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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

ブラック・スワン(2010/ダーレン・アロノフスキー)

2011-05-24 01:55:32 | 映画 ナ・ハ行

 

 

スワン・レイク・イヤー。

『神々と男たち』と『ブラック・スワン』。

タイプは全く異なりながら、チャイコフスキーの「白鳥の湖」が鳴り響く傑作たちが

同じ年に生まれた偶然。

奇跡的なカタルシス。

2010年代に入った昨年、

映画のこれまでとこれからが出会った新たな名作が誕生。

映画の生みの親であるフランスからと、育ての親であるアメリカから。

 

『ブラック・スワン』を観ながら、いくつかのキーワード(概念)が頭を駆け巡ったが、

その一つとして、「肉体」と「精神」という二面性が挙げられる。

身体芸術である舞踏を演じる心の葛藤のみならず、

「見られる」身体の客体性と、それを認識する精神の主体性。

しかし、それは身体の客体性にひきずられ、本来の主体とは乖離してゆく運命を孕む。

そして、自らの身体をも客体化し統御しようとすればするほど、

身体との乖離に煩悶する精神。

自己の一部でありながら、他者性をつきつける身体。

外部の他者との接点であり、自己との架け橋である身体。

人間の複雑な「意識」を複雑なまま提示し、完全な解決ではなく、

完全な「解消」として、完全なる不完全を描きあげた新たなリアリズム。

 

『神々と男たち』で流れるチャイコフスキーは、

「理由」など全く要らないほど超絶破壊力をもって心臓を鷲掴みしたのだが、

「白鳥の湖」という物語を改めて確認し、『ブラック・スワン』を通して読み直してみると、

神のメッセンジャーとしてではなく人間としての苦悩をつきつけられた男たちは、

自らの内なる「オデット」と「オディール」と向き合い、超克すべく葛藤し、

そうした物語に重なり合ったチャイコフスキーだったのかもしれない。

〈身〉に迫る危険からわき上がる恐怖。それに打克つための〈心〉。

「精神」というだけあって、どんなに世界を人間の理性が解明しようとも、

いまだに神の支配下にある「こころ」。もはや共通の神をもてなくなった現代において、

精神はより一層つかみ処もつかみ様もなく、多様となり複雑になり、そして分裂を始める。

しかし、説明したり再現したり操作したりはできずとも、身体も精神もあらゆる反目を凌駕し、

〈PERFECT〉が訪れたりするのも、人間の現実であり、極めて不合理な美である。

『神々と男たち』の冒頭で引用される聖書の一節

「(神に仕える者でも)人間として死ぬであろう」という言葉は決して悲観のものではなく、

むしろ人間の尊厳こそを讃えたものとして引かれたのかもしれない。

『ブラック・スワン』の主人公ニナにしても、葛藤を乗り越えたなどというのではなく、

葛藤を受け容れた、いや葛藤に陶酔し、一方から一方を抑えようとするのではなく、

双方が互いにせめぎ合う葛藤それ自体に自らががっしりと重なり合ったのかもしれない。

そういえば、同性愛者だったとされるチャイコフスキーも、身体と精神の葛藤に苛まれ、

自己〈内部〉と社会〈外部〉の葛藤の末に、過去と未来を征服しうる美を産み出した。

(そういえば、グザヴィエ・ボーヴォワには、理性と感情、身体と精神の相反を

  止揚することなく華麗に凌駕する美しい結末をもつ『マチューの受難』という佳作もあった。)

 

『神々と男たち』の「白鳥の湖」に打ちのめされ過ぎた為、

(しかも、昨年の東京国際映画祭と震災直後の閑散シネスイッチで二度も)

正直、『ブラック・スワン』を観るのがこわかった(笑)

しかし、しかし、しかし。クリント・マンセル(音楽)がしっかりカスタマイズしてくれたこともあり、

また、全身どっぷりスワンレイクなつくりもあって、まったくの杞憂で終ったのみならず、

見事なまでに別世界の時間の流れにのみこまれた「体験」だった。

 

余りにもさまざまな想いが巡る故、まだ巧くまとめられそうにない。

以下に、散漫ながら思いつくままに感想を認めておく。

 

◆本作は『レスラー』の姉妹篇のように語られることが多いようだ。

 (監督本人もそう語ってるようだし。)

