poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

スペイン(2)&ポルトガル篇 その3

2023年08月06日 | ヨーロッパ
いよいよ旅もラストスパート。最終盤には下の地図の➎・➐を訪れました。ただし近いため(中盤で訪れた)オビドスと、ナザレ,バターリャは➐に集約しています。①~④・⑥は序盤・中盤に訪れた場所です。


7 オビドス ⇒ナザレ ⇔バターリャ (2008年8月11日)

13時頃、中世の面影を宿していたオビドスに別れを告げ、前日も経由したカルダス・ダ・ライーニャへバスで向かう。さらに乗り換えて、この日泊まるナザレを目指す。北北東へ40㎞、40分ほどの道のり。

ホテルにチェックインしたあと街歩き、ではなく再びバスに飛び乗ってバターリャへ向かう。実は、ナザレの周辺には世界遺産を擁するなど魅力ある町が点在する。アルコバサ、トマール、ファティマの4択から選んだ。Cちゃんはあまり乗り気ではなかったのだが、ここでも世界遺産ハンターの自分がゴリ押しした。ホント貪欲なもので
ナザレの北東35㎞、所要40分。バス停からほどなくしてバターリャ修道院にたどり着いたのは15時頃。
【バターリャ=戦い。14世紀前半から王位をめぐってポルトガルはカスティーリャ(現スペイン)と戦争中だった。ポルトガル王フェルナンド1世は男子に恵まれず、その娘ベアトリスは王位の譲渡を条件にカスティーリャのフアン1世と結婚したが、カスティーリャを厭うポルトガル貴族たちがジョアン1世(フェルナンド1世の異母弟)を推して対立。1385年、ジョアン1世率いるポルトガル軍6,500人がカスティーリャ+同盟軍31,000人を撃退し、独立を守った。その歴史的な戦いがバターリャ近郊で行われ、聖母マリアに感謝をささげるためにジョアン1世が建立したという由緒を持つ。14世紀後半に始まった工事は16世紀前半まで続き、その間7人の王が君臨し15人の建築家が携わったという。ゴシックとマヌエルが融合した様式】。

ファサードに近づいていく。これでもか、という彫刻の嵐。

彫刻をズームアップ【アーチ・ヴォールトという様式。旧約聖書に出てくる王・預言者、天使など78体の彫像が6列に並ぶ】。

入場してすぐ右手は創設者の礼拝堂で、この修道院を建立したジョアン1世とその妃ドナ・フィリパ・デ・レンカストレが眠る棺がある。
 手を取り合っている・・・仲睦まじい夫婦だったのかなぁ。

横の角度から、こちらがジョアン1世【台座側面には、ジョアン1世のモットー(英訳)"For the better”と妃フィリパのそれ"I’m pleased.”が繰り返し刻まれているという】。

周囲には夫婦の子どもたちの棺も安置されていた。こちらはエンリケ航海王子 =スペイン(2)&ポルトガル篇「その2」で言及した発見のモニュメントの先頭に立つ人物【ジョアン1世の第5子・3男。船酔いがひどかったともいわれ、自らは長距離の航海に挑んでいないが航海者を支援し、アフリカ西岸に幾度も艦隊を派遣して探検させた。1434年、当時 世界の果てとされその先に煮えたぎる海が広がると航海者たちが恐れたボジャドール岬(カナリア諸島の240㎞南)を越えたことで迷信を打破。存命中(~1460年)はシエラレオネまでの到達だったが、その死後にバルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達(1488年)、さらにヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓(1498年)。大航海時代に先鞭をつける功績をあげたと評価されている】。

この縦長な感じ、ゴシックだなぁ・・・【1430年代、ドイツからここにステンドグラスが持ち込まれた。ポルトガルの教会で初めて使用されたという】

磔刑図、肝心な部分が剥げている。

こちらは原形をとどめているような。てか、誰だろう・・・光輪があるけど左手に剣を持ってて、背景は牧歌的、この付近を表現してるのかなぁ。素直に考えるなら、献堂したジョアン1世か


北へ進み、王の回廊に出る。柱にほどこされた彫刻が同一じゃないんだなぁ・・・手が込んでる
【当初ゴシック様式でつくられた後に、マヌエル様式が加えられた。なお、柱の上部のレース編みのような彫刻は狭間飾り(トレーサリー)という】


ひっそりと噴水もあった。


その昔、教会のファサードを飾っていたと思われる彫刻が展示されていた。入ってくる時、どうりで新しいと思ったわ~ 
こちらは11枚上の画像に出てくる十二弟子(入口上部の脇に6体ずつ並ぶ)だろう【この記事を書くにあたり調べたところ、この教会は1755年のリスボン大地震だけでなく、19世紀前半のナポレオン軍侵略により大きく損壊したという。その後修復されて今日に至る】。

こちらは10枚上の画像、タンパン(三角形の部分)の右下にある福音書記者だろう。左に獅子を従えているので、右の人物はマルコと思われる。顔が失われているのが気の毒

こちらと同一の彫刻は残念ながら発見できなかったけど、口から水を吹き出す形状・・・樋嘴(ガーゴイル)かなぁ


最後に、未完の礼拝堂へ【ドゥアルテ1世(ジョアン1世の子)が自分の子孫の霊廟として建築に着手し、100年ほど工事したものの遂に完成しなかった。建築に欠陥があったためとも、ジョアン3世の方針によりジェロニモス修道院(リスボン)の建設に注力するべく建築家が去ったためともいわれる】。
ねじった柱に魅かれる

内側から見ると、こんな感じ。

未完成ゆえ、天井がない。

別の角度からパシャリ

この礼拝堂の施主、ドゥアルテ1世とその妃レオノール・デ・アラゴンの棺。このご夫婦も仲良しみたい。てか、当時流行ってた作風なのかなぁ・・・

こっちの棺は、丸くデフォルメされた動物たちが可愛い


再びバスでナザレへ戻った私たち。旅もあとわずかとなり、手持ち資金のメドが立ったので、夕食は久々に外食
海辺はシーフードでしょ とこの国の名物海鮮料理、イワシの塩焼きとカルディラーダを注文【ポルトガル風ブイヤベース。魚介(数種類の白身魚や貝)と野菜(ジャガイモ・玉ねぎなど)をトマトソースで煮込む。塩,オリーブオイル,ワインのほか、ハーブ(コリアンダー,パセリ,パプリカ,オレガノ,胡椒など)で味付けする】。白ワインのデキャンタも頼んで、2人で合計€17.1。例によって、お料理の画像を撮ってなくてごめんなさい
晩酌用の赤ワインも購入、余裕が出てきた

7・5 ナザレ ⇒リスボン (2008年8月12日)

前日はナザレ観光できなかったので、市街に出かけた。まずは、ここの地名の由来となっているマリア像に会うため、シティオ地区を目指す。
【ナザレの町は3地区に分かれている。かつて役場があり最も歴史の古いぺネルデイラ地区(丘の上)、そこから北に向かって海岸沿いに広がるプライア地区、そこから北西の崖の上にあるシティオ地区。かつては海だったというプライア地区は新興地帯だが、今や町の中心として最もにぎわっている。プライア地区とシティオ地区はケーブルカー(片道€0.9)で結ばれている】
泊まったホテルはプライア地区にあったので、ケーブルカー乗り場へ向かう。その途中で遭遇した教会。この国らしく、青いタイルが美しい。

右上のアズレージョ(ポルトガルのタイル)にズームアップ。左に立つ人物のもとに魚が集まっている・・・聖フランチェスコ【13世紀前半、イタリアのアッシジを拠点に活動した修道士。清貧を旨とするフランシスコ会を創設。自然のあらゆる存在への愛にあふれ、小鳥や魚に説教したり、狼を回心させたりしたという】 
カトリックが圧倒的に優勢なこの国にフランシスコ会の教会があっても不思議ではないが、確信はない ちなみに、一時期この画像を職場PCの壁紙に設定していたくらい、気に入ったのだった


ケーブルカーはぐんぐん高度を上げていく。車窓からパシャリ

そう、かなり傾斜が急なのだった(こちらは帰路に撮影)。

崖の上からナザレの街並みを見下ろす。砂浜は綺麗な弓なり。

90度視線を転じ、岬の先端方面(西)を望む。

いよいよノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会へ【8世紀、西ゴート王ロドリゴとともにこの地へやって来た僧ロマノは、現イスラエルのナザレからマリア像を携行していた。ロマノは死ぬ前に像を洞窟に隠したのだが、四百数十年後に羊飼いが発見。その後 聖母マリアの奇跡が起こって一躍有名になり、町はナザレと呼ばれるようになった。巡礼者が押し寄せるようになったため、像をまつる聖堂を14世紀後半に建設したのに始まる。現存する会堂は17世紀のもの】。

現代的なステンドグラス。

壁面の多くの部分はアズレージョ。


件のマリア像にまみえるには、祭壇の左横から裏へとまわる。その通路もアズレージョで覆われている。
お花、小動物、ヨット・・・可愛いなぁ


アズレージョに取り囲まれる磔刑像。

最後に階段をのぼると、目の前にマリア様が現れた・・・王冠を戴く幼きイエスを左腕に抱き、授乳している。私をこの地へ導いた、そのもの。
ポルトガルを旅することが決まり、ガイドブックで訪問地を物色していたとき第二のナザレがあることに驚いた。その由緒も知り、ここまでやって来たのだった。
その素朴な顔だちに何ともいえぬ古めかしさを感じ、しみじみとした。はるか地中海の東からユーラシア大陸のほぼ西端までやって来たと言い伝えられ、こんな立派な教会が建てられて篤く信仰されてきたのだから、すごい・・・。会いたいと焦がれる一方で、この像がかつて西アジアにあったという科学的な根拠は如何に とか頭をよぎっちゃう20世紀生まれの自分は何かに毒されているんだろーな


教会のすぐそばに、メモリア礼拝堂がある【聖母マリアの奇跡が起こったという伝説の場所に建てられた。1182年、貴族のドン・フアスが狩りの最中に岬まで追いかけて行った鹿は姿を消した。濃霧で視界が悪く、崖から落ちたのだ。フアスの馬は後ろ足のみ岩の上に残していたものの、今にも海に落ちるかという時に聖母マリアが現れて馬は戻され、命を救われたという】。

礼拝堂の背面。屋根のアズレージョ、青と黄色のコントラストがいい

近寄ると、ドン・フアスの伝説がアズレージョで描かれている。

ちなみに、先ほど訪れた教会にもこの伝説を描いた絵があった。


入場する。4m四方もない小ぢんまりとしたサイズの礼拝堂なのだが、中はアズレージョで埋め尽くされている。こちらが天井。

実はこの礼拝堂、崖に沿って建てられていて地下も存在する。地下へ続く空間も全てアズレージョ(Cちゃんに撮ってもらった自分にモザイクをかけた)。

個人的には、このメモリア礼拝堂に心奪われた スペイン(2)&ポルトガル篇「その2」で既に紹介してきたように、シントラの王宮でもオビドスのサンタ・マリア教会でも、そして先ほどのノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会でもアズレージョを目にしてきたが、なんというか、かなり狭い空間にギュッと凝縮されているのが自分好みだった

外に出ると、いつのまにか晴れてきていた。
メモリア礼拝堂の裏から海を見下ろす。う~ん、ここから落ちるのは怖いなぁ

南西に目を向ければ、ロカ岬に負けず劣らずの大海原が横たわっている。


再びケーブルカーで崖を下り、プライア地区へ戻る。その中でも、漁師とその家族が暮らすというペスカドーレス地区の路地をぶらぶら歩く。
白い壁に洗濯物が映える。

家の前に腰掛け、ご近所さんとおしゃべりしているようだ・・・時間がのんびり流れている。

実は、ここナザレでは伝統的な衣装を身にまとう風習が残っている【女性は7枚重ねの短めのスカートの上に刺しゅうをほどこしたエプロン、頭にスカーフを巻くというスタイル。7枚の根拠には諸説あり、「1週間の7」でスカートを1枚ずつ脱ぎながら漁に出た夫が戻って来るのを数えたという説、(旧約聖書『創世記』で神は6日で天地を創造し7日目を安息日としたことから)西洋における7は聖なる数であり7つの波が過ぎると海が穏やかになると言い伝えられ 漁に出た夫の安全を祈願したという説などがある】。

もっとも、スカーフの巻き方は色々あるようで。

一方、夫に先立たれた女性は黒づくめという決まりなんだそうだ。

ちなみに男性はチェックのシャツ、幅広のズボン、腰に黒い帯を巻くスタイルらしいが、今やほとんど見かけないという。女性も若い人々は身に着けなくなっているらしく・・・そのうち廃れていくのかもしれない。

こちらは市場の様子。地元の方々に混じって、自分含め外国人観光客もウロウロしていた。

ビーチは海水浴客であふれかえっていた。画像中央の岬の上がシティオ地区。


11時頃 ナザレを後にして、バスでリスボンへ戻る。カルダス・ダ・ライーニャ経由で2時間弱の道のり。
2日前までお世話になっていた、ポンバル侯爵広場付近のホテルに再び投宿。この日は20時からファドを聴きに行くことになっていた。翌夕の出国まで滞在時間がまだ残されているとはいえ、ホテルで休むのはさすがに勿体ない。

というわけでしばし休憩した後、2日前にも足を運んだリスボンの西郊外はベレン地区へ向かった。お目当てはジェロニモス修道院。
【エンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業を記念して、マヌエル1世が1502年から建立開始。大航海時代で繁栄するポルトガルが贅を尽くしてつくりあげたマヌエル様式の最高傑作とされる。マヌエル様式とは、ゴシックの影響を受けつつポルトガルで独自に発達。マヌエル1世(在位1495年~1521年)の頃に流行したため、その名を冠する。当時のポルトガルの国勢を反映した過剰な装飾、および世界を船で往来したため海洋にちなんだ装飾(船・ロープ・珊瑚・海藻・異国の植物など)を特徴とする。1755年のリスボン大地震で被害を免れた数少ない建造物。なお1541年4月、フランシスコ・ザビエルはここでミサをあげた後、テージョ川を下って海外伝道に旅立った。 ←勉強不足で、訪問当時はその事実を知らなかったけど
さすがこの国の黄金時代のシロモノ、半端ない。素人のデジカメでは画角に収まりきらないほど巨大なのである。一説には一辺が300mとか。
というわけで、パーツをご覧ください。 画像右下、錨が横並びに彫られているように見えるのは気のせいか??

