poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

アルゼンチン・パラグアイ・ウルグアイ篇 その2

2021年01月10日 | 南米
南部パタゴニアまで飛んで氷河を見た後、ブエノス・アイレスに戻ってウロウロ・・・
旅の後半篇スタートです。
なお、下の地図中の②③は旅の前半で訪れた場所です。後半訪れる場所は黒丸数字で示しています。また、後の下線部の数字にも対応しています。



4 エル・カラファテ ⇔ぺリト・モレノ氷河 (2012年3月30日)

朝7時半にホテルでピックアップしてもらったが、何のことはない、端のホテルから拾っていくので、結局最後の客を乗せてツアーバスが目的地へ向けて走り出したのは1時間後だった。ツアー客の中に東洋人を発見。一瞬日本人かと思ったが、韓国人カップルらしいと判明。たぶん20代。
英語ツアーだと思ってたら、半分くらいはスペイン語ツアーの人々で、トイレ休憩などのアナウンスはスペイン語のみだった。数字と単語が分かったのでセーフ、いぇい

港に着いたところでスペイン語ツアーの人々とは分けられ、ツアーの行程が発表される。英語だ、ホッ まずボートで氷河に渡って氷上トレッキング(1.5時間)、その後ボートで展望台へ向かうらしい。イラストを用いながら地理的な説明もしてくれた。リコ水道とテンパノス水道がぶつかる地点にせり出したぺリト・モレノ氷河は、10~15m低いテンパノス側へ向かう水流によって水面下で圧力が加わり、崩落するという(←英語だから確信はないけど、大体こんなこと言ってたはず)。なるほどな~
下の写真は、遠望したぺリト・モレノ氷河。手前に白く浮かぶ船と比較して、そのスケールを感じてもらえるとうれしい。
ちなみに、私たちは氷河に向かって左側からトレッキングした。

船上から眺める氷河、陽光の加減で目まぐるしく色が変わる。

ボートを降りて、トレッキングに向かう。

幌小屋の中で貸し出しアイゼンをつけてもらう。一段高い椅子に座ると、手前の黄緑色のジャンパーを着ているスタッフがやってくれた。フランス人かと見まごう白人系美形ロン毛のお兄ちゃんは、私が日本人と知ると、“アシヲ ヒライテクダサイ”と言ったのだ、完璧なイントネーションで 日本の団体ツアー恐るべし。需要があるから、日本語をしゃべる人が世界各地にいてくれる。その恩恵に浴す自分はラッキー

アイゼン装着完了 足元の雪は美しい水色。

アイゼンをつけて歩くのは人生で2度目。大学時代、ちょっとだけ山に登るサークルにいて、夏前の早池峰に行った時以来。
すっかり感覚を忘れていた。けっこう重い。・・・が、下りが苦手なのは昔と変わらない
私たちは15人くらいのグループでまわった。

他にもいくつものグループが氷上を歩いていた。下の写真、豆粒のように見えるのがそれ。

目の前に広がる氷の原は別天地。あぁ・・・いい 

基本的に曇ったり照ったりの天気だったが、雲間から太陽が顔をのぞかせると氷がきらめく。
ちなみに、シルエットは私たちの先頭を歩くガイドさん(アイゼンつけてくれたのとは別人、帽子にグラサンで人相不明だけどやはり金髪白人系)。

今回見かけた中で最も青いと思ったのがこちらの雪。
淵を覗き込みながら、吸い込まれそうな深さだなーと思ってたら、例の人相不明ガイドさんが “アシヲ ヒライテクダサイ”と話しかけてきた。
いやいや、この場面でそのセリフはダメだってば


トレッキングの最後には、ガイドさんが作ってくれた氷河入りウィスキーで乾杯 (←いつもながら、写真撮ってなくて残念
ガイドさんは、私と同様1人でツアーに参加しているらしき西洋人にも何がしか話しかけていた。さっきの“アシヲ~”は連れがいない客への目配りなのね。じんわり
氷上トレッキングできて、ホントによかった これからパタゴニアを目指す人にオススメします。絶対楽しいです

ボートを降りた場所へ戻ると、晴れ間に氷の青さが際立っていた。
こうして見ている間にも、中小規模の崩落がたびたび起きる。生きてるみたいだなぁ。


展望台ではフリータイム。売店で念願の水とポストカード、さらには切手も入手
カラファテの宿には冷蔵庫がなく、水を切らしていた。冷蔵ケースから水のペットボトルを取り出した私に、店員さんが “fria?”と聞いてくれた。私が手にしたのは補充したての冷えていない物だったようだ。アルコール以外は基本的に常温好きの私、“no fria.”と返したのだが、後で “me gusta ~”と言うべきだった、と思いついた。こうやって表現を身につけていくのね・・・
さて、売店に食べ物は売っていない。周囲の人々を見まわすと、何がしか用意している。
そういえば、昨夕のコーディネーターさんがランチボックス用意しろって言ってたよーな気がする・・・うっすら思い返しつつ、カバンにしのばせてあったクッキー2枚をかじるのだった(辛党の自分だが、ケチくさく取っておいた機内食で九死に一生)。

展望台からの眺め。奥から迫ってくる感あるなぁ・・・

手前に浮かんでいるのは崩落した氷。
崩落の音を例えるなら雷のとどろく音が一番近いけど、高くなくて地を這うような重低音。もちろん、人生で初めて耳にした。
アルゼンチンを訪れるなら、ぜひ足を延ばしてほしい場所 ←しつこくてすみません・・・


帰路の車窓、黄土色と茶色を混ぜたような色の、低木しか自生しない山々がペルーを思い出させた。あれはクスコからプーノへ南下する道中だったか。
そういえば、あちらはアンデス山脈の北西部、こちらは遥か南東部。つながっているんだよな~ 氷のある無しでずいぶん雰囲気違うので、当たり前のはずのことが不思議に感じられた。

まだ明るいうちにホテルへ戻れたので、水と栓抜きを買うべくカラファテの中心街へ向かおうとしたが、途中で断念。地図によると、宿は2㎞郊外の丘の上に建っている。まだ明るいとはいえ17時過ぎ、戻るまでに陽が沈んでしまう。ホテル代をケチってエコノミークラスにしたことを、こーいう時に後悔する・・・
気を取り直し、シャワーを浴びることにする。おっ、お湯が出た 
実は前夜、かろうじてぬるいお湯しか出ず閉口していた。21時はダメで19時は大丈夫なのか・・・安宿では早めに入浴すべし、これは鉄則なんだな。
夕食はホテルのレストランで。ランチがクッキー2枚ではさすがに腹ペコ 
オープンの19時半を少しまわって行ったのだが、1時間後に席をたつまで客は終始私1人。経営的にどうなのか、他人事ながら心配になる。
20代と思しきウエイターのお兄ちゃんが超ビジネスライクで、カタコトの私に対して怒涛のようなスペイン語を浴びせる
食べ物はメニューを指さしてクリアしたが、ワインの注文に手間どって結局、ハウスワインらしき赤をグラスでもらうことにした。これがまた、1杯目は冷えたのがグラス入りで登場、2杯目は目の前で栓を開けて常温。ま、こんなこともあるさ
なお、前夜チェックインの際にフロントにいたアフロの少年が厨房にいた。料理は美味しかった
前菜はパタゴニアサーモンのブルスケッタ。

メインはパタゴニア羊肉のトマト煮込み。


4・1 エル・カラファテ ⇒ブエノス・アイレス (2012年3月31日)

この日は昼前にカラファテを発ち、ブエノス・アイレスへ戻ることになっていた。早めに空港へ送り届けられたので、日記を書きながら過ごす。
ふと目を上げれば、滑走路の向こうにアルゼンチン湖が広がっている。光によって刻々と色を変えるその姿は実に美しい。陽が翳っている時は青色にレモンイエローを混ぜた色、午前の早い時間帯には水色、正午に近づくにつれてエメラルドに白を投じた色へ・・・私見にすぎないが、今まで見てきた世界の空港の中で景色ベスト1


15時前、ブエノス・アイレスのホテルに無事到着。20時半のタンゴ・ショーまでフリーだった。
翌日はウルグアイのコロニア・デル・サクラメントへ日帰りで行くつもりだったので、まずはフェリー乗り場(ダルセナ・ノルテ港)を下見して時刻表を確認【コロニアへのフェリーは2社あり、自分は1日5便と本数の多いブケブス社を選んだ。もう一方のコロニアエクスプレス社は発着する場所も異なり、両港は2㎞程離れているので要注意】。

翌々日も半日フリーだったため十分な時間があったが、ガイドブック情報で土日しか見学できないという大統領府へ向かった。この日は土曜日。せっかくの巡り合わせ、見ないテはない
美しいピンク色が青空に映える。その外観から、カサ・ロサーダの別名を持つ【19世紀、由緒ある建物はピンク色だったという。牛の血と石灰を混ぜて塗ったのが起源】。

外観とはうって変わって、内装はクリーム色主体の落ち着いた雰囲気。


さて、ここの見学はガイドツアーに参加しなければならず、整理券を渡された。大勢の人々がエントランスにたむろして待つ中、係員が立て板に水のようなスペイン語で説明するのだが、カタコトの自分にはさっぱり分からない。英語ガイドなど無い。ただ並べばいいわけではないようだ・・・一筋縄ではいかなさそうな予感ひしめきつつ、待つこと15分。“naranja” =オレンジという単語が耳に飛び込んできた。周囲の人々の動きを見て、整理券が色分けしてあり同じ色の人々が呼び集められていることにようやく気づく。急ぎ『指さし会話帳』で黄色を調べ、後はひたすらアマリージャと聞こえるまで待った。整理券を受け取って30分、ようやく案内してもらえることになった。スペイン語の説明が分かるはずもないので難しいことは考えず、雰囲気を味わうことに徹した。
旅の前半篇で紹介したエビータ(大統領夫人エヴァ・ペロン)の肖像画。

素敵なムードの中庭。

やはり室内は絢爛豪華。パリッとした制服を身にまとう警備員が所々に配されている。

細やかな天井画からシャンデリアが下がる。

ひときわ目についたのは、握手のシンボル。月桂樹に囲まれた楕円形の中にご注目あれ。半分ほど顔を出した太陽の下、棒状のモチーフの手前では左右から伸びた手ががっちりと握手を交わしている。館内のあちこちで見かけたから重要な意味があるのだろうけど、いったい何だろう
【この記事を書くにあたり調べたら、淵源が1813年にさかのぼるアルゼンチンの国章と判明。国旗にも登場する太陽は独立の精神を、月桂樹は勝利と栄光、握手は諸州の連合を意味する。棒状のモチーフは槍(パイク)にフリギア帽。古代ローマではフリギア帽が自由を獲得した奴隷を象徴したことから、このモチーフは力を持って自由を防衛する意志を表すそうだ】


バルコニーから見下ろす5月広場【グアラニー人による襲撃の後、ブエノス・アイレス再建にあたり16世紀後半からこの広場を中心に街づくりが行われた。1810年、スペインからの独立の端緒となった5月革命が発生した場所でもあり、歴史的に重要な意味を持つ】。件のエビータが人気を誇った時期には、エビータ見たさに集まった10万人の群衆を前にこのバルコニーからペロン大統領が演説したという。そのバルコニーに立つことができる、というのも大統領府の観光ポイントらしい。ふ~む。

ちなみに、館内には有名なアルゼンチン人の写真などを展示する特集コーナーもあった。が、マラドーナしか分からなかった自分・・・勉強不足を痛感

大統領府を出て、同じく5月広場に面したカテドラルへ向かう(以下、翌々日の再訪時に撮影した画像とが混在することをご了承ください)。
パリのマドレーヌ教会のようなギリシャ風の柱を擁するモダンなファサード。12本の柱は使徒を表すという。下は遠景。


ミサの最中にもかかわらず入れてもらえたが、教会内には轟音が響いていた(セマナ・サンタ【受難週・聖週間などという。エルサレム入城から復活祭の前日までの1週間を指し、イエス・キリストがエルサレムで受けた苦難に思いを馳せる】の一環で、年に1度のカーレースが催されていたことを後で知る)。
あの騒音の中、ミサを進行する人も祈りを捧げる人もすごいよ。集中力だけじゃないよなぁ・・・信仰深さなのだろうか。
正面の祭壇はこんな感じ。

ロバにまたがり入城するイエスの人形、この時期ならではなのだろう。

側廊には紫の衣をまとうイエスの人形【ユダの裏切りによって逮捕されたイエスは、十字架にかけられる前にローマ帝国の兵士によって茨の冠をかぶせられ、紫の衣を着せられて「ユダヤ人の王」と囃したてられ鞭打たれた。福音書によっては「赤(緋色)」と記されており、兵士が着ていた外套の赤紫が正しいという説もある。いずれにせよ、処刑直前のイエスを表す】。
ここに至って、前半篇のピラール聖堂で見かけた、ひざまずく緋色の衣の人形はイエスに間違いなかったと気づく。遅っ


20時半の予約にあわせて、コーディネーターのLさんが迎えに来てくれた。アルゼンチン初日、空港ピックアップでお世話になってから4日ぶり。
タンゲリアは超人気店のLa Ventanaにあたった。夜の外出は送迎が不可欠なので事前に日本から申し込んでおいたのだが、Lさん曰くとてもラッキーなことらしい。
お店に行くと、客のうち日本人は私とLさんだけで他は欧米人が占めていたが、こーいう状況はレアだそうだ。満席はいつものことながら、真ん中の前方という席に通されたのもラッキー
ショーは22時~0時で、先に食事をするシステムだった。いくつかの選択肢から牛のアサード(炭火焼き肉)をチョイス。ガウチョの国へ来たからには、ぜひ味わいたい【ガウチョ =アルゼンチン・ウルグアイ・ブラジル南部などの草原地帯に暮らす牧童。先住民と白人入植者の混血者が多い。16世紀半ばにスペイン人が持ち込んだ牛は環境に適合し、繁殖して野生化した。それらを捕らえて革を輸出することがパンパの一大産業となった】(フラッシュ付きで撮った画像しかなくて、ごめんなさい) 
chimichurri【香草・刻み野菜入りビネガーオイル。オレガノ、玉ねぎ、ピーマン、ニンニク、パセリなどを使用】というタレが気に入って、最終日にスーパーで買ってしまった

