poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

ラオス篇 その3

2020年06月28日 | アジア
旅の最終日です しつこいようですが、念のため地図も掲載します。
下の地図の①②は旅の前半、➌は前半・後半の両方、➍➎は旅の後半で訪れた場所です。また、後で出てくる下線部の数字に対応しています。


5 ルアンパバーン ⇒バンコクへ出国 (2016年1月1日)

雨音で夜半に起こされた。2時半だった。
乾季なのになぁ・・・もし降り続いたら、朝の托鉢なくなるんだっけ いや、毎日やるってガイドのO君が言ってたような・・・
ごちゃごちゃ考えながら、再び眠りのなかへ。

5時に目覚まし代わりのスマホが鳴った。ソッコー起きられるはずもなく、寝返りをうつ。
夜中に目覚めた時うっすら気づいてはいたのだが、お腹が痛い。スパイシーなラオス料理を解禁した途端、さっそくやられてしまった。
不幸中の幸いなことには、ミャンマーの時と違って胃ではなく腸が症状を訴えていることだ。どちらかというと、身体にとっての異物を速やかに排出して回復しようとするかのような。11年前の経験で、体が対処法を覚えたのだろうか・・・

この日は托鉢を見学するラストチャンス、気合で眠気を振り払い、5時半過ぎにホテルを出る。
前日同様、お隣りの寺ワット・マノーロムはひっそりとしているが、今日は中心街まで行ってみようと決めていた。
朝とはいえ日の出前につき、真っ暗。一瞬迷った後、いつもどおりの大まわり=人通りの多い道を選ぶ、念のため。
勘を頼りにズイズイ進み、シーサワンワッタナー通りあたり(博物館とワット・シェントーンの間)で止まった。曲がり角、立体的な写真が撮れることを期待しつつ。
被写体は観光客=“なーんちゃって托鉢”である。
托鉢が名物になっているこの地では、信仰の有無を問わず托鉢に加わることもできたが、私は傍観者になることを選んだ。なんとなく直感的に。
でもこれが10年前だったら、結論は違ったかもしれない。安易な批判は避けたい。各人に判断が委ねられ、個々の意思で臨むことが尊重される場である。
5時50分には現場に到着。商店の灯り以外は闇。

明けてゆくのを見ながら、結局小1時間待つことになった。その間に観光客が飛ばしているらしきドローンを見かけた。上空からなら、より良い風景が撮れるだろうな、合理的だなぁ。てか、観光地でドローン見かけるの初めてかも。その方面に全然関心がないのだが、多少は手に入りやすい値段になってきたのかな

ワット・シェントーン方面からやって来る僧侶たち。


中には日本でいう小学生から中学生か、幼い僧たちも混じっている。オレンジ色の法衣の行列は視覚的に圧巻。


喜捨された食料が積み上げられたバスケット。お菓子の袋と一緒くたに入れられた米をどうするのかが気になる。自分が想像する最悪の事態になりませんように・・・


20分ほど見学してホテルへの帰り道、商店の前で僧侶を待つラオス人(真の信仰者と思われる)を見かけた。むしろそれをじっくり見たかった。
が、お腹が限界だった・・・トイレを促す第二の波が来た
無理もない、ダウンでもよかったなと思うくらい冷えた。昼間の気温が嘘のように、北部は朝晩涼しい。
街の中心部からホテルへはざっと1.3㎞。決して近くない距離を競歩よろしく、ひたすら急ぐ。なんとか事なきを得た

この日の朝食はサンドイッチを選択。旧宗主国の名残を漂わせるフランスパンじゃないかと期待して・・・
正解だった パリパリのバゲットを半分に切ったサイズ。具はマヨネーズベースの味付けで、美味しかった


この日は昨日まわりきれなかったお寺をポツポツ見てまわるつもりで、最初はホテル近くのワット・タートルアン【ランサーン王国最後の国王シーサワンウォンが埋葬されている】と決めていた。
昨日訪れたワット・シェントーンから霊柩車に乗せられた国王の遺体がこの寺に運ばれ、火葬されたのか・・・
昔は格式が高かったんだろうけど、今はさびれてる感じのお寺だった。中心街から離れた場所だしなぁ。

仏塔の手前の像に注目。ラオスの境内では、このモチーフを何度も見かけた。動きが面白いなぁ

扉絵、立体的ではないけどその緻密さに圧倒される。

石塔の四隅には仰ぎ合掌する像が配置されている。

木の下には3体の座像。


中心街のスパへ向かう。旅先で時間があったら積極的にマッサージを受ける私。
焼畑など重労働を行うカム族が編み出したという文言に魅かれ、ガイドブックで目をつけていたお店は予約なしでもスッと入れた。
預けて手元にカメラがないなど、スパでは写真がなかなか撮れないのだが、他の客が居合わせなかったという偶然にも恵まれ、施術室をパシャリ。

