poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

スペイン(2)&ポルトガル篇 その3

2023年08月06日 | ヨーロッパ
いよいよ旅もラストスパート。最終盤には下の地図の➎・➐を訪れました。ただし近いため(中盤で訪れた)オビドスと、ナザレ,バターリャは➐に集約しています。①~④・⑥は序盤・中盤に訪れた場所です。


7 オビドス ⇒ナザレ ⇔バターリャ (2008年8月11日)

13時頃、中世の面影を宿していたオビドスに別れを告げ、前日も経由したカルダス・ダ・ライーニャへバスで向かう。さらに乗り換えて、この日泊まるナザレを目指す。北北東へ40㎞、40分ほどの道のり。

ホテルにチェックインしたあと街歩き、ではなく再びバスに飛び乗ってバターリャへ向かう。実は、ナザレの周辺には世界遺産を擁するなど魅力ある町が点在する。アルコバサ、トマール、ファティマの4択から選んだ。Cちゃんはあまり乗り気ではなかったのだが、ここでも世界遺産ハンターの自分がゴリ押しした。ホント貪欲なもので
ナザレの北東35㎞、所要40分。バス停からほどなくしてバターリャ修道院にたどり着いたのは15時頃。
【バターリャ=戦い。14世紀前半から王位をめぐってポルトガルはカスティーリャ(現スペイン)と戦争中だった。ポルトガル王フェルナンド1世は男子に恵まれず、その娘ベアトリスは王位の譲渡を条件にカスティーリャのフアン1世と結婚したが、カスティーリャを厭うポルトガル貴族たちがジョアン1世(フェルナンド1世の異母弟)を推して対立。1385年、ジョアン1世率いるポルトガル軍6,500人がカスティーリャ+同盟軍31,000人を撃退し、独立を守った。その歴史的な戦いがバターリャ近郊で行われ、聖母マリアに感謝をささげるためにジョアン1世が建立したという由緒を持つ。14世紀後半に始まった工事は16世紀前半まで続き、その間7人の王が君臨し15人の建築家が携わったという。ゴシックとマヌエルが融合した様式】。

ファサードに近づいていく。これでもか、という彫刻の嵐。

彫刻をズームアップ【アーチ・ヴォールトという様式。旧約聖書に出てくる王・預言者、天使など78体の彫像が6列に並ぶ】。

入場してすぐ右手は創設者の礼拝堂で、この修道院を建立したジョアン1世とその妃ドナ・フィリパ・デ・レンカストレが眠る棺がある。
 手を取り合っている・・・仲睦まじい夫婦だったのかなぁ。

横の角度から、こちらがジョアン1世【台座側面には、ジョアン1世のモットー(英訳)"For the better”と妃フィリパのそれ"I’m pleased.”が繰り返し刻まれているという】。

周囲には夫婦の子どもたちの棺も安置されていた。こちらはエンリケ航海王子 =スペイン(2)&ポルトガル篇「その2」で言及した発見のモニュメントの先頭に立つ人物【ジョアン1世の第5子・3男。船酔いがひどかったともいわれ、自らは長距離の航海に挑んでいないが航海者を支援し、アフリカ西岸に幾度も艦隊を派遣して探検させた。1434年、当時 世界の果てとされその先に煮えたぎる海が広がると航海者たちが恐れたボジャドール岬(カナリア諸島の240㎞南)を越えたことで迷信を打破。存命中(~1460年)はシエラレオネまでの到達だったが、その死後にバルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達(1488年)、さらにヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓(1498年)。大航海時代に先鞭をつける功績をあげたと評価されている】。

この縦長な感じ、ゴシックだなぁ・・・【1430年代、ドイツからここにステンドグラスが持ち込まれた。ポルトガルの教会で初めて使用されたという】

磔刑図、肝心な部分が剥げている。

こちらは原形をとどめているような。てか、誰だろう・・・光輪があるけど左手に剣を持ってて、背景は牧歌的、この付近を表現してるのかなぁ。素直に考えるなら、献堂したジョアン1世か


