poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

メキシコ篇 その3

2023年04月05日 | 中米
旅の終盤もひき続きユカタン半島巡りです。下の地図中の➍から出発して、➏~➑を訪れました。
また、後の下線部の数字とも対応しています。

4・6・7 メリダ ⇒チチェン・イツァー ⇒カンクン (2008年3月29日)

2泊したアシエンダに別れを告げ、チチェン・イツァー遺跡に寄りながらカンクンへ移動することになっていたこの日。
遺跡ツアーの集合場所がメリダ中心部だったため、郊外のアシエンダまで迎えに来てくれる車をチャーターしてあった。ドライバーさんは見たところ60代と思われるおじいちゃん。この方がとても優しくて、英語で滑らかに会話できない私に道中1時間ずーっと話しかけてくれた。サルサが好きだというドライバーさんは、私がこの夜カンクンに泊まることを知ると、踊りに行かないかと誘ってくれた。なんでも、息子さんと一緒にカンクンにいるんだそうで。社交辞令だよねと思って断わったが、あきらめてくれるまで更に2度断わらなければならなかった。フレンドリーな国民性なんだろうなぁ・・・

メリダ市内の集合場所には白いバンが停まっていた。既に中はいっぱいで、2名掛けの助手席に座る2人の白人少年の横しか空いていなかった。なんとなく詰めてもらって ちょこんと腰掛けると、車は走り出した。さっそく年長の少年が「どこから来たの?」と話しかけてくる。日本と答えると、「日本てどんな国?」。あぁ、無垢でまばゆい瞳・・・私の英語力で応じられるんだろうか、そう思いながらほほ笑んでしまった。すると、すぐ後ろの座席にいたもう一人の少年が「この人、笑ってごまかそうとしているよ」とニヤリ。後で判明したのだが、3人の少年は祖母に連れられて参加していて、私の横の2人が兄弟(9歳くらいのホセ、5歳くらいのミゲル)、後ろが従兄弟のガブリエル(7歳くらい)だった。ガブリエルの皮肉も効いたし、利発なホセがもう一度たずねてきたので もはや逃げ道はなかった 「日本は黒髪に黒い瞳の人が多いです。四季があり、冬に雪が降る地域もあります。日本人は米と味噌汁が主食ですが、味噌汁を知っていますか?」・・・彼らに合わせたわけではなく、自分の表現力の乏しさゆえ小学生レベルの内容だったが、少年たちはそれなりに満足してくれたようだった。お返し(?)に、祖母はプエルトリコ出身だけど自分たちはマイアミに住んでいると教えてくれた。

メリダから東南東へ100㎞、1時間半ほどでチチェン・イツァー遺跡に到着。
【チチェン・イツァーの繁栄は2期に分けられる。7世紀以降のマヤ古典期(雨の神チャックに代表されるマヤ文明独自の特徴が顕著)と、メキシコ中央高原のトルテカ文明と融合した10世紀以降である。前者の遺物は敷地の南部にあるセノーテ(泉)・シトロクの周辺に栄えた「旧チチェン・イツァー」、後者のそれは北部に位置し「新チチェン・イツァー」と呼ばれる。10世紀初め、この地にトルテカ文明が到来すると芸術様式だけでなく政治・軍事・経済などあらゆる面に大きな変化が生じ、マヤ・トルテカ文明に発展した。ケツァルコアトル(水と農耕の神。羽毛を持つ蛇で表現される/メキシコ篇その1、テオティワカン遺跡で紹介)はここではククルカンと呼ばれ、特徴のひとつとなった(ククル=鳥、カン=蛇 を意味する)】

ツアーガイドに先導され、まずは旧チチェン・イツァーへ向かう。その途中で目に映ったものを撮影。



カラコル【天文台。マヤ文明では天文学を研究し、星の運行などを観測していたという。9mの基台の上に高さ13mがそびえる。通称「カタツムリ」は、内部にある螺旋階段から名づけられた】。

