ハーバード・ケネディスクールからのメッセージ

2006年9月より、米国のハーバード大学ケネディスクールに留学中の筆者が、日々の思いや経験を綴っていきます。

土曜の夜の虐殺②

2006年11月13日 | ケネディスクールの授業

 今日は、昨日ご紹介した「土曜の夜の虐殺」をケースにした倫理の授業の模様をお伝えしようと思います。

  午後2時35分、授業が始まる5分前に教室に入ると、いつもどおり、Frances Kamm教授が既に黒板前に陣取って、今日の議論の論点を彼女独特の文字(解読が大変難しい!)で書きなぐっているところでした。週2回の授業に向けて毎回課されるリーディングは、具体的なケースに関するものと、ケースを考える際の思考の手引きとなる抽象的な理論に関するものの二種類があり、その量もさることながら(トータルで平均で60ページ)、特に後者の文献はその内容が極めて難解なものが多いため、Kamm教授は授業の前半を使って、その文献で示されている理論の内容やポイントを学生との「対話式」で、時に極端な例を使って学生の反論を引き出しながら、あるいはジョークを交えて部屋の雰囲気を和ませながら、整理していきます。

 今回も、ハーバード大学教授のArthur Applbaum著の文献「The Remains of the Role」を基に、ケースを考えるにあたっての論点が以下のように示されていきました。

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① 倫理観を 「Role Morality(役割に伴う倫理観)」と「Personal Morality(個人の信条に基づく倫理観)」とに分けて考える

② 「Role Morality」を考える際に、公的な役割(“Public Role”:例えば、教師としての役割)と私的な役割(“Private Role":例えば母親としての役割)を分け、なぜその分類が必要か、前者についてどのような基準が求められるかを考える

③ 「Role Morality」を考える際に、「Role(役割)」そのものを生み出している「システム」が倫理的に正当化され得るものか、どのような場合に正当化され得るかを考える

④ 「Role Morality」と「Personal Morality」との間に対立が起こった場合に取り得る対応方法((1)前者を優先、(2)後者を優先、(3)辞任する)について、それぞれ、倫理的に許容されるものかを考える

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 授業も後半に入り、いよいよ具体的なケースを使ったディスカッションに移ります。ディスカッションを始めるにあたり、クラス全員が、今回のケースについて正確な事実関係を共有するためにプリントが配られました。

人物

行動

公的役割

私的事情

ヘイグ大統領首席補佐官(H) ・Nにテープを提出するよう助言
・RにCを解任するよう命令
大統領の補佐  特になし
リチャードソン司法長官(R) Cの解任を拒否し、自ら辞任

・大統領によって任命された司法長官

・健全な法治国家としての合衆国の保持

 「心身の故障等特別の事情がない限りCを解任しない」と上院議員、及びCへ約束(Cとは師弟関係)
コックス特別検察官(C) NとHにテープを提出するよう要求 ・ウォーターゲート事件の真相解明  Rとの師弟関係
ニクソン大統領(N) ・テープの提出を拒否
・Hを通じて、RにCを解任するよう要求

・行政府の長

・米国安全保障の保持

 「心身の故障等特別の事情がない限りCの解任を求めない」とRに約束

  通常この場面になると、Kamm教授は、学生を指名する以外は殆ど口を開かなくなり、授業は学生によるディスカッションにより進んでいくことになります。ディスカッションは、

【ニクソン大統領の行動が法的にもモラル的に間違っているのは明らかであるとして、ヘイグ主席大統領補佐官とリチャードソン司法長官の行動(特に前者)は、倫理的にそれぞれ正当化されうるか】

という点を中心に進みました。

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「大統領がCover-up(もみ消し)のために出した指示を実行しているのだから、ヘイグの行為は倫理的に正当化できず、民主主義を損なうものだと思う。」

「いや、ヘイグは大統領にテープを渡すべきだと「助言」をしている。必要な助言をした上で、いったん決断がなされたら、それに従うのは倫理的にも正当化できる。」

「そもそも、大統領は、民主的に選ばれた存在。また、ヘイグが大統領の事件への関与を認識していたかははっきりしない。こういう状況で、ヘイグが国民の負託を受けた大統領の指揮命令系統を乱すのは許されない。だからこのケースでヘイグの取った行動は倫理的に正当化出来ると思う。」

「そういう議論は、ヘイグが彼の“役割”に沿って行動したかどうかと、彼の行為が“倫理的”に正当化し得るかをごっちゃにしている。」

「ヘイグは中東戦争情勢など、アメリカの国益も踏まえた上で、大統領の指示は適切だと判断したのではないか。」

「いや、安全保障の問題は大統領の判断の正当性を吟味する上では必要な材料だが、補佐官であるヘイグの行動の正当性を考える上では不適切な材料だよ。」

「仮にヘイグが、リチャードソンのように「約束」をしていたのならば、彼の行為は倫理的に正当化し得ないけれど、「約束」をしていない以上、彼は責められるべきではないのでは?」・・・・

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 と言う感じで、延々と議論が続くのですが、発言者とその内容はTA(Teaching Assistant)によってしっかりチェックされているのは、「対話式の授業」でも紹介したとおりです。

 最後にKamm教授からは、「仮にヘイグとリチャードソンが同じ状況で全く逆の立場でに置かれたら、お互いの立場に伴う「Role Morality」と“約束”の有無という「Personal Morality」に照らして同じように行動しでしょう。それが、「Public Role」に伴うMoralityとして今日議論した「Person Neutral Role(中立的であること)」の一つのあり方です。」との発言がありました。

 毎回、この授業の準備のために割く膨大な時間に比して、80分の授業は、いつもあっという間に過ぎ去ってしまいます。そして、この授業を通じて突きつけられる問いかけは、80分どころか、ひょっとしたら一生掛けても「ベスト」な解が見つけられないものかもしれません。

 避けて通りたくなるくらい難解な、しかし社会の一端を担う者として必要なこうした問いかけを、先人の知恵と多様な同級生との間の真剣な議論のぶつけ合いを通じて探っていく・・・これがケネディ・スクールで学ぶ一つの意義だろうと自分に言い聞かせつつ、格闘する日々が続きます。

 


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