poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

台湾篇(2)

2019年07月27日 | アジア
  4月までの束の間の骨休め、とかこつけて2泊3日で台湾に出かけてきました。2013年に次ぐ2回目なので、タイトルは(2)としています。


1日目; 台北⇒ 台中 ⇒日月潭 (2017年3月31日)

  出発前夜の21時過ぎまで仕事、予定より遅い電車に乗るハメになり、羽田を7時過ぎに離陸する便へのチェックインは移動中にネットから。空港に着いたらカウンターはclosedになっていたので、まさに綱渡り そんなわけで、眠気と闘いながらの旅が始まる。機内で素直に爆睡すればよいものを、「モアナと伝説の海」をガッツリ見てしまう。何のこっちゃ。
今回の旅は金土日なので、着いたらすぐに切手をゲットしようと決めていた。ガイドブックを見て目星をつけた台北駅近くの北門郵便局に行き、目的を果たす。結果的にはこの後 台北駅構内でも、日月潭の水社でも郵便局に行き当たるのだが 北門を見ることができたから、よしとしよう【清代に築かれた台北府城の門のうち、当時の姿そのままに残されている唯一の門】。道路を挟んで撮影したので、やや遠いけど


さて、1泊目の日月潭は台北の南西100数十㎞にある。台中まで「高鉄」=台湾版の新幹線に乗り、バスに乗り換えて日月潭の水社を目指す。初めての高鉄に浮かれる私。前回の訪問時には乗る機会なかったからなぁ【標準廂=いわゆる普通車が700元。ちなみにグリーン車は商務廂という】。
駅構内でお弁当を買い、高鉄待ちの間に食す。種類が色々あって悩んだが、ベジタリアンにする。今夜の夕食はホテルの豪華ディナー、胃を空けておかないとね。

上の写真、下半分を占める魚粉のふりかけは鰹と醤油の香り、左下の昆布巻きも懐かしい味がする ローカルフードなのか、植民地時代に日本人が持ち込んだのか、謎。いずれにせよ、美味しいことに変わりなし。

高鉄に乗ったところで、睡眠不足が祟る。台北駅出発後の数分間トンネルが続くうち、いつのまにか眠っていた。気づいたら、車窓に水田が広がっていた。まだ昼だというのに、曇っているせいかまるで夕方のようなセピア色の風景。あぁ、この国は米が主食なんだとしみじみ思う。遠のく意識の中で、「新竹」という放送を聞いた後のような気がする。寝ぼけていて写真は撮れなかったが、この旅の中でベスト1を争う景色のひとつとなった(旅先ではデジカメを構えて惜しみなくバシャバシャと撮影するのだが、車窓からの一瞬だったりして撮れないことも多い。記録には残らないけど、記憶に残る―― それも旅の醍醐味のひとつ)。

1時間余りで台中駅に到着。高鉄を降りて周遊券をゲットし、バス乗り場を探すというミッションはあっさりクリア。構内の表示に従って地下1階に降りると、目の前に南投客運のカウンターがあり、たやすく周遊券「日月潭好行套票」が手に入った【何種類かある。私は九族文化村が含まれるものを1060元で購入。結果的には水社 ― 向山の片道バス乗車券以外はすべて使い切り、十分元は取った気がする】。しかも、バス乗り場は目と鼻の先。ただし、長~い列が。週末だからだろうか?30分後の次のバスに乗るのを覚悟していたら相席がまわってきた、ラッキー
途中、埔里という所でドッと人が降りた。交通の要衝か?(後から調べて分かったのだが、紙すきや酒造で有名らしい。さらに、埔里のバス停から北東1㎞余りの場所に「台湾地理中心碑」があり、台湾のヘソに当たる中心部とのこと) それはともかく、窓から目についた標識に「霧社」とある。ムムッ・・・一瞬スイッチが点滅しそうになるが、プライベートと念じてかき消す。

埔里から30分もすると、日月潭の湖畔の水社に到着。今夜の宿、雲品酒店まではつづら折れの坂込みの2㎞余りの行程。さすがにタクシーを拾おうと思っていたが、乗り場がわからずウロウロしているとオバちゃんが声をかけてくれた。一応、大学で第二外国語が普通話=北京語だったので、まっすぐ行けと聞こえてその通りにしてみたら、港にたどり着いてしまった 聞き取れなかった単語は船だったのか?! ま、いいか。いざとなれば歩こうと思ってたので、そのまま歩き始める。宿までは基本的に一本道だから、迷わなかった。下は、撮影スポット? タクシーに乗ってたら通り過ぎてた場所と思うと、巡り合えたのも幸運

