鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

堀江駿河守の動向

2022-08-20 17:50:31 | 堀江氏
戦国期上杉氏の家臣として堀江駿河守が所見される。「堀江宗親」の名で知られる人物である。今回は、駿河守について検討していく。


その初見は永禄7年9月5日直江政綱書状(*1)である。第五次川中島合戦に関連して発給された書状である。この頃川中島に在陣する武田信玄に対抗するため、飯山城に在城し普請を行う上杉謙信が直江政綱を通じて、信玄の陣所の探索、旭山城、髻山城、北国街道小玉坂への偵察を堀江駿河守、岩船藤左衛門尉に命じている。

文中に「其地打振、日々小玉坂相働由申候」とあり、追而書には「堀駿に申候、日夜之御辛労之由、御諚候間、弥御稼、簡要候、以上」とある。堀江駿河守が前線に立って軍事活動に励んでいたことがわかる。駿河守がいた「其地」はわからないが、飯山城と小玉坂の立地を考えると、野尻湖周辺であろうか。

同年10月2日上杉輝虎書状(*2)において、輝虎が飯山城普請完成と自身の春日山城帰城を堀江駿河守、岩船藤左衛門尉に伝え、なお武田軍の動向の動向を探るように命じている。この書状で岩船藤左衛門尉へは帰府が命じられており、駿河守がこれ以後も信越国境の守備を任されたと推測される。


続いて、永禄8年4月24日上杉輝虎書状(*3)に堀江駿河守の名が見える。この頃、輝虎の関東出陣が計画されており、その先陣として金津新兵衛尉、村上義清、桃井伊豆守、新発田右衛門大夫、長尾顕景と堀江駿河守が上野国長井まで出陣したことが記されている。輝虎の軍事力の中核を担った有力武将らに堀江駿河守が併記されている点は、駿河守の家中での立場が彼らに比肩するものであったことを示唆している。


さらに、元亀2年4月24日上杉謙信感状(*4)にも駿河守が登場する。当時謙信の影響下にあった越中神保長職の要請を受け越中の反上杉派を制圧した際、窪田右近允が敵を討取ったことを賞した文書である。そして窪田右近允の活躍は「堀江駿河守ニ敵地江調義申付候処」になされたことが記されており、駿河守が「敵地」攻めを任される武将であったことがわかる。やはり駿河守が一定規模の軍団の指揮権を保持していたことが理解される。

駿河守は天正5年12月成立の『上杉家家中名字尽手本』にも「堀江駿河守」と記載される。


続く所見は天正8年9月25日上杉景勝判物(*5)である。ここで安田能元の所領として「本地并今度出置候堀江駿河守一跡」が挙げられている。御館の乱が終結し、戦後処理がなされていた頃の文書である。つまり、御館の乱後に駿河守の領地が毛利安田氏へ褒賞として与えられている。

御館の乱と堀江氏の動向については堀江玄蕃頭なる人物への言及が必要なためここでは割愛し、後日検討していく。

問題は駿河守の活動時期の下限が不明瞭な点である。御館の乱を契機に没落したのか、それ以前に死去し闕所となっていた所領のみ分配されたのか、はたまた没収された領地は一部で御館の乱を生き延びその後も武将として活動を続けたのか。


結論から言えば、堀江駿河守は御館の乱後においても生存し活動を続けていた可能性が高い。

その根拠となるのが、天正13年上条冝順書状(*6)である。

[史料1](*6)
御書謹而頂戴奉忝存候、仍而此表之御普請、先日以絵図被申上候所ヨリ三里近ニ可然所候間、各見立候而、則普請仕候、水も御座候、少も無油断申付候間、乍恐可被 御心安思召候、併人脚漸々卅計御座候間、迷惑存候、於様子者鴎閑斎可被申上候、随而、両地武者之儀、誠推参ニ雖可被 思召不顧憚申上候キ、謙信様御代ニも、堀江新地ニ被差置候条、彼者ヲ可被 仰付候、尤宝蔵院・芋川ニ被差添候者、大略五百余可有御座候由、奉存候、如 御意之万事御急相極存候、当口被明 御隙上下被合 御覧候而、無二被成 御出馬、被直御備尤奉存候旨、可預御取成候、恐惶謹言、
尚々、越中表無相替儀候由、御肝要候、殊下筋御仕合、御天道目出難申上候、又小倉・村山・宇野相稼申候、以上
  四月十一日     上條入道 宜順
  直江殿


これは海津城へ派遣された上条冝順(政繁)が周辺の状況を直江兼続へ報告している文書である。この中に「謙信様御代ニも、堀江新地ニ被差置候条、彼者ヲ可被 仰付候」、謙信の頃には「新地」に「堀江」が置かれており今回も「彼者」に任せるべきである、との一文がある。内容から「彼者」は「堀江」と同一人物と考えられる。

ここで堀江駿河守が永禄7年に「其地」にて活動したこととの関連が想起される。「謙信様御代」に任された「新地」とは「其地」のことではなかったか。当時第五次川中島合戦の最中で、信越国境の防衛のため普請が急がれていた。

