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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

ハンナ(2011/ジョー・ライト)

2011-08-30 15:35:32 | 映画 ナ・ハ行

 

監督は、ジョー・ライト。

オスカー4部門ノミネートの『プライドと偏見』(2005)や、

オスカー7部門ノミネート(うち音楽賞受賞)の『つぐない』(2007)といった文芸作で

本領を発揮し、批評家からも絶賛されてきた(後者はベルリンのコンペ出品も)ものの、

『路上のソリスト』で初めての(?)挫折。アカデミー狙いだったのに、

公開時期を(年末から)遅らされ興行・批評とも微妙。

仕切り直し(?)かのような本作。

 

それで何故こういったタイプの作品を撮る気になったのかはわからぬが、

それが「雇われ」なのか「実はスキモノ」なのかは、やはり自分の眼で確かめねば!

という訳で、都内では唯一ロードショー館である、大の苦手の新宿ピカデリーにて早速観賞。

 

監督の次回作は『アンナ・カレーニナ』。

何度も映画化されている、トルストイの名作長篇小説。

キーラ・ナイトレイやシアーシャ・ローナンといった馴染みのキャストと共に

(ジュード・ロウなんかも出る模様)、しばしの武者修行を終え、ホームグラウンドに帰還!?

ジョー・ライトの作品は、恥ずかしながら『つぐない』しか観ていないのだが、

あのモッサリし過ぎぬ「大河」感は、なかなか巧みな印象だったので、

(マンネリに陥りそうな懸念もあるが)十分楽しみだったりも。

しかし、というのも本作にいまいちノレなかったから。

 

◆冒頭30分は最高!お見事!

ジョー君はこういうのが本当はやりたかったんだね。

そう思えるほど、冒頭30分は鮮やかにエキサイティング。

キャストの皆がジャンル的演技を心得、奇を衒いすぎずに鮮度も良好な撮影・編集。

自己主張しすぎずしっかり彩るケミカル・ブラザーズ(音楽を担当)。

シアーシャのアクションにおける身体表現、エリック・バナの陰影孤高、

そして絶妙なバランス感覚で戯画化演技に伸び伸びの(インディ・ジョーンズ想起)

ケイト・ブランシェットにとにかく興奮っ!この手の映画のツボを皆が了解した上でスタート!

 

◆やはりドラマは必要で・・・助走で加速?手痛い(停滞)失速?

ハリウッド映画で「追いかけっこ」映画をつくるとき、最も失敗する点は、

「逃げ(追い)続ける」意識を途切れさせてしまうことがあるところ。

最近ではハリウッド的俗悪映画のように言われることも多いボーン・シリーズだが、

私はあの「ノンストップ」「リアリティ無視アクション」は、ヨーロッパ・コープの良心を

過剰に肥大化させた「美点」だと確信してたりする。その分、人間模様が杜撰だという

批判もあろうが、それは物語の設定が描写の不足を逆にスパイスにし得る気もするし、

過剰な説明回避の後ろ盾になっていたりもする気がする。それでこそうまれる緊張感。

その点、本作では極上の冒頭30分の後に、典型的な「蛇足」が挿入される。

冒頭でハンナをメカニックに描いたのだから、お次はヒューマンでガーリーにいきましょか。

とでも言う具合。更に「移動」を強調しようと、わざわざスペインに寄り道したりする。

しかし、これがとにかく、まどろっこしい。ロマンスの予感(未満、気配程度か)をさしはさむも、

これが見事に事務的で。監督としては笑える要素の挿入で、小粋な小休止って意図だった?

そんな茶化した描写も中途半端。得意じゃないモノマネ見せられた時の気まずい思い・・・

しかも、本来は実力があるし、それ自体も至ってきちんとやろうとしてる分、微妙な悲哀(笑)

 

◆not アンバランスなバランス, but バランス良くアンバランス.

とにかく、ハンナを「何者」として描きたいかが不鮮明。不明瞭。不可解。

つまり、「殺人兵器」的な存在として描きたいのであれば、その圧倒的な強さのみではなく、

どんなに情が芽生えても、ふとしたキッカケに噴出する残虐性を強調すべきだし、

そもそも容易く情など芽生えるわけないのでは?人道的にはそれが「リアリティ」だとしても、

実際問題、情緒というものはそう簡単に芽生えもしなければ、まして定着などしない。

それは、あのような特殊な環境でなくとも、一般家庭の不遇な状況下で育った子供ですら

情緒の欠損を補うのは極めて困難なはずである。勿論、そんな実際上の困難をも超越した

思い切った触れ幅こそがフィクションの醍醐味であることは重々承知。

しかし、それを本作でやる意味は?むしろ、そこにこそリアリティをつきつけて、

ハンナにも観客にも、耐え難いほどの葛藤(それが、プレッシャーとなり緊張感をうむ)を

味わわせるべきではなかったか?元来、あらゆるスパイ物で展開される恋愛も友情も、

その甘さや至福に比例して、悲劇性を増しながら、カタルシスを覚えてゆくというもの。

ハンナに情が芽生えようとも、容易に情にほだされたりしないというのは理解可能。

しかし、情が芽生えた時点で、今までの彼女とは違った自我へと変遷し始めているわけで、

そこには必ずこれまで味わったことのない苦悩や煩悶が待ち受けてもいようかと。

勿論、そういったものを湿っぽくグダグダ引っ張るのも失策の一つになり得るが、

そこを切り捨てるのであればもっと割り切って、安易な心の交流など挿まずに、

残虐性の強調に重きを置いて、時折苦悩の表情映しておけば、観客は斟酌するものだ。

ハリウッド映画の宿命からか、「観客を信用していない」バランス感覚が露呈。他にも・・・

「殺人兵器」にも人間性が喚起されることを、幸福な家庭との交流によって裏付ける。

「移動」の距離と感覚を、ロードムービー仕立てすることで体感させる。

劇中では敵となる権力側を戯画化するために、音楽や演出に不自然なポップさ塗してみる。

それらが、監督ががやりたくてやってる感じがしないのも、何となく熱量体感しづらい要因。

この手の映画には偏愛ともいうべきバランス感覚の無さこそが、絶妙なバランスだと思う。

あらゆるものに配慮を効かせたジョー・ライト。白けるシークエンスなどまったくないし、

技巧は確かで感心しきり。しかし、だからこそどうも「考えてばかり」でつくった印象。

こういう作品では、周到入念な事前準備や懲りに懲りまくって試行錯誤な背景が、

画面では「バカ」としか映らないって離れ業が必要。だと、私は勝手に思ってる。

(もしかしたら、私は“エドガー”・ライトの『ハンナ』が観たかっただけだったりして・・・)

どうせなら、無駄な小ネタでユーモア挿まず、至ってシリアス劇場で展開しても好かったかも。

 

◆小ネタの不発、稚拙な脚本!?

ジョー・ライトが極めて優秀な監督だということを再確認するには最適な本作。

なぜなら、演出や撮り方といった類には十二分に匠を思わせるから。

各キャストの描き分けは(脇役に至るまで)鮮やかだし、抜かりは無い。

冒頭のハンナ脱出劇における、ラボ職員の絶妙な表情やその捉え方を観ただけで、

微に入り細を穿つ職人気質は証明されている。だからこそ、脚本の不備が際立ちもする。

IMDbをみる限り、30歳の新人(?)ライターによる脚本のようだが、活かせそうな小ネタが

見事にその場限りの添え物的に終っている気がしてならない。

例えば、マリッサ(ケイト・ブランシェット)が、かつての同僚(?)に仕事を依頼にする際、

彼が経営するバー(ミュージック・ホール?)の舞台に立っている女をみて、マリッサが

「随分、年がいってるみたいだけど」と言うと、「両性具有だからな(それを客が望むから)」

と答えるというやりとりがあるのだが、それはハンナやマリッサとの共通点を示唆したつもり?

それならそれで、それは十分興味深く、ハンナの祖母から「あなたに子供はいないでしょ?」

と問われて半ばヒステリックに「子供を持たぬ人生を選んだのよ!」と答えるマリッサには

両性具有的な性質(というより覚悟)が宿っている。また、ハンナにだって当然スペイン人

イケメンとの味気ないキスと情味たっぷりな女子とのキスという思わせぶりなシーンもある。

(友情の証と「レズビアンに憧れるわ」というミーハー女子という背景によるものとはいえ)

その見せ方や機能のさせ方がちょっと下手かなという印象。それは、ハンナとマリッサ、

あるいは死んだハンナの母といった女性の三者三様を、共通する「女性」性を軸にしつつ

微妙な相違点(特にハンナとマリッサの)を抽出する過程で、運命を分かつ描き方というのも

あったのではないのかなぁ、という独善シミュレーションによるものだけど。

 

何度も登場するグリム童話の影も活用しきれてない(私が無知な故かもしれんが)。

確かに童話にひそむ残虐性は周知のところだが、それもラストのあの「画」のためだけか?

