ハーバード・ケネディスクールからのメッセージ

2006年9月より、米国のハーバード大学ケネディスクールに留学中の筆者が、日々の思いや経験を綴っていきます。

Korea-Japan Trip 2007(その2:ソウル初日)

2007年03月25日 | Korea-Japan Trip

 

 Korea Japan Tripの最初の訪問地であるパンムンジョン(板門店)。ソウル市街から62キロ、バスで約1時間で到着するその場所は、韓国の過去、現在、そして未来が凝縮されている土地です。

 1945年8月15日、日本では終戦記念日として様々な意味を持つこの日は、韓国にとっては35年間に及ぶ日本の植民地支配からの開放の日を意味します。しかし韓国が真に大国のパワーから解放される日は訪れませんでした。アメリカとソ連(当時)との間で交わされたヤルタ協定により、朝鮮半島は北緯38度線を境に北はソ連の、南はアメリカの影響下におかれることとなります。そして、1950年の6月25日、突然の北朝鮮の南進によって始まった朝鮮戦争により、十世紀前半の高麗による朝鮮半島の統一以来、同胞としてアイデンティティを共有してきた朝鮮民族は敵同士の関係となってしまいます。死者数百万人に及ぶ3年間に亘る激しい戦闘の結果、ようやく1953年7月、北朝鮮・中国軍と国連軍との間で休戦協定が結ばれますが、その状態は今日に至るまで変わっていません。つまり、50年前の朝鮮戦争は、未だ終わっていないのです。

 東西ドイツを分断し、冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊したのが1989年。既に18年が経とうとしていますが、朝鮮半島は今なお、この軍事境界線によって冷戦下におかれているといっても良いと思います。

  僕達が訪問したパンムンジョン(板門店)は、軍事境界線である北緯38度線上に位置し、朝鮮戦争の休戦協定が交わされた場所。軍事境界線を境に南北2キロメートルずつが非武装地帯(DMZ:Demilitarized Zone)とされ、軍の厳しい監視下におかれています。

 こうした南北朝鮮のおかれた状況をより多くの人々に理解してもらうべく、パンムンジョンは平日は一般にも開放されています。今回は、僕のよき友人であり、ケネディスクールで学ぶ前は韓国の国防省で活躍してきた韓国人幹事代表の努力により、普段は一般開放されていない日曜日にも関わらず、訪問の機会を得ることができました。

 ケネディスクールの一行を案内してくれたのは、国連調停委員会(United Nations Command Military Armistice Commission)の一員であるディグナン米国海軍副司令官。パンムンジョン・ツアーはディグナン副司令官による、38度線を巡る歴史と現状、調停委員会の役割についてのプレゼンテーションで始りまりました。

     
       

 続いて共同保安地区(Joint Security Area)へ移動。ここは、正に国境線のど真ん中に位置し、時折開かれる北朝鮮軍と韓国軍、国連調停委員会との間の会談に使われる会議室がある場所です。
            

     

  写真の手前が韓国領、奥が北朝鮮領で、国境線を横断する形で並んでいる水色の小さな建物が会議室。そして、奥に見える建物が北朝鮮軍幹部の短期滞在用施設です。会議室の前で監視に当たっているのが韓国軍兵士。そして、北朝鮮施設の入り口を守っているのが、

          

 北朝鮮軍兵士です。

 こちらは、会議室の中。

     

 緑の制服とサングラスで身を包むのは韓国軍兵士。ちなみに、韓国では徴兵制がしかれており、成人男子は基本的に全員、約二年間の兵役に服することになります。

 皆でわいわいと見学をしているさなか、ふと窓に目をやると、

     

 何と北朝鮮兵士が大接近!双眼鏡で韓国側の様子をチェックするとともに、会議室の中にいる我々の様子も入念にチェックされています。

 韓国人の友人の話では、通常は一般人はいないはずである日曜日に突然、大勢の一般人(=ケネディスクール軍団)が現れたため、北朝鮮兵士はいつもよりも大人数で状況を確認しに来ているとのこと。
 
  こちらが、1000年以上に亘り同じ民族であった朝鮮人を分断する軍事境界線そのもの。

    

 60年前、日本は多くの都市が焦土となる厳しい敗戦を経験しましたが、国の、日本人の分断は辛くも免れました。実際、1945年のヤルタ会談の段階では、仮に本土決戦の末に終戦を迎えた場合には、北海道と東北をソ連が、関東・中部・北陸(福井県を除く)をアメリカが、四国を中国民国が、福井県と近畿地方は米中の共同統治、九州はイギリスが分割統治する案が検討されていました。

 もし、この案が実行に移されていたら、日本が朝鮮半島と同じ運命を歩んでいたら、場合によっては東京に住んでいる日本人と、仙台に住んでいる日本人が殺し合い、60年経った今なお、無言で銃を向け合いながら対峙していることになっていたかもしれない・・・

     

 - 分断された朝鮮 -      -同じことが日本で起こっていたら-

 こんな風に考えると、この小さな境界線を隔ててカーキ色の制服を着た北朝鮮兵士と、緑色の制服とサングラスをまとった韓国人兵士が無言で対峙するのを見て、何ともいえず悲しい気持ちになります。

