄道公園に新しく設置された案内板

上の公園開設のいきさつについて調べた項目の冒頭で『それっぽい展示物がいくつも見られる割にはこれらが結局どういう意味を持った「鉄道」の「記念物」なのかという解説が現地にない』と書きました。

しかしながら2020年の年初に鉄道公園を訪れてみたところ、公園内にある建物に新しい案内板が設置されていることに気がつきました。


(2020年1月撮影)

この記事を最初に書いた2019年前半時点では見られなかったもので、案内板にはこの沢井手公園に鉄道記念物公園が開設された経緯や図面つきで公園内にある展示物の名称が書かれています。
なお、鳥取市の「議員質問対応調書一覧表(平成30年09月議会)」にある「鉄道公園の活用と鉄道の歴史について」という文書によれば、この案内板が設置されたのは2019年の10月のことだそうです。


案内板の左側、公園開設の経緯が書かれている部分の内容を引用すると

沢井手公園(鳥取鉄道記念物公園)
沢井手公園(鳥取鉄道記念物公園)に設置されている鉄道記念物は、昭和53年鳥取駅高架事業の完了に伴い、それまで使用していた鉄道施設の保存を当時の多くの市民の方々の強い要望により、これを展示し、末永く後世に伝えることを目的として設置したものであります。
旧駅舎は全国でも珍しい双頭レールのホーム上屋、ならびに使用年代を刻んだ跨線橋橋脚柱(門柱、照明燈柱に使用)等鉄道の歴史を知る貴重な諸物件を展示しております。

とあります。案内板自体は新しいものですが、書かれている文体はやや古めかしいもので、どことなく鉄道記念物公園がオープンした約40年前の雰囲気を感じさせるような文章です。少なくともこの案内板設置に当たって新たに書き起こされたものではないと思うのですが、何かこの内容が掲載されたオリジナルの資料が存在するのでしょうか?

また、内容については過去のとっとり市報に掲載されている鉄道公園の記事と相違はないようですが、『当時の多くの市民の方々の強い要望』とある部分は初めて目にする内容です。この鉄道公園の設置の背景には、前述した当時の市長の意向だけでなく、市民の手による請願運動のような出来事も存在したのでしょうか?


こちらは案内板の右側、展示物の名称について記載がある部分です。

室内(プラットホーム)
①旅客上屋鉄骨(双頭レール) ②のりば案内標
③電鈴(直流・交流) ④通票閉そく機
⑤磁石電話機 ⑥スピーカー
⑦出発合図機
展示コーナー
⑧地上子(ATS-S型) ⑨ポイントリバー(S型)
⑩レール ⑪普通転てつ器標識
⑫発条転てつ器標識 ⑬信号リバー
室外
⑭跨線橋橋脚柱(門柱、照明灯柱) ⑮特殊信号発光機
⑯おもり付ポイントリバー ⑰踏切しゃ断機
⑱踏切警報機 ⑲腕木式場内信号機
⑳入換信号機

少なくともこの案内板を見れば、内容が読めなくなったり撤去されたりした開設当初からの説明板に代わって、公園内の展示物が何であるかを一応知ることはできます(展示物の状態はともかくとして・・・)。

例によってこちらの展示物案内板も同様に年代的にちょっと怪しい(?)ところがあるような気がします。
掲載されている図は公園の平面図をベースに“現存する”展示物の位置をプロットして作られているようですが、図面上ある程度の大きさでもって描かれていてもおかしくないはずのトイレの建物が記号だけで済まされていること、北東にあるはずの山白川に面した入口が描かれていないことからすると、この平面図は鉄道公園開設当時の図面を使用しているのではないか?と個人的に推測しています。
(鉄道公園のトイレは約40年前の開設当初から存在したものではなく、後年設置されたもののようです)

つまり、この鉄道公園が開設された当時の設計図面や設置されていた展示物の目録などの資料が現存している可能性があるわけで、もし一般でも閲覧することができるなら是非見てみたいところです。そうすれば現存しない失われた展示物についても何があったかが判明するはず・・・。(そんなこと知ってどうするの、という話ですが)

