poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

マレーシア篇 その1

2024年06月23日 | アジア
ザビエルの足跡をたどるシリーズ第6弾です。
10日間の旅をいくつかに分けてお届けします。序盤は以下の地図の➊~➌をまわりました。また、後の下線部の数字にも対応しています。


1・2 クアラルンプール ⇒コタ・バル (2019年12月25日)

クリスマスイブの23時45分に羽田を離陸した飛行機は、翌朝6時45分にクアラルンプールに到着。
到着の時間帯によるのかもしれないが、入国審査で40分ほど待たされた。機内で着ていたセーターを脱いで長袖1枚になったが、そこはかとなく暑い。赤道の近くに来たんだなぁ・・・
審査を抜けると、預け荷物は既にターンテーブルをまわっていた。どこで待つかの違いかぁ

この日はコタ・バルに泊まることになっていて、長距離バスが発着するTBSバスステーションへ向かう必要があった。
バスステーション行きのバスを探そうとしたが、空港が想像以上に広い。立っていた警察官だか警備員だかにたずねると、level1にあるという。怪しいmy英語で通じるんだな、ホッ
かなり歩いてたどり着いた所にはバスとタクシーのカウンターが並んでいて、電光掲示板を見たらバスは8時半発のようだ。下調べによるとバスステーションまでは1時間15分かかり、コタ・バルへのバスは10時発が最終。あっさりバスをあきらめて、タクシーに乗ることにする。
バスのカウンターにはそこそこ人が並んでいるのに対し、タクシーのそれには誰もいない。カウンターにて “TBSバスステーション” と告げると、隣りのカウンターに行けと強い口調で言われる。頭に布を巻いたその風貌は尼将軍政子のようで迫力がある・・・何のこれしき めげずに、タクシーに乗りたいと訴えたらケロッと態度が変わった。84.4RM(≒2,481円)支払ってチケットをもらう。前方を指してoutsideと言われたので、そのとおり出ると係員がいてドライバーを連れて来てチケットをもぎる。うん、白タクじゃないのをgetできた模様。
走り出す前、ドライバーにTBSバスステーションと告げる。だって、チケットに「Bandar Tasik Selatan」と書いてあるんだもん。ドライバーはうん、とうなずいて発車した。ときに8時。後でガイドブックを見たら、駅と直結したから別称でそう呼ばれるらしく・・・勉強不足を恥じるしかない

空港を出てすぐ、車窓に広がる椰子の森に驚く。車中のため画像を残せず残念だが、その情景を決して忘れることはないだろう。
クアラルンプールの郊外から市内へ近づくにつれて、鬱蒼とした緑からビルの林立に変わっていく。ジャングルを切り拓いて開発してきたんだなぁ・・・
タクシーならバスより早かろうというヨミは当たり、40分くらいで到着。降りぎわ、イミグレーションで待たされつつ頭に叩き込んだマレー語で "ありがとう。さよなら” と使ってみる。伊集〇光似のドライバーはニカッと笑って、"Bye-bye.” と去った。どうやら通じたらしい、やったね

バスステーション構内に巨大な電光掲示板があったが、自分の行き先コタ・バルが終点かどうか不明なので、見ても意味ナシ。
見まわすと、チケット・カウンターがある。番号がふられているが、えいやっ! とりあえず、すいている窓口に並ぶ。行き先別に窓口番号が決まっていませんように・・・
祈りは通じた 聞き間違い防止のため、紙片にKota Bharuと書いて出したら、お姉さま係員が反応した。9時半発があるらしい。料金は44.4RM(≒1,305円)。パスポートを出すように言われた。ん 国内のバス乗るために見せるのは初めてかも。去り際、またマレー語で “ありがとう” と言ってみると、ニコニコ笑顔で見送ってくれた。

250㎞北のコタ・バルまでは9時間のはず。日本からの便は朝食なしLCCだったので、腹ごしらえせねば。発車まで40分ほどあったが、日本でいう立ち食い蕎麦的な温かいものを出すお店はないようだ。やむなくコンビニで食料を調達し、ベンチで食す。スモークサーモンのおにぎりと、お好み焼き味()のおいなりさん。


