映画は、
演じる者がその映画のなかを生きるように、
観る者もその映画のなかを生きる。
全く同じ時間と空間のなかにありながら、
同じものを観ているはずの観客は、
自分の場所からしか見えないものを探る。
識らぬ間に連れて行かれる場合もあれば、
茫然と立ち竦むことも、放棄することもある。
自分が見たものを語りたい衝動は、
自分が見たものを確かめたい欲求で、
理解されることを望みつつ、その成就が失意に変わる矛盾を孕む。
しかし、その矛盾こそに得心できたとき、
その映画の当事者であることに満足する。
私は「short version」と名づけられた方の『親密さ』を観た翌日に、
「long version」とされる『親密さ』を観た。
「親密さ」という舞台劇をまるごと収めた136分に立ち会ったあと、
その時間をまるごと包含した255分の旅に同行した。
そこに感じるのは、反復ではなく未踏。
そこに生じるのは、熟知ではなく未知。
不可逆の不可思議。不可欠な不可抗力。
たった一度しかない生に喜びを感じられる寂しさは、
たった一度しかない寂しさが嬉しくて、
こんなに寂しいが愛しい。
そこにはいなかったし、彼らだって知らないはずの自分(観客)が、
そこにはいたし、彼らのことも知っているという錯覚。
親密さ、という幻想。ありもしない、関係。
でもそれは、魂同士が絶対に「触れ合えない」現実を凌ぐ実在感。
確かめられない確からしさ。確かめられないから確かさ。
ただ在る。ただ居る。ただ見る。ただ聞く。ただ、ただ、ただ・・・
ただ、それだけの深遠さ。でもそれこそが、親密さ。
◆オーディトリウム渋谷で開催中の「濱口竜介レトロスペクティヴ」。
二週間のレイトショーと、計4回のオールナイト上映。
(本特集での『親密さ』オールナイトは10日24:00~を残すのみ)
数篇を観るうちに、全てを「いま、目の当たりにしなければ」という確信が芽生え、
そのため連日夜の渋谷に繰り出す義務が心も体も蝕んで(笑)は、躍り出す。
この作品の成り立ちや企図については、
(影響受け過ぎそうなので、感想を書き終えてから読もうと思う。)
彼を取り巻く情報や語りはどうも「特権的」に響きすぎる気がするが、
本特集における場内や監督自身の雰囲気は、
私が苦手なシネフィルの集い的共同体臭とは意外なほど無縁。
そして、それは作品自体に更に顕著で、
その解放感ゆえに「落としどころ」を知らぬ作品たち。
「読んでくれたら好いな」な行間が横溢してる無責任なアートではなく、
「読まれるべき」行間が蠢く文学たる覚悟であり、飛躍。
私が苦手な自主映画における語りは、自問他答。
そのくせ、やたら喋りたがってる画面がそこにはあったりする。
濱口監督の作品は不断の自問自答を試行する。
時に余りにも直截的な表現は、無限の深淵を覗かせる。
しっかり答えてくれるから答えがしっかりわからなくなる、という正しさ。
選択を重ねるたびに選択肢が増えるという矛盾。という正しさ。
説明できないことを必死で説明しようとしてるからこそ生まれる、
説明できないという真実。
ここで、私がいくらでも言葉を弄し続けることができるほど、
それは自由で柔軟なのに、何かを喚起して止まぬもの。
作品にとめどなく流れる詩情は、私情で受け止めようとすることをも拒まず、
それでいて観る者を詩人に変える。(という言い訳を与えてくれる?)
