poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

ヨルダン篇 その2

2022年01月04日 | アジア
旅の後半では、下の地図中の➏~➒と➊を訪れました(ただし、ネボ山とマダバは➐に、3ヶ所のdesert castle(城館遺跡)は➑にまとめました)。②~⑤は旅の前半に訪れた場所です。
また、後の下線部の数字とも対応しています。


5・6・7 ワディ・ラム ⇒死海 ⇒ネボ山 ⇒マダバ (2013年12月29日)

この日は200km余り北上する行程だった。宿の食事スタート時刻を30分繰り上げてもらい、7時半に砂漠を後にした。Desert Highwayを南下して一旦アカバに戻り、そこからDead Sea Highwayで死海を目指した。
約4時間のドライブの道すがら、陽気でジョーク好きのドライバーψさんはどんどん話しかけてくる。とても流暢な英語を話せる人なのだが、車中にはアラビア語が飛び交っていた。当時Cちゃんはアラビア語にはまって仕事のお昼休みにも勉強するほどで、ψさんと会話を楽しんでいた。ナマクラなmy英語でも会話に参加すればψさんは応えてくれたと思うがどうにも気力が湧いてこず、聞くともなしに車窓を眺める自分。目の端を流れていく黄色い岩山と砂の大地は、自分が抱く神聖な土地のイメージそのものだった。

11時半過ぎ、公営のアンマン・ビーチに到着。死海に浸かりにやって来た。前年のイスラエル訪問後しばらくして、なぜ死海へ行かなかったのだろうと激しく後悔した。幸い(?)死海は二国にまたがっている。ヨルダン訪問の話がまとまった時、あまり興味の無さそうだったCちゃんに頼み込んで実現した。
ロッカーを信用して、貴重品を全て放り込んで浜辺へ向かう。
遠目にはこんな感じで、フツーの海辺となんら変わらない雰囲気。

ハイシーズンではないため混みあってはいないものの、観光客がチラホラいた。ムスリムの多い国で水着はどうなのかと思っていたが、欧米人はさすがに大胆なビキニを着ている。

浜辺に貴重品を置くわけにもいかず、Cちゃんと交互に 海に入る→撮影 のターンを繰り返した。
一応背泳ぎできるので浮かばないはずはないと思っていたが、それにしても浮く、浮く
旅の前に死海で浮かんでくると美容師さんにしゃべったら、極力髪は浸さない方がいいと言われたため、お腹に力を入れて上半身の角度を保たざるを得なかったのだが・・・対照的に伸ばした下半身が軽々と持ち上がるのに抗うことはできなかった。これ、髪を気にせず全身の力を抜いたならば、相当ポッカリ浮き上がったと思う。
実は子どもの頃に見た、死海で浮かびつつ新聞を広げる写真のインパクトが強く、ぜひ再現したいと思った。泊まったホテルにあったパンフレットを小道具として広げた様子を撮ってもらったが、かなりズームのため皆様の正視に耐えられるものではなく・・・Cちゃんが遠くから撮ってくれた画像を載せるのが精一杯

水温が低くて長居できないだろうと思っていたが、予想以上に温かめで長い時間楽しむことができた。時間が許すならば、もっともっと浸っていたかった 
とにもかくにも、付き合ってくれたCちゃんには感謝しかない。
海からあがってロッカーに隣接するシャワー室を利用した後、昼食。いつものごとく画像がないうえに備忘録にも記しておらず・・・何を食べたか、もはや不明
結局 死海で2時間ほど過ごし、ネボ山へ向かう。

30分で到着、もっと遠いと思っていたので拍子抜け。地図を見たらそれもそのはず、20㎞ほどの距離だった。
朝から車窓を眺めつつ薄々予感はしていたが、あいにくの天気で"約束の地”は霞んでいた。標識をもとに あっちがエルサレム、こっちがエリコ、と左右に目を配り・・・
「全然見えないんですけど~~」 思いっきり日本語でグチる。標高800余mのこの地はガスがかかりやすいらしい
【モーセに率いられてエジプトから脱出したヘブライ人一行はシナイ山で十戒を授かった後、ヨルダン渓谷の東を北上した。40年荒野を放浪したのちネボ山にやって来たモーセは己の死期の近さを悟り、一行に「あれが約束の地」と西を示してパレスチナへ進むように促して息を引き取ったとされる】


そして、教会【モーゼを記念して4世紀に建てられた教会遺構】は修復中で入れず
教会脇に立つペロニーリョっぽい十字架(ペトラの昼食時に出合ったワインMt.Neboのエチケットに描かれていて、いたく感動したやつ)も工事で近寄れず、撮影しようとするとオレンジ色の工事シートが写ってしまう 破れかぶれだったけど、現実ってこーいうものかもなぁ。