 〈醜〉をまとった世界の〈美〉学を描き切った『レスラー』と、

 〈美〉につつまれた世界を流れる〈醜〉が食い尽くす『ブラック・スワン』。

 爽快すぎるまでの対照性は、共通性と常に表裏一体であり、確かに姉妹篇かも。

 しかし、全作劇場観賞してきたアロノフ好きー(笑)としては、原点回帰的感動も覚えた。

 『ファウンテン』で自分の趣味に走り、『レスラー』で皆の期待に応え、

 『ブラック・スワン』では遂に、やんちゃしながら成熟しちゃった感じ。

 余り大きい声では言えないが、何気に『ファウンテン』も好きだったりした俺としては

 (『レクイエム・フォー・ドリーム』の次に好きだった・・・)、実は『レスラー』は好かったけど、

 どこか淋しかったりもした。いつも一緒にバカやってた仲間がついに身を固めた的に(笑)

 でも、ダーレンはそんなプチサクセスどころじゃなく、

 突き抜けたバカできる稀代の芸術家になっちまった。

 そこまで遠くに行けば、むしろめっちゃ近くに感じる。

 意味不明だが、舞台のニナと客席の母親みたいな感じ。

 余計わけわからんか。

 

◆ドキュメンタリー的でもある手持ちカメラによる撮影だが、

 ただ「リアル」さを演出するのに一役買ってるどまりじゃなく、

 カメラ「ワーク」はかなりドラマチックで、ハンドメイドなトニスコみたいな場面もしばしば。

 それがまた、ミニマムな躍動=爆発する内省として見事に作用。

 

◆音楽のクリント・マンセルは、今後絶対神憑る!

 本作における白鳥はチャイコフスキーで、黒鳥はクリント・マンセル。

 白鳥だけでは当然「ブラック・スワン」の世界などうまれることはなく、

 クリント・マンセルの構築する音楽による空気の演出こそ、本作肝の一つ。

 『月に囚われた男』の見事な世界観の最大功労者として認識していたクリント。

 俺のなかでは、何となく「第二のカーター・バーウェル」的位置づけ。

 

◆音楽だけではなく、見事な「幻音」の重なり具合、入り具合。

 映画が耳目をフルにひきつけられる芸術であることを自覚した、一級の仕事。

 当然、カラフルなモノクロとでも言いたくなる絶妙な色彩設計も恐ろしい。

 白と黒を中心に据えながら、時折鮮烈に闖入してくる赤。

 ストイックな色づかいでありながら、「鮮やか」として認識してしまう撮影と美術の技術。

 

◆「鏡」の存在感はくどいほどだが、〈虚像〉をうつす存在としての鏡はいつしか、

 実体よりもリアリティを獲得していったしまうようですらある。

 実体を「写している」(現実に従属している)複写として関係性ごと提示される画から、

 次第に鏡の像こそがその存在感を増し、鏡の像→実像の順でカメラがとらえるようになる。

 そんな倒錯は、作品世界の気味悪さに当然貢献しているのだが、倒錯といえば・・・

 ダーレン・アロノフスキー作品を、しかも下手すら「トンデモ映画」な本作を、

 シネコンの最大劇場で、しかも素直そうなカップルや小洒落たお姉さんたちと共に

 観賞する事実ほど、倒錯してるような感覚をおぼえることもない(笑)

 

◆携帯の着信時に表示される「MOM」の文字の大きさよ。威圧感ハンパない。

 笑えるほどストレートな抑圧演出!?

 ニナが初めて羽目を外す男どもが「トムとジェリー」って・・・(笑)

 ユーモアを忘れぬことは、ホラーにとって何気に生命線かも。

 

