監督は、ジョー・ライト。
オスカー4部門ノミネートの『プライドと偏見』(2005)や、
オスカー7部門ノミネート(うち音楽賞受賞)の『つぐない』(2007)といった文芸作で
本領を発揮し、批評家からも絶賛されてきた(後者はベルリンのコンペ出品も)ものの、
『路上のソリスト』で初めての(?)挫折。アカデミー狙いだったのに、
公開時期を(年末から)遅らされ興行・批評とも微妙。
仕切り直し(?)かのような本作。
それで何故こういったタイプの作品を撮る気になったのかはわからぬが、
それが「雇われ」なのか「実はスキモノ」なのかは、やはり自分の眼で確かめねば!
という訳で、都内では唯一ロードショー館である、大の苦手の新宿ピカデリーにて早速観賞。
監督の次回作は『アンナ・カレーニナ』。
何度も映画化されている、トルストイの名作長篇小説。
キーラ・ナイトレイやシアーシャ・ローナンといった馴染みのキャストと共に
(ジュード・ロウなんかも出る模様)、しばしの武者修行を終え、ホームグラウンドに帰還!?
ジョー・ライトの作品は、恥ずかしながら『つぐない』しか観ていないのだが、
あのモッサリし過ぎぬ「大河」感は、なかなか巧みな印象だったので、
(マンネリに陥りそうな懸念もあるが)十分楽しみだったりも。
しかし、というのも本作にいまいちノレなかったから。
◆冒頭30分は最高!お見事!
ジョー君はこういうのが本当はやりたかったんだね。
そう思えるほど、冒頭30分は鮮やかにエキサイティング。
キャストの皆がジャンル的演技を心得、奇を衒いすぎずに鮮度も良好な撮影・編集。
自己主張しすぎずしっかり彩るケミカル・ブラザーズ(音楽を担当)。
シアーシャのアクションにおける身体表現、エリック・バナの陰影孤高、
そして絶妙なバランス感覚で戯画化演技に伸び伸びの(インディ・ジョーンズ想起)
ケイト・ブランシェットにとにかく興奮っ!この手の映画のツボを皆が了解した上でスタート!
◆やはりドラマは必要で・・・助走で加速?手痛い(停滞)失速?
ハリウッド映画で「追いかけっこ」映画をつくるとき、最も失敗する点は、
「逃げ(追い)続ける」意識を途切れさせてしまうことがあるところ。
最近ではハリウッド的俗悪映画のように言われることも多いボーン・シリーズだが、
私はあの「ノンストップ」「リアリティ無視アクション」は、ヨーロッパ・コープの良心を
過剰に肥大化させた「美点」だと確信してたりする。その分、人間模様が杜撰だという
批判もあろうが、それは物語の設定が描写の不足を逆にスパイスにし得る気もするし、
過剰な説明回避の後ろ盾になっていたりもする気がする。それでこそうまれる緊張感。
その点、本作では極上の冒頭30分の後に、典型的な「蛇足」が挿入される。
冒頭でハンナをメカニックに描いたのだから、お次はヒューマンでガーリーにいきましょか。
とでも言う具合。更に「移動」を強調しようと、わざわざスペインに寄り道したりする。
しかし、これがとにかく、まどろっこしい。ロマンスの予感(未満、気配程度か)をさしはさむも、
これが見事に事務的で。監督としては笑える要素の挿入で、小粋な小休止って意図だった?
そんな茶化した描写も中途半端。得意じゃないモノマネ見せられた時の気まずい思い・・・
しかも、本来は実力があるし、それ自体も至ってきちんとやろうとしてる分、微妙な悲哀(笑)
◆not アンバランスなバランス, but バランス良くアンバランス.
