hyperclub

パソコン教室アイラブハイパークラブです。
教室に流れるBGMなどを紹介します。

もういくつ寝るとクリスマス?

2005-10-30 23:33:42 | 音楽
 あわただしい週だった。教室における本来の業務もさることながら、依頼される仕事にはクリスマス関連のものが多い。クリスマスに限らず物販店の歳末商戦はもう始まっている。その一例としてプティレストラン宮本クリスマス・ディナーを紹介したい。鵜方に引っ越して初めてのクリスマスを迎えるが、地元に戻った意気込みが感じられる。献立にはシェフ暦40年のキャリアが如何なく発揮されることと思う。子どもづれ不可のコンセプトも賛成だ。静かで、落ち着いたクリスマスの夜が楽しめるのは確かだ。

 引っ越しで思い出したが、伊勢にあるイタリアレストランLa Mia Vita(ラ・ミア・ビータ)が桜木町に移転する。イタリアからピザ釜を取り寄せたとかで、本格的なピッツァが味わえるのが嬉しい。ここのシェフも志摩観光ホテル出身で、妻子を置いて単身でイタリアに渡り修業を続けたという猛者である。彼の地の野菜を地元の有機栽培農家に依頼して作らせるなど食材にはこだわっている。友人の話によると熊野産黒毛和牛のタリアータが絶品と言う。くれぐれも熊の肉と勘違いしないように。11月1日にオープンである。志摩方面から行くと、御木本道路の伊勢西インターチェンジの交差点を右折して側道を走り最初の陸橋を渡ると白い建物が目につくはず。

 もう10月も終わろうとしている。歳月人を待たずとか、どこか忙しく、落ち着こうとアン・マレーCroonin'を聴いている。スタンダードナンバーばかりである。力まず、さり気に、それでいて力強いアルトにしみじみと心が癒される。


King of Bluegrass、ジミー・マーティン

2005-10-24 23:59:00 | 音楽
 講師として少学6年生の授業を終え、ブルーグラスの師匠のお宅にお邪魔した。ロビーの窓辺から太平洋が広がっている。眺望は素晴らしい。よく晴れ、水面は凪ぎ、水平線にタンカーや大型貨物船が何隻も浮かんで…、じっと眺めていると思わず秋眠に誘われそうである。ゆったりと歓談しながら見つめていると、ふだんは瞬間の点でしかとらえられない船体が視界の端から端まで静かに移ろい消え行く様を追っていることに気づく。どの船も大きく見え、海辺から航路はそう遠くないことが分かる。だが、海は広い、広がっている。

 朝の目覚めとともにこんな海を眺めることができたら、どんなに素敵だろう。そして、それが毎朝のことだとしたら、どんな人間に育つのだろう。答えは隣でぼそっと語りかける友のシャイな横顔である。静かで、寛容で、どこまでも深いまなざし、時に弾まない会話も心地よい。お互いの息吹を感じるだけで安らぐ世界がそこにある。ブルーグラッサーに悪い人はいないという確信をさらに強くする。

 ジミー・マーチンさんが亡くなった、フィドルのバッサ・クレメンツさんも…。師匠のもたらす情報には哀しみが漂う。寂寥感はただ死人を数えるからでなく、その才能と演奏が二度と甦らないことから生じるのである。余人のはるかに及ばない、もの凄い技術がまた消えてしまった。今しか聴けない音がある。何故かせっかちになりそうだ。


風に吹かれて

2005-10-22 23:21:57 | 音楽
 書店で本を探すなんて久しぶりのこと。昔は匂いで自分の欲しい本を探し当てられたのだが、気のせいだろうか。今はとても効率が悪く時間を喰ってしまうばかりだ。店が広くなって在庫量が桁違いに増えたからだろうか。

 それでもマイクル・コナリーの新刊、暗く聖なる夜(上・下)が出ているのが分かった。行きつけの書店には文庫やコミックの出版予定表が誰でも見れるよう吊るしてくれてあるのだ。予告だから予算化するのに役立つ。ローレンス・ブロック著の「マット・スカダー」シリーズとスペンサー・シリーズのチェックは欠かせない。ただ、今は、読書どころではない。予定がびっしり詰まっており、片付けるべき仕事が手付かずだ。こういう事態は年末が近づいている証拠である。世の中の景気が上向いているという実感がともなってくれるとさらによいのだが…。

