poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

中国(2)篇

2023年01月02日 | アジア
大学時代の友人Cちゃんと飲みながらの四方山話で、ザビエルの最期が話題になった。あれよあれよという間に盛り上がり、永眠の地へ行ってみることになったのだった。
1996年の北京に続き、2度目の訪問となるため(2)としています。3泊4日の旅で下の地図中の➊➋を訪れました。また、後の下線部の数字にも対応しています。

最初に懺悔しておきたい。一人旅ではメモ魔の自分だが、Cちゃんと初めての旅に高揚してお喋りに花を咲かせた結果、スケジュールや食事のメニュー、支出の詳細等ほとんど記録を残していなかった また、旅ブログなどやるとは夢にも思っていなかったため、撮った画像も異様に少ない・・・よって、Cちゃんが残してくれていた記録と画像の助けを借りながら、記憶を頼りにこの記事を書いた。もはや私による記事ではない気もするが、幾許かでも魅力をお伝えすることができればと思いながら したためる次第である。なお、Cちゃんが撮った画像には◎を付けた。


1・2 広州 ⇒上川島 (2007年5月3日)

10時ころ離陸した飛行機は、13時半頃広州に到着。ここから丸2日お世話になるガイドのΣさんとはスムーズに会うことができた。
南シナ海に浮かぶ上川島へ渡るべく、ドライバーのπさんが運転するバンで一路南南西を目指す。島までは約150㎞。
なんだか強面のドライバーπさんはガイドΣさんと雑談するでもなく、ひたすら運転に専念。渋滞することもなく、2時間ほどで山咀という港に到着。船乗り場が予想以上に混雑していたのは、5月1日の祝日(労働節=メーデー。前後5日程度が全国的に連休となる)を利用してリゾートに出かける中国人とかち合ったため。下の画像、右が上川島往き、左が下川島往きの入口【上川島の約10㎞西に、やや小ぶりな下川島がある】。

海面に沈み込むような吃水線の深い船だったので、座っていると景色が全く見えない。既にふくらませた浮き輪にビーチサンダル、テンション爆上がりで騒ぐ中国人たちに気圧されながらの道中となった。

三洲港に着くと、新たなドライバーさんが待っていてくれた(πさんとは乗船前に別れた)。ホテルへ向かう途中、ドライバーさんの個人的な買い物に寄ったり、偶然行き逢ったドライバーさんの息子に手を振ったり・・・ローカルな感じ。2泊するホテルは「酒店中心」という、宿が密集するエリアにあった。
ガイドΣさんがいてくれるので、手間どることなくチェックイン。ただし、部屋の鍵(ステンレスの延べ板状)が扱いにくくてガイドさんも開けることができず、服務員(ホテルマン)を呼ぶハメになった。だいぶ待たされたので、毎回これではかなわぬと覚悟して 開けるコツの会得に努める
夕食の時間を約束してガイドΣさんと別れ、しばし部屋で休息。室内はいたってシンプル。◎


ホテルの食堂で夕食。1本目の珠海ビールはぬるく、11年前に初めて中国に滞在した日々がよみがえった(1996年のことなので、現在は違うのだろうけど・・・北京ではコーラ、スプライト、ファンタ等のドリンクが常温で売られていた。東洋医学的には身体を冷やすことはよくないとされるから、と当時聞いた)。
テーブルには紫菜湯、空心菜、回鍋肉が並ぶ。自分が特に気に入ったのは蒸蛋【茶碗蒸しのような料理。ほのかに胡麻油が香る】と咸魚茄子☆(「保」の下に「大」)【魚肉と茄子の炒め物】 特段豪華な料理ではないのだが、野菜が豊富で自分好み、しみじみと美味しかった。画像を撮ってなくて、残念至極
食卓の会話で、ガイドΣさんの身の上も話題にのぼった。江西省景徳鎮の出身で広州に来て5年目。大学1・2年で英語、3年から日本語を学んだという。広東語も普通話【中華人民共和国の標準語。北京語音がベース】も完璧ではありませんと言っていたが、一切なまりのない日本語を話すのから察するに謙遜だろう。さらにこの島の方言もあり、何種類もの言葉を聞き分けて使いこなすわけで・・・舌を巻くほかない。なお、単刀直入に年齢をたずねるのはためらわれたので推測の域を出ないが、自分たちより何歳か年下と思われた。