誰もが詩人であらんとすることを認めてくれる。
ものすごく恥ずかしいことが、ものすごく誇らしいことだと識らせてくれる。
「ごめんなさい」の美しさ。
映画の人物たちは、何度も何度も謝意を口にする。
それはまさに、「ごめんなさい」という「ありがとう」。
(登場人物たちが口にした「ごめんなさい」の表現。
直前にスニークプレビューで観た短編にも流れていた「ごめんなさい」。
私が、彼の作品に惹かれてしまう理由を勝手に発見した気がする。
「責任を認める/とる」といったニュアンスの単純な謝罪ではない言葉。
誤る、謝る。誤りを感じるが、感謝も。詫びのなかにうまれる、侘び。
英語の「I'm Sorry」という自己主張に時折違和感をおぼえる。
だからといって、「ごめんなさい」や「申し訳ありません」の没我や絶対他力は、
今の時代では謙譲の美徳より打算や妥協の産物に思えもする。
でも、頭を下げることが必ずしも服従だけではなく、黙考や尊ぶ心に導かれ、
自我の向こうにある根源に触れることを可能にしている気がしたりもする。
私は勝手に濱口作品に最も近い文学作品は夏目漱石だと思っている。
伝統を踏襲と破壊の二者択一ではなく、
その双方を引き受け続けねばならぬ現実を直視した上で、
それをただ是認するでも否定するでもない真摯な葛藤が心に迫る。
漱石の語った「個人主義」が、いまだ根付く気配もないこの国で、
ただそれを嘆くでも、開き直るでもなく、まずは対峙し格闘してみる覚悟。
前提という了解事項から着手する誠実さ。
誇示も打倒も決めず、まず眺めてみては流れによっては解いてみる。
自分で確かめもしない踏み台には絶対に載らない。
実は空っぽでグラグラな踏み台を皆が高尚で立派な永遠だと信じてる。
そんな欺瞞を責めもしないけど、与しない。選ばないことを選ぶ。
能動的であろうとするときこそ、自らの受動性が認められる。
自由であろうとするとき、最も不自由さを感じる。
そして、それを誤魔化さず、そのまま語ろうとしている。
技巧やセンスでいくらでもはぐらかすことができるのに。
バカ正直でしかいられない人の正直も抗いきれぬ魅力があるが、
狡猾さの完全なる秘匿も可能な才能の持ち主が選ぶ正直は、応える。)
◆3つのパートに分かれている本作は、
その各々の時間や空間の関係性が明確であるにも関わらず、
明らかに「前後不覚」のようで途方に暮れる感覚がたびたび訪れる。
それは、私が舞台劇パート(short version)を一度観た上で全体を観たから、
かもしれない。しかし、例えば一部と二部が過去であるのに、
三部は未来だったりする。ただ、それも今だからの話で。
一部にも三部にも「移動」が描かれるが、
それは目的地に向かうためのものではなく、
「移動」それ自体に意味があるかのようだ。
すべて旅の途中のような。
だから、何処もが始点になり得るが、何処にも終点は見当たらない。
実際、本作も「始まり」で終わろうとして、「途中」で終わる。
作中ではしばしば「死」について語られる。
きっと「死」もそうなんだろうし、ってことは「生」もそうなんだろう。
◆私は演劇をほとんど観ることはないし、やや苦手意識もある。
それは濱口監督も演劇を「唾棄してしまうところがあった」
と以前のインタビューで語っている。
(でも、濱口作品には元から演劇的要素が強くもあるので面白い。)
本作は、舞台劇をつくりあげるまでの過程と舞台劇そのものが
時間の大半を占めるが、それなのにというかそれゆえにというか、
畏ろしいほど「映画している」瞬間に溢れているのだ。
演劇という他者を得て、映画という自我がより強い主張を始めているかのよう。
しかし、それはおそらく自然に流れ出てくるわけでもないだろうから、
(普通ならむしろ、演劇に引きずられてしまうだろうと思う)
これは明らかに監督である濱口竜介の映画観や映画監督としての自覚が
完膚なきまで演劇との格闘によって試された結果なのではないかと思う。
だからこそ、舞台劇の演出はじめ制作に関しては別の者に託したのだろう。
舞台劇も、「映画になること」を知りながら育てられたものではないと思う。
演出した平野鈴さんも語っていた通り、あの公演でしか在り得なかったもの
(=映画になったときに失われたもの)だってある、確かに演劇だった。
しかし、これも平野さんの言う通り、映画になって宿ったものも多くある。
そして、そこに生まれたものが観客に、「映画とは何か」という問いを喚起する。
そこには確かに「答え」もちりばめられている。其処此処に散らばっている。
私が一つ二つ挙げたところで済むほど、それは簡単な「挑戦」ではない。