担当者はまだ20代と思われる女性だった。ストロークの強い押しで、階段昇降などで凝っていたふくらはぎによく効いた 60分で60,000k(約800円)。

前日にサッカリン通りを通った時、目に入っていたワット・セーンを訪れる。
視覚に赤の色調が強く訴えかけてくる。近寄ると、赤に金ベースの精緻な装飾が美しい。


動物に乗る構図がなんともカワイイ 連子窓の柱への装飾も細かくて、思わずため息


スッカースーム通りを進み、中心街を後にして南下。昼食の前に、目についたお寺(Wat Aham)に入ってみた。石塔が林立する境内。


さて、ラオス最後の食事は目をつけていたお店でカオ・ソーイ【辛味噌がのった幅太麺】 ルアンパバーン名物なんだって。
店構えが街並みに溶け込んでいて、一旦は通り過ぎてしまった
最初は自分しかいなかったが、そうこうしているうちに2組入ってきた。欧米人の客はHappy new year!なんて言っている。そうだよね、今日は元旦なんだった。

辛味噌がそう多く入ってるわけでもないのに、やはり辛かった(前夜のラオス式ソーセージほどではないが)。
味わいはトマトの酸味が全体をひきたてており、わずかに入ったパクチーもイイ感じ。そう、大量に入れないんだけど、効かせ方がニクイんだよね。
あぁ・・・もう少し辛さ控えめならなぁ。好みのどストライクなんだけど

辛さにひと汗かいて、最後のショッピングに出陣。
ラオス人はもちろんのこと、ルアンパバーンに魅了された外国人が開いたセンスあふれるお店が立ち並んでいる。
出国を目前にして残金は27,000k、気に入ったクオリティーの商品は手に負えず断念。両替やドル払いもできなくはないだろうけど、まぁいっか~
心の中で町に別れを告げつつ、サッカリン通りからシーサワンウォン通りを歩く。
下の写真、欄干に飾られた星は新年を祝う装飾だろうか。

博物館の向かい側(シーサワンウォン通りの南側)のお寺がふと目に入った。
少しだけ斜面を登ると、木に囲まれてひっそりとした小堂が現れた。正面上の彫刻は3頭の像に乗った仏様。


堂内には19世紀半ばの壁画が残されていた。

他に参拝客はいない。ガイドブックには寺名すら載っていない。片や、お向かいの博物館は千客万来。通りひとつ隔てるだけでこんなにも差があるのか・・・
珍しく殊勝な気持ちになって寄付箱に近づくと、手作りのお土産が置いてあった。ワット・マイの壁面を埋めていた小仏像を思い起こさせる。あちらは金製で、こちらは素焼きなのだが。
入場料を取らないこのお寺で、20,000kは献金の意味が込められた価格設定なのだろう・・・残金でこれを買おう。
悩んで、朱色を選んだ。我が家の本棚の一角に並べよう。願わくは、すでに各地からお連れしているキリストの神とケンカしませんように。
紙に包みゴムで止めてくれたオバちゃんは、差し出しながら“コーブチャイ”。ニカッと笑った。
こーいうお金の使い方はいいね。心が清々しい。
下の写真は、この記事を書くにあたって撮影したもの。

ホテルへの帰り道、ワット・タートルアンを探してる中国人女性2人に声をかけられた。同国人と思われたのだろう。
逆方向へ歩いていたので修正し、次の角を左へ曲がって、と拙き英語で伝えた。こういう時に中国語が口をついて出てくるとかっこいいのだが、ムリだわな
ホテルの前にトゥクトゥクが停まっていた。出がけにフロントで頼んでおいたのが早めに来てくれたらしい。
預けていた荷物を受け取って“ソークディードゥー”と伝えると、毎日フロントで見かけたお兄ちゃんは、爽やかにSee you next year!
“I like Laos”と返す私、トゥクトゥクで走り去る。

★ 終わりに ★

まず初めに、「その1」の記事を公開した段階では最終日までを「その2」としてひとつにまとめる予定でした。しかし、書いていくうちに文字数がオーバーしてしまい、急きょ最終日だけを独立させて「その3」とするハメになりました。「その1」の冒頭で、旅を2分して後半を「その2」とする旨明記しているのですが、異なる結末となりました。申し訳ありません m(_ _)m