北へ進み、王の回廊に出る。柱にほどこされた彫刻が同一じゃないんだなぁ・・・手が込んでる
【当初ゴシック様式でつくられた後に、マヌエル様式が加えられた。なお、柱の上部のレース編みのような彫刻は狭間飾り(トレーサリー)という】


ひっそりと噴水もあった。


その昔、教会のファサードを飾っていたと思われる彫刻が展示されていた。入ってくる時、どうりで新しいと思ったわ~ 
こちらは11枚上の画像に出てくる十二弟子(入口上部の脇に6体ずつ並ぶ)だろう【この記事を書くにあたり調べたところ、この教会は1755年のリスボン大地震だけでなく、19世紀前半のナポレオン軍侵略により大きく損壊したという。その後修復されて今日に至る】。

こちらは10枚上の画像、タンパン(三角形の部分)の右下にある福音書記者だろう。左に獅子を従えているので、右の人物はマルコと思われる。顔が失われているのが気の毒

こちらと同一の彫刻は残念ながら発見できなかったけど、口から水を吹き出す形状・・・樋嘴(ガーゴイル)かなぁ


最後に、未完の礼拝堂へ【ドゥアルテ1世(ジョアン1世の子)が自分の子孫の霊廟として建築に着手し、100年ほど工事したものの遂に完成しなかった。建築に欠陥があったためとも、ジョアン3世の方針によりジェロニモス修道院(リスボン)の建設に注力するべく建築家が去ったためともいわれる】。
ねじった柱に魅かれる

内側から見ると、こんな感じ。

未完成ゆえ、天井がない。

別の角度からパシャリ

この礼拝堂の施主、ドゥアルテ1世とその妃レオノール・デ・アラゴンの棺。このご夫婦も仲良しみたい。てか、当時流行ってた作風なのかなぁ・・・

こっちの棺は、丸くデフォルメされた動物たちが可愛い


再びバスでナザレへ戻った私たち。旅もあとわずかとなり、手持ち資金のメドが立ったので、夕食は久々に外食
海辺はシーフードでしょ とこの国の名物海鮮料理、イワシの塩焼きとカルディラーダを注文【ポルトガル風ブイヤベース。魚介(数種類の白身魚や貝)と野菜(ジャガイモ・玉ねぎなど)をトマトソースで煮込む。塩,オリーブオイル,ワインのほか、ハーブ(コリアンダー,パセリ,パプリカ,オレガノ,胡椒など)で味付けする】。白ワインのデキャンタも頼んで、2人で合計€17.1。例によって、お料理の画像を撮ってなくてごめんなさい
晩酌用の赤ワインも購入、余裕が出てきた

7・5 ナザレ ⇒リスボン (2008年8月12日)

前日はナザレ観光できなかったので、市街に出かけた。まずは、ここの地名の由来となっているマリア像に会うため、シティオ地区を目指す。
【ナザレの町は3地区に分かれている。かつて役場があり最も歴史の古いぺネルデイラ地区(丘の上)、そこから北に向かって海岸沿いに広がるプライア地区、そこから北西の崖の上にあるシティオ地区。かつては海だったというプライア地区は新興地帯だが、今や町の中心として最もにぎわっている。プライア地区とシティオ地区はケーブルカー(片道€0.9)で結ばれている】
泊まったホテルはプライア地区にあったので、ケーブルカー乗り場へ向かう。その途中で遭遇した教会。この国らしく、青いタイルが美しい。

右上のアズレージョ(ポルトガルのタイル)にズームアップ。左に立つ人物のもとに魚が集まっている・・・聖フランチェスコ【13世紀前半、イタリアのアッシジを拠点に活動した修道士。清貧を旨とするフランシスコ会を創設。自然のあらゆる存在への愛にあふれ、小鳥や魚に説教したり、狼を回心させたりしたという】 
カトリックが圧倒的に優勢なこの国にフランシスコ会の教会があっても不思議ではないが、確信はない ちなみに、一時期この画像を職場PCの壁紙に設定していたくらい、気に入ったのだった


