利子だけで1時間で約10億円(年間約9兆円)もの支払い、たまりにたまった借金残高は、一年間の税収入の約10倍にあたる547兆円。こうした天文学的な数字の裏にある日本の財政赤字の真の問題点、つまり
① 「現代世代が応分の負担をせずに様々な公共サービスを享受してるそのツケを、将来世代に先送りしているという世代間不公正」、
② 「毎年の借金(元本・利子)返済額が毎年の新たな借入額よりも少ない(=専門用語で“プライマリー・バランスの赤字”と呼びます)状態が続いているため、現状のままでは絶対に借金は減らず、人々の生活の基盤をつくる財政の持続可能性が失われつつあること」
について、「ボストン日本人研究者交流会」の場に集まって頂いた約70名の方々と共有をした上で、僕のプレゼンテーションは第3幕、即ち解決策の提示に移りました。
財政赤字の問題を解決するために、僕は二つのアプローチ、即ち財政学者や政府の担当省庁職員等の専門家が考え案を示すことのできる「技術的な解決策」と、その技術的な解決策を実行に移すために、一人ひとりの国民や、それを代表する国会議員が主体的に考え、実行に移すことが必要な「根本的な解決策」の二つがあると思っています。
まず、国の借金を減らすための技術的な解決策。
これは、考えるだけであれば実はあまり難しいことではないと思います。要は個人や家計、企業の場合と同じく、
「収入(税収)を増やして、支出(公共サービス)を減らす」
という収支に着目した解決策と、
「金利負担を出来るだけ減らせるように賢く借りて、賢く返す。維持管理費がかかる一方で、収入を生まない資産はできる限り売り払って、身軽になる」
というバランスシートに着目した解決策を通じて、まずは毎年の借金の新規借入額を毎年の返済額以内に押させて、借金がこれ以上増えないレベルにまでもっていく(プライマリー・バランスを達成する)ことであり、単純な言い方ですが、これが現在政府が取り組もうとしていることに他なりません。
ただ、仮に官僚や財政学者等の専門家がこうした「借金返済案」を提示しても、実際に借金を返すために汗をかかなければならない、あるいは我慢を甘受しなければならない僕たち一人一人の国民や、それを代表する政治家の意識が変わらなければ、案は実行に移されないか、あるいは一時的に実行に移されても、すぐまた元に戻ってしまうでしょう。
これは、どんなに優秀なファイナンシャル・プランナーがある家庭についても、実際にその一家の一人一人が、借金を減らすために一生懸命働いて、かつ出費を減らすために必要な意識転換をしないと、状況は一向に好転しないのと同じ事です。
では、どのような意識の転換が必要なのか。ここで僕は第2の「根本的な解決策」を提示しました。それは「公=Public」という概念に対する価値観の転換です。
* * *
このブログの読者の皆さんは「公(おおやけ)=Public」という言葉を聞いてどのような意味を想像されるでしょうか?
例えば「公務員」という言葉。
公に務める人、つまり、政府で働く職員。というと、公とは政府のことを指すのでしょうか?
あるいは、今回の記事のトピックでもある「公債」という言葉。
これは政府部門の借金を意味するので、やはり公=政府のことなのでしょうか?
でも一方で「公園」という言葉はどうでしょう。
公園と聞いて「政府の園」と考える人はまずいないでしょう。それこそ役人天国のよう。公園は「みんなの園」ですよね。
また、大気汚染や水質汚濁のような「公害」も「政府にとっての害」ではなく、「みんなにとっての害」であり、「公開」という言葉も「政府に対して開く」のではなく、「みんなに対して開く」という意味です。
他にも公平、公衆などなど、色々見ていくと、どうも「公」というのは、政府を意味するというよりも、「私」の反意語として、「みんな=共同体のメンバー」ということを意味するといったほうが正確なようです。
ここで、「私」という漢字と「公」という漢字を見比べると、「ム」の部分が共通していることに気付かされます。
「ム」とは、「囲い込む」ということを意味するそうで、「禾」が穀物を意味することを考えると、「私」とは自分の田んぼや畑でとれた穀物=「禾」を一生懸命囲い込んで守る=ム、つまり元来「個人による所有」を示唆する言葉であると考えられます。
一方で、「公」という漢字は、同じく「ム=囲い込む」の部首が使われていますが、その上に「開く」を意味する「八」がついています。つまり、個人が囲い込んでいたものを皆に向かって開くという含意があることが伺えます。
つまり「公」とは、あるモノや空間を、一人一人が私有物を囲い込んで大切にするのと同じように、皆で大切にするという、集団的な所有権(Collective Owership)を現す概念であり、そのモノや空間を大切にする主体は、もちろん機関としての政府も含まれますが、企業も、メディアも大学もNPOも、そしてもちろん一人一人の個人も含む、まさに「社会を構成するみんな」なのです。
* * *
この「公に対する価値観の転換」は財政赤字を根本的に解決する上で決定的に重要だと考えます。
例えば「公園」が荒れ放題だった時、あるいは「公園」で犯罪が多発して子供たちが犠牲になった時、僕たち日本人は、あるいは日本のメディアはどのような反応を示しがちでしょうか?
