鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

黒川為実と御館の乱2

2020-08-20 09:33:56 | 和田黒川氏
前回は天正7年4月に為実が前年に落とした鳥坂城が奪回された時点までを検討した。今回は、その後を辿っていきたい。


[史料1]『中条町史』資料編1、1-609号
急度令啓之候、仍後藤左衛門尉府内へ為使指越申候ける、御挨拶之様体共聞召候而、可為御大慶候、其元御家中衆御相談候而、此上之事御工夫ニ可有之候、万々任彼口頭候、恐々謹言、
 (朱書)「天正七年」
六月五日       遠山
              基信
  黒川殿 御宿所

[史料2]『上越市史』別編2、1843号
来翰祝着之至候、抑近年牢浪候而、其地在留之由、上民内々申理候条、其方進退之儀、今度越国江茂申越候、乍勿論本意之上者、別而当方甚深千言万句候、仍段子一巻到来目出度候、任折節薄板一端進之候、猶遠藤山城守可申候、恐々謹言、
 林鐘(六月)廿五日    輝宗
  黒川源次郎殿

[史料1]と[史料2]は内容から同年に出された文書である。

[史料2]「抑近年牢浪候而、其地在留之由、上民内々申理候」とあり、為実が鳥坂城落城後黒川城でも支えきれずと判断して上郡山氏と共に出羽国小国まで後退したことがわかる。同日に伊達輝宗が上杉景勝へ「近来無音之条、御床敷候処、御懇章快然之至候」(*1)として連絡をとっており、この書状と同じに出されたものであろう。すると、天正7年3月末に上杉景虎が切腹した後まもなくの伊達輝宗と上杉景勝が交信したと考えるのは自然であり、[史料1]の朱書とも合致することから、天正7年6月の書状として良いだろう(*2)。

伊達輝宗は「其方進退之儀、今度越国江茂申越候」とあるように、為実の復帰を上杉景勝へ交渉していた。伊達氏も為実の支援をしていたわけであるから、為実の復帰を含め景勝方との戦後交渉は必須であったと考えられる。

[史料1]では遠藤基信が為実に伊達氏から越後へ使者が派遣されたことを伝え、「此上之事御工夫ニ可有之候」と、復帰に関して為実自身も工夫するようにと伝えている。

よって、天正7年4月の鳥坂城落城を受け為実は小国へ後退、6月には伊達氏の援助により越後復帰の交渉を開始した、とわかった。

ちなみに、この年9月になると、越後において直江信綱が家臣本村新介へ「去年以来様々相稼奉公致候間、黒川分出置候」として、黒川氏の所領を宛がっている。黒川氏は御館の乱後、減封されたと思われるがその具体的な事例が見える。


[史料3]『上越市史』別編2、1892号
就今度黒川帰郷、貴札并以中津丹波守方御口上之趣、委曲承之候、已前度々如申上、彼進退更非覚悟之外候、御威機躰黙止存、相任 御意候、(後略)
 (朱書)「永禄十一」
 極月廿八日     雨順斎
             全長
 米澤江 貴報人々御中

そして、為実の復帰が決まったのは天正7年の12月であった。[史料3]は為実が伊達輝宗の後ろ盾の元黒川へ復帰することが本庄全長へ伝えられ、全長がそれを認めた書状である。朱書は永禄11年とするが明らかな誤りである。署名雨順斎全長は天正9年までの繁長の名乗りであり、[史料1][史料2]との繋がりで天正7年に比定できるであろう。

まとめると、次の通りである。天正7年4月鳥坂城落城した後、上郡山氏拠点の出羽小国まで後退する。その後、伊達氏の支援で6月頃から交渉が開始され12月までには復帰が決まった。

以上、ここまで数回に渡って黒川為実について検討した。

四郎次郎(竹福丸)では謙信との関係性、為実では伊達氏との関係性が深かったという考察を行ってきた。ただ、それは二人の性格や思考によるものではなく、時期と周辺情勢によるものだったと考える。まず、大前提となるのは黒川氏が領主として独立性を持つ存在ではあったが、完全に独立することは不可能であったと言うことだ。すなわち、領主として上位権力からの干渉を抑えながらも、自らの存在維持のために上位権力の後ろ盾は不可欠だったと考えられる。これを踏まえると、四郎次郎(竹福丸)が上杉謙信という強力な上位権力に抱合され、謙信死後為実が伊達氏という戦国大名に接近したのは必然であろう。伊達氏とはまた地理的な近接関係も作用したと考えられ、戦国時代の地域性を考える上で示唆的である。

黒川氏の動向は、戦国大名と領主の関係を考える上で良い例であり、戦国大名上杉謙信の存在形態の一端を示すものとして重要なものと考えられよう。


*1)『上越市史』別編2、1842号
*2)ただ、[史料2]の「近年穿浪」の表現より為実の亡命は複数年に渡り越後復帰と伊達氏上杉氏の交渉は天正8年かとも捉えられるが、景勝が蘆名氏と交渉したのは天正7年であり、伊達氏とも天正7年に交渉を始めたと考えるべきである。


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