poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

ウズベキスタン篇 その1

2024年01月20日 | アジア
コロナ禍が明けたら、今まで行ったことのない国へ足を伸ばそうと思っていた。ひと足先、ゴールデンウィークにヨーロッパを旅してきたCちゃんとお酒を飲みながら、頭の中にある訪れてみたいリストを思い返し、記念すべき40ヵ国目にウズベキスタンを選んだのだった。
現地8日間の旅を何回かに分けてお届けします。まず旅の序盤では、以下の地図の➊➋を訪れました。また、後の下線部の数字にも対応しています。


1 (仁川経由)⇒ タシケント (2023年8月21日)

3年7ヶ月ぶりの国外旅行がついに始まった。海外に行く以外で飛行機に乗ることはほぼないので、エンジンがかかっていよいよ離陸という時にはなんだか胸が高ぶった。
経由地の仁川までは2時間余り。フライトの軌跡を眺めていると、がっつり竹島の上空を飛んでいくみたいだけど、勘繰るのはやめておこう。
トイレは広くて使いやすいし、13時20分発という中途半端な時間帯かつ2時間余りの短距離にもかかわらず食事も出たのにはビックリ

仁川での乗り継ぎ45分という設定が気になっていたのだが、結果的には問題なかった。4人並びの真ん中席に甘んじるのと引き換えに前方の列にいたおかげで、手荷物検査は10人目につけた。それでも窓口が1つしかなくてハラハラしていたのだが、2つ目がオープンして一番乗り、ラッキー 搭乗口には40分前に到着の余裕ぶり。
タシケント便は横8席×40列くらいのサイズで、たぶん満席に近かった。着席している乗客の顔ぶれを観察しながら自席へ向かう。ウズベク人と思われる人々もチラホラ。
中国からのフライトが遅れているためdelayだと放送が入り、離陸が20分遅れた。日本だけじゃなくて他国からの便も乗り継ぎがギリギリなスケジュールなのかな・・・帰国便もこの航空会社なんだけど、最後まで気が抜けないなぁ 【ウズベキスタンへの直行便は週2便(当時)しかなく、他は全て経由便となる。自分の旅程に最も好都合なのがこのフライトだった】

夕食は牛肉チャプチェorチキンカツの2択。仁川便で牛肉だったので、チキンをチョイス。ワインは赤(テンプラニーリョ)にした。白の方が好みだけど、このさい料理とのマリアージュを優先。

仁川を飛びたった飛行機は黄海を横切り、山東半島は威海衛の南をかすめて天津上空を通り、北京の北から一路西へ。
食後、ガイドブックを眺めていたが眠気に負けて2時間ほどウトウト 目覚めて、お尻が痛いと思ってしまった。どうした、私 こんな短時間で弱音吐いてると、南米はおろかヨーロッパも怪しいんじゃぁ
搭乗機は中国とモンゴルの国境沿い(中国側)を西へ向かい、キルギスをまたいでタシケントへ入る模様。

出発が遅れたぶん、きっちり遅れて20時45分に着陸。
入国審査では、パスポートの写真と今の面影が違って見えるらしく(写真は前髪を伸ばしていた頃で額を出してるから)・・・眼鏡を外しても納得してもらえず、審査官にサインを書けと言われる始末。漢字を照合して、やっと許可がおりた。それにしても、パスポートの最後のページの右上に入国スタンプを押すあたり・・・ロシアを思い出すわぁ。かつて同じ国だった名残りかも・・・

預け荷物が全然出てこず、その間に両替できないかとキョロキョロ
ガイドブック情報どおり、ターンテーブルの一角にあった【出国審査を出て背中側の左端、レートを示す電光掲示板が目印。自分が終わった頃に行列ができ始めたので、早めに見つけて替えることをオススメしたい。なお、ウズベキスタンには公定レートがあり空港も市中も同じなので、まとまった額を両替するのもテである】。

