現在、シアターイメージフォーラムにて開催中のホセ・ルイス・ゲリン映画祭。
今回の特集、なんと3本はニュープリントでの上映というこだわり。
その3本はいずれも今回が日本初公開となる『ベルタのモチーフ』(ゲリンの処女作)、
『影の列車』、『工事中』。(『シルビアのいる街で』と『ゲスト』も35mm上映)
そんな垂涎成就の待望企画でかかる8本はいずれも見逃し厳禁の超充実だが、
なかでも特別中の特別な《存在》に震えがとまらぬ傑出作品が『影の列車』。
『ベルタのモチーフ』も処女作ながら現在のゲリン成分が隈無く行き渡っているし、
『シルビアのいる街で』は相変わらず完全に心も体も浮遊するしかない恍惚。
『工事中』はペドロ・コスタと思いっきり「似て非なる」ことの面白さに大興奮!
勿論、その他のドキュメンタリー的作品だってどれも彼ならではの魅力が濃縮されている。
しかし、この『影の列車』は絶対に「映画館で暗闇に身を埋めて観る」べき絶品フィルム。
ゲリンの作品を観るときには必ず、「映画とは何か」という自問自答が絶えず反復される。
それはスクリーンのなかで完結する問答などでは決してなく、むしろ観ている者が自然に
内発的に思いを巡らし始める起爆装置として作用する。だから、読まれる側も読む側も自由。
時にその《自由》は出口なき袋小路へと誘ってしまい、気難しさを覚えることもなくはないが、
ホセ・ルイス・ゲリンのしなやかさは、必ずしも「シネフィル」専有特権に幽閉されたりしない。
むしろ、芸術というか表現としての「映画」を追究しているが故に、
「一形態」としての謙虚さから映画の新たな息吹があふれでる。
その一つの到達点というか、極北的作品に思えて仕方がないのが、この『影の列車』。
いわゆる従来の「物語」が貫いているわけでもなければ、
「登場人物」という概念からも解放された本作に台詞は皆無。
そして、時制や空間といった序列されるべき《秩序》の基盤も揺蕩う混交。
でも、それこそが実は「映画ができること」、「映画にしかできぬこと」なのではあるまいか。
これほど美しく、厳かな作品でありながら、実はどんな挑発よりも野心の結晶。
ただ、枠を壊そうという野性ではなく、自然に寄り添おうとする理性でもある。
人間が眼を駆使して《世界》を掌握し、制圧し、解明してきたという錯覚を、
カメラという眼を駆使して優しくバック・トゥ・ザ・ベイシック。
機械文明が暗ました真実を、機械で取り戻そうとする文化の営み。
そして、「フィルム」というメディアが人間に見せてくれた《世界》とは?
リュミエール兄弟のシネマトグラフ公開上映から100年目の1996年に撮影された本作は、
この100年間が「見せてきた」ものを脱構築、再構築することで、
「見るべきだった」ものたちの亡霊を喚び覚ます。
しかも、美と畏怖が綯い交ぜに。
◆冒頭で、「1930年に行方不明になった映画撮影愛好家の弁護士が残したフィルム」
との説明と共に、16ミリの「家族映画」がスクリーンに映し出されて本作は幕を開ける。
これらはゲリンによる「捏造」であるのだが、その「創造」が見事な技術で見事に芸術。
フィルムには1コマ1コマ異なるキズや汚れが刻まれ、それは《時間》を美しく映し出す。
デジタルには在り得ない《時間》の刻印に、
単なる劣化や破損とは異なる「価値の蓄積」を見る。
と同時に、「1コマ=一瞬」の固有性が自ずと認識される。
《瞬間》の連なりによって生じる《動き》。
固有な点の集まりとして生み出される一つのまとまり。
それは無限の可能性が無限に組み合わされてゆく、選ばれた《世界》。
カメラの眼が固定されると、《世界》に氾濫し続ける流動性がたちまち雄弁に。
光も影もつねに揺れ動く。移ろいゆく。震えを起こす。響き合う。語り合う。