南門を横から撮影。レースのように繊細な彫刻


この修道院のイチオシは回廊【55m四方、2階建て。1階はバターリャ修道院の王の回廊も手がけた建築家ボイタックによる。2階はその死後に建築家ジョアン・デ・カスティーリョが引き継いで完成。イスラム建築の影響も受けているという】。

回廊の壁に彫刻あり。エルサレムで逮捕されたイエス・キリスト(左)とローマ兵(右)かな・・・。画像中央上部の丸いのは、たぶん天球儀【B.C3世紀のギリシャおよびB.C2世紀の中国で発明されたといい、前者をアーミラリ天球儀、後者を渾天儀という。水平線・子午線・赤道・黄道などを示し、天球上の天体の動きを模した。世界を股にかけたマヌエル1世治世下のシンボルであり、ポルトガル国旗にも取り入れられている。マヌエル様式の意匠のひとつとして知られる】。

かつてはライオンの口から水が噴き出していたのだろう。

画像中央上部にご注目あれ。マヌエル様式らしい帆船の彫刻である。

あの噴水は現役だわね。中央にのぞくドームは、併設のサンタ・マリア教会。

柱の彫刻が精緻なこと

こちらは食堂。

壁の絵をズームアップ。手前中央の幼な子イエスを拝んでるってことは、マギの礼拝かなぁ・・・

腰壁にはアズレージョ。その上を装飾するロープ様の彫刻、これまたマヌエル様式の典型。


回廊の2階とつながっているサンタ・マリア教会へ。林立する柱は椰子の木をモチーフにしているという。
【教会は無料だが回廊は有料(€6)、よって支払わない場合は教会の2階にあがることはできない。なお、この建築は20世紀のモデルニスモに影響を与えたといわれ、ガウディのサグラダ・ファミリアにその痕跡を感じることができる。スペイン(2)&ポルトガル篇「その1」の13枚目の画像をご参照ください】

石造りの壁面が年月の経過を感じさせ、重厚感を加えている。

ヴァスコ・ダ・ガマの棺【こちらもれっきとしたマヌエル様式。帆船・ロープ・植物などで彩られている】。
インド航路の開拓によってアフリカから金、アジアから香辛料を集め巨万の富を得て、ポルトガルは世界に君臨したんだもんね・・・この国で尊崇されるわな


私たちはパステイス・デ・ベレンに寄ることなく去った【ジェロニモス修道院の近くにあるパステル・デ・ナタの有名店。19世紀前半の自由主義革命で修道院が閉鎖される中、収入を得るためにジェロニモスの修道士たちが売り出した。その秘伝のレシピを受け継ぎ、1837年に創業。パステル=菓子パン、ナタ=クリームの意で、パイ生地に卵ベースのクリームを詰めて高温で焼きあげる。当時、洗濯した修道服ののり付けに卵白を使用しており、余った卵黄を活用して誕生したともいう】。Cちゃんからも行こうと誘われることはなかった。ともに辛党だからなのか、1日に万個単位を売るという行列に並ぶのを避けて先を急いだからなのか・・・。が、早くもこの翌年に後悔するのだった マカオ旅行中に有名なお店でエッグ・タルトを食べたのだが、本家本元のを口にしてないから味が比較できなくて
閑話休題。リスボン中心部へ戻るため、修道院の目の前で市電15番を待った。観光シーズンなので、停留所は大混雑していた。押し合いへし合いしながら乗り込もうとしていた時、ふと違和感を感じた。肩からたすき掛けしていたショルダーバッグの外ポケットに指を突っ込もうとする輩がいるのに気付き、顔を上げると目が合った男(20代くらい、くせ毛でフワフワの髪型)はす~っと遠ざかっていった。人ごみを器用に掻き分ける身のこなしからして、常習なんだろう。事前のガイドブック情報でスリには気をつけるよう注意喚起されていたし、そもそもポルトガルに限ったことではなく異国を旅する時は外ポケットに貴重品など入れるはずもない(ボールペンと紙ナプキンくらい)。被害はゼロだったけど、何年経ってもその顔を忘れることはない。あふれかえる人の中で、自分がターゲットとして狙われたことがショックだった。隙があると思われたことが一介の旅人として只々悔しく、もっと気を引き締めなければと心に誓った

市電を乗り継ぎ、カ―ザ・ド・ファド(ファドのお店。ファドハウスとも)付近にあるカテドラルへ向かった【イスラム教徒からリスボンを奪還した直後の1147年、アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世とも。初代ポルトガル国王)がモスクの跡地に建てた。リスボン最古の教会。当初はロマネスク様式だったが、13世紀後半にゴシックに改築。14世紀以降たびたび地震に見舞われ、特に1755年のリスボン大地震で大きく損壊。20世紀初めに修復され今日に至るため様々な建築様式が混交しているものの、ファサードは創建当初の雰囲気を残す。要塞のようにいかつい外壁、薔薇窓の左右に備わる銃眼はレコンキスタ後の建造物が有する特徴という】。
立っていると、市電が次々と通り過ぎていく。ご覧のとおり、傾斜がきつい場所である。

入場したのだが、自分が撮ったのはこれだけ。バプテスマのヨハネから洗礼を受けるイエスのアズレージョ。

狭い道ではバイクや歩行者がギリギリの距離で市電とすれ違う。

カーザ・ド・ファドで食事もとると割高というので、レストランで腹ごしらえすることにした。
金銭的な事情により、この国の前半ではまともなポルトガル料理を食べられなかった。今宵は最終夜、心おきなく堪能したい
アローシュ・デ・マリスコス【アサリ・エビ・イカ・カニ・白身魚などが入ったシーフードリゾット。魚介の出汁・白ワインの風味が豊か。刻んだコリアンダーをトッピングして食す】と、バカリャウ・アサード【干し鱈のオーブン焼き。肉厚のタラの切り身・ジャガイモ・玉ねぎなどにパプリカパウダー、オリーブオイルをかけてグリルする】を注文。本当はバカリャウ・ア・ブラス【細くほぐした干し鱈・玉ねぎ・極細フライドポテトを卵でとじる。極細フライドポテトはスーパーで売っているらしい】を食したかったのだがお店にないと言われ、バカリャウ料理ならこれ と勧められたのにした。ポルトガル5日目にして初めて口にするバカリャウ【塩漬けにした干し鱈。日持ちするため、船上で摂取できる貴重なタンパク源として大航海時代に普及。ポルトガルの国民食で、365日出せるほどレシピが豊富という。水を替えながら最大で数日間塩抜きして使用するが、大きさによって時間を調整しなければならず、それ次第で味が決まるため腕が問われるらしい】 ともあれ、白ワインのデキャンタで乾杯 
例によって画像を残してなくて、ごめんなさい

ファドの画像もないため、ここからは文章のみで・・・
Cちゃんは音楽が好きで造詣が深い(現在進行形でパイプオルガンを習っている)。翻って自分は音楽の才能が壊滅していて、音がとれずリズム感もなし、幼少から習ったピアノは苦い思い出だけを残して弾ける曲は皆無 そんなだが、ポルトガルを訪れるなら是非ファドを聴いてみたいと思ってCちゃんを誘い、一も二もなく了承を得たのだった。
【ファド; ポルトガルの民族歌謡。ラテン語のfatum(=運命・宿命)が語源という。歌の起源は諸説あるが リスボンのモディーニャ(都会的で叙情的な歌謡)と、かつてポルトガルの植民地だったブラジルのルンドゥー(アフリカ人奴隷の軽快な踊り歌)が融合したという説が有力。船員・港湾労働者・奴隷・売春婦たちが住むリスボンの下町(アルファマ地区など)で歌い出され、19世紀前半に形式が確立されていった。楽器ギターラ(6組の複弦をもつ、リュート属の弦楽器。その起源は曖昧だが、いわゆるギターとは異なるという。14~15世紀にはポピュラーだったようだが、詳細不明な部分が多い)とクラッシックギターを演奏に用いる(他の楽器が入ることもある)。ポルトガル中西部の大学都市コインブラのファドと、港町リスボンのそれの2系統がある。前者は大学生が愛を告白するために始まったとされ、コインブラ大学の学生・OBの男性複数名が明るくロマンティックに歌う。後者は女性の独唱が多く、人生の喜怒哀楽をsaudade(=サウダーデ。胸にこみあげてくる思い)豊かに切々と歌う。ファドを世界的に有名にした歌手アマリア・ロドリゲス(1920~1999年)は、エンリケ航海王子やヴァスコ・ダ・ガマと並んでポルトガルの英雄10傑に選出された。また2011年、ファドはユネスコの世界無形文化遺産に登録された】。

€20のチャージで、お酒は飲み放題だった。夕食時に白ワインを飲干したにもかかわらず、ここぞとばかりにポートワインを飲む。リストを見てもよく分からないので手当たり次第に頼むと、褐色・えんじ色・琥珀色・・・とりどりの液体がショットグラスに注がれて提供され、自分はTawnyが気に入った
【ポートワイン; マデイラ、シェリーと並ぶ世界3大酒精強化ワイン(=ブランデーを添加したワイン)。発酵中にブランデーを添加することで酵母が殺菌され、糖分がアルコールに変換されなくなるため、ブドウ果汁の甘味が残る。深いコクと濃厚な甘さが特徴で、主に食後酒とされる。レッドポート(黒ブドウが原料。RubyとTawnyに大別される)とホワイトポート(白ブドウが原料)がある。14世紀半ばにはポルトガル北部のドウロ地区で生産されていた。17世紀末、第二次百年戦争の際に敵国フランスからのワイン輸入を禁止したイギリスは、ドウロ川沿いのシトー派修道院がワインにブランデーを添加しているのを知り、広めたという。現在もイギリスへの輸出が最多】

眉根を寄せて苦しそうに歌いあげる女性の声に耳を傾けながら、酔いも手伝って、しだいに思考は大航海時代へタイムスリップしていくのだった。
陸の上にいる今生きているのは確かだけど、ひとたび海に出れば明日の命は保証されない。生活するにはそれでも出航しなければならなくて、一か八かで航海から戻って来ることができたらとても嬉しくて、それを繰り返すのが人生と腹を括っていて。一方でそれを見送ったり迎え入れたりする人々は、その都度痛切な気持ちを抱いていたんだろうな。
かつてカーザ・ド・ファドに集った人々は、未来への漠然とした不安を抱きつつも、ひとまず命あることを喜び、感傷的なファドの旋律に身をゆだねながら、ひとときの時間を共に過ごしたのだろうか・・・

一般的に、遅い時刻になるほど上手な歌い手が登場するというが、決して治安が良いとはいえない地区で、そうそう長居はできなかった。軽く真夜中を越えて続くショーの序の口で中座し、フィゲイラ広場から地下鉄でホテルへ戻った。とはいえ一人だと こんな遅い時間に出歩くことすらできないから、友との旅は本当に心強くありがたい

5 リスボン (⇒出国) (2008年8月13日)

この日、18時半の便で経由地のパリへ出国することになっていた。見納めのリスボンに繰り出す。
前日同様、この日も乗り放題券をゲット【正確にはセッテ・コリナーシュ。地下鉄・(カリス社が運営する)バス・市電・ケーブルカー・サンタジュスタのエレベーターに乗り放題で、1日なら€3.7】、地下鉄に乗る。
まずはケーブルカーのビッカ線へ赴く【リスボン市内にはケーブルカーが3路線ある。19世紀後半に運航開始。2002年には国定記念物に指定された。非常に短いが、勾配がきつい丘の町ならでは】。この路線、テージョ川を遠望するのがイイんだよね~ リスボンのランドマークとなっている風景。乗らずに、パシャリ
ちなみに15分おきに発車、下の駅から3分で上の駅まで運んでくれるらしい。

こちらは後刻(帰り際)に撮影。


次に、300m北東のサン・ロケ教会を目指してバイシャ・アルト地区を散策
前日のカテドラル周辺と同様、素敵なタイルで外装された建物が目につく。

サン・ロケ教会の外観【マヌエル1世が建てた聖ロケ(ペストから守ってくれる聖人)をまつる礼拝堂の跡地に、イエズス会が16世紀後半に建てた。1584年、はるばる日本からたどり着いた天正遣欧使節の一行が約1ヶ月滞在した(イエズス会の巡察使ヴァリニャーニの呼びかけで、キリシタン大名3人が関わって4人の少年(伊東マンショ、千々石ミゲルら)を派遣)。1755年の大地震でファサードが倒壊し、現存するのは再建後のもの】。

画像左にご注目あれ。IHS =イエズス会のマークがアズレージョで示されている。

右端にいますはフランシスコ・ザビエル像、左端はイグナティウス・デ・ロヨラ像。

天井はこんな感じ。アーチではなく平らで、木造。


北北西へ100m余り進み、サン・ペドロ・アルカンタラ展望台へ。7つの丘を持つというリスボンには展望台がたくさんあるが、そのひとつ。
右(南東)にテージョ川を見晴らすことができる。

正面(東)にはサンジョルジェ城【カエサル帝の時代(紀元前1世紀)、ローマ帝国がつくった要塞に始まるという。その後、西ゴート族・ムーア人・・・と支配者が変わり、13~16世紀にはポルトガルの王宮が置かれた】。
4日前、エヴォラからの帰路にリスボンは丘だなぁと思ったけど、やっぱりねぇ・・・
夕暮れ時はオレンジ色に染まった街が美しいとガイドブックに書かれていたが、他所見学の都合でその時間帯に訪れることは叶わなかった 
もしもこの後リスボンを目指される方がいらっしゃるならば、是非おすすめしたい。


最後に、国立古美術館へ【建国(12世紀)から19世紀までの作品、また大航海時代にアフリカ・インド・東洋などから集めた品々を擁するポルトガル屈指の美術館。17世紀の貴族邸宅を改装して19世紀末に開館】。ベレン地区ほど外れてはいないが、市の西部に位置する。丁寧にまわるならばかなりの時間を要するだろうが、東洋美術(2階)に狙いを絞っていた。
帆船を描く有田焼。