(いやぁ、ヴィジュアル的には非常に魅力的なものではあったが)

 

脇役の滑稽なキャラ付けなんかも、その場限りの印象で、

「展開」や「物語」自体に有機的な収斂が遂げられたりもせず終了といった趣強し。

 

◆不自然展開は勢いあってこその許容

こういった類の作品において、「理に適ってない」との批評こそ、利を叶えないものはない。

それはそうだが、何もジャンルや設定がすべてを不問に付せるとは限らない。

そこには「勢い」という説得力や、それ相応の「トンデモ」成分の配合が当然不可欠。

しかし、前述の通りの手堅い印象の本作において、それらは極めて低配合。

従って、一つ一つの展開においても緻密さがある程度要求されもしよう。

しかし、とにかくその辺には目を瞑り過ぎ(笑)

だって、今まで電気のない生活をしてきて、

初外泊の宿舎で電気のスイッチ入れたり切ったりするだけで感動し、

あらゆる電子機器に恐れや戸惑い感じてたハンナが、

ネットカフェで容易にリサーチ可能だったりするか?

それに、これは最も腑に落ちぬ点なのだが、

冒頭で捕らえられたハンナがマリッサを指名して、

マリッサは代役をハンナに送るのだが、ハンナはそれをマリッサと確信し、殺す。

これで計画成功!と思いきや・・・という話の出だしが、余りにも説得力なさ過ぎだろう。

何ヶ国語(アラビア語や日本語[おそらく]まで!)マスターしておきながら、

肝心の標的の顔すら知らぬとはどういうことだ!?

勿論、「着の身着のまま」の逃亡で、一切の探知可能性排除の上での生活なのはわかる。

だから、母親の顔ですら、証明写真の切れ端でしか見られない。それはいい。けど・・・

暗殺者のターゲットの情報が、名前とハンナ父とのエピソード位しかないってさぁ・・・

ハンナの父親っていうのも超一流なスパイだったわけでしょ?

写真をたとえ持っていなかったとしても、容姿に関する情報はもう少し渡せただろうに。

あるいは、代役を送ってくる可能性の示唆くらいは、スパイ教育の初歩ではないか?

おまけに(これも「観客を信用していない」典型と思うが)、あの代役の全くの似てなさ。

そこは思い切ってマリッサ(ケイト・ブランシェット)のクローンくらい登場させろよ(笑)

とはいえ、まだあのシーンはそんなことも気にならぬ「勢い」があったから、

そのときは然ほど気にならず。しかし、失速後にはやっぱり気になり出した。

 

◆父娘愛どこへ行く・・・

観客誰もが、父(エリック・バナ)と娘(シアーシャ・ローナン)の親子愛を期待し見守る気満々。

しかし、彼らの絆は冒頭でそれなりに見せたから十分でしょ、とでも言わんばかりに、

雪原離れりゃ愛節減。そもそも、別行動(というか共闘しない)の必然性も些か不明瞭。

おそらく、父親の心情としては、自らに危険を集約し、娘を遠ざけたいからか?

しかし、その割りに連絡系統が巧妙なんだか稚拙なんだか意外とザルで・・・

おまけに「降ってわいて出た」かのような親子の確執・・・その溶解(なのか?)。

「そこ重要」だと思っていた私の予断違いか、少ない描写から読み取る能力の不足か、

いずれにしても中途半端で捕らえ難く解し難い、父と娘の愛(各々に向けられた)だった。

 

◆ロケハン最高!ケミカル・コミカル・シニカル・マジカル!?

本作で傑出した感銘ポイントを提供してくれるのは、

本作のルックに力強さを提供し続けた「背景」の素晴らしさ。

冒頭の雪原は緊張感の高揚と、その後の喧騒との対比に絶好!

しかも、その雪原における「自然な白」と対比させるかのような、

マリッサ(ケイト・ブランシェット)宅の内装における「人工的な白」。

そして、彼女が執着する「人工的な白」の極限が、

「血の滲む」努力の結晶、ホワイトニング・ティース!

真っ白な世界から、さまざまな「色」を獲得していくハンナとは対照的に、

どこまでもドス黒い世界に身を染めたマリッサは、失った「白」を死守したかった!?

 

橋の上を舟(!?)に乗って水上移動するシーンが一瞬映るが、

ああいうマジカルな光景が挿入されるのは、まさしく映画的でもあり、

ああいう「小休止」こそ緊迫継続映画の醍醐味!そういうとこは、匠なんだよなぁ。

 

おまけに、ラストに出てくるあの遊園地(?)の存在感。

すでに閉園された場所らしいが、それゆえの適度な「廃れ」感。

奇妙なデカさの動物オブジェや、その崩れ具合なんかは、それだけでジャストな空気。

そして、ラストに「狼の口」からマリッサが出てくる展開、そしてその画が愉快!

ドイツのちょっとしたアパートや公園にしても、素晴らしい力量のロケハンと見た。

ただ、「ドイツの町」で「テクノ」と来れば、(私のなかでは)『ラン・ローラ・ラン』な訳でして、

もう少し走ってくれても好かったかな(笑)という勝手な妄想もないではない。

 

あと、今回は結構脇役に徹しようと意識したかのようなSoSo仕事なケミカル・ブラザーズ。

滑稽だったりファニーな感じの音や旋律散りばめつつも、映画に抑揚提供お勤めご苦労。

ただ、ネームに勝る(?)ケミストリーは、あんまり見込めずやや予定調和的だったかも。

それにしても、最近は『トロン:レガシー』のダフトパンクや

『こわれゆく世界の中で』のアンダーワールドだとか、

大御所(?)テクノユニットの映画音楽担当が続いてる。

日頃、「音」での完結を試みてたり(映像との融合が念頭にある場合もあるだろうけど)、

あくまで「音」が主たらんとしている分、映画音楽専門のミュージシャン以上に

自己主張控えめな「劇伴思想」で楽曲制作してるように思うのは気のせいかしらん。

まぁ、そこが好感持ちつつも、物足りなさを感じたりもする所以。

とはいえ、本作の「エッヂ」はケミカルの手柄に拠るところもある気がするし。

 

◆適材適所なキャスティング

個々の演技能力の高さは言うまでも無いが、その配置の的確さはやはり気持ち好い。

意図したかどうかはわからぬが、観客にとっては過去作の記憶との心地好い共犯関係も

本作の説得力微増に貢献してる。シアーシャ・ローナンは前作『ラブリー・ボーン』における

劇内外ともに悲惨な状況が観客の同情を誘うし、ケイト・ブランシェットは日頃の文芸ものや

人間ドラマで見せる「熱演」とは異質な新鮮さ(もしくは、『インディ・ジョーンズ~』で見せた

快(怪)演との共鳴)が、味わいを更に生み出しもする。エリック・バナに至っては、

『ミュンヘン』での有能ぶりと苦悩ぶりが時折オーヴァーラップ。『ミュンヘン』ラストの

行き詰まり感をブレイクスルーしたかのような本作での「復讐」。役者は揃った感、超一級。

ここまで主要キャストが絶品なのに、心配性か脇まで少し固めすぎたかも。

トム・ホランダー、オリヴィア・ウィリアムズ、ジェイソン・フレミングといった芸達者では、

お腹一杯消化不良な、過剰なゆえの物足りなさ(各々が中途半端な描写)を覚えてしまう。

ほんと部分的な「スパイス」に徹するか、どっぷり絡ませるか、どっちかにして欲しかった。

いずれも通りすがり的な印象が終始してしまう。「グリムの住人」しかり。

 

 

分量的には、文句が多くなってしまったものの、全く駄作的な気配は皆無。

それが個人的にはつまらなく思えてしまった、へそ曲りな自分ゆえの感想でしょう。

シネスコだし、プリントもなかなか好い仕上がりだったし、テクノは音量命だし(?)、

劇場で観といて好かったとは思う・・・が、しかし。(長くなったので、別記事に)

