今年のフランス映画祭にはメルヴィル・プポーが来日し、
彼の特集がユーロスペースと東京日仏学院で大々的に催されたが、
その際にも一部で熱狂的な支持を集めたラウル・ルイス監督作品。
ほとんどの作品を観ることが叶わなかった私にとって、
本特集は全作品見逃し厳禁な今月の最重要プログラム。
フランス映画祭で観た『ミステリーズ 運命のリスボン』も今秋公開されるラウル・ルイス。
その『ミステリーズ~』は観ている間中、魅了されっぱなしながら、
結局何処に連れて行かれるのか、連れて行かれたのだか、
わからないままの彷徨が何だか妙に心地好い。
新感覚派的な論理的超現実主義。
無邪気さの喜劇(2000/ラウル・ルイス) Comédie de l'innocence
イザベル・ユペール、ジャンヌ・バリバール、シャルル・ベルリングといった豪華な顔ぶれ。
それにも関わらず、劇場公開はおろかフランス映画祭でも紹介されてないなんて。
「ラウル・ルイス」の作風が明らかに特殊というレッテルを貼られてきたかの証明!?
しかし本作は、彼の作品にしては物語の骨格が随分としっかりしている気もする。
(物語)
9歳の少年カミーユは、両親とブルジョワ風アパルトマンで快適な暮らしをしている。
小さなヴィデオ・カメラで自分が気に入ったものを撮影している。
誕生日のお祝いの席で、カミーユは「ねぇ、僕が産まれたとき、ママはそこにいたの?」
と質問し、両親や叔父を笑わせる。
その質問は取るに足らない質問として笑いとともに忘れられるが、
カミーユが母親に「ママ」とは呼ばず、
彼女のファーストネームである「アリアンヌ」で呼びたいと言い出したとき、
大人たちは笑っているだけではすまなくなる。
しばらくして、カミーユは「自分の本当の母親」を紹介すると言い出す。
その「本当の母親」はパリに住んでいて、住所も知っているので、
アリアンヌを連れて行きたいと言うのだ。
アリアンヌは息子に連れられ、見知らぬ女性のアパルトマンに行く。
壁には幼い少年の写真が飾られている。
どうやら、その写真は、このアパルトマンの持ち主の女性の息子、
数年前に亡くなった息子の写真のようだ・・・。
ソロモンの審判(旧約聖書)をモチーフに(主人公の家にも絵が掛かっている)、
ラウル・ルイス仕込みの幻想と緊迫がいつまでも未完な不穏で突き進むエチュード。
イザベル・ユペールとジャンヌ・バリバールが独走を競う2つのコンチェルト。
それを指揮する絶対天使、息子のカミーユ。いや、ポール?
サスペンスの緊迫と豊潤を終始漂わせている本作は、
まるでクロード・シャブロルのような空気まで醸すことに成功している。
(イザベル・ユペール主演『Comedy of Power』という題名が頭を過ぎったからか?)
しかし、あらゆるエッヂは削ぎ落とされて、あらゆる間(あわい)が横溢し続ける。
不敵な貌はどこまでも、素敵に堕することはなく、いつでも無敵に始まる宴。
罪なき喜劇がうむ悲劇。悲劇の覚悟は、遊撃で。間隙隆起の静かな活劇。
貝殻が大写しになって始まる本作。
それは真実を隠す「蔽い」を意味するのか?
それとも真実を庇護する「母体」を意味するのか?
灰皿を求めている声がそこに重なるが、それは灰になった我が子の受け皿か?
何度か登場するカミーユが食事の際に皿を舐め回す姿。
その度に注意されるのに、彼はそれが止められない。
更についた赤いソースが血にも見え、一瞬ゾクリとさせたりもする。
もう一つ彼が止められないのが、カメラを手にしての世界との対峙。
大人たちが「当然」と処してしまう現実を、彼は自らの手と眼で再構築。
自明とは、「自」にとって本当に「明」らかか。
「他」が「明」らめたから、「自」は諦める。
ただそれだけのことかもしれない。
それを終わらせぬ、無邪気。
今日観た二作に共通して印象的な存在感を放つ《影》。
本作でも何度か、存在を表すために用いられる「影」があるが、
それは同時に不在の象徴かのようででもある。「光」の裏側として。
二人の母というオルタナティヴなモチーフの光明な陰影。
ベビーシッターのヘレンが3つの骰子をふる場面がある。
必ず「3」と「3」と「1」の目が出る。
どんな意味が隠されているのだろう。
「3」は二人の母と一人の父か?