◆この映画では、「PERFECT」という語が重要な役割を果たしているが、

 私のなかでは「PERFECT」という語と同時に「PARADOX」という語が頭を過ぎり続けた。

 トマ(芸術監督)の求める〈パーフェクト〉とは、「白鳥かつ黒鳥であること」であり、

 それは即ち〈パラドックス〉を内包し続けることを意味するのではないだろうか。

 つまり、弁証法的パーフェクトとは異なる〈パーフェクト〉の希求。

 それは、科学技術や社会科学が永遠に辿り着けぬ本物の〈パーフェクト〉かもしれない。

 それらが解明はできても解決はできない〈パラドックス〉。

 何らアウフヘーベン〈止揚〉(捨てる・否定する)することなく受け止めてこそ、

 実は初めて〈パーフェクト〉。

 「perfect」とは、「per 完全に + facere 為す(作る)」からなるラテン語に由来するらしい。

 つまり、「完全に作られた」状態であり、人乍らの産物。それが完全のはずはない。

 いや、自己に満たされた内面から臨む世界には、自己との齟齬は生じない。

 主観によって世界を満たせば、もはや世界は完璧なのだ。玉が傷つくことはない。

 「perfect」の語源に含まれていた「facere」に由来するのが「fact」であるらしいが、

 そう、fact〈事実〉とは、誰かが為したこと。為した者にしかわからぬのがfact〈事実〉。

 それでこそ世界がわかると「言える」のかもしれない。世界など解るわけないのだから、

 解ると「言える」、解ると「思える」ことだけが、factであり、perfectのとば口なのだ。

 それは、〈客観〉による世界の把握といった脅威に侵され続けてきた近代においては、

 むしろリアリティを欠いた世界の観方であるかもしれぬが、

 自己の外部には誰の意識も存在せず、

 内部に幽閉された主観の集合として世界の〈像〉が浮かび上がる。

 これほどまでに巨大な機構を数多うみだした近代社会においてさえ、

 厖大な人々をつなぎとめるのは、

 自己の外部につくられた客観的なる虚構(制度など)ではなく、

 自己の内部にうまれくる主観的な〈感情の結びつき〉のようなものであったりする。

 そして、永遠に融合することのない別個体であるにもかかわらず、

 各々に幽閉されたままの魂であるにもかかわらず、

 ある種の感情や感動を共有できたかのような「錯覚」を得たとき、ほんの一瞬、

 〈死〉や〈孤独〉といった精神的身体的限界を超越したperfectに出会えるのかもしれない。

 

 

 


ブルーバレンタイン(2010/デレク・シアンフランス)

2011-04-28 19:10:21 | 映画 ナ・ハ行

 

 

監督はインタビューで

 「過去と現在を対比させるため、この手法をとったんだ。

  この作品では男と女、愛と憎悪、喜びと悲しみ・・・というように、

 すべてが対比され、コインの裏と表の関係にある」

と語っている。

 

本作は、ディーン(ライアン・ゴズリング)とシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)の

現在と過去が交錯して描かれる。冷めはじめた愛と、燃え始めた愛。

ブルーのペンキやブルーの照明にまみれる二人と、

真っ赤なシャツで口づけする二人。

 

冒頭で飼い犬の行方がわからなくなっており、やがてその犬の死が二人にのしかかる。

何かの象徴かのような、どことなく示唆的な、犬の死。

はじめはよく解せなかったが、この家族がかかえるコンテクストが明かされるにつれ、

その意味が浮かび上がってくる。

二人の娘であるフランキーは、ディーンの子ではない。

シンディが別の男との交渉によってできた子供であった。

そんな二人にとって、愛犬ミーガンは「共有」できる唯一の存在だったのかもしれない。

勿論、ディーンはフランキーを実子のように可愛がっているし、

フランキーも父親のディーンを純粋に慕っている。

しかし、その一方でディーンはシンディとの間に実子をもうけたいという思いもある。

フランキーと娘の関係も、娘の成長や「真相」の存在がいつ脅かさないとも限らない。

明確な目標もなければ、使命感をもてるような仕事にも就けない夫に妻は

不安と不満が絶えることなく、これという手がなかたったかのようにじわじわ深まる溝。

 

映画の中で、二人の間に亀裂を走らせた「何か」がはっきりと描かれるわけではない。

いや、明瞭な「何か」がそうさせたのではないかもしれない。

それは、惹かれあう二人に作用した「何か」が明瞭な必然性を伴ったわけでもないのだから。

だからこそ、そこには説明可能な論理も到達可能な正解も用意はされていない。

ただただ「離れたくない」ディーンと、ただただ「もう一緒にいられない」シンディがいるだけ。

ディーンに愛の再燃を夢見させるのも美しい過去なら、

シンディが今を無残な現実として認識せざるをえないのもそうした過去の所業。

同じ想い出を共有し、光にあふれた過去を感じながらも、

そこにすがるかのような男と、その光が余計に今に影を落とさせるように感じてしまう女。

それでも、女は男の将来に光を期待する。しかし、男がすがるのは、どこまでも過去の光。

事実としての過去の経験は、現在によって書き換えられることはないだろうが、

経験のもつ意味は、その経験を所有する各々の〈読み〉により更新され続けてゆくだろう。

だからこそ、異なる今を抱えた二人にとって、

同じ経験の共有はいつしか幻想へと化していったのかもしれない。

 