 書店には年賀状の素材CD-ROMが勢ぞろいを始めている。去年、一昨年とインプレスのには皇なつきという女性イラストライターの画像が掲載されていた。主に中国の古代を舞台にした歴史小説でぼくにはおなじみだが、若い人たちにはファイナルファンタジーのイラストで知られているかもしれない。確認のためにインプレスに問い合わせのメールを入れたくなるほどファンになってしまっている。そろそろネタを仕込もうか。

 夕食を息子たちと囲みながら団欒する。話題は明日の市議選となってもよさそうなものだが、もっぱら福祉問題について熱い議論を…。鍋を囲んでの豚しゃぶに似つかわしくなくて男同士というのは無骨なものである。

 次男がボブディランの「風に吹かれて」をギターで弾くのに楽譜がないかと尋ねてきた。
「君たちが捨ててなかったら、ワシの書棚にあるはずやが…」
と、半分厭味がてら答える。そうなんである。この子らは綺麗好きというか、さっぱりした風情を好み、油断してると我が家から不要物と思われるものを片っ端から廃棄してしまうのだ。このお盆には家人がジューサーの蓋がないと大騒ぎしていた。幸いにも学生時代に買い揃えていた「フォークギター教本・上級編」が見つかった。作者が誰か、今まで確かめもしなかったが、何と、作家で、翻訳者でもある東理夫氏となっている。氏のAMERICAN ROAD STORY―アメリカの魂にふれる旅は米国を目指すぼくのバイブルになっている。


アン・マレー「愛のデュエット」

2005-10-21 22:48:12 | 音楽
 いやはや随分引っ張られるものである。こちらは大海を漂う小舟のように揺さぶられっぱなしだ。おかげで木曜夜は仕事にならない。

 何の話かって。NHKのBSで放映されている『チャングムの誓い』のこと。全54話。母の仇を討ち、同時に師匠の無実と無念を晴らしたのが第48話で、やれ、これで大団円かと安堵したのもつかの間、またさらなる試練にさらされて…、う~ん、引っ張る、引っ張る。単なる復讐譚には終わらないのねぇ。韓流のネチッコサとコッテリ感には感嘆だ。

 となると、タイトルにある通り、女性として初の医務官となるチャングムの使命を全うする姿と、それを支えるミン・ジョンホとの愛の物語としての主題が存分に活きてくる。
「これでハッピーエンドに終わらんだら、許せんよなぁ!」
と、仰る淑女コンビに、うっかりネタバレ的言辞を与えてしまったぼく。
「ヤッテシマッタ…、鬱」

 しかし、次回予告で暗示されたような。2日ほど早く知ってしまったということで許されて欲しいのだが…。いよいよ来週は最終回である。

しかし、我々はテレビの前でその生き様の一部始終を理解してるからよいですが、事情も何も関知しない人の周りでチャングムみたいな女性が居るとしたら、えらい迷惑を蒙りますよ

 そう突っ込むかぁ。T君、また失恋したのか?

ミン・ジョンホだって、現実にあんな態度の人が居たら、一歩間違えたらストーカーじゃないですか

 突込みどころ満載か。そこはそれ、ドラマやナイカイ! 

 純粋というか、一途というか、ジョンホなりの包み込む愛をチャングムは受け入れている、というところにポイントがあるように思うのだが、反論にならないだろうか。誰も、あなたがしてくれるようには愛してくれないのである。拙ブログで再三紹介しているアン・マレーの"Nobody Loves Me Like You Do"の世界がここにある。邦題は確か「愛のデュエット」だった。告白する、ぼくとミン・ジョンホの間の距離は隔たりすぎている。
「当ったり前やん!」
と突っ込まれたくはない。


エミルー・ハリス「テネシー・ワルツ」

2005-10-19 23:23:06 | 音楽
 『3分間待つのだぞ』、というCMが、昔、あった。インスタント食品のPRだった。その3分という時間が画期的な早さであることは、当時、実感として納得したものだ。そして、現在。電源をつけてから3分の、この時間がなんとカッタルク感じることか…。

