師走といえば、「火の用心」である。
毎年12月の朔日餅には、箱の中に「火の用心」のお札が入っていたものだ。そう言えば、赤福、食いたくてしょうがない。無性に恋しい。
赤福ってどこが悪かったのよ?
その後頻発した食品偽装発覚を知るにつれ、もっとアクドくあけすけなやり口に、赤福なんぞとても可愛く思えてきたのはぼくだけだろうか。
赤福食って誰か死んだのかい? 体調壊したかい?
大らかな志摩人のぼくは、今回の根っこにあるものが見えている。つまり、
- おもてなしの心
- もったいない
なのだ。
お伊勢さんにお参りしてくれた人どなたにも、
「品切れました」
なんて言えようか。あのお餅は店頭で毎日並ぶが、旅人にはその時に食べ損ねたら今後一生涯食べれないかも知れない。一期一会という言葉がある。旅の人にあっさり、
「おまへん」
なんて言えようか。商(あきない)以前のホスピタリティの問題である。昔から観光客をもてなしてきた立場でないと分からない。
80年代、アメリカの片田舎に子どもたちに食べさせるクッキーをとても上手に焼く奥さんが居た。周りの人々に薦められお店を出したところこれが大評判、瞬く間に全米にチェーン店化された。一主婦のサクセス・ストーリーはNHKのニュースで紹介されるほどでぼくに伝わった。強く印象に残ったのはその成功の秘訣の一つである。それは何か。
その日売れ残ったクッキーはすべてゴミ箱に捨て去ること。
鮮度の落ちたものを客の口に入れないとして、マニュアル化されていた。
ただ、ぼくには潔いからと絶賛する気持ちにはどうしてもなれなかった。その頃手焼きのクッキーを食したことがなかったというのがある。今なら分かる、湿気たクッキーなんて金を払って食べれようか…でも、餅は違う(これは後で触れる)…。ぼくが異和の感覚を抱いたのは、
モッタイナくはないか
だったと思う。昔から食べ物を粗末にできない性質だ。教室を見てもらえば分かる。物を捨てられないというのもある。
地球上に飢餓で苦しむ人々がいるというのにあまりにも、あまりにも、なのだ。
鉄骨を抜いて儲けた輩、財産を失った被害者がいる。毒性の強い玩具を輸出した国、弱者を殺めようとした。産地を偽ってぼろ儲けを企んだ業者、これは詐欺だろう。だが、赤福を悪く思えない。ぼくたちが日ごろ口にしてきた食べ物だからだろう。ぼくたちの暮らしのなかに共にあった常食のおやつが恋しい。
そろそろがっぽり頬張ってもええやんかいさぁ。