ただ、教会内に飾られていたモザイクの一部が運び出されていて、目にすることができたのはせめてもの救いだった。



ネボ山からこの日の宿があるマダバへはたった10分で到着し、4日間ドライバーを務めてくれたψさんとここでお別れした。15時に空港でピックアップする仕事が急きょ入ったようで、死海の辺りから既に気もそぞろの感じだったが、感慨皆無の慌ただしい別れとなった。

14時半、ホテルにチェックイン。ここは自分より1日早く入国したCちゃんが初日に泊まった場所でもあった。
翌日午後にはマダバを発つので、効率を考えて見てまわらねば・・・というわけで、最も離れている十二使徒教会から攻めることにする(といっても、たかだか1㎞先だが)。
モザイク保存のため立ち入り禁止箇所が多かったのだが、券売所のお兄ちゃんが間近で見られる場所を案内してくれて、かなり近づくことができた。
床一面に広がるモザイク【マダバで最も面積が大きい】。

その一部に寄ると、こんな感じ。海の女神。

少年に、鳥と壺。

色あせているが、人間の下半身が見てとれる。

格子の中にモチーフを配するデザイン、タペストリーにしたいような可愛さ 木や鳥に交じって、葡萄も登場。

3頭の動物は全部違うようだが・・・何だろう 


次はマダバ博物館へ。ガイドブック情報を鵜呑みにして17時closedのつもりでいたら、冬季は16時閉館と判明。20分しかない
そして踊る女性のモザイクを写した直後、この旅2度目の充電切れ 

またしても女神なCちゃんの許可を得て、この日の続きはCちゃんが撮った画像とともにお送りします
はっきりと十字架。

この博物館、屋内と屋外の両方にモザイクが展示されていた。思えば、壺のモチーフも多かったなぁ・・・

たてがみがあるから、手前はライオンかなぁ。ブドウの蔓が図面全体にアクセントをもたらしている。

ニワトリに、組み紐模様。

はて、この動物は。たてがみらしきものがあるけど、馬じゃないよね シッポが太いのが気になる・・・

予定にはなかったが、通りかかったラテン修道院にフラリと入ってみた。イエス・キリストに洗礼をほどこしたバプテスマのヨハネを記念しているらしく、タンパンにはヨハネの生首モザイク【マダバの南西18㎞にあるムカ―ウィルは、バプテスマのヨハネ最期の地とされる。ヘロデ・アンティパス(ガリラヤ太守)が異母兄弟の妻だったヘロデヤを後妻に迎えようとしたのを諭したヨハネは投獄された。宴で披露されたヘロデヤの娘(連れ子)の踊りに感心したヘロデは、何でも望みを叶えようと言う。母ヘロデヤの入れ知恵により、娘はヨハネの首を所望した。19世紀末、このエピソードを下敷きに書かれた戯曲でヘロデヤの娘に「サロメ」と名が与えられ、広く知られるようになった。聖書にはあくまでも「ヘロデヤの娘」としか記されていない】。


外観に違わず、内部も新しそうである。

ステンドグラスの意匠は珍しいものが多い。右下は椰子の木と海・・・アカバ? その上は死海? 左の真ん中は、この日の車窓の風景のような黄色い岩山。
真ん中の一番上は十戒が書かれた石板だろう。

クリッペ。イエスが生まれた馬小屋だけでなく、東方の三博士とか羊飼いなどの周辺も丁寧に表現されている。

この修道院はガイドブックに紹介されていなかったのだが、地下に下りるとすごかった。マダバ近郊のモザイクやベドウィンテントを再現したり、ビザンチン時代の教会跡も残っていたりして見応えあり 下の画像、再現テント内に座るCちゃんにモザイクをかけている。サイズ感を理解してもらえるとうれしい。

ここにもヨハネの生首が。

見学を終えて上がってきたところで、修道院の方と出くわした。私たちが入った時は無人だったので、そのまま見学を始めてしまってfeeを払っていない。支払おうとする私たちに、「お金がないならいいよ」と。「いやいや、そんなわけにはいかない、支払います」「どこから来たの?」とやり取り。少なくとも、日本人の評価を下げることはなかったと思う。ホッ