ラオス篇では、自分は唐辛子辛いものが苦手であるという件が何度か出てくる。2005年7~8月、ミャンマーを訪れた私は初日にヤンゴンの食堂で料理に舌鼓を打ち、翌朝から胃腸の激しい不調に数日間悩まされた(同じ物を食した同行者に異変はなかったので、料理自体に問題はない。最終的には中華料理屋のスープで起死回生するのだが、その辺りはいつかミャンマー篇で詳述したい)。
以来、辛いものは用心することにしているが、口にしないわけではない。
個人的な意見であるが、食は習慣だと思う。生育環境の中で身近にあって度々口にするものに身体は慣れていくし、美味しいと感じるようになる。
振り返れば、生家を離れるまでの18年間、自分は辛いものを食す機会がほとんどなかった。故郷では辛い味付けが一般的ではなかったし、思えば父母も辛いものが好きではなかったので 食卓に並ぶことがなかったのだろう。
上京後、大学のサークルの先輩方に連れられて食べに行ったテグタン【タラにセリ・豆モヤシ・大根・ネギなどの野菜を入れ、ニンニク・生姜のきいた真っ赤なスープで煮込む韓国料理】の衝撃は今でも鮮明に覚えている。
その後も自炊の際に辛いメニューに挑戦することはなかったし、各国料理店が軒を連ねる東京にいながら辛い料理のお店に入ることもほとんどなかった。避けるわけではないが選んでおらず、私の辛さ耐性は脆弱なままだったといえる。とはいえ、辛いものが苦手であるという自覚はそこまでなかった。そこへ、ミャンマーでの出来事である。
食事は旅の楽しみのひとつである。入国から出国まで、その国の料理を心ゆくまで味わいたい。
辛い料理が特徴の国へいつ行きたくなるとも限らない。ミャンマーから帰国後、辛いものに慣れようと、意識して口にするようにした。最初はキムチさえ辛いと感じたが、今やスンドゥブチゲ【出汁にネギ・ニンニク・唐辛子・ゴマ油を入れて豆腐を煮込む韓国料理】あたりまでは食べられるようになった。しかし、一食で終わらず辛い料理が続くとどうしても胃腸がおかしくなってしまう
残念ながら自分の身体は辛いものが得意ではないようだが、食べないという選択肢は自分にはない。旅に支障が出ない程度に量を調節しながら、口にせずにはいられない。この好奇心以て、これからも私は放浪するのだろう。
 おしまい 





















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ラオス篇 その2

2020年06月28日 | アジア
旅の後半スタート
下の地図の①②は旅の前半、➌は前半・後半の両方、➍➎は旅の後半で訪れた場所です。また、後で出てくる下線部の数字に対応しています。



3~5 パークセー ⇒チャムパーサック ⇒(パークセー経由)⇒ルアンパバーン (2015年12月30日) 

前日、ホテルのトラベルエージェントでアレンジしたチャムパーサック行きのトゥクトゥクは待ち合わせの8時を過ぎても来ない。現れるは、欧米人が予約したドライバーばかり。まもなく坂〇憲二をワイルドにした超イケメンのドライバーがやって来たのでレシートを見せたが、違っていたようだ。
そうこうしていると、見かねたトラベルエージェントの女性がやって来た。事情を説明して、ドライバーに電話してもらった。そのおかげか、8時10分にやっと来た。
前日のソンテウといい、時間にルーズなのかな 10分程度の遅れでイライラする自分が小さく思えてくる。郷に入ればなんとやら、適応していかなきゃな・・・

30ドルケチって車ではなくトゥクトゥクにしたはいいけど、50㎞の道のりにどのくらいかかるのか気になっていた。夕方にパークセーを発つ身としては。
メッチャがんばってアクセルを踏んでたようだけど、とりあえず1時間きっかりでワット・プー遺跡に到着。ホッ
ドライバーは少しだけ英語を喋れるようで、トイレの位置とmuseum、電動バスの説明をしてくれた。広大な遺跡だし、熱中して見だすと際限なく時間かかる性質なので、何時に戻るという話はせずに別れた。
チケット売り場からmuseumへ向かう道すがら、蘭がお出迎え。丁寧に世話されてるな~

まずmuseumで全体像をつかむことにする。
ヒンドゥーらしく、リンガやヨニがいきなり目に入ってくる。シヴァやガルーダがてんこ盛り。装飾模様にカンボジアを思い出す。規模の差から、彫刻全体の数はアンコール・ワットに遠く及ばないけど、精緻なレリーフに時折ハッとする。

電動バスはなんとなく人が集まると出発するようだった。歩けば10分の距離、参道まで運んでもらう。横目にした聖池は干上がっていて、牛が草を食んでいる。蓮も植えられていて、雨季はきっと美しいに違いない。

参道の端に立ち、前方の聖山を見上げる。本殿は遥か山腹にあり、さすがに見えない。

300mほど進むと、向かって右に北宮殿、左に南宮殿が見えてきた。南宮殿は大修復の真っ最中、足場が組まれていて味気ない

・・・が、連子窓はまさにアンコール・ワット テンションが跳ね上がる

崩れたレリーフを積み上げる努力もなされており、往時の様子に思い至ることができる。

こちらの扉の上にあるレリーフに注目 牛に乗ったシヴァとウマが刻まれている。


この辺りは若干新しいものなのか?