さて、くどくどとまた色々語ってしまいましたが、結論としては長らくこの公園の存在意義や展示物に関する解説がなされていなかったところに、この案内板によって多少なりともフォローが入ったのは喜ばしいことだと思います。
少なくとも「経緯不明の謎の公園」という状態からは少し脱することができたのではないかと思います。

(以下2023年10月追記)

  • 展示物に新しく設置された説明板

2019に鉄道記念物公園開設の経緯や展示物の名称を記した案内板が設置されたことは上記の通りですが、それ以降も個々の展示物に関して解説を記した説明板は失われているか判読不能な古いものがそのままになっている状態でした。

そんな中、2023年の夏に鉄道公園を訪れてみたところ、公園内の一部の展示物に真新しい説明板が設置されていることに気がつきました。




(2023年8月撮影)

これらの説明板は機器類展示コーナーと地上駅を再現したホームの一部の展示物に設置されているもので、鳥取市の「議員質問対応調書一覧表(令和4年12月議会)」にある「鉄道記念物公園の活用について」という文書によれば、この案内板が設置されたのは2023年6月のことだそうです。

2019年に設置された案内板と同じく、この新しい説明板も書かれている文体はやや古めかしい感じのような文章です。やはりこの内容が掲載された約40年前のオリジナルの資料が存在するのではないかと思われるのですが、果たして・・・?
(再現ホームの双頭レールや出発合図器の説明板に書かれている文章は、それまで残っていた古いものと同じでした)
上掲の文書中にある「展示物の説明板の記載内容の検討」がどのようなものだったのか気になります(笑)

少しずつの再整備ではありますが、こうして鉄道公園の存在が見直されつつあることは喜ばしいことだと思います。
今後も鉄道公園はリニューアルのため整備を進めるの構想が存在するそうなので、折を見て状況を観察していこうと思います。


冷房電源は自車専用・TOMIXのキハ58系急行由布セットのキロ28形

2018年06月16日 | 鉄道模型のあれこれ

◎2月9日:キロ28形の冷房と屋根の仕様について加筆・修正しました

前回に引き続きTOMIXのキハ58系急行「由布」セットのはなしです。

今回はこのセットの目玉的存在の車両である、グリーン車のキロ28形0番台・冷房改造車をピックアップしていこうと思います。

まずはざっくり実車の解説から

キロ28形0番台(基本番台)は、様々なバリエーションが存在するキロ28形の中でも最初期の1961(昭和36)年~1963(昭和38)年に製造された番台区分で、番号としてはキロ28 1~85が該当します。

登場当初は全車が非冷房車でしたが、のちに普通車に先んじて1965(昭和40)年ごろから本格的に冷房化されることとなり、屋根上にAU13形クーラーを、床下には自車専用の冷房用電源として4DQ/DM72発電セットを搭載しました。
(バスクーラーを用いた簡易冷房車やAU12形クーラーによる冷房試験車がこれ以前に若干数存在します)

このころはまだ基本的に他車への冷房電源供給は考慮されていなかったものと思われます。

そこで、後年になって普通車の冷房化が進展してくると、編成中間に組み込まれたキロ28形によって冷房用電力の供給が分断されないようにするため、キロ28形自車専用の給電系統はそのままに隣の車両からもう一方の隣の車両へ冷房制御指令や電力を中継するジャンパ線などが設置されています。

しかしながら、やはりキロ28形の冷房用電力の供給が自車専用という状態では運用効率がよくないため、1977(昭和52)年ごろから発電セットを自車を含めて3両分の冷房用電力を供給できる4VK/DM83に換装した車両が一部で現れるようになりました。
これにより車番は元番号に+2000する改番が行われています。
(冷房化にまつわるこのあたりの経緯は他の番台のキロ28形もだいたい同じ)

