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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

ラウル・ルイス特集上映 フィクションの実験室(3)

2012-09-23 22:56:39 | 2012 特集上映

 

ラウル・ルイスが亡くなってから1年が経過した今年9月。

夏の入り口でラウルの寵児メルヴィルが届けてくれた「見られざる虚匠」の足跡を継承。

夏の出口に向けてアンスティチュ・フランセ東京で開かれた「見られるべき巨匠」の確認。

 

3週に渡って通った飯田橋で溺れに溺れる夢幻時間。

それも今日で最後かと思うと、ただただ寂しい。

勿論、底無しの敬愛が親愛として膨らむような「新しい」巨匠像がたまらなく、

掴もうとすると指間を抜ける感覚が面白くて仕方なく、

掴めないために掴むという運動に中毒状態。

 

最終日にも興味深い3本のラインナップを堪能。

ただ、たっぷり睡眠で臨んだにも関わらず、

前日の疲労のせいもあり、不覚にもラウル作品初の寝落ちを・・・。

まぁ、これも経験しなければラウル・ルイスを味わいつくしたとは言えないしな!

という無意味な強がりに興じることも、彼の作品群なら可能だな。

 

 

宝島(1986)は、本特集のなかでも極めて貴重な1本であることは定か。

なぜなら、無字幕での上映だから・・・それだけ「かけるべき」作品という証左。

12(13?)歳頃のメルヴィル・プポーが堪能できるのみならず、

ジャン=ピエール・レオまで出てきたりして、それだけで豪奢な渾沌館。

相変わらず可愛らしい「影使い」を味わいながら、自然美のグラデーション目まぐるしく、

空の七変化に眩暈を覚える魅了は続き、観客すらも「おはなし」に没入し始める。

ラウル・ルイスの作品にはどれも言えることだが、とりわけ本作においては、

他の作品では絶対に味わえない「感覚」を喚起するに足りる包容力が凄まじい。

波に浚われて目覚めた浜辺から、観客は物語に導かれ、やがて海へと還される。

ペダンチックな難解さとは次元の異なる、感興フェスティバルが今日も始まった。

 

 

クリムト(2006)は、日本でも公開された作品。だから、日本語字幕入。

だけど、ラウル・ルイスの作品においては、字幕の有無は小さな問題な気もするので、

もはや日本語字幕がついている方が違和感、とは言い過ぎまでも妙に不安だったりも。

言葉への依存と、それによって込み上げる困惑や不可解にのみ込まれそうで。

それだけ、私にとってのラウル・ルイス作品鑑賞は「委ねる」ことが必定なのだ。

もはや鑑賞でも観賞でもなく、干渉など以ての外で、ひたすら感傷に身をまかす。

ところが、本作は全編英語であったり、(おそらく)受注生産的だったりもして、

ラウル・ルイス自身の個性が窮屈そうな迷走を重ねている気もしてしまった。

『見出された時』では原作との相性もあってか、相乗効果的結実をみせていたものの、

本作ではグスタフ・クリムト自身の魅力との心地好い戯れが叶わなかったよう。

97分という上映時間がディレクターズ・カットなのかどうかは判らぬが、

本作も2時間超で語り尽くさぬ贅沢な緩慢を味わえるような可能性があった気もする。

やはり、ラウル・ルイスという作家には、奔放さを許容する絶対的自由が必要だ。

 

 

向かいにある夜(2011)はラウル・ルイスの遺作となった1本。

今年のカンヌで初公開されたらしい本作が、もう観られるなんて幸甚の至り。

そもそも、今年2度に渡って確信をもってラウル・ルイスを紹介してくれた日仏学院

(改めアンスティチュ・フランセ東京)というかPDの坂本安美氏には敬服しきり。

そして、赤坂太輔氏の旗振りによって「大規模な回顧上映」が本当に実現することを、

心の底より願って止まぬ。

というよりまず、この『向かいにある夜』をもう一度、いや何度も観たい!

ミステリーズ 運命のリスボン』を経て、

デジタルという新たな玩具を手にしたルイスは、確実にネクスト・ステージに跳ね上がり、

「デジタルに魅せられる世界」を見事に建立してみせた。

フィルムを知り尽くした表現者だからこそ挑めるデジタルの必然性と偶発美。

フォーマットが違うのだから、明らかに違った美を追求し、

それでやっぱり見たことないもの見せてくれるのだ。

そこにはもう、柔らさと淡さを灯す光はないが、

明滅の危うさと背中合わせの儚い光が刻まれる。

影はもはや光の裏面にあるのではなく、ただただ暗闇を呈するのみ。

しかし、そんな世界の見え方にも、どんな世界の見え方にも、

豊穣さを見るのは人間なのだと諭された気がしてしまう。

 

夜はもう直ぐそこまで来てる。

ならば夜に抱かれよう。夜から眼をそらさずに。

The night in front, night across the street, into the night.