食後はガイドΣさんと別れ、酒店中心内にある市場へ向かった。
魚の干物が売られている。

土産物は貝推しだった。



ミネラルウォーター(2元≒30円)を買ってホテルに戻り、Cちゃんと交互にお風呂タイム。ユニットバスに備えられたシャワーはホースではなく固定の蛇口で、自分がくるくる動きながら対応、海外あるある 
エアコンをドライにしたが、効きがイマイチだった。性能の問題というより、相当湿気ているのだろう。

ホテルの1階に併設されているカラオケスナックの轟音などお構いなしに消灯して爆睡 成田発午前便に乗るゆえの睡眠不足に救われた。何が幸いするやら

2 上川島 (2007年5月4日)

目覚まし時計を7時半にセットしたつもりが、6時半に鳴ってしまった。日本時間のままだったというベタなミス
天使なCちゃんは私を責めるでもなく、二度寝を試みた。が、やはり目が冴えてしまって私たちは起き出すことに。Cちゃんが日本で挽いてきた豆で淹れてくれたコーヒーを楽しんだ

前夜、ガイドのΣさんとは9時半出発と約束。朝食は8時からやっていると聞いたので、8時半にホテル内のレストランへ向かった。すると、服務員は2人連れか3人連れなのかとしつこく聞いてくる。他にも何か言っているのだが、全然分からない。ナマクラな学習しかしなかった自分はともかくCちゃんが聞き取れないのだから、普通話ではなく島の方言なのだろう。ガイドさんと何時に食べようと待ち合わせたわけではないので、運ばれてくるお粥・ビーフン・炒め物などを口に運ぶ。じんわりと出汁の効いたお粥に油条を割り入れて食すと実に美味しくて感動した(北京は粉モノ文化の地域なので、そして短期留学中の身で豪勢なレストランへ出入りできなかったので、初回滞在時の中国では約3週間ほとんど米を口にすることがなかった。お粥に浸った油条は、うどんにトッピングした天かすのよう。それ自体に味は付いていないが、フワフワの食感。知識としては知っていたものの、体験することの尊さといったら)【油条 =中国式揚げパン。小麦粉に水を混ぜ30cm程に細く伸ばし、油で揚げる】。
美味しいのだが量が多すぎるなと思っていたところ、ガイドのΣさんがやって来た。すると、服務員たちはやっぱり3人じゃないの、とでも言っている風だった。
私たちは2人ですと答えたけど大丈夫ですか?と聞いたらガイドさんは問題ないと言ってくれたが、新たに料理が運ばれてくることはなく・・・Σさんは冷めた残り物を食べることになってしまった 中国式に大皿から小皿へ取り分けて食べていたのが最低限 救いだった 
それでも余って、Σさんはウェイトレスに「打包」=弁当に包む と伝えた。ドライバーのπさんに渡すという。実は前夜夕食後に市場付近をブラついていた時、πさんがカフェで食事しているのを目撃し、山咀で別れたはずなのに来島していることに驚いたのだった。ガイドさんの話だと、このホテルはシングルユースもツインユースも同額らしいので、Σさんの部屋に泊まったのだろう。これまたガイドさん情報で、今日は広州で仕事らしいπさんは、弁当を食べた後に一人で島を去るのだろうか。最後まで謎な人だった・・・

9時半の出発時、前日に港からここまで運転してくれたドライバーさんが待っていた。小学校低~中学年くらいと思われる息子君も今日は同乗している。さらに、地元人らしき女性が一人乗って来て、途中で降りていった。タクシー代わり、交通が不便な旅先あるある