なお、1969(昭和44)年に登場したキロ28形の2309以降と2508以降の車両は、製造当初から冷房車かつ4VK発電セットが搭載済みでした。

その後キロ28形0番台(ないし2000番台)は老朽廃車や他車への改造により1980年代前半には急速に両数を減らしていき、国鉄民営化前後の時期には全車引退となったようです。

さてここからは模型のはなし。

今回TOMIXが製品化したキロ28形0番台・冷房改造車は4DQ給電による冷房化が施工された姿がモチーフとなっています。
(この形態のキロ28形は今回初製品化ですね)

TOMIX公式の製品情報では、このキロ28形では車体、屋根、床下を新規に製作しているそうです。
写真の右から2番目のクーラーの真下にある床下機器が4DQ発電セットで、車体の同じ位置の窓間には発電エンジンの吸気口があります。

しかしながら4DQ発電セットつきの床下は北海道向け形式のキロ26形や郵便車のキユ25形で作ってなかったか?と思ったのですが、製品写真などを見比べてみると、どうやら各形式で機器配置などに微妙な差異がある床下を細かく作り分けているようです。

上の写真と反対側の側面から。

製造年次的にキハ58系の初期グループに相当する車両なので、乗降ドアの下側隅にある丸い小窓は当初から設けられていません。

ちなみに、このキロ28形に続いて1963(昭和38)年から製造された100番台の初期車両(キロ28 101~108)もこれとほぼ同一の車体のようです。(こちらにはドアの丸い小窓あり)

このタイプのキロ28形は割と広範囲に配置されていたので、模型で単品発売されているキロ28形後期・最終タイプ(2300・2500番台)がほとんど東海~中国地方に偏り気味に配置されていたことに比べれば、地域設定的に使い勝手のよいグリーン車のように思います。

単品発売されているキロ28形後期タイプ(2300番台・奥)と並べた様子です。

側面を見る限りではトイレ窓や強制換気装置の有無など細部は異なるものの割と似たような印象ですが、屋根周りの様子はクーラーの形状やその脇にあるベンチレータの有無でそれなりに違いがあるのが分かります。

奥の後期タイプは普通車各形式と同じ小判形キセのAU13A、手前の0番台は六角形キセのAU13を搭載していて、微妙に設置された位置や間隔も異なっています。

というわけで、このようにキロ28形0番台入りの編成を組んだ場合にはずらずらと並ぶクーラーの中で角形のキセがちょっとしたアクセントになります。

なお実際のAU13とAU13Aは互換性があり、キロ28形初期タイプに小判形、後期タイプに角形が搭載されているなどといった実例も見られるので(ただし同じ車両の中で混用されるケースは少なかった模様)、好みに応じて載せかえるのも一興かもしれません。
(TOMIXではPC6054・AU13角形キロ26として分売されています)

妻面の比較です。

0番台(左)と2300番台(右)では貫通路の扉の有無がまず目を引きますが、よく見ると屋根カーブの形状も異なり、2300番台のほうがやや扁平です。

この差異はキロ28形としてはAU13形の設置に対応した新製冷房車(一部冷房準備車)として登場したキロ28 139以降に製造された車両に対する設計変更によるもので、これらの車両はそれまでに比べて屋根高さが60mm低くなっているそうです。
(普通車形式でいえばキハ58・28形の前面平窓・非冷房車と前面パノラミックウインドウ・冷房準備車の関係と同じ)

少し余談になりますが、キロ28形の製造番号区分と屋根の仕様について簡単に以下の表に整理してみました。


(参考文献:鉄道ピクトリアル2018年3月号別冊『国鉄形車両の記録 急行形気動車』)

屋根の高さに違いが生じている理由ですが、参考文献によればAU13形を設置した場合、冷房運転中にユニットクーラーから生じた排水(ドレン)を従来タイプの高さの屋根では天井裏に設置した排水皿を通して雨どいへ流していたものを、直接屋根上に流す方式に変更するために屋根を低くしたから、ということのようです。
天井裏の工作の簡略化と水分による腐食防止が目的だったのでしょうか?