英題はいくつもの貌をもち、最後まで多面の豊かさを湛えたラウルの作品を讃えてる。

 

 

『盲目の梟』を観られなかったのは残念でならないが、

それ以外の作品を全部観られたという事実は明らかに、

ラウル・ルイスという作家の得体の知れぬ吸引力の為せる業。

6月の特集上映で見逃した『夢の中の愛の闘い』や『ファドの調べ』

(どちらも本当に本当に素晴らしい!)を観られた悲願成就の有り難さ。

大規模レトロスペクティヴが困難ならば、毎年特集組んで欲しい。

浸透までは時間が幾分かかりそうな作家性。だからこそ。

 

いよいよ来月に公開が迫った『ミステリーズ 運命のリスボン』。

宣伝のアプローチは或る意味「正しい」と思うが、『わたしたちの宣戦布告』同様に、

届くべき(観てほしい/観ればハマる)対象を引き込む務めが未遂な気も。

何はともあれ、まずはラウル・ルイス認知の一歩目を2012年に確実に刻め!

今回のラウル・ルイス特集上映はラウル・ルイスという恒久麻薬を私に注入!

二度と覚めない夢の旅。永遠の旅の途中。向かいにある夜、後の朝。

 


ラウル・ルイス特集上映 フィクションの実験室(2)

2012-09-16 12:02:49 | 2012 特集上映

 

今回の特集上映の「フィクションの実験室」というタイトル。

一見、特殊な意味をまとっているようにも思えぬそのタイトル。

しかし、ラウル・ルイスの作品を見れば見るほど、得心がゆくばかり。

映画作家として彼は、フィクションであることの目的を徹底的に探求しているし、

フィクションであるための手段をあらゆる試行で実験し尽くそうとしているかのよう。

 

ラウル・ルイスの実験室では、彼が一人、自己探求と自己実現に没頭するのではない。

彼による実験(experiment)によって観客の体験(experience)もがそこにある。

それでこそ、簡潔を頑なに拒むラウルの思惑が一瞬、完結をみる。

 

作家主義的立場からの明瞭な擁護を勝ち取ることも困難にすら思える彼の想像と創造。

しかし、だからこそ、観客にはどこまでも開かれており、誰かだけに向けられてなどいない。

誰かが掴み掌ろうなどすれば、彼の想像力は溌剌と指の間へと流れ落ちるだろう。

だからこそ、ラウル・ルイス・ラボラトリーの被験者は、とにかく身を委ねれば好い。

頭も心も二の次だ。とにかくシートに身体を埋めれば好い。

何処かへ、何処へでも、連れてく準備があるリールたち。

手の鳴る方へ心を任せ、巻き込まれるだけで好い。

 

 

その日(2003/ラウル・ルイス) Ce jour-là

日本初上映となる本作。勿論(?)日本語字幕はないが、英語字幕はある。

しかし、以前にも実感したように、ラウル・ルイスの作品においては、

言語という「些細」な手がかりに依存していては、十分味わえない。

いや、もしかしたら言語こそ十全な享受の妨げになるのかもしれない。

当然、映画内で言葉が発せられる以上、その断片一つ一つに含意はあるはずだし、

そこには「予め込められたもの」と「各々に受け取るもの」という拮抗の膨張もある。

しかし、ラウル・ルイスの実験においては、言語を駆使した一貫性に依存するよりも、

眼前の一瞬一瞬を一つ一つの試練として、交流として、思い思いに抱かれれば好い。

などというのは、英語字幕に追いつかない己の言い訳に過ぎぬ気もするが

(それ以外の何物でもないのも事実だが)、

とにかく「見てるだけ」で驚くほど溢れ出る映像言語の奔放さを前にしては、

眼や脳は必至で字幕を追うことを止め、眼の前を流れる映像に「乗る」しかない。

そうすれば、「解る/解らない」などという世界の二分化から解放される。

だからこそ、矮小化から免れた世界の両面、世界の相反を直接感応できる。

 

言い訳がましい前口上が過ぎてしまったが、

本作は底抜けに面白い!不可笑はずなのに可笑しくて仕方がない!

ブラックなユーモアではなく、ユーモアあふるるブラック!

ユーモアをブラックでコーティングしたのではなく、ブラックがユーモアに包まれて、

それゆえに観賞中にはひたすら笑えるのに、観賞後に迫りくる深奥の闇。

夢に出てくるとすれば、ユーモアの部分ではなく、それによって匿われてる魅惑の毒だ。

 

『その日(英題:THAT DAY)』というタイトルや、

キー・ヴィジュアルなどからは到底思いもよらない、

突き抜けまくった摩訶不思議な一本。

映画芸術読者と映画秘宝読者、どちらもが必見と思える一本。

(というのは、余りにも低俗で乱暴な惹句かもしれませんが)