肉にあわせてワインは赤メインで注文。飲み放題のこのワインが美味しくて このタンゲリアのハウスワインだそうだが、小瓶で求めて部屋飲みしたのも含めアルゼンチンで飲んだ中で一番だった。白も悪くなかったけど、赤に軍配 売ってくれるなら、お土産に買って帰りたかったなぁ~ 
照明が絞られて薄暗いうえに遠近感ゼロ、見づらいエチケットですが参考までに。タンゲリアらしく、色香のある女性の足の意匠

結局ツアーなどで日本人と出会えなかったので、久々に日本語で会話できることがうれしい。食事しながらたくさん話をして、コーディネーターのLさんはアルゼンチン人の夫と離婚して娘を育てているシングルマザーと知った。日本に戻るつもりはないらしい。さすがに年齢は聞けなかったけど、お子さんの年齢からして自分より年上だろうと思われた。異国で結婚・離婚して一人で子育て、何ひとつ自分はできないだろうな。肝の据わった人だわぁ・・・ワインの酔いに身を任せつつ、目の前の女性をただただ尊敬の眼差しで見つめるばかりだった。

1・5 ブエノス・アイレス ⇔コロニア・デル・サクラメント(ウルグアイ) (2012年4月1日)

前夜ホテルへ戻ったのは0時15分、にもかかわらず6時半起きで8時45分のフェリーに乗るべく支度。30分前にターミナルへ到着した時は、してやったりと思っていたが・・・国境越えをナメていた 
船であっても、そこは飛行機と同じなのだ。セマナ・サンタの休日とも重なったので、日帰り観光や里帰り客でごった返したせいもある。
結局お目当ての便は満席で、次の便(正午発)になってしまった。チェックインが1時間前とはいえ、急に2時間も空いてしまう。好天のなかターミナルで日記を書くのもさすがに芸がないと思い、周辺 =プエルト・マデーロ地区の散策に出かけた。
ウォーターフロントは美しく整備されている。どうやら高級住宅街のようで、行き交うジョギングの人や子連れの人々は裕福そう。そっか、日曜なんだな・・・みんな休日をエンジョイしてるなぁ  

係留されている船は博物館になっているもよう。

真ん中に架かる乙女の橋の奥、レンガの建物はかつての保税倉庫。再開発されて、いまやブエノス・アイレス随一のオシャレなレストラン街らしい。
アルゼンチン初日、カミニートから空港へ戻る途中に車窓から眺め、ステキだなと思っていたエリア。実際に歩くことができてよかった


出航がしっかり30分遅れてくれたので、私のウルグアイ滞在は当初予定していた半分以下の3時間となってしまった。出入国手続きを考慮すれば実質2時間かぁ
計画を大きく練り直す必要に迫られつつ、ともかく進むしかない。
高速フェリーは想像以上に大きかった。2階建てで広々としている。

船内にはduty free shopもあった。買う気はないが好奇心につられてチラ見したら、香水がほとんどを占めていた。
座席は色々なクラスがあって、遠目に見た1等席は、革張りのシートにワイン(シャンパンの可能性も?)のサービス付きのようだった。たった1時間とはいえ、そこはやっぱり国境越えなんだと実感する。しかし、お値段はいくらなんだろう ウルグアイでのランチをあきらめ、急きょ買ったサンドイッチを頬ばりつつturistクラス(片道200ペソ=約4,000円)に腰掛ける私であった。何のこっちゃ


コロニア・デル・サクラメントは1680年にポルトガルが築いた港湾都市で、奪い合いの後1777年からスペインの植民地となった。両国の影響を受けた街並みが残る旧市街は、ウルグアイ初の世界遺産として登録された。
下船してから旧市街までの数百m、時間を惜しむように早足で歩く。海沿いの道をずんずん突き進むと、なんとなく城門に到着した。この内側が旧市街となる。
下の写真はアズレージョ風に描かれた旧市街図【アズレージョ =ポルトガル語でタイルを意味する。イスラム教徒によるイベリア半島侵攻により、ムーア人がもたらした北アフリカのセラミック技術がスペインで流行。ポルトガルでは16世紀、マヌエル1世の時代に国内生産を開始。彩色は青と黄色の組合せや多色など時期によって様々だが、18世紀頃にはオランダのデルフト焼や中国・日本の陶磁器の影響により白地に青で描く単色タイルが隆盛】。



旧市街の中心、マヨール広場を横切って灯台へ向かう。登っている人がたくさんいる。上からラプラタ川を眺めたかったな・・・でも、時間がない
ちなみに、手前の廃墟はサンフランシスコ修道院跡【17世紀後半に建てられるも、20年ほどで焼失】。

さらに西、岬の先端にあるサン・ペドロ要塞を目指す。その途上、番地を示すアズレージョ風タイルや花々が目に美しい。




たどり着いた砦には、語らう人々が2組と釣り人のみ。砦と思って見ればそれらしく見えないこともない廃墟となっていた。
400mほど北に位置するもうひとつのサンタ・リタ要塞と雰囲気を比べてみたかったが、時間の都合で割愛。残念
砦にそびえるウルグアイ国旗をまじまじと見つめる。太陽のモチーフ、青色系の横縞・・・基本的にアルゼンチンと似てるよな~ 素人感覚だが。


この後、旧市街北部の土産物屋へと向かうのだが、結果的にこの判断を後悔することになった・・・18世紀の面影を残すsuspiros通りを見逃してしまったのだ。
コロニアの観光写真で必ず目にする場所 ~海に向かってやや下っていく石畳の道の両側にコロニアル風の建物が並ぶ風景~ にたどり着くことができなかった
もちろん、歩きまわったので街の雰囲気は十分味わったんだけど・・・この目で見たかったという気持ちは残った。
短時間の滞在ながら、なんともいえぬ赤色の壁をもつ建物がこの街の特徴だと感じた。参考までに、ナカレーリョの家【植民地時代の生活を再現した博物館】を載せておく。訪問する予定だったが、こちらも時間の都合で割愛


いっぽう、マトリス教会(サクラメント聖堂)を覗いたのは完全なる気まぐれだった。ガイドブックに特筆されているわけでもなく、白漆喰の壁と石が組み合わさったファサードが面白かったので、なんとなく中に入った。

内装は小綺麗で、一見なんの変哲もない感じだが・・・


そこかしこに飾ってある彫像や絵は17世紀のものだった。ウルグアイ独立はもちろんのこと、スペイン入植の遥か前、古い部類。

そして、目に入った40cm位の小像はザビエルだった (この画像では切れているが、足元のプレートに書かれている)

ということは、この教会はイエズス会か 
併設された小さなミュージアムショップでIHSのシルバーアクセサリーを発見し、疑問は確信に変わった。
この旅の前半でイエズス会のレドゥクシオン跡を訪れたのも然り、Cちゃんと続けているザビエルの足跡を追う旅へ間接的につながる片鱗に触れることができた、予期せずウルグアイで。偶然が生んでくれた幸運に感謝しかない
【なお、この記事を書くにあたり調べたら、ここは17世紀創建のウルグアイ最古の教会のひとつと判明。また、景観を保持するために高い建物が禁止されている旧市街の中で、この教会の尖塔と先ほどの灯台のみが例外的に許されていると。ガイドブックが詳報していないだけで、メッチャ由緒ある教会だった

往きと同様、先を急ぎつつ旧市街を後にしてフェリー乗り場を目指す。出発が1便遅くなった時点で、訪れるはずだった博物館は全て断念した。切手を買ってポストカードを投函する野望も果たせなかった。はりきって両替した20ドル分のウルグアイ・ペソはお土産でまたたく間に消え、手元に残ったのはコイン1枚のみ。
心残りが多いものの、リベンジも容易ではない地球の裏側・・・ま、行き当たりばったり、思い通りにいかないこともあるから面白くて、また旅に出ようと思うんだろーなぁ。遠吠えかもしれないが(笑)
ガイドブックには、クラシック・カーが似合う街とも書かれていた。いささか俗な気もするが、街歩きの途次 目に映った車を載せておきたい。


面白いデザインに魅かれ、フェリー乗り場で撮った画像。
調べてみたら、ウルグアイの国章だった【楕円形の上の半分な太陽はアルゼンチンと同じく、独立の精神を表す。楕円を取り囲む植物はよく見ると左右で異なっており、右がオリーブ、左が月桂樹で平和と名誉を意味する。4等分された楕円形の中、左上の天秤は平等と正義を、右上のモンテビデオの丘(セーロ要塞)は力を、右下の牛は豊穣を、左下の馬は自由を表す】。


16時45分に出航したフェリーは、きっかり1時間でブエノス・アイレスに到着した。
船上から眺めるブエノス・アイレスは、高層ビルの林立する都会だった。さすが、南米のパリ


夕食はホテル近くのショッピングモール(パシフィコ)のフードコートにて。
19時前は夕食には早いらしく、すいていた。サーモン入り野菜炒飯・・・己の欲望に忠実に選んだため南米らしさのかけらもないメニューだが、久々に口にした米は美味しかった。やっぱり自分は米党 (ピンボケ画像しかなくて、ごめんなさい)


そして、偶然見つけたリカーショップでワインを購入、念願の栓抜きも手に入れた。いわゆるソムリエナイフというヤツで、ビールも開けられる。次の旅からは必ずこれを帯同しよう 
アルゼンチンで買ったのに、made in チャイナなんだが
部屋に戻って洗濯&入浴後、開けられないがゆえに旅の初日から持ち歩いてきたビールを平らげ、赤のハーフボトルへ進む。アルゼンチン最後の夜に乾杯

1 ブエノス・アイレス (⇒アトランタへ出国) (2012年4月2日)

前日があわただしかったので、ゆっくりめに起きて10時過ぎにホテルを出た。
ポストカード投函のため、まず国際中央郵便局へ。祝日なので半ばあきらめていたが、やはり閉まっていた【4月2日 =マルビナスの戦争における戦没者の日。マルビナスの戦争とは、南大西洋上の諸島の領有をめぐり1982年4~6月にイギリスとの間で勃発したフォークランド紛争を指す】。結局、後で空港へ送ってもらったコーディネーターのLさんにチップとともにハガキを託すことになった。
レティーロ通り周辺は治安が悪い旨、初日にLさんから聞いていたが、郵便局へ向かう途中、アルゼンチン空軍広場の南東にある公園ではホームレスのファミリーを見かけた。すれ違う人々の風体も今までに出会ったことのないカンジの人が多く、この旅の中で最も危険を肌で感じ、集中力を高めた時間だった。
郵便局にフラレた後、コロン劇場へ向かうべくレティーロ駅から地下鉄C線に乗った。駅の壁のタイルはアズレージョ風、青と黄の色合いが美しい。



後でLさんに話したら、「乗ったの?」と驚愕された。スリなど治安は悪く、一介の観光客が試すにはハードル高めらしい。が、明るい時間帯だからか、ヤバいとは感じなかった。うふっ

9 de Julio駅で降り、コロン劇場へ【ミラノのスカラ座、パリのオペラ座に並ぶ世界3大劇場のひとつ。1908年に完成、1階から6階まで立ち見を含めて4,000人収容】。正面からパシャリ。
おもむろに入口に近づき、中に入れるか尋ねたら、断わられた。祝日だからとアッサリあきらめたが、画像に違和感をおぼえて後で確認したら最高裁判所だったことが判明 どうりで入れてもらえないわけだよー なんとマヌケな・・・


カテドラル駅で地下鉄を降り、2度目の5月広場の横をかすめてサント・ドミンゴ教会へ【1807年、イギリスが侵攻してきた際に戦闘の場となった。この教会に立てこもったイギリス軍を植民地政府軍が取り囲んで攻撃】。下の写真、左の塔に残る無数の穴はその際の射撃によるものらしい。
ガイドブック情報では無休とあったが、閉まっていた。呪うべきは今日が祝日であること。国内最大といわれるパイプオルガンを見ることができず、残念


残った時間はフロリダ通りの散策に費やす。
流行の発信地といわれるブエノス・アイレスいちの目抜き通り、確かに華やかではある。が、そこかしこに「両替」と声かけてくる人や客引きがいるし、中には“ s〇x shop”の札を持つ女性も立っていたりする。各所に警察官が配備されてるのも分かる気するわぁ・・・光と対をなす影の部分も見え隠れする街。


親向けのちょっと値が張るお土産を買うべく、レザーショップに入る。
常駐する日本人店員から質問攻めされ、日常会話のカタコトしかスペイン語をしゃべれず、一人で旅してきたと答えたら、何事もなかったのは幸運だったと言われる始末  
う~ん・・・そういうものなのか? 暗くなったら単独で外を出歩かないとか、一応あれこれ気をつけてるから必然的に無事だったと思うんだけどなぁ。
なんだか釈然としないまま、カピバラの手袋などを買って辞去した。

その後、そぞろ歩いたショッピングモールの食器コーナーに、こんなディスプレイが。寿司ブームは南米も席捲しているのか・・・
蒸籠が置いてあるのはナゾだし、幟に書かれている文字は何て読むんだろう 【この記事を書くにあたり調べたら、左側の文字(“悦”の右だけ)は日本で使用しない漢字のようだった。中日辞典にはかろうじて載っており、右側の“泰”と共通して易の卦だと判明。縁起の良い文字なんだろーか】
総じて日本文化が正確に理解されていない気もするが、細かいことに目くじら立てるのは野暮というもの。寿司をきっかけに日本に興味を持ってくれる人が少しでもいてくれれば嬉しい