 

 


Peace(2010/想田和弘)

2011-08-28 19:30:32 | 映画 ナ・ハ行

 

私は、ドキュメンタリーと呼ばれる類の映像ものに対して、

かつては胡散臭いイメージしか持っていなかった。

それは、想田監督も著書で指摘するように、「結論ありき」や「特定の説得」を

念頭において制作されたドキュメンタリーが(とりわけテレビにおいては)氾濫し、

そうした印象が受け手の側にも知らず知らずのうちにこびりついているからだろう。

また、劇場公開される類のドキュメンタリーでも、「作家性」の名のもとに

特定のイデオロギーや主張の援用目的として制作されたかのような作品群が

後を絶たぬ現象も、そうした印象を払拭しきれぬ一因であるように思う。

 

しかし、数年前にフレデリック・ワイズマン特集で彼の作品を貪るように観て以来、

ドキュメンタリーという手法に俄然興味がわくと共に、劇映画とは異なる可能性に興奮した。

そのワイズマンを「心の師」と仰ぎつつ、自らの手法に常に懐疑と模索で立ち向かう

孤高の(しかし、極めて善人そう[というか、そうあらんとしているであろう])想田監督の新作

『Peace』は、前二作に劣りも凌ぎもせぬ、まさしく「番外編」の名に相応しい自由な映画だ。

 

私は、作り手が饒舌であることはあまり好きではないが、

それはおそらく「饒舌な作り手がいまいち」であることが多いからだけかもしれない。

想田監督の言説は、至極クレバーな、それでいて実効的で有意義なものが多い。

それはおそらく、真のドキュメンタリー作家であろうとするなかで、理論と現実の葛藤に

臆することなく身を置き続ける覚悟ができている、そして実践している人だからだろう。

 

私は本作を、昨年のフィルメックスにて観賞した。

上映後、想田監督も登壇し、質疑応答が行われたが、その時初めて彼を(映像含め)

見た私は非常に感銘を受け、直後に行われた青山ブックセンターでの講演(?)にも

足を運んでみた。一定のヴィジョンを持ちながら、観客の頭に浮かぶヴィジョンをも

手繰り寄せようとするかの如き対話の姿勢には、より一層刺激を受けた。

また、先日出版された『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)も読み

(とても読みやすく、わかりやすい[が、伝えたい内容は決して易しくない]ので一日で読了)、

満を持して再見してきた。が、もう東京ではファーストランは終了してしまった模様。

しかし、そのうち再上映や二番館での上映もあると信じたい。

「今」こそ多くの人に観てもらいたい、唯一無二な一本。

 

『選挙』『精神』の二作とは大きく異なる成り立ちや、方法によって作られたこともあり、

「観察映画・番外編」と名づけられた本作は、そうした背景のみにおいて番外なのではない。

想田監督自身にとって「何かに作らされたような」作品になったとのことだが、

私がその三作を並べて眺めてみると、明らかに異なる印象が『Peace』からは放たれる。

前二作が「論文」的な側面を持つのに対して、今作は明らかに「小説」なのだ。

勿論、観察映画である前二作における「論文」性とは、一義的であるという意味ではなく、

ばら撒かれ散りばめられた思考の契機を観客が組み立てようとする試行を促す効果をいう。

それに比して、本作における各々のピースは、それ自体がひとつの完成した姿をもっており、

しかし、それらが絡まりあってゆくなかで生まれる関係から解き放たれる「行間」は、

観る者に論で結ぶ営為を禁ずる。ただただそれらを受け止めて、自分なりの言葉で

語り直そうとする心の状態へと導かれるかのようである。

それは、タイトルにおいても言えるかもしれない。

『選挙』『精神』といった、より限定的なテーマ性を想起させる前二作に対し

(後者は当初の『精神病』というタイトル案から変更された分、十分抽象的でもあるが)、

今回の『Peace』という題名は、もはや玉虫色になる覚悟の先にある寛容すら感じてしまう。

つまり、前二作が「考える」能動性が強く求められるのに対し、

本作は「想う」感受性を開きに開いてじっと待つ。

そんな映画になっているように「感」じる(笑)

 

かと言って、想田作品における精巧緻密な編集は、本作においても抜かりはない。

必要な情報を滑らかに発信しながらも、豊かな行間を残しつつ、

観客が自由に物語を見出せる余白を残す。

いや、しっかりとした空白を提示すらするような「語り」には、

語る才能のみならず、語ろうとする人間に求められる真摯な姿勢の結晶を見るかのよう。

 

 

◆柏木寿夫が務める「福祉有償運送」(実態はボランティア同然)において、

   三人の印象深い人物が登場する。

   彼らは何故、「運送」されねばならぬのか。

   それは彼らが自力で移動できぬから。

   しかし、なぜ移動できぬ者に移動が強いられるのか。

   〈社会〉が合理化効率化によって機能の集約を推し進め、

   〈個人〉に移動を強いるから。自力で移動できる〈個人〉しか想定せぬ〈社会〉。

   移動に必要な自動車も、それに関わる規範(操作手順や交通ルール)を理解し習得し、

   いつでも剥奪可能なライセンスを授与される。規範に合わせられる人間のみが、

   〈社会〉への参画を自由に決められる。

   それでは、そうでない者は、不幸な弱者に過ぎぬのか?

   〈社会〉への参画は、機械の一部に、計画の一部になることだ。

   そんな「不幸」を束の間思わせる、「弱者」のゆるぎない強靭。

   しかし、そうした計画と実践のはざまで踏ん張る柏木夫妻。

   福祉の現場の窮状に不満をもらす柏木廣子は、

   カーラジオから流れる鳩山首相(当時)の福祉充実宣言に、

   まるで聞こえぬかのように物言わず。

   それは「無言の抵抗」などというファッションなどでは決してない。

   現実と理念の乖離を常に体感し続ける現実側に立ち続ける者のプライドか。

   声高に異論を唱えたり、叫ぶことが快感な、活動家や運動家の身の置き場所が、

   どこにあるかがわかりもする。

 

◆理想(規範)と現実のはざまで苦しむ姿は、

   柏木家における「猫」との関わり合いにも見られる。

   隣近所からの非難を浴び続けねばならなかった妻の廣子は、

   夫の姿勢を全否定。夫もそれは重々承知で、「ノーコメント」を貫き通す。

   妻も夫も板ばさみ。非難を浴びせる近所の住人だって、板ばさみ。

   それでは挟まれぬ「板」は、どことどこにあるのだろうか。

   端を発する一つの板は、やはり社会的規範。

   そのうちの、「清潔」だとか「協調」だとかいう概念。いや、観念?

   しかし、そこには必ず「異質性の排除」という攻撃性が内包されている。

   本作のラストが見せる猫たちのような寛容や受容など、人間社会にあり得るだろうか。

   人間は動物より優れているのではなかったか。

   いや、動物だって、いや動物こそ、弱肉強食で「排除」にまみれた世界じゃないか。

   では、彼ら(寿夫に集う猫たち)が為しえた共存は、一体どこから来るのだろうか。

 

   それは捨てられ寄る辺無き不安な想いを背負い、自分のなかに何も「確か」なものを

   持たぬ生き方だからかもしれない。〈社会〉が期待し奨励する「確実さ」こそ、

   不幸の源泉なのかもしれない。しかも、その「確実さ」を保証するものは、

   大抵「数字」や「言葉(論理)」で示される。それは、まさに支配の思想。

   それらの支配に対抗しうるもの。それは実は、「被支配」なのか?