赤い家【一部の壁が赤く塗られていたことから命名された。古い建造物のひとつ】。

尼僧院【高さ20mの基壇の上に建物あり。尼僧院とは仮の呼び名で、実際の役割は不明という】。

この別館がすごいのである。壁面が雨の神チャックで埋め尽くされており、マヤ古典期建築の典型例。

ちなみに、上の画像に写るは左からガブリエル、ホセ、ミゲル。最年少のミゲルは腕白で、拾った長い棒で地面を叩いたりして しょっちゅう「ミゲ、やめなさい!!」とおばあさまに叱られていた。が、注意したところで止めるはずもなく・・・わが弟の在りし日の姿を見ているようで面白かった ミゲルとガブリエルは双子のように見えなくもないのだが、ガブ君は やや慎重で神経質な感じで性格は全然違うようだった。

尼僧院別館の目と鼻の先にある、教会【こちらも実際の役割は不明。尼僧院のすぐ脇に建っているため聖職者がいる場所っぽい、とこの地を “発見” したスペイン人が名付けたという。一切の装飾がない最下層とは対照的に、上層はおびただしい幾何学模様と雨の神チャックの装飾。トルテカ文明の影響を受ける前のプウク様式の傑作】。
なお、画像右端に見切れているのが先ほどの尼僧院別館。両者は7~8世紀にさかのぼり、この遺跡最古級の建造物。

教会と尼僧院別館の狭間をズームアップ。教会の右角に見ゆるはチャックの鼻 メキシコ篇その2で紹介したとおり、上向きなので雨乞いの意味が込められている。


次は新チチェン・イツァーへ。来た道を400mほど北へ戻ると、どでかい神殿(エルカスティージョ)が出迎えてくれた。ちなみに、左奥は戦士の神殿。
集合時刻を告げられ、ここからは自由行動となった。

別の角度から撮ったエルカスティージョ【10世紀初めに完成、高さ24m。メソアメリカのピラミッド式建築では階段は通常1つのみだが、これは4面全てに階段を持つ。特に、北側階段の下にはククルカン(羽毛を持つ蛇神)の頭が彫り出されており、春分と秋分の日にはククルカンが影となって階段側面に現れるように計算して設計されている】。
惜しむらくは、そのククルカンの彫刻を撮っていないこと せめてもと、1枚上の画像でその彫刻部分をマーカーで囲んでみた。
そして残念なことに、この神殿にのぼることができなかった ガイドブックにはそんな情報なかったし、人がのぼっている写真が載ってたのに・・・詳しいことはよく分からなかったが、訪れたタイミングが春分の日から1週間も経っていなかったことと関係しているのだろうか 何にせよ、悔し~い
(この記事を書くにあたり調べてみたところ、2020年時点でのぼれないという記載を見かけた。その昔は可能だったのに、保存等を理由に立ち入り禁止になるピサの斜塔パターンか・・・だから(?)規制が厳しくなる前にと、気になった遺跡にはすぐでも足を運びたくなるのだ


気を取り直して、戦士の神殿へ近づく【10世紀後半築。トルテカ文明の中心的遺跡トゥーラ(メキシコシティの北北東65㎞)の神殿に似通っているという】。

こちらはのぼることができないと予め知っていたので、階段上部をズームで撮影する【階段の最上部にはククルカンの頭がある。その後方に立つユニークな形状の2本の柱はガラガラヘビを表現している。さらに後方の壁中央部に見える小さくて丸い彫刻は、羽の頭飾りを着けた人間の姿でククルカンを象徴している。これらは全てマヤ・トルテカ文明の特徴という。一方で、壁面にはマヤ文明オリジナルの雨の神チャックの彫刻も健在で、融合ぶりが見てとれる】。

上の画像の角度では写っていないのだが、階段をのぼりきった場所にはチャックモールの彫刻がある。メキシコシティの国立人類学博物館に展示されていた類例がこちら。お腹の部分に着目あれ、平らで皿のようになっている。この部分に生贄の心臓を載せたという。メキシコ篇その2で先述したように、本来のマヤ文明は生贄をつくる風習がなかったのだが、戦闘的なトルテカ文明の影響を受けて変化していったことが感じられる。

戦士の神殿の南側面。千本柱が林立している。

西へ進み、球戯場へ。ウシュマルのとは比べものにならないほど広いと思ったら、それもそのはず、長さ150mはメキシコ最大だった。右の壁に設けられている輪っかにボールを通して競う。なお、奥に建つは北の神殿。
球戯は娯楽ではなく純粋な宗教儀式であり、勝利したチームのリーダーが生贄として捧げられたという。負けて生贄となるのではない、生贄となるのが名誉であるという価値観が興味深かった。

