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poliahuの旅日記

これまでに世界43ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

ブルガリア篇 その4

2025年05月18日 | ヨーロッパ
旅も終盤に近づき、いよいよ首都ソフィアに向かいます。
この第4弾では、以下の地図の➓~⓬をまわりました。また、後の下線部の数字とも対応しています。


10・11・12 ヒサリャ ⇒プロヴディフ ⇒ソフィア (2024年8月24日)

7時過ぎに起きて朝食をとる。パンの種類が多くてテンション


夜はレストランとして営業している朝食会場、一角にはワイン棚あり。


バスの出発を待ちがてら、考古学博物館へ足を伸ばす。旧市街の中にあるが、前日お散歩した時にかすめていないエリア。

敷地に一歩入って、たわむれる子猫がたくさんいることに驚く。ヴァルナの公園もこんなだったっけ。

リュトン【獣角または動物の頭部をかたどった杯。B.C.11世紀にはペルシアでつくられ、古代にバルカン半島・ローマ一帯に広がった。素材は金属・石・木・陶製など様々】。これはピカピカの金製

別のを横からパシャリ このアングルのほうが全体のフォルムがつかめるかも。

あ、土器のランプを発見【4~6世紀制作】。イスラエルを思い出すな~

牧羊スタイルの男性。

織機と女性。こっちはマネキンじゃないのね

クケリというお祭りの格好らしい。衣服はともかく、マスクに釘付け
【Kukeri; キリスト教が広がる以前の時代にルーツを持つとされる伝統的な儀式。子孫繁栄や健康、豊かな収穫を願って冬(新年前後)に行われる。神話上の生き物を模したマスクをかぶった独身男性たちが通りに出て踊り、腰から吊り下げた鐘の音で悪霊を追い払い、幸運を招こうとする。この記事を書くにあたり調べたところ、ブルガリアに限らずもっと広い範囲で行われているらしい。また、マスクや衣装にもバリエーションがあるようで、毛皮でつくった毛むくじゃらの格好をしている画像も散見された。自分が目にしたマスクと衣装はかなり可愛いバージョンのようである】

博物館を出ようとしたら遭遇。可愛いがすぎる・・・惚れてまうやろ、犬派なのに


旧市街の中心部へ向かう道すがら、露店が出ていた。
手編み製品に、豆などの農産物。

手作りと思われる瓶詰めがズラリ。

フレッシュな果物も並ぶ。

最後に、ホテルの目と鼻の先にある聖ペテロ&パウロ教会に立ち寄った。

横から見るとこんな感じ(前日に撮影)。

お庭も丹念に整えられている。

きらびやかな内部。

民族衣装をまとう教会壁画は珍しいかも。


ホテルに戻り、荷物を持ってバスステーションへ。係員が無人ゆえ 貼り紙に書かれた時刻を信じるしかない状況は前日と同じ。が、既に来て待っている人がいて少しホッ
Cちゃんはその地元人らしき老女に話しかけた。プロヴディフ行きのバスを待っているのか、など世間話から入って身の上を聞く。女性が喋っているのであろうブルガリア語の音声をアプリが拾って翻訳するので、スムーズにコミュニケーションが進む。ウズベキスタンはブハラで若いタクシー運転手と会話が弾んだ時も思ったけど、翻訳アプリってすごいなぁ・・・どこに行っても、世界中の人と仲良くなれそう。
いや、私は使いこなしてないけど
ヒサリャ近くの村に住んでいるという老女が96歳ということにまず驚く。母方の祖父以外は90代まで生きていたけど、その歳で独り遠出はできなかったなぁ、すごい・・・
【ちなみにブルガリア人の平均寿命を調べてみたところ、WHOの2023年統計では75.1歳・世界第75位】
夫を亡くしていて、子どもは独立しているため一人暮らしになってしまったという。結婚してギリシャで32年暮らす長女には双子の娘がいるが病気だという。老女もかつてギリシャに3年暮らしていたらしいが、ギリシャの医療水準がブルガリアのそれよりも低いので心配であると。話しているうち彼女の目には涙が浮かんできて、何ともいえない気持ちになってしまった。明日の法事のために孫娘の家へ向かい、夕食は愛する者たちと共にすると言っていたので、ほんの少しでも寂しさがまぎれることを祈るしかない。

発車時刻をめがけて続々と人が集まって来て、バスは11時50分きっかりにヒサリャを発車した。
終点に近づくにつれ交通量が増え、結局1時間5分かかってプロヴディフ駅前に到着。
ここから15時33分発の列車に乗ってソフィアへ向かうので、コインロッカーがあれば好都合。ロータリーから駅舎に入って探すも見当たらない。
残るは2時間半、荷物を持ったまま観光するしかないと腹をくくる。

お目当ての場所まで2km近くあるので、タクシーに乗る。
地下にあるため一瞬とまどったが、降ろされた場所のすぐそばの階段を降りるとトラカルト文化センターだった【1980年代、地下道の工事中に発見されたローマ時代(3世紀)の邸宅跡。4世紀後半~5世紀初めに制作されたモザイクの床が広がる】。
入館料を支払い、受付に荷物を置かせてもらって館内を見学。概観はこんな感じ。なお、画像奥のガラス壁の向こうは現役の地下道である。

反対側からの眺め【4部屋から成り、列柱で囲んだ中庭もそなえていたことが分かっている】。

ここのメインとなるモザイク【六角形の中央に表されているのが平和をつかさどる女神Eirene(父はギリシャ神話の最高神ゼウス、母は掟の神テミス)。様々な色のタイル片を使用し、優美に仕上げられている。4mm以下の小片で構成するミニチュアモザイクの技法により、まるで絵画のような躍動感あふれる表情となっている】。

林檎のモザイクが可愛い。

真ん中のはイルカ


次のThe Bishop's Basilicaまで100mと離れていなかった。

エントランスを入ると、チケット売り場の前からモザイクが出迎えてくれる。第三の目的地The Small Basilicaとの共通入場券があることに気づき、すかさず入手。
さらに、ロッカーを発見。私たちのように駅で預けようとして果たせない人々がけっこういるんだろうか・・・
しかもかなり大型で、1つのブースに私たち2人分の荷物が余裕で収まった。長旅の観光客への配慮が身にしみるぅ

とにかくここは規模が大きかった。全体はこんな感じで、チケット売り場がある2から入場。
【313年にキリスト教が公認された後、4世紀のうちに建築された。幅36m・奥行き83m、ブルガリアにおける初期キリスト教の教会堂で最大規模を誇る。初期キリスト教の教会堂はたいてい市街の外に建てられたが、これは都市の中心広場の隣りにあったことから、布教の早い段階でこの地には既にキリスト教徒の一大勢力が存在していたことがわかる。
館内を埋め尽くすモザイクは2系統に大別される。最初期(1世紀~)のモザイクはシンプルで、黒・白・黄土色のみを使用した幾何学模様。4世紀後半以降の地中海一帯で隆盛したモザイクは赤・茶・緑・青が加わって虹のような色彩となり、鳥・花・果物などエデンの園を表す物体モチーフが出現する】

かつて教会の玄関間(ナルテックス)だった場所に、ここの中で最も著名な孔雀のモザイクがある(1つ上の画像、◎の部分)。
その周囲にもキジ、ツル、カモなど様々な種類の鳥が配されている。

孔雀をズームアップ。経年でやや褪せているとはいえ、色使いがリアルだわ~
【クジャクは不朽不滅を象徴し初期キリスト教が異教から取り入れたとされ、3世紀のローマのカタコンベ(地下墓所)から中世カトリック美術や初期ルネッサンス絵画に至るまでキリスト教美術に顕著なモチーフである。キリスト教を信じれば永遠の生命を得られる、と訪問者たちに伝える役割を果たした】

南の側廊のモザイク。画像中央の八角形の中にご着目ください【solar circleといって太陽を象徴している。元来は異教で用いられたデザインだが、初期キリスト教が取り入れたという】。

葉がスペード型にデフォルメされていて面白い。

中央の身廊部は崩れながらも原形をとどめている。


ガラス張りの遊歩道のおかげで、遺跡の真上にいるのだと実感。しかも上部をズカズカ歩けるなんて、幸せ至極


水色のタイルが際立つ。文字も出現。

説明板によると、画像右のウロコ状のは波を表現しているという。

画像左のも波なんだろうか・・・。てか、ここにもスペード型の葉っぱが
【ツタは冬でも緑の葉をつけることから、異教美術では不朽不滅を意味した。これを永遠の信仰の象徴としてキリスト教が取り入れたという】

北の側廊のモザイク。南のとはまた趣が異なっていて面白い。
ちなみに、鳥や壺を囲んでいるのはヘラクレスの結び目【古代ギリシャ・ローマ時代は子孫繁栄や結婚を意味するモチーフであったが、中世・ルネサンス期には永遠の愛や守護の象徴として用いられるようになった】。

なお、説明パネルがあったものの 時間切れで肉眼では見つけられなかったモザイクにも言及しておきたい。
ヒナの世話をする親鳥のモチーフは、教会が信者を守るという象徴とも捉えることができるらしい。

同定されていない植物はひよこ豆、そら豆、キュウリなどが推測されるというが、正解やいかに・・・
そういえば、トラカルト文化センターにも似たモチーフがあったなぁ(17枚上の画像、下をご参照ください)・・・同じ植物を表しているのか?? 
いや、上のはやや丸みがあってヘチマみたいな感じがするけど、どうだろう

これも鳥がいっぱいのモザイク。

北のエリアでまたしても牛頭の彫刻を発見。ブルガリアの中央部では、そこかしこにトラキアの残照を感じる。


道路沿いに700m東のThe Small Basilicaへ向かう。これも工事中に偶然発見されたという現場は、遠目にも鮮やかな外観に仕立てられていた。

教会堂と分かるように復元された内部【幅13m・奥行き20m。5世紀後半に建てられ、6世紀の終わりまで教会としての機能を果たしていたという】。

天井に近い窓から身廊のモザイクに光が差し込んでいる。

十字架をかたどった洗礼槽。深さが1.5mほどあり、これはもはや洗礼「盤」とは言えまい。
それにしても、形もだし 内陣の脇=教会堂の奥という場所設定も不思議・・・これまで自分が見てきた洗礼盤はたいてい入口の脇に置かれていたはずだが。何か意味があったのかも
【今回調べてみたところ、洗礼には➊浸礼=全身を水に浸す、➋滴礼=手で頭部に水滴をつける、➌灌水礼=手または容器で身体に水を注ぐ、の3種類あることが判明。初期のキリスト教では浸礼のために十字架型の浸礼槽を設けていた。独立した洗礼堂が建てられた時期を経て、いつしか形も変わり小さくなって教会堂の出入口付近に置かれるようになった。小型化の理由について幼児洗礼の一般化を理由に挙げる説もあるが、幼児洗礼は初期から行われていたと考える学者もいて見解が割れている。それだけを根拠とするには心もとないと感じるが、無関係でないのは確かだろう。幼児洗礼の影響もありつつ、一部の派閥を除いて滴礼や灌水礼が普及したことがその理由ではないかと個人的には考える。
なお、洗礼盤が出入口付近に移動した点につき、教会堂に出入りする度に目に触れて信者が初心を思い出すように と理由づける向きもあるようだが、もっともらしいようでいて説明になっていない気もする。洗礼は信仰生活の入口であるから教会堂の入口に据える、という説のほうが自分にはしっくりくる。
・・・ともあれ、自身の勉強不足が露呈してお恥ずかしい限り

そして、この洗礼所を取り囲むように鳩と鹿のモザイクが アングルの問題で写っていないが、鳩は1枚上の画像左上、鹿は同画像の右下にある(角が見切れている)。
【キリスト教で鳩は精霊の象徴である。新約聖書のヨハネによる福音書1章32節には、洗礼者ヨハネがイエスに洗礼をほどこした際の証言として「御霊が鳩のように天からくだってこの方の上にとどまるのを私は見ました。」と記されている。また、雄鹿は信者の魂を象徴する。十字架の近くの泉や洗礼盤から水を飲む姿で雄鹿がしばしば表現されるのは、キリスト教徒が信仰を渇望することの暗喩である。旧約聖書の詩篇42篇1~2節には、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私の魂はあなたを慕いあえぎます。」とある】


こちらは側廊。右のは花かごかなぁ、The Bishop's Basilicaでも同種のを見かけて気にはなってたけど(15枚上の画像、右上をご参照ください)。


来た道を戻り、The Bishop's Basilicaのロッカーから荷物を取り出す。駅へ向かうべくポリス3世通りのバス停脇で待つが、タクシーはスピードを緩める気配なくビュンビュン飛ばしていくばかり。あまり時間に余裕ないんだけどなぁ・・・つい苛立ちながら何気なく背後に視線をやると、脇道にタクシーが溜まっているではないか 
大通りは停まっちゃダメなんだわね。
ともかくつかまえることができ、列車に間に合いそうで心底ホッ
入線してきた列車に乗り込む。

15時33分に発車。慌ただしく過ごしたプロヴディフに車窓から別れを告げる。とにかく時計を見ながら動き、時間との闘いだった印象しかない
実は旅の計画段階でここに1泊することを考えなくもなかったが、限りある旅程の中で取捨選択した結果がこれだった(ヒサリャのバス発車時刻が事前調べより遅く、当初予定よりも大幅に巻くハメになったのも否めないが)。なお、モザイク好きの私たちはそれらに的をしぼって訪れたが、トラキア人の要塞跡やローマ時代の劇場跡・競技場跡、オスマン朝のモスクなど、見どころは枚挙に暇がない都市であることを一言付け加えておきたい。

なお、4人用ボックス席の私たちの向かい側は小学生を連れた教員と思われる人々だった(20代と30代と思しき男性)。着席後ほどなくして、ビールのロング缶で乾杯し始める2人。
あらら・・・この国ではその点厳しくないのかな、或いは見てはいけないものを目にしちゃってるのかな
網棚に所狭しと積まれたリュックサック・・・子どもたちは軽登山の帰りと思われる。

そして、窓の外は向日葵畑がこれでもかと続く。うん、徹頭徹尾ヒマワリの国・・・鮮烈な印象が刻み込まれた

窓から午後の陽が容赦なく射し込んでくるが、カーテンは備え付けられていない。Cちゃんが荷物に忍ばせていた薄手ののれんを拝借して結びつけ、当面をしのぐ。車窓を狭めることになったが、向かい側の彼らは特に異議がないようだった。
ブルガリア滞在も残り少なくなったので、友人たちへのハガキ書きにいそしむ私

19時5分、終点のソフィア中央駅に到着。
脈絡なく、駅構内に展示されていた車両。緑と赤は国旗を意識した配色なんだろうな~

首都だけあって、これまで見てきたこの国のどの駅よりも大きい。

ここから少々さまよった。予約してくれたCちゃん曰くホテルはトラムの停留所が近いということで、トラム乗り場に向かう。が、鉄道駅から乗り場までの道中はガラリと空気が変わってさびれているし、ホームにたどり着いたものの漂っている雰囲気に得体の知れない怖さを感じ、地下鉄で行こうと提案。
ところが地下鉄乗り場を探して迷い、見つけたものの乗り場へ向かう通路がこれまたおどろおどろしくて・・・一人ではなく、また暗くなる前で幸いだったと思うしかなかった。
地下鉄駅の構内は小綺麗で、改札内に入ってしまえば車内も含めて大丈夫なんだけど、たどり着くまでの過程がね