南蛮屏風は何枚もあり、圧巻だった【落款は狩野内膳(1570年生まれ、1616年没。豊臣家に仕えた狩野派絵師。秀吉の7回忌臨時大祭(1604年)を描いた「豊国祭礼図屏風」は近世初期風俗画の代表作といわれる。神戸市立博物館所蔵など南蛮屏風の作品を数点残す)。ただし、これらの作品は作風などから別人の作かともいわれており、今後の研究が待たれる】。


いかにも異国の衣装を身にまとった上陸者が描かれている。

かと思えば、着物の日本人と犬(?)も登場。


★ 最後に ★


この旅が実現するずいぶん前から、ポルトガルを訪れたいと考えていた。かつて日本と交流があった点に面白さを感じたのもあるが、何よりもアズレージョに魅かれた。雪降る日に生まれた自分は、パーソナルカラーなるものがあるとしたら寒色系だと常々感じている。深い青色を見つめていると、とめどなく心が安らぎ落ち着いていく。特に外壁がアズレージョで覆われている建物に憧れ、北部のアヴェイロやポルトに関心を持った。しかし、スペインからの夜行列車が着くのはリスボンであり移動時間の関係から、またポサーダに泊まりたいという欲も出たため、結果的に旅程に組み込むことが叶わなかった。今回の記事で紹介したとおり、訪れた範囲でもアズレージョを愛でることができたが、もっと触れてみたいという思いが残る。

この記事を書いている時、ポルトガルに思いを馳せながら 久しぶりにヴィーニョ・ヴェルデを飲んだ。完熟前のブドウを用いるため、スパークリングワインではないのだが軽く発泡している。アルコール10%未満と軽く、酸味がありさわやかな味わいが特徴で、自分の好みどストライクなワインである
併せて、ポルトガルの料理が美味しかったことも思い出す。自分の計算ミスにより期せずして食費節約旅行になってしまったが、なんとか終盤には郷土料理に舌鼓を打つことができた。それまで苦手だったコリアンダー(パクチーまたは香菜とも)が美味しいと感じられるようになったのもポルトガル料理のおかげである。大学時代、学生街のタイ料理屋でトムヤムクンにトッピングされていたパクチーを口に入れたのが最初だったと記憶しているが、元来辛いものが得意でないうえに 見ず知らずの香草を嗅いでゲンナリしてしまった。1999年にタイを旅して本場で何を食べても、パクチーだけは好きになれなかった。ところがどうしたことか、オリーブオイル香る魚介料理に合わせると、ピタリとはまるのだ。例えばフランス料理だったらパセリをトッピングするところに、ポルトガルではコリアンダーを刻む。大航海時代に持ち帰って取り入れた歴史香る味だなぁ、としみじみする。そして勝手なもので、一旦美味しいと感じるとポルトガル以外の料理にのっかっているのも平気になったのだ。パクチーが苦手という方、ポルトガル料理で克服できるかもしれないので、ぜひ挑戦してみてほしい なお、お店に用意がなくて食べられなかったバカリャウ・ア・ブラスは、代々木八幡にあるポルトガル料理店で機会に恵まれたのだが、同席したAちゃん・Bちゃん(ワインスクールで知り合った友人)はものすごく美味しいと喜んでくれた。
ただし、タコ料理をついぞ口にする機会がなかったのは残念だった。食べる習慣のある国が少ないなかポルトガル人は好んで食すと知り、タコ食に慣れ親しむ日本人として大いに興味あったのだが アズレージョも探訪したいし・・・今度はポルトガル北部に足を運びたいと考えてしまう、いつもの悪い癖で。一度訪れた国の再訪よりも新規開拓を優先する傾向にある自分なので、いつになるやら甚だ心もとないが、実現した暁には道行きを紹介したい。

 おしまい 



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スペイン(2)&ポルトガル篇 その2

2023年07月09日 | ヨーロッパ
ここからポルトガルに突入 リスボンを拠点に、西へ東へ北へと出かけます。
旅の中盤には、以下の地図中の➎~➐を訪れました。ただし、近いためリスボンとシントラ,ロカ岬は➎に、オビドスと(旅の終盤=その3で足を伸ばす)ナザレ,バターリャは➐に集約しています。①~④は旅の序盤に訪れた場所です。


4・5 (マドリード ⇒)リスボン ⇒シントラ ⇔ロカ岬 ⇒リスボン (2008年8月8日)

一夜明け、食堂車にて朝食をとる。いかにも眠たそうな顔をしている自分にモザイクをかけた。

前夜23時前にマドリードを出た夜行列車は、翌8時にリスボンのサンタ・アポローニア駅に到着。タクシーをつかまえて、ポンバル侯爵広場付近のホテルへ。チェックインできない時間なので、荷物だけ預けてすぐに観光へ出発。列車やホテルの手配をお願いした旅行社を通じてあらかじめホテルに話を通してあったので、実にスムーズだった 
滞在中、何度も行き来したポンバル侯爵広場(撮影は後日)。


この日の目的地ロカ岬行きのバスが出るシントラを目指す。まずは地下鉄のイエローラインに乗り4駅、降りてエントレ・カンポス駅から国鉄に乗り換える(当時、ロシオ駅は改装工事中で閉鎖されていた)。
西北西へ28㎞、40分ほどで到着。ロカ岬とシントラを結ぶバスは1時間15分に1本のため、まずはシントラを観光して向かうことにした。
大西洋を望みたい、とムーアの城跡へ【ムーア=アフリカ大陸北西部に住むイスラム教徒。スペイン語でMoros、Moorは英語読み。ムーア人は8世紀にイベリア半島に侵攻し、標高450mのこの山頂に9世紀までには砦を築いた。12世紀半ばにアフォンソ・エンリケス(のちのアフォンソ1世、初代ポルトガル王)が攻略、1755年のリスボン大地震で多くが崩壊、19世紀の補修を経た城壁のみ現存する】。

シントラの町の奥に大西洋を見晴らす。天気が良すぎて、空と海の境界が判然としないとは

Cちゃんに振り返ってとリクエスト、そしてパシャリ

ポルトガルの旗、目立つなぁ~


数百m南にぺーナ宮殿がそびえる【フェルナンド2世が16世紀の修道院を改築させて、19世紀後半に完成。標高528mの山頂にそびえ、20世紀初頭までポルトガル王家が使用】。


お次は王宮へ【ムーア人による建築物をジョアン1世が改築して礎が築かれ、15世紀から王家が夏の離宮として使用。特にマヌエル1世が16世紀に改築した箇所は、大航海時代に繁栄したポルトガルの国勢を反映している】。Cちゃんはあまり乗り気ではなかったが、せっかく来たんだからと押し切った。我ながら、世界遺産に貪欲だなぁ
しかし、ここら辺りからデジカメのバッテリーが怪しくなり・・・撮影をケチったため画像が少ない この記事を書くにあたりCちゃんに相談したら、好きな画像を使っていいよと言ってくれたので、所々で掲載する。

右の壁、顔にビックリ

白鳥の間。天井に広がる白鳥は各々異なるポーズをとるという手の込みよう。

動物の頭を模した調度品は何だろう (Cちゃんが撮影)

カササギの間の天井はこんな感じ。

壁面はアラブっぽいタイルで装飾されている(Cちゃんが撮影)。

右の入口の奥には・・・

葡萄の葉のタイル。

人魚が登場する部屋もあり。

半円状の天井には帆船が描かれている。このあたり、大航海時代を牽引したポルトガルっぽい雰囲気だな~

ふと窓の外を見ると、先ほどまでいたムーアの城跡がかすかに見える(Cちゃんが撮影)。

紋章の間の天井。

壁はアズレージョ(青が印象的なポルトガルのタイル)、斬新な組み合わせ (Cちゃんが撮影)

小さな礼拝堂(Cちゃんが撮影)。

キッチン。


数百m東のシントラ駅に戻ってバスに乗り、30分余りでロカ岬に到着。
ポルトガルに来たなら絶対に訪れようと決めていた場所。北緯38度47分・西経9度30分、まぎれもなくユーラシア大陸の最西端。


詩人ルイス・デ・カモンエスの石碑(Cちゃんが撮影)。「ここに地果て、海始まる」の一節に、否が応でも郷愁がそそられる・・・
【カモンエス; 叙事詩『ウズ・ルジアダス』(1571年)で歴代の航海者を賛美し、ポルトガル最大の詩人と謳われる。従軍中に片目を失明、投獄やインド,マカオでの軍務など、その生涯は波乱に満ちていたという】

岬の観光情報所(Cちゃんが撮影)。壁の赤いのはポストだが、切手は売ってない・・・。この国に到着したばかり、さすがに備えがなく諦める。

予定通り、最西端到達証明書はゲット(€5也。€10のもある)。蝋印(中央右の赤いヤツ)が押されていて、本格的(この記事を書くにあたり撮影。右下の日付と同様の独特の字体で書き込まれた自分の氏名にモザイクをかけた)

他にも観光客がいなくもなかったが、全体的にのんびりとした時間が流れていた。犬もまったり・・・(Cちゃんが撮影)


来た道を再びバスと国鉄でたどりリスボンに戻った私たちだが、この日の夕食はレストランではなく部屋食となった。残りの滞在日数と手持ちの現金を計算すると心もとなく、外食をセーブしてお金を極力温存せざるを得なかった。よって、スペインでもお世話になったエル・コルテ・イン〇レスの地下にあるスーパーへ(私たちの宿から北に1㎞、地下鉄ブルーラインで2駅のサン・セバスティアン駅直結)。黒パン・ハム・チーズとパテの缶詰を入手、2人分でしめて€10.84

5・6 リスボン ⇔エヴォラ (2008年8月9日)

この日はエヴォラへ日帰り旅。
地下鉄のブルーラインに乗り4駅、市の北西部にあるセッテ・リオス・バスターミナルへ向かう。110㎞東南東へバスはひた走り、2時間ほどで到着。

エヴォラのバスターミナルは町はずれにあるため、1㎞ほど東へてくてく歩いて行く。
【エヴォラ; 旧石器時代前期には人が暮らしていた痕跡があるという。B.C.10世紀以降、移住してきたケルト人と先住民ルシタニア人の混血が進む。B.C.57年にはローマ帝国の軍門に降り、交易路の中継地として繁栄。8世紀以降はムーア人に支配されるが、レコンキスタの中で1166年に解放される。大学も開設され、15世紀後半からはポルトガル・ルネサンスの中心地として、芸術・学問・宗教が隆盛】
表札がいいなぁ

教会


Cちゃんが撮ってくれた自分にモザイクをかけた。南欧の多くの街がそうなのかもしれないが、強い日射しのもとでは白い建物が目に涼やか


お目当てのカテドラルに到着【12世紀後半~13世紀、ロマネスクからゴシックへの移行期に建設された。その後も14世紀・16世紀・18世紀と断続的に手が入ったため、マヌエル様式やバロックの影響も受けている】。

入口はゴシック様式で、十二使徒の彫像が並ぶ。

向かって左を拡大すると・・・

お次は右のほう。

さらに中央扉寄りの彫刻をズームアップ(退出時に撮影)。しつこくてごめんなさい・・・好きなもので


この教会の屋根の一部はテラスになっていて、のぼることができる。下の画像中央に写る円の下が階段になっている。他の観光客が記念撮影しているのを背後から撮った

中庭を囲むようにつくられているテラス屋根。

中庭を見下ろす。

カテドラルの頂上部はテラスよりはるかに高い。三角のウロコ屋根が可愛い

テラスから教会の外を眺めると、のどかな光景が広がっている。ここがアレンテージョ地方の中心都市と言われなければ、気づかないかもしれない。

中庭に下りて、回廊の柱。

シンプルだけど重厚な回廊【14世紀に完成、ゴシック】。

金属製レリーフの右端にはこの教会。てか、面白い形の木だなぁ【この記事を書くにあたり調べたところ、コルク樫と思われる。ポルトガルはコルクの生産量が世界一(31万t、シェア52%[2018年])なのだが、中でもこのアレンテージョ地方が一大産地という。なんでも、十分な雨量と湿気があり、夏は乾燥して日照時間が長い気候が適しているらしいのだ】。

回廊には棺のある空間も。

画像中央左寄りの彫刻をズームアップ。

別の角度から、他の彫刻にも寄ってみる。


いよいよカテドラルの中へ。このパイプオルガン、日本にも多少縁がある【1584年、リスボンに到着した天正の遣欧使節はエヴォラまで足を伸ばし、伊東マンショと千々石ミゲルがこのオルガンを演奏したと伝えられる】。

側廊脇を彩る聖母マリアの祭壇は金ピカ。

その向かい側には天使ガブリエル像。足元にご注目あれ、鷲が黒ウサギを抱えている。珍しい意匠ではないか

正面の祭壇。この辺りはがっつりバロック様式だなー

振り返るとこんな感じ。

下段のアズレージョは新しそうだけど、上段の絵は雰囲気あるような・・・


カテドラルを出て数十m北西へ。ローマ帝国時代に建てられたというディアナ神殿【1世紀、ローマのアウグストゥス帝を祀るため建てられたが、2世紀末~3世紀に改築され月の女神ディアナに捧げられた。コリント様式の柱14本が残る】。

別の角度から。垣間見える三角屋根が先ほどまで居たカテドラル。
左端に写る低い建物は旧ロイオス修道院、現在はポサーダとして人気がある。実は宿泊をちょっとだけ検討したのだが、旅程全体を鑑みて断念したのだった【ポサーダ; 古城・修道院・貴族の館などの歴史的建造物を改修した宿泊施設。1942年に1軒目がオープンし、いまや35軒を数える(2022年6月時点)。当初は国営だったが、現在は民営】。

神殿付近は高台に位置するため、街を見晴らすことができる。


再びバスターミナルへ戻り、リスボン行きのバスに乗った。2時間飽くことなく車窓を眺めていると、最後に予想外のサプライズが待っていた
あれ、キリストの像だよね・・・(以下2枚、車窓から撮影)

