三週間限定公開が一週間延長(TOHOシネマズ六本木のみ)
ヘルツォークが洞窟壁画のドキュメンタリーを、しかも3Dで撮影する。
興味深い企画ながら、必然性や仕上がりが想像できなかった。
しかし、彼の生い立ちやフィルモを辿ってみれば確かに納得。
そして、実際に本作を観てみれば、至極納得。
とにかくヘルツォークは、ショーヴェ洞窟の壁画を自分の眼で観たかった。
それに尽きるのだろうと思う。
撮影という大義名分(?)がなければ絶対に入れない、ショーヴェ洞窟。
そのうえ、彼はそうした崇高体験の開放を現状における最高の状態で試みる。
壁画に刻まれた世界を、三万年後のテクノロジーによって「浮かび」上がらせる。
映像とは、記録することから始まって、夢の世界の創造へと飛躍した。
それは常に「見たいもの( ≒ 見られないもの)」を見せてくれるものだった。
そして、z軸を手に入れた映像は、体感の要素がより強まった。
3Dで観る本作は、「記録されたもの(過去)」を後から観ている感覚よりも、
ヘルツォーク等と共に洞窟に入って行っている錯覚が心地よい。
いつもなら煩わしくなる3Dメガネも、
時空を飛び越えるために必要な装備として
「変身ベルト」のようなワクワク感を増長するかのよう。
普段なら息苦しい客席の混雑も、ツアーに参加しているような時間のなかで、
妙な同行感がリアリティ。
惜しむらくは、極めて限定された撮影場所・時間のせいもあり、
肝心の壁画自体を観る時間が思いのほか少ないこと。
洞窟内での太古との対話に久遠の瞑想が始まらんとする度に、
専門家の現実的な話によって引き戻される、もどかしさ。
美術館でいうなら、ヘッドホンマークのついてる作品の前でガイド音声に傾聴している
あの感覚?(だから、私はあの鑑賞スタイルは好きではない)
とはいえ、実はそうしたもどかしさも最後に解消してくれる総浚いが用意されており、
そこでは3D鑑賞を存分に堪能できるよう、光の移動が駆使されている。
いつまでも見続けていたい想いを断ち切るように映像は切り替わる。
見続けていると心が過去へと吸い込まれ、戻れなくなることを知っているかのように。
壁画の数々は驚くほどの「親近感」で迫ってくる。
劇中でも語られていたが、まるで漫画のようであり、映画のようである。
眼の働きや手の能力、そして世界への関心。
そうした人間の営みの不変が見出せる。
まるで、三万年以上前に自分がそこにいたとして、
「こうしたのかな?ああしたのかな?」といった想像に没入してしまう。
空想でも妄想でもない歴史の体験だ。
理解や認識ではない、体感だ。
言語で記された「歴史」には未踏の領域が、そこには確かにある。
言語を介さぬからこそ、彼らは自然と対等だった。
いや、むしろ自然の一部であることが必然だった。
自然を平らげることなく、自然の凹凸に従って、
それら自然のダイナミズムに寄り添って、描かれた画の躍動感。
自然を平らげる文明史を展開した人類はいつしか、キャンバスも平らにし、
更には遠近法によって擬似なるz軸を産み出して、写真という「神の視点」を手に入れた。
しかし一方で、油絵のもつ実在感が私たちを魅了して止まない。
一度、フラットにしてしまった人類のキャンパスに、
自然との対話から享受していた世界の壮大を数万年後に取り戻したものこそ、
油絵だったのかもしれない。
行き詰まりを感じつつある文明のなかで、
芸術が 《流動性》 や 《浸透性》 を希求しているのも、何だか自然に思えてしまう。
◆公式サイトにも監督のインタビューはあるが、こちらのインタビューも興味深い。
また、こちらの対談もなかなか面白い。
対談の中で、洞窟と子供の関係が考察されてたりするのだけれど、
私はそれを読みながら、「洞窟=子宮」なんて妙な発想に思い至ったりした。
洞窟のなかにいると(実際でも、本作の観賞時にしても)妙に静かな安らぎを覚える。
そして、壁画を描いた人物も男性と思われ、しかも敢えて光の当たらぬ奥の方で・・・
そう考えると、そんな感覚(子宮のなかの記憶?根源的な悠久の安らぎ?)を求め、
奥深き洞窟での創作に耽ったのだろうか。などと思ってみたりもした。
そして、そういった感覚は(水のなかにいる時のそれなんかも含め)、
何万年経とうが同じ現実(さまざまな世界のメカニズム)のもとで、
生を全うすべく葛藤する「同じ」人間に思いを馳せもするタイムトラベル。
◆最後に付されている、原発と白いワニ。
一見、文明批判のようでありながら、むしろ文明(人為)と自然の円環を示唆。
それは、対等だったり衝突だったり拮抗などでは決してなく、
「あるのはただ自然」とばかり言いたげな諦観だ。
確かに、「原子力は人間が産み出した技術だ」などという思考ほど傲慢なものはない。
むしろ、原子力を利用するようになったのも、それが脅威になったのも、
あくまで自然のシナリオの一部。人間がどうこうできるのは、過去ではなく未来。
過去に思いを馳せながら、未来を探求模索する。
人類史のほんの一瞬、世界の瞬きひとつに満たない刹那を生きる私たちも、
あの壁画のように常に「残りうる」痕跡の生産者として、自覚と希望を持ってみる。
人間に与えられた財産であり、十字架である「時間」に思いをめぐらせて。
◇ヴェンダースの3Dとは見事なまでに対照的な本作。
ヴェンダースは「消えた」ピナの「動」きをとらえようとした。
ヘルツォークは「残っている」壁画という「静」物を凝視した。
◇この邦題(原題は『Cave of Forgotten Dreams』)を完璧に暗唱し
チケット売り場で申告できている人ってどのくらいいるのだろうか(笑)
でも、ここまで長いと「別に憶えなくて好い」感による許容がはたらき(?)、
私も「洞窟の映画、1枚ください」になってしまった・・・。
でも、こうして初めて自分で文字化するあたって確認してみれば、
実はいたってオーソドックスなタイトルだったんだね>世界最古の洞窟壁画。
文字数に圧倒されてしまった。でも、そういうヴィジュアルのインパクトって重要かも。
◇私は日劇のレイトで観たのだが、スタジアムな客席に慣れたシネコン世代としては、
正直日劇のようなタイプのつくりは余り好きではない・・・が、本作観賞においては、
眺めるのが洞窟壁画ってだけに、洞窟っぽい劇場構造が心地よい。
まぁ、運よく前の客が背筋ピン子ではなかったから言えることだけど。
◇オダギリジョーは『世界遺産』のナレーションしてたこともあったので、
その印象が「そういえば」程度とは言え残ってる自分にとって、それほど違和感ない。
でも、声質としては余り聞きやすい部類ではないし、音量がデカ過ぎじゃね?
上から重ねるタイプの吹替だったから、その辺は仕方がないのかな。
ただ、元はヘルツォーク本人がナレーションしてるらしいから、印象がかなり違いそう。
同じ『世界遺産』路線なら寺尾聰のナレーションが個人的には好きだったな。
◇実は三月はささやかながらヘルツォーク祭りが開催!?
早稲田松竹では『アギーレ/神の怒り』&『フィツカラルド』の二本立(最高!)があり、
MY BEST FIEND という新人バンドの国内盤(ボートラ&ライナー付の充実盤)も発売!
そう、彼らのバンド名は『キンスキー、我が最愛の敵』の英題なのである!!