お土産のワインを求めて、日が暮れかかる中をAl-Nuthaストリートへ。なんのことはない、十二使徒教会からマダバ博物館へ向かう界隈で、来た道を戻った感じ。そもそもキリスト教徒の多いマダバ周辺ではワインが盛んに造られているという予備知識を得ていたが、実際に歩いていると酒屋が4軒ポツリポツリと看板を掲げていて、ムスリムの多い国としてはレアな光景である
次々とお店に入って、手当たり次第に値段をたずねてみる。アカバの金額を基準にすると、1軒目;明らかに高い(ハーフボトル7JD)、2軒目;値段はまぁまぁだが、埃をかぶっている(回転が心配)、3軒目;2軒目より高い、4軒目;ハーフボトルは高いが、白ワインの種類が豊富。
結局、4軒目で購入したSt.Georgeのフルボトルはこの旅で初めて遭遇したピノ・グリージョ。さらに3軒目に戻って、Petra Beerを入手。エル・ハズネを缶に描くローカルビールには後にも先にも出合わなかったので、千載一遇だった(画像がなくてごめんなさい)

夕食の前に一旦ホテルへ戻って、いい加減な手洗いではあるが水着を干す。通常考えられない濃度の塩分に浸ったので、放置するわけにはいかなかった。暖房を強めにしたら翌朝までに水着は乾いていたが、水気を絞るために使ったバスタオルは塩でネットリしていた
18時半、宿と目と鼻の先の食堂へ。例によって画像はないのだが、備忘録によるとトルコ風サラダ、ハウス風チキン、グリルチーズに赤ワインを食した。
チーズはハロウミを焼いたもの【キプロス原産のチーズ。ヤギや羊のミルクから作られ、熱しても溶けない。繊維状に裂け、独特の食感を持つ】。自分は経験済みだったが、初めて口にしたCちゃんはいたく感激していた。キュッキュッとした歯ごたえは他の追随を許さない領域だもんな~ 距離にして500㎞。そう遠くはないので無理からぬことだけど、キプロスからハロウミが地中海を渡って伝播し、さらに香辛料でアラビア風にアレンジされているのがなんとも興味深かった

7・8・1 マダバ ⇒ハラナ城・アムラ城・アズラック城 ⇒アンマン (2013年12月30日)

この日は午前中にマダバを観光した後、desert palaceを経由してアンマンへ向かうことになっていた。
朝、目覚まし時計が鳴る前に起きていたCちゃんが腹痛を訴えた。私が身支度を整えている間にも、何度もトイレを出たり入ったり・・・
もちろん朝食はパスして、チェックアウトの10時まで部屋で寝ているという。痛むのはお腹の真ん中で、暴飲暴食後に経験のある痛みだとCちゃんは言う。
もしかしたら、数ヶ月前にモロッコで自分が経験したのと同じような状況なのかもなぁ・・・ついていなくても大丈夫だろうと判断し、独りマダバをまわることにした。
もともと郵便局で切手を買って両替もする予定だったので、Cちゃんからお金を預かって2人分の用を足すことになった。が、オフィスアワーには少し早い8時20分。まずは聖ジョージ教会へ行くことにした。

この教会、一見何の変哲もない感じなのだが・・・


床に残るモザイクで、マダバいち有名な教会なのである。朝早めだからか観光客もまばらで、好きなだけ眺めることができたのはラッキーだった

あちこち欠けてはいるものの、6世紀のパレスチナの地図がど~んと描かれている。全体像はこんな感じ。

この地図は西の方角が下になるように表現されていて、真ん中がエルサレム、その上(東)に死海とヨルダン川が配されている。

エルサレムに寄ると、こんな感じ。イエス臨終の地に建てられたという聖墳墓教会が黄色い塔のようにひときわ大きく描かれている。

ヨルダン川の下(西)にある町はエリコ。
そして、ヨルダン川にご注目あれ。ぶつかりそうになっている二匹の魚のうち、右は命からがら死海から引き返しているという。なんとユーモラス

こちらは、自分のカメラでは収まりきらなかったモザイク右端の部分。右(南)の真ん中がナイル川の支流という。その左(北)、建物がまばらで岩山があるのはシナイ半島にあたる。


時間を見計らって郵便局へ。17枚のハガキを日本へ送りたいと告げると、局員さんは絶句していた。
両替に至っては、150$の後すぐに240$替えてほしいと言ったら職員さんはゲッて一瞬顔をしかめたけど、そんなの気にしてられない。だって、2人分なんだもん
大金を持ち歩くのは憚られたので、一旦ホテルに戻ってCちゃんに切手とお金を渡した。

さて、次はArchaeological Parkである。まずは敷地内にある聖処女教会(画像左奥)へ。ちなみに、目の前を貫くのは復元されたローマ時代の石畳。

内部はこんな感じ。崩れ落ちた教会の上を覆ってある。モザイク保存のため基本的に床の高さで見ることはできず、見学路に沿って上から見下ろす格好になる。

大きな円の中に小さい円をいくつも重ね、中央は文字で埋め尽くしている。全体的に幾何学的な雰囲気が独特。

上部のモザイク、すごく細かいなぁ~

ズームするとこんな感じ。神話がモチーフ?