ケーブルカーはぐんぐん高度を上げていく。車窓からパシャリ

そう、かなり傾斜が急なのだった(こちらは帰路に撮影)。

崖の上からナザレの街並みを見下ろす。砂浜は綺麗な弓なり。

90度視線を転じ、岬の先端方面(西)を望む。

いよいよノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会へ【8世紀、西ゴート王ロドリゴとともにこの地へやって来た僧ロマノは、現イスラエルのナザレからマリア像を携行していた。ロマノは死ぬ前に像を洞窟に隠したのだが、四百数十年後に羊飼いが発見。その後 聖母マリアの奇跡が起こって一躍有名になり、町はナザレと呼ばれるようになった。巡礼者が押し寄せるようになったため、像をまつる聖堂を14世紀後半に建設したのに始まる。現存する会堂は17世紀のもの】。

現代的なステンドグラス。

壁面の多くの部分はアズレージョ。


件のマリア像にまみえるには、祭壇の左横から裏へとまわる。その通路もアズレージョで覆われている。
お花、小動物、ヨット・・・可愛いなぁ


アズレージョに取り囲まれる磔刑像。

最後に階段をのぼると、目の前にマリア様が現れた・・・王冠を戴く幼きイエスを左腕に抱き、授乳している。私をこの地へ導いた、そのもの。
ポルトガルを旅することが決まり、ガイドブックで訪問地を物色していたとき第二のナザレがあることに驚いた。その由緒も知り、ここまでやって来たのだった。
その素朴な顔だちに何ともいえぬ古めかしさを感じ、しみじみとした。はるか地中海の東からユーラシア大陸のほぼ西端までやって来たと言い伝えられ、こんな立派な教会が建てられて篤く信仰されてきたのだから、すごい・・・。会いたいと焦がれる一方で、この像がかつて西アジアにあったという科学的な根拠は如何に とか頭をよぎっちゃう20世紀生まれの自分は何かに毒されているんだろーな


教会のすぐそばに、メモリア礼拝堂がある【聖母マリアの奇跡が起こったという伝説の場所に建てられた。1182年、貴族のドン・フアスが狩りの最中に岬まで追いかけて行った鹿は姿を消した。濃霧で視界が悪く、崖から落ちたのだ。フアスの馬は後ろ足のみ岩の上に残していたものの、今にも海に落ちるかという時に聖母マリアが現れて馬は戻され、命を救われたという】。

礼拝堂の背面。屋根のアズレージョ、青と黄色のコントラストがいい

近寄ると、ドン・フアスの伝説がアズレージョで描かれている。

ちなみに、先ほど訪れた教会にもこの伝説を描いた絵があった。


入場する。4m四方もない小ぢんまりとしたサイズの礼拝堂なのだが、中はアズレージョで埋め尽くされている。こちらが天井。

実はこの礼拝堂、崖に沿って建てられていて地下も存在する。地下へ続く空間も全てアズレージョ(Cちゃんに撮ってもらった自分にモザイクをかけた)。

個人的には、このメモリア礼拝堂に心奪われた スペイン(2)&ポルトガル篇「その2」で既に紹介してきたように、シントラの王宮でもオビドスのサンタ・マリア教会でも、そして先ほどのノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会でもアズレージョを目にしてきたが、なんというか、かなり狭い空間にギュッと凝縮されているのが自分好みだった

外に出ると、いつのまにか晴れてきていた。
メモリア礼拝堂の裏から海を見下ろす。う~ん、ここから落ちるのは怖いなぁ

南西に目を向ければ、ロカ岬に負けず劣らずの大海原が横たわっている。


再びケーブルカーで崖を下り、プライア地区へ戻る。その中でも、漁師とその家族が暮らすというペスカドーレス地区の路地をぶらぶら歩く。
白い壁に洗濯物が映える。

家の前に腰掛け、ご近所さんとおしゃべりしているようだ・・・時間がのんびり流れている。

実は、ここナザレでは伝統的な衣装を身にまとう風習が残っている【女性は7枚重ねの短めのスカートの上に刺しゅうをほどこしたエプロン、頭にスカーフを巻くというスタイル。7枚の根拠には諸説あり、「1週間の7」でスカートを1枚ずつ脱ぎながら漁に出た夫が戻って来るのを数えたという説、(旧約聖書『創世記』で神は6日で天地を創造し7日目を安息日としたことから)西洋における7は聖なる数であり7つの波が過ぎると海が穏やかになると言い伝えられ 漁に出た夫の安全を祈願したという説などがある】。