先週観た『無邪気さの喜劇』にしても本作にしても、一筋縄でいかないどころか、

幾筋の縄があっても編み上がらないほどの、無垢すぎるほどの作為。

「実験室」を冠した特集のラインナップに不可欠かつ恰好の一本。

こんなにも奇天烈で在り得ないほどの在り難さを感じる一本も珍しい。

日仏で(アンスティチュか)隣の客と笑いで感じる奇妙な連帯こそが奇妙。

場内がどっと笑ったりしないのも「らしい」気がするが、

あちこちで去来している「引きずる笑い」や「思い出し笑い」は充満し、

そのバラバラな一体感は終始こだまする。

 

『無邪気さの喜劇』も「家」が重要な登場人物であるかのように語られるが、

本作も見事なまでの存在感を放つ「家」。というより、ラウルは《空間》の魔術師。

それも、今までの経験を超えるアングルや距離や浮遊を味わわせるため、ニヤニヤ。

卑小な私見に過ぎぬかもしれぬが、彼がフレームのなかに構築する「世界」には、

人間が無意識に図っている序列化や優先順位を転倒させる試みが充ちている気がする。

明らかに「人間中心」的ではなく、人間も時に極めて物質的であるかと思えば、

物(例えば家、もしくは調度品の一つ一つ)が異様な生命力を放っていたりもする。

 

本作を観ながらようやく認識したラウルのお好み構図

(手前の「巨大」な物と、地(背景)かのように「遠く」にある人間たち)は、

自分の手ばかりみつめ、その「自分の手」越しに世界を眺める幼少期の眼差しを思わせる。

そうした無邪気の企みには、世界を白紙から描こうとする無垢と強固な主観が宿ってる。

だからこそ、そうして切り取られ繋がれた世界を前に、その主観に私たちは装填される。

 

前述の「解る/解らない」の二分化同様、「正常/異常」というナンセンス。

本作は、それこそが至極メイク・センス。

その二分化を曖昧にするのではなく、むしろ確実なボーダーを前面化することで、

それが余りにも近すぎていつの間にか見えなくなってしまうような遠近法瓦解の序曲。

「異常」が排斥される論理は、「異常」が「正常」に立ち向かう論理を正当化する。

異を唱えることは、正を認めてしまうことでもある。

だから、「同じ」ようにするだけさ。ただ、やり方は違うけど。

でも、どちらが残酷か。どちらが笑えない?

ラウル・ルイスの被験者(観客)は、常に宿題を渡される。

 

 

 

見出された時~「失われた時を求めて」より~(1999/ラウル・ルイス)

Le temps retrouvé, d'après l'oeuvre de Marcel Proust

 

プルーストの『失われた時を求めて』の世界を求めて・・・いや、借りて、

ラウル・ルイスは自らの世界を止揚しようとしたのだろうか。

プルーストをまともに読んだことのない教養不足の私に判断する資格はないが、

これは紛れもないラウル・ルイスの語りに満ちている。そして、それに充たされる。

 

作家として(作品群をまとめて)カテゴライズするのは困難なラウル・ルイスだが、

彼の作風をいくつかに(実際は、「いくつも」だけど)カテゴライズすることはできるかも。

とはいえ、そのどれもが越境しようと常にウズウズしてるのを軽く宥めながらになるけれど。

本作はまさに、来月公開となる『ミステリーズ 運命のリスボン』に通ずる(へ通じる)、

ポスト・クロニクル・ヒストリー。時空の飛躍が描き出す、謎という究極の美。

大河もロマンも時間に抱かれて、漂う空間のゆらぎに目を閉じる。

 

光と影、鏡と絵画。

ラウル・ルイスの作品にいつも現れる世界の実像と虚像の饗宴。

それらは在と不在の対立を超えて、魂の連綿に魅せられる。

少年と壮年は共存する。語り合う。時計の刻む時を超えて。

眼差しは浮遊する。しかしまた、対象も廻り出す。

世界を(x,y,z)だけで語り尽くさぬことに耽溺すれば、

時空もたまには味方する。不可解から付加解へ。

 

フィルムならではの光に溢れ続ける158分。

いま、まさに、眼のまえに射し込んでいるかのような陽光と、

いま、まさに、眼のまえで揺らめいているかのような灯火。

世界を媒介するフィルムの最も美しい「やり方」がそこにはある。

しかし、と同時に想起してしまうのは、『ミステリーズ 運命のリスボン』で見せられた、

世界を媒介するデジタルの美しい「やり方」だ。

そして、両者が描く「世界」の違いは、優劣などとは無関係に各々魅惑する。

最後の最後まで実験をやめなかったラウル・ルイスの先鋭に、改めて感服するしかない。

 

 

今回の特集もいよいよ残り僅かとなってきた。

遺作となった『向かいにある夜 La Nuit d'en face』も上映される。

本特集のチラシには赤坂太輔氏が「彼の大規模な回顧上映をいつか日本で実現」

させたいという思いが綴られている。まさに、それが叶えば最高だ。

そして、願わくば、「ラウル・ルイスの館」なるものが造設され、

望めばいつでも夢幻の世界を彷徨える、そんなオアシスが都会に出現して欲しい。

という夢想に耽っても、ラウル語りには許されそう。

 