一つの首に二つの頭部が載っている彫像が印象深く映される。
しばらくすると、一つの息子を二人の母が抱きしめる。
「生」きている息子を持つアリアンヌ(イザベル・ユペール)と
「死」んだ息子を持つイザベラ(ジャンンウ・バリバール)。
彼女たちは二人ではあるけれど、あり得る二つの可能性。
選択された結果として現実は一つだが、真実は常に一つではない。
「生」のみならず「死」をも引き受けようとしたイノセンス。
出産とは、生成の後に母の体内から消滅することだ。
◇最近では『夏時間の庭』でも僅かな出演ながら見事な存在感だったエディット・スコブ。
本作でも僅かな時間で微かな余韻を作品に残し続けてくれている。
ファドの調べ(1993/ラウル・ルイス) Fado majeur et mineur
映画世界への耽溺が帰り道にまで優雅な浸食をみせることがある。
本作はまさに、そうした夢心地が現実の外界に乗り移ってしまうかのような魔力の世界。
だから或る意味「魔界」だが、それは天国でないかわり、地獄でもない別天地。
冒頭、橋の上の青年と少女。
こちらへ歩いてくる二人を追うカメラ。
フレームの外へ消える二人。
その道筋を引き返すカメラ。
そしてパノラマな眼差しに移行するカメラ。
淡いブルーが幾重にも編まれた不規則ストライプの地平と水平。
光と水とフィルムを知り尽くしたものだけが呈することのできる自然のデッサン。
このフィルムがフランスから届けられたことに感謝をしつつ、
このまま此処に留まっていて欲しい、そのフィルム。
説明不要、いや説明不可能。
夢幻と昏絶による迷宮は、心のままなマジカル・ロジカル・イロジカル。
マージナルならおまかせの、複眼主義的世界はシャッフル。
全身が溶解しては堕ちてゆくかのような禁断は美々しくも、
そのすべてが受容のもとに開かれている自由の闊達。
ファド(ポルトガルの民族歌謡)は、
「運命」や「宿命」を意味する語らしいのだが、
本作はまさに謡うように運命を謳う。朗らかに。
水辺から来たる運命は、水辺へ還ってゆく運命。
ラウル・ルイスに溺れる覚悟、出来ました。
◇本作のプロデューサーはパウロ・ブランコ。
その名を観ただけで「安心」と「期待」と「興奮」が三つ巴。
来週は6月の特集で見逃して涙ガブ?みの『夢の中の愛の闘い』がいよいよ観られる。
楽しみすぎて今週寝不足になりそう・・・というのは大袈裟にも程があるが、
そんな心配催すほど、『ファドの調べ』に魅了され過ぎた。
まだ、心は日仏で映画を観てるかのよう。
今日観た2作はいずれも英語字幕入りのプリントだった。
勿論、完全に把握しきれていない自信はあるけど(笑)、
ラウル・ルイスの作品に関して言えば、英語字幕で観るくらいが丁度好いのかも。
だって、日本語字幕で観ても「完全に把握しきれない」のは同じな訳だし、
言語(表層)レベルで理解したとしても、深層の不可解さばかりが浮上してしまうかも。
それなら、英語字幕でエッセンシャル・キャッチングして微かな理解と戯れて、
不可解な行間に気持ちよく溺れてみるのも好いんじゃない?
『ファドの調べ』なんて途中から、何語で観てるんだか判然としなくなってきたしね。
目から英語、耳から仏語、脳は日本語・・・のはずなのに、
おそらく「僕だけのエスペラント」で捉えてた。
ラウル・ルイスの実験室で、エクスペリメントをエクスペリエンス。
すべての試みは、心見に通ず。頭で見ないで、心で見よう。
言葉を無化して始めよう。語ってくれる、映像が。