★ 終わりに ★  

まずは恒例の郵便事情から。ハガキ届いたよと友人達からの連絡がないまま5月が過ぎ、すっかり諦めていたところへ6月初めに届けられた。2ヶ月は自分史上最長記録(←当時。その後、パレスチナ自治区からの便りが記録を更新)。ガイドブック情報では10日で届くとある。Por Aviónと書いたので、船便にまわったとは考えにくい・・・もはや何が起きたのか知りようもないが、経験上、日本への直行便が飛んでいない国からは時間がかかることが多い。それでも届くなら御の字だ

今回の手配は、南米を専門とする旅行社にお願いした。出国日・帰国日と訪問希望地を伝えて旅程をアレンジしてもらったのだが、イグアスの滝に行かないのかと担当者の方から確認された。世界三大瀑布にして、アルゼンチンとブラジルにまたがる名高き世界遺産。しかも、旅の前半篇で訪れたポサーダスからは200㎞余、南北の全長3,800㎞ものこの国でいえば至近距離にある。旅のプロからすれば口を挟まざるを得なかったんだろーなぁ。
もちろんイグアスに興味がないわけでもなかった。が、限られた日程の中に組み込むには氷河かレドゥクシオン遺跡を割愛しなければならず、それは違うなと思った。
単純な感覚にすぎないが、心ときめいた場所に出かけたい。それが私の旅のスタイル
 おしまい 





































































































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アルゼンチン・パラグアイ・ウルグアイ篇 その1

2020年12月13日 | 南米
前年の秋、離婚して人生にひと区切り。仕事の合間、春先には旅に出ようと思い立つ。
旅先はどこでもよかった。モアイに会いに行こうとぼんやり思い描き、南米のガイドブックを読んでいたところ、アルゼンチンのぺリト・モレノ氷河の写真に魅かれた。雪って青いんだなぁ 
年間でほとんど降らない地域に珍しく雪の降った日に生まれた自分。こーいう時は原点回帰もいいな、そうして10年ぶりの南アメリカ大陸行きが決まった。
下の地図中➊~➍は旅の前半で訪れた場所です。また、あとの下線部の数字とも対応しています。


1 (アトランタ経由) ⇒ブエノス・アイレス ⇒ポサーダス (2012年3月27日)

成田からアトランタまで12時間、乗り継ぎで5時間待たされ、アルゼンチンまでさらに10時間。3月26日15時40分に成田を飛びたって、3月27日朝8時10分にブエノス・アイレスへ到着。時差12時間なので、ゆうに24時間を超える長旅。さすが地球のほぼ裏側、遠いなぁ~
隣席が巨漢という不運に見舞われ、アメリカからの機内ではうつらうつら眠った。寝ぼけていたのだろう、入国審査で到着便名を聞かれているのに、turismo(観光)と答える始末 でもオランダほど厳しくないらしく、あっさりと通してもらえた。ラッキー

明るい時分の到着とはいえ、アルゼンチンの治安がどんなものか不安だったため、空港出迎えをお願いしておいた。コーディネーターのLさんと無事に出会えて、国内線の空港に向かう。この日は、昼間にブエノス・アイレスをフリーで観光した後、夕方の便でアルゼンチン北部のポサーダスに飛ぶことになっていた。国際線の空港と国内線のそれは異なるので、移動しなければならない。
スーツケースを空港に預けて市内観光に出かけるつもりだったが、預かり所がないと判明 ポサーダスに向かう便のチェックインには早すぎるが、Lさんに頼んでダメもとで航空会社に交渉してもらう。が、やはりダメだった 
Lさんは自分の家に預けることを提案してくれたが、タクシーで個人宅を探し当てるのは難易度高そうと判断し、結局スーツケースを引きずりながら市内観光することを決断。初めてだよ、こんなの 治安が怪しいカミニート行くのに。しかも、出国以来ベッドで寝てないコンディション・・・無事に終わりますよーに

まず、タクシーでレコレータ墓地【1882年開設、最古であり最も由緒ある墓地。150m四方の中に6,400の納骨堂がある。歴代大統領のほか、有名人の墓も多い】へ。
舗装が割と良くて、スーツケースを引っ張りやすかった。が、ガラガラという音は如何ともしがたく 静かに眠られている方々の傍を音たてて歩きまわり・・・故人に申し訳ない気持ちが募った。
敷地内にはギッシリお墓が並んでいる。

ひとまず、エビータのお墓を目指す。迷いそうだと思ったが、何となく人の流れについて行き、人だかりしていたのがお目当ての場所だった。
黒光りする御影石、高級感あふれる外観。ミュージカルや映画に詳しくもない自分は完全におのぼりさん、単なる好奇心の訪問だった【エビータ =アルゼンチンの大統領フアン・ドゥアルテ・ペロンの妻で、本名マリア・エバ・ドゥアルテ・ペロン。私生児として貧しい環境で育ち、15歳でブエノス・アイレスに上京、カフェの給仕・モデル・女優として働く。1946年、夫が大統領となるとファースト・レディーとして政治にも関与したが、病のため33歳で死去。死後に夫がクーデターに遭い亡命すると、エビータの遺体はイタリア→スペインに移されたが、夫が再び大統領に返り咲いた後、この墓地へ埋葬された】。 



あとは自由に歩きまわる。実に様々な形のお墓があった。
レンガ造りのお墓。

まるで美術館のよう。

石を積み上げたもの。ちなみに、個人的にはかなり好み

途中で見かけた猫。日向ぼっこ中

死を悼む女性像はマグダラのマリアがモチーフなのだろうか。お花の飾り方がセンスいい

死後の棲家を大切にしたいという思いはアルゼンチンの人にとって共通なのだろう。しかし、何の素材でどんなデザインにするのかという部分で個々人の価値観が表れるんだろうな・・・
せっかくなので、スーツケースを撮影。南米の治安を警戒して、この旅のために新調した黒R〇MOWAの小さめサイズ。

墓地に隣接する聖母ピラール聖堂も訪れる。鐘楼の屋根が白と青のタイルで、アズレージョを思い起こさせた。

キラキラした祭壇。小綺麗で、創建から300年近く経過しているとはにわかに気づかない・・・

側廊にあった彫像はイエス

腰壁のタイルが美しい。青と黄色が目に鮮やか

そこかしこのアーチが印象的だった。上のアーチの奥に、パイプオルガンに合わせるように誂えたアーチが覗く。

この教会の鐘楼は、かつてラプラタ川を行き来する船の目印になっていたそうだ。登れるかと期待したが、上へつながる扉は閉ざされていた、残念
かわりに、200年近く前の絵や写真によってその雰囲気を知った。


お次はカミニートへ向かう。タクシーに頼らず、観光循環バスに乗ろうとするもバス停が分からない。観光案内所を見つけ、たどたどしいスペイン語で尋ねてみたが、「観光バス」というのがうまく伝わらなかったようで、教えられるままにたどり着いた場所にはフツーの市内バス停しかなかった。あきらめて、タクシーを拾う。
進みが遅いので渋滞かと思ったら、何のことはない、デモ行進をしていた。何を訴えていたのか、白パンがたくさん入ったバスケットを頭上に掲げている人がいた。
このドライバーさんには どこから来たのか尋ねられ、soy Japonesa.と教科書通りの返事をした。日本か、と言って私の顔をじっと眺めていたが、いわゆる典型的な日本人顔ではないので、ちょっと申し訳ない気がした。ちなみに、1台目の(空港からレコレータ墓地まで乗せてくれた)ドライバーさんは「中国語しゃべれない」と言っていた、私の国籍を聞く前に。ある意味、そっちが正しい反応かも(笑)

ブエノス・アイレスの一大観光地、カミニート【かつてアルゼンチン随一の港だったボカには、ヨーロッパから来る船が全て停泊。造船工場や賭場があり、移民労働者や船乗りを客とする酒場などが密集していた。タンゴ発祥の地として知られる】。
治安対策を強化中とかで、なるほど警察官が目を光らせている。結論から言うと、スーツケースを引きずっていても全く危険ではなかった。「コニチハ ぼくマラドーナ」と日本語で話す怪しい人(たぶんカフェの呼び子さん)はいたけど・・・確かに激似で笑えた
下の写真は、カミニートの入口。窓から覗いているのはマラドーナ人形


通り沿いのカフェの2階にも人形がズラリ。ちなみに一番右端はこれまたマラドーナだった。

こ~んなマラドーナも。愛されてるなぁ~

店先で軽いタンゴショーを見せるカフェ。4日後にタンゴショーを見る予定になっているので、ここでは通りすがりに眺める程度にしておく。

撮影看板もやっぱりタンゴ。徹底してるな~

通り沿いには土産物屋がズラリ、路地の奥にまで並んでいる。

絵を売るお店もあった。

買う気もないのに、ショップの軒先をブラブラ歩いて素敵な革小物に目を引かれたり。カミニートの北端、商売っ気のないお店でポストカードを買ったり。
カラフルな街は、歩いているだけで楽しめる。

さすが芸術の街、そこかしこに絵が飾られている。モチーフは、昔のボカ港の様子・・・この土地への愛が伝わってくる。



カミニートにも観光客目当てのタクシー乗り場があり、いとも簡単にタクシーを拾うことができた。
道すがら、車窓に船のドックやフェリー乗り場、カフェ、レストランが広がる。華やかでオシャレだなぁ・・・港町育ちの自分としては、郷愁を微妙に刺激される街だった


アルゼンチン1日目にして思うことは、タクシーはハズレがないということ。一人で大きい荷物を持って流しのタクシーに乗る行為は、自分の旅ポリシーから外れている。それくらいリスクが高いと思うんだけど、昼間のブエノスアイレスに限っていえば、全然問題なしだった。乗ってみて、よかった。3台ともコーディネーターのLさんが教えてくれた相場通りでボッタクられないし、ドライバーさんは基本的に愛想も良い。私がスペイン語ペラペラだったなら、もっと会話が弾んだと思う。カミニートから乗せてくれた3台目のドライバーさんは、私が空港へ向かうと知って何時の便か心配してくれたし。なんだかフレンドリーなんだよなぁ
下の写真は、空港へ向かう途中に車窓から撮影したもの。奥を流れるラプラタ川はミルクコーヒー色。
コーディネーターLさん曰く、茶色いけど光ると白く見えるから「銀の川」なんだそうだ。


遅い昼食のような早い夕食のような食事を空港のフードコートで取った。エンパナーダ【牛肉・鶏肉・魚介・チーズなどの具入りパイ。ポピュラーな軽食】、美味しかった(写真撮ってなくて残念)
期待していなかったのだが、空港内にワイン売り場があった。しかも、品ぞろえが豊富 日本で見かけるようになったNo〇tonブランドもある。値段はピンキリだけど、日本で買うより断然安い(恐るべし、関税) 圧倒的に赤が多いけど、白やスパークリングもある。当然、大好きな泡に魅かれる・・・
産地はやはりMendoza【ブエノス・アイレスの西方約1,000㎞、アンデス山脈の東に位置する。温暖少雨の地中海性気候で、アルゼンチン・ワインの70%程を産する銘醸地】が多い。若干パタゴニアもあり、明後日のカラファテ行きの楽しみが増えた
今夜の晩酌用に赤のハーフボトルを入手。空港値段で32ペソ=640円くらい、本当はもっと安いのだろう。日本で愛飲しているマルベック種

ポサーダスというアルゼンチン北東部の地方都市までの便は、当然ながらミニジェット。横幅は2席×2しかない。
疲労で終始ウトウトしていたから朧げではあるけど、かなり揺れていた。弱い人だと酔ってしまうような上下動だった。1997年、フィンランドからロシアへのアエ〇フロートがこんなだったなぁ・・・機体はアルゼンチン航空の方がピカピカに新しいが。
1時間10分の空の旅後にミニジェットを降りると、三日月がくっきりと輝いていた。さては周囲が暗いのだな、やはり田舎なんだろうか?! なにせ、ガイドブックに載っていないため情報ゼロなのだ
ドライバーのK君と無事に出会い、ホテルへの道すがら車窓に目をやりつつ、メキシコはサカテカスを思い出す。あの時も遅い便で到着し、天空に星がきらめくなかホテルに向かったのだった。比べるのも変だけど、ポサーダスの方が町だな。

空港から30分ほどでホテルに到着。4つ星ついていたが・・・本当か 今のところ部屋に問題はないが、通りに面していて車道の喧騒が聞こえてくるのと、カラオケのような歌声がうるさいのが難点か。ま、ベッドで眠るのが2日ぶりだから、バタンキューだろうけど
さて、今すすっているのはビール ワインオープナー不所持という根本的ミスのため、先ほどのワインにありつけなかった。部屋の冷蔵庫にワインはなく、栓抜きも当然ない。フロントに聞くというテもあるが、2日ぶりのシャワーを浴びてほっこりした後にバタバタしたくない・・・というわけで、安直に冷蔵庫のビールに飛びついた。10ペソ=200円くらい。銘柄はQuilmes、1890年創立のメーカーみたい。人生初のアルゼンチンビールは、すっきりしていて好みだった (これもまた撮ってなくて残念 まさかブログやるとは思ってもみなかったあの頃

明日はゆっくり出発できるのかと思いきや、8時にピックアップとのこと。ドライバーK君によると、多くの人が橋を渡って国境を越えるらしく混雑するという。仰せのままに
日帰りパラグアイ。いびつなスケジュールになっても貫いた、イエズス会のミッション遺跡訪問。前半のハイライトに胸が高鳴る