チケットに記されたgate18に行くと、狭い場所に結構な人が集まっている。ひとまず係員にチケットを見せると、首を振られる。いま停まっているのはマラッカ行きらしい。
そうこうするうち発車時刻の9時半になった。不安にかられ始めたところへ、"My Express" の放送が入る。たしかチケットに書いてあったぞ。
バスの座席は飛行機エコノミー席の1.5倍も幅があり、横3列でゆったり。想像よりも全然いい
クーラーは効きすぎなくらいで、長袖1枚でちょうどいい。さっきのタクシーも同様だった。ドライバーの好みかと思ったが、どうやらこの国ではこれが標準らしい。
トイレ休憩がどの頻度なのか不明なので、水を飲むのは極力控えた。結局、4時間半走ったところで40分休憩となった。
ブース1つのみのトイレに行列し、扉を開けると和式かぁ 西洋式が好きなわけでもないけど、和式は床が濡れてるのがちょっとねぇ・・・ま、郷に入れば従うしかないのだが。
トイレを済ませ、脇のショップに入って物色するもアルコールはない。イスラム教の国だからなぁ・・・奔走しないと、お目にかかれないかもな
バスに戻ると、ほとんどの乗客が出払っている。にもかかわらず、バスは移動を始めた。置き去りにされた私物がそこかしこにあり、まさか出発ではあるまい。数十m先のスペースに停まった。こんなことがフツーにあるのか 乗ってなかったら自分はパニックになるだろうと思ったが、他の乗客が平然と戻って来たところをみると、放送を聞き逃したのだろう

待つ間にバスのフロントに掲げられている行き先表示を確認したら、K.Bharuと書かれていた。終点らしいが、モンダイはバスターミナルに着くか、バスステーションに着くかである(ややこしいことに、長距離バスが出入りする場所がコタ・バルには2ヶ所ある)。出たとこ勝負。ホテルは、600m離れている双方の中間を選んである。
ガイドブックを見たり うつらうつらしたりして、3時間余り。18時22分、コタバル・バスターミナルと読める場所に着いたのだが、予定より10分くらい早い。乗客もまだ数人乗っている。終点がバスステーションだと思い込み、そのまま乗っていた。
が、動き出したバスはもと来た道を戻りはじめたのだった え~っ
急いでガイドブックを取り出してmapをにらむ。どうやらタイ国境の町ランタウ・パンジャンに向かうらしい。
ここに至って、自分の選択肢は2つ。①降りた所からコタ・バルへ戻る、②降りた所に泊まって、翌日コタ・バルを目指す。
予約していたコタ・バルの宿は3,500円くらい、no showで取られたとしてもやむを得ないか・・・。しかし、国境付近は治安が良くないと一般的にいうから、急に選ぶ宿のセキュリティーが心配だなぁ・・・
あれこれ考えていると中継地のパシル・マスに到着、コタ・バルから30分くらい。降りたいのはヤマヤマだが、窓からタクシーが目視できない。中途で下車するのはあきらめ、終点まで行く決断をする。

陽はどんどん傾いていき・・・コタ・バルから1時間弱で終点に到着。
目ざとく見つけたタクシー運転手のたまり場に行き、コタ・バルと書いた紙片を見せる。主らしきおっちゃんがtownか?1台50RMだけど、と聞いてくる。もちろんO.Kと返事する(ガイドブックには40分~1時間で50~60RMとあり、適正価格)。
おっちゃんが無線で叫ぶと、タクシーが1台やって来た。ああぁ~ コタ・バルに戻れる しかも、いかにも困っている外国人の足元を見ずにフツーに対処してくれた。マレーシアの好感度、うなぎのぼり
たぶん早く家路につきたいのであろうドライバーは、対向車線にはみ出してビュンビュン追い越していく。ランタウ・パンジャンを出て数分で日が没した。往きに想像していたとおり街灯もない暗さだけど、交通量が多いので恐ろしさは全然感じなかった。
コタ・バルへ近づくにつれ、建物の明るさが増していく。地方都市だけど栄えてるんだなぁ、としみじみ。
結局、45分かかってホテルの前に降ろしてもらった。追加料金を迫られる可能性も覚悟していたけど、50RM(≒1,470円)渡すとあっさり去っていった。