永禄12年8月23日上杉輝虎書状(*7)にて輝虎が直江景綱、本庄宗緩に「其内信州口堅固之仕置簡心候、飯山、市川、野尻新地用心目付油断有間敷候」と伝えている。「新地」=「野尻新地」=「其地」と考えれば、自然である。

つまり「彼者」こそが堀江駿河守であり、御館の乱後も一拠点を任される立場にあったことが示されるのである。尤も上条宜順が議題にしている「新地」は直近に見立てて普請していることが記されているから、「謙信様御代」に堀江を差し置いた「新地」とは別の場所である可能性が高い。当時、上条宜順と直江兼続は政治的に対立しており、宜順は自らの主張を補強するために駿河守の実績を強調したのだろう。


さて、ここまで文書類をもとに堀江駿河守の動向を見てきた。系図や所伝類ではどうだろうか。

『諸士系図』では堀江氏として「宗親」という人物が挙げられている。この他に堀江氏の記載はない。「宗親」に関する記載は次の通り


[史料2]『諸士系図』
堀江駿河守実山村若狭守三男、越中鮫尾城守天正六年五月十五日三郎景虎ニ一味シ手勢数百騎ヲ召具シ御館ニ楯篭ル、同七年二月十一日宗信(ママ)御館方勢衰ルニ付安田景元エ内通シ降参ノ色顕シ御館ヲ立退手勢ヲ引連鮫尾城ニ帰ル、三月十七日景虎勢究リ御館ヲ立出テ鮫尾ニ入テ宗親ヲ頼マル、宗親一旦奉□頼ト雖モ景虎ノ頼ナキヲ知リ□ニ安田摠八郎ニ内通シ二ノ丸ニ火ヲ揚ケ鮫尾城落居宗親助命アリ


非常に興味深い内容である。

まず、実名については『謙信公御書集』にも「堀江駿河守宗親」の記載がある。堀江玄蕃頭との混同や所伝の信憑性など注意点は多いが、ひとまず「堀江駿河守」=「宗親」と伝わっていることを示しておく。


また、駿河守が山村氏出身という点も気になる。山村氏は大永期から天文初期にかけて所見がある。山村若狭守は長尾為景の家臣として能登畠山氏と音信を交わし(*8)、三分一原合戦では山村藤三が活躍している(*9)。

この山村氏出身説は一見信じられないように思えるが、『上杉御年譜』や『越後名寄』などで山村氏の拠点が頸城郡青木とされている点は同説に真実味を与えている。この青木は現在の上越市にあり、御館の乱で堀江氏が籠城する鮫ケ尾城に近接しているのである。

また、三分一原合戦で負傷した山村藤蔵へ信濃の領主高梨政盛から慰問の書状(*10)が届けられている。これらの点から山村氏が信越国境近くに拠点を持ち信濃との関係も深かったことが推測されるのである。堀江駿河守が信越国境での活動が目立つ理由として、地縁的な関係が存在したからではないかと考えられるのである。

さらに、『先祖由緒帳』などから永禄7年で駿河守と共に活動していた岩舟氏は信濃岩船出身であることがわかっている。上記の点を踏まえると、堀江駿河守もその出自が信越国境に深く関わっていた可能性は高いといえる。

『諸士系図』の記載自体は信憑性の疑われるものが多く、堀江駿河守についてもそのまま信じることはできないが、駿河守が山村氏出身であれば信越国境や鮫ケ尾城との関係も説明がつくことは事実であり、岩舟氏のような類似例も所見されている。駿河守が山村氏出身であるという点は蓋然性の高いものと考えている。


ただ、駿河守が継いだ堀江氏自体についてはよくわからない。天正期に堀江甚五左衛門という人物が見えるが、『先祖由緒帳』によると越前出身で上杉謙信の代に登用されたという。朝倉氏家臣の越前堀江氏の一族が想定される。ただ、駿河守との関連性は史料からは見いだせない。全くの憶測であるが、上杉謙信の旗本強化の一環としてこういった人物と縁組を結ばせ箔付けとして堀江氏を名乗っていたのだろうか。


ここまで、堀江駿河守について検討してきた。研究が少なく出自から動向まで不明瞭な点が多い武将であったが、文書や史料類を参考にすればその軍事活動の動向や家中で担っていた役割など明らかになる点も多数あった。特に、堀江氏という名前から俗説では越前との関連が取沙汰されるが、実際には山村氏出身の可能性がありその地縁的関係を元に信越国境の守備に関わっていたと推測される点は注目すべきである。

続いて、駿河守の一族と推定される堀江玄蕃頭についても検討を進めていきたい。


*1) 『上越市史』別編1、433号
*2) 同上、436号
*3) 『新潟県史』資料編5、4040号
*4) 『上越市史』別編1、1046号
*5) 『新潟県史』資料編4、1576号
*6) 『越佐史料』6巻、172頁
*7) 『越佐史料』4巻、813頁
*8)『越佐史料』3巻、676頁
*9)同上、830頁
*10)同上、831頁

※23/6/24 三分一原合戦について一部修正した。