夜到着だったので、あらかじめ迎えを頼んでおいた。空港の建物を出てすぐ外、制限エリアの内側で私の苗字の先頭にMr.と記した札を掲げている人がいた。たぶん私のことだろーなと思い、近づいて彼の苗字を口にしてみるとビンゴ。性別の誤りは時々あるらしく、業者とのLINEのやり取り画面を見せてくれた。合流できたから、全然ノープロブレム
ドライバーさんはたぶん20代。東アジアの血は一切入ってないであろう、西アジアに典型的な風貌。耳の下に伸びるあご髭がたくましい。とてもきれいな英語を話す。

空港を出たのが21時45分頃、ホテルに到着したのは22時くらいだった。
途中、銀座と見紛う目抜き通りを通過。さすが一国の首都、めっちゃ都会だなぁ。ζちゃん(高校・大学時代の友人)が訪れた1995年はどうだったんだろう・・・
チェックイン時、朝食は7時からで食べる時間がないからboxに詰めてもらうか?とドライバー君が提案してくれた。うなずいたらフロントの人と交渉してくれたけど、曰くシェフがその用意をしていないから無理、と。ま、仕方ないか~

それよりも自分の目を引いたのは、フロント脇のバー。カウンターでビールジョッキをあおる女性を発見。
機内のワイン1杯では口淋しかったので、部屋に荷物を置いた後、早々にロビーへ。ワインボトルを見かけてテンション上がるも、グラス売りがなくて断念
生ビールも売り切れといわれ、この国でシェアが多いというTUBORGにした【1873年にデンマークで創業。約100年後に同国のCarlsbergと提携。20世紀末からは中国の工場で製造を開始し、アジア各国への輸出を伸ばしている】。

代金3万7千スム(≒444円)なのに、ケタを間違えて40万スム出した私。バーテンさんは多すぎるよ、って10万スム札3枚を返して更に6万スムお釣りをくれた。後から来たカシューナッツのお皿が3千スムなのだろう。お通し代なのか、少額札がない代わりなのか。いや、しかし、通貨のケタが多いから気を付けないと。慣れるのに時間かかったルーブルを思い出すな~ ほんと、ロシアと共通点多し【自分が訪れた1997年はデノミ(通貨切り下げ)前だったため、1ルーブル=0.021円。50万ルーブル札に戸惑った】。
遅い時間だというのに、バーには自分の他に3組いて賑わっていた。
尚、このホテルのエレベーターはルームキーをかざさないと動かない。不審者をフロアに上げないセキュリティーがすごい

1・2 タシケント ⇒サマルカンド (2023年8月22日)

水まわりが良いのとタオルが潤沢だったのとで、前夜遅い時刻だったにもかかわらず洗濯を決行。賭けに勝ち、6時に起きたら乾いていた。乾きやすそうなユ〇クロのエア〇ズムなんだけど、にしてもテクノロジー尊いなぁ 
参考までに、泊まった部屋の画像を載せる。なお、まるでスーツケースのように見えるのはお洒落なデザインの冷蔵庫。


パッキングにもたついていると、6時57分に電話がかかってきた。7時出発なのに姿を見せない私をドライバー君が心配してくれたのだった。
急いでフロントまで下りると、やっぱり朝食の分をboxに詰めてもらってロビーで食べるか?とドライバー君。昨夜断わられたにもかかわらず、ここで私がうんと言えば粘り強く交渉してくれるつもりなのだろう。でも、待たれながら急いでかき込むのは苦手 心意気だけ受け取って、いらないと答える。駅で何かをgetしようと肚を決めていた。

立地で選んだホテルなだけあって、タシケント駅へは10分もかからずに到着。
駅入り口からかなり離れた場所に路上駐車したドライバー君は遠くを指しながら、あそこが入口だよと説明してくれる。うん、うんと頷く私だったが、その返答ぶりに不安を抱いたのかもしれない。よりはっきりと入口が見える場所まで進み、右の入口でチェックを受けて、左の大きな入口から入るんだよと付け加えてくれた。そして、じゃあね、と軽く会釈。陽の下で見るドライバー君は前夜の見立て通り若い。私の反応を見ながら対応してくれるあたり、将来有望かも
駅へは自由に出入りできず1人ずつチェックされ、さらにX線の手荷物検査も 飛行機に近い扱いに若干ビビる。下の画像中央が、ドライバー君のいう「大きな入口」。