ラウル・ルイス特集上映 フィクションの実験室(1)

2012-09-09 23:58:25 | 2012 特集上映

 

今年のフランス映画祭にはメルヴィル・プポーが来日し、

彼の特集がユーロスペースと東京日仏学院で大々的に催されたが、

その際にも一部で熱狂的な支持を集めたラウル・ルイス監督作品。

ほとんどの作品を観ることが叶わなかった私にとって、

本特集は全作品見逃し厳禁な今月の最重要プログラム。

 

フランス映画祭で観た『ミステリーズ 運命のリスボン』も今秋公開されるラウル・ルイス。

その『ミステリーズ~』は観ている間中、魅了されっぱなしながら、

結局何処に連れて行かれるのか、連れて行かれたのだか、

わからないままの彷徨が何だか妙に心地好い。

新感覚派的な論理的超現実主義。

 

 

無邪気さの喜劇(2000/ラウル・ルイス) Comédie de l'innocence

 

イザベル・ユペール、ジャンヌ・バリバール、シャルル・ベルリングといった豪華な顔ぶれ。

それにも関わらず、劇場公開はおろかフランス映画祭でも紹介されてないなんて。

「ラウル・ルイス」の作風が明らかに特殊というレッテルを貼られてきたかの証明!?

しかし本作は、彼の作品にしては物語の骨格が随分としっかりしている気もする。

 

  (物語)

  9歳の少年カミーユは、両親とブルジョワ風アパルトマンで快適な暮らしをしている。

  小さなヴィデオ・カメラで自分が気に入ったものを撮影している。

  誕生日のお祝いの席で、カミーユは「ねぇ、僕が産まれたとき、ママはそこにいたの?」

  と質問し、両親や叔父を笑わせる。

  その質問は取るに足らない質問として笑いとともに忘れられるが、

  カミーユが母親に「ママ」とは呼ばず、

  彼女のファーストネームである「アリアンヌ」で呼びたいと言い出したとき、

  大人たちは笑っているだけではすまなくなる。

  しばらくして、カミーユは「自分の本当の母親」を紹介すると言い出す。

  その「本当の母親」はパリに住んでいて、住所も知っているので、

  アリアンヌを連れて行きたいと言うのだ。

  アリアンヌは息子に連れられ、見知らぬ女性のアパルトマンに行く。

  壁には幼い少年の写真が飾られている。

  どうやら、その写真は、このアパルトマンの持ち主の女性の息子、

  数年前に亡くなった息子の写真のようだ・・・。

   ※アンスティチュ・フランセ東京Webサイトより

 

ソロモンの審判(旧約聖書)をモチーフに(主人公の家にも絵が掛かっている)、

ラウル・ルイス仕込みの幻想と緊迫がいつまでも未完な不穏で突き進むエチュード。

イザベル・ユペールとジャンヌ・バリバールが独走を競う2つのコンチェルト。

それを指揮する絶対天使、息子のカミーユ。いや、ポール?

 

サスペンスの緊迫と豊潤を終始漂わせている本作は、

まるでクロード・シャブロルのような空気まで醸すことに成功している。

(イザベル・ユペール主演『Comedy of Power』という題名が頭を過ぎったからか?)

しかし、あらゆるエッヂは削ぎ落とされて、あらゆる間(あわい)が横溢し続ける。

不敵な貌はどこまでも、素敵に堕することはなく、いつでも無敵に始まる宴。

罪なき喜劇がうむ悲劇。悲劇の覚悟は、遊撃で。間隙隆起の静かな活劇。

 

貝殻が大写しになって始まる本作。

それは真実を隠す「蔽い」を意味するのか?

それとも真実を庇護する「母体」を意味するのか?

灰皿を求めている声がそこに重なるが、それは灰になった我が子の受け皿か?

 

何度か登場するカミーユが食事の際に皿を舐め回す姿。

その度に注意されるのに、彼はそれが止められない。

更についた赤いソースが血にも見え、一瞬ゾクリとさせたりもする。

もう一つ彼が止められないのが、カメラを手にしての世界との対峙。

大人たちが「当然」と処してしまう現実を、彼は自らの手と眼で再構築。

自明とは、「自」にとって本当に「明」らかか。

「他」が「明」らめたから、「自」は諦める。

ただそれだけのことかもしれない。

それを終わらせぬ、無邪気。

 

今日観た二作に共通して印象的な存在感を放つ《影》。

本作でも何度か、存在を表すために用いられる「影」があるが、

それは同時に不在の象徴かのようででもある。「光」の裏側として。

二人の母というオルタナティヴなモチーフの光明な陰影。

 

ベビーシッターのヘレンが3つの骰子をふる場面がある。

必ず「3」と「3」と「1」の目が出る。

どんな意味が隠されているのだろう。

「3」は二人の母と一人の父か?