角度的に正面はムリだったが、少しだけ尊顔を仰ぐ。

存在は認識しつつも、訪れる予定のなかったクリスト・レイだよね【ブラジルはリオデジャネイロのコルコバードのキリスト像を模して、1959年に完成。台座75m・本体28m】。
と、いうことは・・・期待ふくらむ私の眼前、テージョ川を隔てた対岸にリスボンの街が飛び込んできた。
たしかに事前のガイドブック情報で、エヴォラ ー リスボン間のバスは南北2つのルートをとると書かれていた。たぶん往きは北のルートでヴァスコ・ダ・ガマ橋を経由し、復路は南のルートで4月25日橋を通ったのだろう。こんもりとした丘のようなリスボンの街を遠望してみたいと密かに思っていた、フェリーや列車に乗ればクリスト・レイまで足を伸ばすのは可能ではあったが 時間の都合で割愛するしかなかった、それをバスが実現してくれるとは 狙って南ルートのバスをつかまえたわけではなく、ただただ観光を終えて飛び乗ったのがそれだったので、本当に幸運としか言いようがない

閑話休題。
この日パンとビールを買い足して、前夜の残り物のパテで夕食を済ませた私たち。トホホ

5・7 リスボン ⇒オビドス (2008年8月10日)

オビドスへ移動する前に、リスボン中心部から6㎞西のはずれにあるベレン地区へ寄った。
地下鉄を乗り継いでカイス・ド・ソドレ駅まで行き、市電に乗り換えてベレン駅付近で下車。テージョ川を左に見ながら、数百m西へ向かう。ふと振り返ると、前日に通過した4月25日橋とクリスト・レイが目に入った。

まもなくすると、前方にお目当てのモニュメントが見えてきた。この辺りはリスボン郊外に暮らす人々の良き散歩道になっているようで、ゆっくりと時間が流れている感じだった【ガイドブック情報によると、市内を観光した人々が押し寄せる午後は激混みらしい。落ち着いた雰囲気を味わいたいなら、朝早めに訪れることをオススメしたい】。

ヨットハーバーが水辺の雰囲気を醸し出す。目指すは、帆船をかたどった発見のモニュメント【高さ52m。1960年 エンリケ航海王子の500回忌を記念して、ヴァスコ・ダ・ガマがインドへ向けて船出した地に建てられた。近代のものゆえコンクリート製で、内部にエレベーターを有する】。

先頭に立つエンリケ王子の後ろには航海士・天文学者・宣教師・地理学者など、ポルトガルを大海原へと押し出した職業の人々が続く。

わが愛しの(?)ザビエルは最後尾付近に控えている。

反対側(西)の彫刻。

東西総計32名のうち、唯一の女性はエンリケ航海王子の母ドナ(ジョアン1世の妃)。

モニュメント脇の広場、床には大理石モザイクの世界地図が広がっており、大航海時代の立役者だったポルトガルが各国を何年に「発見」したかが刻まれている。
日本の部分はこちら、1541年となっている【種子島での鉄砲伝来より遡って、豊後の神宮寺浦にポルトガル船が漂着した年。このときカンボジア原産のかぼちゃの種が持ち込まれ、領主の大友宗麟に伝えられたという】。


川沿いをさらに西へ数百m進む。先ほどのモニュメントがみるみる遠ざかっていく。

ベレンの塔に到着【高さ35m、地下・地上合わせて6層。16世紀前半、マヌエル1世の命令によりテージョ川に出入りする船を監視する目的でつくられた。1755年のリスボン大地震では被害を免れ、当初の面影を残す】。

さっそく入場。目についた大砲にぎょっとするが、河口警備の塔だもんなぁ・・・

南の方角、対岸のアルマダを眺める。

西に広がる河口までは5㎞ほど、その先は大西洋に出る。

上層から見下ろしてみる。

遠く東には件の橋とキリスト像が垣間見える。欄干の十字架がいいなぁ

下りて、塔の南面を見上げる。


再び市電に乗車し、リスボン中心部へ戻る。泊まっていたホテルに預けていた荷物を引き取り、地下鉄でセッテ・リオス・バスターミナルへ。
90㎞ほど北のカルダス・ダ・ライーニャへは1時間余りで到着、バスを乗り換えて10分ほど南下しオビドスに到着。
【オビドスはローマ帝国の時代(B.C.300年ころ)に築かれた砦に歴史がさかのぼるという。西ゴート人やムーア人による支配を経て、12世紀半ばにアフォンソ1世が奪回後、再建された。13世紀後半に王妃イザベルがこの町を気に入って以来、19世紀前半まで代々王妃の直轄領となり、中世の面影をよく残し「谷間の真珠」と称えられる。現在の人口は約800人】
門(?)をくぐって、バスは到着。(以下2枚、撮影は翌日)

バスを降りると、もう城壁が見える。

町の入口、ポルタ・ダ・ヴィラから入る。(以下2枚は一旦チェックイン後、城壁を歩いている時に撮影)

18世紀のアズレージョが美しい【この城門、14世紀後半のムーア人支配下に築かれた。中央扉の内側は、聖母マリアとオビドスの守護聖人ピエダデに捧げられた祈祷室という】。

ポルタ・ダ・ヴィラから北東へ400m、今夜の宿はこちら。そう、お城なのだった。(撮影はチェックイン後、城壁を歩いている時)
ポルトガル行きを決めた時、どこかでポサーダに泊まりたいと思った。既出のエヴォラのと迷ったが、やはりお城の魅力には勝てず・・・
だって、こんな機会でもなければ夢のまた夢だもんね

敷地に入るだけでドキドキ、否が応でもテンションが上がる

通された部屋の窓を開けると、そこは城壁。

バスルームにはアズレージョ風のタイル。

トイレの水にお花が浮かんでたのにはビックリ 色々泊まり歩いてきたけど、こんなサービスは初めて。

ウェルカムドリンクはジンジャ【ジンジーニャとも。サクランボを漬けた果実酒、アルコール20%前後。特産品というわけではないが、この地のは良質らしい】。


お城を出て、城壁の南東部分を歩く【一部途切れており1周することはできないが、5ヶ所ある階段から城壁にのぼり、1.5㎞歩くことができる】。
町の西側を見晴らす。画像左の白い三角屋根がサンタ・マリア教会。

城壁の外、南東部は緑が多い。

来た道を振り返ってみると、お城がで~んと存在する。画像左寄りの白い建物、サンティアゴ教会は終始閉まっていて見学できなかった

城壁にへばりつく自分にモザイクをかけた。

馬車が通りすがる。


城壁を下り、町の中心部サンタ・マリア教会へ向かう【8世紀にモスクとして建てられたものを12世紀にロマネスク教会へと改築、この町最古の教会。1448年、アフォンソ5世(10歳。父の急死により6歳で即位)がいとこのイザベラ(8歳)とここで結婚式を挙げたという】。

ファサードにズームアップ。

内部の壁面はビッシリとアズレージョ 他の国の教会では見られない光景だろうな・・・


板に描かれたと思われる天井の絵も独特。

教会を擁するサンタ・マリア広場の北に建つペロリーニョ【罪人のさらし柱。見せしめのため、籠に入れられてこの柱に吊るされたという。かつてこの広場に、裁判所の機能も持つ市庁舎があった名残り】。

街をぶらぶらしていると、廃教会のような空間に現代的なオブジェを発見。救いを求めている構図か?

街の建物に青と黄色が用いられているのは、町旗にちなむという。陽が翳っていて映えない画像になっているが、ブーゲンビリアが咲き誇っていた。

さっき下りたところから再び城壁にのぼり、そぞろ歩く。中央奥にわずかに見ゆるは我らが(?)お城。

城壁の外、西には水道橋が見える【全長3㎞。16世紀、カタリナ王妃(ジョアン3世の妻)がオビドスに水を供給するためにつくらせたという】。

風車も見えちゃったりして。

ついにお城へ帰還

次は城内探索 雰囲気あるダイニングルーム。

窓の外の景色も抜群

テラスに腰掛け、気取ってみる


金欠気味の私たちは、素敵なダイニングルームでディナーと洒落こむ余裕はなく・・・。居酒屋風バーにて ソーセージ、チーズ、パン、ビール(2人分で€17)が関の山だった カウンターに立つマスター(?)はなんだか元横綱(ハワイ出身。貴乃花とともに一時代を築いた)に似ていた
翌朝 出立時にお店の前を通りかかったので、外観をパシャリ 壁面、3行目に「オビドスのジンジーニャ」と書かれている。たしかに前夜、あけ〇のは何度も瓶から注いでサーブしてたな~


★ 中締め ★

旅の終盤にはさらに北へ進み バターリャ,ナザレを訪れた後、リスボンへ戻ります。
お楽しみに
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スペイン(2)&ポルトガル篇 その1

2023年06月09日 | ヨーロッパ
久々にザビエルの足跡を追う旅シリーズ。大学時代の友人Cちゃんとともに、ザビエルの生誕地および異国伝道に旅立った地を訪れます。なお、スペインは1997年に続き2度目の訪問となるため(2)としています。旅の序盤、以下の地図中の➊~➍を訪れました。


1 バルセロナ (2008年8月4日)

前夜19時半、バルセロナに着陸。スペイン初日は空港からホテルまでタクシーで移動し、眠るだけのスケジュールだった。
遅い時刻のチェックインあるあるで、通されたのはボロ部屋。床板の一部が剝がれかかっているし、隣室の音がまる聞こえ いくら予約していたとはいえ、オンシーズンだもんなぁ・・・部屋があるだけマシか。
な~んて思いつつ床に入り、明け方4時半ころ眠りを覚まされる。外出から帰ってきたらしい隣室の人々が、なんと房事に突入 薄い壁が女性の息づかいを防ぐべくもなく、漏れ聞こえてくる・・・あちこち旅してきたけど、こんなのは初めて 運が悪かったと思うしかない。ゲンナリしながら目を閉じ、再び眠りに落ちた。

6時に起床、7時から朝食。会場へ行ってみると無人で、フロントに戻って"No hay gente.”と訴えると、伝えたいことが通じたようだった。が、スペイン語の返答を聞き取ることができず、そこはジェスチャーで補い・・・結局場所を勘違いしていたようで、右に曲がるとたどり着いた。ビュッフェは朝から生ハムまで並んでいて、さすがスペイン 果物にスモモまである。コンチネンタルは質素だろうと期待してなかったのもあり、ホテルの印象が急上昇

この日はバルセロナ市内を満喫する行程。泊まったホテルはカテドラルのほど近くにあり、地下鉄駅を目指す途次に見かけた、カタルーニャ自治政府庁脇の小路が素敵だった。




地下鉄の回数券を買い、3号線から5号線に乗り換えてサグラダ・ファミリア駅で下車。地上に上がるとすぐに聖堂が目に飛び込んできた。

Cちゃん共々楽しみにしていた聖堂へ、近づいていく。
【人々が犯した現世の罪をあがなうため、聖家族に捧げられた聖堂。1882年の着工翌年から31歳のガウディが中心となって建設、1926年の死没後も工事が続く】

東の生誕のファサードにズームしてパシャリ【1894年から約30年かけてガウディが完成させた】

扉の上部には、イエスを抱くマリア様と後ろから見守るヨセフの像。

マギの礼拝。

こちらはエジプト逃避


西の受難のファサードは一変して、現代的な表現【1986年から制作開始】。下段右端は十字架を背負い刑場まで歩かされるイエス、中央では聖女ヴェロニカが聖顔布を掲げている【十字架を背負わされてゴルゴタの丘へ歩む途次、額に汗するイエス。それを見かけたヴェロニカが差し出した布でイエスは汗を拭いた。彼女に返された布にはイエスの面影が写っていたという】。
てか、ダース・〇イダーみたいなローマ兵が面白い。言わずもがな、上段は磔刑。

イエスに接吻するイスカリオテのユダ。画像中央、16枚の数字パネルは縦・横・斜めに310通りの4つの数字が組めるが、4つの数字の総計は全て33(=イエスが没した年齢)になるという。

今なお建設が続くこの聖堂について、早く完成させないのかな、ガウディの死後に長々と造ったら異なる様式が入り込んで統一感がなくなるんじゃないのかなぁ、と思っていた自分。なんて浅はかだったんだろう・・・正統派な東ファサードと明らかにテイストが異なる西ファサードをあわせ見て、さまざまな様式を取り混ぜながらひとつの作品をつくりあげる面白さを理解した気がする。

いよいよ中に入る。

椰子の幹を模した柱が支える天井にはシュロの葉【めでたい植物とされ、祝い事に用いられた。イエスがエルサレムへ入城する際、歓迎する人々がその枝を振ったり道に敷いたりしたことで知られる】が表現されている。

塔の上にのぼり、街を見晴らす。左は、東のファサードの中央上部にしつらえられた木と鳩のモチーフ。9枚上の画像、赤いラインで囲んでいる部分がそれ。

眼下に建設中のパートを見下ろす。松ぼっくりを模している部分がカラフルで可愛い
ガウディは自然にあるものをモチーフにアレンジして、無機質な石と融合させ有機的な世界を表現しようとした。100年以上経って聖堂を形づくる石は古びた茶色に変じているが、彼のプランではグエル公園のように極彩色の外観が広がっているのだと思うと、興味深い。

塔を下りながら垣間見る。sacrificio(生贄)、oracion(祈り)とひっそり書かれている。

螺旋階段を上から覗くと、メッチャ芸術的~ ヴァチカンのと比べると断然シンプルだけど、これもいいなぁ

この聖堂で自分が最も気に入ったのはこちら。sanctus(聖なるかな)が書き散らされた尖塔。
神への篤い信仰を、空に向かって高く突き上げる塔に託す・・・目に見えない思いを形に表すことができるのを才能というのだ、そう思った時 ど素人ながらに今さらに、ガウディは天才だと思った。なんだか泣きそうだった。すばらしい作品に出合えたことに、自分がそれを目の前で見ていることに、天才は存在するのだということに、神に対する信仰とはこういうことなのだということに感じるものがあって、涙が目の縁までせり上がってきた。
吸い寄せられるように、いつまでも見ていたいと思った。抜群としか言いようがない聖堂。