ナーガと思われるモチーフもたくさんあった。


さらに歩廊を進む。下の写真は歩廊から振り返ったもの。左右に見えるのが、先ほどまでいた宮殿。両脇のリンガが道を切り取るかのようだ。

十字型テラスに到達し、来た道を振り返る。

テラス脇に祀られている守門像。この国では、路傍の仏様に日傘をかけてあげるらしい。日射しの強い国ならではの温かい心づかい

てか、お供えのお花を葉で綺麗に編み上げるよねぇ。すごく器用 下の写真は、本殿に行く途中で見かけたもの。

ストゥ―パのテラスへ行く途中、後ろを振り返ると左後方の木のたもとに先ほどの守門像が小さく見える。

そして、本殿まで最後となる階段は急な傾斜で77段 中途半端に取りかかるとダルイので、一気に登った。まだいけるな、自分。心の中で快哉

ついにたどり着いた本殿。

向かって右端のレリーフ。あぁ、クメールだ


ひとまず正面(東側)から中に入ると、仏像がお出迎え。ヒンドゥー寺院として建てられながら後世に仏教と融合、クメールとチャムパーサックのコラボ
実はこの部分、仮の屋根で保護されているのだ。横(北側)から撮った下の写真を見るとよく分かる。


ちなみに、横口の上にあるレリーフにはハヌマーンが刻まれている。

こちらも北側に鎮座していた仏様。さきほどの守門像と同様、唐突感が否めないけど・・・


本殿の外を北側から南側へ向かってグルリとまわってみる。
カンボジアはバンテアイ・スレイのデバターに酷似している・・・素人目に見ても、同じ様式に映る。
あぁ、この一帯はその昔クメールだったんだ・・・国境など後世に引かれたものに過ぎず、ここワット・プーとアンコール・ワットを隔てるものは無い。

植物の侵入を防ぎ得ず共生している様に、しみじみとする。

南側から見るファサード。傾き崩れつつも、なんとか在りし日の姿を保とうとしている。健気・・・
もう、本殿は360度 私好み これを見に来たんだ、ラオス南部へ。


本殿の後方(西)にまわると、岩に彫刻が施されていた。最初は阿修羅かと思ったが、三面六臂ではない。四面てことはブラフマーだろうか・・・詳細は不明。
その足元に着目すると、白菊を挿した花瓶の手前に人形が供えられていた。これもカンボジアで見かけたアプサラ(踊り子)みたいな・・・可愛い


さらに、岩の隙間から湧き出すという聖泉があった。細長い樋を伝って、右に流れ出ている。


もう大満足だったんだけど、惜しむらくは時間が気になってしまったことだろうか。半日の契約なので、12時過ぎにはパークセーへ帰着しなければならない。
ワット・プーとともに世界遺産に登録されている、チャムパーサック王朝時代の寺院群も見てまわるつもりだった。残り時間30分で、2つのお寺をまわった。
ワット・ムアンカーンへの道は未舗装の生活道。途中から小川が流れ、家禽がたわむれていた。

橋の手前で何ごとか叫んでいる。よく見ると、3人の子どもたちが水遊びしながら私たちに向かって“サバーイ”と繰り返している。頬を緩めずにはいられない。
こういう瞬間に巡りあえるのが個人旅行の醍醐味

ワット・ムアンカーンの経蔵はフランスの影響を受けたコロニアル様式。下の写真、尖塔部を拡大してみると細部はやはりアジアだな


同じくワット・ムアンカーンの大仏殿。開いてなくて、入れなかった。

敷地のはずれにあるのは僧房のようだ。上座部仏教のオレンジ色の僧衣がヒラヒラとぶら下がっている。


古代都市の中心部といわれるワット・ルアンカオ。砂岩の寝仏、これまた開いてなくて見られず建物の外観のみ

境内に集められていた仏たち。一瞬雑多な印象を受けるけど、よく見れば古そうなものもチラホラ・・・やはり由緒あるお寺なんだろうなぁ。


巨木の下に大仏があるというワット・シースマンに寄ることはできなかった。大木を通り過ぎた後でアレだ!と気づいたものの、時すでに遅し。
前方を見ていれば、過ぎる前に気づいたかもしれない。・・・が、トゥクトゥクで砂埃から目や口を守るには、後方を向くしかなかったのだ
実際に行ってみて、世界遺産に登録されていながら「チャムパーサック王朝時代の寺院群」は観光地化していない印象だった。良くも悪くも、商売っ気がないというべきか。
これらを本気でじっくり巡りたいならば、旅行業者等に事前にリクエストし手配してもらった方がよさそうだ。

パークセーに戻り、空港出発までの2時間を過ごす。ランチに行こうとする途中、目に入ったお寺ワット・ルアンに吸い込まれるように入る。
柱の彫刻が何ともいえない塩梅、ステキだなぁ~

全く観光地ではないので、本当に静かな境内・・・猫たちがあどけなくお昼寝中

静寂の中、木陰で本を読む若き僧に遭遇。音をたてないように、そっと立ち去った。


ガイドブックで目星をつけていた食堂へ行く。メニューが豊富過ぎて迷いまくったが、定番のラオス料理いかなきゃ!
というわけで、チキン・ラープにした【ラープとは肉や魚にレモンまたはライム汁、レモングラス、香草などを混ぜて炒めたラオスを代表する料理】。
メニュー写真の唐辛子が気になり、辛いかと尋ねると調節できるという。辛くない味で注文。
竹籠に入って出てきたカオニャオ(もち米)。うん、おいしい
ラープの香草はライムとバジルとゴマ? ものすごく美味・・・これを頼んで正解だったな
先ほどの店主(らしき人)が “どうか?”と聞いてくれる。うれしい心遣いだね。