通された部屋はシンプル、1泊に申し分なし。ただしクーラーのリモコンがなく、事実上壊れている。暑いのは得意だから、まぁいいけど
車窓から見かけたセブン〇レブンに行くか迷ったが、断念。見た感じ治安は悪くなさそうだけど、20時をまわっているのでムリは禁物。
念のためにとTBSバスステーションで買っておいた、常温でもつパンで夕食とする。口淋しいので、日本から持ち込んだワイン(アルコールを入手できない時の非常用)を開ける。初日からこんなんで大丈夫なのか・・・キリギリスな自分が心配。そして入国から1日経過しようとしているのに、まっとうなマレーシア料理を未だ口にしていない


2・1 コタ・バル ⇒クアラルンプール (2019年12月26日)

とんでもなく寝過ごした
目覚まし時計を忘れてきたため自力で起きるしかなかったのだが、夜中まで廊下を流れるBGMがうるさくて何度も寝返りを打ち、やっと静かになったと思い時計をチラ見したら午前3時過ぎ。さすがにまだ早いと思って二度寝したら、正午の5分前になっていた・・・
乗る飛行機は15時台後半だったよねと素早く計算し、可能な限り観光しようと急いで荷物をまとめる。各財布へのお金の仕分けを前夜にすませておいたのはラッキー
30分で支度してフロントに荷物を預け、地図を頼りに600mほど歩く。大砲が飾られてるなぁと思ったら、ほどなくして目的地に到着。

戦争博物館の入口には、イギリスと日本の国旗がデザインされている。
パール・ハーバー攻撃の陰に隠れがちだが、ここコタ・バルは太平洋戦争の初戦の地である。マレーシアを旅すると決まった時、ぜひ足を運びたいと思ったのだった。

館内はそんなに広いわけではなく、あまり時間が残されていない身にはありがたい。

遠くに見ゆるマネキンは、陸軍第25軍司令官の山下奉文氏【マレー半島およびシンガポールへの上陸作戦を成功させ「マラヤの虎」と称された、と館内のパネルに記されていた。
その後、1944年にフィリピンへ転戦したがアメリカ軍との戦いに敗れ、1946年2月に戦犯としてマニラで処刑された】。

イギリス人将校と思われるマネキンが対峙する。

太平洋戦争の始まりについて、「コタ・バル沖のKuala Pak Amatにて日本軍がイギリス軍に攻撃をおこなった。その70分後、パール・ハーバーが攻撃された」と記されている。

日本語の解説はないので、英文を読むしかない。曰く、1941年12月7日23時45分 コタ・バル沖に出現した日本軍をイギリス兵が発見。その船団は輸送船3隻・軽巡洋艦・駆逐艦4隻で編成されていたという。
沖合の船から日本兵を運んだ上陸用舟艇【1度に8~10人の兵士を乗せたという。1986年、クランタン川に埋まっていたのが発見されたらしい】。

上陸の模様を伝えるイラスト。

12月8日未明、いち早く日本軍を迎撃したオーストラリア軍およびその戦死者に対する感謝状があった。

12月8日にコタ・バルを完全に制圧した日本軍は、Kuala Krai方面へ撤退したイギリス軍を追って南下。現地の志願兵も含めた激戦のすえ、クランタン州を占領した。重機を移動させて攻撃しようとしたイギリス軍に対し、自転車で物資を運んだ日本軍の戦い方がジャングルの地に適していて、イギリスの初戦敗退を決定づけたらしい。
1940年代に使用されたという自転車が展示されていた。

激戦地に日本軍が据えたという記念碑のレプリカもあった。

日本軍のマレーシア侵攻を示すmap(この記事を書くにあたり、コタ・バルを〇で囲んだ)【日本軍は約2ヶ月で1,100㎞南下し、1942年2月にシンガポールを陥落させた】。

対比のためか、ハワイ侵攻を示すmapもあった(なお、12月7日となっているのはハワイ現地時間のため)。

展示の後半は、日本の敗戦・撤退とその後のマレーシアがテーマになっていた。
日本軍が発行した軍票【占領地で軍の作戦行動に必要な物資の調達・労力への支払い等に用いるために、通貨に代えて発行される手形。原則として終戦後に精算されることになっているが、発行国が敗戦した場合は価値がなくなることがある。日本軍がマレーシアでばらまいた軍票は、戦後処理の過程でイギリスの通達により紙屑と化した】。