何番ホームから乗ればよいのか、構内の表示モニターを見てもそれらしき数字はない。ホーム入口に立っている駅員に後で確認することにして、まず朝食を買うことにする。小さな売店が3つあり、スナックの自動販売機もあった。言葉が不安で自販機に吸い寄せられたが、ロシア語の説明文に撃沈。かくなる上は人よ、と3店舗を観察。焼きたてを売っているお店にロックオン、他の客の様子をしばし眺める。だって、値札出てないし、相場も分かんないし 
心を決めて踏み出し、ソーセージ入りのパンを指すとビニール袋に入れてくれた。5千スム札を出すと、首を振られる。お札そのものを見せてくれてやっと理解できた、1万スム(≒120円)だった。店のお兄ちゃん(ロシア系の風貌)はホッとしたような笑顔。直感で嘲りじゃないと分かる。どんくさい客に誠実に対応してくれて、ありがとう


駅員にチケットを見せると、ホームの左を指差された。右の列車のほうが人でにぎわっていたが、30分前に発車する1本前の列車だった。
それが出た後、いよいよ乗車開始。各号車の入口に係員が立ち、客のチケットを確認していく。あぁ、ロシアの夜行列車と同じだ・・・今日もデジャヴ

観光客が多く訪れるサマルカンドやブハラへ向かうとあって、新しくて小綺麗な車両だった。

着席してパンにありつく。既に前日の機内食から肉料理、今後も続きそうなのにどうだろうと一瞬頭をよぎったが、このパンを選んで正解 やや赤みがかったソーセージは香辛料で少しだけピリリ。バンズ自体は甘い。辛党ゆえ、店頭に並んでいたクリームとかダイスさつまいもとかの甘い系パンには食指が動かず

発車10分くらい前、団体客がやって来て賑やかになった。どうやら朝鮮人(北朝鮮あるいは韓国の人々。正確な表現ではないと思いながら使用する)のようだった。私の横の座席に座るのは避けたかったらしく、オジサマ・オバサマたちが押し付け合いの大騒ぎのすえ、ツアーガイド(40~50代の男性)が収まった。やれやれ
【ウズベキスタン行きの航空便を検索していた時、韓国経由で飛んでいることを不思議に思っていた。この記事を書くにあたり調べて、自分の知らぬことが多いのに愕然とした。
1860年代、帝政ロシアは人口の少ない極東の沿海州地域を入植地として開放。19世紀後半~20世紀初頭の朝鮮半島情勢(朝鮮をめぐる清・日本・ロシアの対立→日本による植民地化)下にあって、朝鮮半島北部の農民で移住する者が多かったという。1930年代後半に日本とソ連の外交関係が悪化するなか、沿海州地域の朝鮮人が日本のスパイと化す可能性を恐れたスターリンは、この地域の人々(17万人)を中央アジアへ強制的に移住させた。突然 列車に乗せられてシベリアを横断、現在のウズベキスタンやカザフスタンの辺りで降ろされ、集団農場での労働に従事させられた。もともと米作や漁業に携わっていた人々は、乾燥した気候での農業への適応に苦しんだという。戦後は北朝鮮と交流していたが、ソ連崩壊後は韓国との関係が深まりつつあるらしい。ソ連崩壊後に沿海州方面へ移住する者は少なく、今なお18万人(2017年時点)がウズベキスタンに暮らす。なお、彼らは朝鮮半島北東部の方言とロシア語が混交した高麗語を話すため、朝鮮人というより高麗人と呼ばれる】
観光列車に乗っていることから、私と同道したのは高麗人ではないと思われる。過去の経緯からウズベキスタンに関心を抱いて訪れた朝鮮人であろう。