球戯場に隣接するジャガーの神殿前でパシャリ 中央にジャガーの玉座あり。なお、これと同様の形で真っ赤に彩色され翡翠の瞳が嵌め込まれた玉座がエルカスティージョ内の神殿にあるらしい。

柱には戦士が彫られていた。


率直な感想として、圧倒的な時間不足は否めなかった。個人的にはウシュマルやカバー遺跡でプウク様式は目にしていたので、どちらかというと新チチェン・イツァーに時間をかけたかったのだが、結果は逆だった。尼僧院とか教会とか、より古いものを丁寧に紹介したいという趣旨は理解できるものの・・・
中でも、ユカタン半島最大といわれるCenote Sagrado(聖なる泉)まで足を運べなかったのが悔やまれる エルカスティージョから500mほど北に位置するのだが、その距離を往復する時間さえなかった 【セノーテ =泉。生活用水としても重宝されるが、特にSagradoは儀式の際に生贄が投げ込まれ、また願掛けのために人々が金銀財宝を投げ込んだという。実際、水底からは遺体や財宝が引き上げられている】
とはいえチチェン・イツァーを訪れるツアーは色々あるはずで、メリダからカンクンまで移動する途中で遺跡を観光するという自分の計画に無理があったのではと思う。じっくり時間をかけたいならば、遺跡周辺の宿に泊まって個人でまわればよかっただけのこと。仕事を離れて旅に充てられる期間の長さに比して、この国で訪れたい場所の数が多すぎた結果、こうならざるを得なかった。訪問地を減らして質の向上を求めるか、はたまたその逆か・・・正解はどこにもなく、自ら選び取っていくしかないのだろう

集合時刻に指定された場所へ戻ると、私以外は皆メリダへ戻るそうで、お別れとなった。3少年たちと離れるのは勿論のこと、友好的に接してくれたアメリカ人女性(ブロンドのボブカット。年の頃は自分と同じくらいと思われる)との別れも残念だった。ニューヨークで働いているという、いかにもキャリアウーマン風の彼女は翌日にはカンクンに泊まるそうで、別れ際に名刺をくれてホテル名も教えてくれて、気が向いたら連絡してねと言ってくれた。あぁ~ 英語で会話が弾むならなぁ、誘ってみなくもないのに・・・旅先でいつも思うことだが、英語が堪能だったらもっと世界が広がるんだろうなぁ
カンクン行きのバスまで見送ってくれたツアーガイドさんに、"Mucho gracias!” と言ったのだが、後になって“Muchas gracias!”ではなかったかと思い至った。自分の思いは伝わったとは思うが、正しい表現ではなかった。恥をかいて学ぶ、を地で行く私である

乗り継いだ観光バスは50人は乗れるかという大型だった。一番前の席が空いていたので座ったら、通路をはさんで隣りのコーディネーターさん(ダニ〇ル・カール似のメキシコ人。見た感じ40代半ば?)が日本語ペラペラでビックリ 聞けば、日本に10年くらいいたという。最初の8ヶ月は留学生として、その後N〇Kスペイン語講座に出演したりメキシコ料理屋で働いたりして東京に3年、JI〇Aに関わりスペイン語を教えて長野に6年。妻は北九州出身の日本人で、今も日本とメキシコを行き来するそうだ。なんだか・・・ツアーのメンバーといい、人との出会いが印象的な日だった

カンクンまでは東北東に200数十㎞、3時間ほどだった。この日の宿は、カリブ海に突き出した長洲にあるホテル【カンクンはホテルゾーンとセントロに大別される。前者はカリブ海とラグーンに挟まれマグカップの取っ手状をしており、長さ20㎞の細長い洲にリゾートホテルが建ち並ぶ、観光に特化したエリア。後者はカンクンの中心街】。
近くのスーパーで瓶ビールを買ったはいいが、栓抜きがないことに気づいた。部屋の備品として置いてないか探すものの、見当たらない。これはホテルのスタッフに頼むしかないか?? それでも未練がましく部屋中を探しまわっていたら、バスルームは洗面台脇の壁に取り付けられた窪みがふと目に入った。念のため、栓を当てて軽く引っ張ると、いとも簡単に外れたではないか これって栓抜きなの?? 日本の感覚だと、バスルームに栓抜きがあるとは思いもよらない・・・面白いなぁ~ これだから、旅って楽しい これからメキシコに向かわれる皆さん、もしも栓抜きが手元に無かったら、バスルームの壁を探してみてくださいね 