日本軍がタイからミャンマーにかけて建設した「死の鉄道」について記すパネル。

その鉄道の一部が展示されていた。また、その建設にかり出されて亡くなった方々の写真もあった。

日本に投下されたリトル・ボーイとファット・マンの模型、その後方には原爆投下直後の広島の写真パネル。

日本の敗戦を告げる新聞。

1945年9月2日、連合国との間に日本が調印した降伏文書の複製。

1時間の滞在中、日本人に会うことはなかった。入館当初は自分を含めて3人くらいだったが、途中で家族連れが入って来て多少にぎやかになった。
折りしも軍票の展示の前で子どもの質問に答えようとしていた父親(と思われる。たぶんマレーシア人)は、すぐ後ろに立っていた私を見ると一瞬憚るような表情をした。日本人と気づかれたのかな、と感じるひとときだった。

ホテルへの帰り道、イスタナ・ジャハールの外観をパシャリ【1887年に建てられた王宮の建物で、現在は王室の伝統を伝える民俗博物館となっている。自分が訪れた戦争博物館も含めて、この一帯はカルチャー・ゾーンと呼ばれ博物館が建ち並ぶエリア】。
フツーに起きていれば、まわるはずだった・・・クランタン州の文化について触れる間もなく去る。残念至極


8㎞離れた空港へはバスで向かうつもりだったが、時刻表の下調べもできておらず時間にそう余裕もなさそうなので、タクシー移動に変更。空港までは20分で17RM(≒500円)也。入国後やたらと交通費が出ていくなぁ、いや、全部自分のせいだけど
結局、離陸1時間半前に空港へ到着。チェックイン後、搭乗までに腹ごしらえをする。1階をうろつく限りサンドイッチとかラップサンドとかで、マレーシア定番料理は見当たらない。朝から何も食べていないので、妥協してクリスピーチキンのラップサンドを買う。テンション低かったからか、画像を残していない。
そして食後にセキュリティーチェックして2階に上がると、ラクサ【地域差の大きい麺料理。共通点は、肉ではなく魚介類から出汁をとったスープであること、ハーブや香辛料を使用すること】を出すお店があった・・・急がば回れとはこれをいう
構内のショップを見るともなしに見ていると、トゥドゥン【ムスリムの女性がかぶるスカーフ。アラビア語ではヒジャブという】を売るお店に遭遇。マネキンの感じといい、なんか新鮮だわ

時間帯と費用の都合により、LCCを利用。飛んできた機体は乗客を降ろすとすぐに我々を乗せる。エンジン休んでないよね・・・単価じゃなくて数で稼ぐのだとしたら仕方ないのかもなぁ、でもちょっと心配

15時55分に離陸した飛行機は50分でクアラルンプールに到着。前日は早朝すぎてまばらにしかオープンしていなかったショップがフルに開いていると、受ける印象は全然違った。さすが首都の空港って感じ。
市内へ向かうためのKLIA Expressの窓口に難なくたどり着き、愛想の良い窓口のお兄ちゃんからチケットを買う。約30分でKLセントラル駅に到着。ホテルの最寄り駅まで運んでくれるLRT(電車)のクラナジャヤ・ラインへの乗り継ぎは表示が明確で迷うべくもなし。が、切符を買おうにも券売機はコインまたはクレジットカードしか使えず、手持ちのコインでは足りない。意を決してタッチ&ゴーカードを購入【いわゆるICカード。LRTのほか、KLモノレール、KTMコミューター、MRT、KLIA Expressなど幅広い電車のほか、一部のコンビニでも利用できる。最初はカード代10RMに加えて、10RMのチャージが必須】。翌日以降郊外へ出かけるが、また戻って来て足かけ5日クアラルンプールにいるから、どうにかなるだろう。
時刻は18時過ぎ、入線してきた電車は激混みだったので1度見送った。車両が短くてキャパが少ない。退勤時間帯なのか?それとも、常に混んでいる路線なのか?? ま、頻繁に(3分おきくらい)運行しているので問題ナシ。