これからソフィアに向かわれる方で、中央駅からトラムまたは地下鉄を利用する場合は充分に気をつけてください。決して夜に一人で付近を通らないでくださいね。治安が良くないエリアとガイドブックにも書いてあるし、数十ヵ国まわってきた自分のアンテナが最大級のアラームを感知したので

M2線に2駅乗り、セルディカ駅で下車。地上に出ると、そこは過去と現在が交錯する空間だった。
画像右手前は14世紀築の聖ぺトカ地下教会、左奥が16世紀後半建立のバーニャ・バシ・ジャーミヤ【いずれもオスマン朝支配下で建てられ、異教扱いだったキリスト教の教会は目立たない半地下に置かれた】。

このアングルだと、低い場所にあることがより明確にわかる(翌々日に撮影)。

背後を振り返ると、旧共産党本部がそびえる。

トドール・アレクサンドル通りに沿って西へ進む。まもなく20時、陽が沈みかけている。
夏の旅ってこれだからいいよね~ 行動できる時間が長くてお得な気がする

フリスト・ボテフ通りにぶつかったら右折。なるほど、トラムが走っている。ほどなくホテルにチェック・イン。
一段落した後、夕食のために外出。めざす繁華街のヴィトシャ通りは、先ほど降りたセルディカ駅の南方面である。
夜の聖ネデリャ教会(画像左上に写るはトラムの架線)。
ちなみに、この向かいにある飲食店は膨大な席数を擁するにもかかわらず、外まで大行列していてビックリ

繁華街の両側にはお店がズラリと並び、通りは行き交う人でひしめいている。
経験上の一般論として、ヨーロッパの飲食店は夕暮れ時に空いているが、夜遅くなるほど混みあう。21時前につき案の定、目ぼしそうなお店は席が埋まっていた。
翌朝はリラ行きが決まっていて、日帰りツアーの集合は早め。サクッと食べ終えてホテルに戻ることを優先し、通りから覗いて空いているお店に飛び込む。絶対にブルガリア料理とこだわるわけにもいかず、なんとギリシャ料理店 野菜のグリルから食す。

ガリデス・サガナキ【オリーブオイルでガリデス(=海老)とチーズを焼いて(=サガナキ)、トマトソースで軽く煮込んだもの。フェタチーズを使うのが一般的らしい】。

これらにビールで、2人分55レヴァ(≒4,626円)。ルセやヒサリャと大体同じ、首都でこれなら決して高値ではないだろう。
入店時は他に1組だったのに、滞在中にあれよあれよと客が入ってきた。価格で敬遠されているわけじゃなさそうだし、空いている=不味い印象を与えるのが原因なのか 人が人を呼ぶの法則かも。

ホテルに戻る道すがら目ざとくリカーショップを発見し、晩酌用のフルボトルを購入。あれっ、既視感のあるセンテンスですねwww
品揃えが多くて迷ったが、ブルガリア産のシラー、1本11.9レヴァ(≒1,000円)。
22時半過ぎにホテルに帰着、交互にシャワーを浴びた後に開栓
翌朝は1km離れた場所に8時45分集合だというのに、日付をまたいでの就寝となった。ま、バカンス中だし


★ 中締め ★

この記事を書きながら、十字架型の洗礼槽を見たのは初めてだよね?!と不安になり、過去の旅を確認していたら・・・クロアチアはスプリットの洗礼室がヒット。
あちゃ~ なんと記憶が曖昧なことよ でも、今回のような地下を掘りくぼめる形式じゃなくて、空間にポンと置かれているタイプで床からの高さが1mあり、自分の身長ではクロスを実感できなかったんだもん・・・はい、言い訳ですね
閑話休題、次回はブルガリア篇の最後です。この国で最も有名な世界遺産といっても過言ではない、リラの修道院などを訪れます。お楽しみに

さて、前回の記事の末尾でもお知らせしたブログサイトの「引っ越し」の件です。今月中(2025年5月末まで)には引っ越し先を具体的にお知らせするため、このサイトに「ブログ引っ越しのお知らせ」というタイトルで記事をアップする予定です(自分の能力をオーバーしているため、このサイトを立ち上げてくれた友人に力を貸してもらうことになっており大船に乗った気持ちでいます。が、万一にも不測の事態が生じて、引っ越しの予定が遅れる可能性もゼロではありません・・・その場合にも、必ず情報をアップしますね)。
なお、引っ越しのドタバタで次の記事(ブルガリア篇その5)のアップはやや遅れて6月末になる予定です。引き続きご覧くださるようでしたら、新サイトをご確認くださいませ。
よろしくお願いいたします


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ブルガリア篇 その3

2025年04月18日 | ヨーロッパ
旅の中盤は以下の地図の➑~➓、すなわちブルガリア中部を巡りました。また、後の下線部の数字にも対応しています。


8・9・8・10 カザンラク ⇔スタラ・ザゴラ ⇒ヒサリャ (2024年8月23日)

この日は前夜に到着したカザンラクを観光後、温泉地のヒサリャに移動して泊まることになっていた。
7時に起床。予約してくれたCちゃんがこの旅イチのホテルと言うだけあって、朝食ビュッフェは品数多く見目麗しく並べられていて相当豪華




温かいものを提供しようという心意気が嬉しい。

肉団子入りのシチューが美味だった


9時にホテルを出発。トラキア人の墳墓へ向かう道すがら、セヴトポリス広場を通過【毎年5~6月に開催されるバラ祭りでは、開会式・閉会式の会場となる】。
薔薇の植え込みに囲まれるようにしてそそり立つモニュメント。前夜は薄暗かったためスルーしてしまっていた・・・

広場周辺のカフェで朝食を楽しむ人々を横目にイスクラ通りに入り、さらに北東へ数百m進む。墳墓のある公園へは階段をのぼって行く。

猫を発見。何かを狙っているらしい。

1944年、防空壕を掘っていた兵士により偶然 トラキア人の墳墓が発見された。当時はこんな感じだったという(説明パネルを撮影)。
【B.C.4~3世紀に遡ると推定され、ユネスコの世界遺産に登録されている】

こちらが現在の様子。保存のため建物で覆われ、内部に入ることはできない。

が、その素晴らしさを後世に伝えるため、オリジナルの墳墓から1分もかからない場所にそっくりのレプリカが作成され、見学できるようになっている。

墳墓の全体像【前室・羨道・玄室で構成される。長方形になっている羨道は1.96m×1.12m、高さは2.25m。玄室は直径2.65m・高さ3.25mで蜂の巣あるいは釣鐘のような形をしている。羨道からは粘土製器具と生贄になったと思われる馬の骨が、玄室からは2体の遺骨に加えて 金をほどこした冠やアンフォラ(2つの取っ手付きの壺)などが発掘された】。

前室を通って奥へ進んで行く。4枚上の画像と見比べてくださいね~

来た方角を振り返る。ちなみに画像中央奥はレプリカ施設の入口である。

この羨道の天井は急峻な三角形であり、首が痛くなりそうな角度に戦闘場面が描かれている。てか、壁の亀裂や汚れまでオリジナルそっくりに再現しているのには舌を巻く。
【兵士たちはトラキアとマケドニアの服装をまとっているという。被葬者ロイゴスの父とも祖父とも曽祖父ともいわれるセヴトス3世の頃からマケドニアとは緊張状態にあったらしいので、現実を反映しているのだろう】


最深部、玄室の天井には360度にわたる壁画あり。
そのやわらかな描線や抑えめの色彩が私の心を捉え、この国へ導いた。記事その2で紹介したスヴェシュタリはトラキア王の墓のカリアティードの彫刻と同様に。

この絵は、亡くなったトラキアの王ロイゴス(下の画像右から2人目)が葬送される場面を描く。ディテールはもちろん違うが、スヴェシュタリのトラキア王の墓の壁画とテーマは同じ。
【画像右端の王の妻は夫の死にあたり殉死し、この玄室から見つかった遺骨は王夫妻と推定されている】

 縁に描かれている牛頭のモチーフ・・・スヴェシュタリでも見かけたぞ。あっちは石の彫刻だったけど【この記事を書くにあたり調べたところ、埋葬者の権力を示すらしい】。

なお、この施設の売店にはハガキがたんまり用意されていた。ここまで肩すかしをくらわされてきた反動もあり、ホクホクしながら入手

次は500m西のバラ博物館を目指す。階段を降りて公園を出た後、橋を渡るまではもと来た道である。
ふと、道沿いにギャラリーを発見。先ほど目にした玄室の壁画をベースにしているっぽい。

その入口には犬が横たわっていた。精悍な顔つき、ライトブルーの瞳の色が昔飼っていた愛犬を彷彿とさせた(犬種は違うけど)。

入口の全体像(後刻、付近へ戻って来た時に撮影)。トラキア人の壁画の他に ダ・ヴィンチ、ピカソ、ゴッホなどの著名な作品をアレンジしているようだ。

スタラタ川に架かる橋の欄干も玄室壁画がモチーフになっている。5枚上の画像上部、半円の内側左にご注目ください。
【葬儀の際に戦車競技を開催するしきたりがあったことから、玄室の天井に描かれたらしい】

民家が並ぶ裏通りを西へ進みながら、丹精込めて手入れされた庭先の植物たちに癒される。



大通りに行き当たり、左折するとバラ公園だった。その一角にあるバラ博物館は移転して数年の新しい建物で、一歩中に入るとガラス張りで明るい。
中庭では、子ども連れの団体が説明を聞いていた。
【カザンラク; 北をバルカン山脈、南をスレドナ・ゴラ山脈にはさまれたブルガリア中部は薔薇の谷と呼ばれ、ダマスクローズ及びそれを原料とするローズオイルやローズウォーターの世界的産地である。その中心であるカザンラクは、ローズから精油を抽出する蒸留窯=カザンを地名に冠する。5月中旬から6月にかけて行われる薔薇の収穫を祝うバラ祭りは100年以上の歴史を有し、民族衣装に身を包んだ人々が薔薇を摘み、伝統的な音楽に乗って民族舞踊を披露する】

料金を支払って入場すれば、ローズオイルの製造工程を学んだり用具を目にしたりできるが、先を急ぐ私たちは手前の売店だけ物色することに。
薔薇の写真にあふれたハガキと、ローズオイルを購入。シンプルなガラス容器だが、ブルガリアの薔薇とちゃんと書いてあり2mlで1レフ(≒84円)。この後いくつものお店で見かけたが、ここが最安値だった。香りは好みもあって難しいが、バラマキ用のお土産にもいい


次はクラタ民俗博物館へ。実は墳墓の近くにあるので、行ったり来たりに時間を割いた。計画性に少々欠けたかもしれない
ここでも薔薇が出迎えてくれた。

中は2つのパートで構成されているのだが、まずは村の家屋へ。下の画像奥がそれ。

納屋には唐箕などの農具があった。

テラスには糸紡ぎなどの道具。

リビング。その中央には木製のゆりかご。

キッチン。

敷地内でくつろぐ猫。

第二のパート、都市の家屋は2階建て【ローズオイルで財を成した人物が19世紀に建てた家】。

2階の廊下。

寝室。こちらのゆりかご(画像左)は金属製か。

台所。さっきの村の家屋でも思ったが、日当たりがあまり良くない。食料の保存とか、何か意味があったのか

リビング。壁沿いに座るような配置は村のそれと共通している。

都市の家屋の1階部分が博物館のオフィスになっていて、最後に薔薇のジャムとリキュールをふるまってくれた。

辛党につき、薔薇のリキュールを購入。200mlで10レヴァ(≒841円)。
いつかこの旅を思い出しながら味わいたいと思いつつ、いまだ開けていない(この記事を書くにあたり撮影)


街の中心部へ向かいながら、目につく土産物屋に何軒か入った。友人たちへのお土産はバラ関連にしようと決めていたので、ここぞとばかりに
こちらのお店では、バラの香りのリップクリームを購入(1つ3レヴァ≒252円)。

再びセヴトポリス広場に戻った。音楽モチーフの街灯が可愛い

なお、今回私たちがまわったのは下の画像のピンク色の丸で囲んだ部分である。
カザンラクの西、下の画像中央でひときわ目立っているのはかつてのセヴトポリス【B.C.4世紀末、トラキアの王セヴトス3世が築いた王宮と神殿。B.C.3世紀初めまで栄えたが、ケルト人に襲撃されたのち放棄された。第二次世界大戦後、コプリンカダムの建設に伴いその底に沈んだ。なお、セヴトス3世は先ほど訪れたトラキア人の墳墓に埋葬されたロイゴスの父または祖父または曾祖父】。
そしてカザンラクの北方はトラキア王の谷とよばれ、墳墓が無数に存在するという。日本で流通しているガイドブックではあまり言及しておらず、自分たちも含めて訪れる日本人は少なそうだが・・・古代トラキア人の繁栄ぶりは想像に余りある。


12時半、聖キリル・メトディー通りでタクシーをつかまえる。目指すは30㎞南東にあるスタラ・ザゴラ。ここを訪問することになったのは偶然の導きによる。
実はこの日の宿ヒサリャまでの公共交通機関が不便なため、泊まらずに日帰りツアーで行けないものかと現地発着ツアーを検索していたところ、パーソナライズド機能によりPC画面に表示されるようになったスタラ・ザゴラのモザイクに見惚れてしまった。Cちゃんに相談し、モザイク好きの私たちは訪問を即決。カザンラクの観光を午前中で済ませて向かうことにした。
【スタラ・ザゴラ; 新石器時代には人が住んでいたという。B.C.6世紀にはトラキア人が都市を築いた。1世紀にローマ帝国に征服された後、2世紀初めにトラヤヌス帝がここをアウグスタ・トラヤナと命名、交通の要衝として発展した。9世紀には第一次ブルガリア帝国の支配下に入るが、14世紀にオスマン帝国が侵略。露土戦争の後、19世紀にブルガリアに復帰した】
40分かかって町に入ったところで降ろしてもらい、お目当てのローマの家(Late antique mosaic from a Roman private house)を目指す。あっけなく見つかったのだが、閉まっていた(下の画像中央が入口)。

休館日とは不運だなぁと嘆きつつ、ほど近くの地域歴史博物館(Regional museum of history)へ向かう。入館料を払おうとして、共通券の存在にはたと気づく。
窓口の係員に確認したところ、先ほどのローマの家は学芸員による案内で見学するシステムになっているという。自分が読んだガイドブックにはスタラ・ザゴラ自体が載っていないので事前情報に乏しかったのだが、どうにかなった・・・ホッ なによりも、愛しのモザイクに正対できるのがうれしい。
窓口の方の連絡によりほどなくしてやって来た学芸員とともに博物館を出て、3分ほど歩いてとんぼ返り。
鍵を開けてもらい、階段で地下へ降りていく。事前に釘を刺されたので覚悟していたが、とてつもなく湿度が高い空間だった。画像右上が学芸員。涼を取ろうと扇を手にしている。
そう遠くないとはいえ、わざわざ博物館まで行って申し込まないと見学できないなんて・・・と頭をかすめていたが、中に入って納得。常駐するには過酷すぎる環境だわ