定刻の8時にアフラシャブ号は出発。窓から2番線ホームをパシャリ

しばらくすると、車内サービスがあった。スナック類が入った紙袋が配られ、紙コップにドリンクサービスも。新幹線よりサービスいいじゃん
隣席のガイドさんはお湯を頼んで、袋に入っていたネ〇カフェの粉末を溶かしていた。なるほどね~ 朝のコーヒーは胃が荒れる自分は紅茶をオーダー。

車窓は、手入れされた草原に所どころ家々があり、送電線が伸びている。
かくして2時間、200㎞南西のサマルカンドへ向かった。

10時過ぎ、サマルカンド駅に到着。駅の敷地を一歩出ると、タクシーの客引きがわんさか待ち構えていた。中心街は南東へ4㎞ほどあり、乗らざるをえない。
声をかけてきたおじいちゃんドライバーと交渉。5万スムといわれたが、3万と返してみる。話にならないという感じで首を振られたので、仕方なく4万スムと言ったら4万5千と返ってきた。じゃあいいや、と離れようとすると慌てて4万でO.Kとなった。
車に乗り込みしばらくすると、ドライバーが行き先はどこだっけ?と聞いてくる。いやいや、最初にガイドブックの地図ページを見せたら、うなずいてたじゃん (後から思うに、たぶんこの人はキリル文字しか読めず、ガイドブックのアルファベットは理解できなかったのだろうと思われる) ともあれ、ホテルの電話番号を教えろと言われたので、ホテルの予約画面を表示したスマホを渡す。ハンドル片手だし手元が狂わないか心配だったので、正しい番号をプッシュしているか、右後方からドライバーのスマホを凝視。うん、合ってる。ところが、何度呼び出してもつながらない。一旦切って、またかけ直しても同様。このドライバー、ホテルの位置が全く分からない感じだよねぇ・・・このまま電話に出てくれなかったら、果たしてたどり着けるんだろうか 不安になり始めたころ、ようやくつながって道順を教えてもらえた(後で判明したのだが、ホテルスタッフは他の客の対応に忙しかったのだった)。胸をなでおろしたのも束の間、ドライバーはなおも不安らしく、車窓を見て宿を探せと言ってきた(言葉を解したわけではないが、状況からしてそう喋ったと推察)。
そうこうするうち、左手にホテルの看板が現れた。しかし、外観が地味・・・1泊1万数千円する宿なのかと疑問が頭をもたげる。が、看板に記されている電話番号は先ほど目視したのと寸分違わない。ココだ そそくさと支払いを済ませて下車。

宿の木製扉がこれまた開いているやら閉まっているやら判別が難しめで・・・いちかばちか、えいやと押したら入れた。
自分が認識するより早く、フロント前に腰掛けていたCちゃんが私の名を呼び、笑顔で手を振る(たとえ日本であっても、Cちゃんが出会い頭にそうしない日はないのだが)。前夜も今朝も大丈夫だと思っていたはずなのに、Cちゃんと合流できてホッとした。
部屋は清掃中で正午を過ぎないと入室できないと言われたので、ひとまず荷物を預かってもらって観光に出かけることにした。
道路をはさんでホテルの目の前に広がる壁はレギスタン広場のそれで、世界遺産の目の前のロケーションなのだった。
こちらがレギスタン広場の全景(後刻、ビュースポットから撮影)【左がウルグベク・メドレセ、正面がティラカリ・メドレセ、右がシェルドル・メドレセ】。

チケットを購入し、ウルグベク・メドレセの南から入場する。道なりに進んで行くと、左斜め前方にシェルドル・メドレセが視界に入ってくる。
で、でかい 率直な第一印象はそれ。これまでに自分が訪れたイスラム教国といえばトルコ、モロッコ、ヨルダン等だが・・・そのどれと比べても群を抜いて圧倒的なサイズ。後に他の都市で目にしたメドレセはそこまで大きくはなかったので、サマルカンドの建築物が格別なのだと振り返ってみて思う。