下の写真は、街歩き中に見かけた店頭の厨子。昨日のと同様、丁寧に祀られている。やっぱ、異文化って面白いな~

出がけにホテルのロビーでコーヒー豆を見て、近郊がパークソーンというコーヒーの産地だと知り、にわかに飲みたくなった。そういえば、ラオスに来て一度も飲んでいない。昨日から何度も前を通りかかって気になっていたカフェに入る。ミルク入りしか選択肢がなかったが、いい香りだった (例によって、写真撮ってなくて残念)
ホテルへの帰り道、文房具屋に寄る。手持ちのボールペン2本のうち、昨夜1本のインクが切れた。もう片方も使いかけで、心もとない。昨日から迷っていたのだが、意を決して入ってみた。ローカルな店構え、地元の人相手のお店だろう。案の定ヘンな顔をされたけど、6000k(80円弱)でシンプルな黒ボールペンを入手。

空港へ向かうため、14時半に今朝のドライバーが来る予定だった。が、別人が来て友人間でチェンジしたという。ま、運んでくれるなら誰だっていいけど。
乗ってすぐに、「今朝は友人にありがとう」とか言ってた(英語を聞き取った範囲では)。譲り合い=ワーク・シェアリングなのかなぁ? 仏教的な価値観とは考えすぎか

ルアンパバーンへは1時間50分の空路だった。さすが、南北に細長い国 
空港出迎えをお願いしていたドライバー&ガイドとは難なく出会えた。カタコトの日本語ガイドPさんいわく、明日の1日ツアーは別のガイドが来るという。
ホテル送迎だけのつもりでいたら、希望するならナイト・マーケットに送るよと言ってくれた。今朝は早起きだったので体力がやや心配だけど、渡りに船 もちろん行くことにする。一旦ホテルにチェックインして荷物を置き、すぐに出発。ホテルまで最短距離ではないけど、にぎわってる明るい道をガイドのPさんが教えてくれた。優しいなぁ~ duty以外に気をまわしてくれるのが素晴らしい
そうはいっても、ガイドブック上の地図と目の前の街路を照合できるわけではないので、帰るべき方角を感覚だけで頭に叩き込むしかない。来たばかりの都市で、しかも夜間に大胆なことしてるよなぁ。我ながら

降ろしてもらったのは、ナイト・マーケットの西端だった(←後から地図で確認したところによると)。
食べ物から服から民芸品から、様々なモノが売られている。下の写真は、食べ歩きのフードを売る夜店。

ラオス滞在もあと2日、ついにお土産タイムだ。舐めるように露店を見ながら歩く。
フクロウを探さねば。父へのお土産、旅するごとに探し回ってきたが、動物はお国柄が現れるアイテム。ポピュラーかどうかで簡単に見つかったり、その逆だったり・・・ラオスは後者。象が人気者らしく、フクロウにはとんとお目にかかれていなかった。
やっと見つけたので、交渉開始。言い値の2万kに対し1.4万kと返す。1.8万kと言われたので1.5万kと提案、無事に交渉成立
買い物は時を待たない。気づくと、かなり時間が過ぎていた。明日の下見と思いつつも、つい見入ってしまった。
ホテルへ向かう。右折すべき賑やかなストリートはどこなのか、岐路のたびに確認する。結構歩いて発見。あとは、お寺の門を見て右折すればホテルに着くはず。
その前に、目星をつけていた小売店で晩酌用のBeer Laoを調達する。これ大事、えへへ
ガイドPさんが言っていたが、ルアンパバーンは治安が良い町らしい。ホテル到着は20時10分前、しっかり夜だけど、たしかに危険を感じなかった。
ちなみにPさん曰く、ビエンチャンの夜は危ないと。3日前の夜、ホテルの部屋から耳にした叫び声etcは、やっぱりそーいうことなのか

5 ルアンパバーン (2015年12月31日)

8時に1日ツアーのピックアップなので、少し早起きして托鉢を見に行くつもりだった。朝が苦手な私、目覚ましを止めた後もなかなか起き上がれず、ホテルを出たのが6時5分くらい。ホテルと目と鼻の先のワット・マノーロム【14世紀後半~15世紀初め在位のサームセンタイ王の遺灰を収めるために建立された寺院】はひっそりしていて、僧も喜捨する人々もいない。出遅れたか・・・と早々にあきらめ、翌朝に期待して部屋に戻った。が、町中心部のサッカリン通りにすぐ向かえば間に合う時間だったと思う、今になって思えば。

朝食のメニューは6択だった。すかさずヌードルをチョイス。具は鶏肉だった。後で思ったのだが、フォーは腹持ちがよい。やはり米だからだろうか・・・

時間前にドライバー&ガイドは来ていた。ガイドのO君は明らかに若い。20代前半だろう。スラスラではないが、ちゃんと通じる日本語。
車に乗せられて間もなく、メコン川岸のボート乗り場に到着。ふだんは団体客を乗せるであろう大きい船が用意されていて、若干ビビる
まずはバーンサーンハイ村とパークウー洞窟を目指す。上流にあるらしく、流れに逆らってゆっくり進んでいく。