 
ともかく、宿へは30分弱でたどり着いた。高級と思われるホテルの客としてはふさわしくない汗ダラダラ、しかも徒歩でたどり着く。もちろん、フロントの方はそんな私にも分け隔てなく接してくださったけど、つくづく貧乏旅が身に沁みついている(苦笑)



上の画像を見る通り、お部屋は和洋折衷。ふだんは和室のない家に住んでる人間だけど、畳があると寝そべっちゃうよね~ 気持ちいい
今回、この地に数あるホテルの中から雲品酒店を選んだ理由は、日月潭唯一の天然温泉であること
ともかく風呂に入って汗デロデロから覚醒。

やおら、ディナーへ出かける。ビュッフェ・鉄板焼き・中華の3択から、やはり中華をセレクト。
レストラン「寒煙翠」のメニューは以下の通り。

珍しく、途中で忘れることなく全てのお料理を写真に収めたんだけど、特に気に入った皿をセレクトして載せてみる。
全体的に野菜の付け合わせが豊富で、身体に良さそう。おしゃれなディナーにありがちな、たんぱく質と炭水化物一辺倒ではない。私の好みに合う





アペタイザーからデザートまで、全10皿。食べている途中に、これは量が多いぞと気づく(遅いっての!) ビール(600ml)のチョイスは間違ってたと思いつつ、もちろん飲み干す。さらに、グラスで白ワインも注文。たぶんシャルドネ。お腹が許すなら赤もチャレンジしたかったけど、さすがに断念。


部屋に戻ると、猛烈な睡魔に襲われる。ここで前夜のツケが
読もうと買っておいた小説を日本に忘れて来たけど、結果的には無問題。読むヒマなかった。旅程の短い旅の夜は何かと忙しい。


2日目; 日月潭⇒ 台中⇒ 台北 (2017年4月1日)

時間帯によって色を変えるという日月潭。夜明け前が美しいとガイドブックに書いてあったけど、6時まで目が覚めなかった。
カーテンをそっと開くと、朝焼けの色ではなかった。でも、綺麗なライトブルー。
表現が難しいけど、朝だなって色。落ち着いた静かな色、何かが動き出す前の静謐なカンジ。

朝風呂を堪能した後、このホテルのウリでもある、屋上のバルコニーレストランへ行く。
てっきり人であふれてると思ったら、8時半過ぎには私1人だけ! 帰る頃にようやく1組来たけど、皆どうしてるんだろう? チェックアウトは正午だから、もっとゆっくりしているのか? 寒いのが嫌で避けてる? ともかく、結果的にテラスからの景色を静かに ほぼ独り占めしてしまった
時間が経つにつれ、湖は青さが薄まって白みがかってきたが、雲間から陽が射すと時折エメラルド色になる。うん、いいね~(曇が多い画像しかないのが残念

あ、グラスに入ってるのはアルコールではないので、念のため さすがに朝からはいきません。
見目美しい朝食。


日月潭の観光順は、なかなか決まらなかった。前夜、地図と時刻表を何度ひっくり返したことか。
結局、欲張る悪いクセを捨てて、玄光寺や慈恩塔はあきらめる。
ホテル⇒ 水社から船⇒ 伊達邵⇒ バスで文武廟⇒ ロープウェーで九族文化村 とし、台中へのバスは文化村から乗ることにする。

ホテルから水社へはハイヤーで送ってもらえた。もちろんフリーチャージ。すごいな、高級ホテル。昨日、汗だくで坂を上ったことが遠い昔のことのよう
ガイドブックに詳しいことが載ってないので、船着き場でキョロキョロ・・・幟を見つけて周遊券を示すと、ビンゴ
船は人が集まると、なんとなく出発する。10分おきくらい? 行きあたりばったりの旅だ、つくづく。
水社を後にして、船は進む。


途中、拉魯島の近くを通った。神が宿るとされ、人の上陸は許されていない。
日月潭は、この島を境に太陽と月の形に見立てられている。この地のコアというべき場所。


船は途中、玄光寺の麓の港に立ち寄り、停泊時間も含めて水社から30分ほどで伊達邵に到着。
下の写真は、玄光寺から伊達邵に向かう途中、右手に見えた慈恩塔【蔣介石が母を思って建てたもの。海抜1000mにあるという】。


