スワン・レイク・イヤー。
『神々と男たち』と『ブラック・スワン』。
タイプは全く異なりながら、チャイコフスキーの「白鳥の湖」が鳴り響く傑作たちが
同じ年に生まれた偶然。
奇跡的なカタルシス。
2010年代に入った昨年、
映画のこれまでとこれからが出会った新たな名作が誕生。
映画の生みの親であるフランスからと、育ての親であるアメリカから。
『ブラック・スワン』を観ながら、いくつかのキーワード(概念)が頭を駆け巡ったが、
その一つとして、「肉体」と「精神」という二面性が挙げられる。
身体芸術である舞踏を演じる心の葛藤のみならず、
「見られる」身体の客体性と、それを認識する精神の主体性。
しかし、それは身体の客体性にひきずられ、本来の主体とは乖離してゆく運命を孕む。
そして、自らの身体をも客体化し統御しようとすればするほど、
身体との乖離に煩悶する精神。
自己の一部でありながら、他者性をつきつける身体。
外部の他者との接点であり、自己との架け橋である身体。
人間の複雑な「意識」を複雑なまま提示し、完全な解決ではなく、
完全な「解消」として、完全なる不完全を描きあげた新たなリアリズム。
『神々と男たち』で流れるチャイコフスキーは、
「理由」など全く要らないほど超絶破壊力をもって心臓を鷲掴みしたのだが、
「白鳥の湖」という物語を改めて確認し、『ブラック・スワン』を通して読み直してみると、
神のメッセンジャーとしてではなく人間としての苦悩をつきつけられた男たちは、
自らの内なる「オデット」と「オディール」と向き合い、超克すべく葛藤し、
そうした物語に重なり合ったチャイコフスキーだったのかもしれない。
〈身〉に迫る危険からわき上がる恐怖。それに打克つための〈心〉。
「精神」というだけあって、どんなに世界を人間の理性が解明しようとも、
いまだに神の支配下にある「こころ」。もはや共通の神をもてなくなった現代において、
精神はより一層つかみ処もつかみ様もなく、多様となり複雑になり、そして分裂を始める。
しかし、説明したり再現したり操作したりはできずとも、身体も精神もあらゆる反目を凌駕し、
〈PERFECT〉が訪れたりするのも、人間の現実であり、極めて不合理な美である。
『神々と男たち』の冒頭で引用される聖書の一節
「(神に仕える者でも)人間として死ぬであろう」という言葉は決して悲観のものではなく、
むしろ人間の尊厳こそを讃えたものとして引かれたのかもしれない。
『ブラック・スワン』の主人公ニナにしても、葛藤を乗り越えたなどというのではなく、
葛藤を受け容れた、いや葛藤に陶酔し、一方から一方を抑えようとするのではなく、
双方が互いにせめぎ合う葛藤それ自体に自らががっしりと重なり合ったのかもしれない。
そういえば、同性愛者だったとされるチャイコフスキーも、身体と精神の葛藤に苛まれ、
自己〈内部〉と社会〈外部〉の葛藤の末に、過去と未来を征服しうる美を産み出した。
(そういえば、グザヴィエ・ボーヴォワには、理性と感情、身体と精神の相反を
止揚することなく華麗に凌駕する美しい結末をもつ『マチューの受難』という佳作もあった。)
『神々と男たち』の「白鳥の湖」に打ちのめされ過ぎた為、
(しかも、昨年の東京国際映画祭と震災直後の閑散シネスイッチで二度も)
正直、『ブラック・スワン』を観るのがこわかった(笑)
しかし、しかし、しかし。クリント・マンセル(音楽)がしっかりカスタマイズしてくれたこともあり、
また、全身どっぷりスワンレイクなつくりもあって、まったくの杞憂で終ったのみならず、
見事なまでに別世界の時間の流れにのみこまれた「体験」だった。
余りにもさまざまな想いが巡る故、まだ巧くまとめられそうにない。
以下に、散漫ながら思いつくままに感想を認めておく。
◆本作は『レスラー』の姉妹篇のように語られることが多いようだ。
(監督本人もそう語ってるようだし。)
〈醜〉をまとった世界の〈美〉学を描き切った『レスラー』と、
〈美〉につつまれた世界を流れる〈醜〉が食い尽くす『ブラック・スワン』。
爽快すぎるまでの対照性は、共通性と常に表裏一体であり、確かに姉妹篇かも。
しかし、全作劇場観賞してきたアロノフ好きー(笑)としては、原点回帰的感動も覚えた。
『ファウンテン』で自分の趣味に走り、『レスラー』で皆の期待に応え、
『ブラック・スワン』では遂に、やんちゃしながら成熟しちゃった感じ。
余り大きい声では言えないが、何気に『ファウンテン』も好きだったりした俺としては
(『レクイエム・フォー・ドリーム』の次に好きだった・・・)、実は『レスラー』は好かったけど、
どこか淋しかったりもした。いつも一緒にバカやってた仲間がついに身を固めた的に(笑)
でも、ダーレンはそんなプチサクセスどころじゃなく、
突き抜けたバカできる稀代の芸術家になっちまった。
そこまで遠くに行けば、むしろめっちゃ近くに感じる。
意味不明だが、舞台のニナと客席の母親みたいな感じ。
余計わけわからんか。
◆ドキュメンタリー的でもある手持ちカメラによる撮影だが、
ただ「リアル」さを演出するのに一役買ってるどまりじゃなく、
カメラ「ワーク」はかなりドラマチックで、ハンドメイドなトニスコみたいな場面もしばしば。
それがまた、ミニマムな躍動=爆発する内省として見事に作用。
◆音楽のクリント・マンセルは、今後絶対神憑る!