パサール・スニ駅からマスジッド・ジャメ方面へ300mくらいの場所にあるホテルを予約していた。川のおかげで降りてすぐに進むべき方角は分かったが、駅のそばに予約したのと同名のホテルが建っている。ん 不思議に思ったが、予約サイトのmapを信じてセントラル・マーケットの脇を通り示された場所へ行ってみるも、それらしき建物はない。
ん~ 予約サイトで見たホテルの外観と、さっき駅のそばにあったホテル似てるよね、同じ名前のホテルが2つってありえないかもなぁ・・・
というわけで、来た道を戻って先ほどのホテルへ入る。半信半疑ながら「予約しています」とフロントで告げると、ビンゴだった
狐につままれた気持ちでガイドブックの地図を見ると、自分がチェックインした場所には別のホテル名が記されており、それはサイトから自分が予約したのとは異なるホテル名なのだ。予約サイトと本の両方が間違えるってあるのかなぁ、何なんだろう・・・
ともあれ、一夜の寝床は確保されていた。まぁいいか・・・考えるのをやめるゲンキンな自分

チェックイン時、フロントの横にワイングラスが飾ってあるのをしかと見た。このホテルはお酒を出すってことよね・・・
何となく感じるものがありホテル併設のコンビニをチェックすると、ビールと缶チューハイを売っていた。テンション 実は、昼間にコタ・バルの街中のコンビニや空港でも探したのだが、振られ続けていた。発見に至ったのは もはや執念としか言いようがない。
後で寄ることにして、夕食をとるべくチャイナタウンへ行く。誇張なく、目と鼻の先にある。
ガイドブックを読んで気になっていたお店に行き、ワンタンミー・ドライを注文【オイスター焼きそば+ワンタンスープ】。6.5RM(≒191円)。
とてもローカルなお店で、客層は若い中国系の人たち。折りしも19時の夕食どき、ほぼ席が埋まっていたので端の席につく。卓には去った客が出したと思われる小骨が載っているけど、それも含めて雰囲気を味わおう。下は店内の様子。

しばらくすると、中華系のお兄ちゃん店員が "Sorry.” とテーブルを拭きに来て片付けてくれた。
メニュー冊子などない。斜め隣のテーブルを指すと、“same?" と問い返される。カタコトの英語にて注文完了。
ワンタンスープが最高に美味 そう大きくない器に6つも入っているワンタンは海老のミンチを包んであり つるりと喉越しが良く、胡椒もいいアクセントになっている。
周囲を見まわすと、客の多くがこのドライを食していた。蒸し暑い気候ゆえ、温かいワンタン麺よりも人気なのだろう。


6日後にクアラルンプールに戻ってくるが、別のホテルをおさえた。心おきなく夜のチャイナタウンを堪能しようと、プタリン通りを北から南まで練り歩いた。
南門のそばにあるお店でカメゼリーに挑戦(11RM≒323円)。下の画像左の急須に蜜が入っている。
【カメゼリー; 正確には亀苓膏(キレイコウ)という。亀の腹甲を干して粉末状にし、甘草・仙草・土茯苓などの生薬と蜂蜜を煎じた液を陶器に入れて蒸してつくる。美肌・デトックス・夏に身体の熱をとるなどの効果があるらしい。中国の広西省梧州が発祥というが、こんにち香港を含む広東省でも広く食されている】
本には苦いと書かれていたが、蜜なしで一口・二口・・・全然平気だった。幼い頃から薬草茶を飲まされて、口がなれているらしい。食は習慣だなとつくづく思う。もちろん蜜をかけるとより美味しくなるけど、個人的には素でも全然O.K。さすが漢方、口の中がサッパリして素晴らしい食後のデザートだった

ホテルへ戻る道すがら、スリ・マハ・マリアマン寺院の前を通り過ぎた【1873年創建、クアラルンプール最古のヒンドゥー寺院。マリアマン=雨をつかさどる女神を本尊として祀る。高さ22.9mの塔門(ゴプラム)にはヒンドゥー教の神々・従者228体が彫られている。現存するのは1968年築のもの】。

部屋に戻る前、コンビニに寄ってビール2本とチューハイをget。ビール2本セット19RM・チューハイ8RM・・・食事に比すると、アルコールは割高な設定。ま、イスラームが国教の国で手に入るだけありがたいと思おう 洗濯と入浴を済ませて、おもむろに晩酌。
今日も盛大にやらかしたなぁ・・・毎日こんなんじゃないかと先行き不安かも
明日夕方にはCちゃんと合流かぁ・・・南インド以来、4年ぶりの二人旅に胸を弾ませながら夜は更けていった。