大枠の外の表現もかなり凝っている。こちらは3人の女神?

中央のライオンを弓で射ようとする男性。

こちらは別のモザイクだが、ハートと思われるデザインを発見


このParkには実にたくさんのモザイクが点在していた。モザイク好きにはたまらない

四季を表す木のモザイク。右上が花咲く春、その下が実を結ぶ夏、左下が枯れ葉舞う秋、その上が冬。真ん中の丸い岩もオリジナルだろうか トカゲ類のモザイクが施されているようだが・・・

何を照らしているのだろうと思ったら、これまた古そうなモザイク。近寄れなくしてあったので、ズームした画像をお楽しみください。

真ん中に背の高い木、両脇にブドウの木。

敷地内にはモザイク修理所もあるようだった。現代的なモザイクもまた可愛い


10時半前、見学をひととおり終え、お土産探しに移った。翌日にはヨルダンを発つことになっていたが、アンマンではあまり時間が取れそうもなかった。
叔母(母の妹。1998年のトルコを皮切りに、祖母の具合が悪くなるまでは何度も一緒に旅した)には少し良いモノを買って帰ろうと思っていたが、ここまでなかなか決まらずモヤモヤしていた。が、先ほどのParkでモザイクにピンときた。有名なモザイクの町だけあって、モザイク専門店もいくつかあった。
ここまで色々見てきて、植物がふんだんに描かれているのがヨルダンのモザイクの特徴だと思ったので、tree of lifeを選んだ。言い値の25JDから5JD下げて買ったのだが、もっと粘ればよかったのかとも思う。値引き交渉があまり得意ではない自分

ともあれ、ミッションを1つクリアし晴れ晴れとした心持ちで坂道を上った、酒屋を目指して。前日に4軒まわった後、ハーフボトルを買うなら2軒目だなと考えた。オープン時間から余裕を持たせて11時15分に行ってみたものの、シャッターが下りていた。アバウトだなぁ・・・
やむなく、前日にピノ・グリを買った4軒目のお店へ向かった。連日で多少ばつが悪かったので、“I’m coming again."と言ってみたところ、おじちゃんは「昨夜のをもう開けちゃったのか?」と軽くジャブを打ってくる。「お土産用のハーフが欲しいの」とフックで返す。いいなぁ、こーいうやり取り
結局、オススメされたMt.Neboの赤と白を買った。白ワインのエチケットにご注目あれ。ワイン造りを表すこのモザイクがネボ山近くのMukhayyatにある教会のものらしいことは後で知ることになる。

再び中心街へ戻り、土産物屋が並ぶ通りをウロウロ。ついクリスマスオーナメント(直径5cm)を買ってしまった。模様も色もとりどりのガラスがたくさん並ぶなか、自分好みの色があったもので・・・ツリー持ってないんだけどな。それに、こーいうのって沢山吊るすから可愛いのでは、と自分にツッコミながら (この記事を書くにあたり撮影)

買い物って、いつのまにか時間が過ぎる。12時のピックアップが近づいてきたため、通りのシュワルマ屋で買ったサンドで昼食を済ませた。たった1JD=155円也。観光客向けでないものはかなり安い。
そして、午前中に買った切手のうち1枚(100fils)を失くしたことに気づいて郵便局を再訪したが、売り切れという。私たちが買い占めてしまったんだろーか・・・
残念な気持ちが顔に出ていたのだろう、朝もいたオジサマ局員(切手を売ってくれたのとは別の人)が2時間待てば届くよと言ってくれた。出発が迫っているのでムリなのだが、声をかけてくれたその心遣いが嬉しかった

ホテルに戻ると、Cちゃんがロビーにいた。朝よりはマシになったという。
約束の12時をまわって登場したドライバーとは、私と合流する日にCちゃんがマダバから空港まで乗った際に、desert castleを案内してもらう話がまとまっていた。年齢は聞かなかったが、風貌から"おじいちゃん”といってもよい年頃と思われた。
desert castleへの道は、サウジアラビアとイラク方面へ向かうものである。地図上の位置関係からするとそうなるなぁとぼんやり思っていたが、実際に道路標識に出てきた。
ちなみに、一番下のアズラック(とその手前の2ヶ所)を私たちは目指していた。