シンディは、一見平凡な中流家庭に生まれ、医療の道へ進むため大学に通っていた。

しかし、中絶手術の面談で語られた「初体験13歳、経験人数25人くらい」からすると、

そうした堅実な道への抵抗感というか、反動のような無軌道への憧れがあったようにも思う。

一方、10歳で両親が離婚し、父親も夢見るアマチュアミュージシャンであったらしいディーン。

自分とは対照的なシンディは、彼が失った健やかな家庭へのパスポートでもあったのか。

自らが持ち得ない特性に惹かれ合うのが恋愛ならば、

共有できる同質性に安堵を感じられるのが結婚なのだろうか。

悲しくも、二人に共有できる目標も認識も、そして今や思い出すら消え去ろうとしている。

 

仕事にもやりがいを感じ、恋愛に感情を割くのは卒業したかのような女。

職場の男に誘われようが、昔の男にばったり会おうが、気ままに燃えたりしない。

夫は、妻一筋、家庭が第一。一個人としては、確かに「いいひと」。

しかし、女は男に社会的人格の成熟も求めるのだろう。

自らの能力によって社会に認められようとしている女であるならば、尚更。

 

二人が覚悟を決めるために泊まるラブホテル。

ディーンが選んだ部屋は、"The Future's Room"。

彼は"Future"の響きに、希望を託したかったのかもしれない。

しかし、その部屋は無機質なメタリック内装に、ブルーの照明。

何とか絆を取り戻したく、身体をどんなに近づけようとも、

心はどこまでも遠ざかり、身体のみでも拒む妻。

 

撮影のアンドリー・パレークは、ハリス・サヴィデスに師事したこともあるらしい。

静と微動のカメラワークは、二人と観客の心をリンクさせ、

遠くから凝視するかのように観察させる。

そして、時折あらわれるガラス越しのシークエンス。

光の反射、像の投影、交錯する過去と現実の重なり合い。

「ウクライナとインドの血を引く」らしい彼の感性には今後目が離せない。

 

監督は次のようにも語っている。

 「僕は『愛はどこに行ったのか?』と問いかけただけで、結論は用意していない。

  みんなが愛について語り合うきっかけになればうれしい」

確かに、あのラストシーンには余韻とはことなる「はじまり」を感じる。

それは二人にとっての新たな物語の始まりなのか、

第二章がやがておとずれるまでの別離の始まりなのか。

いずれにしても、一度芽生えた愛は、決して「消える」ことはないのだろう。

同じままの形であることを止めるだけであって、それは姿を変え、いつまでも留まり続ける。

美しく愛しい想い出と同様に。

 

 


名前のない少年、脚のない少女(2009/エズミール・フィーリョ)

2011-04-07 23:51:57 | 映画 ナ・ハ行

 

「同じ線路を一緒に歩いても、同じ列車に轢かれるわけじゃない」

 

映画は、主人公の少年の詩的な独白(それはウェブ上の「書き込み」なのだが)から始まる。

他者の眼を必要以上に気にしては、自分が個性的な存在でありたいと執拗に望む。

いわゆる「イタイ」と呼ばれるような思春期独特の陶酔状態は、本人にとっては真剣に

どこまでも痛いのだ。しかし、それは大声で叫べるほど激しい痛みとは限らない。

そうした「敵」なり「不幸」なりが強烈に自らを打ちのめしてくれるなら、

劇的な痛みが自らの空虚な時間を紛らしてくれもするだろう。

しかし、思春期における実際の葛藤とは、その多くが叫ぶ勇気も動機も十分持ちえぬまま、

満たされぬ不安を満たされぬことに価値を見出すかのように陶酔することで均衡をとる。

何もうみだしてないことに焦っては、何もうみださない儚い日々をいつも名残惜しみつつ、

いつも背後に終焉がまとわりついてるかのような絶望に満たされる。

「わかりあいたい」のに、誰とも「わかりあえない」自分を憐れみながら、

「わかりあえない」ことに自己の独自性を確認できるような安堵もわいてしまう。

素直になることを最も厭い最も怖れるそんな思春期こそ、最も素直に生きてしまう皮肉。

でも、それが決して悲劇だけで終らず、最高の喜劇として述懐できる美しさをも湛える日々。

「名前がない」ことも、「脚がない」ことも、そんな彼らをひたすら苦しめながら、

名前も脚も手に入れた後の自分がいちばん憧れる名前も脚ももたない自分。

不自由なことが、不安定なことは、実はいちばん自由だって気づかなかった。

誰にも心を開かないからこそ、気づけば誰の心にも入れた。気がした。

入っては、「違う、違う」とばかり不満を口にしていたけれど。

 