 今日、久々に重いパソコンに出会った。普及機とはいえ、わずか一年前のノート型である。「CTRL」+「SHIFT」+「ESC」でWindows タスクマネージャを開くと、搭載メモリは256MB(物理メモリで分かる)に対し、コミットチャージの合計が280MBほど、すでにスワッピングが発生して、アクセスランプが点滅しきりである。こうなると作業が滞りがちで、効率も悪く、ストレスも溜まろうというものである。
「わずか6千円ほどの出費で(メモリが増設できて)イライラが解消しますよ」
と、アドバイスしたら、
「あら、パソコンってこんなものでしょ」。

 いかにも鷹揚で、おおらかなお姫様の趣で、悠然としてみえる。思わず反省する。こういうパソコンとのつきあい方もあるのだ。ことパソコンに関して、ぼく自身、いかにせっかちで、ゆとりなく接しているかに思い至る。スローライフ派を気どりつつも、実際、余裕のなさが恥ずかしくなる。思わず、目からウロコである。

 と言いつつ、
「メモリは増設した方が便利ですよ」と、自説は曲げないなぁ。

 さて、『3分間待つのだぞ』のコピーは強いもので、瞬く間に流行語になった。コピー・ライターの仕事って凄いと思う。今でも、ぼくの記憶に鮮明なキャッチコピーがある。20年も前だろうか、ジーンズのビッグジョンのCMだ。峠で馬に乗ったカウボーイが町を見下ろしている。アンプラグドでエミルー・ハリスの「テネシー・ワルツ」が流れる。確か仲畑貴志さんの作品だと思う。

峠を越えると、
帰りたい町が見えた
正しく言うと、
帰れない町が見えた

 帰りたい町だけど、帰れない町って…。何故、どうして? 思わず引き込まれる威力があった。勝手に想像の世界が膨らみ、いくつもストーリーが展開していくようで、それは単に己の詮索好きが昂じているだけなのだろうが、気になってしようがなくなった。単なる文字列の羅列に終わらない、深い世界である。

 今日は新たに竹炭枕が手に入った。これで寝ると、ぼく自身、安眠が約束される。目の疲れが和らぐ気がするし、深い眠りが確実に得られるのだ。しかし、効能が数字で表現できるようなアイテムではないし、定規や秤で計測はできない類のものだ。官能特性といおうか、感覚的なものである。これを拡販のお手伝いをしようとキャッチコピーを考えているのだが、
「イカン、眠れなくなりそうだ」。


プー横丁の家

2005-10-16 22:30:25 | 音楽
 Y子さんがiPodを買いたいという。ところが種類がいっぱいあってどれを選べばよいか判断に苦しんでいる。訊く相手が違うような…、気がしないでもない。
「いちばん安いの!」
答えは決まっている。予算に合わせて選ぼう。軽くて、薄くて、持ち運びに便利なのに越したことはない。

 昔ウォークマン、今アイポッド…。隔世の感がある。仮にぼくが持てるとしたら(モテナイ症候群は治癒しない)、桂枝雀の全集を取り込むことになる。それと、20年前に通販で買った、「The Modern Folk Best Collection(愛と青春のモダン・フォーク全集)」を忘れずにインポートしたい。これだけでCDが10枚、205曲ほどある。となると容量が推測でき、自ずと機種が決まってくる。1万円台のiPod shuffleでは最大1GBもの記憶スペースか、と驚いていたら、最近出たnanoにいたっては、あのサイズで、2GB(500曲)と4GB(1,000曲)なんだとか。上位機種にいたっては30GBと60GBの2つのモデルがあり、最大15,000曲、25,000枚の写真、150時間のビデオが楽しめる。実際、こんな具合だと、全部聴くのとぼくの寿命とどっちが先だろうと思案するばかり。当時でさえ、欲しくてもなかなか買えなかったウォークマンが遥か遠くに霞んでいる。
「あれは何やったんや?」

 曲を買ったり、iPodに転送したりするには、無料でダウンロードできるiTunesをインストールすると便利である。たった4日間で100万曲ダウンロードを達成してしまったと評判のiTunesミュージックストアは、ぼくが利用していたMORAをあっという間に追い越した。在庫はふんだんにあるし、視聴もワンクリックで簡単だし、一曲が150円ぐらいで購入できる。

