大正の終りから昭和の初めの頃のこと。当時、この地域の住民の脅威のひとつに、疫病があった。もちろん津波を含む天災を除いてのことであるが、それ以上に深刻だった。衛生状態は現代からは想像もできないほど劣悪で、予防処置もほとんど進んでおらず、第一、医療機関と呼べるものがなかった。おそらく国中が伝染病の温床のような時代、罹れば間違いなく死に至り、しかも瞬く間に多くの人に感染する。大正8年にはスペイン風邪が蔓延したが、この地域とも無縁でなく、地域差はあるものの多くの犠牲者が出た。
その記憶も生々しい頃、町の有志たちが病院設立に動き出した。志摩の人々の悲願が込められていた。
- 大正13年10月…発起人会開催
- 大正14年4月…創立総会開催
- 大正15年8月病床数30の病舎完成
- 同10月開院
こうして作られたのが、「株式会社高砂病院」である。
年表に起こせば淡々と書けるが、並々ならぬ苦労があったことは想像に難くない。まず資金調達の問題。今ほど豊かではない。私財を投げ打って、という表現が正しかっただろう。さらに敷地買い上げから病舎建設までのハ-ド面の工面、また、関係機関との折衝、医療スタッフの招聘などのソフト面においても、地道で粘り強い活動があっての成果である。
特筆すべきは、開院後まもなくの昭和2年9月に結核隔離病棟を完成させるなど、病舎を滞ることなく着々と建設し、総合病院としての歩みを続けていることである。また、昭和5年4月に三重県指定看護婦養成所を併設したことも興味深い。同じ年10月にレントゲン室完成、間をおくものの昭和11年3月産婦人科診療室および手術室完成と、狙いを外さず的確な戦略を貫いている。これが民間人の仕事なのだから驚かされる。
疫病対策に戻るが、昭和年代に入って鵜方村ほか11ヶ村が伝染病隔離病舎を共同処理するために「志摩郡南部伝染病院組合」を設立し、病舎を高砂病院に併設するよう決めているが、これも既存の総合病院があればこそである。
戦後、県立の志摩病院となり、県都から遠くへだった僻地においては未曾有の公立総合病院として存続しているのはご存知のとおりである。その礎として役割を担った高砂病院の存在は大きいものがあった。先人の辛苦に対し顕彰する機会は薄れ、その名は院内の食堂に残るだけとなったが、志摩病院は地域医療における貢献度をますます高めつつある。
病院の存在は、医療の安心ばかりでなく、雇用の促進、、町への集客力と、地域住民はもとより町にも、もたらしてくれた恩恵は計り知れない。しかも、現代に継続しているのである。
有志の、私財を投げ打った尊い行為が連綿と繋がった例である。だが、大いなる恵みを受けつつも、このこと知る人は少なく、わずかに旧町の町史に記されているのみである。
最近のニュースは暗い。ライブドア騒動、耐震偽装問題、東横インの問題など、究極、お金にまつわる事件のいやらしさはどうだろう。甲斐性のないぼくが言っても何の説得力もないが、お金持ちへの道は遠く、難しい。そして、お金持ちであることもこれまた遥かに難しいと感じたのも、これらの事件を耳にしたときだ。なりふり構わず、余裕のない稼ぎからは他人を幸せにするゆとりは生まれない。他者のために、身銭を切る、身代を投げ打つことが希少になった時代が、果たしてよい時代なのだろうか。富者の質が問われている気がしてならない。
さて、富も何もないぼくがひとのためにできること。笑いをさしあげようと思う。笑わせる余裕のないとき…は、せめて微笑みだけでも贈ってさしあげたいものである。
ボビー・ソロの「君に涙と微笑みを」が流れる教室。あたかも60年代に戻った自分がいる。