これまでのダグ・リーマンの作風からはやや意外な本作。
おまけに、カンヌのコンペに選出されていたりもして、やや違和感。
しかし、これはダグ・リーマンの華麗なるネクスト・ステージか!?とも期待しつつ、
なかなか決まらぬ日本公開に些か痺れをきらしているうちに、作品の存在を忘却(笑)
IMDbやらRottenなんかの評価では軒並好評そうなスコアだから、
期待も昂ぶり観賞するも・・・好くも悪くもリーマン・ショックと呼べる変革何ら無し。
だって、何故にわざわざシネスコで揺れまくる映像撮ったりするんだ?
「人間」やら「社会」やらを凝視しようとした作風、めざしたんじゃない?
一体〈誰〉が視てんだよ・・・手持ちのあの揺れってそういう必然性ありきなんじゃなかろうか。
ただの臨場感とか緊迫感を演出(というより捻出)するための安易な選択な気がするなぁ。
ボーン・シリーズ意識したとかか?(ちなみに、撮影はダグ・リーマン自身が担当)
そもそも、周知の有名事件を題材にしているのだから、
観客は展開に対するハラハラドキドキなどそもそも期待できぬ(してない)わけで、
描くべきは作り手が投げかけたい「問い」であったり、提示したい「テーマ」であるべきでは?
そこのところが極めて希薄。何を描きたいのかが不明瞭。主演二人の演技に依存しすぎ。
本国での高評価も、カンヌ・コンペ選出も、「この事件を早くも映画化した」という事実に対し、
敬意を表しているのか否定を封じる空気が作用しているのか・・・そう思えるほど凡庸なのだ。
「国家」を描くにはスケール小さすぎ、「社会」を描くには切り込まなすぎ、
「個人」は描くもステレオタイプ。(達者な二人の演技が余計そう感じさえる気もしてしまう)
これはあくまで個人的な意見(というより要望?)だが、
この事件における諸悪の根源(という言い方は適切ではないかもしれぬが)は、
どう考えても〈国家〉だとか〈アメリカ〉などではなく、
むしろ〈大衆〉及びそうした群衆こそが動かしている「民主主義」なのだろう。
だからこそリークやら報道やらが〈武器〉になり得るわけで。
リークした人物の卑劣さだとか、そうした構造の傲慢さを叫ぶより、
そうした「からくり」の前提や背景を丁寧に描くことで、
それを駆動している〈何か〉を浮き彫りにしてこそ、
社会の根源的な考察にも迫れるというもの。
確かに、ラストのジョー(ショーン・ペン)の演説(講義)では、
そうした民主主義の実体と(それ故に必要な)実感を説いて終ろうとしている。
しかし、そうした不信の矛先が「われわれ」を脅かすほどに迫ってくることが結局ない。
だから、彼の言葉も民主主義の危険性を説いているようで、それを説くという行為によって
(さらには、ラストの実際VTRを引用することによって)「勝利」として捉えられて終ってしまう
(そうすると、結局安堵ばかりが広がってしまって)民主主義の称賛に収斂されてしまう。
決して新しくなどない(むしろ実際は原初的な「政治」のあり方である)民主主義の不変的な
問題点をしっかり押えつつ、新たな問題(大衆やメディアという新たな脅威)を喚起し、
そうした問題の所在や責任は常に「われわれ」にあるのだという自覚を促すような警鐘が
もっとじわじわ微かにずっと鳴らされ続けもしていたら、
歴とした社会派佳作になり得たろう。
◆脚本家の人選を間違ったのではなかろうか。フィルモ的に怪しいJez Butterworth とか
新人(おそらく)のJohn-Henry Butterworth とか。
◆ジョン・パウウェルは今をときめく映画音楽家で、ダイナミックなスコアにはもってこい。
だからこそ、本作のような〈動〉というより〈静〉な印象で進める「ドラマ」においては、
別の人選っていうのもあり得た気がするな。
◇最近はすっかりWOWOWで映画を観なくなってしまった私だが(ダサいロゴ目立ちすぎ)、
ドラマは結構観てしまっており、そんなWOWOWで放映中のドラマに出演してる俳優が
本作には二人も出ておった。ほんのチョイ役で『私はラブ・リーガル(Drop Dead Diva)』に
出演中のDavid Denmanが出てたり、『クリミナルマインド FBI行動分析課』スピンオフの
『クリミナルマインド 特命捜査班 レッドセル』出演中のMichael Kelly(映画出演も多いが)
なんかは主人公(ナオミ・ワッツ)の上司(?)だったりした。
どうでもいいことだけど、ちょっと嬉しく、でもそれ故にちょっと安っぽく感じたのかも。
◇不満たっぷりっぽい感想を書いてしまったが、ダグ・リーマンは基本的に好き。
ただし、『Mr.& Mrs.スミス』とか『ボーン・アイデンティティー』とかの無思考全力疾走系が。
そういえば、『go』とかも学生時代に劇場観賞したんだよな。
それも伝説の新宿ピカデリー4で!