2・3 ポサーダス ⇒トリニダー遺跡・ヘスス遺跡(パラグアイ) ⇒サン・イグナシオ・ミニ遺跡 ⇒ポサーダス (2012年3月28日)

ドライバーK君の運転で、ホテルから10分ほどでパラグアイへつながる橋に到着【ポサーダスとエンカルナシオンの間を流れるパラナ川が国境となっている】。
アルゼンチンからの出国は簡単で、車から降りることなく窓越しにパスポートを渡して終了。が、入国はそうはいかない。下車してパラグアイの窓口に行く。とはいえ、空港での審査のようなピリピリしたムードは皆無で、簡単にスタンプを押してくれた。
車に戻る時、エンカルナシオン側からパラナ川越しにポサーダスが見えた。その美しき景色をカメラに収めなかったことを後々悔いた(撮るのは帰りでいいかと思ったのだが、出国時は下車することがなかったので、機会を逸してしまった  旅先では躊躇せずシャッターを切れ、今後のモットーにしよう)。

パラグアイ南部には森が広がっている。かつてジャングルだったであろう緑の中を貫く道路をひたすら走っていく。スリランカに似ているなと思う一方、あちらは平坦だったが、こちらは高低差がかなりあるジェットコースターのような道。起伏の高い所から眼下に広がる木々の眺めは美しいの一言に尽き、見ているだけで癒される
さて、向かう先はトリニダー遺跡【イエズス会宣教師が先住民グアラニ人とともに暮らしながらキリスト教化をおこなったレドゥクシオン跡。教会の他に学校・住居・墓地などを持つ共同体】。アルゼンチン訪問を決めてガイドブックを見ていたところ、その存在を知った。ザビエルは訪れていないが、イエズス会による伝道のスピンオフとして見てみたいと思った。

国境から30分ほどで遺跡に到着。正式名称はサンティシマ・トリニダー・デ・パラナ遺跡。
英語ガイドはいないらしく、一人で歩きまわることになる(K君はドライバーであって、ガイドではない。ほんの少しの英語で私たちは会話していた)。ガイドブックに詳しい説明もないので、とりあえず入口を抜けて端から逐一歩きまわることにした。
結局、聖堂脇に復元ジオラマがあって全体像が判明した。
ひときわ大きい聖堂の前に広場があり、それを囲むようにグアラニ人たちの家があったようだ。

てか、この遺跡は自然と共生している。
世界遺産だから芝生は整えてあるのだが、そこかしこで鳥たちがさえずっていた。フクロウ属と思われる鳥も間近に飛来して、少々ビックリした。


この赤い花は何だろう

手前の説教壇は、少々修復の手が入りすぎかな

壁面の高い部分にひっそりと彫刻が残っている。アーチの奥にご注目ください。

拡大すると、こんな感じ。真ん中は、マリアと幼子イエスのように見える・・・

こちらも彫刻が細かい。管楽器のようなものを吹く天使の彫刻も見える。

祭壇には花と鳥が彫られている。

側廊の彫像には首がない。

聖堂の脇には、付近で発掘された物を展示するスペースがあった。

頭部はもちろんのこと、手や足の指など様々なピースが集められている。見つけ出した人すごいな~

花の装飾は彩色が鮮やかに残っている。

グアラニ人の家から見つかったという食器たち。

これはなぜ床に転がってるんだろーか・・・(右下、愛用のコンバースを履く自分の足

この日一番のお気に入りは、神父の家とコレジオが面する中庭の脇にあった貴婦人像

近寄ると、こんな感じ。東洋的な顔だちに、手にはなんと扇子 交通至便でもない時代に、日本起源の扇子が地球の裏側までたどり着いたことを感慨深く思った【団扇(折り畳まない扇)は古代エジプトの壁画にも描かれるほど歴史は古く、日本へは中国から伝えられた。いっぽう、折り畳む扇子は平安時代に日本で生まれた(檜扇→蝙蝠扇)。鎌倉時代に中国へ伝えられると、両側に紙を貼る唐扇に変化(蝙蝠扇は片側のみ紙を貼る)。それが逆輸入されて日本でも一般化、大航海時代以降はヨーロッパに持ち帰られて、紙に代わり絹・レース・羽を用いるなど改変されていった】。

聖堂前にあった魚の彫刻。海は遠い内陸だから、川魚をモデルにしたのかなぁ・・・

聖堂を後にして、周縁部へ向かう。道中で目にした花はレンゲソウに似ている。

四角いのはベルタワー。

アーチ状の遺構はグアラニ人の家。ちなみに、右奥は先ほどまで居た聖堂跡。


帰りしな、1軒しかない売店に寄ったもののポストカードがない。そんなはずはと、チケット売り場に戻って聞いてみても「ない」。
まさかぁ~~ 世界遺産なのに、全然商売っ気ナシ これまでに各国で出会ったしつこい物売りを懐かしく思い出しつつ、これもお国柄かとあきらめる

トリニダーから10分ほどで、ヘスス遺跡に到着【正式名称はヘスス・デ・タバランゲ遺跡。先ほどのトリニダー遺跡とあわせて「イエズス会伝道施設群」として世界遺産に登録されている。2020年現在、パラグアイ唯一の世界遺産】。
このミッションは建設途中で放棄されたという。トリニダーのような彫像はないが、聖堂跡には控えめながら彫刻装飾が残る。




奥に広大な麦畑が広がる。かつて共同体の人々はその畑を耕して食料を生産したという。


こちらではmuseoを建設中だった。代わりに、付近のSt.Rosa遺跡(観光用に整備されていないと後で知る)から出土したイエスの壁画や彫像の写真が展示されていた。とても魅力的で、いずれ公開されるようになることを願わずにはいられなかった。観光地化=善とは限らないが、良いものが多くの人の目に触れるようになってほしいな~



まだポストカードを諦めていない私は、ここでもチケット売り場の人に尋ねてみた。先ほどはスペイン語が通じなかったのかもと思い、手持ちの『指さし会話帳』で調べて“tarjta postal”と言ってみたがやはり通じなかったようで、 カラーのパンフレットを渡される始末
ヘスス遺跡の周りにも物売りが1人のみ。いつかパラグアイ政府が観光に力を注ぐようになったら、この風景も変わっていくのかなと思いつつ・・・グアラニ(パラグアイ通貨)もポストカードも得ることなく、ハガキの投函など夢のまた夢で、4時間余りのパラグアイ滞在は幕を閉じた

国境を通過してアルゼンチンに戻り、サン・イグナシオ・ミニ遺跡へ急ぐ。時間があるから、オプションで行ってみてはどうかとドライバーK君が勧めてくれた。料金は350ペソという。日本で調べた時、トリニダーの方が素晴らしいと情報を得てはいたが、二度は来ないであろうアルゼンチンはmisiones州。行けるものなら行こう、というわけで急きょ決定。
13時半頃に到着、まずは遺跡前のレストランで昼食
この旅で食す2つめのアルゼンチン料理、milanesa【牛肉を薄く伸ばしパン粉をつけてカリッと揚げた料理】。これが美味しかった
バルサミコ酢をかけて食べるようだが、肉に香草をからめてあるので、味を加えなくても十分イケる。迷ったナポリターナ(トマトとチーズ乗せ)にしていたら、さすがに重かっただろう。量的にはこれが正解だった


サン・イグナシオ・ミニ遺跡は「グアラニ人のイエズス会伝道所群」として、アルゼンチンとブラジル両国にまたがって登録されている世界遺産のひとつ。
入るとすぐにmuseoが構えていた。中は撮影不可だったので、代わりにエントランスの写真を載せる。彫刻の意匠は、先ほどのパラグアイのとは異なる雰囲気。行ったこともないのに無責任に言うならば、エジプト風な感じ。トリニダーからそんなに距離があるとも思えないのだが、違いがあるんだなぁ~

展示品は多くないが、グアラニの歌に宣教師の聖歌を融合させた曲を聴くことができたのは面白かった。CDにして売ってないかと思ったが、もちろんそんな気の利いたモノは無い(笑)
パラグアイで洗礼を受け、だいぶ慣れてきた自分

遺跡の全体像はこんな感じ。

パンフレットの表紙を飾るこの遺跡一番の見所、教会のファサード跡。

目を惹く彫刻にズームすると、右に顔を向ける天使が。

下の写真、中央のIHS紋にご注目 団体の横をかすめて英語ガイドの説明を拾い聞きしたところによると、オリジナルで残っている部分なんだそうだ。イエズス会の紋章はトリニダーでもヘススでも見かけなかったので、面白い。

ちなみに同じ方法で、聖堂の隅に木材を使用していることを知った。実はトリニダーで柱に加工されたような四角い木材を見て、レンガの下に木を使ったのか?と思い即座に打ち消したのが正解だったとは。コバンザメ戦法、たまにはやる価値あるな

真ん中の欄干はイルカのように見える・・・んなわけないか。百歩譲って、川魚

帰り際、待望のポストカードを入手してホクホクの私。ただしデザインは1つのみ、やっぱり商売っ気少な目 
修復前と思われる写真は、寂れた感じが出ていて自分好みだった。世界遺産なので、現在の遺跡は修復の手が入ってピカピカ
遺跡付近には土産物屋が並んでいた。全体的に、アルゼンチンの方は観光地化が進んでいる感じ。 

ちなみに、パラグアイ・アルゼンチン・ブラジルの国境地帯にはこんなふうにミッション遺跡が点在している。水色が世界遺産(案内所でもらったパンフレットを撮影)。
今回自分が訪れたのは、写真上部中央の上から3ヶ所。


17時過ぎ、ホテルに帰着。早々に戻れたので、車窓から見た日系の苗字を看板に掲げるお店へ歩いて行ってみた。ホテルから3分くらいの距離、公園のそばに位置する。
不愛想なおばさんから、ガス抜きの水を購入。ホテルで買うより2ペソ安い。
日本人かと聞かれたので肯定すると、さらに何がしか質問されたのだが、想定外のスペイン語を聞き取れるはずもなく “日本のどこから?”と勝手に予想し、東京と言ってみたが違っていたようで。すると、早口の日本語で「ここの住所」とおばさん。近くのホテルに泊まっていることを告げると、ようやく旅人だと理解してもらえたようだった。さらに名前も聞かれた。
本当はもう少し質問攻めにあっていたかもしれない、4~5人の客が来なければ。
実は、栓抜きはないかと尋ねたかったのだが、他の客はいるし ざっと店内を見まわしたところノンアルコールの飲み物と果物のみなので無さそうと判断し、聞かずに辞去した。しかし・・・どこに住んでいるかにこだわるあたり、日系人コミュニティのつながりを感じさせられた。旅人ではなく居住者に見えた自分は、あるイミ安全ないでたちということか だとしたらちょっぴり嬉しいが、観光に来る日本人があまりいない=いるのは居住者という図式にすぎないのかもしれない・・・

ホテルに戻り、あらかじめ下調べしておいたスペイン語で「栓抜きはないか?ワインを開けたいのだ」とフロントに伝えてみると、2階のレストランへ行けと言われた。
そして2階で髪型が具志〇用高なウェイターに同じセリフを繰り返すと、「いまビンはないのか?部屋にある?じゃあ開けに行く」というような反応(←スペイン語なのだが、状況から判断するにこんな感じ)。てっきり栓抜きを借りて自分で開けるものと思っていたので、驚きつつ部屋番号を告げると、5分後には来て開栓してくれた。アルゼンチンの人って、基本的に親切だよなぁ な~んて感動している場合じゃなかった、チップ渡すのをすっかり失念してしまい、あとで後悔しきり これだけ旅してる身、習慣がない国に生まれたからって言い訳もできないよなー 身につけねば。

すぐにもワインを口にしたいところだったが、貴重なランドリータイム。目の前のワインをエサに、洗濯にいそしむ。
ここに至って洗面所の栓がないことに気づく。代わりになるモノを物色し、部屋備え付けのグラスの下に敷かれていた紙ナプキンを試しに詰めてみると、あら不思議 意外にも役目を果たしてくれたのだった。次のホテルも同様だったら、このテでいこう
さて、お待ちかねの赤は・・・決して不味くはないのだが、ハーフボトルで32ペソ=640円と考えると、味と値段が見合っていないような。いやいや、空港値段だから本来は3分の2くらいなんだろーかなどと、酔いのまわり始めた頭でぼんやり考えるのだった(瓶を撮ったのだが、自分が写り込んでいたので画像は割愛)。

2・4 ポサーダス ⇒カラファテ (2012年3月29日)

10時ピックアップの約束でドライバーK君を待っていたら、別人がやって来た。ええっ
一昨日 空港に迎えに来てくれたから今日もそうだと思い込んでいたが、たしかに確認していなかった。
今になってみれば、前日の別れ際に「旅を楽しんでね」みたいなこと言ってたなぁ・・・違和感一瞬でスルーしたことが悔やまれる
オプショナルのサン・イグナシオ・ミニを勧めてもらったおかげで、充実した旅になったことを深く感謝してお別れしようと思っていたのに・・・
つくづく旅は一期一会だと思う。その時に行動しないと、二度とチャンスが巡って来ないことがザラ。あぁ、やってしまった

ともかく、離陸2時間前にキッチリ空港に送り届けてもらった。が、構内の電気はあちこち消えてるわ、人が少ないわで不安に。20分ほどで人が集まり始め、ホッとするのだが。
この日はまずブエノス・アイレスに飛び、さらに乗り換えてカラファテへ向かう。到着は夕刻、移動に費やす一日である。
一人旅のうえに何かと待ち時間が多いので、日記がはかどる捗る。手帳(愛用のRol〇bahn)の残りページ数を気にしつつ、したためる。
お昼はブエノス・アイレス空港内にてフェットチーネ。奥の液体はコーラ。海辺育ちの自分の胃は肉料理があまり得意ではないらしい。前日に大きな牛肉料理を平らげたので慰労する。コーラ=胃薬を信奉している私。旅に薬を携行しないので、胃をねぎらう時はコーラを飲むことにしている


カラファテ便の搭乗口では、リュックサックにトレッキングシューズの人々が目立つ。氷河に行くんだろーな・・・
スーツケースの一角を占めるトレッキングシューズを、その使用頻度ゆえに憎らしく思った今朝の荷造り中の自分を反省。リュックじゃなくショルダーバッグで歩くんだから、せめて足元は万全でないとね。
明日は混載ツアーで氷河へ行くのだが、同じ飛行機には中国人や韓国人らしき姿がチラホラ。日本人にも出会えるのだろうか?