ドライバーさん曰く、イラクまでずっと同じような景色が続くそうだ。すなわち、火山由来の黒い小石と赤い砂地が入り混じった平坦な荒野と、遠くに岩山。これまでまわってきた南部の黄色い大地・岩山とは多少趣が異なる(下の画像は、帰路に撮影したもの)。


1時間余りで、まずはハラナ城に到着。道路脇に忽然と現れた。周囲には何もない【アンマンの東部に点在するdesert castleは、7~8世紀にウマイヤ朝のカリフが建てた宮殿・狩猟ロッジ・浴場・集会所・要塞、あるいは隊商宿など。desert palaceともいう】。ハラナは要塞やカリフの休憩所など諸説あるが、隊商宿が最も有力らしい。
青空に美しく映える乳白色。均整がとれた角張ったフォルムに見惚れる

入口はこんな感じ。

中庭に立ってみる。

2階へ続く階段。

内部はとてもシンプル(ピンボケ画像しかなくて、ごめんなさい


お次のアムラ城はハラナ城の北東10㎞に位置する【こちらは8世紀の隊商宿を改築したもの。古代の壁画が多く残されており、desert castleの中で唯一世界遺産に登録されている】。画像左の丸いドームは浴場・サウナ。

壁と天井は壁画で埋め尽くされている。格子柄の中に動物や草木を配する構図はモザイクと同様。

イスラムではタブーのはずの裸体が残っている 【この記事を書くにあたり調べたら、これらdesert palaceは表向き征服地の警備のためつくられたとされているが、カリフたちが対立する諸集団の目を逃れ厳しいイスラムの戒律から一時的に逸脱し享楽的に過ごす離宮だった説もあるようだ】

明かり採りの窓が配されたアーチ天井にも壁画。

上の画像の左半分の壁画。コマ割りの画面にはラクダが登場。

2つ上の画像の右半分の壁画。ここにも裸婦。

サウナのドームに広がる絵には、北半球の天体と星座が描かれている。

ムムッ こちらの壁画は素人目にも画風が全然違う。西洋の意匠や色彩の影響を受けている感じ・・・異なる時代に制作されたのだろうか?



最後に20㎞東北東へ進み、アズラック城へ【交通の要衝だったこの地は古くから戦略的に重視され、3世紀のローマ支配時代に要塞が建てられた後、幾度も修築・改築が繰り返されてきたという。かつて「アラビアのロレンス」が滞在したことでも知られる】。なんと、正面入口の扉は岩でできている。こんなの初めて・・・タイムスリップしたみたい

中に入るとこんな感じ。黒玄武岩でつくられた建物の多くは崩れかかっている。

ローマ時代のレリーフの破片がたくさん残されていて、個人的にはかなり楽しかった。
そもそもジグソーパズルのような輪郭が面白い。左のは両脇に木、中央に左右対称に鹿のような動物。右のはプランターのようなモノに植わった植物。

右のは、左手に水瓶を持ち大きな壺の傍に立つ人。

円の周囲を動物と狩猟者が取り巻いている。

びっしり刻まれているのはローマ字だろうか 自信はない・・・

3つまわった中ではアズラック城が最もにぎわっていた。ガイドブック情報どおり、周囲に観光客目当てのお店もあるし、券売所もきっちりあって1JD(共通料金)を支払った。
実は、先に訪れたハラナ城もアムラ城も管理人がいるようないないような感じで、私たちの姿を見てフラッとやって来た人が“どこから来た?” 日本と答えると、どうぞどうぞと通してくれたのだ。この旅を通じて、日本からと口にすると即座にWelcome.と返ってくることが多く、全体的に親日的な印象を受けた。

15時過ぎ、西へ引き返す形でアンマンへ向かったのだが、さすが首都。年末というタイミングも手伝ってか、渋滞しまくり。しかも値段重視でかなり郊外のホテルを予約していたので余計に時間がかかり、17時半に到着。
部屋に入って間もなくCちゃんは寝息を立て始めた。かなり無理をしていたのだろう・・・夕食はパス、翌朝の空港への移動は他と交渉せず先ほどのドライバーに頼むという。
実は二人の旅はこの日までで、Cちゃんは翌早朝にトルコへ向かい、私はアンマンを観光後に15時過ぎの便で日本(正確には乗り継ぎ地のアブダビ)へ発つことになっていた。