さて話を妻面の比較に戻すと、冷房制御と電源用のジャンパ線は自車給電の0番台にも装備された姿が再現されています。
つまり、前述の通り
キハ58(冷房)+キハ65(3両給電可)+キロ28(自車給電)+キハ58(冷房)
と編成が組まれている場合でも、キハ65形から供給される冷房用電力はキロ28形を飛び越して太字のキハ58形にも行き届くということになります。

ところで、単品のキロ28形後期タイプは2300番台を名乗っている通り、3両給電の4VK発電セットの装備車となっています。
上の写真では0番台(左)と2300番台(右)をトイレ側を向き合わせて連結していますが(互いに向きが逆)、どちらも連結面から2個目のクーラーの下に発電機が見えます。

つまり、4DQ発電セットと4VK発電セットはキロ28形の場合、エンジンと発電機が左右逆に取り付けられていることになり、それに伴い発電エンジン用の吸気口も4DQ搭載車と4VK搭載車では互いに逆の側面に設けられています。(写真の矢印の位置)

そんなわけで、単純にこれらのキロ28形各種で床下をトレードして、キロ28形2000番台を再現したり、キロ28形後期タイプの4DQ車(キロ28 301~308の登場時と501~507)を再現したりするには、同時に吸気口の埋め戻し・移設も必要になり地味に大変なのでは?と個人的に思っているところです。(例外の車両はいるのでしょうか?)

そもそも論で製造年次の違いから水タンクの形状など床下の細かいところが違う、という問題はありますが・・・。

さてさて、また例によって重箱の隅をようじでつつくような細かいはなしを延々と続けてしまいましたが、実はまだ今回購入したセットと単品の車両にはいまだ車両番号入れ(=どういう列車の想定で使うか)をしていないという体たらく。
個人的な好みから、九州というよりはやはり中国地方に配置されていた番号で遊びたいところなので、配置区所や車番と実車の形態の関連はさらに研究する必要がありそうです・・・。


暖地タイプのキハ58系・TOMIXのキハ58系急行由布セットのはなし

2018年06月10日 | 鉄道模型のあれこれ


今回は、品番98283キハ58系急行ディーゼルカー(由布)セットのはなしです。
先月(2018年5月)の後半発売された当初は買おうかどうかちょっと悩んだのですが、結局まんまとお買い上げ(笑)
写真には写っていませんが、同時発売の単品・品番9434キハ58形(スリット形タイフォン)も購入しました。

キハ58系は1961(昭和36)年に登場した急行形気動車で、国鉄気動車を代表する存在のひとつといえるでしょう。
派生形式を含めるとおよそ1800両余りが量産され、北海道から九州までの全国各地で長年にわたり活躍しました。

今回セットのプロトタイプとなった急行「由布」(博多~由布院~大分・別府)ですが、1961(昭和36)年に運転を開始した同名の準急列車を1966(昭和41)年に急行に格上げして誕生した列車で、JR化後の1992(平成4)年に現在のキハ185系特急「ゆふ」に格上げされるまで運転されました。

模型の時代設定は、説明書の編成例によると1979(昭和54)年ごろとなっているようで、ちょうど模型が同時発売となったキハ66・67形気動車による急行「日田」との併結運転を再現できるのがアピールポイントのようです。
(なおキハ66・67形気動車セットは未購入)

さて、それではセットに含まれる車両を見ていきましょう。


キハ58形400番台
こちらが動力車となっています。
暖地である九州地区のイメージということで、タイフォンがスリットタイプになっています。
単品のキハ58形(スリット形タイフォン)はこれのトレーラー車仕様です。


キロ28形0番台(冷房改造車)
今回のセットの目玉的存在と思われる、キロ28形の初期タイプの冷改車。
屋根上の角型キセのAU13クーラーが目を引きます。


キハ65形0番台
キハ65形の暖地向け車でタイフォンはスリットタイプですが、これは単品発売のキハ65形も同様です。


キハ28形2300番台
こちらも上のキハ58形と同様に、タイフォンがスリットタイプになっています。

正直なところ上の写真では前面の細かい様子までは分からないので、
(自分で撮っておいてなんですが)