さて、この旅のハイライトである。私たちは島の北西部にある天主教堂(方済各墓園)へ向かった。
【1549年8月、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ=ザビエル。滞在2年余りで布教の基盤が整ったと判断し、1551年11月に離日して東南アジア経由でゴアへ戻った。日本での布教に手応えを感じながらも、東アジアにおける中国の影響が大きいことを感じ取ったザビエルは次に明での布教を志す。しかし、海禁政策をとっていた当時の明は外国人の入国を許していなかった。イエズス会の後援者のひとつだったポルトガルがマカオを支配下に入れる前、一時的に東アジア交易の拠点としていたのが明の沖合に浮かぶ上川島だった(貿易に従事する者たちは春~秋のシーズンだけ砂浜に簡素な小屋を設けて暮らし、発つ際には跡が残らないよう焼き払ったという)。禁を犯しても入国しようとするザビエルは、密かに自分を明へ運んでくれる船を1552年9月から島で待った。外国人を上陸させれば死刑となるため、乗せてくれる船は中々いなかったが、大量の胡椒と引き換えに連れて行ってもらう交渉がまとまった。しかし、貿易シーズンが終わり船の往来が途絶える11月中旬を過ぎても遂に船は現れなかった。マラッカを発つ前から体調を崩しがちだったザビエルは粗末な小屋で病に伏し、12月3日に召天。象鼻山(三洲村の北東)に葬られたザビエルは2ヶ月半後に掘り出されたが、腐敗しておらず芳香さえ漂ったといわれる。遺骸はマラッカを経由して1554年3月にインドのゴアへ運ばれ、現在もその大部分が同地に安置されている。1639年(明代)、マカオの教会が資金を集めて当初埋葬された場所に慰霊碑と墓石を設置。1869年(清代)の再建後も壊れて直された。修復の度に規模が拡大し、今日に至る】
長い階段をのぼりつつ、仰ぎ見る教会。

教会入口前で振り返る。本当に海のすぐ傍なんだなぁ・・・

教会の中に入ると、ザビエル像。

1639年に奉献された石の棺。◎

教会の横にあるこれまた長~い階段の先には・・・

ザビエルの立像。◎

基台の部分に彫られている文字は、先ほどの石棺と同じ。
イエズス会の聖フランシスコ・ザビエル(方済各・沙勿略)は大明の嘉靖三十一年(1552年)冬に昇天。崇禎十二年(1639年)に碑を建立
とある。

立像付近からの眺め。明船と約束した11月中旬を過ぎても病をおしてザビエルは海辺に立ち続け、その身を案じる付人に説得されて引き揚げることもしばしばだったという。生きて渡るはずだった海をザビエル像は今も見つめている。


教会を後にして、近くの浜辺へ。蟹がうちあげられていた。

ザビエルの時代、ここが船着き場だったと考えられるという。

17km先に中国本土が浮かぶ。

振り返ると、教会がはっきりと映った。

南に目を転じると、教会敷地の入口(門)も垣間見える。写りこんだ雨粒にお気づきだろうか・・・朝から降っていた霧雨は激しさを増していた。

ザビエルが掘ったという井戸。コンクリートで蓋をして、慎重に保護されていた。


その後、大陸小学校へ。

現在は廃校となっている。



この付近は大陸湾というらしい。

海沿いに南下してきた場所にあるらしく、遠くに先ほどの教会が霞んでいた。

この記事を書くにあたり調べて知ったのだが・・・
浜辺では青花磁器【白磁に絵文を描き、透明釉薬をかけて高温で焼成。元代以降 景徳鎮の民炉で焼かれ、それまでの主流だった青磁に取って代わった】の破片が多数見つかるそうで、「上川貿易島 海上シルクロード」の拠点のひとつとして保護し、大陸小学校跡地を博物館にしようという計画があるらしい。もちろん、ザビエルを記念する教会もこれらの構想に含まれている。