 


ヒア アフター(2010/クリント・イーストウッド)

2011-03-25 03:52:18 | 映画 ナ・ハ行

 

公開直後の平日、仕事の後に観た時は、

中盤の先行き不透明な展開・描写に仕事疲れが見事に融合し、

不覚にも(恒例の)ウトウト状態に何度か陥りそうになってしまった。

しかし、観終わった後の胸中は、近年のイーストウッド作品群同様に

「こみあげたまま」がどこまでも続く、優しい気持で想いを巡らし続けられる、

そんな本当にいい映画だった。

 

これはもう一度スクリーンでしっかり観ておきたいと思いつつも、

後回しにしてしまっているうちに、それは叶わなくなってしまった。

 

しかし、今、こうして本作について述懐しようとするとき、

最初に観たときとは明らかに違う意味が語りかけてくる。

 

今回の大災害では、いまだ計り知れぬほどの命が奪われ、

残酷な別れが一瞬にして訪れた。そして、それは今も続いている。

しかし、そうした別れがもたらした出会いもまた、計り知れないように思う。

 

身体的な恐怖など数分間で、それがトラウマになろうとも、

結局はどこまでも精神的不安に慄くだけで、電気もガスも水道もそれなりに

普通に享受し続けられる環境にいる、所詮日常回帰な自分の楽観的考察かも知れぬ。

不謹慎な表現かもしれない。時期尚早な美化かもしれない。

それでも、この映画を思い出すとき、

別れという喪失から出会いという収穫を手にする人間の頼もしさが思われる。

 

ラストでめぐりあう三者は、

いずれも各人のなかで膨らみ続けた「死」の存在によって、

ひきよせられた。

〈死〉から与えられる苦痛や苦悩、

〈死後(の世界)〉との繋がりへのこだわり、

そういったものがなければ、この三者は絶対に出会っていない。

 

勿論、喪失なき世界にはまた違った世界があるし、

そこにはそこにもっと素晴らしい出会いが待ち構えていたかもしれない。

だからこそ、人は喪失を嘆くし、悲しみの淵をさ迷うし、絶望が果てしなく続く。

しかし、それはひとつの可能性の終焉であり、それは別の可能性の始まりでもある。

 

ジョージ(マット・デイモン)のラストの「イメージ」は、

いままで悲観としてしかとらえられなかった可能性との訣別であり、

楽観としてとらえ得る可能性の選択なのだ。

 

Hereafter というタイトルでありながら、あくまで Here しか描かない。

それは、生者である限りは Here にとどまり続けるしかない「わたしたち」が

Here を去った者〈死者〉とどう向き合うべきかを問いかけているのだが、

〈死後〉にこだわる人間を描きながらも、〈死前〉にとどまり続けようとする物語に

〈生〉の強い肯定を感じるとともに、それは同時に〈死〉の受容にもつながる気がする。

安堵のために〈死後〉を見出し、その世界に自ら(〈生〉)を委ねるのではなく、

自ら(〈生〉)のなかに死者を受け入れ、「彼」らが生きつづける。生(活)かしつづける。

 

兄を失ったマーカスは、ジョージ(マット・デイモン)によって兄の言葉をきく。

兄のジェイソンは、「俺はおまえのなかにいつもいるよ」というようなことを言う。

とても月並みな表現のようだが、兄を失った弟を実際の双子が「二人一役」で演じている

という事実は、形而下の表現である映画の限界が形而上学の可能性をも凌駕する如く、

尋常ではない説得力をもつ。

 

誰かを思い出すとき、それは大抵、その誰かが言ったりしたりした事実にもとづく。

しかし、失った誰かを思い出すとき、それは決して事実に縛られることなく、

その人であれば「言ったであろう」「したであろう」可能性に想いを巡らすことだろう。

自分のなかでその存在が大きかった者であればあるほど、死者になったとき、

生前以上に頻繁に「出会う」ようになる。その「声」は響き続ける。

 

ジョージは眠りにつく前、

ディケンズの朗読を聴く。

死者を「声」で聴く。

声は見えない。

死者も見えない。

死者の声は聴こえても、

死者は見えない。

しかし、目を瞑ると見える。気がする。

目を瞑るのに見える。

パラドキシカルな真実。

美しきジレンマ。

 