ヨルダン最後の夜、まずは翌日のアシを確保せねばならない。とりあえずホテルのフロントにタクシーのチャーター料金を尋ねると、最初が120JD、次が100JD ハナシにならないと思い、ホテルの外にあたることにした。出てすぐに話しかけてきた客引きに訊くと、60JDという。自分としては40JDくらいのつもりだったが、45JDから顔色をうかがう。50JDと言った時ドライバーに迷いの色が見えたので、決して難しい額ではないと感じて押し切った。念のため名刺をもらい、翌朝8時半と約束した。

さて、次は夕食である。ホテルの向かい側にある看板につられて行くとショッピングモールだったので、さっそく足を踏み入れた。が、残念なことにローカルの方々をターゲットにしているようで、店舗のほとんどが洋服屋さん。地下のスーパーをフラフラし、ファストフード屋(世界的チェーン)もチラ見する。これで夕食を済ませるか??
いや、明日にはもういないのだ・・・さすがにもったいない。19時なので遠出はできないが、モールの外に出てお店を見つけ、思いきって入ってみた。
親切にも英語のメニューを出してくれたうえに、実物を見せてくれたので分量も分かってスムーズに注文できた メインを選ぶとサラダ(画像右下、トマトと胡瓜のサイコロ切り)、ホンモス、パンがセットでついてくる。ケバブとチキンの串を1本ずつチョイス(画像左、メインの手前にパクチーと生オニオン、グリルした小玉ネギとトマト添え)。炭火焼きのお肉は風味が良く、5JDで大満足。

20時前にホテルへ戻り、目をつけていた2階のレストランへ。この旅で初めてMachareus(St.Georgeと同じく、Zumot社のワイン)にありついた。ブラインドではシャルドネとソ―ヴィニヨン・ブラン、私好み グラスで注文したためボトルは写っていないが、画像を載せておく。

1杯では物足りず、次は赤のグラスを頼もうとした。が、同じのでいいかとウエイターに押しきられる。つまり、ボトルを開けたからそれにしてくれということなのだろう。好きな味だし、まあいっか・・・逆らわず、2杯目のマカラエスを楽しむ。
入店した時には欧米人客が2人いたが、私が1杯目を空ける前に席を立った。その後、ルームサービスの注文が入ったらしくシェフが厨房に入り、それを運ぶと無人になってしまった。2杯目を飲み干して支払いするべく、キッチンの扉とスタッフ室の扉をそれぞれノックしたが返答はない。やむなく10分様子を見たものの、誰も来ない。今度はノックして扉を開けてみたが、どちらも無人 さすがに馬鹿らしくなり机上に代金を置いてレストランを出たが、後でレシートがないから払った払わないとモメる可能性に思い至った ←気づくの遅っ

明け方3時半、Cちゃんを部屋で見送った。体調が思わしくないなか、イスタンブールで2泊3日ストップオーバーする彼女の無事を祈りながら

1 アンマン (⇒アブダビ) (2013年12月31日)

7時前に起きてシャワーを浴びる。ホテルに朝食はついていなかったが特に食べたい気もせず、水を飲み前日のドライバーさんからもらったオレンジを剝いて済ませた。
チェックアウトに時間がかかるかもしれないと思い、早めにフロントへ向かった。Cちゃんから電話代の精算を頼まれていたし、なんといっても前夜のワイン代が気にかかる。
が、ワイン代は綺麗さっぱりスルーで不問、電話代はレシートを示されて疑念をさしはさむ余地もなかった。な~んだ 肩すかしを食いながらロビーで待っていると、約束の10分前にドライバーさんがやって来た。トランクに荷物を積みながら、「パスポートと航空券は大丈夫?」とドライバーさん。そこまで心配してくれる人はなかなかいない。出合い頭につかまえたのに、時間前に来るし、ちゃんとした人だなぁ

旅の最後はベサニーを訪れた【バプテスマのヨハネが活動していたとされる、死海の9㎞北の地点。イエス・キリストが洗礼を受けた場所でもある】。
アンマンからだと南西50㎞ほどだが、高速道路を走るため思いのほかスムーズに約45分のドライブで到着した。朝だからか大気がクリアで、進行方向にあたる"対岸”がよく見えた。ネボ山からの景色とはまた違うだろうけど、これを見ることができて充分満たされたと思いながら。

ベサニーの情報はガイドブックにほとんど載っておらず、完全に行き当たりばったり、出たところ勝負だった。
たどり着いて初めて、30分ごとにマイクロバスが出ていることを知る。どうやら集まった人たちで即席の混載ツアーになるらしい。下のは、9時半のバスを待ちつつ駐車場から撮った。