往きの1時間半は自己紹介も兼ねてガイドのO君ととにかく喋った。日本語学校はビエンチャンにしかないそうで、日本語の本も不足がちな中、彼は独学で学んだそうだ。
最初は一所懸命ルアンパバーンの歴史を語ってくれた=ガイドの仕事を果たそうと努めてくれたO君。が、盛り上がったのはフリートークの方かもしれない。
O君は日本に来たことがあるそうだ。東京・大阪2週間。しっかり観光したのかと思いきや、語学の勉強ビッシリだったらしい。気の毒に
3月の日本語スピーチコンテストで上位を取ったら日本に来たいそうだ。京都を訪れたいんだって~ 着物の人を見たいらしい。たしかに、他国の民族衣装って興味深いよね。
私は奈良を勧めた。いい仏像があるよ、京都からも遠くないよって

ガイドO君はTOK〇Oの松岡君を垂れ目にした感じの風貌。後でプーシーの丘を登った後に車待ちをしてた時、通りかかったタイ人から日本人かと言われてた。僕はラオ族です!って主張してたけど、たしかに日本にいても違和感ないかもなぁ。ちなみに、前夜空港で出迎えてくれたガイドPさんはモン族なんだって。元柔道選手・金メダリストの篠〇信一に似てたなぁ~ たしかにラオ族のO君とは違う顔だちだね。O君曰く、ラオスの人口構成はラオ族60%、カム族20%、モン族10%、その他少数民族、全部で47あるんだって。
日本は単一民族かと聞かれたので、アイヌのことを説明しておいた。O君はこれから何人もの日本人客に接するんだから、間違ったことは言えないよね。
ついでに沖縄のことも話した。今は日本領だけど、独立国だった時代もあるから、文化は違うねって。言葉は通じるのか?とソッコー尋ねてきたから、やっぱり言語に興味があるのかなぁ彼は。
ラオスの北部はどんなに寒くても雪が降らないんだって。東京はまだだけど、日本の北部では降ってるよと言ったら、PさんもO君も興味深そうだったなぁ。いつか雪の降る様を見てほしいなと心から願った。

ラオスは5ヵ国と接してるという話から、思いきって聞いてみた、どこと一番仲良いのかと。
即答でベトナムだった。難民の受け入れとか融通してきた歴史があるらしい。たしかに、街中でベトナム料理のお店をたくさん見た。
タイによる支配は250年に及んだそうだ。あんまりいいイメージない?って言ったらうなずいてた。
ちなみに日本は朝鮮を植民地にしてたし中国を侵略したから微妙な関係だよ、と言った。
地理的に近い地域は利害関係が絡んでやり合うから関係が難しいよね・・・って結論で2人まとまった。旅人が政治問題に言及するのはタブーが原則だけど、自然な流れで意見を交わせてよかったなぁ。
なお、O君曰くタイよりイメージ悪いのはアメリカなんだそうだ。元宗主国のフランスよりも アメリカとの戦争は第二次世界大戦よりひどかったと。
まぁ、今ラオスは社会主義国だし、そういう教育を受けてるのかもしれないけどねー

乗船して1時間、バーンサーンハイ村に到着。ラオ・ラーオという焼酎をつくる村。試飲したら、想像以上に美味しかった これまで外国の地酒でおいしいのに当たったことがほとんどなかったので、期待してなかったんだけど。日本酒より甘いけど、かなり近い味がする。同じ米原料だから 思わずお土産に買っちゃった、味違い3種類の小瓶【もち米を全く蒸かさないラオ・ハイ、蒸かしたもち米を水に10日入れて寝かせたラオ・サート、赤米を使用したラオ・カムカム】。例によって、写真撮ってなくて残念だわ お酒好きな方、ルアンパバーンを訪れたらぜひお試しくださいね。アルコール度もかなり高いですよ

バーンサーンハイ村から30分でパークウー洞窟に到着。観光客でギッシリ・・・
O君によると、アニミズムのころから信仰されていて、後からあとから仏像が増え続けているって。

こちらが下の洞窟タム・ティン・ルム。見上げると、かなり奥まで仏像が並んでいる。色々な時代の、様式の異なる仏像たち。

てか、右のは狛犬っぽいな~

あれ ヒョウ柄着せていいんかい。ファンキー


下の洞窟から坂と階段をいくつものぼり、上の洞窟タム・ティン・トゥンへ。けっこう急な道のり。でも、私よりガイドO君のほうがつらそうだった。後に訪れたプーシーの丘でも息切れしながら仙人の伝説しゃべってたしなぁ・・・がんばれ若人
途中、2人の女性が生春巻きを作ってた。なぜここで作業してるのか謎だけど、ともかくキレイ