実際会っているときには「こう思っているに違いない」と確信できた相手について、

眼前から消えた後に想いを巡らすと、もっと豊かな可能性が喚起されることがある。

死者にたいして同じようなことが往々にして起こる。

そして、直接答えを聞けないからこそ、想い続ける。

それは、別れと共に始まった出会いなのかもしれない。

 

また、死者は自らが抜けて空っぽになったスペースを埋めるかのごとく、

新しい出会いを授けてくれたりもする。

本作に描かれる数多の出会いは、死者の導きによるものである。

とりわけ主人公の三人の邂逅は細部にわたるまですべて死者の導きである。

それはマーカスの兄やジョージを苦しめ続けた多くの交信者から、ディケンズまで。

そして、そうではない出会いは脆くも葬り去られる。

マリー(セシル・ド・フランス)は恋人ディディエ(ティエリー・ヌーヴィック)と別れ、

ジョージも料理教室で出会ったメラニー(ブライス・ダラス・ハワード)と別れる。

HEREAFTER へと旅立った者たちが、HEREに留まり続ける者たちに、

新たな HERE をもたらしてくれるという希望。

 

AFTER は、漢字で表すならまさしく「後」なわけだが、

日本語の「後」には二重の意味がある。

「以後」も「以前」もあらわすし、次にくるものも残されたものもあらわす。

「後悔」なんて言葉も、過去形な言葉なのに実は未来形だったりする。

結局、人間は生きてる限り、HERE に留まり続ける存在であり、

時間的にも空間的にも永遠に THERE に存在することはできない。

HERE に幽閉された存在。それが生者である人間なのかもしれない。

しかし、そんな人間に別の可能性を想像させてくれる存在として、

HEREAFTER はあるのかもしれない。

 

HERE = 現在

と捉えるならば、それは自分の過去や未来も或る種の HEREATER であるのかもしれず、

つまり「大人」にとっては、子供や老人も HEREAFTER なのかもしれない。

「大人」がつくっている社会こそが現実世界を形成し、支配し管理する。

忘れてしまった世界に生きる子供や、未知の世界に住む老人は、

「わからない」存在であるから、「わかる」世界(社会)に従わせるか、

社会の外に出てもらう。「わからない」は決して受容しない。

しかし、人間が「わかる」ことのできることなんて、一体どれほどあるというのだろうか。

3月11日の14時45分に、今の状況をわかっていた人などいなかった。

「未曾有」だとか「想定外」だとか、「規格外」みたいな使い方で言い訳してるけど、

そもそも「わからない」を大前提から外した人間の傲慢への報復なのかもしれない。

 

今まで言葉のうえでは「世界なんて本当はわからないことだらけ」だと語りつつ、

「わかったふりしてる現代社会」を批判するための言葉を弄し続けて自分が、

いかに何も知ってなどいなかったのだと、はじめて思い知らされた今回の災害。

自然だって人だって、世界は「わからない」から始めなくてはならないのだ。

今の私は世界を知るためのとば口に何とか一瞬でも立てるかもしれない。

しかし、人間は「忘れる」という美しくも醜い能力に長けている。

決して HERE しかない存在に陥らぬために、

HEREAFTER との交信を続けねば。

人間に与えられた思考するための理性や感情は、

「わかる」ためだけに授けられたわけではないだろう。

「わからない」ことを受けとめることができてこそ、活きるのだろう。

 

そのうえでうまれてくる無限の可能性を、

無限のまま享受できる逞しさと頼もしさに希望が灯る。

弱いからこそ強くなれるパラドキシカルな存在が本領を発揮するときだ。

 

 

 

 

 


ファニーとアレクサンデル (1982/イングマール・ベルイマン)

2011-02-27 23:29:16 | 映画 ナ・ハ行

 

 

DVDでは未発売だった完全版(?)が、昨年末にBlu-rayで発売された。

311分。つまり、5時間強。中高生が1日に受ける授業まるごと入るヴォリューム。

・・・そう考えると、中高生は偉い。というか、若いってすげぇ。

でも、6限までフルで覚醒受講してる生徒も激レアか。

 

