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鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

庄田内匠助の動向

2025-06-15 11:48:57 | 庄田氏
戦国期越後において、主に栖吉長尾氏の家臣として庄田氏が見える。

庄田氏の初見は庄田内匠助である。実名は不明。年次が確実な史料では大永3年閏3月10日大熊政秀書状[史料1]、享禄2年2月21日大熊政秀書状[史料2]がある。年不詳12月10日大熊政秀書状[史料9]からは永正期からの活動が推測される。年不詳三宅政家書状[史料7]では古志の在地勢力である三宅氏が「房景様之御家風同前に可走」ことを望み、内匠助へ「貴所の御しなんひとへにたのミ入候」と栖吉長尾氏への取次を依頼している。このことからこの時既に庄田氏は栖吉長尾氏の有力な被官として存在したことがわかる。これは年不詳伊予部顕資書状[参考3]に「従郡内いろいゆめゝ不可有之由、大関・庄田・只見両三人はうへ、御一札を被成候はゝ、忝可奉存候」=古志郡内に綺がないように大関・庄田・只見の三人に伝えてほしいとあり、古志郡司栖吉長尾氏の重臣として大関氏・只見氏と並んで庄田氏が挙げられていることからも理解される。時期的に伊予部氏書状における「庄田」も内匠助で間違いないだろう。以下、庄田内匠助に関連する書状を示しておく。

[史料1]大永3年閏3月10日庄田内匠助宛大熊政秀書状(『新潟県史』資料編3、459号)
「御家風屋敷」について内匠助と越後上杉氏家臣大熊氏がやり取り。越後上杉氏と栖吉長尾氏との何らかの交渉に関する文書であろう。

[史料2]享禄2年2月21日庄田内匠助宛大熊政秀書状(同上、457号)
「御合宿中」なる集団を「当地」(=越後府中か)へ召し寄せるよう内匠助が求められている。これも栖吉長尾氏の家臣統制について越後上杉氏家臣が交渉している様子が窺える。

[史料3]年不詳2月27日庄田内匠助宛山吉政久書状(同上454号)
「人頭雑物」を返還しさらに「長谷川」を成敗したことについて、山吉氏から感謝されている。そのまま捉えれば、山吉氏領内で横領に及んだ長谷川氏が隣接する栖吉長尾氏領内へ逃亡したが、山吉氏に協力する栖吉長尾氏により解決したと考えらえられる。文中から栖吉長尾氏家臣として山吉氏との交渉に、大関氏と共に内匠助があったたことがわかる。

[史料4]年不詳4月8日庄田内匠助宛大熊政秀書状(同上458) 
蜷川氏の名跡について栖吉長尾氏、越後上杉氏間で交渉があったようで内匠助が担当している。

[史料5]年不詳5月25日庄田内匠助宛河上久能書状(同上461)
栖吉長尾氏領近辺の小領主と思われる河上氏が「御近所義」により「御扶助」がもらえれば栖吉長尾氏へ「奉公」する意思を示している。栖吉長尾氏側の取次として内匠助が交渉をしていると考えられる。いわゆる国衆レベルの領主が近隣の小領主を庇護する形で内包し増大していく過程がよく表れているといえる。

[史料6]年不詳9月5日庄田内匠助宛三宅政家書状(同上455号)
古志郡の小領主と思われる三宅氏が栖吉長尾氏へ、「御扶助」を受け「御家風同前ニ可走廻候」ことを伝えている。[史料5]の河上氏と同様のケースと思われる。栖吉長尾氏側の取次として内匠助が交渉している。

[史料7]年不詳9月5日庄田内匠助宛三宅政家書状(同上456号)
三宅氏が庄田氏へ「御しなん」=取次を重ねて頼み込んでいる。

[史料8] 年不詳11月29日安吉資忠書状(同上462) 
内匠助が安吉氏へ小向村の年貢収納するよう要請したことに対しての応答。不作や村人の抵抗などもあってか収納は困難な状況があったという。これについては阿部洋輔氏の研究(*1)に詳しい。

[史料9]年不詳12月10日庄田内匠助宛大熊政秀書状(同上460号)
内匠助宛に栖吉長尾氏が御料所へ年貢を催促し収納するように越後上杉氏より要請されている。大熊政秀が新左衛門尉を名乗っており、永正期から大永3年までの文書とされる。

[参考1]年不詳安吉氏宛鳥羽政資請状(同上581号)
[史料8]で難航していた小向村の年貢収納を同村の年貢負担者でもあった鳥羽氏が請け負ったことが伝えられた。その中で鳥羽氏の息子が庄田内匠助を通じて栖吉長尾氏に出仕し、今後軍役等の怠慢があれば改易を受け入れることを明言しており、小向村の有力者であった鳥羽氏が栖吉長尾氏に被官化したことがわかる。

[参考2]年不詳大関五郎左衛門宛五十嵐惟秀申状(同上449号)
栖吉長尾氏領内における所領問題について、庄田氏や只見氏、大関氏らがその解決に努めていた様子がある。

[参考3]年不詳大熊政秀宛伊予部顕資書状(同上471号)
古志郡の小領主伊予部氏が「従郡内いろいゆめゆめ不可有之由、大関、庄田、只見両三人ほうへ、御一札を被成候ハゝ、忝可奉存候」とあり、栖吉長尾氏の窓口として大関氏、只見氏と並んで内匠助が存在していたことが示される。

[参考4]年不詳宛名不明庄田小二郎申状(新463)
庄田小二郎が「本所」=五貫文を失い「三年無足」で軍役を果たし、その活躍を記し本所の返還を主張している。本所には屋敷があり困っているという。内匠助の一族であろうか。


ここまで、庄田内匠助の文書を見てきた。只見氏、大関氏らと共に栖吉長尾氏の三重臣としてその所領支配や外交に重要な立場を担っていたことが推測された。この庄田氏の立場は、のちに栖吉長尾氏を継承する長尾景虎のもとでも維持されている。次回は、景虎の家臣として活動した庄田定賢についても見ていきたい。


*1)阿部洋輔氏「古志長尾氏の郡司支配」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)


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