1・3 クアラルンプール ⇒マラッカ (2019年12月27日)

前日の二の舞を避けるべく、スマホの電源を切らずアラームをかけた。日本との時差マイナス1時間なので、メール等の着信で無駄に起こされることもなく、ばっちり目覚めることができた。やったね
朝食のビュッフェは豪華だった。生粋の米派としては、朝からありつけるのは嬉しい。昼・夜は野菜をほぼ摂れないかもと想定し、ガッツリ盛る。

チェックアウトし荷物を預けて、ホテルのほど近くにある中央郵便局を目指す。
陸橋を渡りながら南を眺めると、LRTのパサール・スニ駅(画像中央)とKTMコミューターのクアラルンプール駅(画像右中央)が並んでいた。

ほどなくして郵便局に到着。1階(この国ではGと表す)から入って目についたカウンターのお兄ちゃんに切手が欲しいと伝えると、「2階へ行け、まっすぐ進んで左」と言われる。そのとおり行ってみると、エレベーターで2階に上がることができた。こうしてあっさりと切手を入手。切手代は0.5RM(≒15円)かぁ・・・安いね。

次に、ムルデカ広場へ向かう。200mも北上しないうちに、右手に国立テキスタイル博物館が見えてきた(白いドームを持つ建物)。

噴水の奥には、赤いドームの時計台を擁するスルタン・アブドゥル・サマド・ビル【1897年築の旧連邦事務局ビル。往時はイギリス統治の中心機関が置かれていた】。

なんといっても、広場の芝生が圧巻
【ここは1957年8月31日、マラヤ連邦の独立が宣言された由緒ある場所(広場名のムルデカ=独立の意味)。かつてはクリケット競技場だった。画像中央奥のオレンジ色の屋根はイギリス統治時代の1884年に建てられたロイヤル・スランゴール・クラブで、今日も社交場として使用されているらしい】

式典等の特別な場合を除いて芝生への立ち入りは禁止のため、クラシカルな建物を右目に広場の脇を北進。

セント・マリー聖堂に到着【1894年、イギリスにより建設】。

ムスリムが圧倒的に多いこの国で教会は珍しいのだが【キリスト教徒は9%】、各国で教会を渡り歩いてきたため興味がわいた。
否が応でも屋根の三角形を意識してしまう内観。


クリスマス・シーズンなので、クリッペもあった。

入国3日で既に色々やらかしているが、ここまでの無事に感謝して、この先の平安を祈った。

来た道を戻り、芝生の南エリアにあるクアラルンプール・シティ・ギャラリーへ。予定していなかったが、吸い寄せられるようにフラリと入った。
クアラルンプールの都市開発の過去・現在・未来を展示するモダンな空間だった。
ちなみに、土産物コーナーも充実している。食指が動かなかったが、旅の最後に訪れていたなら違っていただろう。


広場観光の最後は国立テキスタイル博物館へ。下の画像奥がそれ【1905年築の旧マレー鉄道本社ビル。白いドームにインドのムガル様式の影響がみとめられる。なお、画像手前はスルタン・アブドゥル・サマド・ビル】。

染めや織りの作業の様子を蝋人形が再現している。



特色ある民族衣装の展示に先立って、マレーシアの地図が示されていた。
マレー半島に位置する西マレーシアは多くの州に細分化されている。

ボルネオ島に位置する東マレーシアはサラワク州とサバ州で構成される。

多様な民族から成り立つマレーシアの中でも、3大勢力がマレー人・華人・インド人である。
下の画像で左の2つはマレー人、右の2つが華人の衣装。

上の画像は薄暗く見えにくいので、華人に関する写真付きの説明パネルも載せておく。
【プラナカン=15世紀以降、単身でマレー半島にやって来て現地の女性と結婚した中国人男性(多くは商人や船員)の子孫。その2世以降は男性がババ、女性がニョニャと呼ばれる。彼らは中国文化とマレー文化を折衷し、また当時マレー半島に進出していたヨーロッパ諸国の要素もミックスした独自の文化を形成した】

こちらはインド人の衣装。

3000~4000年前、中国方面からマレー半島にやってきた先住民Orang Asliの衣装。東南アジアに分布するterapの木の樹皮からつくった衣、ヤシの葉でつくった腰飾り・髪飾りを身に着けている。