出発が30分遅れた飛行機は、予定どおりの時刻に到着。それにしても、3時間余りのフライト・・・南北に細長い国だと実感せずにはいられない。
ブエノス・アイレスで積み直されたスーツケースは無事にターンテーブルを流れてきた。が、ネームタグが無くなっていた。朝ポサーダスで預けた時には確かに付いていたのに。しっかり住所を書いていたので、個人情報が国際的にダダ漏れ。ま、いいけど(笑)
下の写真は降機後に撮影したもの。天空には月が見える。
今朝までのパラナ川沿いとは異なる風景がゆったりと広がる。ポサーダスの周りが森の緑に象徴されるとすれば、カラファテのそれは茶色が多くドライな感じ。同じ国とはいえ、別天地に来たんだなぁ。

出迎えのコーディネーター(見事な白髪の白人系婦人)とは難なく会えて、翌日のツアーのバウチャーを受け取った。欧米系の老夫婦と自分の2組がワゴンに同乗してホテルへ向かったのだが、コーディネーターは老夫婦のそばに密着して親しげに会話、私は眼中にないかの扱い。なんだかカンジ悪~ この旅で初めて

街はずれのホテルのフロントには10代と思しき少年が2人。ちょっとしかスペイン語しゃべれないのと伝えたら、顔を見合わせ、はにかみながらカタコトの英語で対応してくれた。初々しくて微笑ましい 夜当番のアルバイトだろうか、勝手に想像を膨らませてみる。
部屋まで荷物を運んでカード式錠の開け方を教えてくれたので、“vale!”(スペイン語で「O.K」)と言ったらクスリと笑ってくれた。言葉は潤滑油だね~ 単語でもいい、どんどん使おう

★ 中締め ★

後半篇のハイライトは氷河ツアー 
そのほか、ウルグアイを日帰りで訪れたり、ブエノス・アイレスをもう少し観光したりです。
お楽しみに~






























































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ボリビア篇 その2

2020年02月24日 | 南米

さてさて、後半は世界遺産「チキトスのイエズス会ミッション」を巡る旅
上の地図に示した①~③は前半で訪れた場所、後半で訪れたのが➍~➏です。下線部の数字は地図中の都市に対応しています。

3~6 サンタ・クルス ⇒コトカ ⇒サン・ハビエル ⇒コンセプシオン (2016年12月28日)

サンタ・クルスのホテルはスタイリッシュな外観に違うことなく、機能性が高い。シャワーがお湯に切り替わるのが速かった。
今朝のパッキングは割と上手くいった。かさばるダウンコートとフリース、塩以外はスーツケースに入った。問題は帰国便の時。超過料金支払うハメになるのかな
お土産の塩、もうちょっと少なくてもよかったか・・・
国際電話料金は20bs(≒3ドル)だって。安いよね、距離が遠いわりに。

お迎えを待ちながらロビーに座っていると、昨日は気づかなかった壁のデコレーションに目が行く。
 エチオピアっぽくないか? 特に首がめり込んでる天使は、デブレ・ベルハン・セラシエ教会の天井埋め尽くしてたのに似てるような。
いやいや、音楽隊の雰囲気からいってロマネスクっぽいのか?! な~んて、取りとめもなく思いを巡らせる。


お迎えが来て一歩外に出ると、寒っ
雨がポツポツ、風も吹いてる。汗ばんだ昨日とはえらい違い。私、半袖に短パンなのだが
5分くらい走って紹介されたのが、サンタ・クルスの中心部。うん、遠いね。ホテルはやっぱり郊外だぁー

最初に停まったのは、コトカ。ここは聖母マリアが木から現れた聖地で、洗礼を受けに来る重要な場所とのこと。ガイドのW君もここで洗礼を受けたって。
そもそもはこの町が栄えてて、中心がしだいにサンタ・クルスに移っていったらしい。
かぐや姫のようなマリア様は、なんだかリ〇ちゃん人形のようだった。色白の西洋的顔だち。



教会の横には屋台食堂が連なり、にぎわっていた。ガイドW君に促されるまま、覗きに行く。まだ中学生くらいと思われる女の子が、ユカという長い芋をチーズと合わせて鉄板で焼いていた。食べるか聞かれたので、思わず頷く。朝食を軽めにしておいて、結果オーライ



次に向かったのは、陶芸家さんのお宅。3世代と思しき大家族が庭先でくつろいでいた。
準備を待っていると、庭先で寝てた犬が私のスニーカーを嗅ぎ、右の脛をペロッと舐めた。えっ 下を向くと、つぶらな瞳が私を見上げている。
う~ん・・・実は次の休憩所でも、寝てたフレンチブルドッグが私の左の脛を舐めたのだ。一度でも犬を飼うと他の犬にもなつかれるって聞くけど、外国でもそうなの?
でも、今まで他の国ではこんなことなかったはず・・・ボディーソープの香りがボリビアの犬好みとか?! 動物に好かれて悪い気はしないけど、ナゾ

陶芸家の女性はスペインで10年修業したそうだ。なんだかヨーロッパ人のような顔だち。生活によって顔も変化するのかなぁと思ったが、後でガイドブックに「コトカは混血しないスペイン美人が多い町」と書いてあった。なるほど。
個人宅にお邪魔したので、何か買わなきゃ辞去できないのではとの心配は無用だった。作品を見せてくれたけど全然商売っ気なく、笑顔で見送ってくれた。

サン・ハビエルまでの道のりは果てしなく遠かった。後部座席からフロントウインドーを見ると、熱帯雨林ジャングルの中をジェットコースターのような一本道が貫いている。
あぁ、パラグアイに行った時も同じような景色を見た・・・
単なるデ・ジャ・ヴではない。これはパラグアイにつながっている森なのだ。
そう強く意識して今回の旅を計画したわけではないけど、パラグアイの世界遺産「パラナ川北岸のイエズス会ミッション」とアルゼンチンの世界遺産「グアラニ人のイエズス会ミッション」を訪れた4年数ヶ月前の旅とシンクロしているのだ。
2007年5月の上川島を皮切りに、聖フランシスコ・ザビエルの足跡を訪ねる旅を友人Cちゃんと重ねてきた。
ザビエルは南米に来ていない。が、その番外編として自分はイエズス会を追っている。今や一人で。
行く先に待つ教会に、俄然期待が高まる

3時間半かかってサン・ハビエルに到着、まずは昼食。目当てのレストランがイベントらしきもので入れず、急きょ隣りに入った。
フライドチキン4ピースにフライドポテトと格闘。美味しいんだけど、量が多いのよね~ 
ガイドのW君はライスにマヨネーズかけてた。マジか・・・世界共通の現象なのね
ドライバーのVさんは料理が出て来るまでの間にフラッと出ていったかと思えば、本を3冊持ってきてくれた。植物図鑑etc. スペイン語が読めなくても楽しめる。
そして、フライドチキンにかけるケチャップのパックが開かずもたついてる私を見て、さっと手を貸してくれた。う~ん、年の功 ていうか、後で聞くところによると、サン・ハビエルで15年間ガイドをやってたんだって。なるほど。ウユニのガイドYさんの時も思ったけど、だてに年齢を重ねてるわけじゃない。円熟してる・・・
社会人として、身につまされる思いがした。


サン・ハビエルのファサード遠景。なだらかな三角の瓦屋根・・・高くそびえる欧州の教会とは全く異なる雰囲気。

そして、ねじり装飾の木柱 そう、これよ、これ。愛読書『世界の教会』で初めて目にした時、一瞬で心奪われたなあ。
あ。中央で存在感を示す紙製の星はクリスマスの名残と思われます、はい。

白い漆喰(?)の上に、茶色系の鉱物や植物で模様が書いてある。独特だなあ・・・
なんと、現存する80%がオリジナルなんだって。すごい

ファサードからは中へ入れないので、右手に進んでいく。途上の列柱が美しい

教会について説明するボードを読むと、イエズス会を創設した聖フランシスコ・ザビエルにちなんでこの町は名付けられたって。そうなのか~
彼が日本に初めてキリスト教を伝えたのよ、とガイドW君に言ったら、へえ~って顔してた。えっへん ただ事実を告げただけなのに、なんだか誇らしい気持ちになるのはなぜだろう。
世界史的に見れば、日本にキリスト教を誰が伝えたかなんてさほど重要ではないかもしれないけど。


教会の中へ進んでいくと、その昔教会で使われていたであろう宝物がそこかしこに飾られている。

てか、さりげなく壁の装飾美しいなあ~ 呆けた顔で、キョロキョロする私。
上の写真で遠目に写ってた天使(ガラス越しなので、反射は避けられず)。顔だちは欧州寄りかなあ
                                     


教会はロの字型になっていて、中庭に出た。あの鐘楼・・・ファサードの横にちらっと見えてたやつだ。
高さはそんなにないけど、欄干の装飾がキレイ。

鐘楼から眺めた中庭。丁寧に手入れされている芝生の緑が目に優しい。

てか、壁の装飾に手抜かりないのが心憎いなあ。
壁の装飾・装飾うるさくてゴメンナサイ。かなり好みなので、しつこくなっちゃいました


さて、教会の内部です。柱はやっぱりねじり装飾。正面の祭壇は新しいっぽかった。

さりげなく配置された天使。そして、天井の装飾模様に注目 同じ南米でも、ペルーやアルゼンチンでは見かけなかった・・・
フォルクローレ感が強いような・・・ボリビア独特の様式なのかなぁ??

所どころ、パステルカラーの装飾もあり。鳥や草花が淡~く浮かび上がる。メルヘン

聖人と思しき彫像は、ヨーロッパの様式とは一線を画した作風。


サン・ハビエルを後にして、今夜の宿泊地コンセプシオンへ向かう。
1時間半くらいで到着。ホテルにチェックインし、夜のオープンを待って外出。
この町の中心部と思われる四角い広場にホテルは面している。広場中央にあったクリッペ。中途半端にリアルなサンタが こ、こわい

教会も広場の一角にあり、ホテルとは目と鼻の先。宵闇に浮かびあがるコンセプシオン教会。

何気なく入ったら、ミサが始まってしまって出るに出られず、なんと45分間・・・
讃美歌と聖書朗読はいいとして、言語の通じない説教はツライわぁ
やむなく、前方の祭壇を見つめる。新しいっぽいなぁ(写真は翌日の再訪時に撮影したもの)。後から聞くところによると、マリア様以外はすべてrestoredらしい。

司祭さんのそばには “見習い小僧”と思われる子供が2名いた。日本でいう小学校低学年くらいだろうか。親元離れて生活してるのかな、朝早くから修行や雑用に奔走してるのかな・・・勝手な妄想を巡らせて時間をつぶした。説教は耳トンネルで、バチあたりだね
そうこうしてミサが終わると、参列者たちは抱き合ったり握手しはじめた。んこれは風習なのか 戸惑う私も、何人もの人から握手を求められ、応じてしまった。
そうか、12月25日にラパスのカテドラルで礼拝をチラ見した時、クリスマスだから特別なのかと思ったけど、これが通常運転なのね。その国独自のバリエーションになってて興味深いな

教会に入った時は一緒にいたはずのドライバーVさんはいつの間にか姿をくらましていて、ガイドのW君と2人でディナーをとることになった。教会のある広場の一角のレストランにて。
放し飼いのオウム(?)君がいて、ちょっとビックリ。客があげたと思われるパンのかけらを器用につまんでる。鮮やかでキレイな色~

このレストラン、サラダビュッフェ付きで嬉しい

が、メインにボリビア料理らしきものがない。魚介系1つと、肉3つからのチョイスなんだけど、内陸部で魚介いく勇気はなく、ミラノ風ビーフを選ぶ。昼も肉だったんだけどなぁ・・・
日頃たて続けに肉を食べることは稀なので、胃腸が心配

赤ワインはカジュアルで美味
私はいつもの調子だったけど、ガイドW君は1杯ちょっとしか飲まなかった。ボリビアではビール、特にPACEÑAがポピュラーなんだって。たしかに看板多かったな。

酔いも手伝って、怪しい英語を駆使してガイド君と会話に努めた。W君は29歳で、この仕事を始めて1年半、以前は小学校で1年半勤めてたそうだ。
若く見えるから、大学生かもと思ってた。ヘタすると自分は親くらいの年齢かも疑惑は晴れて、セーフ・・・
てか、仕事続かない人なのかしら 職業病スイッチが入りそうになったけど、それどころではなかった。
当然こちらも訊き返されるわけで。年齢・職業はおろか、離婚歴まで語るハメになってしまった。これぞ、旅の恥は掻き捨て

レストランから徒歩1分、ホテルに戻る。この町に着いてから、行動がこの広場内で完結しちゃってるな~
朝ホットシャワーが出ないだろうと予測して、ポリシー(アルコールが入ったら、入浴禁止)を曲げてお風呂に入る。
ところが、C(スペイン語のcaliente=熱)のつまみをひねって5分経っても出るは冷水のみ。念のためF(スペイン語のfrio=寒)のつまみもひねってみたけど、もちろん冷たい。
んんん・・・ソーラーシステムなのかな? 確かに昼間は曇りのち雨だった。
これはヒドイね 思ったけど、どうしようもない。どうせ1泊だし。頭洗うのはあきらめて、さっと浴び終えた。