上の洞窟の入口、振り返って撮影。閉められるように、穴に合わせてつくられている。

下の写真は、公開中は開けられている板戸。うっすら仏像が彫ってある。昔は美しく彩色されてたんだろうなぁ~

この第2の洞窟、奥は真っ暗で闇の中に仏像が点在している。懐中電灯持ちながらシャッターを切ったけど、全然ダメ
全く関係ないのに、高校の修学旅行で訪れた沖縄のガマを思い出した。湿度が記憶を呼び寄せたことにしておこう。

洞窟の入口で売ってた焼き魚をガイドO君が買ってくれた。地元の人は「マァ」と呼んでるらしい。竹に5尾刺してある。“目”刺しじゃなくて胴刺しだけど(笑)
分け合ってひと口ふた口、「温かかったらおいしい」とO君。うん、その通り あと、アルコールでもあればねぇ。塩気きいてるし。
小骨が多くて硬くて難儀したけど、カルシウムとれたと思うことにした


ランチをとったレストランからの眺め。対岸にパークウー洞窟が見える。川を船で渡って食事とは、なんて贅沢なんだろう。

ルアンパバーン名物の川海苔に遭遇。これ、食べたかったんだよ~
ゴマとガーリックをまぶして揚げてるのね。う~ん、ツマミにいいなぁ。夜にこれがあれば最高

タケノコにひき肉と春雨を詰めて揚げたもの。これ、メッチャ美味しかったぁ

赤いもち米も風味豊かで美味しい


来た道(川)を戻り、午後は市内のお寺巡り。乗船したのとは異なると思われる船着き場で降ろされた。
まずはルアンパバーンを象徴するといわれるワット・シェントーン【1560年、セーターティラート王が創建】から観光。
その本堂の壁は黒く塗られ、金で絵が描かれている。
カンボジア、タイ、ベトナム、ミャンマーと旅して来たけど、一番キラキラしてる気がする。でも上品な印象で嫌味がないんだよなぁ。最も自分好みかも



本堂の内側から扉を撮影。

本尊は新しそうだったけど、厨子に入ったこちらの仏像は古そうな感じがした。
ガイドO君の説明によると、両手のひらを前に向けるポーズの意味は、“争いをやめなさい”なんだそうだ。あまり見かけたことなくて面白い。

本堂背面の壁、赤地モザイクのモチーフは黄金の木。かつてこの場所に生えていたと伝えられる大樹にちなむそうだ【1960年代の制作】。

本堂の南西に位置するレッド・チャペル。壁のピンク地モザイクはシャカの生誕2500年を記念して施されたもの。色とりどりのガラスがふんだんに使用されている。
日射しが強すぎて、本堂壁(赤地)とレッド・チャペルの壁(ピンク地)の色が同じように見えるなぁ


チャペルの中の寝仏は、この寺を創建した王が奉納したもの。16世紀半ば、日本でいうなら織田信長の頃か。背後の壁の細工が細かくて素敵よねぇ 

境内の東に位置する霊柩車庫。1960年、シーサワンウォン王の葬儀で使用された霊柩車は黄金の龍がモチーフ。
龍の背中に乗っている巨大な壺の中に国王の遺体が“体育座り”の形で入れられたそうだ。葬送のしきたりは国それぞれね・・・


霊柩車の後ろに、朽ちかけのを含む多くの仏像が置かれていた。ガイドのO君曰く、19世紀後半に中国・雲南のホー族が侵入した時、隠していたから無事だったんだって。
ふと興福寺の八部衆像(阿修羅像など)を思い出しつつ、surviveできてよかったねぇ、と仏像たちに声をかける。
“気をつけ”のようなポーズは雨乞いなんだそうだ。そういえば、ミャンマーでもよく見かけた気がする・・・雨が少ない土地柄を反映していて面白い。


お次は国立博物館へ。その一角に、パバーン仏を安置する祠がある。
この町がランサーン王国の都たる所以となった大切な仏像。キ〇ーピーを思わせる、30cmくらいのかわいらしい仏様だった。写真禁止だったので、こちらでお披露目できないのが残念至極

小径を歩いていくと、その先に博物館が現れる【建物は1909年、シーサワンウォン王とその家族の住居として建てられたもの】。王政が廃止になったのが1975年12月2日、今は40周年なんだとガイドのO君が言う。

博物館はロッカーに私物を全て預けるシステム。ロシアはエルミタージュ式だな。
入ろうとしたら、係員から上を着ろと言われた。袖が短いからキャミソール扱いだって いえ、半袖ですってば・・・争う気はないので、もちろんロッカーに戻って上を羽織ったけれども
邸内には小さな仏像たちがいっぱいあった。様式も素材もまちまちだけど、全部シャカ。この国の人々が仏教を篤く信仰してきたことが伝わってきて、なんだかジーンとした。

次は、博物館のお隣にあるワット・マイ【18世紀後半から建立を始め、完成までに70年要した】へ。
下の写真は本尊。

その四方は回れるようになっていたので、360度グルリしてみた。台座のハヌマーン、素敵だなぁ。

本尊の斜め後方からのアングル。まわりを取り囲む仏像が壮観

こちらのお寺、壁に穴を穿つことなく、小さい仏像を上から貼り付けている(ピンボケ写真しかなくて、ごめんなさい)。
細かい手仕事・・・このあたりが、ルアンパバーンで最も美しい寺院のひとつと評される所以だろうか。