ボルネオ島はサバ州の衣装を説明するパネル。

サバ州のLotudの衣装。男女ともに織り模様が細かい。

ボルネオ島はサラワク州のLun Bawangの衣装。樹皮からつくった上衣に赤いふんどし・・・男性の衣装が印象的だった。

細工の美しい履物たち。


高層ビルの合間に、19世紀の建物がしっかりと根付いているムルデカ広場。都会なんだけど、ひと昔前の面影を残す・・・魅力が詰まったオススメの場所である。

クラン川を渡りつつ100m少々東へ向かう。ここも低い建物の奥に高層ビルが覗く。

セントラル・マーケットに到着。マレーシア各地の民芸品だけでなく、アジア諸国からの輸入雑貨を売るお店が集結している。


いちおう値段調査が目的なので、お土産になりそうなものを物色する。なまこ石鹸は6個で50RM(≒1,470円)か、この国の物価からするとさほど安くはないな・・・
【なまこ石鹸; ナマコをココナッツオイルに浸して抽出したエキスが原料。サポニンを含み、保湿や抗菌などの効果があるという】
インドも中国も旅したことあるので、何となくマレーシアっぽいものを探してしまう。が、インド系も中国系も3大勢力なのよね、その全てがマレーシアなんだよねぇ
輸入雑貨にはインドネシアのアタ製品があり、影絵の人形はその昔カンボジアで見かけたなぁ・・・【この記事を書くにあたり調べたところ、インドネシアやタイ、そしてマレーシアにおいても影絵芝居の伝統が根付いていると知った】
まだ旅の序盤ゆえお土産探しに気分が乗らず、思ったほどこのマーケットで時間をつぶせない気がする。予定より早くマラッカへ発つのも一手だが、Cちゃんの氏名で予約しているのでホテルにチェックインできるか怪しい。荷物すら預かってもらえないと最悪なので、やはりクアラルンプールでゆっくり過ごそう。
国立モスクかブキッ・ビンタンか迷って後者へ。数日後に行く予定だったので、下見がてら。ガイドブック曰く日本でいう銀座のような場所で、確かに栄えていた。
そしてロット・テンの中にある伊勢丹の地階に行ってみると、まるで日本な様子にビックリ
日本の食材がど~んと並び、アサヒやサッポロなど日本のビールも揃う。さらに洋物ワインコーナーも ここに来ればよかったんだあぁ~ 
アルコールに囲まれて、いつも以上に幸せな気分になる。Cちゃんと合流の乾杯用に何か買おうかとボルテージが上がりかけたが、がまん我慢。日本を持ち込むのはなんだか違うか・・・ローカルなお酒で祝おう、やっぱり

MRT(電車)で2駅、パサール・スニに戻る。たった1晩いただけなのに、見納めの気持ちが膨れあがって駅前からパシャリ
画像中央の黄色い建物から奥がチャイナタウンである。

この後Cちゃんといつ合流して、はたまたマラッカでの夕食が何時になるやら不明なため、昼食をとることにする。セントラル・マーケットの2階にあるフードコートにも魅かれたが、お粥をチョイス。せっかくチャイナタウンの目の前だからね、満喫しないとね
前日入ったワンタン屋さんの2軒くらい隣のお店へ。正午過ぎでお店は繁盛していたが、目ざとく私を見つけてオバちゃんが空席に案内してくれた。旅行客らしき華人夫婦と現地人っぽい華人の若者との珍妙な相席。下の画像は店頭の様子(ピンボケではあるけど、念のため顔の部分を加工した)。

着丼の早いことったら、1分もかからないくらい。
鯉の刺身入りを推しているお店なんだけど、食べたことないから興味はあったんだけど、旅序盤のナマモノは避けて肉団子入りをチョイス。
華人だから豚肉を食べるんだよね。トロットロのお粥は胡麻油とパクチーがアクセントになっている。本来ならば熱い食べ物は避けたくなるような気温なのに、汗かきながら箸ならぬレンゲが進むのは絶品ゆえ。