 

   橋本さんが語る「戦争」は、何かを責めるわけでもなければ、

   何かを強いられたことを怨むというのとも違っていたように見えた。

   「そういうもんだった」という言葉は、諦めなのか、それとも受容と葛藤なのか。

   廣子から禁煙を懇願されるも、「政府(かつての専売局)が推進しとるんじゃから、

   きっとええもんなんじゃろう」と言い放つ橋本さん。社会の矛盾、国家の欺瞞。

   しかし、そうして「推進」された害悪も、彼にとっては「至福」の一本。

   そんな彼は戦中は前線には行かぬまま、戦後「遠慮しながら」復員したという。

   それは確かに「お国のために死ぬ」べきだった「務め」を果たせなかったという

   教育に起因する遠慮だったところもあるだろうが、それよりも彼が語っていた

   「同級生も沢山死んだ。生きてたら今や村長とかやっとっただろう若者が沢山死んだ」

   という言葉に滲む、個人を悼む感情だろう。そして、そこには〈社会〉を介さぬ、

   〈社会〉も介入できぬ、個人が個人を慈しむ「習性」があるかもしれない。

 

   儲からぬどころか時には身銭を切るほどまでして送迎に従事する寿夫に想田監督は

   「それでもなぜ続けるのか」と問うてみる。すると、寿夫は一言、「惰性じゃろ」。

   ユーモアに溢れ、笑いもこぼれる一場面。しかし、その言葉が持つ強さは途轍もない。

   フィルメックスでは英語字幕入で上映された。そのときに確か字幕では、「惰性」に対し、

   「habit」という語が当てられていたように記憶する。人間のもつ習性の大半は、

   後天的なものであり、それは時間をかけて育まれてゆくものだ。

   個人においても、社会においても。

 

   美しき「惰性」が失われゆく〈社会〉(とりわけ都市部)において、

   福祉国家が望まれ叫ばれ模索され。しかし、程遠い現実に押し流される。

   しかし、その一方で、「大きな」うねりにも飲み込まれない個人の生き様がある世界。

   互酬性(いまや失われつつある)が身にしみついた、謙譲の精神でつながる人と人。

   送ってもらう橋本さんは、終始「迷惑かけて」と謝辞を口にし続けた。

   送る側の寿夫は、橋本さんを年長者として敬う姿勢を崩さない。

   (それまでに登場した「若い」乗客との対応の違いに感心してしまった)

   若い者に迷惑かけて済まぬという想いと

   社会にあふれる年長者の恩恵をありがたく想う気持が交錯する。

   「謝」という字のもつ、「すみません」と「ありがとう」の両義性。

   システマティックなボランタリーより謙虚で慈悲深い、互酬性に隠された謙譲こそが、

   本当の「健常」をうみだしていたのだろう。旧弊嫌いな私だが、ああした厳かな関係に、

   叫ばれるほどに失われゆく「尊厳」を垣間見た気がしてしまう。

 

◆本作は、考察の楽しみを味わわせてくれる細部にあふれている。

   例えば、公園に集うさまざまな人。やってることも違えば、訪れる目的も全く異なる。

   本来の機能やルールも設けられた空間なれど、現実の人間が

   それらを無目的化するかのような混沌公園、頼もしい(笑)

 

◆最初の送迎が終ったあとに挿入される街の風景。

   自転車に乗る若者やベビーカーを押す母親。車椅子に乗る人や白い杖を持つ人、

   松葉杖で身を支える人も映し出されたりする。みんな、「道具」を用いて生活している。

   しかも、共生如何に関わらず、現に共存してるでないか。

   その後に、寿夫が迎えに行った女性も「道具」(車椅子)に乗っている。

   そして、それを押すのはその女性より遥かに高齢な母親。

   しかし、その母親(祖母?)が彼女の移動を可能にしたのも、「道具」のおかげ。

   すると、続いて現れたのは、彼女の荷物を一輪車に載せ運ぶ年老いた男性(祖父?)。

   われわれは、さまざまな「道具」を駆使して生活している。

   そして、その大半は自分で発明も制作もしていない。

 

◆猫に餌をやりながら、それぞれの猫について解説する寿夫。

   猫らを観察するというのは、まさに究極の「観察」だ。

   なぜなら彼らは言葉による情報提供をしてくれない。

   まさに、こちらが能動的に「読む」姿勢をもたねば何も見出せない。

 

◆廣子が帰宅後に仏壇に手を合わせる。そこを捉えようとするカメラに向かい、

   「こんなとこは映さんようにしてください」と彼女はもらす。

   (想田監督の新刊を読めばわかるが、彼女は撮影の少しまえに実母を亡くしている)

   当然、それ以上カメラはつきまとったりしない。それは或る種の限界のようでいて、

   カメラが捉えきれぬもの、フィルムに収められぬものの存在を、観客に意識させもする。

   それを意識し、そこに想いを馳せてこそ、眼前の観察にも想像力がより働く。

 

◆横断歩道をまえに、大量の荷物をかかえきれずに泣く少年。

   「大丈夫?」とでも声をかけているような中年女性。

   少年は彼女の助けを借りない。カメラは中年女性を追うが、

   前景の障害物に遮られ、その後の行方はわからない。

   名も無き微かな善意がいつも、隠されつつも、潜んでる。

   それは決して「映ろう(認められよう)」とはしないもの。

 

◆夫の猫可愛がり(笑)は、夫婦喧嘩の火種のよう。

   しかし、ノーコメントつらぬく夫と、あくまで断固認めぬ妻の、あまりの正反対ぶりが

   (本作のなかでも、見事に家内を正反対に移動したり、無言で妻は仕事に出かたり・・・)

   衝突回避の円満秘訣!?

 

◆泥棒猫が他の猫と共に餌を食べるラストシーン。

   寿夫は、「こっちの[在来の猫たち]が(泥棒猫を)許したんじゃろ」と語る。

   「許す」とは「緩い」と同語源だと言われている。

   また、かつては「寛」も「容」も「ゆるス」と読んだ。

   「平和」や「共存」求めるならば、社会は「ゆるゆる」説(解?)かねばならない。

 

 

◇私は、想田監督作品では本作が最も「好き」かもしれない。

   要因を検討してみると、『精神』より『選挙』が「好き」な要因とも関係していて、

   被写体との親密さがもたらす効果にどこか惹かれているのかもしれない。

   法律家でもあるワイズマンにはおそらくそんな親密性など介しも要しもしないだろう。

   しかし、私の心に強く残っている映画『阿賀に生きる』(佐藤真)や

   写真集『水俣』(ユージン・スミス)といったドキュメントには、

   被写体との親密さを獲得したからこそ記録できた姿があった。

   想田監督には、そうしたアプローチによる作品を、個人的には(今後もたまに)期待したい。

 

◇シアターイメージフォーラムBFのスクリーンサイズが小さくなってたのは気のせい?

   縮みシネスコ回避で、ビスタのサイズを変更したか!?それとも、デジタル上映時だけ?

 

◇本作の唯一残念ポイントは(作品自体でもなければ、大した内容でもないけれど)、

   パンフそれ自体はそこそこ充実していたものの、内容がほとんど文庫と重複してたこと。

   出演者(特に柏木夫妻)の声なんかも読めたらよかったのになぁ、なんて。

   それを入れるのは監督の本意じゃないのかな。

   あと、コメントページは要らないから(俺のなかでは全パンフ共通)、

   レビューがもう1つ2つあっても好かったなぁ、なんて思ったり。

   (劇映画を撮ってる監督のレビューなんかあったら面白かったと思ってみたり)

   あ、でも、十分内容充実パンフです。

 

 


復讐捜査線(2010/マーティン・キャンベル)

2011-08-08 02:16:56 | 映画 ナ・ハ行

 

監督のマーティン・キャンベルに殊更思い入れがある訳でもない。

『007 カジノ・ロワイヤル』は存分に楽しませてもらったけれど、

これといった特徴も、高打率って印象も持てないままだったから、

本作も当初はさほど興味を持っていなかったのだが、先日公開された『デビル』で

一躍注目(inside me)のボヤナ・ノヴァコヴィッチが出演とあらば、駆けつけねば・・・

しかし、彼女の出演時間の少なさといったら、泣けてくる。冒頭からいきなり鼻血、吐血、

そして上映開始10分足らずで銃殺される・・・。作品のなかでは重要な役割だけど、

回想シーン(※)とかもほとんどなく(まぁ、そこは本作の硬派さに貢献してるけどね)、

そうした「喪失感」は主人公(メル・ギブソン)の復讐心とシンクロすることに(笑)

 

突っ込んでくれと言わんばかりの邦題、『復讐捜査線』。

作品内容は言い得ているとはいえ、お決まりの「売れ線」ワード組み合わせ戦術。

だからさぁ・・・それやると逆に埋もれちゃうんだって・・・。

とか言いながら、本作の好い意味でオールドファッションな作風には、

こうした古臭い邦題も実は悪くないかも、なんて観賞後思い始めた自分もおります。

 

ちなみに、原題は「Edge of Darkness」。考察はのちほど。

 

本作への興味は、ボヤナ嬢がきっかけとはいえ、

「放射能がらみの陰謀」が物語の背景にばっちりあるとの情報も気になっていたから。

配給側としちゃ、そういった部分をフィーチャーしたいのは山々だろうが、当然要自主規制。

でもさ、原発関連のドキュメンタリーとかを金脈的動機から(完全に私的憶測だけど)

今更公開攻勢かけてきてる配給やら劇場やらには、ちょっと辟易するのも事実。

例えば、『Into Eternity』(あえて原題)なんかは元々公開決まってたし、

それを早めたのも英断だし賢明だと思う。というか、そもそも、あの作品は一見

スキャンダラスに見えて極めて哲学的根源的思索を促す、クレヴァーな「映画」だった。

もちろん、何らかのアジテーションとしての上映が展開されても好いと思うけど、

「ありもの」(しかも、海外での既製品)を持ってきて、世論の関心を後ろ盾に儲けよう

って魂胆がチラつくような興行界には、やっぱり不信感。そりゃぁ、商売だから、

話題性やら流行やらに飛び乗るのは「正しい」戦略だけど、もう少し文化的に提案を

試みるような展開を見せて欲しいもの。いや、内部にはそういった志ある人は

結構いるとは思うけどね。でもさ、「はやぶさ」の映画とか一体何本つくんの?