もっとも、スカーフの巻き方は色々あるようで。

一方、夫に先立たれた女性は黒づくめという決まりなんだそうだ。

ちなみに男性はチェックのシャツ、幅広のズボン、腰に黒い帯を巻くスタイルらしいが、今やほとんど見かけないという。女性も若い人々は身に着けなくなっているらしく・・・そのうち廃れていくのかもしれない。

こちらは市場の様子。地元の方々に混じって、自分含め外国人観光客もウロウロしていた。

ビーチは海水浴客であふれかえっていた。画像中央の岬の上がシティオ地区。


11時頃 ナザレを後にして、バスでリスボンへ戻る。カルダス・ダ・ライーニャ経由で2時間弱の道のり。
2日前までお世話になっていた、ポンバル侯爵広場付近のホテルに再び投宿。この日は20時からファドを聴きに行くことになっていた。翌夕の出国まで滞在時間がまだ残されているとはいえ、ホテルで休むのはさすがに勿体ない。

というわけでしばし休憩した後、2日前にも足を運んだリスボンの西郊外はベレン地区へ向かった。お目当てはジェロニモス修道院。
【エンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業を記念して、マヌエル1世が1502年から建立開始。大航海時代で繁栄するポルトガルが贅を尽くしてつくりあげたマヌエル様式の最高傑作とされる。マヌエル様式とは、ゴシックの影響を受けつつポルトガルで独自に発達。マヌエル1世(在位1495年~1521年)の頃に流行したため、その名を冠する。当時のポルトガルの国勢を反映した過剰な装飾、および世界を船で往来したため海洋にちなんだ装飾(船・ロープ・珊瑚・海藻・異国の植物など)を特徴とする。1755年のリスボン大地震で被害を免れた数少ない建造物。なお1541年4月、フランシスコ・ザビエルはここでミサをあげた後、テージョ川を下って海外伝道に旅立った。 ←勉強不足で、訪問当時はその事実を知らなかったけど
さすがこの国の黄金時代のシロモノ、半端ない。素人のデジカメでは画角に収まりきらないほど巨大なのである。一説には一辺が300mとか。
というわけで、パーツをご覧ください。 画像右下、錨が横並びに彫られているように見えるのは気のせいか??

南門を横から撮影。レースのように繊細な彫刻


この修道院のイチオシは回廊【55m四方、2階建て。1階はバターリャ修道院の王の回廊も手がけた建築家ボイタックによる。2階はその死後に建築家ジョアン・デ・カスティーリョが引き継いで完成。イスラム建築の影響も受けているという】。

回廊の壁に彫刻あり。エルサレムで逮捕されたイエス・キリスト(左)とローマ兵(右)かな・・・。画像中央上部の丸いのは、たぶん天球儀【B.C3世紀のギリシャおよびB.C2世紀の中国で発明されたといい、前者をアーミラリ天球儀、後者を渾天儀という。水平線・子午線・赤道・黄道などを示し、天球上の天体の動きを模した。世界を股にかけたマヌエル1世治世下のシンボルであり、ポルトガル国旗にも取り入れられている。マヌエル様式の意匠のひとつとして知られる】。

かつてはライオンの口から水が噴き出していたのだろう。

画像中央上部にご注目あれ。マヌエル様式らしい帆船の彫刻である。

あの噴水は現役だわね。中央にのぞくドームは、併設のサンタ・マリア教会。

柱の彫刻が精緻なこと

こちらは食堂。

壁の絵をズームアップ。手前中央の幼な子イエスを拝んでるってことは、マギの礼拝かなぁ・・・

腰壁にはアズレージョ。その上を装飾するロープ様の彫刻、これまたマヌエル様式の典型。


回廊の2階とつながっているサンタ・マリア教会へ。林立する柱は椰子の木をモチーフにしているという。
【教会は無料だが回廊は有料(€6)、よって支払わない場合は教会の2階にあがることはできない。なお、この建築は20世紀のモデルニスモに影響を与えたといわれ、ガウディのサグラダ・ファミリアにその痕跡を感じることができる。スペイン(2)&ポルトガル篇「その1」の13枚目の画像をご参照ください】