本作における白鳥はチャイコフスキーで、黒鳥はクリント・マンセル。
白鳥だけでは当然「ブラック・スワン」の世界などうまれることはなく、
クリント・マンセルの構築する音楽による空気の演出こそ、本作肝の一つ。
『月に囚われた男』の見事な世界観の最大功労者として認識していたクリント。
俺のなかでは、何となく「第二のカーター・バーウェル」的位置づけ。
◆音楽だけではなく、見事な「幻音」の重なり具合、入り具合。
映画が耳目をフルにひきつけられる芸術であることを自覚した、一級の仕事。
当然、カラフルなモノクロとでも言いたくなる絶妙な色彩設計も恐ろしい。
白と黒を中心に据えながら、時折鮮烈に闖入してくる赤。
ストイックな色づかいでありながら、「鮮やか」として認識してしまう撮影と美術の技術。
◆「鏡」の存在感はくどいほどだが、〈虚像〉をうつす存在としての鏡はいつしか、
実体よりもリアリティを獲得していったしまうようですらある。
実体を「写している」(現実に従属している)複写として関係性ごと提示される画から、
次第に鏡の像こそがその存在感を増し、鏡の像→実像の順でカメラがとらえるようになる。
そんな倒錯は、作品世界の気味悪さに当然貢献しているのだが、倒錯といえば・・・
ダーレン・アロノフスキー作品を、しかも下手すら「トンデモ映画」な本作を、
シネコンの最大劇場で、しかも素直そうなカップルや小洒落たお姉さんたちと共に
観賞する事実ほど、倒錯してるような感覚をおぼえることもない(笑)
◆携帯の着信時に表示される「MOM」の文字の大きさよ。威圧感ハンパない。
笑えるほどストレートな抑圧演出!?
ニナが初めて羽目を外す男どもが「トムとジェリー」って・・・(笑)
ユーモアを忘れぬことは、ホラーにとって何気に生命線かも。
◆この映画では、「PERFECT」という語が重要な役割を果たしているが、
私のなかでは「PERFECT」という語と同時に「PARADOX」という語が頭を過ぎり続けた。
トマ(芸術監督)の求める〈パーフェクト〉とは、「白鳥かつ黒鳥であること」であり、
それは即ち〈パラドックス〉を内包し続けることを意味するのではないだろうか。
つまり、弁証法的パーフェクトとは異なる〈パーフェクト〉の希求。
それは、科学技術や社会科学が永遠に辿り着けぬ本物の〈パーフェクト〉かもしれない。
それらが解明はできても解決はできない〈パラドックス〉。
何らアウフヘーベン〈止揚〉(捨てる・否定する)することなく受け止めてこそ、
実は初めて〈パーフェクト〉。
「perfect」とは、「per 完全に + facere 為す(作る)」からなるラテン語に由来するらしい。
つまり、「完全に作られた」状態であり、人乍らの産物。それが完全のはずはない。
いや、自己に満たされた内面から臨む世界には、自己との齟齬は生じない。
主観によって世界を満たせば、もはや世界は完璧なのだ。玉が傷つくことはない。
「perfect」の語源に含まれていた「facere」に由来するのが「fact」であるらしいが、
そう、fact〈事実〉とは、誰かが為したこと。為した者にしかわからぬのがfact〈事実〉。
それでこそ世界がわかると「言える」のかもしれない。世界など解るわけないのだから、
解ると「言える」、解ると「思える」ことだけが、factであり、perfectのとば口なのだ。
それは、〈客観〉による世界の把握といった脅威に侵され続けてきた近代においては、
むしろリアリティを欠いた世界の観方であるかもしれぬが、
自己の外部には誰の意識も存在せず、
内部に幽閉された主観の集合として世界の〈像〉が浮かび上がる。
これほどまでに巨大な機構を数多うみだした近代社会においてさえ、
厖大な人々をつなぎとめるのは、
自己の外部につくられた客観的なる虚構(制度など)ではなく、
自己の内部にうまれくる主観的な〈感情の結びつき〉のようなものであったりする。
そして、永遠に融合することのない別個体であるにもかかわらず、
各々に幽閉されたままの魂であるにもかかわらず、
ある種の感情や感動を共有できたかのような「錯覚」を得たとき、ほんの一瞬、
〈死〉や〈孤独〉といった精神的身体的限界を超越したperfectに出会えるのかもしれない。