 

一つの首に二つの頭部が載っている彫像が印象深く映される。

しばらくすると、一つの息子を二人の母が抱きしめる。

「生」きている息子を持つアリアンヌ(イザベル・ユペール)と

「死」んだ息子を持つイザベラ(ジャンンウ・バリバール)。

彼女たちは二人ではあるけれど、あり得る二つの可能性。

選択された結果として現実は一つだが、真実は常に一つではない。

「生」のみならず「死」をも引き受けようとしたイノセンス。

出産とは、生成の後に母の体内から消滅することだ。

 

◇最近では『夏時間の庭』でも僅かな出演ながら見事な存在感だったエディット・スコブ。

   本作でも僅かな時間で微かな余韻を作品に残し続けてくれている。

 

 

ファドの調べ(1993/ラウル・ルイス) Fado majeur et mineur

 

映画世界への耽溺が帰り道にまで優雅な浸食をみせることがある。

本作はまさに、そうした夢心地が現実の外界に乗り移ってしまうかのような魔力の世界。

だから或る意味「魔界」だが、それは天国でないかわり、地獄でもない別天地。

 

冒頭、橋の上の青年と少女。

こちらへ歩いてくる二人を追うカメラ。

フレームの外へ消える二人。

その道筋を引き返すカメラ。

そしてパノラマな眼差しに移行するカメラ。

淡いブルーが幾重にも編まれた不規則ストライプの地平と水平。

光と水とフィルムを知り尽くしたものだけが呈することのできる自然のデッサン。

このフィルムがフランスから届けられたことに感謝をしつつ、

このまま此処に留まっていて欲しい、そのフィルム。

 

説明不要、いや説明不可能。

夢幻と昏絶による迷宮は、心のままなマジカル・ロジカル・イロジカル。

マージナルならおまかせの、複眼主義的世界はシャッフル。

全身が溶解しては堕ちてゆくかのような禁断は美々しくも、

そのすべてが受容のもとに開かれている自由の闊達。

 

ファド(ポルトガルの民族歌謡)は、

「運命」や「宿命」を意味する語らしいのだが、

本作はまさに謡うように運命を謳う。朗らかに。

水辺から来たる運命は、水辺へ還ってゆく運命。

ラウル・ルイスに溺れる覚悟、出来ました。

 

◇本作のプロデューサーはパウロ・ブランコ。

   その名を観ただけで「安心」と「期待」と「興奮」が三つ巴。

   来週は6月の特集で見逃して涙ガブ?みの『夢の中の愛の闘い』がいよいよ観られる。

   楽しみすぎて今週寝不足になりそう・・・というのは大袈裟にも程があるが、

   そんな心配催すほど、『ファドの調べ』に魅了され過ぎた。

   まだ、心は日仏で映画を観てるかのよう。

 

 

今日観た2作はいずれも英語字幕入りのプリントだった。

勿論、完全に把握しきれていない自信はあるけど(笑)、

ラウル・ルイスの作品に関して言えば、英語字幕で観るくらいが丁度好いのかも。

だって、日本語字幕で観ても「完全に把握しきれない」のは同じな訳だし、

言語(表層)レベルで理解したとしても、深層の不可解さばかりが浮上してしまうかも。

それなら、英語字幕でエッセンシャル・キャッチングして微かな理解と戯れて、

不可解な行間に気持ちよく溺れてみるのも好いんじゃない?

『ファドの調べ』なんて途中から、何語で観てるんだか判然としなくなってきたしね。

目から英語、耳から仏語、脳は日本語・・・のはずなのに、

おそらく「僕だけのエスペラント」で捉えてた。

 

ラウル・ルイスの実験室で、エクスペリメントをエクスペリエンス。

すべての試みは、心見に通ず。頭で見ないで、心で見よう。

言葉を無化して始めよう。語ってくれる、映像が。

 


THE DEPTHS(2010/濱口竜介)

2012-08-07 17:09:36 | 2012 特集上映

 

今回のレトロスペクティヴで複数回の上映があるのは、

本作と『PASSION』のみ。(オールナイトの『親密さ』除く)

IMDbの濱口竜介データにも、この2作は載っている。

確かに、他の作品に比べると突出してポピュラリティがあるというか、

「(所謂一般的なというか従来の)映画」っぽい。

おまけに、本作はデジタル撮影ながら画面はシネスコ。

照明も常に仄暗く、風景は無国籍。いや、むしろ終末感すら漂う。

(そのあたりは、次回上映で濱口監督が対談する師・黒沢清を想起。)

東京藝術大学と韓国国立映画アカデミーの共同製作によって生まれた作品。

プロの役者を起用し、脚本が共同で書かれているといったこともあり、

より「監督・濱口竜介」の作家性を観察するには適した作品かと。

 

主人公(キム・ミンジュン)は写真学校の友人の結婚式で日本を訪れる。

その友人は日本人女性と結婚。彼女と日本でスタジオの経営を始めていた。

しかし式当日、新婦は恋人と突然姿を消す。それを目撃する主人公。

新婦と姿を消した恋人とは、女性。主人公はその事実を友人には告げない。

新婦の逃避と交差するように主人公の前に出現した青年(石田法嗣)がいた。

彼に何故かひきつけられた主人公はシャッターを切る。現像を凝視する。

その青年は男娼をしていた。そして、その時、彼は「事件」の始まりにいた。

 

それが大体冒頭の10分程度で起こる訳だが、

その後、自己という怪物を飼い慣らせなくなった男たちの不可思議な欲望が交錯する。

セクシャルな話題や展開も内包しながら、それは決して性愛の物語として帰結しない。

あくまで「愛と欲望」についての物語。(『親密さ』でも議論されていた内容を想起)

愛と欲望が一体であったり、乖離したりするという現実。

いや、幻想?