石造りの壁面が年月の経過を感じさせ、重厚感を加えている。

ヴァスコ・ダ・ガマの棺【こちらもれっきとしたマヌエル様式。帆船・ロープ・植物などで彩られている】。
インド航路の開拓によってアフリカから金、アジアから香辛料を集め巨万の富を得て、ポルトガルは世界に君臨したんだもんね・・・この国で尊崇されるわな


私たちはパステイス・デ・ベレンに寄ることなく去った【ジェロニモス修道院の近くにあるパステル・デ・ナタの有名店。19世紀前半の自由主義革命で修道院が閉鎖される中、収入を得るためにジェロニモスの修道士たちが売り出した。その秘伝のレシピを受け継ぎ、1837年に創業。パステル=菓子パン、ナタ=クリームの意で、パイ生地に卵ベースのクリームを詰めて高温で焼きあげる。当時、洗濯した修道服ののり付けに卵白を使用しており、余った卵黄を活用して誕生したともいう】。Cちゃんからも行こうと誘われることはなかった。ともに辛党だからなのか、1日に万個単位を売るという行列に並ぶのを避けて先を急いだからなのか・・・。が、早くもこの翌年に後悔するのだった マカオ旅行中に有名なお店でエッグ・タルトを食べたのだが、本家本元のを口にしてないから味が比較できなくて
閑話休題。リスボン中心部へ戻るため、修道院の目の前で市電15番を待った。観光シーズンなので、停留所は大混雑していた。押し合いへし合いしながら乗り込もうとしていた時、ふと違和感を感じた。肩からたすき掛けしていたショルダーバッグの外ポケットに指を突っ込もうとする輩がいるのに気付き、顔を上げると目が合った男(20代くらい、くせ毛でフワフワの髪型)はす~っと遠ざかっていった。人ごみを器用に掻き分ける身のこなしからして、常習なんだろう。事前のガイドブック情報でスリには気をつけるよう注意喚起されていたし、そもそもポルトガルに限ったことではなく異国を旅する時は外ポケットに貴重品など入れるはずもない(ボールペンと紙ナプキンくらい)。被害はゼロだったけど、何年経ってもその顔を忘れることはない。あふれかえる人の中で、自分がターゲットとして狙われたことがショックだった。隙があると思われたことが一介の旅人として只々悔しく、もっと気を引き締めなければと心に誓った

市電を乗り継ぎ、カ―ザ・ド・ファド(ファドのお店。ファドハウスとも)付近にあるカテドラルへ向かった【イスラム教徒からリスボンを奪還した直後の1147年、アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世とも。初代ポルトガル国王)がモスクの跡地に建てた。リスボン最古の教会。当初はロマネスク様式だったが、13世紀後半にゴシックに改築。14世紀以降たびたび地震に見舞われ、特に1755年のリスボン大地震で大きく損壊。20世紀初めに修復され今日に至るため様々な建築様式が混交しているものの、ファサードは創建当初の雰囲気を残す。要塞のようにいかつい外壁、薔薇窓の左右に備わる銃眼はレコンキスタ後の建造物が有する特徴という】。
立っていると、市電が次々と通り過ぎていく。ご覧のとおり、傾斜がきつい場所である。