再び地下鉄を乗り継ぎ、グエル公園へ【実業家グエル氏の要望により、19世紀イギリスの田園都市のような分譲住宅をイメージして1900年から建設をスタート。市場・学校を含む60棟をブルジョア向けに売る予定だったが、資金や規制等の面で問題を抱え3棟しか建たず、計画を公園に変更。グエル氏の死去(1918年)後、バルセロナ市庁が買い取って1922年から公開】。
小高い丘の上にあるためバルセロナ市街はおろか、地中海まで見晴らすことができる。

メルヘンチックな建物。

そこかしこが色鮮やかなタイルで彩られていた。


グラシア通りを南下しながら、その他のガウディ建築を愛でる。
カサ・ミラ【実業家ミラ氏の要望に応じて1906~1910年に建設。当時ミラ氏夫妻は3階に住み、他は賃貸であった。直線を全く用いず、波打つ曲線で表現するモデルニスモの典型。白い屋根はカタルーニャの雪山、突き出す煙突は峰を表現しているという】。

500mくらい南東にはカサ・バトリョ【実業家バトリョ氏の要望に応じて1904~1906年に増改築。当初は1877年の建造物を全壊して新築する予定だったが、ガウディがバトリョ氏を説得し増改築にとどめた。海がテーマで、廃棄物のガラスや陶器の破片が埋め込まれた外壁がきらめく様は海面のようだという。内部は海底を表現しており、窓ガラスは青色ベースになっている】。


備忘録によると、サンドイッチをパクつきレモン・フローズンを飲んだようだが、画像がない
軽食後、カタルーニャ広場脇のエル・コルテ・イング〇スでお買い物。こちらはデパートなのだが、地下がスーパーマーケットになっていて、旅人の心強い味方なのである。
吞み助の私たち二人は晩酌用のワインを物色、€2.75(≒480円)の赤フルボトルを入手。実はもっと安く€1(175円)程度のもあった(味が気がかりで、さすがに手を出せなかったが)。観光地では500㎖の水が€1.2~1.5だったので、ヨーロッパのワイン産国では水より安いってのが冗談じゃないんだと実感

一旦ホテルに戻り、1時間半ほど休憩。朝から日射し強烈で暑く、しかも明け方が既述の通りで寝不足気味だったため
18時、カテドラルへ向かう【4世紀にはこの地にキリスト教会(バシリカ)が建てられていたという。10世紀末にイスラム教徒に破壊された後、11世紀にロマネスク様式のカテドラルが建った。現存のは13世紀末に建築が始まり150年かかって完成、カタルーニャ・ゴシック様式。バルセロナの守護聖人エウラリア(4世紀、ディオクレティアヌス帝下の迫害により13歳で殉教した少女)が地下聖堂に眠る】。
陽が射す時刻だったら、ステンドグラスが映えたんだろうなぁ

高さがある天井。

黒いマリア像【バルセロナの北西50kmに位置するモンセラットのそれと並び称される。制作年は明らかではないが、素人の自分が画像を見比べた感じではモンセラットの方が古そうに見える】。

人気があるらしく、参拝者の捧げるロウソクが揺らめいていた。

次は、目と鼻の先の王の広場へ【旧王宮の一角にある。アメリカ「発見」の航海から戻ったコロンブスが、イサベル女王に謁見する際にのぼった階段が残る】。
今やすっかり憩いの場となっていた。


300mほど歩き、中央郵便局で切手を2枚ゲット。ポルトガルからも投函するため、控えめにしておいた。
このあと夕食をとったのだが、これまた画像がない。遠出せず、宿近くの通りすがりのレストランに入ったとうっすら記憶している。
メニューはカタルーニャ風サラダ、野菜のパエリア、生ビール(大)、Cちゃんと2人分でしめて€24.1(≒4,217円)。

1・2 バルセロナ ⇒パンプローナ (2008年8月5日)

この日は12時半発の列車でパンプローナへ移動することになっていた。
7時半に起床して出かけるつもりが、目覚まし時計が鳴ったにもかかわらず8時半まで寝坊。ん~ このあたり、2日前の晩が響いてるな
ホテルから数百m圏内のピカソ美術館へは開館10分前になんとかたどり着いたものの、並んでいて入場まで20分待たされる始末。
【1881年にスペイン南部のマラガに生まれたピカソは14歳でバルセロナに引っ越し、パリへ移るまでの数年間をこの地で過ごした。幼くして既に画才を発揮していたらしいが、この地の美術学校にも通ったという。ピカソ本人の要望で1963年に美術館がオープン】
館内では、お目当てだった「青の時代」の作品群の前で多くの時間を割いた。意外に印象に残ったのが、ベラスケスの作品"ラス・メニーナス”をデフォルメした連作。2日後にマドリードはプラド美術館でベラスケスにまみえる予定だったので、タイムリーだった 

ホテルで荷物をピックアップし、3㎞西の鉄道駅サンツを目指す。地下鉄を1度乗り換えて行くつもりだったが、5号線の乗り換え駅が廃止されていた そうとは知らずに地上へ出て探したりしたため、駅まで2㎞を残して発車時刻40分前に迫っていた 
頭を切り替え、大通りに出てタクシーを拾うことに成功。怪しげなスペイン語も通じたようで、発車20分前にサンツ駅へ到着。2人で€7.25は予定外の出費だったけど、とにかく間に合ってよかった、ふぅ 
乗車前にパシャリ(自分にモザイクをかけた)

昼食を買って乗る余裕はなかったが、食堂車にてサンドイッチとビールを入手。昼からアルコールなんて、いい身分だわぁ
車窓は赤茶けた大地に、背の低い緑の木、そして川。地図で確認するとエブロ川らしい。遥か西までつながっているようだ。飛行機だとすっ飛ばしてしまう光景を、鉄道が「点と線」にしてくれる。なんて贅沢な時間の過ごし方なんだろう・・・心が洗われていく

途中、列車の一部が切り離されて二方向に分かれる旨のアナウンスが入った。スペイン語はもちろんのこと英語の聞き取りもおぼつかないものだから、自分たちの乗っている車両が目的地へ向かうのか、とんと分からない。Cちゃんが “パンプローナ?パンプローナ?” と叫びながらホームを爆走し、駅員らしき人に確認する。どうやら大丈夫なようだった・・・
そんなこんなで18時41分、ナバラ地方の州都パンプローナへ到着。駅から宿へはタクシーを利用。

夕食は町の中心カスティーリョ広場にある、カフェ・イルーニャ【1888年創業の老舗で、小説『日はまた昇る』にも登場するという。アメリカ出身のヘミングウェイはこの地の牛追い祭をいたく気に入り、数回パンプローナへ足を運んだという。前出の小説は1926年に発表された、初の長編作品】へ。
備忘録によるとワインのかたわらガスパチョ【アンダルシア地方で生まれた冷製野菜スープ。トマトを中心に、玉ねぎ・きゅうり・ピーマンなどの野菜、ニンニク・パン・オリーブオイル・ワインビネガー・調味料・香辛料などをミキサーにかけてつくる。パンで粘度を出しつつ、暑い夏に野菜をたっぷり摂取できる料理】、ナバラ風マス料理【鱒に生ハムのスライスを詰めて、揚げる又は焼く。このナバラ地方の郷土料理】を食したようだが、これまた画像なし。ぜひともお伝えしたかった・・・ごめんなさい 
カフェの外観はこんな感じ(撮影は翌日)。


2・3 パンプローナ ⇔ハビエル (2008年8月6日)

この日はザビエルの生誕地ハビエルまで日帰り旅行【日本の教科書には“ザビエル”と書いてあるが、現代スペイン語ではJavier="ハビエル”となる。ちなみに、日本布教時に本人がXavierをイタリア風に読んで“サヴェーリョ”と名乗っていたため、ザビエルが定着したらしい】。
バスで向かうのだが、その前にサンフランシスコ広場へ。ザビエルの銅像がで~んと屹立していた。うつむき気味の頭部に、あろうことか鳥の糞が付着してたのが気の毒だったけど


ハビエルまでの直通バスは1日1便(平日のみ)のため、8㎞手前のサングエサ行きのバスに乗り、そこからタクシーで向かうことにした。
地図によると、プリンシペ・デ・ビアナ広場の西方にバスステーションがあるはずなのだが、全然見つからない。場所の見当が間違っているのかと、付近をウロウロしたが一向に見当たらない・・・。頭の中は???だらけ、焦るばかり
しばらくして、はたと地下の存在に思い至った。そう、バスステーションは質素かつ透明な地下入口の下に広がっていたのだった 下の画像、後方がその入口。


パンプローナの南東22㎞のサングエサへ向かう途上、車窓には丘の上に林立する風車・風車・風車 風が強い地域なのかなぁ・・・そして、エコなエネルギーに注力してるのかなぁ【この記事を書くにあたり調べたところ、スペインの再生可能エネルギー比率は48%。そのうち風力発電23%・水力発電12%・太陽光発電10%で、ダントツの1位だった(2021年)】
サングエサはこぢんまりした静かな町だったが、観光シーズンゆえか旅行者をちらほら見かけた。


ガイドブックに情報が皆無だったため不安だったが、サングエサの観光案内所の方はとても親切だった。タクシーを呼んでもらい、待つ間に付近をフラつく。
何はなくとも、目についた教会に足を運んでみる。

直通バスに乗っていれば、決して寄ることはなかっただろう。ガイドブック頼み且つ効率重視で旅していると、このように密やかな美しさを易々と見落として通り過ぎてゆくんだろうな・・・不自由なアクセスがもたらしてくれたひとときに感謝


ザビエルの生家、ハビエル城に到着。ナバラ王国の重臣貴族の家に生まれたからして・・・がっつり城なんだわな

さっそくザビエルのパネルに遭遇。

薔薇窓を持つファサードに近づく。

中はチャペルになっていた。祭壇にはやはりザビエル。

チャペルを外から見るとこんな感じ。

チャペルは独立している構造だったため、いったん外に出て城内へ向かう。下の画像、赤いラインで囲んだ所から入場した。

なんと、吊り橋になっている まるで物語の世界じゃん

天然の岩場を利用しながら建てられた城のようだ。

これは井戸だろうか・・・

面白い石畳。


城内は博物館になっている。まずは、ザビエルの生涯を説明するジオラマが広がる(全部を撮影しておらず、一部を載せる)。
このお城で誕生した場面。

パリ留学時代、イグナティウス・デ・ロヨラと語る。

異国伝道に召命される。

リスボンから喜望峰をまわる長~い航路の旅。

インドでの布教。ヒンドゥー教寺院の前っぽい。

1546年、ザビエルはマルク諸島のアンボン島からセラム島へ向かう途中で嵐に遭い、海に浸して祈っていた十字架を失ってしまった。なんとか海が静まり上陸したところ、蟹が十字架を運んできてくれたという伝説の場面。

日本到着後のザビエル。松の木とか城とか、しっかり雰囲気出てるなぁ


上川島にて病に伏すザビエル。


次は絵のコーナー。
保存状態がイマイチな水墨画風のこの絵、ザビエルの後方に座る人がちょんまげを結っているので、日本での様子を描いたと思われる。

絵の右上には文字も書かれていた。「神より愛されし人ありて その名を フランシスコと云う」と読める。
この絵を眺めていたら、欧米人観光客から英語で話しかけられた、「何と書いてあるの?」と。
直訳して、たしか"There is a man God loves,whose name is Francisco." と答えたように記憶している。私に尋ねた人達はうなずいているようだったが、伝わったかは定かではない そもそも自分が難なく聞き取れたということは英語が母語の方ではないんじゃないかなぁ・・・髪も瞳も黒くて、スペイン人っぽい風貌だった気がする。

こちらは、大名の前で説教するザビエル。


窓の外、北方に見ゆるはピレネー山脈か?

テラスに出て、別の方角を眺める。

再び館内に戻る。小礼拝堂の磔刑像を取り巻く黒い壁画には骸骨があふれ、世界観が独特・・・

敷地内に併設された売店で葉書などを買い求めた後、再びタクシーでサングエサへ。そこからバスに乗り継いでパンプローナへ戻ったのだった。

夕食をとるレストランを探して街をふらつく。カスティーリョ広場へやって来ると、Cちゃんは昨夜と同じお店でいいよと言う。その無欲さに唸りつつも、俗な私はせっかくだからと別のお店に引っ張っていったのだった。お店の名前は覚えていないが、前夜のお店の90°東で広場に面していた。
備忘録によると、ビールの中ジョッキを片手に豆&ベーコンと、ウサギ肉の煮込みを食したようだが画像はない ウサギはこれより前に日本のビストロで口にしたことがあり初めてではなかったが、クセがなく淡白な食べやすいお料理だった。知らされなければ気づかず、鶏肉あたりと勘違いしてしまいそうだった【フランスやスペインでウサギ肉はポピュラーだという。バレンシア地方ではパエリアに入れるらしい】。

この日入手したワインは、その名も「ハビエル城」 このナバラ地方ではロゼワインが名産なのだった。 
旅ブログやるなどゆめにも思わなかったこの頃、この南欧旅であまたのワインを飲みたおしながら、画像を残しているのはこれだけ。よっぽど嬉しかったのである


2・4 パンプローナ ⇒マドリード (⇒リスボン) (2008年8月7日)

この日はマドリードで日中を過ごした後、夜行列車で隣国ポルトガルはリスボンへ発つことになっていた。
タクシーでパンプローナ駅まで行き、まずはマドリード行きの列車をつかまえる。ホームにてパシャリ 6時45分発なのでまだ薄暗い。

車内から撮影。ピンボケの看板にご注目を パンプローナの下にイルーニャ(=バスク語でパンプローナの意)と並記されている。

ふとした車窓の建物が絵になるな~


3時間ほどでマドリード・アトーチャ駅に到着。近郊線に乗り換えて10分、チャマルティン駅に向かい、ロッカーに荷物を預ける。
いよいよのフリータイムは、Cちゃんのリクエストでプラド美術館へ【1819年に王立美術館として開館し、革命後の1868年に現在の呼称となった。スペイン絵画の他に、16~17世紀に領土であったフランドル(オランダ・ルクセンブルク・ベルギー)の絵画コレクションが充実している】。
印象派が好きだなぁ程度で絵画に疎い自分には未知のラインナップだったが、造詣の深いCちゃんの邪魔をしないようにつかず離れず、館内を見学した。初回のスペイン訪問時にトレドの教会でエル・グレコを見た記憶があったくらいで、恥ずかしながらベラスケスやボッシュをこの旅で初めて知ったのだった