画像中央には漁をする人と魚、その下は動物たち。八角形のは井戸だろうか。

ここにも魚がたくさん。

そして・・・この鹿に会いたくてこの町へやって来た。可愛すぎる
背景のブドウの木に、緑の色使いが効いてるな~


再び歴史博物館へ足を運び、見学を開始。エントランスのある階で目についた、土偶のような物体。

ゴールドでつくられた装飾品。

古代のブルガリア人をイメージしたと思われるマネキン。隣りに座って撮影どうぞのあつらえなのだが、勇気が出ないなぁ

階下に降りるとローマ時代の石畳が広がり、当時を彷彿とさせる。
【この場所を狙って博物館を建設したのではなく、その工事中に偶然にもローマ帝国時代に町の南門と北門を結んでいたメインストリートを発見したのだというから驚くばかり

大通りの脇、家屋があったと思われる場所の床にはモザイクが。

あっ、スヴェシュタリの墳墓で見かけた牛頭の彫刻がここにも

グラディエーターの墓石、3世紀制作【グラディエーター; 古代ローマ期、見世物として観客の前で戦った剣闘士】。

オルフェウスの彫刻、3世紀制作【オルフェウス; ギリシャ神話の英雄で、詩と竪琴の名手。父はアポロンともトラキア王のオイアグロスとも。ミューズ(学芸の女神)である母カリオペの影響を受け、その竪琴は鳥獣草木を魅了したという。妻エウリュディケを亡くすと冥界にくだり、竪琴で冥王ハデスを篭絡し妻を連れ帰る許可を得るが、振り向いてはならぬという交換条件を守れず果たせなかった。ひとり現世に戻ったオルフェウスは妻を思うあまり女性に興味を一切示さず、トラキアの女性たちの怒りを買い八つ裂きにされ川に捨てられた】。
この記事を書くにあたり調べて知ったのだが、トラキアに縁の深い神だったのね・・・

ディオニュソスの彫刻、2~3世紀制作【ディオニュソス; ギリシャ神話における豊穣と酒の神。ゼウスの子で、長じて葡萄の木を発見しその栽培法とワインの製法を普及させたという。ギリシャより北方に位置するトラキアの陶酔的な豊穣神信仰を背景に成立したとされ、オリンポスの神々とは異なる性格を有する】。
この神もトラキアがバックグラウンドなのねぇ、知らなんだわ

トラキア人の騎乗者、2~3世紀制作。

かなりサイズの大きいモザイク。

あでやかな色彩で立体感がすごい。

何フロアもあるこの博物館、真剣に見たら何時間もかかりそうだった。が、ほどほどで切り上げて去ることに。
博物館の目の前にもローマ時代の遺跡が広がっていた。

ときに15時前、さすがに空腹をおぼえて自販機でジュースを購入。こーいう時の炭酸ったら・・・のど越し最高

さて、この町の地図も持っていないので 目に見える範囲でタクシーを探す。大通りは交通量が多く停まってくれそうにないので、脇道に入ってみる。路上駐車しているタクシーを見つけてダメもとで声をかけたら乗せてくれた、ラッキー

帰路は30分で到着。ホテルに預けた荷物を取りに戻ったついでに、両替所はないかとフロントの女性に尋ねる。手持ちが心細くなっていたが、この日泊まるヒサリャは小さそうな町で見当たらない可能性があるし、翌日はソフィア到着が夜のため、ここで補充しておきたかった。
言われたとおりに歩いて行くと、ホテルのほど近くの大通り沿いに間口の狭い両替屋さんを発見。ん~ これは教えてもらわないとダメだわ、自力では見つけられないな。
窓口にいた老夫婦にどこから来たのと聞かれ日本と答えたら、ニコニコしてくれてとても感じが良かった
懐が暖かくなったところで、ヒサリャへ向かうためホテルのフロントにタクシーを呼んでもらう(事前に調べてはみたものの、結局はタクシーで移動することにしたのだった)。
スタラ・ザゴラ往き帰りのタクシーがわりと簡単につかまったので軽く考えていたのだが、フロントの方は眉根を寄せた。どうやら長距離の片道というのがネックらしい。清掃スタッフの女性と何やら会話すると、今度はその女性が電話をかけ始めた。バックヤードに姿を消し、数分後に出てきた彼女は制服から私服に着替えていた。
フロントの方曰く、清掃スタッフの夫がタクシー運転手なんだそうだ。ただしこの日は非番のため自家用車での移動になるが、ヒサリャまで運転してくれるという。なんてありがたい 
かくして助手席に清掃スタッフの女性、後部座席に私たちが座り4人で出発した。女性は夫の手を握り、ひっきりなしに話しかけている。ブルガリア語の会話はもちろん分からなかったが様子から察するに、休日に渋々呼び出された夫の労をねぎらっているらしかった。
結局ヒサリャには17時に到着。カザンラクを出たのが16時5分前だったので、1時間強といったところ。料金は2人で90レヴァ(≒7,569円)。カザンラクとスタラ・ザゴラの往復(計1時間10分)で支払ったのが2人分91.8レヴァ(≒7,720円)なので、妥当な額だろう。

ホテルにチェック・イン後、まずは温泉へ。バスローブで館内を歩いてもよいとのことだったので、部屋で着替えて向かう。
温泉の一角にあるロッカーに荷物を預けて鍵をかけるのは日本と同じだが、しきたりの違いから水着着用でないとダメで、スパ施設といった雰囲気。

こちらは泳げそうな広さ。水温が低めで、長時間 肩まで浸かるのは難しかった。

画像右、モザイクをかけたCちゃんが入っている浴槽は温かくて気に入った

サウナも備えられていた。

30分近く滞在したが、すれ違ったのは3人のみ。翌朝の朝食会場の埋まり具合からしてそれなりに宿泊者がいたはずなのだが、利用した時間帯ゆえか閑散としていたのが意外だった。
なお、このヒサリャのホテルだけは自分がリクエストした。ブルガリア旅行について検索していた時に、現地取材したライターの紹介記事に偶然ヒット。もともと温泉好きなのもあり、ガイドブックに掲載されていないヒサリャに興味を持ったのが始まり。宿泊サイトで他のホテルも調べてみたが、屋外に浴槽を配置するのが主流なようで、いかにもプール然としていて自分好みではなかった。記事のホテルに泊まりたいと思ったものの、入国以後の移動手段などを確保して8月23日宿泊が確定した頃には予約が埋まっており、やむなく他のホテルを予約した。すっかりあきらめていた自分だったが、Cちゃんは粘り強くサイトをチェックしてくれていて、キャンセルが出たタイミングで即おさえてくれたのだった。わ~い

翌日はバスでプロヴディフに移動することになっていた。フロントの男性に尋ねると、時刻表の用意はないからバス・ステーションで確認が必要と告げられ、場所を教えてもらう。
18時半にホテルを出てバス・ステーションへ向かう。歩いて5分とかからない、ラッキー
時刻表を見ると、最も早いのが11時50分発だった・・・日本でネット検索した時には、もっと早い時間帯の便もあった気がするのだが 念のため係員に確かめようにも、ガラス張りのステーションの建物には鍵がかかっていて無人。書かれている通りの時刻を目指して来るしかないね、が我々の結論。

頭を切り替えて、まだ陽が落ちていない街をそぞろ歩くことにする。ホテル到着の直前、車窓から見えた遺跡を間近に仰ぐ。

野生らしき葡萄を発見。ヨーロッパで、ワインは造られるべくしてつくられてきたんだろうな・・・

旧市街の中心部にて。ダチョウのプランターにキュン

ぬるめの温泉が湧き出す蛇口があった【2世紀末~3世紀に在位した皇帝が訪れたともいわれ、ローマ帝国時代にはすでに知られていた名湯ヒサリャ。泉源は20を超えるという】。

脇道に入り南下していくと、いにしえの遺跡が出現。

ローマ時代の浴場跡。ずいぶん修復の手が入ってるな・・・


さらに南下した場所にも温泉が流出するスポットがあり、これも程々の温度。Lady’s Raindropというのだそうだ。

さらに南下したあと東へ進むと、Camel Gateに到着。アーチの上の角状のを2つのコブにたとえて、ラクダなのだろうか・・・
ちなみに、翌日訪れた考古学博物館の売店で この門を描いたハガキを売っていた。この町のシンボルのひとつなのだろう。

来たのとは違う道を北上し、レストランを目指す。ホテルのほど近くにあるステキな感じのお店は満席で振られたので、別の場所へ。
このお店は新しそうで、テラス席は客でかなりにぎわっていた。室内にも席はあるのだが、こぞってテラス。ヨーロッパあるあるだよなぁ
画像右中央、木々の向こうに今や遺跡となっている要塞壁がチラ見え。このレストランは旧市街のわずかばかり外に位置しているのだった。

ガストロノミー・サラダ。

仔牛ほほ肉のグリル、セロリのソース添え。

ブルガリア料理というよりは、欧風モダンにアレンジされていた。ワインは安くなかったので、ビール(Tuborg/500ml)だけ飲んだ。

22時過ぎ、ホテルに帰着して交互にシャワーを浴び、晩酌タイム。実はヒサリャの街歩きの途中で抜け目なくお店を見つけ、アルコールをゲット
山脈のイラストに魅かれたビール、500mlで2レヴァ(≒168円)。

飲む前に撮り忘れ、翌朝撮影したカベルネ・ソ―ヴィニヨンは375mlで4.2レヴァ(≒353円)。


★ 中締め ★

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、goo blogのサービスが11月に終了することになりました。寝耳に水で、率直に言って驚いています
別のサービスサイトに「引越し」するつもりですが、現時点では時期が未確定です。詳細が決まったらお知らせしますね。

しばらくは新規投稿できるそうなので、ひとまず来月(2025年5月)はこちらのgoo blogに新しい記事をアップする予定です。
というわけで、次回はプロヴディフを経由して首都ソフィアに向かいます。またお会いしましょう
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ブルガリア篇 その2

2025年03月16日 | ヨーロッパ
旅の第2弾では以下の地図の➋を出発して、➌~➑をまわりました。なお、後の下線部の数字にも対応しています。


2・3・4・5 ルセ ⇒スヴェシュタリ ⇒シューメン ⇒ヴァルナ (2024年8月21日)

7時過ぎに起き、ヴァイキングの朝食をとる。テラス席に座ったのだが、まもなく近くの席にやってきた人がタバコを吸い始めた・・・アンラッキー

エレベーターホールにある扉を開け、ベランダに出てドナウ川を眺める(南西の方角)。

北東は前日に国境越えの橋を渡ってきた方角で、画像右奥には工業地帯が垣間見える。


この日はチャーターしておいたタクシーでスヴェシュタリを観光した後、シューメンまで連れて行ってもらうことになっていた。前日にブカレストから国境越え&イヴァノヴォへの往復をお願いしたのと同じタクシー会社なのですっかり安心していたが、10時にホテルでpick upの約束なのに時間を過ぎても現れない。いてもたってもいられずロビーを出てホテルの入口に立ってみたが、一向に来る気配がない。
ホテルのフロントの方に協力していただいてタクシー会社に電話してもらったところ、15分遅れでやって来た。初老のドライバーは別のホテルで私たちを待っていたという。タクシーとホテルを予約してくれたCちゃん曰く、当初は別のホテルに予約を入れていて変更の連絡をしたのだが、その情報がどこかで止まっていたらしい。ま、結果よければ全て良し

ルセからスヴェシュタリへは東へ50㎞ほど。道中の車窓で私たちの目を釘付けにしたのは、前日同様にヒマワリ畑だった。ルーマニアだけでなく、この国でもたくさん栽培しているらしい。何枚もピンボケ写真を生産した後、なんとか撮れたのがこれ。旬を過ぎたのか暑さにやられたのか、頭を垂れた姿である。
【この記事を書くにあたり調べたところ、ヒマワリの生産量世界1・2位をロシアとウクライナが争っていて、ルーマニアとブルガリアも10傑に名を連ねていることが判明】

1時間20分でスヴェシュタリに到着。メインであるトラキア王の墓は、ガイドによる数人ずつの見学しか認められていない。先着の待ち人がいてくれたおかげで、私たちはすぐに見学することになった。こちらが入口。
【豊富な水源に恵まれ重要な交易路につながるこの地は、B.C.3世紀前半には何千人もの人口を有するゲタイ(古代トラキアの一部族)の首都として繁栄した。ゲタイの王ドロミケテス(B.C.280年没、推定30~35歳)とその妻が埋葬されている。墳墓は直径70m、高さ11.5m】

そのそばには実をつける木。

墳墓は厳重に保護されているため、荷物は鍵付きのロッカーに預け、靴にはカバーをかけて入場することになる。

内部に入る前にガイドによる説明があり、パネルや発掘品が展示されているのだが、墳墓内は一切の撮影禁止 
しかし画像が皆無では想像を膨らませようもないので、ビジターセンターでもらったDVDからCちゃんがスクショしてくれた画像を以下に載せる。

トラキア王の墓 玄室の彫刻、これが私をこの国へ呼び寄せた。
ほんのわずかではあるが、一部に彩色が残っているのを確認できた。顔だちが一体一体異なるのもいい
【B.C.3世紀末~半ば築、ゲタイの文化とヘレニズム文化が融合している。石造りの羨道(墳墓の最深部へ導く通路)・前室・玄室(遺体を安置する空間)という3部構成のうち、玄室には2つの棺を取り囲むように10体のカリアティードが彫られている。カリアティードとは、古代ギリシャの神殿建築に淵源を持ち、円柱に代わって梁を支える女性をかたどった彫刻。アテネのアクロポリスにあるエレクテイオンが最も有名な作例】

ここのカリアティードは他に類例のない半人半植物だという。植物であることを示すのが下半身のこの部分。一見スカートのようにも見えるが、花のがく片を逆さにした表現と解釈されている。

玄室の壁の上部には鉛筆画と見紛うような壁画が残っている。これが今日まで失われず守られてきてよかったと、心うち震えるかそけさである。
【壺・槍・刀・盾を手にする4人の従者、神格化された支配者ドロミケテス、彼に月桂冠を授けようとする女神が描かれている。なお トラキア人の死生観は独特で、死後も魂は消滅することなく幸せな場所へ移るものと信じていた】

時計を見ていたわけではないが、内部には10分もいられなかったと思う。ガイドに促され、後ろ髪引かれつつ去らねばならなかった。内部の室温を保つためには致し方ないんだけど・・・許されるのならば、いつまでも見ていたかった