 防衛省の友人は静かにこう語りました。

 「今、韓国人は自由主義経済、民主主義の果実を謳歌している。ソウル市内にいると、そこはまったく平和で人々の笑顔と豊かな商品・サービスに溢れている。一方で、北朝鮮領内では、DMZを超えたすぐの地点に数え切れないほどのミサイルが配置され、その標準は全てソウルにピタリと合わせられている。ソウルで楽しいイベントを味わう前に、ここに最初にみんなを案内したのは、こういう韓国の状況を直接見てもらいたかったからなんだ。」

 
    

 上の写真に写るのは、パンムンジョン(板門店)から臨む北朝鮮領内。風があまりない日だったので写真では分かりづらいですが、中央にそびえる塔には世界で一番大きい国旗と言われる北朝鮮旗が掲げられています。周りに見えるのは、キジョンドン村と言われる北朝鮮の村ですが、「プロパカンダシティー」という宣伝用のためのもので、そこに住む人はいないそうです。

       

 軍事境界線にかかるこの橋の名は「Bridge of No Return(帰らざる橋)」。1953年の休戦協定以来、相互の捕虜の交換がこの橋でされています。一度北から南へ、あるいは南から北へ渡ったものは二度と戻ることがないことから名付けられました。

 場所を変えて、こちらは軍事境界線近くにある京義線の都羅山駅。

    

 この駅看板にあるとおり、京義線はソウルより出発し北朝鮮領内にまで伸びています。しかし、朝鮮半島の南北分断以降、列車はこの都羅山駅を終着駅として折り返してしまいます。

    

 線路脇には、南北朝鮮の統一を願うメッセージが記された子供達がつくった旗が風に吹かれていました。

   

 2000年6月に金大中大統領(当時)と金正日総書記との間で行われた南北首脳会談を期に、北朝鮮と韓国が分断路線の再連結が合意され、現在、この都羅山駅は南側の最後の駅ではなく、北側へ行く出発点として位置づけられているそうです。

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 銅鑼山駅のプラットフォームに立ちながら、韓国人の友人のヒョンミンに聞きました。

僕:「韓国の人は、北のことを本当はどう思っているの?同じ朝鮮民族だから統一したいという想いがやっぱり一番なのかな?」

ヒョンミン:「うーん。基本的にはそうだけど、世代によって差があると思う。私達の両親よりも上の世代にとっては、南北朝鮮の統一は本当に悲願。だって、友人や家族をバラバラにされてしまった人が多いから。でも、若い世代は結構この問題に関して無関心とまでは行かないまでも、そんなに拘りがない人が多いと思う。『北と私達とではあまりにも違う』、『訳の分からない北と一緒になって今の豊かさを手放すのはバカらしい』と思っている若者も多いと思う。」

僕:「小学校とかで北朝鮮についてどんな風にならった?」

ヒョンミン:「小学校で習った北朝鮮は、ものすごく悪いイメージだったよ。今でも鮮明に覚えている。でも、当時は韓国もまだ民主化されていなかったからね。今では大分違うかも。」

僕:「政治体制によって、人はやっぱりそんなに違ってしまうものなのかな?」

ヒョンミン:「私はそうは思わない。立場を離れれば、皆同じ朝鮮民族だと思う。ケネディスクールに来る前、私はUNDP(国連開発計画)でエネルギー関係の仕事をしていて、北朝鮮へ核開発を諦める見返りとして国連が提供するエネルギー支援について、北朝鮮側とよく話し合いをしたわ。彼らいつも二人タッグで、お互いがお互いの言動を事細かにチェックして、ピョンヤンに報告するもんだから、二人でいるときには、決して隙を見せたり、個人的な話はしない。でも、例えばどちらかがトイレに行ったり、タバコを吸いに行ったりしていると、決まって雑談をしたものだった。そんなとき『あぁ、この人たちも私達と変わらないな』と思ったから。」

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 銅鑼山駅の構内にあったお土産屋さん。笑顔で微笑む韓国兵士と北朝鮮兵士のマスコット人形。双方が同じ制服を着て微笑む日はいつなのでしょうか・・・

   

 緊張感に満ちたパンムンジョン(板門店)からバスでたったの一時間。戻ってきたソウル市街は平和そのもの。人々の笑顔とモノで溢れ、ハングル文字を除けば、ソウルにいるのか渋谷にいるのか殆ど見分けが付かないくらいです。また、道を行き交う人々の話し声には、日本語(特に関西弁)も頻繁に混じります。

     

 Trip初日の締めくくりは韓国人幹事が用意してくれた素晴らしい韓国の伝統料理と音楽。王宮を思わせる美しい建物、三清閣は、朝鮮戦争後、初めての南北間対話である1972年7月の南北共同声明発表の際、北朝鮮代表との晩餐会場として建てられたものであるとのこと。

     

 ここで皆で食事を満喫しましたが、参加者の間で“議論に”なったのが箸の持ち方。全く使えない人や我流の人も多く、テーブルの中で日本人、あるいは韓国人の幹事が「講義」することに。特に韓国のお箸は、金属製でやや長く日本のものよりも扱いにくいため、悪戦苦闘をしている友人達も。

    

 食後は、皆で庭に出て韓国の美しい伝統音楽の演奏と踊りを楽しみました。

    

 日本から最も近い国、韓国。その多様な姿と心を、多くの友人達と見聞きし、味わい、そして考える旅は始ったばかりです。


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