自分の視線は鹿をつかむ虎と人面太陽に集まる。サマルカンドでこれを見たかった・・・あどけないタッチが自分好みのど真ん中。
未踏の世界遺産として長らく焦がれていた画像の中の世界が、目の前に広がっている。この3年余り、外国へ出かけることなどままならぬ日々だったことも相まって、まるで現実感がなく夢の中にいるように感じられた。


3つのメドレセのうち、もっともすいているように見えたティラカリ・メドレセへ。こちらのファサードは黄緑色の植物文が目立つ。
【1660年、メドレセ(神学校)を兼ねた大聖堂モスクとして完成。メドレセの内部には豪華絢爛な金箔がほどこされた。ティラ=金箔の意】

中庭には土産物屋が並んでいてビックリ。が、ここだけでなく、この国では現役の宗教施設ではない(観光地と化している)建物は皆そんな様子なのだと後で知ることになる。

彫刻がほどこされた石は退色したのだろうか、それとも終始こんな感じなのか??

一歩入って、ミフラーブの装飾が華やかで息をのんだ。きらびやかに見せようとライトを当てているのを差し引いても、余りある美しさ。

天井はこんな感じ。

ミフラーブの左右の空間はこれまた土産物屋になっていた。観光初日ゆえ、目に映るものすべてが物珍しい。が、買うにはまだ早すぎるわな~ 足早に立ち去る。
外に出ると、学校行事(?)でお出かけしてきた子供たちがいた。おそろいの制服も可愛い。


次はウルグベク・メドレセへ。このファサードは3つのうちで青いタイルが最も少ない。ベージュで星模様が表されている。
【1420年にウルグベク(大帝国を築いたティムールの孫で、第4代君主)が完成させた、この広場で最古の建物。ファサードの高さは15m。当時100名以上が寄宿する神学校で、イスラーム神学のほか天文学や哲学も教えた】

その一角に、切手の看板があった。やったぁ~ ガイドブックの地図に郵便局が記されていなくて、探さねばと思っていた。渡りに船 

郵便局というには語弊があって、絵はがき売り場で切手も売っているという空間だったけど、それで十分だった。サマルカンドはもちろんのこと 他の都市の観光名所も含めて、美しい絵ハガキがそろっていた【自分が訪れたこの国の観光地で最も充実していたハガキ売り場だった。これからウズベクへ旅立ちハガキを求めたい方には此処で買うことをオススメしたい】。日本への切手代は6,800スム(≒82円)。縦1.8cm×横2.6cmの小型で一色刷りの切手はクラシカルで、ロシアのそれを思い起こさせた(記事を書くにあたり、とある事情で1組余った切手を撮影)。


メドレセに入場。年季の入った木の扉がいい

蝋人形による再現。


最後に、シェルドル・メドレセへ。下の画像は、ウルグベク・メドレセの入口から撮影。
【1636年に完成した神学校。ファサードに描かれた動物や人面はイスラーム建築には珍しい。20世紀半ばまでには消えていたが、修復された】

ファサードの中央から中庭を覗く。

3つのうちで最も土産物屋が多かった。

服の袷が着物っぽいのもあるんだね~

顔出し看板もあった。


3つのメドレセをひととおりまわったら部屋に入れる時間になっていたので、ホテルへ戻った。案内されたのは、メドレセviewの部屋。これにこだわって、やや奮発してCちゃんがこの宿を予約してくれたのだった。隣家のトタン屋根越しに、人面太陽と虎のファサード(画像中央)を飽きることなく眺めた。これこそが私をこの国へ導いてくれた・・・何時間でもそうしていられそうだった。

