鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

八条房繁と越後八条氏

2022-12-03 10:31:00 | 八条上杉氏
八条上杉氏として八条房繁がいる。この人物は八条流馬術の開祖と伝わっているが、具体的な検討は見ない。従って、越後八条上杉氏との関係や活動時期なども明らかではない。今回は、八条房繁について検討し、越後八条上杉氏を考える上での参考にしたい。


1>房繁の活動時期
結論から言えば八条房繁は天文・永禄期の人物であると推測される。

まず、天正18年11月の日付をもつ「着色八条流早馬の秘書」(*1)なる文書があり、「八条近江守房繁」の名前が確認できることから、馬術の祖として八条房繁が存在したことは確実とみられる。内容からは天正期の活動を裏付けるものではなさそうであるが、天正期以前の人物であることはわかる。


『上杉系図浅羽本』や『寛政重修諸家譜』からは八条上杉氏の祖朝顕の子として満朝に加え「房藤」がおり、「房藤」の子に「房繁」がいたとある。系図を信じれば、室町初期の人物のように思える。

しかし、房繁の記載される系図は江戸期以降の作成であり、片桐昭彦氏(*2)により文明9年作と推定される『上杉系図大概』には「房藤」の記載はあるが、房繁の記載はない。つまり、八条馬術の開祖として有名であった房繁が後世にて書き加えられた可能性が考えられる。単に末裔として名の知れた人物を付け加えただけなのか、八条馬術に箔をつけるための政治的意図があったのか様々な可能性があるが、定かではない。


ここで森田真一氏(*3)の紹介する所伝を考えてみたい。森田氏の紹介する所伝は「房繁が小笠原民部少輔稙盛から馬術を取得したのが永正五年八月である」というものだ。永正5年というのは正しくないが、これは活動時期示す貴重な所見である。

所伝に登場する小笠原稙盛がその根拠だ。小笠原稙盛発給の書状(*4)が天文7年に存在し、足利義輝の家臣団を記載した『永禄六年諸役人付』に「小笠原備前守稙盛」の名前が載るからである。さらに足利義輝死後、足利義栄についたため永禄12年に足利義昭により所領が没収されている(*5)。また稙盛へ偏諱を与えたであろう将軍足利義稙がその名を名乗るのは永正10年であるから、それ以後の元服である。つまり、小笠原稙盛は天文・永禄期の人物である。

ちなみに、小笠原稙盛はとある書状(*6)にて馬道具の寸法について尋ねられたが「当流」の範疇ではないため答えられないことを相手に伝えている。これは、稙盛が馬術に秀でており周囲からも認められる存在であったことを示していよう。稙盛が馬術を教示するだけの人物であったことは確かなようだ。

話が逸れてしまったが、馬術の師と伝わる小笠原稙盛から考えると、房繁は天文・永禄期に活動していたと推測される。系図類の記述や俗説などとは大きく異なる。所伝の永正5年とは永禄5年の誤りではないか。


以上をまとめると、八条近江守房繁という人物が天文・永禄期頃に馬術を取得し八条流馬術の開祖となったことが理解される。


2>房繁と越後八条氏
さて、ここまで房繁個人についてはささやかな検討を加えることができた。次いで、房繁と越後八条氏の関係について考える。


まず、房繁の名乗りであるが、系図上の記載では「修理亮」として記載される。修理亮を名乗ったことは文書から確認できないが『上杉系図浅羽本』を始め房繁が載る系図類は一貫して「修理亮」と記している。このことから、文書から確認できた近江守を名乗る以前は修理亮を名乗っていた可能性がある。

森田氏は永正期越後でみられる八条修理亮という人物を房繁に比定しているが、上記でみたように房繁の活動時期は天文・永禄期であろうから、この比定は誤りである。

ただ名乗りが共通している点からは、系譜的に近い関係にあったことが考えられる。つまり、天文永禄期に活動した房繁は永正期八条修理亮の後裔である可能性が考えられる。


また、活動時期と「繁」の一字からは別の人物とのつながりが示唆される。

『高野山清浄心院越後過去名簿』より天文期に白川庄を拠点とする八条憲繁という人物がいたことが明らかになっている。そして、『過去名簿』にて天文11年に憲繁とその血縁であろう八条弥四郎が供養された記録を最後に越後八条氏は所見されないことから、同時期に完全に越後から没落したことが推測される。

天文中期に越後から八条氏が姿を消した直後、京にて「繁」字の共通する房繁が活動していることは偶然とは思えない。すなわち、房繁は憲繁の血縁であり、天文中期の没落を契機に越後から京へ活動の場所を移動させたのではないだろうか。


また、上記2点が事実であれば、白川庄八条氏が永正期八条修理亮の系譜をひく一族であったという推測も成り立つ。つまり、永正期の抗争後における八条修理亮の動向は不明であったが、永正11年六日町合戦に敗れた後は長尾為景に恭順し白川庄を拠点に存続した可能性が想定できるのである。敗戦後に白川庄との関係が新たに作られたとは考え難く、修理亮の家系は元々白川庄を任されていたのではないか。

一連の流れをまとめると、次のようになる。永正の政変で八条成定や房孝が戦死し、その後八条左衛門佐や八条修理亮らが長尾為景に対抗していたが永正11年1月六日町合戦で八条左衛門佐が戦死し残った修理亮は為景へ降伏し自らの拠点白川庄で存続、天文期に八条憲繁が何らかの理由で没落し、一族の八条房繁は京へ亡命した、と考えられる。

推測に拠るところが大きいが房繁の動向を考える上で、これまで不透明であった八条氏一族の動向がおぼろげながら浮かび上がってきたことは興味深い。史料が少なく十分な考察とは言えないが、八条房繁及び白川庄八条氏らの動向についての一仮説として提示しておきたい。


今回八条房繁という人物を考える上で、永正期八条修理亮、白川庄を拠点とする八条氏について検討を加えることができた。ただ、八条氏が天文期に越後から完全に没落したとの推測を行ったが、理由やきっかけなど具体的な点については検討できていない。今後、検討を進めていきたい。


*1) 亀山市歴博物館所蔵『加藤家文書』
*2)片桐昭彦氏「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜」(『山内上杉氏』戒光祥出版)
*3)森田真一氏「越後守護家・八条家と白川荘」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*4)『久我家文書』1巻、807頁
*5)木下昌規氏「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣談」「京都支配から見る足利義昭期室町幕府と織田権力」(『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院)
*6)『大日本古文書』16冊239頁



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