そして、案内板を見て初めてベサニーの全体像を知る私。この後、右上のShuttle Parkingから出発して真ん中の円(エリヤの丘。テル・アル・カラルともいう)を通過し、そこから左方にあるParking&Drop off(2)で降ろされ、Ancient PoolやModern Baptism Poolを歩いてまわり、再び同じ場所からバスに乗ることになる。

9時40分、2席を残してほぼ満員のバスが出発。16人のうち、東洋人は自分だけ。こーいうの、しょっちゅうだなぁ
エリヤの丘付近にある3つの教会を車窓に見ながら、ヨルダン川に向かってかなり傾斜している道路をループ状に下り、ボーダーへ。
死海はイスラエルとの国境地帯のためパスポートチェックが厳しいという事前情報だったが、バスを停めたドライバーが軍人さん(制服からしてヨルダン人と思われる)と窓越しに二言三言交わしただけであっさり通過。乗り込んできてチェックとかじゃないんだな・・・拍子抜けもいいところ。

車を降り、ガイドさんの先導についていく。ほどなくして、背の高い草叢の向こうに川が見えてきた。なんだか教会らしきものも見える。

さらに歩いて、イエス・キリストが受洗したとされる場所へ到着。率直に言うと、ガイドブックでも同じ場面を見ていながら、いまひとつピンときていなかった。
が、モザイク画を見てようやく想像が追いついた。大きな建物から長い階段をくだって、小さな東屋の下にあるアーチ(現在はない)の辺りが洗礼場所になる。


下の画像は、大きな建物の脇(つまり上の画像の奥)から眺めた風景。小さな東屋の脇で川は大きく右折していく。また、水流で川底がえぐれているのも見てとれる。

再び、小さな東屋の横から撮影。90度近く屈曲して、川幅を狭めて(画像中央奥へ)流れていく。
2,000年前とはヨルダン川の流れが変わっているので、目の前を水が流れているわけではない。それでも、在りし日の様子を理解することができた。

洗礼場所の周囲の風景。現在は草を刈り整備されているけど、かつては草ボーボーで、水音が道しるべだったんだろうなぁ・・・

さらに歩いていくと、さっき屋根だけ見えた教会が出現。ドームが金ピカに輝いている。

教会をスルーして、いよいよ川辺へ向かう。司祭さんとともに祈りを唱えつつ何がしか儀式をしている集団の横を通り過ぎると、木製デッキの先にヨルダン川が横たわっていた。向かい側はイスラエル。たった3mを隔てるのみ


この1年前、イスラエルはヤルデニットで油脂の浮く水に絶句、相当迷いながらもついに手を浸すことはできなかった。が、今回はとまどうことなく左手を差し入れた。キャラメル色の水。遠目には緑色っぽいヤルデニットのほうが綺麗に見えたが、近寄るとまるで逆


帰り際、先ほどの教会に寄った。正式にはヨハネ・パウロ2世教会【2000年に第265代ローマ法王が訪れた後に建てられたもので、当時築12~13年】。

新しい教会の内部はまぶしいほど青かった。

フレスコも鮮やか。メインテーマは受洗するキリスト、左で手をかざしているのがバプテスマのヨハネ。てか、イエス様の腹筋すごい(笑)

振り返ると、タンパンの裏面には火の戦車で昇天するエリヤ【出エジプトを実行したモーセ以降、最大の預言者とされる。異教が流行した際に従来どおり神ヤハウェを信仰するように人々を導いた。神の覚えめでたく、死を迎えることなく馬が引く火の戦車に乗って竜巻とともに天に召されたという】。
土地柄を意識してるなーと思ったところで、この旅3回目の充電切れ 帰路のタイミングでホントに運がよかった

最後に案内されたのは、プレハブ建ての売店。置いてあるのはロザリオやイコンなどの真面目な宗教グッズが主体。同じツアーの人たち、たぶん何も買わなかった。
比べるなら、ヤルデニットの売店は一般的な土産物も扱っていて充実していたなぁ・・・ユダヤ人が商売上手なんだろうか。

結果としてツアーは70分、11時前に駐車場へ戻った。1時間半を想定していたので、そのまま空港へ直行すると時間が余りそうだけど、全然まわれなかったアンマン市内を観光するには時間がないしな~ ま、仕方ないか・・・
ところが、駐車場を出て5分ほどで停車。ショップの看板には死海コスメとある。頼んでもいないのに土産物屋に寄るのは本来ならアウトだが、時間は余っているし、ここまでで買いそびれたお土産を空港で入手するべくお金を残していた。とはいえガイドブックには空港のショップ情報はなく未知数。早く使い切るに越したことはない、渡りに舟 
看板は死海コスメを謳っていても、入ってみれば何のことはない、ありとあらゆるモノを扱う土産物屋だったが、ひとまず欲しかったハンドクリーム、泥マスク、バスソルトに飛びつく。
買うつもりはないが、モザイクを眺めてみる。叔母に買ったのと同じサイズのアイリスに90JD、つまりマダバの3倍の値が付いていた時点で んとは思ったが・・・空港のほうが安いと判断し買わないでいる勇気はなかった。