6・5・3 コンセプシオン⇒ サン・ハビエル⇒ サンタ・クルス (2016年12月29日)

朝食前に宿の中をウロウロする。ロの字型の構造で、中庭に朝食会場があった。廊下には様々な調度品が置かれてるんだけど・・・

このお面、おもしろ~い ラパスからウユニを経てここまで来て、初めて出合った。まだまだ奥深いボリビアがあるんだなぁ 
明日出国せねばならないのが残念


コンセプシオンを出て、さらに奥へ車で30分。St.Ritaという村へ。綿織物を生業とするお家に着いた。
恰幅のよいお母様に、綿をいかに糸にしていくかを見せてもらった。下は織機の様子。

叔母にスカーフを買った。買って買って、って感じじゃないんだけど、やっぱりねぇ・・・割り切れないところが日本人なんだろうか。
1枚100bs、安くはない。ボリビアーノ余っててよかった。

川で洗濯&沐浴するファミリーの横を通り過ぎ、さらに奥へ分け入る。
隕石でも落ちたのかと思うような巨岩に到着。ドライバーVさんとガイドW君に導かれるまま、岩に登る。周りはジャングル・ジャングル・ジャングル
私はアマゾンにつながる森の中に確かにいるんだな、と実感する。今回の旅の東端、もはやパラグアイに近い場所に私はいた。
胸の奥からこみあげてくる・・・ あぁ~ ここに来てよかった


コンセプシオンに戻って、museoに入る。内観はざっとこんな感じ。

目を凝らしてみてください。ハープにさりげない天使の彫刻がカワイイ

木彫のキャビネット。真ん中のねじり柱の間におわしますは大天使ミカエルか。

色彩も表情も繊細・・・

素朴な表情のマリア様

腰掛け部分の古びた革の感じもいいけど、背もたれの彫刻に目が釘付け 勝手に、南米の作風と決めつける


サン・ハビエルで見かけた天使もこんな感じだったな・・・


かと思いきや、急に西洋寄りの彫刻たちが出現。もはやどうツッコんだらよいのか



美術史ど素人の感想としては、なんていうのか、いろんな作風が混在してる印象。
色々な国からやって来た人々がこの教会に携わったのかなぁ。

次に、昨夜立ち寄ったコンセプシオン教会に再入場。
幻想的な夜とはまた違った印象のファサード。青空の下、健康的でいいね

近寄ってみると、天使君が左手で指してる柱は 絵ではなくて立体と気づく。だまし絵みたい

ファサードの裏側。楕円の窓から射しこむ光が優しい。壁にはギッシリ草花文様が描かれている。

正面の祭壇は前夜ミサの間に凝視済みなので、側廊へまわる。

アース系の色彩でありながら、キラキラした装飾なんだよねえ。

リ〇ちゃん風の再来じゃなくて、その下方にご注目ください。



チャペルから出たところに、教会の再建前後についてパネルで説明があった。
昔はファサードと鐘楼が一体化していて、全然違ってた。かなり手を入れた再建なんだわ。

昼食は、再び昨夜行ったレストランにて。
迷うことなくlentegaを選ぶ。出国前日にして初めて、本格的なボリビア料理を食す。
レンズ豆が鶏肉とともに煮込まれている。味付けはマサラが主体か?! 米とよく合う。素直に美味しい
辛くないのもいいね。豆とイモと米・・・この国の料理、基本的に好みだわ。肉攻めを除けば


帰路はひたすら車窓を眺めていた。往復してみて分かったのは、サンタ・クルスからサン・ハビエルの手前まではそれなりに開発の手が入っていること。手つかずの森と、人間が手入れした草原は違いがある。
それにしても・・・この道路をつくってくれた方々に感謝 おかげで私は素敵な教会にたどり着くことができた。
そして・・・このようなジャングルの奥に伝道した先達の情熱に脱帽 宗教ってすごいね。自分が信仰を持たない人だからこそ、その力の大きさを感じる。

前日も寄った休憩所脇の食料品店で、桃ジュースを飲む。外見は梅にそっくり、味わいは身体に良さそうだけど、自分が想像する桃とは異なる。ガイド君に教えてもらわなかったら正体が分からなかったかもなぁ。

レジのおばちゃんは日系人でも通りそうな顔だちだった。ドライバーのVさんとは顔なじみらしく、楽しそうに喋ってた。”日本”って単語が聞こえたから、私のことが話題になったのかも。
前日はあんなに懐いてくれた犬は眠るのに忙しいようで、なんだか振られた気分。脛に虫よけを塗ったせいにしておこう

18時半過ぎ、まだ明るいうちにサンタ・クルスへ着いた。一昨日泊まった同じ宿、勝手知ったるエリア。
例のスーパーへ向かう。昨日から今日にかけてのチキン→ビーフ→チキンで胃腸に負担かけたくない感じなので、夕食はサラダに決めた。
外観に魅かれて買ったビールは黒だった (この1年数ヶ月後、本場のアイルランドを訪れるまで黒ビールが苦手だった私)。
あおりながら、この旅最後の洗濯にいそしむ。今回は冬(ラパス&ウユニ)と夏(サンタ・クルス)両方の支度が必要で手持ちを少なくしたため、最後まで洗剤と友達だった(苦笑)



3 サンタ・クルス⇒ アメリカへ出国 (2016年12月30日)

ボリビアを発つ日。早めにロビーに降りると既にガイドW君が待っていて、予定より早く出発。来た時は30分以上かかったのに、20分で空港に到着。朝だから混んでないのかな。
ラパスを経由せず、そのままマイアミへ出国するのでハガキを投函しなければならない。が、ガイドブック情報だと空港内に郵便局らしきものはない。空港へ向かう車中で尋ねてみたら、ドライバーのVさん曰く、ないだろうと。加えて、自動チェックインしている間にガイドのW君が探しに行ってくれたが、やはり無かった。メキシコはカンクンと同じか・・・出国する空港に郵便局が(ポストすら)ないパターン 
ここは覚悟して、お願いするしかない。ガイドW君は「city centerに郵便局があるはずだから、この後すぐに投函するよ」と言ってくれたけど、さてどうなるだろうか ドライバーVさんがしっかりしてるから、空港からそのまま郵便局に寄ってくれるとは思う。でも、現在7時半過ぎ。朝早すぎて閉まってたらどうなるのか・・・渡したチップ(150bs)が効果を発揮してくれることを祈るばかり

boarding timeの30分前に搭乗口に行く。X線検査はあっさり通過。窓口が多いので出国審査も早い。コピーにコピーを取られ続けたグリーンカード【入国時に書いたカードの半券。出国カードともいう】はここで回収され、ホッ 小さい紙だもん、失くさないかヒヤヒヤしたわ~
安心したのも束の間、次の荷物検査が超念入り
制服からして軍人さんだろう。鞄の内ポケットやポーチの中まで開ける。汗拭きシートが入った袋を嗅ぎ、家の鍵に付けたキーホルダー(パグ犬)にも引っかかってたなぁ。どうやら、膨らんでるモノを重点的にサーチしてるみたい。鼻で判断できるように訓練されてるんだね・・・麻薬に厳しいと聞いてはいたけど、ここまでとは。出国審査をこれまで数々受けてきたなかで、1・2を争う厳重さ
こーいう時は居心地悪くなってる場合じゃない、珍しさを楽しむべし

★ 終わりに ★

この後、マイアミを経由してダラスに宿泊・・・と旅は続くのだが、蛇足な感が否めないのでここで終わりにしたい
旅の後半のメインテーマだった、イエズス会ミッション。世界遺産に登録されている6ヶ所のうち、日程の都合で2ヶ所しか訪れることができなかった。叶うことならば全部見て、比べてみたかったなあ。参考までに、ポスターで他の教会をご覧ください(サン・ハビエル教会に貼ってあったものです)。

自分が訪れたサン・ハビエル教会は1691年、イエズス会がボリビアで最初に布教の拠点とした歴史ある場所。現存する教会は1749年から1752年にかけて建てられたもの。
2番目に訪れたコンセプシオン教会は1709年に布教が始まった。現在の教会は近年の修復によるもの。
コンセプシオンからの帰路、再びサン・ハビエルに寄って見比べると明らかに違っていた。サン・ハビエル教会は派手さはないけど、整然と美しい。ごく自然な色合いだし、柱や屋根のたたずまいがしっとり落ち着いており、格が違うなあと思ったものだ。しかし、この記事を書くにあたり調べていて、古いことが大切なのではないと気づかされた。
レドゥクシオン【トマス・モアが唱えた理想の共同体を目指し、イエズス会修道士と先住民が共同生活を送った場所。教会だけでなく、農園・住居・学校など生活に必要なものが備わった共同体】はボリビア以外の地にも建設され、今日世界遺産に登録されている。パラグアイ、アルゼンチン、ブラジル・・・しかし、それらはみな廃墟である。18世紀後半、南アメリカ大陸からイエズス会が追放されると、まもなくレドゥクシオンは灰塵に帰した。パラグアイで、アルゼンチンで自分が見たのは、崩れ落ちたレンガの建物跡だった。
翻って、ボリビアのは現役の教会なのだ。イエズス会が去った後も、チキトスの人々は信仰を守ってきた。朽ち果てるに任せず、建物も再建した。
ボリビアと他の場所では何が違ったのだろうか・・・ともあれ、密林に踏み入った先人たちの努力の息吹が現在も根付いている。そのことに心震わされずにはいられない

いよいよ最後に。
前篇・後篇あわせて1週間超の旅では、スポットガイドとスポットドライバーの方々にお世話になった。ラパスのドライバーさんとZ君、ウユニのXさんとYさん、サンタ・クルスのVさんとW君。それぞれ個性豊かで面白かった。旅行社から当初提案されたスルーガイドを断念して(理由は費用)、結果的には大正解 旅は人との出会いだなあ、とつくづく思う。
ボリビアからのハガキは、2017年2月10日以降、私の友人たちに届けられた。かつてアルゼンチンからのハガキは2ヶ月かかったことを思えば、私を空港で降ろした帰路にVさんとW君が約束どおり投函してくれたのだろう。思いつくまま各国を放浪する一旅人に過ぎない自分は、様々な国の人々に助けられて今を生きている。感謝の念に尽きない。

 おしまい 
































 















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ボリビア篇 その1

2019年10月13日 | 南米

9日間の旅だったが、ひとつにまとめると長いので前半を「その1」、後半を「その2」とする(クロアチア篇、長いなぁと反省)。
上の地図で示した➊~➌は、旅の前半に訪れた場所。
夏に予定していた旅をキャンセルしなければならなかったため、1年ぶりの旅立ち。エネルギー有り余ってたので、久しぶりに遠い所へ行こうと思い立つ。ものすごく安直だけど、CMなどで見るウユニ塩湖の鏡張りの景色見たい そういえば、愛読書『世界の教会』でボリビアに素敵な教会があったよね~ というわけで、今回の旅先が決まった。

1 (ダラス、マイアミ経由)⇒ ラパス(2016年12月25日)

  ボリビアへの直行便はないので、アメリカで乗り継ぐ。私の場合、出国日・帰国日が決まっているので、行きたい場所を挙げて南米を専門に扱う日本の旅行社さんにスケジュールを組んでいただいた。アメリカで2回の乗り継ぎはあわただしい。まずダラスに降りると、荷物をピックアップしてまたイチから審査となるので、乗継便に間に合うかハラハラした。ESTAで2008年以降に入国したことのある者は自動チェックイン機を通らなければならないことに戸惑う。4年数ヶ月前(アルゼンチンへの乗り継ぎ)もそうだったっけ? 予想通り色々時間がかかり、水を買うくらいしかできなかった
ダラスで預けた荷物はマイアミではピックアップ不要、ラパスまで運んでもらえたのでスムーズ。しかも、マイアミ便・ラパス便ともに座席は通路側で隣は空席、ラッキー 世界最高所(標高4,082m)の空港に降り立つというのに、ワインをおかわりしてしまう。コップに注いでくれるのだが、ざっと200ml以上あるので、1/4ボトル渡されるよりもお得。白は酸がしっかりしてて、赤は濃縮感あって美味。アメリカン航空いいな 

ラパス空港では入国審査にさほど時間を要さず、預け荷物もあっさり出てきた。現地時間、早朝5時過ぎの到着。
空港からラパスの街に下っていく途中の景色 夜が去りつつあり薄明るい空、すり鉢状に広がる家々の灯、背後にそびえるイリマニ山(6,402m)・・・この時間に到着してよかったとつくづく思った。写真撮れなかったのは残念だけど、心に残る風景(今にも車停めて!と言いたいのをこらえるしかなかった。だって、市街に向かう車で前後ビッシリなんだもん)。
空港に迎えに来てくれたガイドのZ君は大学生くらいだろうか。英語ペラペラ。聞き取るのがやっとだったけど、聞き捨てならぬ情報がもたらされた。
この2ヶ月、水不足に悩まされてると。先行きに暗雲がたちこめる。ウユニの鏡張りの景色は、雨が降ってなんぼ。降雨の後に地表にたまった水面に空が反射するわけで。
ま、限られた時間の中で、写真集のような景色にお目にかかれるとは思ってないけど・・・。