恐らく真っ先に出てくるのは、「公園を管理している市役所は何をやっとるんだ?!」、「政府はもっと貴重な税金をムダ遣いしないで、ちゃんと公園管理に十分な予算を使うべきだ!」という政府に対する怨嗟と依頼の声でしょう。
では、政府は無限のリソースを持っているのか?もちろんそうではありません。
僕たちが必要な税金を払わなければ公園は荒れ放題なままか、どうしてもということであれば、あるいは現在僕たちがしているように、将来世代にツケを回して借金で公園の管理をせざるを得ません。そして、昨日の記事で強調したとおり、政府だからと言って無限に借金ができる訳では決してなく、「合理主義」や「機会費用」という冷徹な原則で動くマーケットのルールに従わざるを得ないのです。
以前から「ケネディスクールからのメッセージ」を読んで頂いている方は記憶に残っているかもしれませんが、上記の「荒れ放題の公園」のストーリーは実際にニューヨークで起こった話です。
市民の憩いの場であったセントラルパーク。しかし、1970年代後半のニューヨーク市の“破産”によって犯罪と薬物の温床と化してしまう。「みんなの園」がかつて持っていた輝きを取り戻すために、ニューヨーク市民は、ニューヨーク市は、そして企業はどう動いたのか?
それぞれの持てるリソースを最大限生かして協働するスキーム、即ちNPO法人のCentral Park Conservancyを立ち上げ、市民のボランティアと行政の側面支援、そして企業・市民からの寄付によって輝きを取り戻すべくともに汗をかいたのです。
現在、ニューヨーク市民の憩いの場であり、世界中の人々を惹き付けてやまない「公=皆の空間」であるセントラル・パークは、セントラル・パークを自分の財産と同じように大切に思っている多くの人々の意志が結晶となったものだと言えるでしょう。(詳細は、「官民協働が織りなす市民の憩いの場(その1)(その2)」をご参照ください)。
こうした「公」の概念に対する意識の転換、意識の転換に伴う行動の変化があって初めて、僕たち一人一人の国民は、財政赤字の問題を真に自分の問題、いや、日本のちう共同体のメンバーとしての自分の問題として捉えることができると思うのです。この価値観の転換が日本社会の中で共有された時、歳出の削減や増税の議論も、「政府VS国民」という不毛な議論から脱却して、日本全体が財政赤字の問題解決に向けて歩みを進めることができるのではないでしょうか。
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現代社会は、日本は、そして世界は、
子供たち、孫たち世代からの預かりもの、
「利子」をつけてお返ししよう
というメッセージで締めくくった約1時間のプレゼンテーション。会場の雰囲気はすっかり変わり、びっくりするほど大勢の参加者の皆さんから次々と質問やコメントの手があがります。
質疑応答の時間は大幅に延長して夜8:00近くまで続き、プレゼンテーション終了後の懇親会の場でも様々な議論や意見が戦わされました。さらに、帰宅後も、大勢の方々からメールを、しかも長文でアツイ思いが沢山綴られたメールを頂ました。
もちろん、参加者の皆さん全員が「僕の考えに諸手をあげて賛成!という訳では決してありません。それでも、財政に対して必ずしも知識や関心を持っていなかった参加者の皆さんが、これだけ熱く、日本の財政について、あるいは日本の未来について語るきっかけとなったという意味で、この「ボストン日本人研究者交流会」の場に、価値を提供できたのではないかと思っています。
しかし何より最大の収穫は、この機会を通じて自分自身が財政のこと、日本のこと、そして「公」のことについて、深く、また一から考え直す機会を持つことができたということ。
これも、学業や就職活動で忙しい中、毎月70名近い人を集め、プレゼンテーション役を募り、お店や場所を予約し、参加者名簿を作り、などなど色々と汗をかいて下さっている交流会の幹事の方々のお陰です。この場を借りて改めてお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。
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インドHYDの公園を散歩していて思う事。
HYDの町の各区域の公園は、どこもとても小さく、頑丈な策と門と鍵がつけられています。朝早く、人々は、小さな綺麗な公園を快適に反復ジョギングし新聞を読みます。策の外には、ゴミと捨てられた新聞を裸足の人々が綺麗に掃除をしていています。日本での公園では、あり得ない光景に格差社会を感じます。自治会や町内会、子供会で清掃を行いゴミを拾い集め、ゴミの回収日には、自治会を通して近所の人が指導員となり朝早くから分別チェックを行う。ゴミの分別シールやゴミ袋をコンビ二で買う。そのような光景は、少なくとも、日本のどの都市でも、どの田舎でも見られる。財政を通じて考える未来のコメントを読んで、感じた事は、公の場を大切に思う精神は、私達には、まだ生きていると思います。ただ、市役所や区役所に問い合わせをした時の不明確な回答とサービス精神のないコメント、時折流れるマスメディアの報道に、国という枠に囲み込まれているという感覚の線が少し薄くなっている感じがします。しかし、池田さんのような熱い語り手が沢山いれば、借金大国日本の未来の借金生活も楽しいなと思いました。がんばってください。
>「公の場を大切に思う精神は、私達には、
> まだ生きている」
しばらく日本を離れていますが、その通りだと思います。また、人々の公を思う心や行動が、お役所の画一的で不親切な対応、あるいは不祥事によって、少なからず損なわれているのではないか、という指摘もその通りだと思います。
公務員には、自ら公に勤める者として責任感と専門技術を持って仕事に当たるとともに、人々の心にあるパブリック・マインドを鼓舞し、皆で「公」について考え、協働していく場を作っていくことも大切だと自分に言い聞かせているところです。
HYD生活、色々とご苦労も多いかと思いますが、引き続き健康で楽しい生活を送ってください。