30分くらいショップで過ごした後、車はイスラエルとの国境付近からみるみる遠ざかり、内陸へ向かっていく。
いよいよ最後、ぼんやり車窓を眺めつつ私の心を占めていたのはハガキ投函の問題。カンクンのように国際空港にポストがないというケースも稀にあるので、できれば途上のポストに投函したかった。が、高速道路を走っているのでどうしようもない。ドライバーさんに頼むというテもあるが・・・
12時20分、空港に到着。あのショップで自分が買った金額の何%マージンが入るのだろう、チャーター料金を10JD値下げしたぶん回収できるのかなぁ、な~んて考えるとドライバーさんとの別れに際して気持ちが熱くなることはなく、さっぱりとしたものだった。

departureの3階に上がってみるとすぐにsecurity checkのようだったので、荷物を持ったまま郵便局を探すことにした。1階に下りてドキドキしながらインフォメーションで尋ねると存在することが判明、やったぁ
ところが、たどり着いた郵便局のガラス扉には「12/31 out of service」と貼ってある。いやいや、こんなことでメゲていられない
幸い中に職員さんがいたので声をかけ、事情を説明すると快く応じてくれた。そして、マダバで100fils切手を失くしていたため日本への郵便料金を確認すると、やはり900filsが正規、買い足さなければ。小銭がなく1JD(=1,000fils)を出すと、お釣りがないという。じゃあ残りはあげますと言ったら、首を振って1JDの切手を金庫から出してくれた。清廉な人だなぁ かくして、既に800filsの切手を貼っていた弟宛てのハガキは2倍の料金で日本へ届くのだろう(笑)

今度こそ3階でチェックイン。手荷物だけの身軽になり、とりあえず空腹だったので何か食べることにした。ファストフードっぽいお店のファラフェルはたった2JD。その周りのレストランも同様に安いのは、空港職員が利用するからだろうか。
時間を持て余してショップをフラフラしていたところ、死海コスメの高級ブランドRIVE〇Eの値段に衝撃 せいぜい6~8JDなのだ。先ほどドライバーに案内されたショップで買ったものや、それ以前に各地で購入したものとほぼ同額・・・空港の物価はバカ高いというこれまでの多くの経験を覆す安値に面くらうばかり。
今後ヨルダンへ向かわれる方へ、空港でも安く買い物できるので、お土産購入を焦らなくても大丈夫とお伝えしたい。

★ 終わりに ★

ベサニーにてイスラエル側のサイト(カスル・エル・ヤフド)とわずか3mの距離で対峙した時、(2013年末の段階で)ヨルダンとの外交関係が良好だから可能なのであって、状況が違えばゆめゆめ叶わないんだろうなと思った。同時代には存在していなかった自分だが、幾たびの中東戦争を思い浮かべた。一介の旅人がこの場所に立てること自体が平和であることの証なんだなぁ、と。

この記事を書くにあたり調べていて、自分の訪問後(2015年)にベサニーが世界遺産に登録されたことを知った。登録範囲はバプテスマのヨハネの活動痕跡が残るヨルダン川東岸(ムスリムの多いヨルダン領土)のみで、西岸(キリスト教徒の多いイスラエル領土)は含まれず、想像しただけでややこしくなりそうなことこの上ない。
が、イスラエルがこれを問題視する動きはないようだし、また登録の前段階で必須となる考古学的調査の進展にはヨルダン王家の協力が大きかったという。そんな流れにあるとはつゆ知らず、2002年から一般観光客に開放されたベサニーを自分は訪れることができた。

1996年以来、気のおもむくままに旅先を選んできた自分であるが、政情の激変により訪問の見通しが立たなくなった国々もあるし、これを書いている2021年現在のように政情以外の理由が足枷となるケースもある。ビジネスでも学術研究でもない一地球市民にとって、海外を旅できるか否かは自分の意志だけではどうにもならない部分があり、つい「負のガチャ」の側面に気を取られてしまうのだが・・・その逆を享受できる幸福も決して忘れてはならないと思わされた。

 おしまい 




































































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