伊達邵からバスで文武廟へ向かうつもりが、バス停が見当たらない。街なかをウロウロしてしまった。お土産を物色するでもなく、買い食いするでもなく、ヅカヅカ歩く私はさぞ異様だったろう。だって、急がないと文武廟行く時間なくなっちゃうし。さすがに寺社仏閣をひとつも見ないのはなー。
結局、次のバス停まで歩くことにした。いざとなったら歩く、いつものことだ。結局、この判断は正しかった。伊達邵のバス停は休止中ということが後で判明したのだ。

整備された木道を進み、10分ほどでロープウェー駅に到着。駅の前、湖のほとりに赤い鳥居があった。嚴島神社みたいだなと思ったら、それもそのはず。1931年、日本の電力会社が市杵島姫命を勧請したと書いてあった。植民地の影がふいに顔をのぞかせる。


ロープウェー駅のバス停で30分くらい待った。そもそも、伊達邵のバス停探しで時間を使っている。先を考えて、あと2分遅れたらあきらめようと思っていたら、バスが来た。
こうして、10分だけの文武廟観光をした。
下の写真は、水社から乗った船の左手から撮影した文武廟の全景。奥の院まで行く時間は当然なく、オレンジ色の屋根瓦越しに湖、という景色は割愛(泣)
いやいや、来れただけでラッキーよ たとえ、往復時間のほうが長かろうとも。


湖に向かう山門を眺めて、美しいと思った。なんとなく、ベトナムはフエのカイディン廟を思い出す。あれは川に向かってたな。
左端に写ってる赤い狛犬。台湾最大規模らしい。
朝より天気も回復してきた、幸先いいぞ~


やって来たバスに飛び乗り、ロープウェー駅に戻る。
最初に着いた時も思ったけど、ピンクの花が満開。桜ではないと思うし、梅かなあ?

一人旅の私は、ロープウェー相席となる。同道は台湾人と思しき老夫婦だった。おじいちゃん、60~70代かなあ? 
な~んて考えてると、その当人から「台湾人か?」と話しかけられた。日本人と答えると、驚いてた。
やっぱりなぁ。昨日から(いや、もっといえば最初に訪台した時から)薄々感じてたんだけど、私ってばメッチャ同化してる。フツーに中国語の嵐が降ってくる。
一人旅だと言うと、おじいちゃんはそれにも少し驚いてたなあ(北京に短期留学した時、一人旅は稀で団体旅行が一般的だと先生が言ってた。台湾も同様なのかな?)。
思い返して反省すべきは、質問に答えるのが精一杯だったこと。第二外国語、サビついてる

全長1.9㎞弱のロープウェーは、2つの山を越えていく20分の道のり。しばらくして眼下に広がるは内灘。文武廟への道すがらバスの車窓からも目にした、鳥たちのサンクチュアリ。浮草の島がいくつかあり、浅瀬はエメラルドグリーン。ロープウェーから見下ろして気づいた時、これを見るために来たんだな、と思った。この旅で一番心震えた景色。


ロープウェーは九族文化村へ向かって急速に降下していく。体感的に急だと思ってはいたけど、後で調べたら最大角度は43度だった
写真の左手、斜面に沿って文化村が広がっている。
なお、「九族」の由来は、1986年の開業時点で台湾の原住民族が9つとされていたことによる。現在は後述の16民族が公認されているが、施設名称は創業時のままになっている。
【阿美(アミ)族、排湾(パイワン)族、泰雅(タイヤル)族、布農(ブヌン)族、卑南(プユマ)族、魯凱(ルカイ)族、鄒(ツォウ)族、賽夏(サイシャット)族、達悟(タオ)族=雅美(ヤミ)族、邵(サオ)族、[口に葛]瑪蘭(クバラン)族、太魯閣(タロコ)族、撒奇莱雅(サキザヤ)族、賽徳克(セデック)族、卡那卡那富(カナカナブ)族、拉阿魯哇(サアロア)族】