墓を出たところで解散。私たち2人はガイドさんに先導され、他の墳墓に向かう。王の墓のみと、それプラスαの2つの料金体系があり、せっかくだからとプラスを選んだ私たち。
ちなみに、スヴェシュタリの全体図はこちら。私たちがまわったのはピンク色の丸で囲んだ部分で、その中の最も大きいオレンジ色のマークがトラキア王の墓である。
【この全体図に示されている一帯は、先史時代~中世にわたる140以上の遺跡を擁する。1982年に前出のトラキア王の墓が発見されると、その数年後には世界遺産に登録された】

2番目に入場したのはこちら。かまぼこ型の金属で覆われた部分にいざなわれた(ここも内部の撮影禁止)。ガイドさんの説明によるとB.C.9世紀につくられたが、B.C.3世紀前半の地震により崩壊してしまったという。石造物の断片が転がる空間にトラキアらしい特徴があったかと問われれば首をひねるしかない・・・

3番目に入場したのがこちら、青い扉を入る。

ここも内部の撮影禁止だったので、ビジターセンターでもらったカードを撮影して載せる。
内部への入口は1m強しかなく、大人はかがむしかないサイズ【下の画像の扉は新しいものに変わっているが、元々は石で閉じられていた。そのようなスタイルは古代トラキアで類例がなく、小アジア(アナトリア)の影響が見てとれるという】
中には入れず、ガイドの説明を聞くだけだった。曰く、先ほどの墳墓と同じくB.C.9世紀のものだが、こちらは地震の被害を受けなかったらしい。人間の骸骨や生贄と思われる動物の骨などが発見されたという。プラス料金を支払ってこれか・・・なんだかコスパ悪い気がする。中に入れてもらえるなら、全然違うんだけどなぁ

出たところでガイドと別れ、周囲を散歩することに。墳墓の周囲には、とりどりの草花が顔をのぞかせていた。

タンポポ。綿毛をつけているものも。


先ほどまでいた墳墓を見晴らす。

更に道沿いで見かけた花々。


いわゆる支石墓タイプのお墓が屋根で保護されている。
【これもプラス料金で入場した墳墓と同じくB.C.9世紀のもの。板状の石でつくった棺の中に死者を納めて地中に埋め、さらにその上を別の石で覆っている】

マメ科の植物に、アザミ系


やはりトラキア王の墓はひときわ大きい。
てか、こんな光景に既視感アリ。韓国は慶州の大陵苑もこんな感じだったなぁ・・・時期はブルガリアのが何百年も前、断然早いけど。

ひとまわりして、最初にタクシーが停まった場所に戻った。その脇のビジターセンターに入ると、パネルによる説明と売店があった。
マネキンはトラキア人を想像・復元したものか

売店でハガキを探すと、撮影できないためか墳墓内部のは売れに売れていて、1枚しか買えなかった。イヴァノヴォがよみがえる・・・この国では8月下旬に在庫が切れがちなのか
ビジターセンターの前には郵便ポストもあった。

乗り込む前に、タクシーを撮影 2日間、この会社にはお世話になった


結局スヴェシュタリで1時間半過ごし、13時に出発。
シューメンまで50㎞南下する道中、引き続きヒマワリ畑に目を奪われた。

1時間余りでシューメンの中心部に入ると、行く手にそびえる丘の上に要塞が見えた。アフトガーラ(バスステーション)で降ろしてもらい、ドライバーさんとはお別れ。
この日の宿があるヴァルナ行きバスの発車までたっぷり時間があったが、要塞へ行くには足りない。2階建てのバスステーションを上から見下ろしてみる。

バスステーションに隣接する食堂でビールを注文し、飲みながら時間をつぶす。ここシューメンの地ビールであるシューメンスコを求めたら、置いてないと
やむなくカメニツァにした。これもシェアの多い銘柄、初めてありつけて満足

バス乗り場が明確に示されていないため、待ち合い客の動きを観察しつつ今かいまかと待った。バスステーションの様子はこんな感じ。

結局15時45分に出発、シューメン滞在はたったの1時間半。単なる通過地点になってしまった
【公共交通機関を極力使いたいと思いつつ、スヴェシュタリはそれのみでのアクセスが不便である。全体の旅程を勘案すると この日のうちにヴァルナに着く必要があり、タクシーを利用ついでに交通の要衝であるシューメンまで乗せてもらうことにしたのだった】

80㎞東のヴァルナへは1時間20分ほどで到着【ヴァルナ; ブルガリアの海の首都の異名を持ち、国内で3番目に多い人口を擁する黒海沿岸の都市。ビーチリゾートのひとつ】。
バスステーションから宿のある海岸付近までは距離があるので、タクシーをつかまえた。
個人経営のゲストハウスだったため、住所を頼りにドライバーに探してもらってなんとか到着。門を入り、インターホンを押してしばらくするとオーナーのおじちゃんが階上から下りてきた。エレベーターはなく、階段をのぼって4階の部屋に案内された。扉を入ると2畳くらいのスペース(前室?)があり、左手にトイレ&バス、中央奥にダイニングキッチンとベッドルームが一体化した20畳くらいの空間が広がっていた。全面窓で、すこぶる見通しがよい。
古いアパートメントをコンドミニアムに転用した感じ。どちらかというと、連泊する海水浴客がターゲットなんだろうなぁ
オーナーは部屋の設備や鍵についてあれこれ説明し、せかせかと去って行った。

明朝にはここを発つので、すぐに出かけねば。水着の上に服を重ねて街に飛び出す。夏で日が長いのが幸いである
海岸の手前に広がるプリモルスキ公園では、子どもたちが声をあげて遊びに興じていたり、演歌のように聞こえる歌謡曲をマイクで歌う人がいたり。かと思えば、ふと目に入った植え込みの陰にはホームレスと思われる家族が座っていたりして、なかなかに雑多な様相を呈している。
海岸沿いの道に出ると、人出は少なくない。海辺には猫が多いと聞くが、ここも例外ではないらしく集結していた。

ビーチ沿いに北上していく。1998年のトルコ訪問以来、久々に間近にする黒海である。


私たちの目的は海水浴ではなく、海沿いの公共露天風呂だった
Cちゃんが情報をゲットしたこちら、水着を着ていれば誰でも無料で利用できる。下の画像手前の屋根の下が男女別の更衣室になっているが、扉はなく壁に囲まれた2畳くらいのスペースがあるだけ。鍵付きのロッカーなど勿論ないから更衣室の外の棚に置き、湯船につかりながら荷物を見張る感じ。露天風呂からあがったら宿に直帰するつもりで財布やパスポートなどは部屋に置いてきたが、デジカメと部屋の鍵は貴重品になってしまう。

別の角度から露天風呂をパシャリ 丁度よい温度でもあり、のんびり長湯をする人々が多かった。

持参したタオルで手足を拭いた後、濡れるのもかまわず水着の上に再び服を着て、来た道を戻る。こんなトレインも走っていた。

途中でビールを飲んだきりなので、さすがにお腹がすいている。夕食はどこで食べようか・・・ひしめきあう飲食店を物色しながら歩いていると、眺めの良さげな2階建ての食堂に行きあたった。入口に立っていた呼び込みの女性店員にメニューを見せてもらうと、値段は問題なさそう。店内はまだ空いていたが念のため、20時に必ず来るから、と名前を告げて予約。

部屋で水着を脱ぎ捨ててお店に戻ったら、呼び込み係は交代していたがちゃんと引き継がれていて、すんなり通された。案の定混み始めていた店内で2階の窓際席を確保できたのは、あのタイミングで予約した功名だろうと思っている
私たちの座席からの眺め。ビーチに立てたパラソルの下にも1階席があるようだった。

昼間に振られたビール、シューメンスコにまみえる。ワイン党の自分だが、暑い時にグビッと飲むビールはたまらない

ミートボールのトマトソース煮込み。

イカのグリル、ディル&レモン風味(ピンボケでごめんなさい)。スライスしたレモンがしっかり入っていて、爽やかな味わいだった。

タリアテッレ・イル・ディ・マーレ。オイルベースと思い込んでいたら、クリームソースだった。意外だったけど、美味ければ全てよし

魚介に合わせて、ロゼワインをデキャンタで追加。

そうこうしているうち、黒海に陽が沈んだ。う~ん、特等席

さらには花火まで。打ち上げ場所はかなり向こうのようだが、恩恵にあずかってラッキー


お料理、景色もろともに満足して席を立つ。宿までは10分弱だが、途中に見かけたリカーショップでペットボトルの水(1リットルで1.4レヴァ≒118円)を購入。あいにく50レヴァ札しかなかったが、赤いアロハシャツにグラサンの店員は嫌な顔ひとつしなかった。うれしいなぁ

宿に着いたら22時をまわっていた。交互にシャワーを浴びた後、晩酌タイム
実はこれ、前日にルセで買ったものだった。見学できなかった神殿と道路をはさんで向かい側に目ざとく酒屋を見つけ、フラリと入ったところ国内外のワインを多種そろえていた。もちろんブルガリア産、どうせなら訪れる場所のがいいよね、とトラキア渓谷産のを購入【バルカン山脈とロドピ山脈にはさまれた一帯で、カザンラクやプロヴディフなどが該当する】。
値段もピンキリだったが、普段使いなので中庸をセレクト、しめて7.5レヴァ(≒630円)。ワイングラスはこの部屋に備え付けのを借用。


5・6・7・8 ヴァルナ ⇒ネセバル ⇒ブルガス ⇒カザンラク (2024年8月22日)

前夜が0時過ぎての就寝で惰眠をむさぼっていると、CちゃんからのLINEで7時過ぎに起こされた。朝に強い彼女はひと足早く起きて海辺で日の出を見た後、全然方角の異なる大聖堂まで出かけ、それらの画像を送ってくれたのだった。
ゲストハウスに朝食は付いていないので、戻ってきたCちゃんが道中で見かけたというベーカリーまで出かけた。ケーキなど洒落たもののほうが種類豊富だったが、やはりパンにする。


テイクアウトして部屋にて食す。エスプレッソとパンで4.6レヴァ(≒387円)。


この日はまずネセバルに寄ることになっていた。バスステーションまで遠いのでオーナーにタクシーを呼んでもらおうとしたが、有料で送るよと。最初は20レヴァ(≒1,682円)と言われたが、Cちゃんがすかさず値切ってくれて10レヴァ(≒841円)に落ち着いた。前日のタクシーが9.2レヴァだったので、妥当な額ではないだろうか。
8時半に宿を出発。9時発のバスは売り切れていたため、1時間少々待つことに。その間に構内のトイレを利用したが、有料(1レヴァ≒84円)だった。
10時頃、やって来たのはワゴンのような小型車両だった。

内観はこんな感じ。

2時間余りバスに揺られ、私たちは半島の手前の大通りで降ろされた。半島まで連れて行ってくれるバスとそうでないのの2種類あると事前情報で知っていたが、後者だったか・・・
嘆いたところでどうしようもなく、大きな荷物を抱えながら半島の入口まで1.5㎞歩くのみ。
緩やかな坂をのぼっていくと、木々の隙間からネセバルの半島が見えてきた。

この角度からだと、半島へつながる道がはっきりと感じられる。まるで江の島のようだ。
【ネセバル; B.C.2000年以降にトラキア人がつくった集落メセンブリアに始まる。ネセバルはスラブ語名。B.C.6世紀にはギリシャの植民地となり、その後もローマ帝国、ビザンツ帝国、第一次ブルガリア帝国、第二次ブルガリア帝国、オスマン帝国と次々に支配者が変わりつつ、黒海やエーゲ海交易の中心として繁栄した。もともとは島だったが、現在は人工の地峡で結ばれている。様々な時代の遺構を残すこの地は1983年 世界遺産に登録された】

半島の入口には黒い風車がそびえる【18世紀後半~19世紀築、当時の風車は土台が石造りで円筒形。1年中吹き寄せる海風を利用して製粉などの動力として活用した】。

大きな荷物を抱えながらの観光はしんどいので、どこかで預かってもらいたい。思案してお土産を買うだろうという予想のもと、民族衣装を売るお店のおばちゃんにお願いしたら気前よく置かせてくれた(去り際に撮影)。


ここから35㎞離れたブルガスを16時に出る列車に乗らねばならないので、逆算してネセバルに滞在できるのは2時間のみ。限られた時間を無駄にするまいと歩き出す。
半島内に点在する教会のうち、まず最初に目に飛び込んできたのが聖パントクラトール教会【13~14世紀築】。美しく整えられた花壇に目を奪われつつ、脇を通過して右折。

道なりに数十m進むと、左手に洗礼者ヨハネ教会が見えてきた【10世紀末建築。ネセバルにある中世の史跡のうち最もよく保存されているもののひとつで、バシリカ式からドームを擁する十字型の教会への変遷を示す典型例である。赤いモルタルで接着した石造りだが、扉の上や窓の周囲にはレンガによる装飾も見てとれる。考古学的調査により、ここはB.C.4~B.C.2世紀に栄えたギリシャ神殿の跡地であることが判明。時代が下って4世紀の洗礼堂の遺構と思われるものも発掘された。さらに6世紀には、3つの身廊を持つ初期ビザンツ期の大聖堂が建てられていたことも明らかになっている】。


ノブを回すと扉は閉まっていたが、すぐに開けてもらえた。ここで共通入場券を購入【5つの教会・考古学博物館・民族博物館への共通入場券は何種類かあり、私たちが選んだのは4churches(15レヴァ≒1,262円)】。
かつて祭壇だったと思われる教会の中心部にはイコンが並んでいる。

画像左、マリア様の壁画は色彩鮮やかで新しそう・・・その奥(画像中央)のは古そうだなぁ。
てか、左手に悪魔を引っつかみ右手でハンマーを振り上げ、こちらに視線を送るマリア様ってシュール・・・斬新かも

古そうなフレスコ画にズームアップ。

人の流れに沿って通りを進んで行くと、廃墟となった教会にたどり着いた(こちらは無料である)。
【聖ソフィア教会; 5世紀後半~6世紀前半築、ネセバル最古の歴史を持つ。地下にはアポロン神殿の遺構があり、かつてこの場所はアクロポリスだった】

惚れ惚れするようなアーチ。

聖ソフィア教会から北へ伸びる道を行く。ワイン売ってる、覗きたいけど時間ないよぉ

石造りの上(2階)に木造が乗っかっている、面白い
【今回調べてみたら、これはブルガリア土着の建築様式らしい。建てられたのは、オスマン帝国の支配を脱却しブルガリア文化の再生を目指した民族復興運動期(18~19世紀)】

半島最北部に位置する生神女エレウサ・バシリカに行き当たった【6世紀、聖母マリアに捧げるために建てられたが、14世紀以降に倒壊したという】。

その傍らには塔らしきものも残っている。なお、画像奥に垣間見えているのが本土のサニー・ビーチ。

半島北岸沿いの道を左折し、聖パラスケヴァ教会へ【13~14世紀築。アーチの上に緑色の陶器がはめ込まれている。なお、聖パントクラトール教会(11枚上の画像)も同様の装飾を持つ】。