7・8 カンクン ⇔トゥルム (2008年3月30日)

出国は翌朝だが、メキシコ観光できる実質的な最終日。カンクンから130㎞南西のトゥルム遺跡を目指す。
まずホテルを出てRuta1のバスに乗り、セントロのバスターミナルへ。自分が泊まった宿はホテルゾーンに位置するといってもカンクン岬の手前にあり、セントロに近めで便利だった。たぶん、料金の問題で逆算的に決まったホテルなのだろうけど
バスターミナルでトゥルム行きの1等バスのチケットを購入し、30分待つ。乗客が増えるまで待っていたのか、予定時刻より20分遅れて発車。乗り過ごしてトゥルム中心街まで行ってしまうと4㎞戻らなければならなくなるし、テオティワカンの前例もあるので、降りる場所を見逃さないようにドキドキしながら2時間以上揺られていると、シカレとシェルハ(いずれも海洋公園)で乗客のほとんどが降りてしまう 閑散とした遺跡なのかなぁ、なんて思いつつ予定通りトゥルム・ルイナスで下車。遺跡までの1㎞をつなぐシャトル(機関車を模している)に乗り継ぐ。

到着してみると、どこから集まったのか人・人・人・・・やっぱり一大観光地のようだ(笑)
【画像中央奥がエルカスティージョ、この遺跡で最も高い建造物。左手前がフレスコ画の神殿。マヤ後古典期の後期(13~15世紀)に栄えたトゥルム遺跡は40㎞内陸のコバ遺跡の外港として、メキシコ湾沿岸部・コスタリカ・パナマなどと盛んに交易を行なった】

上の画像の反対側(西)を見渡す。画像の奥、城壁に囲まれていることにお気づきだろうか【トゥルム=現地語で「壁」を意味する。ここは高さ3~5m・厚さ8m・南北400m・東西170mの壁を周囲にめぐらした城壁都市だった】。

大宮殿。中央部に掛かっている屋根が印象的だった。

イグアナも出現。てか、ウシュマルで見かけた時は相当ビックリしたのに、もはや驚きが薄れてきている・・・慣れって恐ろしいわ

神殿の柱の上部の壁には、"降臨する神” の彫刻の痕跡が見られた。

トゥルムのはかなり損傷しているが、メキシコシティの国立人類学博物館に展示されていた類例の彫刻はこんな感じ。
神様の顔の上に足 なんというか・・・自分が今まで訪れてきた国々では同様のを見かけたことがない。独特なんだよな~【専門的には、豊穣を願う地母神とか、沈む太陽とか、蜂を象徴しているなど諸説ある。ちなみに、マヤの人々は蜂蜜を重要な交易品としていた】


前置きが長くなったが・・・実はこの遺跡、カリブ海に臨む断崖の上に築かれている。エルカスティージョの真裏はこんな感じで海岸まで自由に行き来できるため、水着の人々が行き交う不思議な遺跡だった。
2002年ペルーを訪れた際に上空を飛んだと思われるが、初めて間近に見るカリブ海は遠浅で温かそうな青緑色をしていた。

ビーチに降りて見上げる遺跡【1518年、キューバを経由して来航したスペインの探検隊がトゥルムを発見し、セビーリャ(当時)と同じくらい大きな都市があると驚愕したという。ジャングルの中で数百年間発展してきたマヤ文明が最後にたどり着いたのは海辺の地だった。同様のマヤ文明末期の都市遺跡が海辺にいくつか残されているが、中でもここは保存状態が良いもののひとつらしい】。