30分ほどでホテルに到着。この日は高度順応も含めて午前中に仮眠し、午後にラパス市内をフラフラ歩く予定。部屋に入ってほどなく眠くなってきた。眠りに落ちようかという頃、6時半に教会の鐘が鳴り響く。そうだ、ホテルの目の前はサン・フランシスコ寺院。イスタンブールの宿で、ブルーモスクのアザーンに起こされたその昔を思い出しつつ眠りに落ちた
4時間後にセットしたアラームでは起きられず、ウダウダしてしまう。今回の旅程で、ラパスとその近郊に行くならこの日しかなかった。ティワナク遺跡は無理そうだから、せめて市内の考古学博物館を見ようと思っていたが。博物館が13時クローズの日という不運もあり、これも叶わず

さて、まずは両替しなきゃならんのだ。早朝の空港で両替屋は開いてなかったと思う。怪しいスペイン語でホテルのフロントの方に聞いてみると、ここではやっていない、でも近くにあると。スマホを操作して見せてくれた画面と、自分のガイドブックの地図を照らし合わせる。どうやら教会の斜め向かいの角のようだ。確かに、歩いて30秒だろう。
それらしき場所は簡単に見つかった。が、人通り多い道端に、露店の構え、レートは書いていない。リスク高すぎ だけど、現地通貨なしでは暮らしていけない。意を決して、20ドル札を5枚出す。670bs(ボリビアーノ)になった。事前調査通りのレート、ホッ
こんなやり取りをしてても、人々は意に介さず通り過ぎていく。ヘンな物売りやジプシーが寄って来ることもない。ボリビアって、思ったほど治安悪くないのかも。
下の写真、左端にある小さな青いパラソルが両替屋さん(正面がサン・フランシスコ寺院。目抜き通りのマリスカル・サンタ・クルス通り越しに撮影)。


軍資金を得て、ムリーリョ広場を目指す。マリスカル・サンタ・クルス通りを横切り、急な坂道をのぼっていかねばならない。
そう、水がないんだった。空港でもホテルでも見当たらなくて、ダラスで買った500mlは風前の灯火。
下はたどり着いたムリーリョ広場。正面の黄色い建物が国会議事堂、真ん中にそびえ立つのがボリビア独立の英雄ムリーリョの銅像、右手の赤いのが大統領官邸。大統領官邸の隣にあるカテドラルは閉まってた。街歩きの時には必ずカテドラルに立ち寄ることにしてるのに、あら残念


ムリーリョ広場のクリスマス・デコレーションの喧騒を通り過ぎ、北西方向のハエン通りを目指す。完全に人けのない裏道。昼だから歩けるんだろーな。
たどり着いたハエン通りは、確かに植民地時代の面影を残すコロニアル風で小綺麗。しかし、今日は日曜なので土産物屋1つと旅行社1つしか開いてなくて、閑散
ムリーリョの家から 来た道を振り返る。石畳の向こうに、空の半分を埋め尽くすかのような家並みが見えた。「坂道は振り返るべし」 これ、格言にしよう。



ラパス便は到着前に何も出してくれなかった。水さえも
早朝チェックインしたホテルでは朝食をとる権利を持っていたのだが、10時までだったので食べるより寝るほうを選んだ。というわけで、さすがにお腹がすいてきた。
ガイドブックを読んで目をつけたお店へ向かうため、登ってきた坂を下り、サン・フランシスコ寺院もホテルも通り過ぎて、サガルナガ通りを上る。目星の店は閉まってた。ガイドブック情報では無休と書いてあるけど、まぁよくあるハナシ。次に向かう店はさらに坂の上。くうぅ~ 高地順応中の身にはこたえる
お店の間口は狭く、一見した感じ閉まってるのかと思いきや、引き戸が少し開いてた。おそるおそる覗き込むと、先客が1人・・・よし
結局、おススメのサルテーニャにする。肉とオリーブ、卵と野菜が入ったパイ。味付けが甘いのがやや気になったが、空っぽだった胃にはやさしいね。ビールいきたいところだけど、コーラで。普段全然欲しくもないのに、こういう時ってゴクゴク飲める。空気が乾燥してるのかなぁ


ホテルまでの帰り道、軒を並べる民芸品店を物色。さっそくエケコ人形【欲しいものが手に入る、幸運をもたらす守り神】を購入。
父へのお土産の定番、フクロウも目に入る(父は日本で旅に出ると好んでフクロウを買っていた。いつしかそれを知った私は、海を越えるたびにフクロウを探し求めるようになった)。ティワナク遺跡の立像風の石彫り。ウユニの岩塩でつくられたフクロウが第1希望なのだが、先のことは分からないので、ひとまず小さいのを買う。お守りのようだ。形によって意味が異なるみたいで、フクロウはfortune 
店先で何がしか刻んでたインディヘナのおばあ様に「cuanto?」と聞くと、私の目をじっと見て「dos.」と指を2本立てた。うん。こういう瞬間、旅っていいなとしみじみ思う。
ホテルのそばには食料品店が無さそうなので、2リットルの水をインディヘナのおばあ様から買い、ホテルへ置きに一旦戻る。

まだ明るいので、再び外出。サガルナガ通りを再び上り、さらに南へ。週末ににぎわうというロドリゲス市場にたどり着く。16時を過ぎていたせいか人はまばら、引きあげたお店も多そうだけど、市場の名残がそこにあった。さらに賑やかな音のする方へ進んでいくと、音源はどうやら結婚式のようだった。誰も私のことなど気にもかけない。冷たくされているのではなくて、外国人がその辺にいることを普通のことと受け止めてる空気感。あぁ、なんてラクなんだろう


サン・フランシスコ寺院、昼間は入れたけどミサの最中につき、祭壇の前まで近寄れなかった。夕方の再オープンに期待したけど、開かなかった。やっぱ一期一会だぁ。
祭壇は遠目には金キラ ペルーはクスコで見たのと似てた。聖人とおぼしき立体の人形に服を着せてるのは、スペイン系のカトリックっぽい。
クーポラにティワナク風の彫刻があった。現地の文化と教会建築が融合してるのね。
外のファサードを見上げてみると、そこかしこにティワナク文化が根付いていた。下の写真、まずは遠景。その下の拡大した写真の中からティワナクっぽい部分を探してみてくださいね



寺院前の広場では踊ったり、大道芸したり、クリスマスの記念撮影したり、それを見る人達で常に人だかり。


写真屋さんが家族を撮って写真売ってる模様だけど、そのぬいぐるみってば・・・商標でモメそうだなぁ


翌朝の出発が早いので、早めに引きあげてホテル内で夕食をとる。サン・フランシスコ寺院の壁が見える席をチョイス。
ジョウロは、窓に貼り付けられた装飾(クリスマス


高山病対策のため、腹八分目で終えねば。スープ飲みたいのを堪えて、トゥルチャ(鱒)だけ選ぶ。ジャガイモの上に鱒、玉ねぎにショウガ・ニンニク・トマト・ローズマリーで紙包み蒸し。あっさりしてて美味しい インディカ米とレタスも付いてくる。欧米風アレンジ料理の気もするが、ボリビア伝統料理にはこれから出合えそうだから今夜はこれでよし、と。

しかし・・・目の前にある冷蔵ケースには、ビールだけでなくワインも見える。昼間の街歩き中、赤白ワインにシードラも売ってた。うぅ~ 飲みたい
今のところ、高山病の兆候はナシ。ラパス空港に着いて入国審査待ってる時、鼓動が早くなってるなと感じたけど、頭痛も吐き気もない。仮眠後に胃が押されてるような、あまりお腹すいてないなーって感じたのと、上り坂がやや息苦しいくらい。丈夫な身体に感謝したい 明日夕方まで元気だったら、ディナーでアルコールいっちゃおうかな。性懲りもなく(笑)

しかし、今年のクリスマスは1.5倍浸った気がする。12月24日に日本を出て日付変更線を東に越えたから、イブを2回やったのだ。フライト・アテンダント達はもちろん仮装してるし、ラパスに着いてからもコスプレの人たちを見かけた。そういえば、冬に中南米来たことなかったな。ペルー8月、メキシコ3月、アルゼンチン3月だわ。
サン・フランシスコ寺院のミサはクリスマス礼拝だったのよね。主教のお祈りの後、握手しあってみんな嬉しそうにしてたなぁ。イエスが生誕して最終的に人々が救われたことを喜んでるんだね。
・・・なーんて、殊勝な人間じゃない私。
ミサで歌われた讃美歌が独特で、リズムは欧米と違うし、楽器も南米ナイズされて全体的にラテンな感じ
この音を録音したい、床にレンズ向けて動画のスイッチ入れるか?てなことばかり思案するナマグサモノでした

2 ラパス ⇒ ウユニ(2016年12月26日)

朝4時45分、電話で起こされる幕開けだった。曰く、私を迎えに来ていると。いやいや、5時30分のはずでしょ?
まぁよく分からないけど、遅いよりはいいか。急いで支度してチェックアウトする。
昨日空港で迎えてくれたガイドZ君はおらず、ドライバーだけだった。スペイン語しか通じないのでその場で詳しいことは分からなかったが、空港着5時30分と誤解してたようだ、のち空港に着いた時間から推測するに。
すり鉢の底、ラパス市街から上がっていくと、家々の灯が星のようにちりばめられていた。昨日より30分早いだけで、こんなにも暗いのね。完全な夜景だった。
メキシコはサカテカスを思い出す。あの時もガイドがいなくてスペイン語ドライバーだけだったな。
さすが実質上の首都 ラパスの方が3倍くらい町が大きい。
(余談だが、英語ガイドが空港見送りに来なかったことについて、帰国後に旅行社から謝罪の電話があり、料金の一部が返却された。自分は何も告げてないのに、どこから露見したんだろう? ともあれ、律儀な対応

ラパス空港で見かけたクリッペ(キリスト生誕の場面を表すオブジェ)は、人形がフォルクローレ感にあふれてる

ちなみに、前日にサン・フランシスコ寺院前で見かけたのは金属製でかなりモダン。比べると面白い。


ウユニ便は4席×10列の小型機だった。
日本人ツアー団体と一緒になる。CM効果だよね・・・水たまりに景色が反射する「鏡張り」の光景を見たい日本人は着実に増えてる。
1時間もかからずウユニに降機。ラパスの南東500㎞弱の地。
出迎えてくれたのは、一見して年輩のガイドYさん。後で聞いたら53歳だった。ドライバーのXさんはスペイン語のみなので、基本的にYさんとの会話がメインとなった。

最初に「列車の墓場」へ行く。廃棄され、もはや走ることのない列車たちを悲壮感たらしめていないのは、どこまでも続く広くて青い空だろう。


今日はハガキ用の切手をゲットせねばと思い、郵便局に寄ってもらったが閉まっていた。クリスマスの翌日だからだろうか?! 
残念だが仕方ない。次の街サンタ・クルスでトライするしかない。
ウユニの街を後にして、白い水平線を左手に見ながら塩湖へ向かう。
先ほど飛行機の窓から見た塩湖はとてつもなく大きくて白く、所々水色だった。水が張ってるのかなと期待が膨らんでいた。
が、ある時気づいてしまったのだ。いま自分たちが走っているこの薄茶色いひび割れた道が湖なのだと。


ショックだったなぁ ラパスで水不足の話を聞いたものの、万が一にも見てみないとねーという気持ちだったが、見事に打ち砕かれてしまった。
その後のテンションの下がり様は、我ながらハンパなかった。
「雨季なのに、ほとんど水がないのね」とガイドYさんに言うと、例年は11月から降るはずなのに今年は1月かららしい、天気が変なんだ、と「this year」を強調されてしまった。「去年の12月は鏡張りになってた?」と聞こうか一瞬思い、止めた。だからって目の前に広がる光景が変わるわけじゃない。空しいだけだ。
代わりに、「私は鏡張りの景色が見たくて、雨季を選んで来たの」と言ってみた。すると、ガイドさんが言うには、アジア人は鏡張りの景色を見たがるんだって。日本人だけでなく、中国人・韓国人もそうだ、と。一方、欧米人は真っ白い塩の野原を珍しいと喜ぶらしい。好みの違いといえばそれまでだけど、なんだか興味深い。


プラヤ・ブランカは建材としての塩ブロックを使って建てられたもの。内部にはやはり塩製のテーブルと椅子が並んでいる【湖畔にある塩のホテルに泊まりたいけど予算オーバー、という人にオススメ。雰囲気だけでも味わえる。食事は出していないが、食料を持ち込んで利用するのもアリ】。


プラヤ・ブランカを後にして、湖のほぼ中心に位置するインカ・ワシ島を目指す。60㎞ほどの道のり。
途中、休憩中に撮影。遠くの島が魚に見える。不思議に思ってたら、なんとそのものズバリ「魚の島」って名前だった 塩湖にある大小32の島のうち、最大。


さて、インカ・ワシ島に到着。観光客に唯一解放されている島。
こ~んな道を登っていくと・・・

パチャママ【アンデスの原住民が信仰する地母神。農作物の豊穣、家畜の繁殖にかかわる力を持つとされる】の祭壇が待っていた。
ちなみに、ゴツゴツした岩はサンゴ礁の化石。太古の昔、ここが海だったとはにわかに信じがたいけど・・・。

振り返ると、ニョキニョキ伸びるサボテンと塩湖のコントラスト
水の張らない塩湖は遠目には雪原に見え、サボテンが寒冷地に生えているような錯覚に陥るのが面白い。


下ってくると、小さな展示室があった。下の写真は、パチャママ(地母神)に捧げる祭壇を再現しているらしい。
台の上にはビールなどのアルコール、水、コカの葉など供え物。手前のリャマは目隠しされている・・・生贄


インカ・ワシ島のレストランで遅めのランチ【塩湖内で食事を出すのはここだけなので、混雑は必至】。
人生で初めてリャマの肉を食べた。知らされてなかったら、豚肉と勘違いしそう。クセはなくて、おいしい部類