この時ヨーロッパ初訪問だったCちゃんはテンション高く、美術館で実に7時間を過ごしてチャマルティン駅へ。
夜行列車ルシタニア号の食堂車前にて。なるほど、発車前にも食べることができるんだね~

扉の前にてパシャリ モザイクの形がいびつなのは、後ろを通りがかった人の顔も覆ったため。

22時45分に発車、おもむろに食堂車へ移動。ワイングラス片手に微笑む自分にモザイクをかけた。
日本では食事が出る列車に乗る機会に恵まれないので(人気だったり高価だったりで、手が出せないというべきか)、気分爆上げになるのを止められなかった


★ 中締め ★

旅の中盤では、リスボン近郊とポルトガルの地方都市を訪れます。
が、旅に出るまえ所持金を計算した際に間違えて少なく見積もっており(←宿泊研修の直後に、ほろ酔いでやったのが元凶)、旅行社に事前手配してもらった部分(ホテル・長距離列車など)は問題なかったものの、現地払いの手持ちが不足。予想外の節約旅になってしまう体たらく 
そんな続編ですが、お楽しみに
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イタリア(4)篇 その2

2022年12月02日 | ヨーロッパ
ヴェネツィアの旅 後半で以下の場所を訪れました。また、後の下線部の数字にも対応しています。


1・2 ヴェネツィア ⇔ ヴェローナ (2019年1月1日)

ヴェネツィアまで来たからには、列車で1時間強のヴェローナまで足を伸ばそうと考えていた。以前読んだ本で、ロマネスク美術てんこ盛りの教会に魅かれていたので
いつものごとく、宿を出てサン・マルコ運河沿いを西へ進む。朝焼けではありません・・・9時をまわっているけど、この日は曇りがちだった。

2番のヴァポレットに乗ってサンタ・ルチア駅へ向かうことにする。乗船場サン・ザッカリアを出てまもなく、ジューデッカ運河に入る。下の画像左がジューデッカ島、右端のクーポラは本島にあるサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会。

サン・マルコ広場を後にする。ひときわ目立つのが鐘楼【高さ98m。9世紀の見張り台に淵源があるとされるが、現在の形になったのは16世紀という。20世紀初めに倒壊し、10年後に再建】、その右に見え隠れする複数の玉ねぎ型屋根がサン・マルコ聖堂。

50分後、サンタ・ルチア駅最寄りの船着き場Ferroviaに到着。地図を見て予想していたとおり、時間がかかった【本島の南西岸沿いに大まわりするルートなので、別の航路をとるヴァポレットを使った方が早いのだが、翌日の下見を兼ねて遠まわりした】。が、フェリー乗り場を通過したりして、観光地然としていない雰囲気も味わえて面白かった

チケットを買うべく券売機に立ち向かうも途中で操作が分からなくなり、躊躇なく女性職員に助けを求め、10時50分発車の10分前にチケットを入手。RV(急行)でヴェローナ・ポルタ・ヌオーヴァ駅まで片道€27也。飛行機の搭乗券のような紙質のチケットは当然イタリア語だらけ。発車するホームは電光パネルで確認したけど、はて何号車の座席?? ホームで立ち止まっていると、ナイスミドルの職員が教えてくれた。そっか、号車はイタリア語でcarrozzaというのね・・・
なんと最前車両 発車時間を気にしつつ、長~いホームをひたすら歩いて乗車。車内は日本の新幹線よろしく綺麗。
空いている4人ボックス席でガイドブックとにらめっこ。半日いるとしても全部は見きれないな、セレクトしなきゃ。一番のお目当てはサン・ゼーノ・マッジョーレ教会なんだけど、元日の今日は祝日扱いで遅めの12時半オープン。というわけで、他からまわることにした。

駅は街外れにあり、中心街までは軽く1㎞以上。人の流れになんとなくついて行き徒歩20分、街の中心部が見えてきた。

ブラ広場は古代ローマ時代の円形闘技場【3世紀築、152m×128mの楕円形。1913年、ジョゼッペ・ヴェルディ生誕100年を祝してここで「アイーダ」を上演したのを機に、野外オペラの祭典アレーナ・ディ・ヴェローナが毎年6~8月に開催されている】を擁する。奥は市庁舎。
この付近はものすごい混み様で、ヘタするとヴェネツィアより人が多いかも

まずはジュリエッタの家を目指す。そう、ヴェローナは かの『ロミオとジュリエット』の舞台なのだった【16世紀末に成立したシェークスピアの戯曲。実話ではなく、ヨーロッパの各地に多数存在する類似の民話をベースに、時代設定を14世紀のヴェローナとした】。
広場の北東数百m、難なく発見。入口から大行列、件のベランダの下はものすごい喧騒・・・人の頭が写らないように撮影するのが精一杯

挙句の果てに、ベランダ正面に設けられた売店ではハートマークの乱れ飛ぶグッズを売りまくり。見た目には可愛いんだけども、悲恋だよね 何か違うんじゃぁ・・・
楽天的な営利主義にドン引きで、風景ハガキだけ買って足早に去る。

シニョーリ広場を横切り、スカラ家の廟にたどり着く【13世紀半ばから100年余りこの地を支配した領主スカラ家の墓碑が建ち並ぶ】。入場せず、通り沿いに覗くのみ。

さらに北東に進み、サンタナスターシア教会へ【6世紀の教会跡地に、スカラ家などの援助を受けて13世紀末から約200年かけてドミニコ修道会が建立。ゴシック様式。現在、ヴェローナ最大の教会】。ファサードの色石は三色でも、イタリアならぬフランスの国旗っぽい配色で面白い。フレスコ画は退色している。

近寄るとこんな感じ。

中に入ると、天井の高さ・模様の細かさに驚く。

柱を飾る一対の彫刻は不思議な作風。聖水盤を背に載せるその姿は、キリスト教が説く人間の苦しみを表現しているという。


次は北西に向かい、ドゥオーモへ【初期キリスト教時代にバシリカ(教会堂)があったとされる場所。現存するのは12世紀のロマネスクと15世紀のゴシックの混合様式】。工事中でこちら側からは入場できず、裏側へまわった。

南東壁面の柱頭にロマネスク彫刻を発見。修復の手が入っているんだろうけど、好み



街並みを高い場所から眺めてみたい。というわけで、街の北東の丘にそびえるサン・ピエトロ城のふもとまでのぼる。
アディジェ川の対岸がヴェローナの中心街。ひときわ高いのは、先ほどまでいたドゥオーモの鐘楼。

左に目を転じると、たおやかに流れるアディジェ川。画像右端の尖塔は先ほど立ち寄ったサンタナスターシア教会。

トイレにも行きたかったので、カフェで休憩。エスプレッソ(€2)にクッキーがおまけで付いてきた、ラッキー てか、お砂糖のパッケージが可愛い

さて、地図で見たところ主目的の教会へは徒歩40分くらいの距離。のんびりするのもそこそこに席を立つ。橋を渡り、アディジェ川沿いに南下していく。
日が暮れかかってきた。

スカリジェロ橋を過ぎ、北西へ進む。下の画像は、来た道を振り返って撮影。


16時、ファサードを薄赤く染める陽のもと、サン・ゼーノ・マッジョーレ教会に到着【12世紀前半建造、イタリア・ロマネスクの傑作】。

1対のライオン像の背後にたたずむファサード彫刻がすごいのである【創建時、12世紀前半の制作】。これを見るためにヴェローナへ足を運んだといっても過言ではない。

イエス誕生の場面。中央で横たわるマリアの向こう側に、飼葉桶に寝かされた幼子イエス。存在感薄めで、馬のほうが目立ってるけど
そして、足元のヨセフの表情がなんともユニーク・・・ロマネスクのこーいう表現が好きでたまらない

その上には、東方の三博士による礼拝【占星術によりユダヤの王(イエス)誕生を知った三人の博士(祭司)たちは、贈り物(黄金・没薬・乳香)を携えてマリアとイエスのもとを訪問】。さらにその上は聖家族のエジプト逃避【東方の三博士はマリアとイエスを訪れる前に、当時ユダヤを支配していたヘロデ王のところへ行き、誕生したというユダヤの王はどこにいますか?と尋ねる。自分の地位が脅かされるのではと恐れたヘロデ王は、ベツレヘムとその周辺にいる2歳以下の男児を皆殺しにするよう命じる。その直前に、天使からお告げを受けたヨセフ(マリアの夫、イエスの養父)は妻子を伴ってエジプトへ脱出、ヘロデ王が亡くなるまで滞在した。聖書にはその年月が明確に記されていないが、1~4年とされる】。

扉を挟んで反対側には旧約聖書の物語。左下は神が男の脇腹から女を創造する場面、その右は禁断の実を口にするアダムとイヴ。左上は実を食べたことを神にとがめられるアダムとイヴ、その右は神の言いつけに背いた罰としてエデンの園から追放され、労働と産みの苦しみにさらされる場面。

中庭に面した回廊の列柱。

クリスマス直後という時節柄、中庭を舞台にクリッペ(キリストの生誕場面を表すオブジェ)が展開していた。

教会の内部。かなり大きく、遠く正面奥が祭壇、その下には地下聖堂が見え隠れしている。

正面へ進む前に、回れ右して背後の扉装飾に向き合う【ブロンズ製、12世紀制作】。先ほど外から見たファサードの真裏にあたる。

旧約・新約の両聖書などから48の場面が描かれている。こちらはノアの方舟。

サロメの物語。テーブルの上に載っている首は洗礼者ヨハネの、テーブルの手前で海老反りしているのがサロメ【ヘロデ・アンティパス(ガリラヤ太守。イエス誕生の報に接してベツレヘム周辺の2歳以下の男児を皆殺しにしたヘロデ王の子)が異母兄弟の妻だったヘロデヤを後妻に迎えようとしたのを諭したヨハネは投獄された。宴で披露されたヘロデヤの娘(連れ子)の踊りに感心したヘロデは、何でも望みを叶えようと言う。母ヘロデヤの入れ知恵により、娘はヨハネの首を所望した。19世紀末、このエピソードを下敷きに書かれた戯曲でヘロデヤの娘に「サロメ」と名が与えられ、広く知られるようになった。聖書にはあくまでも「ヘロデヤの娘」としか記されていない】。

祭壇の左手前にはこの教会に名を冠する聖ゼーノ像【13世紀制作、木造。北アフリカ出身で、4世紀にヴェローナの司教を務め町全体をキリスト教に改宗させたという。アディジェ川に流されている農民を救った奇蹟から、漁師の守護聖人とされる】。

近づくとこんな感じ。艶光りする赤銅色の肌、2本指を立てた右手と、何ともいえない上目遣いの笑顔が強烈なインパクト 心魅かれる彫像だった。

地下聖堂へ下りていくと、ガラスケースの中に刺繍がたくさん展示されていた。ロマネスクって・・・真面目にこんな表情を制作するのだから面白い


地下聖堂の空間【実はここ、毒を飲んだジュリエットが安置された場所という設定。駆けつけたロミオがその姿に絶望して自害、仮死状態から目覚めたジュリエットはロミオの変わり果てた姿に後を追う・・・物語のクライマックスの舞台なのである】。

2人の悲劇などいざ知らずな感じで、柱頭にはコミカルな表情のロマネスク彫刻が展開している。



再び階段をのぼり、地上へ。正面にファサードの薔薇窓が見える。

抜け目なく、こちらにも柱頭彫刻あり。

17時の閉館まであと15分。入口にあった売店を物色するぞ~ 意気揚々と赴くも、一足先に店じまいしていた えぇ~
よくよく考えてみれば、イタリア初日に訪れたサン・マルコ寺院もそうだったわ・・・学習しなかった自分のミスか
1.5km南の駅への道は遠かったが、これまた人の流れについて行きつつ、ガイドブックの地図をチラ見してたどり着くことができた。今回このパターン多し。なんとかなるもんだなぁ

すっかり暮れたヴェローナ駅の構内。

予想より1時間遅くなり、17時半発のRVをつかまえてヴェネツィアへ戻る。翌日の出国に備えて車内でハガキ書きにいそしむが、必死なあまり車内アナウンスを聞き逃し、ゾロゾロ降りていく人の流れに身を投じたら 終点の1つ手前Mestreで降りてしまった・・・
10分ちょっと経ってやって来た各停列車の乗務員に切符を見せると、乗っていいと許してくれた。ホッ
18時55分、サンタ・ルチア駅に到着。駅前に臨むカナル・グランデ。

駅前から乗った2番のヴァポレットはリアルト止まりだった。暗闇に浮かぶ大理石の橋、風情あるわ~ 個人的には夜景のほうが好みかも

リアルト橋付近から人の流れに乗りつつ、所々現れる"per St.Marco”の表示を見て進んだら、なんと8分でなじみの広場に到着。こんなに簡単でいいのか(笑)

この旅最後の晩餐はカルボナーラにしようと決めていた。郷土料理じゃないけど、食べたいんだもん
お目当ての店に向かう途中、呼び込んでいる店にターゲット変更。時間は19時半、予定より遅くなったしなぁ。いくら治安が悪くないとはいえ・・・色々理屈をつけてみるものの、要はお腹が空いていたのだ
まずは魚介の盛り合わせ。シャコみたいなのも獲れるのね~ てか、前菜っぽいものもいくつか含まれていて、なんだかお得

白のハーフボトルを頼んだら銘柄をたずねてくれたので、迷わずソアーヴェ【古代ローマ時代から造られている、当地ヴェネト州を代表する銘柄。ヴェネツィアの西で生産。葡萄はガルガーネガを70%使用】