この教会、内部にフレスコ画が残っていないのを逆手に取り、他の教会のものだったフレスコ画を運んできて展示している。画像の左右中央に着目ください。

収監された聖ジョージ(17世紀制作、聖ジョージ教会にあった作品)。
【現在、ネセバルに聖ジョージ教会なるものはない。第2次ブルガリア帝国統治下の14世紀、この地には40もの教会が建ち並び、人口あたりの教会数でヨーロッパ随一を誇ったといわれるが、その多くが現存していない。島の衰退とともに消えていった教会のひとつなのだろう】

このフレスコ画について説明しているパネルを撮り忘れ・・・詳細不明でごめんなさい


通りすがりの教会。廃屋と化し、ガイドブックには名称すら載っていない。先ほどの教会と同じく、アーチの上に陶器を埋め込んだ装飾である。

聖スパス教会【17世紀築。当時のフレスコ画がよく保存されている】。

教会の脇に立つイチジクの木。

中に入って係員に共通券を見せたら、あと10分で閉まるという。14時から30分間、中休みがあるんだそうだ というわけで、急いで見学するハメに。私たち以外にも観光客がいるから心強いけど。
最上段には聖母マリアの生涯が描かれている。

反対側の壁の最上段にはイエスの生涯が展開していた。こちらはラザロの蘇生【新約聖書に記されている、イエスが起こしたと伝えられる奇跡のひとつ。ラザロが病死して4日後にイエスが墓の前で「出てきなさい」と呼びかけると、埋葬用の布で巻かれたラザロが生き返った。なお、ラザロはキリストが十字架で処刑された後も伝道に生涯を捧げ、殉死した(殉死の地はマルセイユやキプロス島など諸説あり)】。ラザロ(右端の包帯グルグル巻きの人)の一番近くにいる人物(赤い服)が鼻をつまんでいて、コミカルな感じ。

エルサレム入城【十字架で処刑される数日前にイエスはエルサレムに入った。その際、自らが救世主であることを示すために旧約聖書(ゼカリヤ書)の預言に基づきロバの子に乗って入城した。ラザロを生き返らせたという噂が広まる中での登場に、人々はイエスを熱狂的に迎えた】。
歓迎のあかしとして木の枝や上着が地面に敷かれたという聖書の記述を丁寧に再現している。

弟子の足を洗うイエス。

教会の中心となるアプシス。

出窓やくぼみ(壁龕)に至るまで、精緻にフレスコ画がほどこされている。

壁の下部には植物文様も出現。


最後に聖ステファン教会【11~13世紀築。16~18世紀に増改築】が残った。実はここ、荷物を預かってもらった民族衣装屋の目の前にある。つまりは、ひとまわりしてきたのだった。
この教会だけ塀に囲まれていて、厳重な感じである。

庭には発掘品と思しき品々が陳列されていた。

質素な入口をくぐって、振り返る。

幅4mほどの玄関間(ナルテックスとも。18世紀の増築)に壁画がど~んと広がっていた。

その一部に寄ってみる。上部中央の円の中にイエスがおり、最後の審判の場面が描かれている。

中に入ると、ここネセバルで見てきた教会の中で明らかに大きい。中心となる教会だったのだろう、至聖所が大きく区切られているし、柱の彫刻は豪華で、高い天井を埋め尽くすかのようにフレスコ画であふれている。

祭壇側から振り返る(Cちゃんにモザイクをかけた)。司教座と説教壇(18世紀制作)も堂々として立派。

左端はイエス、そのすぐ右はペテロ? とすると、題材はペテロの召命か【ガリラヤ湖畔を歩いていたイエスは、漁をしていたペテロ(シモン)とアンデレの兄弟に「私についてきなさい。あなたたちを人間をとる漁師にしよう」と声をかけた。彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った、と新約聖書にある】。

セバステの40人の殉教者【313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したが、共同支配者であるリキニウス帝はキリスト教徒を迫害。セバステの街(現アルメニア)でキリスト教徒であると告白した40人の兵士が拷問のすえ殉教した。石で打たれ歯を折られたうえに寒空の下で身ぐるみ剥がれて氷の張る池に放り込まれた。夜が明けた時わずかに生きている者もいたが、全員が灰になるまで焼かれたという壮絶な最期であった】。

この教会を出て南に少し進むと、これまたガイドブックに記載されていない廃教会があった。自分たちが気づかなかっただけで、他にもあるんだろうなぁ・・・

やおらお店に戻り、民族衣装風の刺繍をほどこしたTシャツをCちゃんが購入。お礼を言って店を出る。
この半島のメインストリート(メセンブリア通り)を西へ歩いていると、郵便局を発見。これ幸いと、切手をまとめ買いする。

かつてこの都市を守っていたゲートに向かって、下り坂になっている。両脇に並ぶ店を見まわしながらポストカードを探したが、ついぞ買えずじまい。いかんせん、時間がなかった

ゲートを出たすぐ脇がバスの乗降所である(ヴァルナ発のバスで私たちが降ろされた場所とは異なる)。その一角にある有料トイレを使用した後、14時半からバスを待った。が、一向にブルガス行きは来ない(今思うと、半島を出て別のバス停まで行かなければならなかったのだろう)。
そうして20分近く経った時、タクシーに乗らないかとドライバーが声をかけてきた。もはや迷う余地はなく、即決。
バス乗降所の隅に停まっていた車に近づくと、私たちに声をかけたドライバーに他のドライバーが何がしか言っていた。言葉は全く分からなかったが状況や雰囲気から察するに、抜け駆けしたことを非難したと思われる。文句を言ったドライバーのほうが先に来て客待ちしていたのだろう、来た順に客を乗せていくのがルールであるならば先を越すのはよくない。しかし、何本もバスを見送る私たちを見かねて声をかけてくれたドライバーに救われたのは間違いない。複雑な気持ちにならざるを得なかったが、観察してタイミングを見計らい行動するのが商才なのだと印象に残った。自分の生業は全く違うが、双方の祖父が商人の家に生まれ育ったゆえの雑感かもしれないが・・・

結局50分かかってブルガスに到着、40レヴァ(≒3,364円)だった。16時の発車まで20分に迫っていたことを思うと、綱渡りだったと今さらながらに思う。
シューメンと同様に単なる通過地点となってしまったブルガス【ヴァルナに次ぐ第4の都市で、黒海に面する。ブルガリア東部の交通の要衝】。
駅だけでもファインダーに残そうと歩きまわった。駅の外観。

木製の扉がクラシカル。

天上から下がっているモチーフ(画像右上)が美しい。

切符売り場。一瞬ひじ掛けと思ったモノは、列を仕切るチェーンポールの代わり

美しき2階のアーチ。ロシアもこんなだったなぁ・・・公共交通機関絡みの建造物のたたずまいに かつてこの国が共産主義だった名残りを感じる。

ブルガスは、首都ソフィアから東へ伸びる数多の鉄道路線の終着駅のひとつである。よって、車止めがある。

私たちが乗った列車はこちら。

比較的新しい車両で、内部は小綺麗だった。

8時にパンを食べた後に水分以外は口にしておらず、さすがに空腹を感じてスナックをつまむ。ブルガス駅の売店で入手したもので、1.6レヴァ(≒269円)。サンドイッチなどジャンキーでないものもあったが、夕食にさしつかえそうだったのでやめておいた。


ブルガスから西へ160㎞、カザンラクで途中下車。2時間45分経っていた。
カザンラク駅にて。画面中央奥がブルガス方面。夏なので、まもなく19時というのに明るい。

鉄道駅は町の中心となるセヴトポリス広場から直線距離で400m離れている。迷わないように大通り沿いに遠まわりし、ホテルまで10分かかった。
この旅の全てのホテルを検索・予約してくれたCちゃん曰く、ここが一番良いのだそうだ。
たしかにドアを開けると玄関のような空間があり、部屋全体が広々としていた。

ソファ(画像右端)もゆったりしている。窓が2方向(写っているの以外に、画像左端の外)にあって明るい。

バス&トイレは白く清潔だった。


口コミの良さげなレストランを調べ、19時半頃にホテルを出る。200mも離れていない近場にあった。
私たちが座ったのはテラス席。陽光まぶしき昼間は広げるのであろう日除けシェードは閉じられていた。

まずはビールでのどを潤す。暑い中を歩きまわった後の1杯はたまらなく良い
BECK’Sはてっきりブルガリアのだと思っていたが、今回調べてみてドイツ産しかもシェアの首位を争う銘柄と知った。だってビールに疎いし、ドイツを訪れてないし

夏野菜がてんこ盛りのバルカンサラダ。白いのはチーズ。卓上のビネガーやオイルを振りかけて食した。

画像右はケバプチェ【ブルガリア料理の定番。ひき肉をクミンや胡椒で味付けし棒状の細長い形にして炭火焼にしたもの。パン粉や卵・牛乳などを使用しないため、肉らしい食感が特徴。オスマン帝国が起源の料理で、帝国の支配拡大に伴いバルカン半島に広がり、同種の料理はこんにち中欧に至るまでの各国で見られる】。
どう見てもポテトフライの方が存在感大だけど

食後、セヴトポリス広場へ足を向ける。広場に面した小売店で水をゲットした際に、ヒマワリの種も購入。昨日からずっと車窓中がヒマワリ畑だったもんね、何に使うのか気になっていた。食用にもしているんだなぁ、興味深い これをつまみに、前夜に引き続きトラキア渓谷産の赤ワインを舐めた(さすがに1晩では空けることができず、栓をして運んできたのだった)。ヒマワリの種は素朴な味わい。ピーナッツやカシューナッツと比べると油分の含有量が少ないのだろう、淡白だがこれはまたこれでいい。

部屋の窓を開けると、ライトアップされた教会が闇に浮かび上がっていた。


★ 中締め ★

次回はカザンラクを観光した後、ブルガリア中部をまわります。日本で刊行されているガイドブック等ではあまり取り上げられていないスポットを巡り、紹介する予定です。
お楽しみに

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ブルガリア篇 その1

2025年02月16日 | ヨーロッパ
何年か前からトラキア人の墳墓に魅かれていた。ゴールデンウィーク明けにCちゃんと会った時、夏はどこに行く予定かという話題からあっという間に話がまとまったのだった。
8日間の旅をいくつかに分けてお届けします。旅の序盤では、以下の地図の➊・➋を訪れました。なお、ルセとイヴァノヴォは近いため➋にまとめています。


1 (イスタンブール経由)⇒ブカレスト (2024年8月19日)

成田での離陸が50分遅れた。もともとイスタンブールでの乗り継ぎは1時間20分しかないスケジュールだったので、先が思いやられる 乗継便も同じ航空会社なので、うまく調整してくれると期待するしかない・・・
結局、15分遅れでイスタンブールに到着。かなり巻いて飛んでくれたのだろう。
今回チョイスしたト〇コ航空はソフィア便もあるのだが、旅程の都合上 ブルガリアの隣国ルーマニアに飛んで「一筆書き」にまわったほうがよいと判断。イスタンブールからブカレストへ向かうことになっていたのだが、今度は乗継便が1時間20分のdelay。そもそもが夜入国というハイリスクな予定だったが、到着が一体何時になるやら・・・
結局、きっちり1時間20分遅れて21時35分に着陸。イスタンブールからは1時間足らずで、かつてこの国がトルコ領だったことを想起させた。

この日の宿はブカレスト・ノルド駅の近く。空港を出てすぐ目の前に乗り場を構えるエアポート・トレインに飛び乗って向かう。
車両もホームも真新しい感じ。


30分弱でノルド駅に到着。が、あろうことに反対方向に歩き出してしまい、全然たどり着かない。
さまよっている最中に見かけたSL車両 ガイドブックには鉄道博物館などと書かれてはいなかったが。

地図を見直して、正しい方向に歩き出してみれば何のことはない、駅から5分もかからない至近のホテルだった。23時30分にチェック・イン。
決して治安の良くないエリアをこんな遅い時間帯にウロついて何も問題が起こらないのは、一人じゃないからだろうなぁ・・・
順番にシャワーを浴び、軽く晩酌。Cちゃんは機内で飲まずに取っておいたワインを、私はホテルのフロントで売っていたビールを。
翌朝には国境越えが待っているので、2時前に就寝 十分遅いけど・・・


1・2 ブカレスト ⇒ルセ ⇔イヴァノヴォ (2024年8月20日)

10時に車が迎えに来ることになっていたので、逆算して7時半に起床。
朝食ビュッフェはパンだけでも何種類もあり迷うほどで、おかずから果物まで相当豪華だった。


野菜が豊富なのもうれしい 旅は始まったばかり、体力がもつようにとガッツリ摂る。


出発の支度をすませたらpick upまで少しだけ時間があったので、前夜暗い中だったブカレスト・ノルド駅周辺を探索することにした。外観はこんな感じ。

昔ながらの駅の名残りがあるエリア。

が、そこを離れるとショップがならび完全に現代化している。

始発駅であり終着駅であるので、線路には車止めがある。

横の出入り口は落書きが目立つ。

駅の斜め向かいのビルは古いながらモダンな造り。が、上階など使用していないエリアもありそう。


時間より少し前にドライバーがやって来た。Cちゃんが探して予約してくれたブルガリアのタクシーで、ここブカレストから国境を越えてブルガリアはルセに入り、ホテルにチェック・インした後にイヴァノヴォまで往復してもらうことになっていた。ドライバー君はハ〇ー・ポッターと同名で小太り、30代くらいと思われた。
1.5kmほど進んだところでドライバー君が車窓を見やりながら、国民の館だよと紹介してくれた。
【国民の館; 故チャウシェスク大統領が造らせた宮殿。地上10階・地下4階の建物はアメリカの国防総省(ペンタゴン)に次ぐ規模で、3,100以上の部屋数を誇る。ユニオン・ホールは天井・壁・窓枠に至るまで純金の装飾をほどこす。共産主義政権の崩壊後は各政党のオフィスとなり、国際会議やコンサートにも使用されている】


ブルガリアとの国境へは50kmほど。その道すがら、私たちの目を釘付けにしたのは車窓に広がるヒマワリ畑 停車できるような道路状況ではなかったので走行中に撮っては納得がいかず、ピンボケの画像を大量に生産してしまった 
1時間あまりで国境の町ジョルジュに到着。何より驚いたのは、国境越えを待つトラックの列。が、一般車両はスルスルと通してもらえるらしく、見た感じ6㎞ほど続く壁のような車列を通り越していく。
目を白黒させている私たちに、ドライバー君が「以前にトラック運転手をしていてブルガリアとルーマニアを往復していたけど、本当に過酷だったよ。待ち時間が長くて、トイレにも行けないんだ」、ボソリとつぶやいた。だよね・・・書類審査とかで果てしなく待たされそうだなぁ
国境となっているドナウ川に架かる橋を渡って進む。欄干に垣間見えているのがそれ。中欧を訪れたことがなく空白地帯となっている自分にとって、初めて目の当たりにするのだった。