さてさて。この後はザビエルを全く離れて上川島の名所をめぐった。
島の東岸部へ向かい、楽川大仏へ。高さ6.8m、堂々たる存在感
【大仏の由来にはこんな伝説がある。明の万歴年間(16世紀後半~17世紀前半)に飢饉が起きた時、ある村人が道端で老人と出会った。その老人が手にした杖で石を叩くと穴が開き、米があふれ出た。救われた島民たちはその老人を探したものの会うことはできなかったが、米がわき出した穴に詩が彫られていた。弥勒菩薩の分身が現れたことを人々に知らしめよ、と。島民たちはその穴がある場所に大仏をつくり、祀ったという】

大仏の体内に入れるようになっている。その中は、道教などと習合していて独特の世界観なのだった ◎

薄暗いので、フラッシュをたいてみる。




なお、大仏の目の前には西遊記のジオラマも展開。もう何がなんだか、詰め込んだテーマパークみたいな空間になっている

海辺に鎮座する大仏の視線の先には、こんな絶景が。
左端は宝鴨島といい、その右奥に続く海岸が飛沙ビーチ。◎

飛沙ビーチをちょっぴり拡大するとこんな感じ。ホテルが林立する酒店中心があり、この島の繁華街なのである。

なお、敷地内には占い師さんがいて、面白半分でCちゃんと私は右側の方に占ってもらった。占った内容はもちろん中国語で告げられ、ガイドのΣさんが訳してくれたが全然記憶に残っていない ◎


次に、サルの保護区を訪れた。檻に入れられている個体と放し飼いになっているものがいた。


海ににつながっているという長寿河に出た。相変わらず雨は降り続いているが、ここは風がなく静かで川面は鏡のように美しい。
転がっていた長い木片を手に取り、ガイドΣさんが川岸の砂に文字を書いた。初日の夕食メニューを手帳に書いてもらった時から思っていたのだが、Σさんはとても達筆。
人生苦海無辺・・・Cちゃんがその意味をたずねると、「人生は苦しい海、漂っている」と教えてくれた。
なぜそれを今 一介の旅人が踏み込んで聞くことはできず、推し量るほかなかった。朝からはっきりしない天候が陰鬱な気分にさせたのか、浮世離れした静謐な景色に現実の厳しさを対比したのか。はたまた、ザビエルの最期に思いを馳せたのか・・・


選んだシーフードを調理してくれる食堂にて食事。Cちゃんが画像を残してくれていたが、お料理のはない。私に至ってはいずれも無し ◎

中華料理って、野菜しかも青物もふんだんに使うよね~ メッチャ嬉しい ◎


2・1 上川島 ⇒広州 (2007年5月5日)

前日と同じ轍を踏まぬように、朝食会場へ行く前にガイドΣさんの部屋をノックした。扉から首だけにゅっと突き出した寝ぼけまなこのΣさんは身支度がまだのようだった。薄々感じてはいたが、どうやら朝が苦手の模様

問題なく朝食を終え、ドライバーさんの運転で最初に降り立った三洲港へ向かう。30分ほど船に乗り山咀港 →車で広州へ、と2日前の行程を逆にたどっていく。
往路の車窓で気になっていた建築物たちが再び目に入る。田畑や竹林から突き出す西洋チックな高層建築は、後で調べたところ開平楼閣群のようだった【19世紀半ば、太平天国などの動乱のなか北米に移住した中国人が排斥政策に伴い20世紀前半に帰国、建てた。珠江の洪水や清末期の治安悪化で横行した盗賊から身を守るため高層となり、異国で親しんだ西洋風と中国式の折衷建築となった。その目的から、石・煉瓦・コンクリートなど水に流されない素材、厚い壁に小さい窓が特徴。住居だけでなく、砦や見張り塔などの機能も有する。かつて3000棟を数えたというが、現存するのは1833棟。2007年6月、4村にまたがる20棟が世界遺産に登録された】。通りかかった時には世界遺産ではなかったわけだが、登録には納得。周囲の田園風景から明らかに浮き立っていた。

この旅最後の宿は広州を流れる珠江のほとりに立つ高層ホテルだった。地下鉄 海珠広場駅のすぐそばで交通も至便
そこから1㎞ほど北にある繁華街(北京路)の海鮮料理レストランで昼食をとった。
食卓に並ぶ数々の料理。◎