入場したのだが、自分が撮ったのはこれだけ。バプテスマのヨハネから洗礼を受けるイエスのアズレージョ。

狭い道ではバイクや歩行者がギリギリの距離で市電とすれ違う。

カーザ・ド・ファドで食事もとると割高というので、レストランで腹ごしらえすることにした。
金銭的な事情により、この国の前半ではまともなポルトガル料理を食べられなかった。今宵は最終夜、心おきなく堪能したい
アローシュ・デ・マリスコス【アサリ・エビ・イカ・カニ・白身魚などが入ったシーフードリゾット。魚介の出汁・白ワインの風味が豊か。刻んだコリアンダーをトッピングして食す】と、バカリャウ・アサード【干し鱈のオーブン焼き。肉厚のタラの切り身・ジャガイモ・玉ねぎなどにパプリカパウダー、オリーブオイルをかけてグリルする】を注文。本当はバカリャウ・ア・ブラス【細くほぐした干し鱈・玉ねぎ・極細フライドポテトを卵でとじる。極細フライドポテトはスーパーで売っているらしい】を食したかったのだがお店にないと言われ、バカリャウ料理ならこれ と勧められたのにした。ポルトガル5日目にして初めて口にするバカリャウ【塩漬けにした干し鱈。日持ちするため、船上で摂取できる貴重なタンパク源として大航海時代に普及。ポルトガルの国民食で、365日出せるほどレシピが豊富という。水を替えながら最大で数日間塩抜きして使用するが、大きさによって時間を調整しなければならず、それ次第で味が決まるため腕が問われるらしい】 ともあれ、白ワインのデキャンタで乾杯 
例によって画像を残してなくて、ごめんなさい

ファドの画像もないため、ここからは文章のみで・・・
Cちゃんは音楽が好きで造詣が深い(現在進行形でパイプオルガンを習っている)。翻って自分は音楽の才能が壊滅していて、音がとれずリズム感もなし、幼少から習ったピアノは苦い思い出だけを残して弾ける曲は皆無 そんなだが、ポルトガルを訪れるなら是非ファドを聴いてみたいと思ってCちゃんを誘い、一も二もなく了承を得たのだった。
【ファド; ポルトガルの民族歌謡。ラテン語のfatum(=運命・宿命)が語源という。歌の起源は諸説あるが リスボンのモディーニャ(都会的で叙情的な歌謡)と、かつてポルトガルの植民地だったブラジルのルンドゥー(アフリカ人奴隷の軽快な踊り歌)が融合したという説が有力。船員・港湾労働者・奴隷・売春婦たちが住むリスボンの下町(アルファマ地区など)で歌い出され、19世紀前半に形式が確立されていった。楽器ギターラ(6組の複弦をもつ、リュート属の弦楽器。その起源は曖昧だが、いわゆるギターとは異なるという。14~15世紀にはポピュラーだったようだが、詳細不明な部分が多い)とクラッシックギターを演奏に用いる(他の楽器が入ることもある)。ポルトガル中西部の大学都市コインブラのファドと、港町リスボンのそれの2系統がある。前者は大学生が愛を告白するために始まったとされ、コインブラ大学の学生・OBの男性複数名が明るくロマンティックに歌う。後者は女性の独唱が多く、人生の喜怒哀楽をsaudade(=サウダーデ。胸にこみあげてくる思い)豊かに切々と歌う。ファドを世界的に有名にした歌手アマリア・ロドリゲス(1920~1999年)は、エンリケ航海王子やヴァスコ・ダ・ガマと並んでポルトガルの英雄10傑に選出された。また2011年、ファドはユネスコの世界無形文化遺産に登録された】。

€20のチャージで、お酒は飲み放題だった。夕食時に白ワインを飲干したにもかかわらず、ここぞとばかりにポートワインを飲む。リストを見てもよく分からないので手当たり次第に頼むと、褐色・えんじ色・琥珀色・・・とりどりの液体がショットグラスに注がれて提供され、自分はTawnyが気に入った
【ポートワイン; マデイラ、シェリーと並ぶ世界3大酒精強化ワイン(=ブランデーを添加したワイン)。発酵中にブランデーを添加することで酵母が殺菌され、糖分がアルコールに変換されなくなるため、ブドウ果汁の甘味が残る。深いコクと濃厚な甘さが特徴で、主に食後酒とされる。レッドポート(黒ブドウが原料。RubyとTawnyに大別される)とホワイトポート(白ブドウが原料)がある。14世紀半ばにはポルトガル北部のドウロ地区で生産されていた。17世紀末、第二次百年戦争の際に敵国フランスからのワイン輸入を禁止したイギリスは、ドウロ川沿いのシトー派修道院がワインにブランデーを添加しているのを知り、広めたという。現在もイギリスへの輸出が最多】