ロープウェーを降りてすぐ見えてきた、入口の建造物。


結論から言うと、完全に時間不足だった。1.5時間ではゆっくり見られるはずもなかった。
とても広大な施設なので、最初からアミューズメントワールド(いわゆる遊園地)とヨーロピアンガーデンには興味がなく、原住民集落景観区だけ見るつもりだった。が、ひとつの民族ごとに建物や習俗が丁寧に再現されているので、1日いても見ごたえがあるレベル。
後半は相当巻いてまわったけど、じっくり見ることができたのはパイワン族と、博物館くらい。
下の写真は劇場。ちょうどショーが終わったところだった。


次は排湾(パイワン)族のエリアへ。外壁に彫刻が施されている。

上の写真の右側を拡大したもの。彫刻のモチーフが・・・素人目には中南米に近いものに映る。いや、トーテムポール系?! 仏教色とか一切感じられない。うーん・・・シンボライズ化を徹底すると似てくるのか、世界中どこでも? それとも、海を通じて交流があったのか? んなわけないか。さすがにアメリカ大陸は遠すぎるわな。



屋内で密葬の様子。人が亡くなると、家の中の地面より低い場所に一定期間安置する風習があったらしい。もちろん、蝋人形ですので安心してくださいね


そしてこちらは集会場とな。この平べったい石組みのしかた・・・アイルランドに似てると思ったけど、さすがに飛躍しすぎ
効率の良い方法を追求すると、自ずと類似してくるものなのか?


九族文化博物館の入口にあったオブジェ。自然木の勢いを生かしながら、細かい彫刻を施している。カッコイイ
(でも、消火器が


マネキンが色とりどりの民族衣装を着ているエリアは圧巻で、写真を撮りまくったのだが、こちらには挙げられないのが残念 マネキンの背景に、プロの写真家が撮影したと思われる原住民の方々の写真が写りこんでいるのだ 
代わりに、他に印象に残った展示物を示す。上はヤギの角に神の彫刻を加えたもので、普段は家の中に飾って富を誇示し、祭りの時には家の外に出して魔除けにするらしい。
下は、2人同時にお酒を飲む「連杯」で、儀式の時に用いたらしい。一番上の蛇の彫刻がスタンダードなもの。



博物館を出て、再び屋外展示エリアへ。
達悟(タオ)族は台湾南東部の蘭嶼島に住む。水に浮かぶカヌーは、何枚かの板を張り合わせて製作したもの。横幅がものすごく狭く、立ち上がるにも座るにもコツが要りそう。
船体に書かれている丸い模様は、魔よけ用の目。


魯凱(ルカイ)族の会議の様子。蝋人形がリアル・・・室内に彫刻がビッシリ。


バスの時間を気にして、原住民集落景観区の後半はただ通り過ぎるだけとなった。斜面に広がっているため、必然的に駆け降りる形になった。
下の写真は、アミューズメントワールドのすぐ傍にあった下の入口。ウルトラマンとコラボしている期間だったらしい。そういえば、乗ってきたロープウェーの車体にもウルトラマンがプリントされてたな。


予期していたとおり水社から来たバスは空席がなく、乗せてやるけど埔里で降りろとドライバーに言われた。が、埔里に着いてみたら降りる乗客が多くて、楽勝で座れた。ラッキー
1時間25分かかって台中に到着。高鉄を待つ間に、弁当を食べる。朝食の後何も食べてないので、さすがに空腹を感じる。台北で茶葉料理とうっすら計画していたが、戻るまで待てそうになかった。昨日断念した排骨飯はフツーに美味しかった(前回の訪問では鶏肉飯を味わったから、次は魯肉飯?!)。


50分ほどで台北に到着。MRTで宿を目指す。前回の訪問で泊まったホテルは、直前に旅立ちを決めたこともあり、安くもなかったので別の宿にした(土地勘を頼って、MRTの最寄り駅は同じだけど)。
ネットで検索・予約したホテルは難なく見つかった。フロントは綺麗で対応も素早かったけど、部屋に向かう途中の廊下にリネン係のカウンターがある。ん?!
値段から予想してたけど、部屋は狭く薄暗かった(アムステルダムの屋根裏部屋もどきとタイはる)。
変な鏡・・・そして、枕元はティッシュ箱の上に。何気なく手に取ると、それはコン〇〇〇だった・・・
ようやく合点した。リネン係のわけも、台北の街中でMRT駅からもほど近い立地のわりに妙に安い値段設定も。ここはラブホとしても使われるのね
ま、その昔ソウルで一度泊まってるからなー(その時は大学のゼミ旅行で、オンドルのある部屋に泊まりたいという教授のリクエストで、皆巻き添えになった)。
今さらどうこうはないけど、ちょっとビックリはしたわな。
でも、シャワーの水圧とか温水の出るタイミングとか全く問題ないし、朝食ビュッフェも美味しかった。野菜の総菜が豊富で(下の写真)。また泊まっちゃうかも(笑)