外に出て、金のラーマーヤナ【1960年代の制作】の前でガイドO君の話を聞く。


ラオスでは出家する理由が4つあるそうで。①懺悔する、②教育を受ける(←家が貧しい場合)、③両親への恩返し、④家族が亡くなった時に天国まで見送る。
ラオスでは、男性は出家しなければ一人前と見なされないそうだ。
かくいうO君も3回出家したって。最初は18歳、祖父が亡くなった時。出家の期間は自由に決められるそうで、O君の場合は1週間の出家を3回経験したそうだ。
疑問に思って訪ねてみると、一生僧侶の人は一部の上位の方を除いて少ないんだって。日本の出家とは違うんだねぇ、興味深い。

4番目の訪問箇所は、ワット・ビスンナラート【16世紀初めの創建】。本堂は修復中だったけど、入ることができた。屋根がかなり剥がれていて、黄金の本尊が痛々しく映る。今回の旅の中で見かけた寺院のうちで最も損傷が激しかった。

境内の仏塔【中から金銀宝物が多数見つかり、現在は別の場所へ収められている】。


最後にプーシーという丘に登った【高さ150m。ルーシーという2人の仙人が神に導かれてこの山にたどり着き、ルアンパバーンの街をつくったという伝説がある】。
下の写真は、丘の頂上に立つ塔。祠の中の仏様たちはかなり新しそうだった。


丘から見渡すルアンパバーンの街並み。左を流れるはメコン川、まっすぐ伸びるはサッカリン通り。
実は右にナムカーン川が流れているのだが、この写真には写っていない。
かわりに、下山後に目の前に現れたナムカーン川を載せておきたい。素朴な橋がいいなぁ
あらためて、山深い場所だなと思う。この地がランサーン王国の都として200年栄えたのかぁ・・・
その地理的要素ゆえに後世の大幅な改変を免れ、いにしえの面影を今に伝えてくれている。ありがたいなぁ


ガイドのO君とは17時過ぎに別れた。折りしも時は12月31日、友人の引っ越し&カウントダウンパーティーに行くんだって。言うことがいちいち若くて微笑ましいなぁ。
遠い空から応援してるからね、まずはスピーチコンテストで入賞だね。良いガイドさんになってほしいな~ 老婆心から

夕食の前に、郵便局へ行く。チャオファーグム通り沿いの郵便局は、キオスクのような素朴な店構えだった。職員さんの目の前でスタンドをくるくる回し、ハガキを選んだ。
旅の前半は1日2食で様子見だったけど、出国が近づくにつれアレもコレも食べたいと欲望が頭をもたげてくる。
夕食はラオス式ソーセージにした。ひと口めに辛いと思ったが、ここまでセーブしてきたから えいやと完食。しかも、付け合わせのナスとニンニクのグリーンカレーペーストも辛いのに全部食べてしまった。ま、勢いが必要な時もあるさ
なぜだかお料理の写真を撮ってないので・・・代わりにオシャレなお店の内観をごらんください。


そのままナイト・マーケットへ直行。前日に下見した時と大体同じ場所に出店していた。そーいうものなんだなぁ。
バラマキ系のお土産を予定通り入手し、ちょっと安堵
立ち並ぶお店は際限なくあり、端までたどり着く前にテキトーな所で引き返したんだけど、それでも気づけば1時間以上経っていた。前夜も思ったが、ホント買い物は時を選ばないな~
自分へのお土産で気に入ったのは、モン族の刺繍入りのベアトップ・ワンピース 派手すぎない絶妙な紫色、そして試着してないのに(できないというべきか)サイズぴったりなのだ、エッヘン 下の写真は、翌朝部屋で撮影したもの(珍しく、モノ撮りしてる私

前夜より10分遅れの時間帯、同じ道をホテルへ急ぐ。途中でBeer Lao買うのも同じ。お店のおじいちゃんは連夜現れた私をさすがに覚えててくれたみたい。ちょっと嬉しい 
道中、やはり何ら危険を感じなかった。片手にマーケットの戦利品袋を提げてるのにな。う~ん、治安いいわぁ

日本との時差は2時間。年末年始はほとんど旅に出ている自分、いつもは気づけばお正月を迎えてるんだけど(飛行機の中というパターンが多い)、今回は妙に日本時間の1月1日午前0時を意識した。友人へのエアメールを書きつつ、減りゆくビールでひとり小さく乾杯
新しい年の始まり・・・何があるわけではないと思いつつ、身が引き締まる。
いや、気がしただけか。現実の私はとっくに酔っ払っている

★ 急きょの中締め ★

当初、最終日までをこの記事にまとめる予定だった。が、書いていくうちに文字数オーバーが判明 
急きょ、旅の最終日を「その3」として独立させることに。中途半端で申し訳ないのですが、最後の部分はそちらをご覧ください。
































































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