車内から。

橋を渡り終える直前に、ルセ側からパシャリ

1952、1954と刻まれたブルガリアのゲートが迎えてくれる。左右で建立年代に差があるのか・・・
ブルガリアの国旗がたなびいている。

遠目にゲートを望む。

橋から2㎞ほどのホテルに着いたのは11時半前。ジョルジュから20分弱、近いなぁ。
チェック・インして部屋に荷物を置きに行く等で、ドライバー君にはホテル前で30分間待ってもらっていた。勿論その間、待機代がかさむのだけども(30分で20レヴァ≒1,682円)。

正午にホテルを出発。まずはブルガリアの通貨を入手するため、両替所へ。ガイドブックに情報はなく、それと分かるような看板が出ているでもなし、自力で見つけるのは骨が折れただろう。ドライバー君に感謝
イヴァノヴォはルセから南へ20㎞の道のり。とある所で左折すると、どんどん森の中に入っていき周囲は鬱蒼としている。世界遺産だから観光の便宜をはかって道路が整備されたんだろうけど、よもや教会があるとは思えないような場所だよね。発見した人はすごいなぁ・・・
【イヴァノヴォの岩窟教会群; 13世紀前半、第2次ブルガリア帝国の皇帝イヴァン・アセン2世の師であるヨアキムによって基礎が築かれた。当時の首都タルノヴォから招かれた画家たちが描いた13~14世紀のフレスコ画は当時の主流であったビザンツ美術とは一線を画し、中世ブルガリアのキリスト教美術の傑作とされる。一帯は300以上の施設を擁する一大宗教センターとして繁栄したが、14世紀のオスマン帝国による侵攻後 しだいに荒廃し放棄された】
40分ほどで岩窟教会の真下に到着。これまた整備された石段をのぼって行く。


聖母教会の入口に到着。画像右の岩の割れ目がそれである。

岩窟に入ってすぐの右手は一段低くなっていた。明らかに壁を補修している。

いったん下りて見上げると、こんな感じ。

ここからがメインのパートである。故意にか自然にか剥落している部分があるものの、天井や壁のフレスコ画が外から射し込む光に照らし出されている。

イエスの生涯が所狭しと描かれている。
肝心な部分が割れてしまっているが、上段はヨルダン川で洗礼を受けるイエス、下段は聖母マリアへの受胎告知と思われる。

弟子の足を洗うイエス(画像左端中央)。

最後の晩餐(画像左端がイエス)。
1つ上下に載せた絵もそうなんだけど、手前の人物たちよりも背景に目が留まる作風なんだよなぁ・・・そう思うのは私だけ

ユダの裏切りにより、イエスが逮捕される場面(画像中央の後光がさす人物がイエス、その右がユダ)。

イエスの変容【新約聖書(マタイ、マルコ、ルカによる3つの福音書)に記載されている出来事。十字架で処刑される前に、イエスは3人の弟子(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)を連れて山に登った。するとイエスの顔が太陽のように輝き、衣は光のように白くなり、預言者のモーセとエリヤが現れてイエスと語らった。また、天上から神の声が下った。曰く、「これは私の愛する子、私の心にかなう者。これに聞け」と。弟子がイエスの神性を理解する契機となったエピソードとされる】。
楕円形の光背の中に描かれているのがイエス、その左右がエリヤとモーセ、恐れのあまり転び伏した姿で下部に表されているのが弟子たち。

この教会にはバルコニーがある(下の画像、中央奥)。

バルコニーから周囲を望む。高所恐怖症気味の自分、足元がスース―するのを感じつつ


教会を後にして のぼってきたのとは別の道をしばらく進むと、展望所に出た。

先ほどまでいた聖母教会を見晴らすことができる(画像左端中央、丸で囲んだ部分がそれ)。

付近で見かけた植物たち。


結局 小1時間で駐車している場所まで戻り、傍の売店をのぞいた。ハガキを期待していたが、シーズンオフにつき売り切れとのことだった。欧州旅行のハイシーズンはざっくり夏だと思っていたが、7月ということか? 8月下旬はもはやノーカウントなのか・・・ともあれ、残念
14時半前、ホテルに送り届けてもらってドライバー君とはお別れ。

隙間時間を活用し、部屋で洗濯にいそしむ。今回の旅は基本的に1泊で各地を転々とするため、時間が空いたタイミングで洗って干すしかないのだった。
とはいえ、翌日には発つので洗濯で終わるわけにはいかない。16時過ぎ、ルセの街歩きに出かける。
町の中心スヴォボダ広場へ続く通り。カフェのテラスは人でギッシリ。

ペロリと出た舌が可愛い猫。美味しいものでも食べた後のなのかな

自転車少年たちがたむろしていた。

聖トロイツァ大聖堂に到着【17世紀前半築、ルセで最も古い建造物のひとつ】。

入口の上には三位一体(神・神の子イエス・精霊)の絵が掲げられている。

教会は地下にあり、階段を降りていくスタイルになっていた【建立時はイスラム教のオスマン帝国支配下だったため高さ制限があり、このような構造になったらしい】。

階段の途中、踊り場で見上げる。自分が降りたのもあり、尖塔部分がかなり高く感じられた。3枚上の画像中央の白いのがそれ。

階段を降りて来し方を振り返ると、遠くの天使と目が合った

教会の内部。

何ともいえない風情の聖母子のイコン。

創建以降 何度も修復の手が入っているのだろうけど、レンガがむき出しになっている部分が古いと思われる。

別の角度からもパシャリ


教会を出て、神殿へ向かう【19世紀、オスマン帝国による支配に抵抗した英雄ステファン・カラジャを祀る廟。各地で転戦したものの、敗れてここルセで処刑された】。
周囲には人がおらず、閉まっているのかな~と思いつつ近づく。扉の手前3mくらいにさしかかった時、ガチャリと開錠する音がして中から出てきた人に無言で一瞥された私たち。彼の表情から、遊び半分で観光できるスポットじゃあないと察してクルリと踵を返した。

神殿の前から伸びるペトコフ通りを歩き、ふたたびスヴォボダ広場方面へ進む。目抜き通りの両側にはショップが建ち並んでいた。角に立つアイスクリーム屋さん。

撮ろうと近づいても、微動だにしない犬。中に愛しい人か犬がいるのかな 長めの胴に短いおみ足、可愛いが過ぎる・・・犬派にはたまらない

広場にて、この外枠にビックリ。後にドナウ川沿いでも見かけたので、ルセの観光課が設置しているのだろうか。そんな部署があるのか知らんけど

銅像にズームアップ。左に剣を携え勇ましい立ち姿は軍神のように見えるなと思った。が、この記事を書くにあたり調べたら自由の女神だった、トホホ
【そもそも、広場名のスヴォボダ =自由の意。一説によると、像の右手はロシアの方角に伸ばしているという。露土戦争(1877~1878年)でロシアが勝利したことにより、ブルガリアがオスマン帝国から自治権を得たことを象徴しているらしい】

噴水を前に語らうおばちゃま達。

ホテルを出る前にCちゃんと相談して、夕食はドナウ川沿いのレストランにしようと決めていた。広場を背に、北上する。
その途中に見かけた民家の前で立ち止まる。前庭にブドウの木が生い茂っているのだった。

なんて素敵なの フェンスの隙間から撮影。


ドナウ川に出た。対岸はルーマニアである。

川沿いに遊歩道が整備されていて、旅行者の観光や住民の散歩に格好の場を提供しているようだった。
またまたアイスクリーム屋を発見。シロクマのオブジェはテンプレートなのかなぁ・・・

列車も走っている。

何がしかの果物と思われる実をつける木もあり。

予約なしで飛び込んだので、川に臨む席には座らせてもらえなかった 私たちの席からの眺めがこれ 
なお、画像右手前の席には後ほど団体客が座った。

ちなみに、テラスの外に出るとこんな感じ。

前菜は羊飼いのサラダ。トマトにキュウリ、玉ねぎ、黒オリーブ、チーズ・・・トルコでも同名のサラダがあったな。かつて領地だった名残りかも。
(自分がトルコを訪れたのは二十数年前。記憶があやふやだったので今回調べてみたところ、トルコのには基本的にチーズがかかっていないようだ。乳製品を用いるのがブルガリア流アレンジなのだろう)

メインは鯉のフライにした。ドナウ川で釣られたという。
初めて口にするコイの骨の多さに驚く。川魚ゆえドジョウ並みに癖がある味と思いきや、そうでもなく。

メインに合わせて、ワインは白をチョイス。リストには何種類も載っていたが、懐具合の問題もあるので値段をにらみ、無難にシャルドネにした。

お腹に余裕があったので、ポテトフライを追加オーダー。フェタチーズがこれでもかと乗っかっている。

日暮れに目ざとく気づき、席を立ってテラスに出る。行儀悪いかも・・・でも、人生初のドナウ川夕景だもんね。←しつこくてスミマセン

21時少し前に去ったレストランの遠景。


ホテルに戻り、Cちゃんと交互にシャワーを浴びた後に晩酌。
珍しく贅沢して、部屋の冷蔵庫に備え付けのビール(ザゴルカ)を飲む。細かなイラストが印象的な缶だった。
【ザゴルカ; 1902年、ブルガリア中部の都市スタラ・ザゴラで創業。カメニツァ、シューメンスコと並んでこの国の3大シェアに名を連ねる】


★ 中締め ★

一瞬で通り過ぎてしまったルーマニア。実は、ブルガリアを思うよりも更に何年も前から訪れてみたいと思っていた国のひとつである。
エアポート・トレインの運賃とビール代はカードで支払い、ルーマニアの通貨さえ手にすることがなかった今回。いつか行きたいと思いは募る・・・

さて、次回はスヴェシュタリにあるトラキア人の墳墓に足を運んだ後、東へ進み黒海沿岸の都市をまわります。お楽しみに
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アイスランド篇 その3

2025年01月12日 | ヨーロッパ
アイスランドの最終盤では、以下の地図の➊で過ごしました(②~⑦は旅の序盤・中盤に訪れた場所です)。
また、後の下線部の数字にも対応しています。


1 レイキャビク (2023年12月30日)

7時に起床、ホテル1階のレストランへ。ビュッフェで朝からガッツリと食事を済ませる。

元々の予定ではスカイラグーン(レイキャビク近郊の温泉施設)に行く予定だったが、記事「その1」でお伝えしたとおりの体調のため、museum巡りに予定を変更。
結果的に2万2千歩オーバーの移動となった。途中でmuseumの椅子に座りつつ、トイレも利用できたのでカフェに入ることもなく、ほぼ1日歩き通し。解けかけの雪で歩きにくいのに、ようやるわな自分(苦笑)

ホテルを出発し、まずはホフジハウスを目指して大通りを海の方向へ進む。月が天空に輝いているが、これでも午前9時半なのである。

ランニングやら散歩やらで人影はポツポツあるし、車も行き交う。この暗さでも身の危険を感じないんだよな~ この国は相当治安がいいと思う。
ホテルから500mほど、ハウスが見えてきた時は周囲に誰もいなくて近づくのがはばかられるような、泥棒感満載だった。が、ほどなくツアーバスが到着して欧米人観光客がドカドカ降りてきた、ホッ 
こちらがホフジハウス【1909年、フランス領事館として建設。ワシントンとモスクワの中間地点ということでこの地が選ばれ、冷戦下の1986年10月にアメリカ大統領のレーガンとソ連書記長のゴルバチョフがここで会談し、これがもとになって翌年12月のINF全廃条約締結に至ったといわれる】。
中を覗きたくて階段をのぼってみたが、窓の位置が高すぎて自分の身長では見られなかった、残念

銅像あり【Einar Benediktssonという詩人。19世紀末~20世紀前半に活躍し、独立を促すナショナリズムの隆盛に一役買ったという】。


次は海沿いを北西へ進む。

画像左の尖塔はハットルグリムス教会。74.5mとそもそも高いうえ、丘の上に建っているので この町のどこからでも目に入るといっても過言ではない。

1kmほど歩くうち 次第に空が明るくなり、雪をかぶった山影が姿を現しはじめた。

東を振り返るとこんな感じ。

が、西側はまだ夜の雰囲気が濃く漂う。

モダンなモニュメントが登場。両サイドからの眺めを比較してもらえば、東西の様相の違いを感じていただけるだろう。
まずは西側に向かって撮影。

そして、東側に向かってパシャリ【なお、これは「The Sun Voyager」というタイトルの作品で、海に繰り出す人をイメージしているらしい】

水鳥が海上で羽を休めている。

第二の目的地ハルパに着いた時、来し方を振り返る。
この国では夜が明けていく様が実に美しい。えもいわれぬ色彩に移ろいゆく空・・・高緯度地域の夜明けは、朝が弱い自分にはありがたい贈り物だ


こちらがハルパ【2011年にオープンした多目的ホールにして、アイスランド交響楽団の本拠地。金融危機の影響もあり工事は一時中断したが、4年かかって完成】。
柱状節理をモチーフにしたデザインは角度により宵闇でも輝く。ちなみに5枚上の画像左、ひときわ青いのもハルパである。

こちらは別の角度から撮影。

ダメ元で入ってみたら、ごく限られた範囲ではあるが無料で見学することができた。
エントランスの天井。

窓の向こうには旧港が広がる。3日前まであの辺りに滞在していたんだよね・・・もう懐かしくなっている



第3の目的地セトルメント・エキシビションへ向かう途中、チョルトニン湖をかすめた。凍っていないわずかな水面に水鳥たちが集っていた。てか、白鳥って鳴き声が大きいのね、ビックリ【元々は貯水のためにつくられた人工湖。市の職員が湖にお湯を流して全面が凍らないように、鳥たちの居場所を確保しているそうだ。なんて優しいの】。

レイキャビクの街では、所々に不思議な彫像が存在する。画像右はそのひとつ【タイトルは「無名の官僚へのモニュメント」】。

葉牡丹が健気に咲いている。

先日来、市庁舎と思い込んでいたのはドゥムキルキャン教会と判明。閉まっていて、中には入れず
【1796年創立、レイキャビクのカテドラル。国会が開会する際にはこの教会でミサを執り行なった後、会議場に移動するという。現存するのは19世紀半ばの再建】

その横には国会議事堂【アルシングともいう。記事「その1」で言及したとおり、この国では930年からシンクヴェトリルにて毎年議会が開かれていた。ノルウェーの支配下に入っても続いていたが、デンマーク統治下の1798年に中断を余儀なくされた。しかし自治への要求が高まるなか19世紀半ばにアルシングは復活、1881年にはこの議事堂が建てられた。今日に至るまでレイキャビクで開催されている】。
首相官邸を見かけた時も思ったけど、この国ってこういうのが簡素よね。暴漢が突入してくるとか前提にないんだろうな、治安いいもんなぁ。


100mほどでセトルメント・エキシビションに到着【2001年に発掘された、レイキャビクで最古の人工建造物=9世紀後半の遺構を保存している】。

現在の地面より下に遺構があるため、入口を入って目の前の階段を降りるスタイルになっている。エントランスの壁には世界地図が飾られており、横のパネルには「約10万年前にアフリカ大陸でホモサピエンスが出現した。約1万2千年前には南極を除くすべての大陸に人類が住みついた。約1100年前、アイスランドに人類が定住するようになった。」と記されていた。
ここアイスランドは中央上部に赤く示されており、他にも赤く塗られているハワイ(画像左中央)・マダガスカル(画像やや右中央)・ニュージーランド(画像右下)はアイスランドの前後に入植があった場所という比較のようである。