比較ついでに前面の拡大画像を。
左が今回生産品のタイフォンがスリットタイプのキハ58形、右が単品で発売されているタイフォンがシャッタータイプのキハ58形です。

タイフォン以外の造形上の違いとしては、テールライトが内はめ式か外はめ式か、その上にある標識掛けが逆T字形かI字形か、といったところでしょうか?
なお前面以外の部分、側面や屋根パーツなどの形状はどちらも差異はなさそうでした。


さらにキハ65形の暖地向け0番台(左)と寒地向け500番台(右)
キハ65形の場合、模型的な違いはタイフォン形状だけのようですね。

全体的には大体同じ形の中の割と細かい部分の違いなので、模型としてはスミ入れしないと違いが分かりづらいかもしれません・・・。

同じ暖地タイプつながりだと、2015(平成27)年ごろに白地に青帯のキハ58系九州色セットが発売になりましたが、おおよその車体形状的にはその国鉄色バージョンと見ることもできそうです。
(キロ28形を除く)

さて、このほかセットの付属品としては
説明書、車番などの転写シート、台車排障器、幌枠、種別部品パーツ(急行、白地無表示)
が含まれています。
今回は国鉄時代がプロトタイプのためか、列車無線アンテナのパーツは含まれていませんでした。

一方、単品のキハ58形(スリット形タイフォン)には
説明書、車番などの転写シート、台車排障器、幌枠、
種別部品パーツ(急行、紺地普通)、列車無線アンテナとその取り付け用穴あけ治具が含まれていました。

ただし不思議なことに、かつてTOMIXのキハ58系製品には必ず付属していたはずのライトのON/OFFスイッチを操作する棒はセット・単品ともに付属していません。
説明書にはつまようじなどの先の細いものを使って切り替えるよう指示があるので、封入忘れではなく、そもそも付属しなくなったようです。


セットに付属の転写シート(上)と単品に付属の転写シート(下)

セット名に「由布」の名前が入っている通り、セット付属の転写シートに収録されている車番は1979(昭和54)年ごろの大分運転所に配置されていた車両のものとなっていました。
少なくとも想定された時代設定で急行「由布」(あるいは同じく大分のキハ58系を使用の急行「火の山」など)として使うぶんにはあまり問題ないと思われます。

一方、単品に付属の転写シートに収録されている車番は、セットと同時期の大分配置車を基本に収録しつつも同じ九州内の竹下(キハ58 569,570)や人吉(613)、長崎(624)のほか、広島(649)、高松(654)といったように配置にはある程度のバリエーションを持たせているようでした。

なおキハ58 569は九州内のキハ58系のうち最末期まで活躍した1両で、国鉄色に復刻されキハ65 36とコンビを組み、2010(平成22)年ごろまでリバイバル列車などとして活躍しました。

以上の車番のほかには、キロ28形に使うグリーン車用等級帯(セットのみ)と付録としてJRマーク、シルバーシートマーク(セット・単品とも)が収録されています。

グリーン車用の等級帯は1978(昭和53)年に国鉄の塗装規定が改定され、等級帯が廃止される以前のキロ28形の姿を再現するためのものです。
この等級帯の有無は人により好みが分かれるポイントだと思うので、こうして選択の余地があるのはありがたいことです。

JRマークはセットは赤、単品は赤・白2色が収録されており、赤はJR九州用、白はJR西日本や四国など用となります。

特に赤いJRマークはこれまで車両付属の転写シートに収録された製品は(少なくとも気動車製品では)なかったと思われるので、人によっては実は結構欲しかった、という方もいらっしゃるかもしれません?