スパゲッティーニは乾麺だった。ま、値段的にはそんなものだろう(2品にワインで計€54.5)。

この夜は一段と霧がかっていて、幻想的な雰囲気だった。左がサン・マルコ聖堂(北壁)、中央奥が広場。

ドゥカーレ宮殿の布告門上部の彫刻をズームアップ 夜に浮かぶ有翼のライオンは、いまにも飛び出してきそうなほど凛々しい。
【15世紀、ゴシック様式。かつての正門で、ヴェネツィア共和国時代には評議員や賓客がここを通った】

21時前、ホテルに帰着。ヴェローナ駅で入手したプロセッコ(200㎖)【密閉タンク方式で造られるスパークリングワイン。ヴェネツィアの北、トレヴィーゾの周辺で生産。葡萄はグレーラを85%以上使用】を舐めながら、夜は更けていった。

1 ヴェネツィア (⇒ドーハ)(2019年1月2日)

16時の便で経由地ドーハへ発つことになっていた。
まずはチェックアウトの手続き。ユーロへの両替をケチったのもあり、想像以上に高い物価の前に手持ちの現金が早々に減っていき、宿代はカードで支払った。
見納めに広間をパシャリ クリスマス仕様の空間の奥の扉が3泊した部屋の。

荷物を預かってもらって、いざ出発
まずはヴァポレットに乗りサン・マルコ広場の対岸、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島へ渡る。サン・マルコ運河越しに何度も眺め、気になって仕方なかった。
400m先にドゥカーレ宮殿と鐘楼が浮かんでいる。

サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会のファサードは白くて荘厳【最初の教会が建てられたのは8世紀末という。10世紀後半、当時のヴェネツィア共和国総督の命令により島全体がベネディクト修道会に与えられる。13世紀前半の地震で建物が崩壊後、修道士の手により再建された。現存するのは16世紀後半から改修されたもの】。

お目当ての鐘楼にのぼった。上から眺めて初めて、表からは全く見えなかった修道院の敷地が存外広いことに気づく。昔から聖なる島として歴史を刻んできたんだな・・・
なお、画像右奥に霞むは隣りのジューデッカ島。

教会越しに望む本島。ガイドブックではサン・マルコ広場の鐘楼の次に眺めの良いスポットとして挙げられていたが、曇っていて視界不良・・・残念
この画像ではその魅力を伝えきれないが、訪問前に自分が見かけた晴天時の眺望画像は本当にすばらしかったので、ぜひ足を運んでほしいと願う。


次にサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会を目指す。こちらは本島にあるのだが、カナル・グランデの南に突き出している岬に位置するため、やはりサン・マルコ広場から目に入り、気になっていた。
ヴァポレットの航路に沿ってジューデッカ島の船着き場を3つ経由し、Zattereで下船。教会までは1㎞ほど。いつものように人の流れについて行く。
界隈は小洒落た雰囲気が漂う。


途中、行き止まりになるかと心配になるほどの細~い一本道を抜けると、教会に到着。
白いクーポラがパリはモンマルトルのサクレ・クール寺院を思い出させた。一瞬同時代かと思ったが、こちらのが断然古い【1629年からペストが流行したイタリアでは、2年間で人口の30%が死亡したという。災厄を逃れようと祈りを込めて、聖母マリアに捧げる教会を建立。サルーテ=乾杯ではなく「救済」の意味で名づけられた。埋立地のため地盤がやわらかく工事は難航、半世紀以上かかって17世紀後半に完成。ヴェネチアン・バロックの傑作。毎年11月21日には、ペストの終息と聖母マリアの祝日を祝う祭が催される】。

内部は天井が高く明るい。曇りでこれだから、晴れていればさぞや

主祭壇のマリア様は褐色の肌に深い眼差し。背景の銀細工が美しいコントラストを生み出している。一目で魅了された自分。
3種類のカードが売られていた。手持ちの小銭は€0.4、ハガキ大の代金には一歩届かず。中サイズを買えという思し召しね・・・うちの本棚にお迎えすることにした。


教会真ん前の船着き場サルーテから船に乗る。教会に隣接するプンタ・デッラ・ドガーナ【かつては船の荷揚げ場で、税関だった。17世紀の建造物を建築家の安藤忠雄がリノベーションし、現在は現代美術館として使用。フランスの実業家フランソワ・ピノー氏のコレクションを展示】。

北東のVallaressoに着岸して振り返ると、今しがたまで居たサルーテ教会のシルエット。はあぁ~絵になるわ

船着き場Vallaressoで、空港行きの船がここから出ることを知る。3日前に空港からの便が到着したS.Zaccariaで情報が見当たらないと思ったら・・・
ローマ広場までヴァポレット→バスに乗り換えて空港へ向かうという計画を既に立てていたため予定は変えないことにしたが、結果的にはその選択で問題なかった。ローマ広場には5台のバスが並んでいて、空港行きが難なく見つかった。船と違って、空港の目の前で降ろしてくれるので便利でもあった。

ヴェネツィアの最後はサン・マルコ聖堂で締めくくる。下の画像は南壁、修復中の箇所あり。

今回は別料金が不要の箇所だけ見学した。まずは3日前に見落としたモザイク、「ノアの方舟」と「ペテロと船」を探す。前者はナルテックス【聖堂正面入口と身廊の間に設ける空間】で発見、斬新なモチーフと鮮やかな青色の海が印象的だった。後者はパラ・ドーロに入場しないことには近づけない場所にあるようだった。行列して入場する時間はなかったので、遠方から目を凝らすのみ。心眼に近いもので見た(笑)
2度目の訪問は滞在10分、無償とはいえ慌ただしいことこのうえ無し。そんなわけで、教会内の売店でポストカードすら買う時間なく去った。おすすめのモザイクを紹介できなくて、ごめんなさい

急いで宿へ引き返し、荷物を受け取ってヴァポレットに乗船。見納めのヴェネツィア。
ん~ 晴れてきたなぁ。水墨画のように霧がかってるのも風情あるけど、青空もまた格別だわ


★ 終わりに ★

気に入った場所・国を何度も訪れる、はたまた未知なる場所・国にどんどん足を踏み入れる・・・旅のスタイルは人それぞれだと思うが、自分は後者のようだ。
「またおいでと言いたいけど、次はないのかな。まわり方がそうだもんね」とはスリランカのガイドΩさんの言。見透かされてドキッとしたのを覚えている。
旅の前に色々調べて行きたい場所をピックアップし、漏らさず旅程に組み込んで、現地では目いっぱい楽しむ。帰国後ほどなくすると次なる国に心が向かい・・・これまで39ヵ国を訪れてきた。
しかし、そんな自分が何度となく訪れた国があり、4度のイタリアと中国が同率1位で並ぶ。気の向くまま旅先を決めているので、なぜそうなったのか論理的に説明できないのだが 悩ましいことに()、どちらの国も訪問したい場所がまだまだ浮かんでいるので、いずれ(5)篇をお届けする日が来るかもしれない。

 おしまい 

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イタリア(4)篇 その1

2022年11月03日 | ヨーロッパ
4時半に起床してシャワーを浴び、宿に頼んでおいたタクシーで6時に出発。8時半過ぎ、ダブリンを離陸。
せっかくヨーロッパまで足を伸ばしたので、アイルランドの後にどこかへ寄りたいと考えた。いつか訪れたいと思いながらも未踏で、冬でも観光できそうな場所・・・
というわけで、ヴェネツィアへ向かった。自身4度目のイタリア訪問となるので(4)とし、4日間(実質3日)の旅の前半をその1、後半をその2とする。
今回の旅の舞台は下の地図中の➊。ヴェネツィア潟に浮かぶ島々は近距離にあるため、➊に集約しています。


1 (ダブリン) ⇒ヴェネツィア (2018年12月30日)

11時40分、ヴェネツィアに着陸。荷物を受け取った後、船乗り場へ向かう【ヴェネツィアの中心へはバスで行くこともできるが、島の西部ローマ広場で降ろされてしまい、2㎞南東のサン・マルコ広場付近の宿へは水上バス(ヴァポレット)へ乗り継ぎが必要となる。日中とはいえ大きな荷物を持ってウロウロしたくないので、ダイレクトにサン・マルコ広場付近へ連れて行ってくれる船をチョイスした。もしもローマ広場付近の宿であれば、運賃も時間も半分のバスが賢明であろう】。
空港から船乗り場まではしっかり表示があって迷うことはないものの、予想以上に距離があり・・・€15のチケットを買い、人々の群れに交じって乗船したのが13時前。

ひたすら南行する船、景色を見ているだけでも楽しい。

遠くに街がうっすら見えてきた。無数に突き出す木杭はヴェネツィア潟の象徴。

右に目を転じると、いくつもの橋が映る。アーチ橋、絵になるなぁ


正面にサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会とその塔、右端にサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会。終点のS.Zaccariaは画像の右斜め外方向にある。

下船し、運河沿いの道を東へ300mほど進む。びっしり並ぶゴンドラに、ヴェネツィアに来たんだなぁと実感。


左折して路地に入り100mほどで広場に出ると、目的の建物は正面にあった【15世紀築のパラッツオ。グリッティー家などの貴族が代々所有してきた邸宅で、40年ほど前から宿として営業。ファサードはゴシック・ビザンティン様式】。あまりにもピッタリと扉が閉じられているので、他に入口があるのかと360度まわってみたものの無い。自分の英語に不安を覚えつつ、意を決してインターホンを押すと開錠してくれた。

恐るおそる扉を開くと、目の前に空間が広がった。玄関 他に選択肢がなく、赤絨毯敷かれた階段をのぼる(以下2枚、撮影は翌朝)。

2階は絢爛豪華な広間。画像左奥の外れにレセプションがあり、自分の部屋は画像中央の扉を開けた所だった。

部屋はめっちゃコンパクト。画像の右手前にクローゼットがあるのみ、奥の扉はトイレ&シャワー。ここって その昔は倉庫か、使用人の部屋だったのかなぁ・・・
お値段はバカ高くもないけど、年末年始だからか安くもなかったのでコスパ的には疑問符 ま、街の中心サン・マルコ広場まで450mの立地は抜群、住めば都っていうしね


14時半にチェックインしたのも束の間、17時に閉まるサン・マルコ聖堂へ急ぐ。
再びサン・マルコ運河沿いの道に出て西へ進みつつ、右側に目をやるといくつもの水路が映る。

左手前の装飾がクリスマスっぽい。

かの有名な溜息の橋【右が16世紀半ばに増設された牢獄。左のドゥカーレ宮殿で有罪判決を受けた者が牢獄へ移送される時に渡る橋で、この世に別れを告げることにちなんで命名されたという。が、有罪即死刑ってわけじゃないので、皆がみな永訣ではなかったんだろうと思う自分はひねくれてる】。


サン・マルコ聖堂の正面。5つの入り口のタンパンの上、半円形の部分には聖マルコの遺体を運ぶ伝説がモザイクで表現されているが、最も古いのは一番左側。
【聖マルコは四福音書の中で最も古く成立したという「マルコによる福音書」を著した。十二弟子のペテロや、パウロの宣教旅行にたびたび同行したとされる。その後、エジプトに渡って布教したマルコは迫害によりA.D70年前後にアレクサンドリアで没したという。3世紀にはその墓の上に教会が建立され、5世紀半ば以降はカルケドン派(のちのギリシャ正教会)がマルコの聖遺骸を管理していたらしい。7世紀前半にアラブ軍がエジプトを征服してまもなく、アラブの水兵がアレクサンドリアの教会からマルコの頭部を盗み出したが、船が出航できない奇跡が発生。積み荷を調べたところ発見された頭部を、一行の将軍は非カルケドン派(のちのコプト正教会)の総主教に渡し、かつ教会建設費を提供したという。こうしてマルコの聖遺骸は別々に保管されることとなった。828年、ヴェネチア商人2名がカルケドン派の教会から聖遺骸をイタリアへ持ち去る。アッバース朝の支配下で大理石の供出を命じられた教会は、いずれ聖遺骸にも累が及ぶのではと危惧しており、高名な聖人の遺物を探し出すブームにあやかりたい商人と利害が一致。なお、税関を通り抜けるためにムスリムが忌み嫌う豚肉でマルコの遺骸を覆って運んだという。それまで聖遺物を持たなかったヴェネチアはビッグネームの聖遺骸を歓喜して迎え入れ、832年に現在の地に聖堂が築かれた。残念ながら、976年に暴動から生じた火災により聖堂は倒壊、まもなく再建が始まる。現存する聖堂は11世紀後半に完成したが12世紀初頭に火災に遭い、以後改修と建て増しを繰り返して今日に至る。サン・マルコ聖堂の代名詞であるモザイクも12世紀初頭の火災以降、断続的に追加されている】

一番左側のモザイクを夕食後に撮影。光線の加減によって、受ける印象がずいぶん異なる。個人的には薄暗い方が好みだが、見づらいのでモザイクのアップは翌朝撮影したものを載せる。

まさにこの聖堂に聖マルコの遺体が運び込まれる場面。中央のイエスのすぐ下、赤い布にくるまれて棺に横たわるのがマルコ。

入場者の行列ができていて いつ入れるのかヒヤリとしたが、100m超の長さのわりに進みは早かった。
自分の思い描く旅程では、まとまった見学時間が取れるのはこの時だけだったため、2時間しか残されていないのに有料券を全て購入。
まずは列に並んで有料の宝物庫とパラ・ドーロを見学したのだが、財宝も金ピカの衝立にもさほど興味が湧いてこず、全くの猫に小判
次に、無料の身廊を歩いてモザイクを見上げた。この聖堂の歴史的経緯から、幅広い時代に制作されたモザイクで壁も天井も埋め尽くされているのだが、個人的には北東廊のモザイクが魅力的に映った。

場所は変わって、中央ドーム周辺のモザイク。先のアイルランドで幾度となく目にしたモチーフ、磔刑。

祭壇側から振り返った角度。

2階のバルコニーに出て南を望むと、美しい空模様だった。クロアチアでもそうだったが、えもいわれぬこの色調・・・我がこよなく愛する欧州の夕景
左のドゥカーレ宮殿には夕陽の残照。

正面の2本の柱にズーム【右はヴェネツィアの守護聖人テオドロス。左は有翼の獅子=聖マルコの象徴。いま柱の上に載っているのはレプリカ、本物はドゥカーレ宮殿内にある】。