眉根を寄せて苦しそうに歌いあげる女性の声に耳を傾けながら、酔いも手伝って、しだいに思考は大航海時代へタイムスリップしていくのだった。
陸の上にいる今生きているのは確かだけど、ひとたび海に出れば明日の命は保証されない。生活するにはそれでも出航しなければならなくて、一か八かで航海から戻って来ることができたらとても嬉しくて、それを繰り返すのが人生と腹を括っていて。一方でそれを見送ったり迎え入れたりする人々は、その都度痛切な気持ちを抱いていたんだろうな。
かつてカーザ・ド・ファドに集った人々は、未来への漠然とした不安を抱きつつも、ひとまず命あることを喜び、感傷的なファドの旋律に身をゆだねながら、ひとときの時間を共に過ごしたのだろうか・・・

一般的に、遅い時刻になるほど上手な歌い手が登場するというが、決して治安が良いとはいえない地区で、そうそう長居はできなかった。軽く真夜中を越えて続くショーの序の口で中座し、フィゲイラ広場から地下鉄でホテルへ戻った。とはいえ一人だと こんな遅い時間に出歩くことすらできないから、友との旅は本当に心強くありがたい

5 リスボン (⇒出国) (2008年8月13日)

この日、18時半の便で経由地のパリへ出国することになっていた。見納めのリスボンに繰り出す。
前日同様、この日も乗り放題券をゲット【正確にはセッテ・コリナーシュ。地下鉄・(カリス社が運営する)バス・市電・ケーブルカー・サンタジュスタのエレベーターに乗り放題で、1日なら€3.7】、地下鉄に乗る。
まずはケーブルカーのビッカ線へ赴く【リスボン市内にはケーブルカーが3路線ある。19世紀後半に運航開始。2002年には国定記念物に指定された。非常に短いが、勾配がきつい丘の町ならでは】。この路線、テージョ川を遠望するのがイイんだよね~ リスボンのランドマークとなっている風景。乗らずに、パシャリ
ちなみに15分おきに発車、下の駅から3分で上の駅まで運んでくれるらしい。

こちらは後刻(帰り際)に撮影。


次に、300m北東のサン・ロケ教会を目指してバイシャ・アルト地区を散策
前日のカテドラル周辺と同様、素敵なタイルで外装された建物が目につく。

サン・ロケ教会の外観【マヌエル1世が建てた聖ロケ(ペストから守ってくれる聖人)をまつる礼拝堂の跡地に、イエズス会が16世紀後半に建てた。1584年、はるばる日本からたどり着いた天正遣欧使節の一行が約1ヶ月滞在した(イエズス会の巡察使ヴァリニャーニの呼びかけで、キリシタン大名3人が関わって4人の少年(伊東マンショ、千々石ミゲルら)を派遣)。1755年の大地震でファサードが倒壊し、現存するのは再建後のもの】。

画像左にご注目あれ。IHS =イエズス会のマークがアズレージョで示されている。

右端にいますはフランシスコ・ザビエル像、左端はイグナティウス・デ・ロヨラ像。

天井はこんな感じ。アーチではなく平らで、木造。


北北西へ100m余り進み、サン・ペドロ・アルカンタラ展望台へ。7つの丘を持つというリスボンには展望台がたくさんあるが、そのひとつ。
右(南東)にテージョ川を見晴らすことができる。

正面(東)にはサンジョルジェ城【カエサル帝の時代(紀元前1世紀)、ローマ帝国がつくった要塞に始まるという。その後、西ゴート族・ムーア人・・・と支配者が変わり、13~16世紀にはポルトガルの王宮が置かれた】。
4日前、エヴォラからの帰路にリスボンは丘だなぁと思ったけど、やっぱりねぇ・・・
夕暮れ時はオレンジ色に染まった街が美しいとガイドブックに書かれていたが、他所見学の都合でその時間帯に訪れることは叶わなかった 
もしもこの後リスボンを目指される方がいらっしゃるならば、是非おすすめしたい。