チェックインした後、外出した。今夜のアルコールをゲットせねば
コンビニついでに、もうひとつの最寄り駅である雙連まで散歩してみた。重いからガイドブックは部屋に残してなんとなく歩いたんだけど、迷わずたどり着けた。
途中横断した中山北路はさすが大通り。銀行などの高層ビルが林立し、宿の周辺とは一線を画している。ほんの少し裏道に入っただけでこうも雰囲気が変わるものだなぁ。

部屋に戻ってビールを舐めながら、ひたすら友人たちへのハガキを書いた。BGMはテレビ。なんだかお笑い番組やってる。パナソニックのCMが流れる。これまたお茶のCMに阿〇寛が出てる。う~ん・・・日本か、ここは
晩酌は大好物のワインじゃないけど、郷に入れば郷に従う。台湾ビールのクラシック、美味しかったなあ。


こちらは青島ビール。北京で飲んだのは緑のラベルだったけど、台湾のは青ラベル。味も違う気がするけど、気のせい? 
ちなみに、缶の左上部に反射する青っぽい光は、ラブホ部屋の怪しいネオンなのです


3日目; 台北 (2017年4月2日)

2013年、初めての台湾旅行では故宮博物院を訪れることができなかった。何やってんだか
というわけで、最終日は故宮博物院のためだけに空けておいた。真剣に見始めたら数時間かかると思ったから。そして、予想はハズレなかった(苦笑)
朝食後、荷物を持ってチェックアウト。博物院から直接空港へ行くつもりで。中山國小駅からMRTに乗り、士林で降りる。そこでバスに乗り換えるのだが、全く苦もなし【MRT駅からバス乗り場まで、分かりやすくあちこちに表示がある】。しかも頻繁にバスがやってくるので、5分もしないうちに乗車できた。
が、ここからである。ボケーッとしてるうちに、降りるべき停留所を過ぎてしまった。さっき大勢が降りた場所がそれだったのだ!バスが上り坂をあがり始めてようやく異変に気付き、次の停留所で降りた。幸い真っすぐ進んできたから迷うことはなく故宮博物院にたどり着いた。が、15分はタイムロスしてしまった 下り坂だったのがせめてもの救い。

故宮博物院の入口に向かいながら、三十数年前に父と母もここに来たんだ・・・と感慨深かった。幾多の国・地域を旅してきたけど、こんな感情がわくのは台湾だけ。私たち親子が時を違えながら共通して訪れた唯一の場所なのだ(自営業に従事した勤勉で実直な父、それに追随する母が海外を訪れたのは2度のみ)。
下の写真は、入口で迎えてくれる門。くぐりながら、期待が高まる


館内にはロッカーがあった。この旅で荷物を手放したのは、この時とホテルだけ。短期旅行だから少なめにまとめてるけど、かさばるから身軽になれるのはうれしい。
1階から順に見てまわる。最初に入ったのは仏像の部屋。飛鳥文化の礎となったであろう仏像たちがいる。愛しの半跏思惟像も何体かいた
1階の西側には象牙の透かし彫り作品があり、さらに小さな種に細工した彫刻もあった。見物客が多いので、並んでルーペを覗き込む。
2階は膨大な焼き物コレクションだった。「なん〇も鑑定団」で時折見かける程度の私は、そもそも同時代の焼き物といえど、色々な作風が同時並行で存在することを初めて知った。パステル地に華やかな模様、白地に青の模様、パーリーな色地に無模様。幅広いバリエーション 興味深くなったので、館内のショップで焼き物にフィーチャリングした本を買った。自分が特に魅かれたのは、明代の弘治の龍の模様。龍の表情がコミカルで可愛い(写真撮ってなくてここに掲載できず、とても残念)。なぜこんなに魅かれるんだろう?辰年だから? ふと、母方の祖母によく連れて行ってもらってた地元の中華屋さんの器に似てるのではと思った。モスグリーンの身体に金の角と髭を持つ龍がこんな顔だった気がする・・・三つ子の魂百まで 今度帰省したら行ってみようかなぁ。
3階に名品のひとつ「翠玉白菜」があった。他の展示物とは別格の扱いを受けている。予想よりも小さいサイズ(18.7cm×9.1cm×5.07cm)で艶やか、附随するキリギリスの彫刻が繊細。でも・・・これを傑作と知らず、その他大勢のように陳列されていたら、私は価値に気づくだろうか。審美眼に自信がない