とかって思うとねぇ。「フィクション」だからこそ描けることってあると思うし、

そうした「物語」の力を信じなければ、ろくな「歴史」なんか語れない。

 

というわけで、本作はしっかりと「物語」であることを十二分に踏まえたうえで、

社会に対する思索を促すつくりになっていることに、非常に感心してしまったわけです。

つまり、登場人物の性格や行動なんかは極めてフィクショナルでありながら、

だからこそ活き活きとして観客を魅了も翻弄もしてくれる。

そして、それは「物語に没入する=現実から離れる=現実を俯瞰する」といった契機をも

提供してくれさえする。メルギブが『96時間』のリーアム・ニーソン化してるのに、だ。

という訳で、今こそ『原子力戦争』やら『太陽を盗んだ男』をこそリバイバル上映すべきでは?

チェルノブイリ何ちゃら、とかじゃなくてさ。まぁ、そういった作品を観る意義だって

当然十分あるんだろうとは思うけど、2003年の、ロシアの、話だからねぇ。

なぜ、2011年の、日本の、話を語ろうとしないのか。

 

まぁ、その点、アメリカは常に「いま」を問題視することに臆することはないどころか、

(善かれ悪しかれ)そうした思考すら娯楽に巧い具合に料理してくれる。

ただ、これはやっぱり万国共通みたいで、「自分の痛いところ」を突かれれば突かれるほど、

集客も評価も見込めないみたいだが。それでも、「つくられる(語られる)」のは羨ましい。

 

とはいえ、本作で扱っている問題はもしかしたらそこまでタイムリーじゃないのかもしれない。

というより、国家の陰謀(の内容及びその巨悪ぶり)自体を掘り下げていくというよりは、

組織vs個人(及び家族)といった対立軸を中心にしながら物語が展開するので、

結局は「個人の矜持」を焦点に、自由主義への回帰が提案されているようにも思う。

制作者がどういう政治的信条かはわからないが、社会保障の充実を模索したり

核兵器廃絶を訴えたりしているオバマに対し、懐疑的に思える要素が散見できもするが、

まぁそれはたまたまなのだろう。とにかく、常にオルタナティヴな発想を伴走させる社会は

ちょっと羨ましくもある(これは二大政党制が定着した社会の特徴なのかもしれないが)。

日本の場合のオルタナティヴ的発想は、「じゃぁ、これはどう?」ではなく、

「こっちがだめなら、そっち?」的なものだから。

 

主軸をなすストーリーは至ってシンプル。

娘を殺された父親が、警官である役得や能力を駆使して真相に迫る過程で、

娘の死が国家も関わった「陰謀」の隠蔽のためであったことを知り、復讐へ!?

だが、しかし。

そうしたメインプロットの驚くほどオーソドックスでシンプルなドラマのなかに、

極めて唐突に挿入される「部外者な当事者」の描かれ方が、中心人物以上の厚みをもつ。

 

その最たる人物は、

〈国家〉と〈個人〉の双方に通じている殺し屋ジェドバーグ(レイ・ウィンストン)。

彼は、組織に属さず独立で仕事を請け負っているプロの殺し屋のようだが、

いくら独立で仕事をしようとも、仕事を引き「受ける」以上、

自らより大きな力(雇用主・組織)に拘束され、

自らの営為がそうしたものに利用されていることに変わりはない。

彼がこれまでどのような仕事をし、どのような経験や思考を積んできたかはわからぬが、

「最後」の仕事に向き合い始めた彼は、自らの生の意味を問い直し始めたかのようだ。

クレイブン(メル・ギブソン)から、「俺の見方か?」と尋ねられ、

「F.スコット・フィッツジェラルドは正反対の概念を同時に信じてたんだってな」と答える。

フィッツジェラルドの作品には『The Beautiful and Damned』という作品があるが、

娘を失ったクレイブンのなかに燃え上がる復讐心は、まさしく美しくも呪われたものであろう。

そして、殺し屋ジェドバーグは最後にどのような選択をするのであろうか・・・

前述の会話の後、もともと子供のいないジェドバーグは次のように語る。

「子供を失った気持ちはわからんが、子供のいない気持ちはわかる」と。

(ここの「never」は、二人にとって異なる意味なのに、双方ともに重くのしかかる・・・)

クレイブンはうつむき加減に一言「Yeah」。 そして、

「おまえを埋めさせなきゃならん(自分の死を供養させる)者もいな(くて好)いだろ」と。

ジェドバーグもため息まじりに、「Yeah」。

自虐で相手を労わり、慈しむ、バディ文化の真骨頂。

グラン・トリノでイーストウッドが爽やかに披露したそれを、

こんなにも悲哀を込めた燻し銀の二人でやられたら、

漢(憧れる予備軍含む)は完全ノックアウト。

あとはただ二人についてゆけば、善い。

 

このジェドバーグは、対立する〈組織〉(企業または政府)と〈個人〉(クレイブン)の

双方とコミットし、双方の要求もときに受け入れながらも、決断は保留を続けている。

従っておそらく観客は、主人公の復讐心にシンクロしながらも、

ジェドバーグの視線を拝借し、俯瞰で観ようともする。

それは物語に深みをもたせるといった「手法」のみにとどまらないと私は考える。

ジェドバーグの風貌や教養溢るる言葉は観客を魅了し、善も悪も吸い込んでなお

理性的であらんとする彼に「希望」を見出す。しかし、彼の存在が本当に希望をうむのは、

ラストのあの言葉(思考)とあの行動によって初めてなのだ。つまり、ジェドバーグと同様、

どちらかに加担することを避けるかのような「傍観者」的存在は、

自分自身としての決断や行動をしない限り、結局は社会の歯車を止めることはない。

絶望的な社会がそこにあろうとも、社会の決断や行動に追随するだけでは、

(それこそが絶望的状況をうんでいるのだから)希望はいつまでもうまれない。

たとえば、クレイブンが娘の死に対する疑問は捨てて、日常という社会に還っていたら?

ジェドバーグがこれまでの日常の延長上で、自らの任務を全うしようとしていたら?

〈社会〉が絶望的な「型」を醸成し、人間を機械的に動かし、のみこもうとする時、

そうした循環を断ち切るためには、「型」破りな〈個人〉の決断と行動しかないのでは?

 

はたして、それが自分にはできているだろうか。それを、し続けるためには何が必要か。

翻って自戒する気持ちと共に、新宿駅前で惨状窮状訴える福島の農家の方の声が

虚しく響いていた光景が頭をよぎった。私を含め、多くの周りにいた人が、彼の主張を

神妙な気持ちで受け止めてはいたと思う。だからこそ、恒常的に現れる街角の演説に

遭遇した人々とは明らかに異なる空気がその場を包んでいた。でも、だから?