ちなみに、奥上テラスからの眺めはもっと素敵


午後の観光にはタクシーで出かけた。歩けなくもない距離だったが、暑さの中で無理しないほうがよさそうだった。
【異国でのタクシー乗車はハードル高めだが、旅の前にCちゃんが入念に調べてくれていて、この国のいくつかの都市ではヤンデックス・ゴー(タクシー配車アプリ)が発達しているとのこと。クレジットカードを登録する必要はなく、英語表記なのも利用しやすい。自分の立ち位置がピンで表され、目的地を入力すると近くにいるタクシーが表示されて車の車種やナンバーを選ぶと、迎えに来てくれる。料金はウズベク人と同じで、煩わしい交渉は一切不要。これのおかげで、とても快適に移動することができた
宿から南西に700mほどのグリ・アミール(アミール・ティムール廟)へ。遠景がこちら。
【グリ=墓で、大帝国を築いたティムールが孫(王位継承者だったが若くして戦死)のために1404年築いた。しかし、彼も翌年に急死。本人は生まれ故郷のシャフリサーブス(サマルカンドの南80㎞)に埋葬されることを望んだが、積雪の中2,000mの峠越えが難しく、ここに葬られた。その後もティムールの子孫たちが追葬された】

廟の前から振り返って、門をパシャリ

強大かつ巨大なティムール帝国を築きあげた主のお墓だけあって、内装の金ピカ具合はさすが

ティムールが遠征を繰り返し、いかに帝国を拡大していったかが図示されていた。
【14世紀前半にモンゴル帝国の解体が進むなか、モンゴル系部族出身のティムールはトルコ系遊牧民とオアシス民の統合を進め、1370年にサマルカンドを都にトルコ=モンゴル系のイスラーム教国家を建てる。旧モンゴル帝国を次々と併合し、中央アジアから西アジアにまたがる大帝国を一代で築いた。その死後、既述のウルグベク(第4代君主)を輩出するなどしたが第7代君主アブー=サイードの死後に衰退し、ウズベク人に征服されて1507年に滅亡】


再びタクシーを呼び、2㎞東南東へ向かう。
Cちゃんがリクエストしたイシュラトハナ廟。まさに修復中で、世界遺産化の影響で綺麗すぎるほど手が入っている他の建築物群とは明らかに異なる素朴な様相だった。
【15世紀築、ティムール朝の女性・子供たちのお墓が地下にあるという。イシュラトハナ=天国生活の永遠の家、の意。】

工事関係者とすれ違った。大規模にやっている感じではなく、作業員は2人。私たち以外に見学者はいない。
内部は閉じられていて入れず、ぐるり一周すると 所々にタイルの名残りをみとめた。

2枚上の画像の裏側に、塞ぎきれていない箇所を発見。

下から覗くと、むき出しの天井に赤いタイルが目を引いた。


やはり暑くなってきたので一旦ホテルへ引き揚げることにし、タクシーを呼ぶ。レギスタン広場の南東2㎞、観光の中心スポットから離れた場所にも難なく来てくれるから、本当にありがたい
部屋で休憩する傍ら、Cちゃんと交替で洗濯にいそしんだ。今回もスーツケースではなくソフトバッグで旅立った自分、スペースをつくるため衣類は3セットにとどめた。この日に限らず中休みで日中必ず部屋へ戻るのと、乾燥した空気ゆえ1日2回洗っても全て乾いたので、超楽ちんだった

暑さも和らいだ17時過ぎ、スーパーへ向かう。水と晩酌用アルコールを求めて。
レギスタン広場の南東のエリアにあるとの検索情報をあてにしたのだが、結論から言うとつぶれていた。そうとは知らず素通りし、探し求めるうちに偶然にも酒屋を発見。転んでもタダでは起きない私たち
店内の冷蔵ケースにズラリとビールが冷えるなか、お店の方が強く推す銘柄を購入。ペットボトル入りのビール飲むの初めてではなかろうか・・・(撮影は後刻)

会計してくれた青年(サッカー選手の久〇建英にしか見えないという私に対し、Cちゃんは否定的だった)が「何人なの?」と聞いてきたので答えると、次がまたストレートに「何才なの?」。I don't know.と笑ってごまかす。ヘタするとこの子の母親くらいの年なんでは、と心の中で思いつつ。