◆《瞬間》の固有性を起点とした《世界》の無限なる流動性。
ゲリン監督は、『シルビアのいる街の写真』上映後のトークにおいて、
「13歳頃から写真を撮り始めた」と語っていた。
そして、その後「動き(連続性)」を求めるようになったのだと。
しかし、だからといって彼が写真に単なる静止や《固定》しか見出さぬ訳でなく、
むしろ瞬間の持つ固有性を起点とした「無限の可能性」を感じると語っていた。
つまり、そこから何につながるかによって、その瞬間(写真)のもつ意味は変容すると。
「《固有》=《固定》」ではないという発想をその背後に私は感じもした。
《固有》と《固有》が連結されるところをを目撃し、
それを読む主体に更なる《固有》が生まれる。
ゲリン監督は、「映画とは映し出されたものではなく、観客が見たものだ」とも語った。
つまり、映画とは《記憶》の源泉であり、そこから放たれた《記憶》は回収されず、
観客各々の《記憶》の海へと注いでは、多様な航海を展開するのだろう。
◆『シルビアのいる街で』でも印象的(象徴的)であった《映像》の連鎖。
まさに何かに「映っている像」。ガラスや鏡に映る像たちのスリリングな饗宴。
それは《記憶》の残響が共鳴し、実体よりも力をもった反響に飛躍する瞬間を捉える。
カメラが動くと、鏡に映し出される世界も動く。変わる。当然のことが何だか恐ろしい。
「映し」のもつ実在感は、《記憶》というものの無辺なる生命力を象徴しているかのよう。
人間の実際の体験は《記憶》にその都度閉じ込められ、経験として蓄積される。
それは、眼前の出来事をフィルムに定着させて記録する営みに何処か似ている。
フィルムには「変わらぬ」映像が刻まれているようだが、フィルムもまた変貌する。
そして何より客体たる映像がほとんど変わらずとも、それを認識する主体は常に移ろう。
《記憶》も掌握しているようでいて、それを認識する為にはその都度把握が必要になる。
そうするとそこには無限なる《記憶》の動静が、いつも「はじまり」としてある。
◆カメラは、瞬間の固有性をあぶり出すと同時に、
人間が見たことのなかった「途中」を提示する。動きを滅することにより。
人間が認識し、意識する世界の実相など、無数の「途中」に比すれば微々たるもの。
しかし、そうした無数の「途中」の一つ一つがもつ価値の蓄積によって初めて、
私たちが認識するに足ると思っている「終わり」がうまれ、「始まり」をうむ。
作中の終盤に現れる「途中」の奇妙な美しさ。いや、恐ろしさ。
しかも、それが「止められたフィルム」によって映し出されるのではなく、
静止した人物たちによって提示されるという奇天烈。そこに浮かび上がる、不自然。
常に流動し、移ろいゆくのが《世界》の自然。
何十年も前から変わらぬ輝きに見える月も、同じようでいて移ろっている。
羊が歩くのも、川を船がゆくのも、自動車が道路を走るのも、
物に力を加えることで起こる自然のはたらき。
《世界》を決して支配しようとはしないが、
決して流されるままではないホセ・ルイス・ゲリンの語り。
彼が良寛や小津に魅了されたという事実を一層理会。
とにかくこれは壮大な《世界》(それは我々の外部に広がるそれでありながら、
我々の内部で広げるそれでもある)についての映像叙事詩。
或る意味、映画館という空間と観客が語らい合うことによって成立する
インスタレーション的作品とも言えそうだ。
時間と空間を自由に移動できる《記憶》の跳躍力と儚さが、戯れながら「現在」をうむ。
物や事の一つ一つに意味を見出そうとするのではなく、一つ一つに眼を凝らし耳を澄ます。
夜という闇は映画館のそれとなり、《記憶》は常に闇へと流れ闇から浮上する。
映画館の暗闇に身を埋める理由のすべてが、そこにある。