「彼」の試みは、それによって何かが得られるとか何かを動かすとかいった具体的な報酬を

念頭において図られたものではないのだと今更実感した。つまり、そうするしかないのだ。

何もしなければ、絶望に打ちひしがれることしかできなくなった今、

それが精一杯のせめてもの「弔い」であり、美しくも呪われた叫びなのだ。

そして、私たちが心の底から、心の奥からこみあげる叫びとは、実はそういうものなのだろう。

美しいだけの叫びには、容易に共感も賛同も時には援助すら厭わない。

しかし、呪われた叫びには躊躇う自分が立ちはだかる。

マスメディアだって、美しき訴えには耳を貸しマイクを向けカメラを回す。

呪われた声は隠蔽するか、スキャンダラスに拡散するか、とことんリンチする。

美しくも呪われた叫びが報道によって大衆に届けられることなど、まずない。

それは別におかしくない。報道における「行間」の存在は、混乱を意味し、

情報を「正しく」伝達することを妨げる。報道とはそういうものだろう。

しかし、だからこそ文学があり芸術があり、それを享け楽しむ人間がいるのだろう。

報道にはできない語りで伝えるという使命を、本作は十分に果たしている気がする。

 

ところが、本作には「報道」への提言までもが込められている。

それを託されている人物が、もう一人の「部外者な当事者」だ。

劇中に二度だけ、合計数分しか登場しないテレビ局の「彼女」(記者?リポーター?)こそ、

社会に潜む良心に希望を託したいという制作者の希望がみてとれる気がする。

「彼女」はクレイブンの家にまで押しかけてきて、カメラを向けマイクを向け、

「容疑者に対してどんなお気持ちですか?」と問いかける。

「おまえら、どこよりも来るの遅せぇなぁ・・・上司もダメダメなんだろ」と返すクレイブン。

そうすると「彼女」の表情からはみるみるうちに、職業人としての面構えが消え、

個人としての哀悼の顔つきにかわる。「本当に申し訳なく(悲しく)思います。

そして、こんなことしなきゃならないことにも(・・・といった内容だった気がする)。」

クレイブンは穏やかに、「まぁ、いいよ。気にするな。名刺か何か持ってないか?」と言う。

そして、名刺を受け取ったクレイブンは「もう遅いから帰れ。こっちから連絡するから」と。

私はこの場面で涙がこみあげた。つまり、「彼女」の見せた労わりと悔恨の表情は、

嘘偽りのない素直な感情であり、個人的には良心をもちながらも、

それを駆逐する社会の巨大な運動に抗いきれずに、それでも苦悩する個人を象徴している。

そして、そうしたなかで苦悩し続けながら「社会人」をやってる者が大勢いるのが現実であり、

本作に出てくる「悪党」だって、誰しもこうした道を一度や二度は通ったのだと思う。

憎憎しさを増幅させるような演出や展開を盛り込まず、淡々と進む本作の語りには、

もしかしたらそういった意図もあるのではないかと勘ぐりたくなるほどだ。

 

ちなみに、その「彼女」には実際、クレイブンがある思いを託すこととなる。

そこには、或る種の信頼関係が築けたからだと思うが、それはやはり「彼女」の

社会や組織に言わされてる言葉や強制された表情ではない、個人の内面を見たからだろう。

さらに、彼女の勤める報道機関が他社よりだいぶ遅れてかけつけてきたということは、

容疑者検挙の情報を得たのが遅かったということだと考えられる。

しかも、そのときにクレイブンの家にいたのは「彼女」たちだけなのだ。

作中では出てこなかったので、あくまで私の憶測ではあるが、その前に何社もが

クレイブンの家の前でカメラやマイクを向けたことがあったのかもしれない。

その差は何か。確かに取材能力の格差かもしれないが、情報入手の早さはもしかすると

「取引」にもとづくものなのかもしれない。刑事であったクレイブンならその辺の事情には

当然明るいことだろう。だからこそ、そうした「手」をつかわずに、情報入手の遅かった

「彼女」たちを信頼してみることにしたのかもしれない。その結果までは、わからない。

しかし、「彼女」に良心と矜持が残されていて、そしてそれを信用し信頼してくれる人がいて、

絶望的な社会にも、一縷の希望がさし始めたのかもしれない。

そして、それは一方のジェドバーグが最後に対峙した「彼」にも同様のことが言えよう。

 

個人の正義が社会の正義に勝つことは難しい。いや、極めて不可能に近い。

しかし、それを少しでも実りあるものにするためには、どうしたらよいのだろうか。

手っ取り早いのは「数」を集めることだろう。

しかし、そこには最大公約数化と共に削ぎ落とされてゆくものがある。

また、そのために互酬性が強化されないとも限らない。

そうするともはや、正義「感」は正義「観」でしかなくなってしまう。

そこでクレイブンやジェドバーグが最後に希望を見出したのが、

若い世代だったのかもしれない。

まだ汚れきっておらず、良心も矜持も残っているであろう彼らの脳裏に、いや心には、

クレイブンやジェドバーグの個人としての崇高さが刻み込まれたに違いない。

二人の「呪われながらも美しき人生」は、社会に立ち向かう者の厳しさを伝えつつ、

人間がみせる究極の強さと優しさを教えてくれもした。

 

  Nothing is so strong as gentleness, nothing so gentle as real strength.

                                                                                   - Ralph W. Sockman

 

 

 

※「回想」というべきか、「幻想」というべきかは判然としないが、

   今は亡き娘の幻影が父親の日常にたびたび現れる。しかし、それもボヤナ嬢ではなく・・・

   幼き日の娘しか出てこないのだ。それは、父がそれだけ「成人してからの娘」

   (もしかしたら、それよりかなり前から)とは随分と心を通わせられなかったことを語る。

   ということは、彼の行動は復讐のみならず、自らの贖罪でもあったのだろう。

 

◆観る者によっては、クレイブンとジェドバーグに関して

   「ああいう状況」に達すれば、誰だって自己犠牲も辞さなくなるでしょ・・・

   と受け取る場合もあるだろうが、いくらそうなったからってそう強くはなれないと思うし

  (むしろ弱くなることは多いのでは?)、たとえ「ああいう状況」だったからそうなったとしても、

   それならば人間に与えられた最大の試練は、最も崇高な宿命だってことにもなるし。

 

◆原題の『Edge of Darkness』は、何を意味するのだろう。

   闇の最も端っこの方を指すのだろうから、闇の中心に帰依したり貢献するも、

   何らかの理由で端に追いやられた者どもの住み処だろうか。

   それは、闇の中心から追放されたり排斥された結果なのかもしれないが、

   闇の中心からなるべく遠ざかろうとしてEdgeまで到達した者なのかもしれない。

   ということは、もしあと一歩Darknessの外に踏み出せば?

 

◆ラストに引用したソックマン氏は牧師さん。実は、何ヶ月か前にみた海外ドラマで

   引用されてたので、パクっちゃいました(笑) でも、この方は半端なく名言の宝庫です。

   例えば、「The test of courage comes when we are in the minority.

   The test of tolerance comes when we are in the majority.」なんて、

   本作の裏テーマとも言えなくもない。そして、最近の私の座右の銘(笑)は、

   「The larger the island of knowledge, the longer the shoreline of wonder.」

   こういう言葉に出会えると、言葉がイメージの矮小化ばかりでないことを

   改めて実感できたりする。

 

 


変身(2002/ワレーリイ・フォーキン)

2011-08-02 23:57:33 | 映画 ナ・ハ行

 

旧作ではあるのだが、なぜか東京芸術センターで二週間上映されており、観てきた。

映画を観るようになって、最も映画を観なかった年に公開された本作。

たしか、ユーロスペースで公開されていたような気がする。

 

原作は超有名なフランツ・カフカの「ある朝起きたら虫になってた男」の話。

実は、「虫」というのは翻訳の際にわかりやすくするための苦肉の策らしく、

原文においてはいわゆる「虫」の類に限定する言葉ではないようで、

更にカフカ自身も出版時に変身「後」の姿を挿絵等で表すことを

断固反対していたらしい。そういう意味では、本作は「正解」。

 

監督のワレーリイ・フォーキンも、主演のエヴゲーニイ・ミローノフも、演劇界の方々。

そして、本作も元は舞台で何年もロングランしていたものらしい。

映画化にあたっては、ところどころに映画的な画面の美しさや音響の豪華さはあるものの、

あくまで舞台の映像的記録みたいな感じで終ってしまっている。

予備知識ほとんどなく観ていたので(制作陣が演劇畑とかも)、

観ながらずっと「こんなん舞台でやりゃーいーじゃん」とか内心ブツブツ・・・。

演劇は全く詳しくないし、観劇も比較的苦手なので(外国の舞踏系とかは好きだけど)、

演劇に関する発言とかは控えたほうが賢明だとは思うものの、やっぱり表現媒体の特性

ってものを踏まえたり(時には意図的に)裏切ってこそ、そこに「その手段で表現する意味」

ってものが感じられると思うので、映画で演劇をそのままやってる感をおぼえた時点で、

個人的には没入不可能に。最近だと、ジュリー・テイモアの『テンペスト』がまさにそれ。

ジュリー・テイモア(『ライオン・キング』演出した大物)は、『タイタス』でしびれまくり、

『アクロス・ザ・ユニバース』は大のお気に入りではあるのだけれど、それらはまさに

映画的表現のなかに演劇的要素がバッチリはまった好例だったのだとつくづく痛感。

 

で、『変身』ではグレーゴル(これだって、もう文庫等では「グレゴール」で定着してんだから、

字幕も配慮してくれりゃぁ好いのに・・・ってずっと思ってしまった)が何に変身したかというと!