その間(あわい)を彷徨し続ける男たち。

茫漠ながら突如沸き起こる欲情。

抑えきれぬ苦しみよりも解放する衝動に委ねる身。

そんな乱舞のなか、屹立し静観する主人公。

ファインダーを通して世界と向き合うことで、

理性を保とうとしているかのようにさえ見える彼。

「俺はモノじゃない!」と叫び、視線を拒む青年。

対物的な主人公の視線はやがて、フィルムやレンズを飛び越える。

防御のための仮面を頑なに外すことのなかった主人公と青年。

巨大な装置からコンパクトなデジカメに持ち替えた主人公が望む、

青年の笑み。その青年から請われる、主人公の笑み。

たった一度の笑顔の不穏。その弛緩が魅せるものは何なのか。

それに抗いきれるだろうか。記録は消せても、記憶は消せぬ。

分かれ道で存在の分岐が起こったとき、欲望は霧消し、

永遠の残り香が愛に実体を与え始める。

 

◆私は濱口作品にトランス・シネマといった印象を受ける。

   それは、意識がぶっ飛ぶトランス(trance)ではなく、

   超えたり移動したりするトランス(trans)だ。

   いろいろな乗り物(とりわけ列車は毎回印象的)が登場し、

   登場人物たちは心身共に移ろってゆく。

   まさしく、移動(transfer)は変容(transform)にも溢れてる。

   本作においても絶え間なく移動が繰り返されているが、

   本作のそれは動き以上に「境界線」の存在を意識しながらも、

   ふとした瞬間にそれが無化してしまう無意識の氾濫が作品を貫いている。

 

◆そうしたトランスは冒頭から全開だ。

   結婚式における新郎(韓国人)の羽織袴。

   そして、新婦(日本人)はウェディングドレスを着る。

   既に彼らは「一線」を超えている。新婦は自覚的に、新郎は無自覚に。

   この新郎の内面は比較的「わかりやすく」(=想像しやすく)描かれるが、

   だからといって、「その通り」に想像するばかりが真実とも思えない。

   むしろ、そうした要素が普遍的な何かを包含していそうなところにこそ

   (だからこそ、彼が本作で最も「普通」な立場や性格をしているように在る)、

   観ている者の感覚の土台をグラつかせ続けている。

   「特別」や「特殊」のレッテル貼付で片付けられぬ、闇の奥。

   確かに、彼(パク・ソヒ)は最初から主人公へ特別な感情を抱いているようにも見える。

   友の列席に対する謝意の表現や、スタジオで対面せずにY字になったシルエット。

   『PASSION』でも『親密さ』でも仄めかされた「親愛」の一種。

   それは欲望の変形でもあるからして、時に抽象的であり続けることに耐えられぬ。

   堪えきれずに生まれる抱擁が、消化に向かうか点火を起こすかは紙一重。

   そして、その同義性は異性への愛が不在のとき、どのように落とし処を探るのか。

   最後の越境を踏みとどまらせたものが、異性との関係(という合理性)ではなく、

   愛と欲望の弁証法を凌駕する「解決」だったという過現実的結末の「暴力」。

   おそらく主人公が誰より理性的に見えるのは、誰よりも内なる獣が獰猛だから。

   常に頑丈な檻で幾重にも囲わなければならぬから。

   芸術という隠れ蓑、富と名声という満足、着信音という警鐘。

   しかし、別段それを否定するでも肯定するでもなく、現実として置く。

   そうして置かれた選択が、必然と偶然を重ね合わせて機能する。

   ともすると、ケ・セラ・セラが流れてきても許容できる自然主義。

   愛に「形」を与える現代の、窮屈さを優しく見守る時間。

 

◆結論は決して口にしない濱口作品は、

   不思議と教訓を撒布し続けていたりもする気がする。

   本作で最も不運な二人は、中途半端な欲望の解放と手軽な代替に妥協する。

   対象そのものに直接飛び込んでゆかない。

   しかし、だからといって主人公や青年だってそれほどストレートな訳ではない。

   それは濱口作品における感情の交錯における常套だ。

   キャッチボールは成り立たない。

   相手が投げたボールと自分が受け取るボールは違う。

   そこで、どうするか。

   ボールという具体から離れてしまう。

   そう、濱口監督が描く人間は、常に極めて具体的でありながら、

   その向こうに浮かむのは、どこまでも抽象的な情景なのだ。

   抽象的にしか描こうとしない言葉や行動の羅列に終始する自主映画を、

   私は好きではない。曖昧さの向こうに「具体的な表情」が覗くから。

   そこにあるのは行間などではなく、空白か了解に過ぎない。

   言葉が少なければ詩情があふれるわけではない。

   言葉を弄したからといって詩情がなくなる訳ではない。

 