中国醤油で煮付けたと思われるお魚。

海老炒め。

個人的に一番気に入ったのはこちら、帆立の豆鼓蒸し。初めて食した豆鼓の美味しさに惚れ込み、帰国後すぐに買い求めたほど。いまひとつ使いこなせなくて、それっきり買い足すことはなかったけど【豆鼓 =黒豆を水で戻して蒸し、塩・麹・酵母を加えて発酵させ露天で乾かした調味料。アミノ酸が多く、旨味・香りに富む】

食後、お世話になったガイドのΣさんとお別れ。青年会など様々な活動にいそしんでいるという彼の今後の活躍を祈るばかりで、全く感傷的ではなかった。こんな別れもいい

ここから広州フリータイムに突入。Cちゃんのリクエストで、西漢南越王墓博物館へ。地下鉄2号線で3駅、越秀公園で降りて数百m。館内は撮影禁止のため、画像なし
【B.C.206年に秦が滅亡すると、その一将軍であった趙陀が南越を建国、広州の地を都とした。この博物館には、第2代南越王(文帝)の石室墓とその副葬品が展示されている。精緻な青銅器や陶器が並ぶなか、至高の作は絲縷玉衣(約1200枚の玉片を赤いシルクの糸でつなぎ合わせた衣で、埋葬時に文帝が身に着けていた)】

博物館を後にして、1㎞南の中山紀年堂へ歩いて行く。辛亥革命マニアではないので(笑)、見学したかったというより繁華街へ向かう途中で立ち寄った感じ。
【中山=孫文の号。孫文は広東省生まれで辛亥革命の中心も広州だったため、1921年から総統府が置かれた場所に記念講堂が建てられた(1931年、高さ58m)。その前には5mの銅像が立つ】

さらに1.5㎞歩き、昼食をとった繁華街に再び足を踏み入れた。雑踏をブラブラしているだけで楽しい。
思わず店頭を撮ってしまったのは新華書店。大学の語学授業で使っていた中国語テキスト(北京語言学院編集)の例文にたびたび出てきたので、懐かしくなってつい【新華書店 =1937年に延安で設立された光華書店を前身とし、出版物の配給・販売を行う国営書店。店名の毛筆ロゴは毛沢東による。2003年、出版界の大合同・民営化により中国出版集団に属すが、中国共産党中央宣伝部に属する点は変わりない。2006年時点で14,000の分店を擁する。香港の新華書城とマカオの珠新図書公司は子会社】

結局、博物館からの帰路は歩きどおし。健脚なつもりでも、さすがに疲労を覚えた。ナメていたなぁ、広東の省都を・・・自分の足で都市の大きさを実感
ホテルの部屋からは海珠広場を眺めることができた。大枚をはたいてないため、珠江には面しておらず ◎


1 広州 (⇒出国)(2007年5月6日)

14時過ぎの便で成田へ発つことになっていたこの日、自分のリクエストで沙面へ行くことになった。
まず、ホテルの西約1㎞にある聖心堂へ。19世紀後半に建てられた教会は無論ザビエルと直接の関係はないが、旅の締めくくりに足を運んでみたかった。
【全て花崗岩でつくられているため「石堂」ともいう。清がフランスのカトリック教団に土地を貸し出した際、パリのノートルダム大聖堂をモデルにフランス人建築家がつくった。ゴシック様式、58.5mの尖塔を持つ】
折りしも日曜、ちょうど朝の礼拝の最中だった。説教を聞く?とクリスチャンのCちゃんに尋ねたら、先を急ごうと。