外見として提示されることはなく、役者がそのままのヴィジュアルで身振り手振りで演じると。

うーん、確かに正統派なんだろうけど。それだと、自己が「変身」したわけじゃなく、

他者がエイリアンとして認識してるだけだって解釈にもなってしまいそうな気がして、

(もう読んでから凄まじく時間が流れてるから記憶が曖昧ながら)カフカの原作では

そういった解釈は余り主眼じゃなかった気がして、そういうところで違和感拭えず終了。

 

で、大事なのはこの映画自体じゃなくて(おいおい)、ちょっとした美味しい(?)情報提供。

私が『変身』を観た北千住の東京芸術センター2Fにあるブルースタジオというところは、

1日3回程度で2週間、旧作を上映しているのだけれど、ここがとにかく穴場!

椅子とかにうるさい人には辛い腰掛だけど、天井は高いしスクリーンは大きいし、

そして何より、、、空いてる!というより、絶対混まない!!

その証拠に、これまであそこで観た小津も黒澤もアンゲロプロスもエリセですら、

全部観客二桁いってなかったからね。

というわけで・・・

この夏、ゴダール上映プチ流行で、新宿のK's Cinema ・ 早稲田松竹 ・ 下高井戸シネマでも

ゴダール作品の特集上映がある模様だが、やっぱり混むんだろなと辟易しているところに、

このブルースタジオで明日から2週毎に3作品のゴダール上映があるのです。

まぁ、ラインナップとしちゃぁ究極ベタな3作品だけど、こういう作品こそ

大きいスクリーンでゆったり観られるっていうのは極めて稀少だと思うので。

 

8/3(水)~8/16(火) ゴダール・ソシアリスム

8/17(水)~8/30(火) 勝手にしやがれ

8/31(水)~9/13(火) 気狂いピエロ

 

などと煽っておいて、混雑とかしてたらすみません。

あと、本当に椅子は「映画館っぽい」椅子ではありませんので、

そういうのが苦手な(身体的な事情もあると思うので)方は要検討かも。

ちなみに、いっつも昔の映画とかを観ることが多いので気づきませんでしたが、

今日観た『変身』はとにかくサラウンド効果が絶大だったのに吃驚。

冒頭で雨が降りしきっているのですが、本当に場内に降っているかのようでした。

(まぁ、これも普段全く音響に期待していなかったからこその相対評価かもしれませんが)

おまけに、心なしかやや爆音気味だったことにも意外性を感じたりしました。

まぁ、北千住は遠いから、俺自身いっつも二の足踏んで終了なことも多いけれど、

(1回券1,000円のみならず)半年有効の回数券もいくつか種類があって、

そちらを利用するともう少し安く観られたりもするので、

コストパフォーマンスも悪くないと思います。

 

北千住は乗り入れている路線が多く、駅も大きかったりするので、出口は要チェック。

ちなみに、俺はいつも千代田線で行ってて、千代田線の一番後ろの車両にのって

下車したところにある階段で上がっていくと小さな改札があって、そこから地上に出ると近い。

なんて、書いてもわかりづらいだろうから(初めて行ったときは迷った)、

行く場合は地図等を持参が好いと思います。

 

俺も一応、観ておこうかと思います。

何せ恥ずかしながら、『勝手にしやがれ』はまだ未修得ですから。

いや、もう何度か観賞済みですが、まだ消化できてないというか、楽しめてないのです。

まぁ、楽しめないことを素直に受け容れれば好いのでしょうが、敗北感を認めきれず(笑)

というのも、私の部屋にはでっかい『勝手にしやがれ』のワンシーンのポスターが

貼ってあるので・・・(といっても、たまたまタワレコで100円で売ってたからなんだけど)

ちなみに、『気狂いピエロ』は好きなんです。昨年末にシャンテでゴダール特集やってるとき、

チケット売り場のお姉さんが「きちがいピエロ」って言ってて感心してしまったのだけれど、

きっと「きぐるいピエロ」って言ってると、その方が面倒な事態になっちゃうからなのかな。

 

  チケット窓口「きぐるいピエロ1枚ですね」

  客「『きちがいピエロ』1枚です!」

  チケット窓口「勝手にしやがれ」

 

なんて展開を用意するという手もあるな。(いや、ありません。)

 

 

 


127時間(2010/ダニー・ボイル)

2011-07-20 23:55:31 | 映画 ナ・ハ行

 

公開直後に観たものの、意外なことに(笑)気に入ってしまい、

どうしても原作も読んでおきたくなったものの、なかなか時間がとれずじまいで、

ようやく原作を読んで、映画も再見。今年一番の私的ダークホース。

 

なぜ、そんなに予想外なのかと言うと、

ダニー・ボイルの前作『スラムドッグ・ミリオネア』が個人的には心底期待外れだったから。

とはいえ、ダニー作品の私の嗜好には元々難ありで(笑)、

世間的にイマイチとされている作品の方が興味深かったりする傾向にある。

例えば、『ザ・ビーチ』とか『ミリオンズ』とか。『28日後...』とかは比較的一致してるかな。

あと、『シャロウ・グレイブ』は相当好きだったけど、今観るとどう思うかはわからない。

 

ちなみに、『スラムドッグ・ミリオネア』に一番ノレなかったポイントはおそらく、

原作既読で臨んだものの、テーマの解釈が自分とは全く異質だったことに起因すると思う。

そのへんは、原作者も「別物」だと断言していたし(別に批判はしていない)、

おそらく意識的にそういった捉え方で再構築したのだろう。

 

そんな経験もあって、今回はあえて原作未読で臨んでみたら・・・

まさか、ラストであんなに涙が溢れるとは思わなかったもので、困った困った(笑)

 

というわけで、最初はとにかく主人公アーロン(ジェームズ・フランコ)に

どっぷり感情移入しながら、臨場感も味わいながら、たっぷり没入観賞でハマった訳だけど、

原作を読んでから観直してみると、いくつか新たな発見もあったりした。

 

例えば、アーロンの人物造形なんかは、

映画化に際して随分とポピュラリティのあるものへと工夫がなされているように思う。

それは、ジェームズ・フランコというキャスティングに顕著だが、元カノとのエピソードや

車内の乱交(?)や幽閉時の自慰未遂なんかは原作にはなかったし、

そのあたりには、広く一般男性の共感を呼ぶ仕掛けが組み込まれているのだろう。

しかし、その一方でリアル・アーロンの「人となり」をしっかりと盛り込んでいる。

実は知性も兼ね備えた向学心溢るるジェームズに演じさせている点は勿論のこと、

回想シーンのヤング・アーロンがいかにも理系眼鏡男子な風貌だったりするところ。

私が、この主人公にシンクロしてしまったのはおそらく、基本人づきあいが鬱陶しく、

しかし決して不得手だったりするわけでもないし、ましてや非礼なんてこともないのだけれど、

内面は絶対領域として他者の侵入を許すまいとするようなスタンスに拘泥しているところ。

映画でもそのような匂いがややしていたものの、原作を読むとそういった性格がより鮮明。

だから、これは他者から隔絶したなかで自然と戯れることを愛した男が、

他者との絆が人生においては不可欠であることを自然に教えられる物語でもあり、

実際的な他者とのコンタクトを怠ったことが自己を窮地においやりながらも、

内面的な他者とのつながりを思い描くことにより強さを固持できた主人公。

ほぼ主人公が一人ぼっちで90分展開するにも関わらず、そこには絶えず存在する他者。

しかし、それはあくまで記憶のなかの想いのなかの他者であり、他者との関係性である。

そして、その一方で語りかけたり働きかけたりし続けるも、返事のない相手、自然。

そんな「静」かな自然が自らに働きかけ、自らを呪縛した驚異。そして、脅威。

自然も、自己の一部と化したかのようなふるまいを人類がしてきて久しい。

そんな自然も大いなる他者であることに気づかされ、しかしその他者は

自己と区別したり、自己都合で排除すべき(できる)存在としての「他者」とは異なる。

いや、そうした捉え方しかできないなかで人は、世界の真実を見誤る。見逃す。見損なう。

 