ただ、私が特に感嘆した「映画が産み出す(=葬る)もの」とは、
時間であり、空間だ。
例えば、劇中で登場人物の一人(女性)がコップの水を浴びせられる。
そして、彼女はその後も舞台にたびたび登場するが、
その髪は終演まで乾ききらない。
映画でなら、必ず乾いている。それが「リアリティ」だから。
また、ある二人が舞台の端と端で会話をしている場面がある。
しかし、カメラはそれぞれの顔をアップでとらえ、それが交互に編集される。
しばらくして、舞台全体をとらえた俯瞰ショットが挿入される。
そこで初めて、彼らの間に大きな隔たりがある
(しかも、その間には二人の人物が存在してもいた)ことが知らされる。
映画は、時間も距離も自在に生んだり亡くしたりすることができる。
それによって生じるものもあれば、失われゆくものもある。
その後者を感じ、その存在を忘れ得ぬ演劇に、
私は魅せられねばならぬのかもしれない。
そんな神妙な焦燥に満たされたのも事実。
◆本作の畏ろしさは、極めて具体的である(会話や細部が)にも関わらず、
その総体は至って端正な混沌で満たされていることだ。
だから、重箱の隅をつつく享楽に際限はない一方で、
俯瞰した瞬間に捉えきれない躍動に絶句する。
ただ、その絶句が余りにも幸福であることが最大の困惑だ。
観客は、自らの心の置き処を探りながら映画を観ることで、
その作品を客体化し、そこに生じる客観性が語りを容易にしたりする。
いや、客観性などに限らず、感情もまたそうかもしれない。
作品を客体化する(自分と切り離す)ことではじめて、
笑うのも泣くのも可能になるのだろう。
例えば、濱口監督の『PASSION』における修羅場を笑えるのは、
あの「現場」との間に時間や距離を置いて俯瞰して眺めているからだ。
(だから、その「現場」に立ち会っているような感覚[例えば、登場人物と一体化したり]
がある限り、笑う自由を獲得できない。そういう場面が濱口作品には多い。)
勿論、娯楽映画においては感情移入を容易にさせる手練が用意され、
そこに嵌まる快楽を我々は知っている。
しかし、ひとたび俯瞰してしまったら、その魔法は一気に解けてしまう。
ところが、濱口作品におけるそれは「魔法」などではなく、紛れない「現実」で、
当事者だろうが傍観者だろうが決してなくならない。
客体化しても主体的に参加しても好い。観客が選べる。
それは人それぞれのみならず、個人のなかにおいてもだ。
だから、二度目の『親密さ』(を含んだ本作)を目の当たりにしたとき、
私は最初に出会った彼らの生に対し、随分と俯瞰になりつつも、
やっと立ち会えるようになった感覚が去来したりもする。
そうこうしているうちに、虚実は入り乱れるばかりでなく、
むしろそれは融和を始めてしまい、映画のなかの時間と距離が溶解し出す。
演じる者と演じられる者と演じることを終えた者。そして、それを観る者。
観る者はいつしか、観られてもいる錯覚に見舞われ、
しかしそこに萌芽するのは恐怖ではなく、親密さ。
本作の英題は、『Intimacies』。
つまり、概念的な「親密さ(intimacy)」について説こうとしているのではなく、
具体的な「親密さ」のひとつひとつについた語りたいのではないだろうか。
一つ一つがいちいち痛かったり痒かったり沁みたりして、
だからこそ一つ一つを受け取らざるを得なくって、
だからこそいちいち繋がり続けなきゃならない。
このうえなく面倒くさくて、この上なく煩わしい。
でも、その面倒くささや煩わしさが永遠でないことは、
救いでもあり、嘆きでもあるから、その現実に戸惑い続け、
だから余計に煩わしくて、悩ましい。
しかし、肉体よりも魂に入れ込んだ人間は、
物質的な所有よりも精神的な刻印を確信に変えることができるだろう。
ディープキスより投げキッス。
◇監督も批評家も、自分の場所や領域を定めては認め認められしてゆくうちに、
そうした地場から出ることを忌避し、そうした磁場からの享受に頼りがちに思う。
勿論、そう彷徨してばかりで「場所」を蔑ろにする人間は信用ならぬだろうが、
たとえ自らの「場所」から眺めようとも、遠くにある地を窺うことはできるはず。
そうして伺ってみた場所でこそ発揮できる個性が本物なのではないかと思う。
一貫性を保ちながらも、留まることを知らずに旅を続ける稀代の語り手が、
同じ時代に、そして同じ世代にいることを、誇りに思いつつ、
しっかりと羨望と嫉妬も感じつつ、
まだ見ぬ作品たちとの出会いをしばし楽しむばかり。
(その後の虚脱感がおそろしい・・・が、それこそが「はじまり」。
にしなければ、という自戒[結局、いつもこれ・・・])