空港に向かうべきタイムリミットが迫る中、探さねばならないものがあった。「ヒスイのたて」である。出発前に実家に電話した時、台湾に行くと伝えた私に父が告げたモノ。
3階にそれはあった。薄暗い部屋でライトを浴びて妖艶に浮かび上がっていた。説明を読むと、戦前に汪兆銘が日本の皇室に贈り、戦後に戻されたものらしい。へえぇ~ 自分は宝石に詳しくないのだが、大きい翡翠は希少なのだろうか。としたら、高さ3mはあろうかというこの巨大な作品はすごい珍品なのだろう。


11時過ぎに見始めて、巻きにまいて14時半頃見学を終えた。やっぱり一度では見終わらなかった。また来なきゃね、と思いながら去ることにする。
すべての思いを遂げられなくても、悔しさはない。それが、台湾とほかの場所との違い。また訪れたいと思うし、それは夢幻ではなくていずれ実現するだろうと確信めいたものがあるからなのかな。
帰国して前回の(初回の)台湾旅行ノートを見たら、ちょうど4年前の同日(3月31日~4月2日)だった。さて、次の(3回目の)台湾訪問はいつになるのだろう? 4年よりももっと短いスパンで実現するような気もする。

★終わりに★

文中で少しだけ登場した、母方の祖母のことを書き留めておきたい。
くだんの中華屋は、今では冷麺のお店としてご当地グルメで有名になっているのだが、祖母はいつもワンタン麺を頼んでいた。母や叔母によると、祖母は人が集まる時には小麦粉からこねて饅頭(マントウ; 中国北部で主食とする発酵蒸しパン)や餃子をふるまっていたようだ。晩年を共に過ごした叔母によると、齢を重ねてからも中華料理は好きだったという。

祖母は、20代に「満州」で暮らしていた。香川は高松の生まれで、長じて大阪の伯母を頼り美容師見習いとして働いていたところ、親戚の紹介で「満州」にいた人(私にとっての母方の祖父)との縁談がまとまった。もちろん会ったこともない人を追って、海を渡った。祖父は農家の庶子に生まれ、新天地を求めて単身で「満州」に渡り、商売をしながら生計を立てていた。まもなく男の子に恵まれたが、食料難のなか消化不良で命を落としてしまう。そして戦局が悪化、「満州」にソ連が侵攻してくるなか、逃げ惑ううちに祖父と祖母は離ればなれになった。ひとり「満州」から日本へ向かう船の中で産気づいた祖母、居合わせた産婆さんの手で取り上げられた伯父。祖母の帰国後ほどなくして祖父も無事帰国、再会を果たしたわけだが・・・波瀾万丈の半生である。
対照的に、後半生はごく落ち着いたものだったようである。帰国後も商いで身を立てた祖父を見守り、2018年7月に98歳で生涯を閉じた。

初孫だった自分は猫可愛がりされた記憶しかない。妻として母としては違う側面もあったのかもしれないが、少なくとも孫から見た祖母は、鷹揚でいつも優しい人だった。まだ見ぬ夫に会うため初めて海を渡り、異国で数年暮らしていたとはなかなか想像がつかない。が、一度だけ直接聞いた話が印象に残っている。日本からの船を降りて陸路移動中、怪しげな人に付きまとわれたらしい。その時、覚えたての中国語の単語を並べて、「あの人は悪い人。助けて」と駆け込み、その場でかくまってもらったという。ものすごい勇気

自分は1996年の北京以来、38カ国を旅してきた。語学力も乏しいまま、ただただ行ってみたい!という好奇心に任せて。その抑えきれない衝動はいったい何なのだろう、どこから来るのだろう、たびたび訝しんできた。敢えて淵源を尋ねるならば、母方の祖母のDNAなのだろう。もちろん、その覚悟たるや足元にも及ばぬことは重々承知である。

おしまい





































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