実売価格壱萬円弱の高額商品である前述のBlu-rayを購入して観たわけではなく、

いまや貴重なロゴなし放映(上映中にチャンネル・ロゴ終始表示をしない)を

敢行してくださっているWOWOWにて真夜中に放映されたものを録画鑑賞。

さすがに5時間超をいつまでもレコーダーに占有させておくわけにもいかず、

かといってBlu-rayに焼くにしても1枚では収まらないので、

どう分けるか判断する為にもまずは観賞せねばならないし・・・

そうしたプレッシャーもあって、早速(でもないか、2/18放映だったし)観てみた。

 

それにしても、最近のWOWOWは月に1つはキラー・コンテンツを仕込んで来る。

先月はオリヴィエ・アサイヤス(最近はアサヤスって表記になってる?)の

最新作「Calros」を一挙放送してくれちゃったりして(一般劇場公開絶対無理そうだから多謝)

今月は5時間強の本作をまるごとHDで放送してくれるし、来月はツインピークスもあるし。

長尺ものは劇場公開では厳しかったりするので、

こういうのを有料チャンネルがカバーしてくれるっていうのは、本当に助かる。

ただ、劇場観賞の方が画面・音響で優れてることは勿論だけど、

緊張感(長ければ長いほど、観る前から「調整」もモード入る)や

暗闇&劇場内の空気にどっぷり長時間といった独特な感覚が伴えないのは、

些か寂しい気もするが、とにかく貴重な機会の提供にはひたすら感謝。

ただ、そのような神経質に無駄なこだわりに固執してしまう私としては、

「傑作初見は劇場で!」というモットーに取り憑かれた結果、

名匠の作品群との対面を果たさぬまま過ごす時間が増大する運命にあった。

最近はそうした幼稚な執心と訣別するよう努め、

まずは「出会う」ことを優先させるようにせねばならないと心に誓う。

ものの・・・そもそも、映画も好きだが、映画館がもっと好きな気もする私としては、

「映画館で出会いたい」という、こびりにこびりついた根本願望とは今後も葛藤するのだろう。

 

 

2010年日本公開作の私的ベストフィルムの1本『クリスマス・ストーリー』は、

本作の影響を多分に受けていると監督であるアルノー・デプレシャンが語っていた。

そんなこともあって、高まりに高まった期待のなかで本作を観始めた。

 

プロローグとエピローグの間を5部構成で進行する形式。

各部のタイトルが表示されるたびに背景に映される「水」のイメージが印象深い。

生も死も、現実も幻想も、日常も神秘も、すべて飲み込む「水」のイメージなのだろうか。

 

プロローグで「幕が上がる」劇場(紙芝居のような枠)に書かれた言葉は、「悩むより楽しめ」。

多様な問題が渦巻く作中人物等が、大団円的ラストへ向けて噛み締める言葉かもしれない。

そういえば、第1部「エクダール家のクリスマス」では四角い食卓に集っていた人々が、

エピローグでは円卓を囲んでいる。色彩も濃すぎる赤から白を基調へと変化。

 

エクダール家が劇場経営をしていたり、女優や俳優を多く排出しているということもあろうが、

本作では何度も劇中劇が登場するし、現実と幻想の関係や、生者と死者、聖者と死神など

さまざまな入れ子構造的というか現実と虚構の行き来が繰り返され、どこか神秘的。

 

デプレシャンの語った通り、第1部は『クリスマス・ストーリー』の雰囲気と実に似通っている。

デプレシャンの本作に対する敬愛度合いを思い知った。で、これがまた実に素晴らしい。

ここではとにかく、登場人物たちと彼らの関係や背景が「整理」されることなく提示される。

台詞なども好い塩梅に「説明しない」感じであるが故に、観るものはひたすら静かに見守る。

緻密に計算されているであろう美術や演技や構成でありながらも、

どこまでも「観察」めいたつくりの第1部。

日常の現実を、演出がない(かのような)状態で見せ続けることで、

第2部以降の「展開」が、「劇的」な効果として炸裂する。

 

劇中劇も多ければ、「おはなし」を語って聴かせるシーンも多い。

『クリスマス・ストーリー』の原題にある「CONTE」(英題では「TALE」)の含意を

改めて思考してみたくなる。

 