◆濱口作品における常連モチーフ「鏡」。

   今回はなんとマジックミラーの登場で、虚像と実像のスリリングな関係は、

   より直截的な視線に晒されている。しかし、それは隠匿と打開のゲームでもある。

   また、新鮮なアイテムとして微かに漂う「香り」が興味深い。

   冒頭でいきなり姿を消す新婦の名は、「有香」。

   スタジオには去った妻の香りが、有る。

   亮ちゃんの靴下の臭いをかいだ平野鈴。

   クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲。(意味不明)

 

◇初めて組むスタッフの存在も大きいとは思うが、

   脚本(物語)を共同で構築したという点でも、

   本作は濱口ネクスト・ステージを予感させる。

   と同時に、とりあえず商業映画を撮らせて欲しい(というか撮って欲しい?)

   願望をかきたてられた。その成否(商業的だろうが内容的だろうが)に関わらず、

   そこには必ず「新しいもの」が浮かんでそうなスリルがたまらない。

   本当に、観たい。

 

◇本特集の最終日(8月10日金曜)には、本作が再度上映される。

   今回の上映もかなり入っていたし、

   その最終日には黒沢清とのトークセッションもあるので、

   当日は早めにチケット購入(整理券番号付・10~15分前入場)するのが好いかと。

 


なみのおと(2012/濱口竜介、酒井耕)

2012-08-06 18:51:52 | 2012 特集上映

 

今回の特集(濱口竜介レトロスペクティヴ)は2週間の開催で、

期間中1回のみの上映作品も多かったりするので、ほぼ連日足を運ぶことになる。

そうするともう、ほとんど学校に通っているような気分になるわけで、

しかも毎回レイトショー(21時はじまり)だから、学校は学校でも夜間学校。

おまけに毎日、濱口監督本人が最初に登壇しては、終わるとロビーでお見送り。

濱口教室に通われる生徒さんも馴染みの人から一見さんまで、興味深い。

ゲストを招いての多様なトークショーも用意されていて、

そのゲストによって監督も場内も雰囲気が変わる。

だから、学校は学校でも、毎日未知なるイベントが開催されている学校みたいな。

って、もう既にそれは全然「学校」的じゃないな。

まぁ、でも或る種の学舎的空間として享受できる場所になりつつある、

真夏のオーディトリウム渋谷。というか、キノハウス。

4F(シネマヴェーラ)で過去を学び、

3F(ユーロスペース)で今と対峙し、

2F(オーディトリウム渋谷)で未来を識る。

まだまだ興味深い特集や上映が続く、八月。

 

ただ、そんな好奇心の吹きだまり(って表現はよくないかな)にだって、

時には頭をかかえたり首を傾げたりするような「授業」もある。

今回の濱口作品の特集では連日唸りまくっては恍惚や酩酊で館を出る日々だった。

しかし、『なみのおと』には1ミリも自らが入り込める隙がなく、好きじゃなく、

あぁ結局自分が1ミリも入り込ませまいとしてしまう作品だったのかなぁ、

と帰り道にゆっくり気づく。

 

この作品に関しては、

「東日本大震災についてのドキュメンタリー」という認識と

「震災時の記録映像や被災の光景を用いず、被災者の証言のみで構成」

くらいの情報で臨むのがベストだとは思う。

そして主観とは別に、多くの観客に

「どこまでも単調で淡々とした流れにも関わらず、目を離すことができない緊張感」

が提供される。142分という上映時間は、その数値が意味を為さぬほど刻まれない。

監督も意図したという臨場感(話者と共にその空間に存在する感覚)が

あるからかもしれない。

「現在」が常に続いていく感覚。語られているのは「過去」にも関わらず。

 

しかし、前述の通り、

私は終始本作に絶対に縮まることのない距離(隔たり)を感じた。

そこまで強烈な違和感は、

主観(それも個人的な経験や美的感覚から来る独善的な)から来るに違いない。

それゆえに、観賞中および観賞直後の私は、全力で否定することばかり考えた。

ところが、その論理や倫理を再考すればするほど、

そうした主観を強烈に刺激されたという事実にこそ、

私が本作と向き合うべき論点があるようにも思えてきた。

 