とにかく、ハンナを「何者」として描きたいかが不鮮明。不明瞭。不可解。
つまり、「殺人兵器」的な存在として描きたいのであれば、その圧倒的な強さのみではなく、
どんなに情が芽生えても、ふとしたキッカケに噴出する残虐性を強調すべきだし、
そもそも容易く情など芽生えるわけないのでは?人道的にはそれが「リアリティ」だとしても、
実際問題、情緒というものはそう簡単に芽生えもしなければ、まして定着などしない。
それは、あのような特殊な環境でなくとも、一般家庭の不遇な状況下で育った子供ですら
情緒の欠損を補うのは極めて困難なはずである。勿論、そんな実際上の困難をも超越した
思い切った触れ幅こそがフィクションの醍醐味であることは重々承知。
しかし、それを本作でやる意味は?むしろ、そこにこそリアリティをつきつけて、
ハンナにも観客にも、耐え難いほどの葛藤(それが、プレッシャーとなり緊張感をうむ)を
味わわせるべきではなかったか?元来、あらゆるスパイ物で展開される恋愛も友情も、
その甘さや至福に比例して、悲劇性を増しながら、カタルシスを覚えてゆくというもの。
ハンナに情が芽生えようとも、容易に情にほだされたりしないというのは理解可能。
しかし、情が芽生えた時点で、今までの彼女とは違った自我へと変遷し始めているわけで、
そこには必ずこれまで味わったことのない苦悩や煩悶が待ち受けてもいようかと。
勿論、そういったものを湿っぽくグダグダ引っ張るのも失策の一つになり得るが、
そこを切り捨てるのであればもっと割り切って、安易な心の交流など挿まずに、
残虐性の強調に重きを置いて、時折苦悩の表情映しておけば、観客は斟酌するものだ。
ハリウッド映画の宿命からか、「観客を信用していない」バランス感覚が露呈。他にも・・・
「殺人兵器」にも人間性が喚起されることを、幸福な家庭との交流によって裏付ける。
「移動」の距離と感覚を、ロードムービー仕立てすることで体感させる。
劇中では敵となる権力側を戯画化するために、音楽や演出に不自然なポップさ塗してみる。
それらが、監督ががやりたくてやってる感じがしないのも、何となく熱量体感しづらい要因。
この手の映画には偏愛ともいうべきバランス感覚の無さこそが、絶妙なバランスだと思う。
あらゆるものに配慮を効かせたジョー・ライト。白けるシークエンスなどまったくないし、
技巧は確かで感心しきり。しかし、だからこそどうも「考えてばかり」でつくった印象。
こういう作品では、周到入念な事前準備や懲りに懲りまくって試行錯誤な背景が、
画面では「バカ」としか映らないって離れ業が必要。だと、私は勝手に思ってる。
(もしかしたら、私は“エドガー”・ライトの『ハンナ』が観たかっただけだったりして・・・)
どうせなら、無駄な小ネタでユーモア挿まず、至ってシリアス劇場で展開しても好かったかも。
◆小ネタの不発、稚拙な脚本!?
ジョー・ライトが極めて優秀な監督だということを再確認するには最適な本作。
なぜなら、演出や撮り方といった類には十二分に匠を思わせるから。
各キャストの描き分けは(脇役に至るまで)鮮やかだし、抜かりは無い。
冒頭のハンナ脱出劇における、ラボ職員の絶妙な表情やその捉え方を観ただけで、
微に入り細を穿つ職人気質は証明されている。だからこそ、脚本の不備が際立ちもする。
IMDbをみる限り、30歳の新人(?)ライターによる脚本のようだが、活かせそうな小ネタが
見事にその場限りの添え物的に終っている気がしてならない。
例えば、マリッサ(ケイト・ブランシェット)が、かつての同僚(?)に仕事を依頼にする際、
彼が経営するバー(ミュージック・ホール?)の舞台に立っている女をみて、マリッサが
「随分、年がいってるみたいだけど」と言うと、「両性具有だからな(それを客が望むから)」
と答えるというやりとりがあるのだが、それはハンナやマリッサとの共通点を示唆したつもり?
それならそれで、それは十分興味深く、ハンナの祖母から「あなたに子供はいないでしょ?」
と問われて半ばヒステリックに「子供を持たぬ人生を選んだのよ!」と答えるマリッサには
両性具有的な性質(というより覚悟)が宿っている。また、ハンナにだって当然スペイン人
イケメンとの味気ないキスと情味たっぷりな女子とのキスという思わせぶりなシーンもある。
(友情の証と「レズビアンに憧れるわ」というミーハー女子という背景によるものとはいえ)
その見せ方や機能のさせ方がちょっと下手かなという印象。それは、ハンナとマリッサ、
あるいは死んだハンナの母といった女性の三者三様を、共通する「女性」性を軸にしつつ
微妙な相違点(特にハンナとマリッサの)を抽出する過程で、運命を分かつ描き方というのも
あったのではないのかなぁ、という独善シミュレーションによるものだけど。
何度も登場するグリム童話の影も活用しきれてない(私が無知な故かもしれんが)。
確かに童話にひそむ残虐性は周知のところだが、それもラストのあの「画」のためだけか?