民営化後、まだ九州色や急行色に塗り替えられる前の過渡期の想定で単品のキハ65形やキハ58系パノラミックウインドウ車などに使うには好適でしょう。

シルバーシートマークは国鉄末期から民営化後にかけて、九州のキハ58系が普通列車運用にも進出した際に貼り付けられていたものと思われます。そのまま急行用として運用された車両にはついていなかったかもしれません。


・・・以上長々と語りましたが、セットの内容に関してはざっくりと解説してこんなところでしょうか。

記事が長くなったので続きます。


京都鉄博に行ってきて、さらに寄り道(その5・終)

2018年06月09日 | 日々の出来事

京都鉄博に行ってきて、さらに寄り道(その4)からの続きです。

近江鉄道彦根駅の構内には同社の車両工場や車庫が併設されており、
その一角にはかつて活躍した車両が展示されている「近江鉄道ミュージアム」があります。


ただし開館日が原則として月に1回土曜日のみということで
遠方からだとなかなか狙って行きにくい場所でしたが、
今回の京都鉄博の内覧会の翌日がちょうど開館日だったこともあり、
ちょうどよく訪問の機会を得ることが出来たのでした。

そんなに広くない構内には、さまざまな車両が展示というより押し込められていて、
ともするとやや窮屈にも思えるのですが・・・、


そんな中でも大正期から昭和戦前期に製造された古典電気機関車たちが
ずらっと並ぶ光景はまさに圧巻でした。
残っているだけでもすごいと思えるほどの貴重な産業遺産級の車両ばかりです。
(ED14形は大正時代製造の機関車ながら、このとき4両全車現存していました)


アメリカ製元国鉄のED14 1(左)と、元伊那電機鉄道デキ1形→国鉄のED31 4(右)


こちらのED14 4は国鉄在籍時代をイメージした茶色塗装となっていました。
上写真の1号機とは前面扉窓の形態やスノープロウの有無といった差異が目立ちます。


ED31 3(左)とED14 2(右)、そして中央の元阪和電鉄→南海→国鉄のロコ1101
これらの機関車は30年ほど前までは近江鉄道線内の貨物列車牽引用として活躍し、
貨物運用がなくなった後も保線用の貨車を牽くなどしていましたが、
その役目も電車に譲ってからは近江鉄道ミュージアム内で静態保存されてきました。

しかし近江鉄道の財政難により、2017(平成29)年には保有する機関車の順次解体が決定され、
12月の「近江鉄道電気機関車特別イベント」の公開を最後にED31形数両の解体が開始されたそうです。


残念なことではありますが、この訪問時であってもやや荒れた状態の車両が多く、
今後の維持にかかる手間や費用を考えると解体も致し方ないのかもしれません・・・。
希望者があれば譲渡も考慮中とのことなので、せめて1両でも多くの機関車が無事に残ることを願います。

さて、機関車のほかにも構内にいる車両を見てみると、


無番号(?)の怪しいフラットカー
あおり戸受けが残っているので元は無蓋車だったのでしょうか。
右に連結されている有蓋車には窓付きの貫通扉が見えます。


その黄帯を巻いた救援車風の有蓋車(ワ34形35号)
古いシュー式走り装置の貨車ですが、車体を載せ替えられたのか下回りの割に新しそうに見えます。
よく見ると車輪に当たっているはずのブレーキシューがありません。まさかのブレーキなし車?


構内のそこかしこに留置された電車
ミュージアムの展示品なのかどうか判然としないこれらの電車は、
敷地内の線路のすき間埋めといった感じで止まっていました(実際は留置場所が足りないから?)。
右のモハ220形は事業用以外では全車引退済のようなのでたぶん部品取り車、
左の元西武の101系は改造前提で未着手の近江鉄道名物「塩漬け」でしょうかね。
(加工しようとして積んだままの鉄道模型を思い出す・・・)

そんなこんなで近江鉄道ミュージアムの保存車両や資料館を見学したあと、
帰りの時間となったのでJR彦根駅から米原行きに乗車し、
米原からは新快速で豊橋へ、そこから新幹線に乗り新横浜へ帰りました。

(おわり)