 ここで恥をさらすようだが素直に告白しておく。実は、購入手続きをするには「サインイン」のアイコンをクリックして、ID(メールアドレス)とパスワード(自分で決める)、名前・住所などもろもろの個人情報を入力し、最後にクレジットカードのナンバーを入れるようになっている。手続きとしては難しいものではない。ところが、ぼくがサインインをしようとすると英語の画面しかでない。住所には日本さえない。これで2週間ほどホラクリにしてた。今日、よくよく見てみたら、画面の一番下で「日本」を選択できるボックスがある。ぼくがブルーグラスミュージックを捜そうと米国版に入り浸っていたからか。そうと分かればあとは楽々。

 で、The Nitty Gritty Dirt Bandの「House At Pooh Corner(プー横丁の家)」を購入した。「購入したもの」のブースを右クリックすると、メニューに「プロパティ」があり、ダイアログボックスが開くと、「概要」、「情報」、「オプション」、「歌詞」、「アートワーク」のタブ(見出し)がある。これが便利だし、いろいろ遊べそうだ。「概要」にはアルバムジャケットの画像が表示されるようになっている。
「当時のアルバムはレコードだったよなぁ」
そんなことを思い出して、ウエスト70センチの時代が甦った。懐かしさに浸る秋の日曜日である。


この町に生まれてよかったこと

2005-10-14 23:50:07 | 音楽
 「この町に生まれてよかったこと、または、この地域に生まれてよかったと思うことは何ですか?」
突然、こう尋ねられて面食らってしまった。どういう経緯でこんなやりとりになったかもネタとして面白いのであるが、今回は省く。でも、
「のっけに何なんさぁ?」

 皆さんはこの質問にいかなる回答を寄せられるだろうか。ふだん考えたこともなかっただけに、また、考えてなかったことにも驚くのだが…、思考が停止した。かといって、この町に生まれたことに満足であるし、現在、暮らしていることにも異存はない。肯定的にとらえている訳である。

 若い人はいかがであろうか? 自我が肥大しつつあり、前向きに、というか上昇志向にともない現状には不満だらけという向きもあるかも知れない。でも、この町に産まれたことを後悔している人は少ないだろう。

 自然環境とか、行政とか、地域資源だとか、情緒的に人情が…だとか、切り口によって様々な答えが出てくるだろう。もちろんウケ狙いや奇を衒うこともできるのだが…。鵜方に限ってぼくが日頃思っていることを開陳すると、こうだ。

 この町の成り立ちに深い関わりがあると信じて疑わないのは、医療機関、県立の総合病院の存在である。現在は三重県立志摩病院となっているが、昔は民間の医療機関だったと聞いている。成り立ちはともかく、総合病院があるおかげでどれだけ多くの命が助かったことか。地形図を思い浮かべるとよく分かる。峠を越えて遥々運ばれるのと、最寄の位置にあるというのでは天地の開きがある。近隣の町や村から患者として、付き添いとして、見舞いとして集まってくるから、商業立地として町が成長する。さらに人口が増えることにより、病院出身の多くの優秀な医師が開業しても成り立つ市場が確立する。もちろん保健についての意識も高まる。さらには競争原理のおかげでますます地域の医療が充実していく。今、不測の事態が起こっても、深刻な事態を未然に防ぐことは可能になっている。その確率は遥かに高いのではなかろうか。少なくとも病気や事故に対して比較的安心して暮らせる町である。

 空気や水に恵まれるとそのありがたさを感じないように、また、病気になってあらためて健康の大切さを噛み締めるように、ぼくは町の医療機関に対し感謝の念を抱いている。五十男を知命と呼ぶが、文字通り命の大切さを知るようになってきている。つまりオジンになったってこと、か。