(いやぁ、ヴィジュアル的には非常に魅力的なものではあったが)
脇役の滑稽なキャラ付けなんかも、その場限りの印象で、
「展開」や「物語」自体に有機的な収斂が遂げられたりもせず終了といった趣強し。
◆不自然展開は勢いあってこその許容
こういった類の作品において、「理に適ってない」との批評こそ、利を叶えないものはない。
それはそうだが、何もジャンルや設定がすべてを不問に付せるとは限らない。
そこには「勢い」という説得力や、それ相応の「トンデモ」成分の配合が当然不可欠。
しかし、前述の通りの手堅い印象の本作において、それらは極めて低配合。
従って、一つ一つの展開においても緻密さがある程度要求されもしよう。
しかし、とにかくその辺には目を瞑り過ぎ(笑)
だって、今まで電気のない生活をしてきて、
初外泊の宿舎で電気のスイッチ入れたり切ったりするだけで感動し、
あらゆる電子機器に恐れや戸惑い感じてたハンナが、
ネットカフェで容易にリサーチ可能だったりするか?
それに、これは最も腑に落ちぬ点なのだが、
冒頭で捕らえられたハンナがマリッサを指名して、
マリッサは代役をハンナに送るのだが、ハンナはそれをマリッサと確信し、殺す。
これで計画成功!と思いきや・・・という話の出だしが、余りにも説得力なさ過ぎだろう。
何ヶ国語(アラビア語や日本語[おそらく]まで!)マスターしておきながら、
肝心の標的の顔すら知らぬとはどういうことだ!?
勿論、「着の身着のまま」の逃亡で、一切の探知可能性排除の上での生活なのはわかる。
だから、母親の顔ですら、証明写真の切れ端でしか見られない。それはいい。けど・・・
暗殺者のターゲットの情報が、名前とハンナ父とのエピソード位しかないってさぁ・・・
ハンナの父親っていうのも超一流なスパイだったわけでしょ?
写真をたとえ持っていなかったとしても、容姿に関する情報はもう少し渡せただろうに。
あるいは、代役を送ってくる可能性の示唆くらいは、スパイ教育の初歩ではないか?
おまけに(これも「観客を信用していない」典型と思うが)、あの代役の全くの似てなさ。
そこは思い切ってマリッサ(ケイト・ブランシェット)のクローンくらい登場させろよ(笑)
とはいえ、まだあのシーンはそんなことも気にならぬ「勢い」があったから、
そのときは然ほど気にならず。しかし、失速後にはやっぱり気になり出した。
◆父娘愛どこへ行く・・・
観客誰もが、父(エリック・バナ)と娘(シアーシャ・ローナン)の親子愛を期待し見守る気満々。
しかし、彼らの絆は冒頭でそれなりに見せたから十分でしょ、とでも言わんばかりに、
雪原離れりゃ愛節減。そもそも、別行動(というか共闘しない)の必然性も些か不明瞭。
おそらく、父親の心情としては、自らに危険を集約し、娘を遠ざけたいからか?
しかし、その割りに連絡系統が巧妙なんだか稚拙なんだか意外とザルで・・・
おまけに「降ってわいて出た」かのような親子の確執・・・その溶解(なのか?)。
「そこ重要」だと思っていた私の予断違いか、少ない描写から読み取る能力の不足か、
いずれにしても中途半端で捕らえ難く解し難い、父と娘の愛(各々に向けられた)だった。
◆ロケハン最高!ケミカル・コミカル・シニカル・マジカル!?
本作で傑出した感銘ポイントを提供してくれるのは、
本作のルックに力強さを提供し続けた「背景」の素晴らしさ。
冒頭の雪原は緊張感の高揚と、その後の喧騒との対比に絶好!