見まわした感じ大きなスーパーは無さそうだったので、宿への道すがらmini marketで水を買った。翌日もサマルカンド泊なので、思いきって5ℓ。持ち帰るのも重いし、さすがに余るんじゃないかとCちゃんは心配していたが、翌々朝にはスッカラカン(笑) 旅先だからというわけではなく普段から水飲み魔の私。水買わなきゃ、のプレッシャーがなくなって気楽だった。
店先にて。西瓜の手前はメロン。白い楕円形のも、黄色く丸いのも。訳あって最終日まで口にしなかったのだが、美味だった


夕食時にワインを飲みたいと自分がリクエスト、Cちゃんが検索してくれたお店は宿から徒歩2分だった。屋上のテラス席からレギスタン広場が見えるのがウリのようで、後続の客たちはほぼほぼ階上へ行ったが、涼しいほうがいいよねと私たちは1階席(室内)に陣取った。下の画像右奥、小さな「橋」を渡って入店となるのだが、ここで過ごした約2時間のあいだ、まるで光に吸い寄せられるように次々と客がやって来るのが面白かった。なお、接客や給仕の従業員は白シャツに黒ズボンで流暢に英語を操る。が、そのほとんどが高校生くらいの風貌だった。全員が家業の手伝いとは考えにくく、この国では若くして働くのが一般的なのだろうか・・・
お店はヴーヴ・クリコを置くなど品ぞろえが光っていたが、我々はグラスでウズベキスタンのワインを注文。

トマトとキュウリのサラダ。よく冷えたスパークリングワインによく合った

プロフ【オシュとも。いわゆるピラフで、その起源はトルコとかペルシャとか諸説あるが、アレクサンダー大王がマラカンダ(現サマルカンド)を制圧した時にふるまわれたと伝わり、少なくともB.C.329年にはこの地で食されていた。ポピュラーな料理だが、具は各地で異なる。サマルカンドのは牛肉を使用】。米党の自分的にはテンション

2杯目はロゼ。実は赤を注文したのだが、品切れといわれて変更。運ばれてきたグラスを見て赤ではと思ったほどの濃色だったが、味わいは決して赤ワインではなかった。かといって、一般的なロゼのそれとも異なる不思議な感じ。土着品種のなせる業か

参考までに、ワインリストを載せる。4枚上の画像が一番上のBrut、1枚上の画像のロゼが下から2番目の。
【シルクロードを通じてローマ帝国から葡萄が伝わったため、この地におけるワイン造りは歴史が古い。1860年代には商業化が進んだものの、ゴルバチョフ時代の反アルコール政策で頓挫。2006年以降、再興されつつあるという。日照時間の長いサマルカンドは名産地らしい】

メインはシャシリク【羊の肉片を串に刺して火であぶった料理。これまた起源には諸説あり、クリミア半島の北とかコーカサスとか。ウズベキスタンだけでなく中央アジアでポピュラーな料理】。飽きさせないように、ソースや付け合わせが工夫されていた。


食事を終え、昼間に足を運んだレギスタン広場view spotで夜景を見たい、ということで向かう。すると、階段に多くの人々が座っている。時刻は21時ちょい前。もしやショーが始まるのではと待ってみると、ビンゴ 30分間、音楽とライトの催しで楽しませてくれた。では、5連発でお楽しみください。





観客はそれなりに間隔をあけて座っているが、「密」といえばそうだろう。こんな状況が許されるとは・・・世界中を恐怖と不安に陥れたコロナ禍は本当に収束しつつあるんだな。必ずや後世に語り継がれるであろう惨事だったから、収まったとて「元に戻った」と表現するのには違和感がある。ここに至って世界はまた次の段階へ移りつつあるのだろう、と言うにとどめたい。

★ 中締め ★

今回の記事、ボリュームが少なくて申し訳ありません m(_ _)m
年末に海外を旅していたため、充分に時間がとれませんでした

第2弾ではひきつづきサマルカンド、その後ブハラへ移動します。お楽しみに


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