途中、小間物屋に立ち寄った。実はこの日の朝 出国に備えたパッキングの際、持参してきた南京錠を失くしたことに気づいたのだった
明らかに治安が悪い国・地域を訪れる時はやむなくスーツケースにするが、そうでない場合はソフトバッグ(レ〇ポートサック)に南京錠で出かけることにしている自分。小柄・非力な自分が階段を上り下りするにはそう大きくないサイズのスーツケースでも骨が折れるし、大して荷物が入らない。肩に掛けられるソフトバッグの方が格段に動きやすい
今回は上川島で開錠した後、広州への移動時には施錠しなかったので上川島のホテルの部屋に落とした可能性大 
その錠は自分にとって初めての海外生活で手に入れた思い出深い一品であり、赤に白抜きで「永固」と刻まれたいかにも中国らしい見てくれがお気に入りだった。ショックのあまり、搭乗前のわずかな時間で新たに鍵を入手しなければという思考まで切り替えられずにいた自分だったが、教会の近くで店を見つけたCちゃんが店主に尋ねたら、あっさり売っていたのだった。
北京で買い求めたものを上川島で紛失し、広州で新たに得る・・・大袈裟に言うなら数奇な流れで私の元へやって来た南京錠がこれ。
その後、この鍵とともに中国はもちろんのこと様々な大陸を旅することになろうとは、このとき知る由もない
なお、小綺麗に見えるのは気のせいではなく、今回撮影にあたりシール(security checkedと貼られるアレ)の残骸を剥がすべくアルコールで拭いたら、思いのほかピカピカになった 左端、ひとつだけ色の異なる鍵がこの旅で失くした錠の。


少しだけ内陸にあった教会の方面から、珠江のほとりに出た。広州のランドマークのひとつ、海珠大橋(虹のようなフォルムのアーチ)が遠くに霞んでいる。

さらに西へ2㎞、沙面にたどり着いた。島というが、橋が短くて渡った感じは全然ない。長崎の出島に似ているなと思った(約20年前に行ったきり、最近の様子は知らないが)。
【運河建設の際、珠江に面した陸地を切り離してつくられた東西900m・南北300mの人工島。明代には外国船が入る埠頭が存在した。アロー戦争後の1861年から約90年間、西側がイギリス・東側がフランスの租界になったため、西洋風建築の名残りがあるエリア】

西洋風カラーの素敵なカフェの前にて(Cちゃんが撮ってくれた自分にモザイクをかけた)。
中に入ってコーヒーをすする余裕などまるでない。いつものことながら、最後まで慌ただしい
復路は黄沙駅から地下鉄1号線に乗り、公園前駅で2号線に乗り換えて全5駅。ホテルに預けた荷物をピックアップし、空港へ。地下鉄駅からのアクセスの良さ、面目躍如


★ 終わりに ★

固く閉ざされた明の外交の扉の前に志を絶たれたザビエル。しかし1553年、ポルトガルは賄賂と引き換えに明の役人と密約を交わし、マカオでの貿易を認めさせる。さらに1557年にはマカオ居住権も得て、両国間の交流は拡大。1552年12月にザビエルが逝去したことを思うにつけ、歴史はなんとも残酷としかいいようがない。
現在、中華人民共和国におけるキリスト教徒は人口の5.2%【この記事を書くにあたり調べたところ、信者数は7200万人超~1億2000万人まで幅がある。一番少なく見積もっているアメリカのピュー・リサーチセンターの統計(2020年)をひとまず採用】だが、思いどおりザビエルが明に入国し布教していたらどうなっていただろうか・・・
いやいや、「たら」「れば」で歴史を語るのは一興だが、正しくはない

現実に立ち返って。海辺育ちの自分でさえ閉口する高湿度の環境は、乾燥した気候のヨーロッパで生まれ育ったザビエルの身体には相当こたえただろうと感じた。
生涯を閉じた場所を訪れてみて、ザビエルの人生に幸多きことを確認してまわりたい気持ちに駆られた。異国伝道に発った後の彼の生活はどのようなものだったのだろう、と。
こうして 以後マカオ、マラッカ、ゴア、パリ、バスクへと、無茶苦茶な順序ながらザビエルの足跡を辿ることになる私とCちゃんなのだった。ゴアとパリについてはインド篇(2)その1、およびイタリア(3)&フランス(2)篇その2で既報の通り。それ以外についてはいずれ記事を書くつもりである。乞うご期待

 おしまい 




コメント
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