しかも、その雪原における「自然な白」と対比させるかのような、
マリッサ(ケイト・ブランシェット)宅の内装における「人工的な白」。
そして、彼女が執着する「人工的な白」の極限が、
「血の滲む」努力の結晶、ホワイトニング・ティース!
真っ白な世界から、さまざまな「色」を獲得していくハンナとは対照的に、
どこまでもドス黒い世界に身を染めたマリッサは、失った「白」を死守したかった!?
橋の上を舟(!?)に乗って水上移動するシーンが一瞬映るが、
ああいうマジカルな光景が挿入されるのは、まさしく映画的でもあり、
ああいう「小休止」こそ緊迫継続映画の醍醐味!そういうとこは、匠なんだよなぁ。
おまけに、ラストに出てくるあの遊園地(?)の存在感。
すでに閉園された場所らしいが、それゆえの適度な「廃れ」感。
奇妙なデカさの動物オブジェや、その崩れ具合なんかは、それだけでジャストな空気。
そして、ラストに「狼の口」からマリッサが出てくる展開、そしてその画が愉快!
ドイツのちょっとしたアパートや公園にしても、素晴らしい力量のロケハンと見た。
ただ、「ドイツの町」で「テクノ」と来れば、(私のなかでは)『ラン・ローラ・ラン』な訳でして、
もう少し走ってくれても好かったかな(笑)という勝手な妄想もないではない。
あと、今回は結構脇役に徹しようと意識したかのようなSoSo仕事なケミカル・ブラザーズ。
滑稽だったりファニーな感じの音や旋律散りばめつつも、映画に抑揚提供お勤めご苦労。
ただ、ネームに勝る(?)ケミストリーは、あんまり見込めずやや予定調和的だったかも。
それにしても、最近は『トロン:レガシー』のダフトパンクや
『こわれゆく世界の中で』のアンダーワールドだとか、
大御所(?)テクノユニットの映画音楽担当が続いてる。
日頃、「音」での完結を試みてたり(映像との融合が念頭にある場合もあるだろうけど)、
あくまで「音」が主たらんとしている分、映画音楽専門のミュージシャン以上に
自己主張控えめな「劇伴思想」で楽曲制作してるように思うのは気のせいかしらん。
まぁ、そこが好感持ちつつも、物足りなさを感じたりもする所以。
とはいえ、本作の「エッヂ」はケミカルの手柄に拠るところもある気がするし。
◆適材適所なキャスティング
個々の演技能力の高さは言うまでも無いが、その配置の的確さはやはり気持ち好い。
意図したかどうかはわからぬが、観客にとっては過去作の記憶との心地好い共犯関係も
本作の説得力微増に貢献してる。シアーシャ・ローナンは前作『ラブリー・ボーン』における
劇内外ともに悲惨な状況が観客の同情を誘うし、ケイト・ブランシェットは日頃の文芸ものや
人間ドラマで見せる「熱演」とは異質な新鮮さ(もしくは、『インディ・ジョーンズ~』で見せた
快(怪)演との共鳴)が、味わいを更に生み出しもする。エリック・バナに至っては、
『ミュンヘン』での有能ぶりと苦悩ぶりが時折オーヴァーラップ。『ミュンヘン』ラストの
行き詰まり感をブレイクスルーしたかのような本作での「復讐」。役者は揃った感、超一級。
ここまで主要キャストが絶品なのに、心配性か脇まで少し固めすぎたかも。
トム・ホランダー、オリヴィア・ウィリアムズ、ジェイソン・フレミングといった芸達者では、
お腹一杯消化不良な、過剰なゆえの物足りなさ(各々が中途半端な描写)を覚えてしまう。
ほんと部分的な「スパイス」に徹するか、どっぷり絡ませるか、どっちかにして欲しかった。
いずれも通りすがり的な印象が終始してしまう。「グリムの住人」しかり。
分量的には、文句が多くなってしまったものの、全く駄作的な気配は皆無。
それが個人的にはつまらなく思えてしまった、へそ曲りな自分ゆえの感想でしょう。
シネスコだし、プリントもなかなか好い仕上がりだったし、テクノは音量命だし(?)、
劇場で観といて好かったとは思う・・・が、しかし。(長くなったので、別記事に)