上映後の質疑応答でも観客の口から出ていた印象なので、

おそらくこれは私だけの受け取り方ではないのだろうが、

登場する語り手の話がとにかく充実している。

そこに感銘を受けたり、それに感応する観客も多いと思うが、

私はその「充実ぶり」に抵抗を感じた。

見事な要約であり、無駄がなく整理され過ぎているように思ったのだ。

撮影が昨年の7・8月だったということもあるのかもしれない。

語り手のなかにも、ある程度客観的にとらえられるようになった部分と、

まだまだ生々しくて触れられない部分が混在していることだろう。

それゆえに可能となったアプローチもあっただろうし、

それを記録し組み立て、提示するという仕事には多大な意義を感じもする。

 

しかし、(これはあくまで私にとっての見え方に過ぎないが)

彼らが余りにも自らの経験を相対化し過ぎて語っているように思えてならない。

だからこそ、見事なほど「わかりやすい」表現で「わかりやすい」内容になっている。

登場する話者が悉く標準語(的な言葉)を喋っていたのにも違和感を覚えた。

いや、それは東京で生活する人間が抱く方言神話的な幻想に起因するかもしれない。

しかし、淀みなく標準語で語られる整理された経験談は、あまり自然に思えない。

では、それを自然に思えないという私のなかの不自然は自然なのだろうか。

そう考え始めると、よくわからない。

 

語り手として登場する彼らは紛れもなく「演技」をしている。

それはカメラの前だからだし、

そのカメラの向こうに不特定多数の人間の存在を感じるから当然だろう。

では、そのカメラをどのように向け、どのように語らせたら、

彼らは「演技」をしないのだろうか?

いや、それはおそらく無理だろう。

瓦礫の中で悲嘆に暮れる人間にインタビューをすれば、

そこには自然な感情が記録されるのか?

くつろげる自宅でスイカでも食べながら縁側で語らせれば、

そこには演じることない素顔が現れるのか?

おそらく違うだろう。

カメラが向けられる(そして、向けられた側がそうした他者の眼を意識する)、

ただそれだけで人は演技する。

一人、部屋の中でいる時だって、

自らの振る舞いを「撮影する自己」がいたりもする時代。

(自分の身なりや行動が他者に映った場合どう思われるかを思考する瞬間があるはず)

「生きること」と「演じること」は分かちがたい営みになりつつあるのだろう。

やや脱線するが、『ダークナイト ライジング』において私が最も気になったテーマは、

「仮面」の問題だった。「仮面をつければ誰でもバットマンになれる」というテーゼ。

でも、それは「仮面がなければ誰もバットマンになれない」ということでもある。

これをどう捉えるべきか。

そして、「仮面をつけていないときは、誰なのか」という問題も残る。

その答えは、「ブルース・ウェイン」なのかもしれないが、

その下には「クリスチャン・ベール」があり、「クリスチャン・ベール」の下には・・・

『~ライジング』では、「演じる」という営みを問うというよりも、

仮面によって可能になる抽象的な存在としての人間に焦点が当てられていたように思う。

ただ、今年最も「大きな」作品である『ダークナイト ライジング』と、

極めて「小さな」作品である『なみのおと』が、同じテーマで結びつく興奮。

(ただ扱っている対象は、卑小な人間社会に対して壮大な自然だから、むしろ逆。

  でも、またその対象に対してとったアプローチの正反対が面白い。)

 

話を戻すと、本作に登場する話者は極めてカメラ(=見えない大衆)を意識し、

自らをもカメラを通して捉え、そのうえで表情をつくり、言葉を発している。

ように、私には思えた。そして、その緻密さや構造は、紛れもなく監督がうみだした。

言うなれば、即興すら許されぬ濱口&酒井共同脚本による対話劇。

そんな様相にすら思えてしまう。だから、私には強烈な違和感ばかりがつきまとい、

でもだからこそ途方もない緊張感が、変哲なき時間と空間に宿された。

それは、日常と異常の間(語らいの場は一人を除いて、自宅ではない)にある彼らを

もしかしたら忠実に「再現」しているのかもしれない。

私たちが目の当たりにするのは、

彼ら自身の素顔(何をそれとするかは難しいが)ではなく、

彼らが「なろうとしている顔」のメイキングなのかもしれない。

ただ、そのプロセスを見ることでしか触れられない意識の相貌がある気がする。

そして、そうした「相」は、ドラマでもドキュメントでも露わにされることのないものだ。

それゆえに漂う異質性に、私は激しく戸惑い、それを拒むことを決めてしまったのだ。

 

いまだに、この作品は勿論のこと、こうした手法について

自分自身で判断をする段階に至っていないことは些か苦しくもあるが興味深い。

ただ、そうした感覚は濱口作品のどれにも共通すること。

そして、何度も見返したいのに、最初の一回性を反芻していたいという葛藤。

それも濱口作品に共通する「恵まれた煩悶」に思う。

 

この強烈な違和感をレトロスペクティヴの折り返し地点で感じられたことは、

後半戦の作品群とより自由に向き合うことを可能にした気がする。

これもプログラミングの意図なのか。

そう思えてしまう偶然の必然化が繰り返される、濱口夜間学校。

ひとまず今週までの開校です。