この遺構が西暦871±2年のものであることを強調している。

入館料は2750kr、ガイドブック情報より1000kr(≒1180円)も高くて驚いた。値上げはコロナ禍で観光が退潮した反動、はたまた諸物価高騰、それとも単にガイドブック情報が古すぎただけ まぁ、こういう施設を維持・管理するのに費用がかかることは理解できるし、値上がりを理由に見学をパスする選択肢は自分にはない。
支払いを済ませ、左側の小ぢんまりした空間に足を向けると、人々がこの島に渡ってくるまでの過程を推測し映像にしたコーナーで、彼らが乗ったと思われる帆船のイラストもあった。

メインの展示室に入ると、まず中央の遺構が目に飛び込んでくる。これと同時期、9世紀後半の日本は平安時代の前半で、藤原氏が権力を強めていく時期かぁ・・・
一般的にヨーロッパの文明は日本に先行しているが、アイスランドは入植が遅い。それほど当時の技術レベルでは暮らしにくい気候風土だったのだろう。



入植初期の人々がいかに巨大な集合住宅を建てたかの映像解説もあり、模型もあった。

芝を用いたターフハウスの画像もあった。


館内に掲示されている英文の説明をしこたま脳内で翻訳したが、印象的だったのは以下の3点。
①レイキャビクが良い港であることから、この島の中心地として発展した。
②湿度が高い風土のため、水の確保には困らなかった。当時は石と灰で雨水をろ過していた。
③ゲノム解析の結果、男性のほとんどはノルウェーから、女性の半数はイギリスからしかも奴隷としてこの島にやって来たことが判明している。ただし、言語的あるいは社会制度的な側面を見ると、ノルウェー以外のスカンジナビア半島の国々やアイルランドの影響も多分にあるらしい。

海洋航海をつうじて広汎な範囲で交流がおこなわれたのね・・・
そして確かに・・・気温が低いわりにかさつかないよね。ハンドクリームやリップクリーム持ってきたけど、使わずとも問題ないし。湿潤なんだわ

天気がくずれる前にハットルグリムス教会のタワーに登りたい気持ちがはやったが、アイスランド国立博物館のほうが近そうなので先に向かう。南南西に600mほど、等高線のない地図では気づかなかったが、丘へのぼっていく道程だった。途中、チョルトニン湖越しに教会を遠望できた。

博物館はグレーの壁・シンプルな3階建てで、遠目にそれと示すのは幟くらい(この画像には写っていないが)。
こちらもfeeが500kr(≒590円)上がっていた、ははは

この島に人類が入植した後から時間の経過に沿って展示されている。
いきなり人骨が目を引いた【説明パネルによると、10世紀に40歳くらいで亡くなったと推定される女性の骨という。胸に三つ葉のブローチ(シェトランド諸島[イギリス領]でよく知られる)と、スコットランド風のケルト装飾が施された留め金具を身に着けていた。遺体のそばには木製の柄のついた長いナイフ、櫛、スプーンとして用いたと思われる貝殻、お守りと思われる石などがあった。定かではないが、調理器具が副葬されていることから、来世では家事を果たすよう期待されていたと思われる】。

子どもの骨も展示されていた【8ヶ月の子どもと推定されている。概して子どもの骨は大人の骨に比べて保存状態が悪いとのことだが、これは砂の中に埋められていたのが幸いしたらしい。大人と違って副葬品はなく、来世を想起させるものはない】。

このあと金属器などの道具の展示が続いたが、足早に通り過ぎる。自分が興味あるのはキリスト教を受容した後の文物だった。ハットルグリムス以外の教会に入るチャンスがないまま過ごしてきたので、特に渇望していたのだった。
【9世紀、アイスランドに移住してきた人々のほとんどが北欧にルーツを持ち、異教信仰(北欧神話)を擁していた。しかし彼らが島に到着した時には既に、俗世から離れて求道するためにアイルランドからやって来たキリスト教の修道士たちがいたし、北欧人たちが各地で捕まえて奴隷として島に連れてきた人々もキリスト教徒であったため、初期の定住者の多くはキリスト教徒であったといえる。が、その後のアイスランド社会では北欧人が実権を握ったため、異教信仰が主流となった。
10世紀末になるとデンマークとノルウェーでキリスト教が広まり、995年にはクリスチャンの王オラフがノルウェーで即位した。彼はノルウェー人が入植した地にも宣教団を送り、キリスト教に改宗するよう圧力をかけた。当時、アイスランドで洗礼を受けている者はわずかだったが、1000年にアルシング(アイスランドの議会)ではキリスト教を受け入れることを決断し、この問題で血が流れることはなかった。ただし、従前の異教信仰(北欧神話)を個人がもち続ける権利も得ていた。つまり、ずいぶん以前から私的にキリスト教を信奉する者は存在したが、アイスランドが公式に改宗したのは1000年ということになる】
この国がキリスト教に改宗した初期のころの遺物はあまり残っていないが、異教のお墓からキリスト教のアイテムが見つかることがままあるという。
このペンダントは11~12世紀のもの。その形は十字架であり、また北欧神話のトール神がもつハンマー(ミョルニル)でもある。

宗教画が描かれた木材の一部【11世紀後半の制作。元々は着色されていたかもしれないが、現在その痕跡はなくなっている。アイスランド北部の農家の屋根裏部屋で発見されたが、カテドラルの西壁のものではないかともいわれる】。記事「その2」でも言及したが、高緯度のこの地では希少な木材が使用されている。


全体像はこんな感じだったらしい。モチーフは最後の審判【全体の幅は7~8m。フレスコ画でよく表される題材だが、木彫の作例は珍しいという】。

聖母マリアの石像【高さ2m弱。制作時期については言及されておらず、不明。息絶えて十字架から降ろされた我が子イエスを見て悲嘆にくれるマリア様を表現している。なお、この国で石彫りの作品はわずかだという】。
未踏の地だから知らないけど、アイスランドの南東に位置するフェロー諸島(デンマーク自治領)・シェトランド諸島・ノルウェーなどの石像もこんななのだろうか??
個人的には、かつて訪れたアイルランド北部の石像たちを思い出さずにはいられなかった。ケルトの感じは全然ないけど、像全体の大きさや厚さ、太めの刻線ながら浅めの彫りの感じが似ている・・・海が横たわっているとはいえ、2,000㎞は決して遠くないんだなぁ

キリスト像【1200年前後の制作と推定されるロマネスク様式の彫刻で、かつての彩色の跡が残っている。アイスランド北部の教会に置かれていた】。

角杯【動物の角でつくった杯で、盟約を結ぶなど特別な乾杯の際に使用する。中世の北欧では一般的だが、アイスランドのは精緻な彫刻がほどこされているのが特徴】。

右上のをズームアップ。上段は知恵の木の下に立つアダムとイヴ、下段は磔刑【17世紀制作】。

聖歌が流れる小部屋もあった。薄暗かったので、展示物の写りがイマイチでごめんなさい

細やかな作りの十字架。後ろの壁画は人物の表情がユニーク。

こちらも面白い表情をしている。

ノルウェー王オラフの彫刻もあった。この国を改宗させたから、教会では崇められてきたのだろう。他国ではあまり見かけない、地域色の強いモチーフだなぁ。


小さめの十字架【左はロマネスク様式で13世紀、右は中世末期の制作】。


階段で3階にあがると、刺繍だけが展示されている1部屋があった。
コミカルな表情に魅かれた刺繍作品【アイスランド北部の教会の祭壇正面にあったもので、16世紀はくだらない制作とされる。磔刑の左右に聖母マリアと使徒ヨハネを配する。キリストの両眼が見開かれている表現は珍しいが、13世紀のイギリスの刺繍などに類例が見られる】。

別の部屋に入り、綺麗な色だなと思ったらクジラの骨を彫った作品群だった。大海に浮かぶこの国らしくて素敵

上の画像、一番下の細長い作品をズームアップ【18世紀初め制作の寝台パネル。枕元に刻まれている文字は「マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネは私が横たわるベッドを祝福する」】。
う~ん、いい夢見られそう

2枚上の画像、右端の縦長の作品の最下部をズームアップ【息絶えたキリストを十字架から降ろす場面】。

3枚上の画像、右端の縦長の作品の最上部にズームアップ【中央にはキリストの昇天を見上げる人々と、父なる神に抱きしめられるキリスト。左上は磔刑、右上は昇天後 天上と地上の栄光の王として君臨するキリスト。なお、この大作は1600年前後にアイスランド南部の農夫が聖書の場面を彫り出したものという】。

人魚の彫像もあった。作風も素材も全然異なるが、これまたアイルランドはクロンファートの教会の壁にあった人魚像を思い出した。
訪れたことないけどデンマークには人魚姫像があるし、北海やノルウェー海周辺ではポピュラーな存在なのかなぁ・・・

博物館の最後は宝物ではなく、民俗コーナーだった。
最古の婚礼衣装【1859年の秋、レイキャビクで着用された。黒い布のジャケットの縁には銀の糸で刺しゅうを、スカートにも花柄の刺繍をほどこしている。腰にはベルトを巻く。頭飾りとベールをかぶる】。

19世紀の家【中世アイスランドの浴場付き更衣室が長い時間をかけて変化し、今や家族が仕事をしたり食べたり眠ったりする多目的空間となった。中世後期に気候が冷涼化したため、人々がかまどの近くで多くの時間を過ごすようになったのが始まりという】。

中はこんな感じ【裕福な家では、家主とその妻は独立した寝室で眠る。小さな家では家族みんなが同じ空間で眠り、大人と子どもの2人1組でベッドを使うという】。

階段を降りながらステンドグラスを眺めた。

出口へ向かおうとして、トール神の像を見かけていないことにふと気づいた。ガイドブックで推していた宝物、見ないでは去るに去れない。展示の並びからして1階にあるはず・・・
しばらくウロウロしてたどり着いた。かなり最初のパートにあったのだが、完全に見落としていた。
【1000年前後の制作と推定されるブロンズ像。高さ6.4cm。北欧神話に出てくるトール神とされるが、一方で栄光のキリストという説もある。像はトール神が持つハンマーと思われる物を握っているが、その形はキリスト教の十字架にも似ている。北欧神話とキリスト教が平和裏に共存したことを示す作例という(トール神; 北欧神話で雷をつかさどり、農耕の神として崇められる。敵対する巨人と対決し、そのハンマー[ミョルニル]を投げれば必ず敵を倒すという最強の戦神でもある)。
なお、この像は1815年またはその翌年にアイスランド北部で発掘されたが、14世紀末からこの国の支配者となったデンマークの首都コペンハーゲンにまもなく送られた。独立前ではあったが、アルシング(議会)1000周年にあたる1930年に他の宝物とともにデンマーク国立博物館から返還された】
三角形の帽子をかぶっているからか、サンタクロースに見えてしまうのは私だけではないはず


結局2時間で博物館を後にしたのだが、2階はかなりのスピードでまわった。丁寧に見学するならば、半日は必要かもしれない。
14時過ぎ、チョルトニン湖の間を横切る道を通って教会を目指す。下の画像の左右とも湖で、中央奥に教会がそびえる。

湖の北側。凍ってその上に雪が積もった湖面は、滑ったり雪合戦をしたりと格好の遊び場になっていた。なお、画像右の尖った屋根も教会だったが、閉まっていて入れず

歩いていると、ごく近くの上空を飛行機がかすめていった(下の画像、中央やや上)。アイスランド航空は市街の隣接地から地方都市へ飛んでいる模様だが、首都でこんな至近距離を飛行するのは中々ない気がする。

4日前も歩いたスコウラフェルススティグル通りをのぼっていく。今回は吹雪いていないので(笑)、人出は多め。

ふと脇道をのぞくと、下り坂の向こうに海が垣間見えた。

けだるげな午後の空に屹立する教会。

この日はミサだからと追い出されることもなく、祭壇周辺をじっくりと観察することができた。
祭壇はシンプルで、左右に小さなツリーが置かれている。赤い照明はイエスの血を意味するのか??

祭壇横の壁には大天使ガブリエルの壁画。

こちらは大天使ミカエル。

会堂内の座席の全てに飾られている編みレースは雪を彷彿とさせる白

人もまばらだった前回とは異なり、タワーにのぼるために行列して15分待った。のぼったところで足の踏み場もないのではと危惧したが、考えすぎだった。風の強さと気温の前に、そうそう長居もできないのだった
期待通り視界はクリアで、北西に海を見晴らすことができた。天候でこんなにも見え方が変わるんだね・・・あぁ、リベンジできてよかった

西の方角にはおもちゃ箱のようなカラフルな建物もあり、また雪が積もったモミの木すなわち天然のクリスマスツリーがチラホラ見える。

北東には雪をかぶった山が横たわる。

南東を向くと、教会の屋根の存在感大。

教会を出ようとして、扉の彫刻にハッとした。四つ葉の植物はシャムロック アイルランドからこの島に初めてキリスト教がもたらされたことを象徴しているのかも・・・
(この記事を書くにあたり調べてみたが、確たる情報に行きあたらず残念

青みが増し、夜が訪れつつあることを告げる空。


坂道を下りながら、お土産購入タイムに突入。とはいえ、税の関係で空港が最安値という情報を得ていたので、買うのは最小限にとどめようと心に決めていた。
それにしても何にせよ高くて、気軽なお土産にするには引くような価格。これいいなと思うと1800kr(≒2,124円)くらいする。1000kr(≒1,180円)以下はほとんどないし、あったところでマグネット、キーホルダー、石鹸など・・・微妙そうなモノばかり 結局、空港で買うことにした【自分が見た中で安価だなと思った土産物屋は、最後に泊まっていたホテルの向かい側、ロイガヴェーグル通りとSnorrabraut通りの角にあるア〇スランドホテルの1階のお店。そう広くもなくて何でも揃うとまでいかないが、他店と比べて500円くらい安い感じだったので、興味のある方はぜひ】。
あとはハガキと切手を買い足さねば。実は、アイスランドで一度も郵便局に行かずじまいだった。ガイドブックに情報がないうえ、歩いていても見かけなかった。しかし、ハガキを売っているお店ではstampsがあるよと書かれていて、しかも表示がない店でもお店の人に聞いてみたら扱っていたので、充分に事足りた【ただし、1枚が400krと450krのお店があるので要注意 たまたま最初に買ったハットルグリムス教会の売店が400krだったので、450krと表示してあるお店では買わないようにしていた。が、同じ店でも違う日・違う店員だったら値が変わるという摩訶不思議。あちこちで買ってみたが、3ヶ所で400kr・2ヶ所で450krという結果だった】。
たいして買わずとも土産物屋で思いがけず時間を過ごし、とっぷりと日が暮れた。