 あっ、そうそう、話のきっかけは、ピーター・ポール&マリーのベスト・オブP.P&Mを聴いていて、「我が祖国」について能書きをタレテいたからだ。


ロクなもんじゃねえ

2005-10-13 22:33:16 | 音楽
 あるレストランでのできごとである。
「きゃーっ!」
と、突然、悲鳴が上がった。
「ナニゴト?」と、店に居合わせた全員が振り返るとウエイトレスが両手に皿を持ったまま固まっている。調理場が見通せるカウンタの片隅がスィング・ドアになっていて給仕のために出入りするのだが、熱々のお皿を届けようと扉を身体ごと乗り出したちょうどその折、足元に赤ん坊が這い回っていたのだ。迂闊な人だったらそのまま踏み潰してしまうか、お皿を放り投げてしまっていたかも知れない。ベテランの彼女だから沈着に対処できたと思うのだが、それでも立ちすくんで,しばらくその場で震えていた。
「危ないよぉ~」
と、その赤ん坊を連れ戻しに来たのは…、その子の母親ではない。幼稚園児と思われる少女だった。母親の方はと見ると、知らんぷりで黙々とスプーンを口に運んでいる。その時、小説を読みながらだらしない格好でカレーを食べていた自分をさしおいて言えた義理ではないが、
「いいのか、こんなことで…」。

 最近の親って、可笑しかないかい。これまた、その資格がありやなきやと問えば、我が子からは手厳しい言葉が返って来そうなこのぼくが、憤っている。教室の階下が居酒屋だった頃、子ども連れの家族であふれ返っており、
「ファミレスかい」
と、突っ込んだものだが、酒を呑むために集う場所に子どもを連れてくるなんぞタガの外れ方も極まると思ったのはぼくだけだろうか。

 そういえば、聞いた話だが、今年のお盆、和食の老舗でのことだが、ふだんと異なり家族連れが多く賑わっていた。食事に退屈したのだろう、ある男の子が生簀の水槽に手を突っ込み遊び始めた。店の者がやんわり諌めても聞く様子はない。それどころかますますエスカレートしていくばかりだ。その親たちは知らん顔だ。オヤジの気性を知る常連はハラハラしたという。それでも滅多にない優しい口調で注意をしたらしい、こめかみにシャープ(#)が浮かぶのをみごとに隠して。それでもその子の行動は止まらず、たまりかねたオヤジはついに一喝した。
「こらーっ!」

 酒飲みには格調高くも雰囲気のよい店であるが、楽しかるべき団欒の場が、一瞬、凍りついた。この叱りが効いたとみえ、子どもの暴虐は止んだという。で、ふだん通りの平安が戻った。その後は特筆すべき事もなく無事閉店したらしい。

 で、後日談である。その店はホームページを持っていてWEBページからメールを送れるようになっている。翌日、メールが届いた。メールにはこう書かれていた。

客に向かって『コラ』とはナニゴトだ

 Webメールだから、送信者は特定しにくい。オヤジは悔し涙にくれるしかなかった。

 店主にしろ、ぼくにしろ、若い時分には、町の大人からさんざんっぱら
「今時の若いもんは…」
と、叱られた口である。偉ッそうなことは言えないが、それでも、それでも、
「そんなもんじゃないだろう」
と、言わずにおれないのだが、それが何かぁ?


サラ・ウォーターズ「荊の城」

2005-10-11 23:46:29 | 本と雑誌
 夜明け前に起きだして、わずかばかりページ数を残していたサラ・ウォーターズ「荊の城(いばらのしろ)」を読破した。面白かったのなんの、寝坊助が未明に布団を跳ね除けたほどである。

 この物語、19世紀半ばのロンドンの下町で舞台は始まる。ヴィクトリア朝とくればチャールズ・ディケンズの世界である。主人公は17歳の女の子スウ、育ての母サクスビー夫人に可愛がられ、ラスト街の故買屋の家で幸せに暮らしている。もう一人のヒロインが、モードで、時代遅れの城館に老いた伯父と住む令嬢である。スウとモードは同い年。ここがミソ。ある夜、通称"紳士"と呼ばれる詐欺師が儲け話があるといってスウの家を訪れる。というのが…。

 ここまでしか書かないのが礼儀だろう。しかし、しかし…、「起・承・転・転・転・結」に、さらにもう二つ、三つの「転」を付け加えたいほど、二重三重に仕掛けられた絶妙なトリックに読み手は作者のなすがままページをめくらざるを得なくなる。