他にも、ファニーとアレクサンデルの母が再婚する主教が、

「人は何故ウソをつくのか?」とアレクサンデルに問いただすシーンがある。

アレクサンデルは「真実を避けたいから」と答えるが、納得しない主教に対して

「その方が得だから」と続けると主教は納得する。

主教の説法こそ、まさにそうした「ウソ」ではあるまいか。

宗教の教義や戒律などに疑問を呈する、実は「自問自答」。

そうした問答について、後に主教は「私たちは話し合っただろう」とアレクサンデルに語るが、

アレクサンデルは「話し合いじゃない。一方的に言われただけ」だと返答する。

そこで主教は自らの「強さ」を強調し、

「私は常に正義と真実の側にいるから強いのだ」と説教を始める。

そして、アレクサンデルに「幻想と現実の区別がわからんのだ」と叱責し、鞭を打ち始める。

そんな「強さ」がいかに脆いかは、本人が一番知っているだろうに。

 

エンドロール(真っ赤なバック)に入る直前には、

主教の亡霊に「逃げられんぞ」と告げられたアレクサンデルが祖母のもとに駆け寄り、

膝枕で安堵を貪るなか、祖母は本を読み聞かせ始める。

 

 「どんなこともあり得る 何でも起こり得る

  時間にも空間にも縛られず

  想像の力は 色褪せた現実から

  美しい模様の布を紡ぎ出すのだ・・・」

 

先祖に牧師が多く、実父も牧師であったベルイマン。

自身は宗教や信仰に対して懐疑的な側面が強かったようだ。

「神の沈黙」三部作と呼ばれる作品群も発表していて

(これは、観なきゃいけんだろう・・・遠藤周作は観たかなぁ。観たよなぁ)

本作でも憎憎しい主教の描き方には、それがよく表れているのではないだろうか。

(にしても、この主教、ピーター・バラカンそっくり)

しかし、単なる宗教に対する反発ではなく、虚構のもつ創造的側面を削ぎ落とすかのような

「おはなし」の濫用に対する警鐘を鳴らすための人物造詣であるようにも思われる。

教会が人々を回収するためにバラ撒いている「おはなし」のもつ脅迫性よりも、

劇場から人々の日常へと滑り込む「おはなし」の創造性にベルイマンは可能性を見出し、

そこにこそ芸術の魂を込めたかった人なのではないだろうか、などと俺ごときが思ってみた。

 

『ハムレット』の稽古中に倒れ、死の迫った床でアレクサンデルの父は言う。

 「今ならあの亡霊の役をうまく演れるな」

どんなに経験豊富な役者でも、亡霊の経験をもった役者はいない。

それでも演じなければいけないのが役者であるが、

必ず死を経験しなければならない人間が絶対一度しか経験できず

経験した瞬間に経験ではなくなってしまう死にまとわりつかれながらも

「忘れたふり」して生き続けなければならない人間は、誰しも役者になる宿命を負っている。

 

更に、死が分かつ別れを受け容れ難いアレクサンデルに父は言う。

 「今までよりずっと近くにいるよ」

そう、だからこそ、「忘れたふり」も苦痛だけを伴う宿命ではないのだろう。

知覚できなかったり体験できないことをも、自分のものにできる可能性。

外部にあるものを見たり聞いたり触れたり嗅いだり触ったり。

それよりもずっとずっと身近に身内に感じられるために授けられた力、

それが記憶する力であり、想像する力。

 

アレクサンデルの母は、再婚した主教に向かって、

「これまでは舞台でいろいろな仮面をつけてきたけれど、

私は本当の顔がわからない」と語る。

リルケは、『マルテの手記』のなかで

「一人の人間は必ずいくつかの顔を持っている」と書き、

「顔を大切にする」ことの必要性を主人公マルテは感じ始めていた。

アレクサンデルの母は、エクダール家での自分や女優としての自分に対して

「自分ではない」という不安を抱えていたのかもしれない。

だからこそ、俳優であり夫である男の死を契機に

そんな自分から離れて、自分探しをしたかったのかもしれない。

そして、そんな旅における頼もしい羅針盤として選んでしまったのが主教だったのだろう。

しかし、自然な顔ほどつけているのを感じさせない。忘れさせてしまう。

それが剥がれたとき初めて、その心許なさが「大切にすべき顔」の存在に気づかせる。

無意識についている顔でふてくされたり、くたびれたりしていた面々が交錯していた冒頭と

「顔」の所有権を享受し謳歌しているかのような面々を丁寧に収めていくラストのコントラスト。

 

想像力と主体性。

 

神をもたぬ現代人が、自分の中の神と対話しながら生き抜くために必要なdrama。

権威から植えつけられる恐怖に「悩む」のではなく、

自らの想像力で主体的に「楽しむ」。

それこそが人生、人の生。