お土産用のビールを入手するため、アウストゥルストロティ通りのvinbudinへ向かう。好物のワインの棚をついチラ見したら、スペイン産のDiabloが2800kr(≒3,304円)・・・日本で買うより500円くらい高い感じかなぁ。手を出すまでもなく、350㎖缶のビールを5本買って退散。

残すはオーロラ観賞ツアーのみ。バス停でのpick up前に夕食を済ませる必要があった。翌朝は出発が早く朝食をとる時間がないため、最後のまともな食事だった。
ネット情報によるとアイスランド料理推しのレストランがホテルの近くにあり、17時半ころ店の前を通りかかったら空いていた。が、店頭のメニューを見たらラムのスープがなかったのでやめて、泊まっているホテルのレストランへ行くことにした。
ビールにパン(ブリキ缶入り)と前菜。なお、画像中央のはこの国らしい溶岩の上に盛られたバター・・・なんだかオシャレ

ラムのスープ。燻製に比べると羊らしき香りはあったが、サイコロ状の野菜とパセリとあわせて美味しくいただいた。だいぶmodernizeされてるかもしれないけど

メインはタラ(cod)と迷ったが、カリフラワーのリゾット アスパラ添え(ヴィーガン料理)にしてみた。滋味深い、ほっとする味わいだった。

会計はしめて8,630kr(≒10,183円)。最後だからと値段よりも食べたいものを優先したら、それなりの額になっちゃった

さて、いよいよオーロラ観賞ツアーである。記事「その1」で述べたとおり元々は到着した日(12月26日)にツアーに参加する予定だったが、ピックアップ時間前から待てども迎えに来なかったのでtravel agencyにメールして、この日にやり直しさせてもらうことになったのだった。ただし、ホテルを移っているためpick upのバス停を15番から9番に変更したほうが都合がよく、その旨を28日にagencyにメールしたのだが、一向に返信がないのだった。
迎えのバスが来た時に拙いmy英語が通じなかったらメールの文面を見せて説明するつもりだったので、記載通りの15番のバス停で待つことに決めた。同じレイキャビク市内といっても片や外れ、かたや中心部にあり近くはない。40分かかると予測してホテルを出た。
目抜き通りのロイガヴェーグル通り沿いに北西へ進むと、年末のひとときを楽しむ人々でにぎわっている。通りの両側を埋め尽くすショップはきらびやかで、12月25日を過ぎてもクリスマス装飾がスペースを占めているのも欧州ならでは(「欧米」と言いたいところだが、アメリカはトランジットのみ・旅したことはないので、よく知らない)。
下の画像上部、吊るされた洗濯物にご注目あれ。サンタクロースの家かもと匂わせる遊び心にキュン

そして、爆音の方角を仰ぐと個人で花火をあげているのだった。新年のお祝いだとしたら1日フライングだなぁ、あれっ 過去に同じような現象を見かけて、同じことを思った気がする・・・あれはアムステルダムだったか?? 大晦日から元日への切り替わりにこだわりはないのかもしれないなぁ、文化の違いかも。


pick up時間は20時30分だが、30分前にはバス停にいるようにとメールに書かれていたため20時を目指した。が、結局19時45分に15番バス停へ到着。雪道を考慮しての計算だったが、日中に降らなかったので雪が少なくて早めに歩けたらしい。で、結論から言うとバス停で1時間50分待った。25分歩いた身体の熱がおさまると、だんだん強風に体感温度が下がった。さしものユ〇クロ様のインナーといえども、腰にカイロを貼っていようとも 
20時には自分を含めて2組3人だった待ち人は増え続け、20時半過ぎには20人ほどに膨れあがった。そこから2グループに迎えが来て、残ったのは自分を含め4組7人。不安になりお互いに確認し合うと、みんなtravel agencyが異なっていた。
21時15分頃、スマホに着信があった。手袋をはずすのにモタつくうち切れたため、折り返しかけ直す。自分の英語力で通話は難易度高いが、ためらっている場合ではない。
若い女性の声で「どこにいるの?」と聞かれ、15番バス停と答えたら "O.K.” と言われる。念のため “I’m waiting here." と伝えて電話を切った。
そのころ他の2組は各々agencyに電話して、ツアー催行なしと告げられた模様。自分の次くらいにやって来た、すなわち同じくらい長時間ともに待っていたご夫婦の奥様が "Bye." と手を振って去って行った。そこからの15分、1人で待つのがしんどかった。4日前と違って絶対迎えが来ると分かっているのに、である。今思えば、寒さで肉体的にはいっぱいいっぱいだった

21時35分、大型バスが現れた。4WDやワゴンのような車に乗せていく旅行社もたくさんあったが、これは50人以上乗れるようなガチの観光バスだった。先ほど電話で会話したと思われる女性(というより少女、たぶん大学生)のガイドさんに迎えられ乗り込むと、席はギッシリで自分が正真正銘最後の客だった。
バスが出発するとガイドさんが “Thank you for patience." と言っていたので、9番のバス停で長く待っていてくれたのかも・・・
観賞ポイントまで30分かかるとアナウンスされたが、その前にガソリンスタンドでトイレ休憩があった。2ブースしかないのもあって相当時間を要し、かなり長い時間停車していた。
23時、view pointに到着すると若いガイドさん&長髪でややふっくら体型のドライバーさんはhot chocolateをつくって配り始めた。バウチャーに記載されていないサービスに驚いたし、手作り感あふれるat homeさが温かかった
日中の気候は穏やかで、バス停を目指して歩き始めた頃もclearだった空だが、バスを待つうちに雲がかかり始めた。そしてドライバーがwindyと言うとおり、時間が経過するほどに手強くなった。23時から0時半までポイントにとどまったが、オーロラはついぞ拝めなかった
早々に星空撮影に切り替えたツワモノもいたが、風の強さに本気で吹き飛ばされそうで、自分は1時間半のうち15分ほどしか外に出ず、車内でウトウトしていた(同様の人が多数)。
帰り道に、ガイドが「本日の日付とメールアドレスを登録したら、今後2年間は観賞ツアーに参加することが可能です」と告げた。
あぁ・・・そうなのか。4日前にダメもとで送った自分のメールに対し、travel agencyは前倒しでこの権利を私にくれたのね。合点したわ 
それにしても、2年有効のうちにどれほどの人が再訪するのだろう?? 客の多くがリベンジを果たそうとしたら、ビジネスとして成り立たないんじゃないかな。オーロラに遭遇できず、無念の思いでこの国を去る人が多いという厳然たる事実があるのね。自分もその一人にすぎないのか・・・
停車中に隙を見てガイドさんに9番のバス停で降りたいと伝えたら快諾、しかも最初のdrop offが9番というラッキーぶり にもかかわらず午前1時半になっていたので、15番から歩くハメにならなくて重ねがさね幸いだった

1 レイキャビク ⇒ヘルシンキ (⇒帰国) (2023年12月31日)

午前の便に乗るため、7時に空港行きバスに乗ることになっていた。
オーロラツアー後に3時間しか眠れなかったが、帰国便逃すまじという緊張感でガバリと起き上がることができた。
7時少し前にチェックアウトすると、ロビーにスーツケースを放置して外出。ロイガヴェーグル通り沿いの最寄りのポストまで片道数分の距離を往復し、友人たちへのハガキを投函。なお、自分が歩いた範囲ではセンターホテルプラザの北東角のショップ付近にもポストがあった。共通していえることは、差し出し口が1つしかないこと。赤でJAPAN/Air Mailと書いたので、ちゃんと振り分けてもらえると信じるしかない【結果的に友人たちのもとへ無事届けられた】。
戻ってみると、スーツケースは無事だった。24時間出入り自由のホテルフロント(しかもガラス張りで通りから丸見え)を夜中に女性一人で担当するくらいだから、やっぱり治安がいいんだろうなぁ。

バスの到着は遅れ、寒空の下でたっぷり15分待たされた。結構な人数の人々が待っていて、乗りきれるのか不安だった。2台続けて来たバスの1台目に乗り込み、ドライバーに空港へ行きたいと告げたら手元のpadを操作して私の氏名を探し始めた。到着時(往き)とシステムが違っていて一瞬ビビったが、ちゃんと登録されていた。
ほどなくして市内のBSIバスターミナルで降ろされる。人の流れについて行くと、往きに市内drop offバスを待った側から建物に入り、反対側に出ると空港行きバスが待っていた。ふむ、こーいう構造になってるのか。
先着の別のバスの乗客が乗り始めていた1台目には乗ることができず、2台目にまわった。1台目の発車から2分後くらいに出発したものの、乗務員が空席を数えていてelevenと聞こえた気がした。悪い予感は的中、無線で連絡が入って途中2ヶ所に立ち寄って人々を乗せていく。10時5分離陸のフライトなのに、空港到着は2時間前を切るのが確定。満席の1台目だったらこんなロスないのに・・・一体何時にカウンターのチェックインが打ち切られるのだろうとハラハラしながら、バウチャーが送られてきた時にもう1本前のバスに変えてもらうよう交渉すべきだったと自分の落ち度を悔やんだ。
時間つぶしにメールをチェックすると、上司から緊急に対応してくれ案件が舞い込んでいた。最悪の場合、出勤する予定のない日に処理しなければならなさそうだった
いや、それどころではない、空港に到着した。離陸1時間25分前
急いでバスの脇腹の荷物庫前へ向かうと、自分のスーツケースが手前にあったのが幸いした。ダッシュで建物に入り、掲示パネルでカウンター番号を探す。右手へ15m、Fin〇airのカウンターに人は並んでいない。5つのうち3つがclosedとなり、係員が去ろうとするタイミングだった。economyと書かれたカウンターに残るベテランの女性スタッフに、飛行機に乗らなければならないと伝えると、"どこ行き?” ヘルシンキ!!と叫ぶ(後で知ったが、デリーやソウルなど多路線飛んでいるのだった)。 
PCを操作してくれて、どうやら乗れそうと判明。はあぁ・・・オーバーブッキングじゃなくて助かった
boarding timeまで45分、あとはお土産を買うのみ。2階へ上がるとduty&freeがあり、まずバラマキ用のお菓子を買う。友人たちには温泉のシリカパックを目論んでいたが、小袋がなくてあきらめる。一番安そうなのが800kr(≒944円)の塩(小瓶入り)で迷う余地なし、まとめ買いする。

搭乗口付近のベンチで、前日オーロラツアーに行く前にスーパーで買っておいたサンドイッチをパクつく。具はすっかり気に入ったラムの燻製&ビーンズサラダ。

お腹が落ち着いたところで、上司に対応しますとメールを返信。そして担当者に電話してみたが、留守電になってしまった。
そしてふと出国審査がなかったことに気づく。そういえば、入国審査もなかった・・・
搭乗してみると、日本の大手旅行会社の団体一行近くの席だった。添乗員がやおら近づいてきて、私の隣の女性と後ろの男性はカップルだから座席を交換してもらえないかと英語で話しかけられた。“No problem.” と返し、颯爽と交代する。いつものことだが、日本人と見られていないのが印象的だった

3時間でヘルシンキに着陸。乗り継ぎは2時間しかなかったが、遅れないので焦りとは無縁。
出国審査官は「アリガトウ。サヨナラ」と。"Good Japanese." とほほ笑み返す。空港内に日本語表示が多かったし、日本人の利用客が多いのかな。こうして、今回の旅ではパスポートにヘルシンキの出入国のみスタンプが残った。
その後にふらりと入ったムー〇ンショップで2.5€(≒403円)のグッズを見かけ、安いなと思ってしまう。いや、フィンランドの物価が決して安いわけではあるまい。そう思わせるほどにアイスランドのそれが高いのだ。
なにげなくメールをチェックすると、先ほど留守電だった担当者からメールが届いていて、上司から聞かされた日程より4日後の対応で問題ないことが判明。な~んだ・・・
終わりかけとはいえvacation中に仕事に引き戻されたストレス解消、とかこつけて1杯飲んで搭乗するのだった。このさいフィンランド産じゃないことは問題なく、久しぶりのワイン(ロゼのスパークリング)が沁みる、くうぅ 


★ 終わりに ★

帰国後にPCアドレスに届いていたメールをチェックしたら、travel agencyから何通もメールが届いていた。その最初が12月26日のオーロラツアーは中止しますという内容。そして、その次が26日のツアー代替として30日に振り替えますという内容(←スマホにも同じメールが送られてきて、現地で見ることができた)。更にその次が30日のオーロラツアーのpick up場所を調整しますという内容。最後が、30日は希望通り9番のバス停でpick upします、という内容だった。
これを見て、agencyに連絡先として登録したのはPCのメアドだったことを思い出し、いくつかの疑問が氷解した。まず、26日夜に迎えが来ず待ちぼうけをくらったと思い込んでいたが、連絡はなされていたということ。agencyに落ち度はないにもかかわらず、30日のツアーに参加できるよう手配してくれたこと。30日のバス停変更についても連絡が来ていて、おそらくツアーバスは9番のバス停で私を長らく待ったうえで電話がかかってきたこと。
当然ながら、登録したメアドに返信するのがagencyの原則だろう。送信者名を見ると、一連の自分のメールに対応してくださったagencyの担当者は複数おり、26日のオーロラツアーに参加できなかった分を30日に振替できる旨の連絡をPCとスマホの双方に送信してくださったのは担当者の配慮だったと思われる。要するにagencyは瑕疵なく連絡をおこなってくれたし、なおかつ自分の要望にも誠実に対応してくれたというわけ。travel agencyに多大なる感謝の念を表する一方で、9番のバス停で待たせてしまった同乗の方々に伏してお詫びしたい

閑話休題。12月29日、南岸ツアーの最終日にドライバー兼ガイドさんが「明日からブルーラグーンが営業再開するよ」と情報を提供してくれた。過去の記事で既報のとおり、10月に旅の計画を立てた際には温泉好きの血が騒いで 初日(12月26日)にブルーラグーンへ、30日にスカイラグーンへ行く予定だった。しかし、11月に発生した火山噴火の影響でブルーラグーンは営業中止となり、後者に賭けていた。ところが27日から生理になってしまい、いずれにも足を運ぶことが叶わなかった。26日に営業再開していればピンポイントで入れたのになぁ・・・と頭をよぎったのは言うまでもない。

この旅を振り返ると、オーロラを見ることができなかった、自分がアイスランドに初めて興味を持つきっかけとなったセリャランスフォスの滝の裏側にまわれなかった、温泉に一切浸かれなかった・・・客観的に総括するなら 何も果たせなかったのだろう、あらかじめ期待していたことは。
一方で、夜明けの美しさ・日の出から日没までの短さをはじめとする高緯度地域の冬の暮らし、雪原と空の境界が溶けあう白い景色、暗くても危険を微塵も感じない治安の良さ、人種差別なく温かいアイスランドの人柄・・・自分にとって未知の事象にあまた巡り合い、心魅かれた。
此度のようにすげなく振られることがあろうとも 懲りずに自分はまた旅に出る、まだ見ぬ世界を求めて

 おしまい 

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