メタファーとは、隠喩(いんゆ)、暗喩(あんゆ)ともいい、言語表現における修辞技法(レトリック)のひとつである。
早い話、
「きみは薔薇のようだ」
といえば直喩であり、
「きみは薔薇だ」
もしくは、
「野球はドラマだ」
のように使うのがメタファーである。つまり、メタファとは何かに例えた表現をすること。
今、ぼくたちが目の前にしているパソコンにだってメタファは活きている。つまりWindowsを立ち上げると最初に表示される画面をデスクトップメタファーと呼んでいる。要するに、「机の上」を画面上に喩えている訳で、机に向かうのと同じ感覚でユーザは作業ができるのだ。デスクトップにある「ゴミ箱」を見たら、
あっ、ここに捨てることができるんだな…
という察しが付く。ショッピング・カードや買物カゴなんて初心者でも一目でその機能が分かるはずだ。
ハテ、何をくっちゃべているのやら…、早い話、
「崖の上のポニョ」
なのだ。
8月は誕生月で、娘と映画を観るのが慣わしになって久しい。今年、娘は「カンフー・パンダ」を観たがった。娘の脳内に何かが起こりつつあるようで多少気がかりだが、それは別の話。
「ジブリが封切られてて素通りは無いっしょ」
と、強引に「ポニョ」に引っ張りこんだ。そしたら、まあ…なんと、
カタルシスとはこういうことね。
快い混乱に揺さぶられるかのように、魅入ってしまった。
前作、「ハウルの動く城」を一口で言うと…、
『どこでもドア』みたいなカッコいい扉の付いた動く城があってな、完全防御で天下無敵やったんやが、最後には筏みたいにボロボロになってしまうねんよ。でもね。お城のように失くすものがあるんやけど、最後にはきっちり得られるものがあるんよ。
失くして得られるものがあるというか、何かを得るにはいくつか無くさんといかんというか…。
いつもながら簡単にくくってしまう、浅薄なぼくのメタファーの読み解きである。決して「非武装中立」のススメとは解しない。価値観や信条を共有しない国家間では漫画になってしまうから。
「ポニョ、宗助、好き…」
「大丈夫だよ、ぼくが守ってあげるからね」
つまり人間の男の子を好きになった魚の子のポニョが宗助に逢いたいと海の底から家出して、嵐のような海を駈ける、駈ける…。ジャマイカのボルトを見てるような爽快感。女の子になったポニョ、失うものも知らず人間になりたいってか。うまく再会してくれよ、とオヤジが手に汗握って応援している。ポニョのイノセントな思慕に共感している。5才相当の主人公たちに同化する訳だ。
考えれば、ポニョのピュアというか、天真爛漫というかその気持ちが、私たちが住む世界を海の底に沈めてしまうというとんでもなく迷惑…、どころでない話なのだが、
「ワシんち、海の底ぉ」
と、現実感で我に返らんでもないが、それさえ許してしまえるどうでもよさって何なのか。反面、怖ろしくもあるが、純粋無垢とかナイーヴって突き詰めれば恐ろしいのではないのか。故に、無垢は強い。
星野JAPANに言いたかった、
「子どもの頃の楽しかった野球を思い出せよ」。
口パクや花火のCGで偽装した中国にも見せてやりたい。チベットやウィグルを覆い隠して、何て不純な五輪だったろう。都市とアスリートのためのスポーツ祭典がクーベルタンの理念だったはず。国家や軍隊を前に出すオリンピックなんて汚れている。
ポニョが内なる何かを呼び起したことは確かだ。ラストにかけて一気呵成に沸き起こる伏線の妙、それはストーリーに魅せられてすっかり忘却していたものだ、さらに、鑑賞者の感情の爆発をともなって心が洗われる。文字通り心地よい「カタルシス」。心が浄化される。ラストでおなじみのポニョの主題歌が流れ始めた途端、不覚にもぼくの眼から涙が溢れていた。
宮崎駿なら何を作っても許されるのか。映画を観る前、そんな批評があったことを思い出す。
いいのだよ。
宮崎作品とともに成長して来たファンにとってそれは突飛でも突拍子もないものでもなくて、とっくに昇華してしまってることなのだ。
2008年夏、ぼくの中で何かが終わり、何かが始まっている。