ホテルで荷物を受け取り、陸橋を渡ってKTM(マレーシア国営鉄道)のクアラルンプール駅へ。駅舎に行ってみて分かったことだが、30分に1本くらいしか便がない。既に乗ったLRTやMRTに比べて構内が古めかしいし、タッチ&ゴーカードが反応しにくい改札もあった。国営だから、あまり資金潤沢ではないのだろう。そして、速度が遅い。長距離バスが出るTBSバスステーションと直結する駅はたった5つ先とタカをくくっていたら、1時間かかった。自分にしては珍しく時間に余裕があったので、事なきを得たが
ホームを遠望してみる。

トゥドゥン姿の女性たち。

そして、2日前とは雲泥の差の混みっぷりのTBSバスステーションに面くらう。窓口の行列に並んで10分待ち、50分後(15時20分)に出発するバスのチケットをget。便数はあれど、売り切れなのだ。それとて最後の1席だったので、ラッキーと思うしかない。
そうこうするうち、CちゃんからLINEが来て予定通りのバスに乗れたという。これで自分の後着が確定、チェックイン問題は解決
と思っていたら、なんとマラッカ・セントラル(バスステーション)でCちゃんと合流することができた。4㎞離れているダウンタウンまで個々に向かう予定だったが、なんという幸運
トイレを済ませて路線バスを待つも、来る気配がない。ときに17時半前、さらに待てば来るのかもしれないが、バスを降りてからもホテルまでかなり歩くため、思いきってタクシーに乗ることにした。カウンターで頼んで20RM(≒588円)也。
18時前、ホテルに到着。歴史的な建物を修理した素敵な宿で、部屋はロフト状で屋根裏テラスがあった。



夏なのでまだ明るい。夕食前にマラッカ観光第1弾に出かける。マラッカ川を渡り、丘の上のセント・ポール教会跡へ向かう。
目を上げると、白い鐘楼とファサードが見えてきた。

鐘楼の前に立つザビエル像。よく見ると、右手が欠けている【建立当初はもちろんあったのだが、落雷で木が倒れかかった際に失われた。なお、現在ゴアに安置されているザビエルの遺骸には右腕がない。全く腐敗せず芳香すら漂うといったザビエルの遺体にまつわる奇跡を確かめようとするローマ教皇の命令により死後に右腕を切り離したからなのだが、偶然を超えた何かを感じる人々もいるという】。

教会は廃墟のまま残されている【1641年、オランダがポルトガルからマラッカを奪取した後はプロテスタント教会として使用されたが、1824年以降イギリス統治下では弾薬庫として使用され荒廃した】。画像中央奥が内陣。

内陣には、IHS(イエズス会)と表示する覆われた空間があった。かつてザビエルの遺体が横たえられていた場所である。
【1552年12月3日 明の沖合に浮かぶ上川島で昇天したザビエルの遺体は同地に埋葬されたが、2ヶ月半後に掘り出されてゴアへ運ばれた。その途中マラッカを経由し、このセント・ポール教会で盛大な葬儀が営まれ、1553年3月下旬~12月までここに安置されていた】

ファサードの方向を振り返る。
大航海時代、カトリックの布教活動は海外進出と一体化していた。信者獲得に奔走するザビエルが何度となく出入りした頃、ここは一大宗教センターとして栄華を誇ったのだろう。しかし、いまや昔日の繁栄は見る影もない。
諸行無常・・・教会跡を訪れて、仏教観がこみあげる。自分が特定の信仰を持たないからなのか、宗教の違いはあれど通底する普遍的なものがあるからなのか。


丘をくだり、オランダ広場を通過。

再び橋を渡ってチャイナタウンに戻り、ハン・ジュバッ通り(ジョンカー・ストリート)とトゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)に挟まれた小路のお店にて夕食。特に目当てがあったわけではなく、観光客で繁盛する食堂が並ぶなか、なんとか空いていた所に入ったのだった(そのお店とて、客が去ってもすぐに席が埋まる盛況ぶり)。迷ったすえに3品注文。まずはオムレツ。

蒸し餃子。

待ってました、名物料理のオタオタ【魚のすり身・ココナッツ・ウコン・生姜・レモングラス・コリアンダー・唐辛子などを練り込み、バナナの葉・パンダンリーフなどで包んで蒸し焼きにする】。辛めで日本の練り物とは違う風味なんだなぁ、面白い


★ 中締め ★

次回はマラッカ観光の後、ペナン島へ飛びます。
お楽しみに

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