トイレを済ませて、4WDに乗り込む【プラヤ・ブランカ、インカ・ワシ島ともにトイレ有。頻繁に行かなくても大丈夫な人なら、清潔度でプラヤ・ブランカがおススメ】。

湖の周縁部へ向かって進み、コルチャニ村へ。お土産物屋が並んでいる。
まず、塩屋さんで1㎏入りを10袋ゲット【粒子の細かいパウダータイプと、ザラメ状の粗塩タイプがあり、値段は同じ】。予定より多く買ってしまい、ただでさえパンパンのソフトバッグのパッキングに毎朝苦労することになるのだ
さらに、塩を彫刻したフクロウの小像とリャマのマグネットを買う。トイレットペーパーと思われる紙で何重にもグルグル巻きにし、袋に入れて渡された。塩は水に弱いから、吸水用のペーパーなんだろうか?
この辺りの景色・土産物は撮影してなくて、掲載できず残念 ブログやるとは夢にも考えてなかったこの頃

塩湖でsunsetを鑑賞する前に、一旦ホテルへチェックイン。今夜は塩で造られたホテルに泊まる【3つあるうち、今回泊まったのはLuna Salada】。
ふんだんに塩が使用されている館内。下の写真は、共用スペース。テーブルやソファはもちろん、床に敷き詰められた塩の上に絨緞が載っている。


部屋の中も塩だらけ。ベッドに、ブロックのように見える壁も塩製。さすがに布団は塩じゃないけど


17時半、再びドライバーXさんとガイドYさんが迎えに来てくれて、sunsetを眺めるポイントへ移動。といっても塩湖の上の任意の場所なので、近くには我々以外皆無。
塩湖の表面は六角形状の風紋(?)が際立っている。太陽の位置的に、やたら長~く伸びる影。

夕日が沈むのを待つ小1時間のあいだに、ワインを出してもらった。
ボリビアのメルロ 高度順応のため昨夜は泣く泣く我慢してたけど、思わぬタイミングでありつけた。もちろん、自分にとって初めてのボリビア産ワイン。この日一番の笑顔だったかもしれない

高血圧だから飲めないと断るガイドYさん、うれしそうに飲むドライバーXさん。
てか、いいんかい 湖上は公道ではない? ま、ホテルまでの30分、歩道・信号はおろか障害物もない道のりだから、いいかぁ(苦笑)

念のためにとヒートテックの肌着を身に着けた自分を呪うほど昼間は暑かったのに、夕日を待つうちにどんどん寒くなってきて、コートを羽織る。たしかに日中から風は強かったけど、冷たさが増した。
下の3連写真は ①薄オレンジ色に染められ始め →②縁までオレンジ色に →③太陽が沈む直前、モカ色に 
自由自在、秒単位の変貌ぶり。




sunsetの後、そのまま星空観賞という流れで同じ場所にとどまっていた。が、あいにくの曇天で天の川や南十字星には出合えず
もっと待ってたら晴れたのかもしれないけど、寒いうえに眠気が・・・4時45分起きがここにきてこたえる
ガイドYさんに、Vamos!と言った。

夕食は豪華なビュッフェだった。やった~野菜がいっぱいある
ボリビア料理かと聞かれればだけど、大好物のトマトをこれでもかとおかわりしてしまった


ドリンクは別料金。ゴクゴク喉を鳴らしたい気分だったので、珍しくビールを選択。
後日サンタ・クルスのガイドW君に聞いたところによると、このPACEÑAがポピュラーな銘柄なんだって。もちろん、自分にとって初のボリビア産ビール


今夜の宿には、自分以外にも日本人客がいっぱい。
そんなに席が近いわけでもないのに、母国語って耳に飛び込んでくる。
曰く、αさん「この画像、鏡張りの風景に見えなくもないと思いません?」
βさん「うん、まあ・・・。でも、ツイてないよな~ せっかくここまで来たのになぁ。」
だよね・・・心からβさんに同意してしまう私。
自然現象は運しだい。どのようであろうと、自分の目の前に広がる光景をありのまま受け止めようと決意して来たものの、全くダメだったね。
まだまだ精進が足りない私

3 ウユニ ⇒ ラパス ⇒ サンタ・クルス(2016年12月27日)

目覚めたら、求めていた景色に出合えないショックはどこへやら、妙に気分が明るくなっていた。
切り替え速いのが私の長所 心おきなくウユニを去れる予感。

朝会うなり、ガイドYさんは「もしよかったら・・・塩湖に行く前に祭壇へ行かないか」と切り出した。
勧められて断わる理由がない。もちろん、Vamos!
祭壇は塩湖とは逆方向にホテルから数分の場所、意外と近かった。入口はこんな感じ↓ ↓ ↓


昨日インカ・ワシ島の展示室で見た、パチャママ(地母神)に捧げる祭壇に似ていた。
しかし、明らかに違う点が。人骨が4体あるのだ。
さらに入口を振り返ると、ピューマのミイラが吊り下げられてる・・・

冷静に考えれば怖がるべき状況なのかもしれないけど、不思議とそうは思わなかった。
自分の価値観はさておき、神聖な場所としてこの地の人々が大切にしてるのね、としか考えられなかった。
撮影してもいいかとYさんに尋ねる。もちろん、と返事。
Yさんが3つの骸骨に煙草をくわえさせ、火をつける。さらに丸い台(切り株)の上に置いたコカの葉にも火を点け、アルコールをかける。
そして私のために、パチャママに祈りを捧げてくれた。最初はスペイン語のようだったけど、途中から全く??だった(後で聞くと、現地語だそうで。アイマラ語かケチュア語?)。私が無事帰国できるようにと、一所懸命コカの煙を手繰り寄せながら祈ってくれた。これまで一度も外国に行ったことはないと言ってたYさんが、私のために真剣に念じるのを目の当たりにして胸が熱くなった。

タバコの煙が途絶えなければ、”願いは受け入れた“ なんだって。
3本の煙草は煙を吐き出し続けてた。ホッ
周辺には、他にも祠がいくつもあった。祈りのエリアなのかな。


その後 塩湖に向かい、塩ブロック工場を見学。
プラヤ・ブランカや塩ホテルで使用されていたような、建築資材としての塩ブロックを切り出している現場だ。ウユニの観光はこれで終了。


ラパスへのフライトは13時30分。
空港に着くと、乗るべきヒコーキの到着が30~45分遅れると知らされた。ええっ
カウンターの職員に、サンタ・クルス便に乗り継ぐ旨を告げると、スケジュールを見て間に合うだろう、仮に乗れなくてもサンタ・クルスへの便は同社便だから後の便を用意できる、と言うけどさぁ。サンタ・クルスに22時着だって いやぁぁ 絶対間に合わせたい。
とりあえず、ガイドYさんに頼んで旅行社に電話してもらった。この後どうなろうとも、サンタ・クルス空港での出迎えは大丈夫だろう。

Yさんは私の搭乗便が着くまで見届けるつもりのようだったけど、スクレ【ウユニの北東300㎞にある憲法上の首都。歴史都市として世界遺産に登録されている】まで戻るって聞いてたし、大丈夫だよ、って帰ってもらった。別れ際、頬へのキス避けてごめんね。郷に入れば・・・と思いつつ、日本人なので反射的につい
祭壇であんなに真摯に私の無事帰国を祈ってくれたから、彼とそのご家族の幸運を祈らずにはいられなかった。そしたらYさんはすごく喜んでくれて、私はAdios!と言ったのに、Hasta luego!と2回繰り返し、私を見つめる。つられて私もHasta luego!言っちゃうと、Yさんは満面の笑みで手を振り去っていった。明るい別れでいいな。
【帰国後、2つの「さよなら」の違いが気になって調べてみたら、2つの説が有力かなと思う。 ①Adios!は永遠の別れ、二度と会わないような場合に使う。Hasta luego!はまた会う前提で用いる。 ②南米ではAdios!はあまり使用せず、Hasta luego!が一般的な表現である。相手と次に会う期間を意識して使用しない。 当時の私は①ベースで考えて、Yさんは敢えて「またね」と言い残してくれたのかなと思ったが、南米という土地柄を考慮すると、単純に②の可能性が高い。でも、ここでは①説を採用しておく。その方が楽しいもんね

結局飛行機は35分遅れで到着、当初予告された範囲内。順調にいけば、予定通りのサンタ・クルス便になんとか乗り継げそう。ホッ
てか、最初にラパスで見た時も思ったけど、このリニア機大丈夫かな? ラパスとウユニのピストンで、乗客を降ろしてわりとすぐに発つよね。エンジンの整備、大変だろうなぁ。

ラパスには50分ほどで到着。乗り継ぎの間に絵ハガキ買おうとウロついてたら、なんと封筒マークを発見 昨日は気づかなかったけど、郵便の簡易カウンターがあった。ここで、念願の切手を購入。ハガキ1枚につき18bsって、物価からすると割高。やっぱり、地球の裏側の距離なんだなあ。
(後から振り返り、千載一遇のチャンスでゲットしたものだとつくづく思う。この後2日間、街中で郵便局はおろかポストを見かけなかった。ここで見逃していたら、ハガキ送れないかも、とオタオタしていたに違いない)
絵ハガキをゆっくり物色する時間はなかった。搭乗時刻の放送が何度も入るんだもん、焦るわ~ 高地ってことをしばし忘れて、小走りしちゃった
でも、これが正解。早々にヒコーキの扉を閉めたのだ。乗客がそろったら、時刻前でも出発するお国柄なのね、ここは。

今回珍しく窓際座席を希望した私。サンタ・クルスへ向けて高度が下がるなか目に飛び込んできたのは、ミルクコーヒー色の川に鬱蒼としたアマゾンチックな森(正確に言うと、アマゾンより数百㎞南)。赤い屋根の家々は、ラパスとは明らかに異なる外観。ラパスが南米大陸西部の乾燥帯の典型なら、こちらはウェットで濃密な感じ。気温20~30℃と聞いてはいたけど、暑そうだなと窓越しに感じる。

空港を出てすぐの道路わきの芝生に、体長1mくらいのダチョウ(?)がいた。後で調べたら、ダーウィンレアというらしい。その昔オーストラリアでエミューは見たけど、もちろん初めて。体長30cmくらいの野生のフクロウも。ラパスで買った置物のモチーフになってたけど、やっぱり身近な動物なのね。
ともかく、ラパスやウユニとは全く違う所に来た。たったの1時間飛んだだけで、違う国かと思うほど差異が大きい。
この旅行を計画し始めた当初、ウユニの後にポトシ【16世紀半ばから世界最大級の銀山で栄え、市街は世界遺産に登録されている。ウユニの北東200㎞にあり、ラパス同様の乾燥帯】を訪れようかと思ったりもしたけど、こちらを選んで正解だったんじゃないのかな。ボリビアの新しい面を見て、明日からにワクワクしてきた

空港に迎えに来てくれたドライバーとガイドは、私が近づいていくと明らかにホッとしてた。そうだよね、22時着とは雲泥の差。みんなハッピー
ガイドのW君は見たところ20代前半? キレイな発音の英語で、めっちゃ速い。ドライバーのVさんはラテン系のオヤジさん。アロハシャツとパナマ・ハットが似合いそう(着てないけど)。ガイド君との会話を聞いてたら、めっちゃ明るい口調。アマゾン流域は「トロピカルだよ」とウユニのガイドYさんが言ってたけど、まさにそう。
今日の出迎えだけかと思ってたら、明日8時に迎えに来るって。そ、そうですかい~ 彼の英語についていけるかな、私

一旦部屋に入り荷物を置いた後、周辺探訪へ。ホテルのフロントの方にガイドブックの地図を見せ、どの辺りか聞いたら範囲外だって。どうやらEquipetrolというサンタ・クルス郊外らしい。
あぁ~そうか。今回の旅は、南米専門の旅行社にアレンジをお願いしたんだけど、最初の見積りよりもコスト削減をお願いしたし、今日も明日もホテル帰着が遅いから市街泊の必要ないと判断したんだろうなぁ。
ま、いいんだけど。地図がないとなると・・・
フロントの方に食事できる所はないかと聞き、教えられるまま大通り沿いを進み、途中で右折。いくつかのレストランやファストフードを通り過ぎ、スーパーにたどり着いた。そう、これよコレ。食事も大事だけど、水も必要。なんとお酒もあった、ラッキー
夕食は野菜を食べたいので、スーパー2階のフードコートでサラダを買ってテイクアウトすることに。
スーパーからホテルへの帰途、早足で歩く。まだ明るかったけど、用心に越したことはない。10分足らずの道のりだが、汗だくになった。夏だね、ここは。湿度もある。私好みの気候

セビッチェ【魚介のレモンマリネ。みじん切りの玉ネギ・唐辛子・ハーブ・塩で味付け。ペルーをはじめとする中南米の太平洋沿岸部で食される】を頬張りつつ、ポトシのビールをグイッ。あぁ、酸味が沁みわたる そうだ、身体はこれを求めてたんだ!!
でも、ここまで3日間、まっとうなボリビア料理食べてない気もする



ワインも買ったものの、オープナーを忘れて来たことに気づく。フロントに行き、Perdón! 
ワインオープナーを取りに行って開栓してくれたお兄ちゃんに5bsを渡して引き揚げる。アルゼンチンでの教訓が活きて、スマートにチップを渡せた。
恥をかいて学ぶ、を地でいく私


★ 中締め ★

なんだか尻切れトンボな末尾になってしまいました
ボリビア篇の後半は、ガイドW君・ドライバーVさんとともに、サンタ・クルスの東方270㎞に点在する世界遺産「チキトスのイエズス会ミッション」を訪れます(6ヶ所登録されているうち、旅程の都合で泣く泣く割愛、2ヶ所のみの訪問ですが)。お楽しみに~
てか、できるだけ早くアップできるように頑張らなきゃ
 その2に続く 

























コメント
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