先ほど気に入った北東廊のモザイクを2階から眺められる絶好の場所を見つけて心の中で快哉を叫んだものの、いかんせん閉館時刻10分前・・・瞬く間に時間切れ、しぶしぶ退出。予想通り、時間に追われながらまわるという いつもの感じになってしまった 

まっすぐに夕食へ向かう。早い時間だが、混み始めると一人客には敷居が高くなるのではと考え、その前に飛び込むつもりだった。
残念ながらお目当ての店は賄いタイムのようだった。待てば開くのだろうけど この日はあきらめることにして、なんだか愛想の良い呼び込みのお兄ちゃんが立っていた向かいのお店に入った。
グリル野菜(€10)に白ワイン(フリウリ・コッリ・オリエンターリのソーヴィニヨン・ブラン)。はあぁ~ 久々のワイン、最高 会計してみて€25に少々ビックリしたけど、高級化路線をいく銘柄なのでやむなしか

マカロニ(€18)はフンギの旨味にローストしたトマトがバランス良し


宿からサン・マルコ広場までの往路、水などを売っている店が見当たらなかったので、帰りがてら入手。3連泊なので水は1.5ℓ、ワインはフルボトル。
こちらは€12、食料品店で買うと安いわぁ

サン・マルコ広場はまだ人々でにぎわっていた。

闇に浮かぶ溜息の橋。

19時、宿が面する広場まで戻ってきた。運河通り沿いの道は明るく人も多いので、路地に入る道だけ注意すれば何のことはなかった。

燦然たる広間。さすが、ライトの下で一層輝きを放つように設計されている(19枚上の画像と比較してみてください)。


前日はトゥラスでぐっしょり汗をかきながら、夜はアイリッシュ・ダンスのショーで遅くなり洗濯をさぼっていたので、ここぞとばかりに洗う。
が、寒いんだよな~(アイルランドのほうが緯度は高いが、暖流の影響で暖かい) 湿度も高めだし・・・乾くのか心配だなぁ

1 ヴェネツィア ⇒トルチェッロ島 ⇒ブラーノ島 ⇒ムラーノ島 ⇒ヴェネツィア (2018年12月31日)

翌1月1日は閉まっている所が多いので、この日のうちにヴェネツィア潟に浮かぶ島々へ行くことにした。
島めぐりの船が出る乗り場Fond.Nuoveに向かいつつ、郵便局を経由する。北アイルランドで1枚投函したきりなので、友人たちへのハガキに貼る切手をゲットする必要があった。いつものようにサン・マルコ広場に出た後、400m北西を目指す。迷路の街といわれるヴェネツィア、たどり着けずタイムロスも想像していたのだが、地図を見ながら歩いたところ、あっさり到着 日本へのハガキは1枚€2.4とな。

第二の目的地は200m先のリアルト橋【島の中央を蛇行するカナル・グランデにまたがる橋の中で最大、長さ48m・幅22m。13世紀後半に木造で架けられたが、16世紀末に大理石製に替わった】。大学時代、この地を訪れた友人から送られてきたポストカードをふと思い出した。

橋の上には土産物屋がひしめき、思った以上の観光スポット感に気圧される。橋の上から西側を望むと、いつだかカレンダーの写真で見かけたような風景が広がっていた。定番のアングルなんだろうけど、安定した美しさがいい


600m北北東の船着き場へ向かいながら通りすがる細い路地、ふと横に目をやると なんとも美しい。海辺で育ったので基本的に水のある風景が好みなんだろうけど、それにしても・・・バシバシとシャッターを切り、どんな人をも写真家にしてしまうヴェネツィア・マジックに酔いしれる



迷わずたどり着くと、1時間に3本の便がもうすぐ来るではないか、ラッキー そこで人々の動きを観察していると、乗船前に紙のカードらしきものを機械にタッチしている。が、見渡せる範囲には売っていない。買わずに乗るか?・・・いや、不正乗車を疑われたらマズイ 
珍しく急速回転する脳が、前日に空港からの道すがら見かけた光景を思い出させた、このFond.Nuoveには波止場が2つ並んでいたと。もう一方で券を売ってるのかも 昨日の感じからして船はわりと定刻・・・あと3分しかない アーチ橋を上り下りして数十m、やはり券売機と窓口があった。並んでいない自販機を迷わず選ぶ。1日券は€20、これでいいのか確信はないが、迷っている時間はない。財布には€50札しかないが、受け付けてくれず返ってくる・・・やむを得ず腰の内側に巻いていた財布から€20札を取り出して購入、ダッシュで元いた波止場へ戻る。なんとか乗れたけど綱渡りだった、ふぅ
こんなドタバタで乗れば座れるはずもなく、40分以上デッキに立つ羽目に 手袋ははめたけど、マフラーを宿に置いてきて手元にない。アイルランドが予想以上に暖かかったから、ここぞの活躍タイムだったのになぁ~ 島に着く頃には冷え切っていた。それでも体調をくずすことはなかったので、身体が丈夫でホント良かったと思う
ヴェネツィアを後にして進む。

15分ほどでムラーノ島が見えてきた。ここで下船する人も多かったが、通り過ぎてさらに北東のブラーノ島へ向かう。

更に30分経過、ブラーノ島へ到着。そのまま観光へ向かう人々を尻目に、トルチェッロ島行きの船に乗り換える。10分と待たず乗船できた。画像の右後方がブラーノ島。


5分ほどでトルチェッロ島に到着【潟に浮かぶ島々の中で最も古くから人々が住み始めたため、ここがヴェネツィア発祥の地といわれる。5~6世紀、異民族の襲撃を逃れるため人々が移住し、交易の中心として地中海に名を轟かせた。11世紀前半に最盛期を迎えたが、12世紀に交易の中心がヴェネツィア本島に移り、14世紀のペスト流行で人口が激減】。

港から大聖堂へ続く一本道にはのんびりとした時間が流れていた。ひなたぼっこする猫、その後方には鳩もいる。

静寂に満ちている・・・サン・マルコ広場周辺の喧騒とは好対照。

悪魔の橋。好奇心に勝てず、おっかなびっくり のぼってみた【ネーミングの由来として、前日になかったものが一夜にして完成していた説、この橋を境に淡水と海水が分かれる説などがある。なお、面白いデザインの橋だなと思ったが、欄干がないこのタイプが昔ながらのスタイルなんだそうだ】

お目当てのサンタ・マリア・アッスンタ大聖堂。残念ながらファサードは工事中だった【639年に創建、11世紀前半に改築。ヴェネツィア最古の教会】。

内部は撮影禁止だったので、購入したポストカードを載せる。まずは祭壇に向かって遠景。

アプシスを彩る聖母子のモザイク、これを見たくてやって来た 上の画像では、磔刑の彫像に隠れてしまっているけど
厳しい面持ちで正面を見すえるマリア様は、典型的なビザンツ様式という(11世紀末の制作)。

祭壇と向かい合う西壁は全面がモザイク【一番上が磔刑、2段目が冥府降下、3段目以下が最後の審判。一部に20世紀初頭の修復の手が入っているものの、ほとんどが12世紀の作品という】。

大聖堂の回廊は木の屋根と梁が美しい。壁面にはフレスコ画の痕跡も。

大聖堂の南にはサンタ・フォスカ教会が隣接しており、回廊でつながれている。

外観はこんな感じ【11世紀築】。こちらも内部撮影は禁止だったが、モザイクは残されていなかった。

小1時間過ごし、来た道を戻った。トルチェッロ島から眺めるブラーノ島。


12時15分、再びブラーノ島に上陸。特に地図を見ることもなく、人の流れについていく。何時の船に乗らなきゃ、何時までにヴェネツィアに戻らなきゃ、とか一切無い。
う~ん、自由な旅っていいわぁ

この島は色鮮やかな家並みと、漁網から発達したレース編みで有名である。

窓辺にはクリスマスを意識した置き物、可愛い

漁師が濃霧の中で自分の家を見失わないように彩色したのが始まりという。

橋の上でボーッとしていたら、中国人と思われる旅行者に写真を撮ってほしいと頼まれた。さては、同胞と間違えたに違いない 
すかさず自分の写真もお願いした。一人旅のマイポートレートは助け合い

遠くに教会の尖塔が見えるこの通りが島のメインストリート、と思ったら早とちりだった

通りを南下しながら ふと後ろを振り返ると、これまたサマになる景色。

近づいてみても、鉛筆のように細長い塔だった。

なんだかステキなお店を発見。庇の上に寝そべるサンタクロースがなんともいい

窓や扉のガラスにも絵を描き、一体化したアート作品になっている。お洒落~

レースを売るお店。

ヴェネツィアの象徴、仮面も売られていた。

サン・マルティーノ教会は閉まっていた。

教会東側の水路周辺をブラブラする。

振り返ると、尖塔が傾いてないか 気のせいなんだろうか・・・

最後に土産物を物色しながら、船着き場へ向かう。お店の建ち並ぶ大通りだが、脇道もあったりする。

船乗り場の近くで売られていた魚介のフリットが目に留まる。朝食から5時間、そろそろ空腹を感じていたが、後ろ髪引かれつつ乗船の列に並ぶ。かくして、1日2食の旅がアイルランドから継続中なのだった

20分ほどでムラーノ島に到着(画像は朝通り過ぎた時に撮影)、時刻は14時15分。

街はずれの船着き場Faroでヴァポレットを降ろされた。これまた人の流れについて行き、運河沿いに北上。

運河の角にぶつかったところで左折。

しばらく進むと、サント・ステファノ広場に到着。画像左がサン・ピエトロ・マルティーレ教会。

広場周辺はかなりにぎわっていた。看板を出しているお店のバジル味のトロフィエ【リグーリア州生まれ、小麦粉と水を手のひらでこすり合わせてつくる3~5cmのショートパスタ】美味しそう 
が、ともかくトイレに行きたいので、運河をはさんで対岸のガラス博物館へ急ぐ。
カナル・グランデ・ディ・ムラーノに架かる橋の上から眺めるサント・ステファノ広場。絵になるわぁ~

道端にはガラス製品を売るお店が建ち並ぶ。ちょっとしたお土産物から、本格的で高級そうなものまでピンキリ。魅かれつつ、後で戻って来ようと心に決めて前へ進む。冷えがちな冬のトイレタイム確保は死活問題なのだ

ガラス博物館でキレイなトイレにありつく、ふぅ そして展示や解説を見て、14~17世紀がヴェネツィアガラスの黄金期と知った。
館内の自販機でエスプレッソ(€1)を買い、ソファーに座ってしばし休憩。

やおら100m北のサンティ・マリア・エ・ドナート教会へ【7世紀創建といわれるが、現存の教会は12世紀前半にロマネスク様式で建てられた。トルチェッロ島が衰退していくなか、17世紀末にサンタ・マリア・アッスンタ教会からこの教会に司教座が移った】。

ファサードはいたってシンプル。

扉を開くと盛大なパイプオルガンの音色 最初はCDでも流していると思っていたが、所々止まるので どうやら練習しているらしい。見まわす限りオルガンが見当たらなかったけど・・・一体どこにあったんだろう
正面のクーポラにマリア様(モザイク)がいらっしゃった。出発前に読んだ本ではトルチェッロ島のそれにばかり言及されていたけど、こちらにもおわした・・・予想してなかったので、ちょっと驚いたが嬉しい。説明書きを読むと、トルチェッロ島のとほぼ同時期の作品らしい。正面を向いて一歩踏み出しているスタイルは共通しているが、こちらは幼子イエスを抱えていない。写真撮影禁止、そしてポストカードなど売っていなかったので、画像で比較していただくことができず残念
こちらの教会、アプシスの外壁が創建当初の名残をとどめていて とても美しい。

教会の南東に架かる橋から運河を眺める。

ガラス製品を買うべくショップをはしご。陳列されているものがイタリア製とは限らないとガイドブックが注意喚起していたので、入念にチェックしながら友人たちへのお土産を購入。自分用には、実益を兼ねてワイン栓をチョイス

買い物を終えると、日が暮れ始めていた。画像左の塔は、最初に通り過ぎたサン・ピエトロ・マルティーレ教会の。

南東の方角を望む。

さらにウィンドウ・ショッピングを続けるうち、すっかり夜に(画像は1枚上とほぼ同じ場所)。
1日の最後というのもあり、予想以上にムラーノ島に長居してしまった。3時間半くらい過ごした計算になる。


ヴァポレットでとっぷり暮れた潟を進み、おなじみのサン・ザッカリアに帰着。時刻は18時15分、混む前に夕食へ向かう。
サン・マルコ広場の夜景、右手がサン・マルコ聖堂。

前夜は賄いタイムになってて断念したトラットリア、再訪したらすんなり入れた。とはいえ入り口脇の席に自分が着席して満員になり、その後もひっきりなしに客が出入り。自分が退出する際には外に長~い行列ができていた・・・ものすごいタイミングで席をゲットしたんだわ、ラッキー
野菜の前菜。ワインは銘柄不明なれど、500mlのデキャンタを注文。左端のはワインボトルじゃなくてオリーブオイルですよ、念のため

ヴェネト州の郷土料理、Bigoli in salsa【ビゴリとは太めの長い手打ち麺。玉ねぎと塩漬けのアンチョビをニンニクとオリーブオイルでじっくり炒めたソースをかけたパスタ料理】。これを食べたかったのぉ

昼間に涙をのんだフリット(エビ・イカ)も楽しむ。しめて€46.4也。
念のため、扉の外の子どもは心霊現象ではないですよ~ 待ちきれなくて中を覗いてます

大晦日の人ごみを掻き分けながらホテルへ戻る。夜の運河も風情あり。


20時前にホテルに戻り、洗濯→入浴。日付が変わる少し前、爆音で起こされた。新年カウントダウンの打ち上げ花火
冬のヴェネツィアはオフシーズンと思いきや年末年始は例外のようで、予想以上に人・人・人でにぎやかなのだった。

★ 中締め ★

ヴェネツィア篇をひとつの記事にまとめるつもりが、字数オーバーになりそうなので2つに分けることにしました。
次回はヴェローナへの日帰り旅をメインにお届けします
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