 カバーの絵画に見入っているうちにそのまま受けるイメージで物語の世界に入っていける。イギリスがもつディープな闇の世界にうごめく人の営みのおどろおどろしさ、ぼくは日本人でよかった、とつくづく思う。大富豪の女性と結婚し、新妻が病気であると精神病院に入院させれば、その財産はすべて夫のものとなる。医者と結託して健常者である妻を無理やり病気に仕立て、財産を分捕り、妻を生涯病院暮らしさせることが、当時、よくあったらしい。これがベースになっている。で、これで先入観を抱き、ストーリーが読める気になったら大間違いであると忠告しておく。

 「うっさいよ!」なんていう啖呵が可愛いスウ、本を読むにも食事をするにも手袋をはいてと貴婦人たるべく育てられたモード、さらには不気味といってよい伯父、怪しげな故買屋のオヤジ、堂々たるタフさぶりを見せるサクスビーの母ちゃんと、登場人物もミステリアスで、緻密に描写し、活きている。会話文のみならず翻訳(中村有希氏)の全てを絶賛したい。

 昨年、17世紀のアムステルダムを背景にした「珈琲相場師」を読み終えた勢いで買ってしまい、長らく「積読」状態だったが、得をした気分だ。上・下巻合わせるとちと痛い出費だったが、読後はそんなことすっかり忘れ去っている。ネタバレに気をつけたつもりでこんな書き方になってしまった。今夜は早寝だ。


あ~、だから今夜だけは~

2005-10-10 23:59:20 | 音楽
 DVDを借りるようと、息子に連れられて新しくできたレンタルショップに行って来た。自分でも驚くのだが、最近、こういう形が多い。昔はアクティブなオヤジだったのが、すっかりモノグサになって、システムの説明やら登録の手続きといった類をアクティブな末っ子に任せてしまう。第一、誘ってくれなければ動こうとしないのだから。アコギに熱中するあまり80年代のニューフォークのオムニバスを探してせがれはCDのコーナーから離れない。
「あんた、それ、懐メロやんか」
と突っ込みたくもなるが、拓郎や長渕やチューリップなんぞに熱心だ。

 父は思い出している。
「通らばリーチ!」
と端牌を捨てた途端、
「あっ、それ、ロン、九蓮宝燈ねっ!」
あまりのショックにぼくは悲鳴代わりに歌い出していた。
「あ・~・だ・か・ら・こ・ん・や・だ・け・ワ~」
チューリップには苦い思い出がある。それを就寝前のひと時に聞かされるのか。

 ぼくはクラシックのコーナーに注目する。フランク・キャプラの作品があり、ギャグニーのギャングものがあり、「イヴの総て」、「グランドホテル」、「我が谷は緑なりき」まである。ボギーの「三つ数えろ」、「アフリカの女王」を見つけて微笑んでしまう。モノクロの作品が多く、若者に敬遠されそうだが、なかなかどうして、ぜひ見てみるべきである。最近の映画は、CGや宙吊りを駆使してジェットコースターのように目まぐるしく、アクションのみに目が奪われがちで、ストーリーが妙味に乏しいものが多い。その点、伏線が微妙に張られ、ストーリーの起伏にわざとらしさやあざとさが見られない昔の作品は、秋の夜長、じっくり鑑賞するにはもってこいである。それと白黒の魅力は、色彩を自分の頭のなかで作り出すことが出来るし、照明に工夫が凝らされているから、コントラスト、彩度、明度が絶妙のバランスで保たれ、独特の雰囲気をかもし出している。色彩に頼らずとも映像美が際立っている。

 クリスマスにはまだ早いが、「34丁目の奇跡」や「素晴らしき哉、人生!」は12月の定番であろう。

 「毒薬と老嬢」を借りることにする。フランク・キャプラ監督、1944年の作品である。学生時代、これを観たのはどこの映画館だったろう。映画館ではなく、どこかのホールだったかもしれない。キャプラの世界は、落語の人情噺に通じるところがあって好きなのだ。人の温もり、思わずニヤリとさせられるユーモア…、すべてがいい。このコーナーで見つけたキャプラの作品は、前述の「素晴らしき哉、人生!」、「毒薬と老嬢」の外にも、「我が家の楽園」、「或る夜の出来事」がある。気が向いたら手にとって欲しい。