最後に、国立古美術館へ【建国(12世紀)から19世紀までの作品、また大航海時代にアフリカ・インド・東洋などから集めた品々を擁するポルトガル屈指の美術館。17世紀の貴族邸宅を改装して19世紀末に開館】。ベレン地区ほど外れてはいないが、市の西部に位置する。丁寧にまわるならばかなりの時間を要するだろうが、東洋美術(2階)に狙いを絞っていた。
帆船を描く有田焼。

南蛮屏風は何枚もあり、圧巻だった【落款は狩野内膳(1570年生まれ、1616年没。豊臣家に仕えた狩野派絵師。秀吉の7回忌臨時大祭(1604年)を描いた「豊国祭礼図屏風」は近世初期風俗画の代表作といわれる。神戸市立博物館所蔵など南蛮屏風の作品を数点残す)。ただし、これらの作品は作風などから別人の作かともいわれており、今後の研究が待たれる】。


いかにも異国の衣装を身にまとった上陸者が描かれている。

かと思えば、着物の日本人と犬(?)も登場。


★ 最後に ★


この旅が実現するずいぶん前から、ポルトガルを訪れたいと考えていた。かつて日本と交流があった点に面白さを感じたのもあるが、何よりもアズレージョに魅かれた。雪降る日に生まれた自分は、パーソナルカラーなるものがあるとしたら寒色系だと常々感じている。深い青色を見つめていると、とめどなく心が安らぎ落ち着いていく。特に外壁がアズレージョで覆われている建物に憧れ、北部のアヴェイロやポルトに関心を持った。しかし、スペインからの夜行列車が着くのはリスボンであり移動時間の関係から、またポサーダに泊まりたいという欲も出たため、結果的に旅程に組み込むことが叶わなかった。今回の記事で紹介したとおり、訪れた範囲でもアズレージョを愛でることができたが、もっと触れてみたいという思いが残る。

この記事を書いている時、ポルトガルに思いを馳せながら 久しぶりにヴィーニョ・ヴェルデを飲んだ。完熟前のブドウを用いるため、スパークリングワインではないのだが軽く発泡している。アルコール10%未満と軽く、酸味がありさわやかな味わいが特徴で、自分の好みどストライクなワインである
併せて、ポルトガルの料理が美味しかったことも思い出す。自分の計算ミスにより期せずして食費節約旅行になってしまったが、なんとか終盤には郷土料理に舌鼓を打つことができた。それまで苦手だったコリアンダー(パクチーまたは香菜とも)が美味しいと感じられるようになったのもポルトガル料理のおかげである。大学時代、学生街のタイ料理屋でトムヤムクンにトッピングされていたパクチーを口に入れたのが最初だったと記憶しているが、元来辛いものが得意でないうえに 見ず知らずの香草を嗅いでゲンナリしてしまった。1999年にタイを旅して本場で何を食べても、パクチーだけは好きになれなかった。ところがどうしたことか、オリーブオイル香る魚介料理に合わせると、ピタリとはまるのだ。例えばフランス料理だったらパセリをトッピングするところに、ポルトガルではコリアンダーを刻む。大航海時代に持ち帰って取り入れた歴史香る味だなぁ、としみじみする。そして勝手なもので、一旦美味しいと感じるとポルトガル以外の料理にのっかっているのも平気になったのだ。パクチーが苦手という方、ポルトガル料理で克服できるかもしれないので、ぜひ挑戦してみてほしい なお、お店に用意がなくて食べられなかったバカリャウ・ア・ブラスは、代々木八幡にあるポルトガル料理店で機会に恵まれたのだが、同席したAちゃん・Bちゃん(ワインスクールで知り合った友人)はものすごく美味しいと喜んでくれた。
ただし、タコ料理をついぞ口にする機会がなかったのは残念だった。食べる習慣のある国が少ないなかポルトガル人は好んで食すと知り、タコ食に慣れ親しむ日本人として大いに興味あったのだが アズレージョも探訪したいし・・・今度はポルトガル北部に足を運びたいと考えてしまう、いつもの悪い癖で。一度訪れた国の再訪よりも新規開拓を優先する傾向にある自分なので、いつになるやら甚だ心もとないが、実現した暁には道行きを紹介したい。

 おしまい 



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