正確な数字や情報を確認したわけではないが、本作は日本でもそこそこヒットしていそう。

というのも、私は公開一週目の平日初回(しかも9時台スタート)に都下某シネコンにて

観賞したのだが、予想以上に客入りが好く(若者向け作品は初回が弱い印象なので・・・

って、とにかく何でも観るのが昨今のシルバーですが)、その後もなかなか好調そう。

私の勝手な推測としては、やはりこれは3月の震災の影響がある気がしてならない。

つまり、実際に自然の脅威を体感した(そして、今も尚その記憶やその余波を畏れる)人が

この作品を観る場合の切実さや共感は、おそらく特別なものがあるのではないかと思うから。

原作を読んでも、人間と自然の対峙や共生をとらえ直そうとする精神的な営みが綴られ、

3.11以前では「理想論」として読み流してしまっていたかもしれないアーロンの独白は、

決して絵空事どころではなく、真摯に自らの問題として受け止めねばならぬ信条である。

しかし、そのあたりは、映画だとむしろ自然からの「解放」や「超克」の先にある「征服」感が

西洋の観客にはカタルシスを生んでいるのではないか、なんて勘ぐってしまう。

日本人は、とりわけ現在の日本人は、その当たりに関して言えば、

明らかに「自然への畏敬の念」を新たにする映画となるだろう。

 

制作陣は、自然よりは「人間」の内面や強靭さを描くことに主眼がおかれているようだが、

人間と自然のスケールの格差を何度も画で見せつけるあたりのしつこいまでの確認手段は、

ベタながらも効果的ではあるし、スロット(岩の割れ目)に閉じ込められたアーロンから離れ

空を昇っていくカメラがとらえる雄大な自然は、人間の存在について再考を促すだろう。

そうした戯画的とも思える撮り方や構図、音楽の使用などは退屈を回避するばかりでなく、

下手すると「説教」や「お涙頂戴」だけで終りそうなトゥルー・ストーリーを見事に「映画」化。

その巧みさ故に、内容よりも雄弁な形式がしばしば見受けられるダニー・ボイル作品も、

本作では一人の役者を誤魔化しようの無い中心にしっかりと据えたことで、

あくまで補強としてのテクニックがフックとして効き、常に「語り」が活きている。

ダニー・ボイルがインタビューで「『レスラー』のように、ひとりの俳優がすべてを引っ張るような

映画を作ってみたい」と答えていたように、役者との真剣勝負は彼の映画作りに

新たな展開をもたらしたのかもしれない。それはラストによく表れてるように思う。

 

私は、『ミリオンズ』のラストが本当に好きで、あの多幸感に映画のマジックを感じる。

『28日後...』のラストにも似たようなものを感じたが、

ラストのラストで助走に見合わぬ飛躍をしてしまう。

本作でも、シガー・ロスの「Festival」が流れ始めるところから(他の曲もだが、

選曲のこだわりニンマリは勿論、適材適所かつ絶妙タイミングはもはや匠の技)

エンドロールに入るまでのシークエンスなんて、(それまでの凄惨さの反動もあってか)

極めて美しく幻想的な現実をファンタジックに、しかし現実のぬくもりを感じるように

実にタイトながらも人間の絆を濃縮して描ききっているように思え、感涙の嵐(笑)

アーロンが助けを求めるオランダ人家族3人の動きや表情なんて、あれだけで泣ける。

その後に、駆け寄ってミネラルウォーター渡してくれるカップルなんて出てきたら嗚咽もの。

そうしたら、そこにヘリがこれ以上ないタイミングで舞い降りて、

そこから一気に復活アーロンへ。プールサイドから眺める人間讃歌の光景。

何なんだ、あの感じのよすぎる新婚は。スーパーモデルみたいな奥さんと結婚してない

リアル・アーロンに、これまた最高のハッピーエンドが滲み出まくってて、

物語の完璧な完結と始まりを見た。

 

映画化が決まったときや撮り始めたときには、

ああいうラストシーンは予定になかっただろうし、運命の作用によるものだろうし、

(リアル・アーロンは結構目立ちたがりっぽいみたいとはいえ

[最初は自分がナレーションする形でドキュメンタリー化を希望していたらしいし])、

ただ写真で実物をラストに見せるお披露目とは異なり、

過去と現在、現在と未来が見つめ合うような《対面》であり、

それは作中で繰り返し描かれた過去と現在と未来が交錯する「premonition」の

具現化とも言うべきゴールであり、見つめ合うことで認め合う記憶の交わり。

 

原作では、脱出直前の幻覚に現れる少年は、アーロン自身だという解釈になっている。

しかし、その少年がアーロンの肩に乗っかっているという表現もあり(映画も忠実に描写)

そう考えると映画の見せ方通り、アーロンの「未来の息子」として絶望の彼に希望を見せた

といった意味合いにもとれる。結果的には、そうなったわけで、そんな素敵な奇跡が

この映画によりマジカルな魅力を与えてくれてもいる気がする。

アーロン・ラルストンが熱望した「ドキュメンタリー」をも内包した映画になったのかもしれない。

 

◆原作の映画化話をプロデューサーに持ちかけたダニー・ボイルに、

  プロデューサーは最初「ありえない」と思ったらしいのだが、出来上がった本作を観ると、

  これほど映画向きな要素がつまったものもないと思えてしまうから不思議。

  つまり、密室劇的な要素がある(暗闇の劇場で観る価値あり)一方で、

  自然の雄大さが画面に広がったり(スクリーンで観るべき)、

  記憶や幻想が交錯する(非日常的時空の必要性)。

 

◆日本で本作がウケるポイントとして実に些細なことかもしれないが、

  彼の持参している電子機器が悉く日本製だったりするという親近感。

  ヘッドフォンは『リリイ・シュシュのすべて』で出てくるソニー製のものと同じ(だから?)。

  ビデオカメラの操作音とか微妙に懐かしくて、そんな身近さが臨場感をサポートしたり。

  ちなみに、アーロン自身も日本に来たことがあるらしく、原作の中の情報によると

  2000年6月に名古屋で初めて日本酒を飲んだという記述がある。やっぱり山登りに来た?

 

◆映画には出てこないが、原作のなかには岩に右腕がはさまれた時刻の記述がある。

  それが、14時45分頃というのだ。そう、東北地方太平洋沖地震とほぼ同時刻。

  二つの事象をどこか重ねながら観ていた自分としては、奇妙な一致に運命を感じたりして。

 

◆原作では、「理性」の部分が常に自己を律しようとする描写がしばしば見受けられる。

  映画では、そうした役目がビデオカメラで自分を撮る行為であったり、

  撮られた映像を見る行為だったりするように思う。つまり、客観性の獲得。

  その一方で重大な決定を促すのは想い出や予感といった主観的な感情だったりする。

  そして、更に重要だと感ずるのが、経験と(そこから培った)知力。

  そういった意味では、底流にあるテーマはダニーの前作(の原作)とも通ずるところがある。

  人間においては、文明の発展と共に減退していった身体能力の代替として、

  知力の増進は図られ、それが更なる自然支配を生むというのは皮肉かもしれないが、

  そこで科学的な知のみが暴走せずに、畏れを「知」る力があわさるべきかもしれない。

  孤立無縁となったアーロンにまず求められたのは「儀式」だった。

  決まった時に、決まった行いを、決まったものを、決まった量を・・・

  つまり予測も統御も不能となった不透明な状況において人間が生きるために必要なもの。

  解明など到底しつくせず、統御など叶わぬ壮大な自然をまえに人間が届けるべき祈り。

  それを忘れないためにあったのが、「儀式」なのかもしれない。

  そして、それは自然と人間のみならず、人間と人間を結びつけるものでもある。

  アーロンが行き先を必ず書き置くようになったのは、現実的な効用を求めてのみならず、

  そうした人と人をつなぎとめる「儀式」の必要性に気づいたからなのではないだろうか。

  などと言い出したら、深読み過ぎますか(笑)