階段をのぼり、再び遺跡に戻る。いよいよ旅のクライマックス お目当ての場所へと歩を進めると、自分をこの国へ呼び寄せた風景が目の前に広がっていた
カリブ海と風の神殿のコントラスト。山や森の中にある遺跡は数多訪れたが、穏やかな海辺の遺跡はレア・・・これほど自分好みの要素が詰まった景色はなかなか無い。
日本でこのポスターを見かけた時、絶対にこの目で見たいと心に決めた。メヒカーナ航空のロゴだけで遺跡名は示されていなかったため、メキシコの海辺の遺跡を検索しまくってトゥルムと割り出した。心底切望した景色ゆえ、自分がその場に立っていることがかえって信じられず、夢うつつだった。

別の角度から、これも風の神殿【ネーミングとは裏腹に、位置からして見張り台ではという説もある】。

はるか向こうにユカタン半島東岸を見晴らす。


来た道を逆になぞり、カンクンのバスターミナルへ帰着。
朝食後に何も口にしないまま、夕食には早い中途半端な時間になっていたが、目星をつけていたレストランへ向かう。こーいう時、通し営業なのはありがたい。ガイドブックの地図では200mほどの距離のはずが、迷って3倍近く歩く始末だったが、たどり着けてよかった 
黒い豆のスープと、タンピケーニャ【牛ヒレ肉を薄く開いて焼いたステーキ】を注文。これにワカモーレ【ペースト状にしたアボカドに、ライムまたはレモン果汁・塩・刻んだタマネギやトマトなどを混ぜたディップ】と小さなエンチラーダ【元来はトルティージャに肉をはさみ、トマトと唐辛子のソースをかけたもの。現在は具に魚介・チーズ・野菜、ソースも緑のなど、トッピングにチーズ・コリアンダー・刻みタマネギなど、バリエーションが豊富になっている】が付いていて、最後のメキシコ料理を十分堪能することができた。画像を撮ってなくて、ごめんなさい

食後、Ruta1のバスに乗ってホテルの前を通り過ぎ、カンクン岬のショッピング・モールへ。お土産の最終調整である。
民芸品売り場では1時間も迷って、お店の人に相当嫌な顔をされた。あんなに時間かけてチョコレートとは、みたいな悪態をつかれれているようだった。テキーラ入りのチョコレートが美味しそうだったんだもん、いいじゃんねぇ。それにしても、さほど言葉も聞き取れないのに、悪口だろうなと分かってしまうのって不思議だよねぇ、本能なのかな
Ruta2のバスに乗り、ホテルの近くで下車。前日買いそびれたユカタン半島の地ビール「Montejo」をスーパーでゲット(こちらも画像なし)。胃腸をおもんぱかって1日2食にしていたため、滞在日数のわりにメキシコ料理を種類豊富に楽しめなかったけど ビールはかなり制覇したかも、何のこっちゃ

7 カンクン ⇒アメリカ(ヒューストン)へ出国 (2008年3月31日)

最後にひとつ失敗 カンクンの空港(正確に言うと、Terminal3)にはポストがなかった・・・ 前夜に書いた2枚のハガキは持ち帰るハメに。
この経験から、最終日に空港で投函はリスク大と以後の教訓にしている。転んでもただでは起きないぞっ

★ 終わりに ★

治安が気がかりなメキシコシティに始まり、北部のサカテカスを経由してユカタン半島へ飛んだ。コートを羽織って首都とこじんまりした地方都市を巡った後、半袖Tシャツに着替えて陽光まぶしい遺跡へ【3月の平均気温; メキシコシティ17℃、サカテカス14.3℃、カンクン26.4℃】。雪降る日に生まれたくせに寒さが苦手なもので、気候が温暖になってゆくにつれ自分の心も少しずつ開放されて軽やかになり、人々との出会いにも恵まれた。この記事を書くにあたり 無邪気な笑顔を向ける3少年の画像にモザイクをかけながら、みんな成人しているなぁ、どんな風に成長しているんだろうとしばし空想にふけった。例によって今回の旅もメキシコに強い旅行社に日程・訪問希望地・予算を伝えてアレンジしてもらったので、訪問の順番は全くのお任せだったのだが、正解だった気がする。

惜しむらくは、全体的な画像の乏しさ ソパ・デ・トルティージャとタコスの2品しか紹介できなかったメキシコ料理は論外だし、各遺跡では重要とされる彫刻や壁画を撮りそびれているものも多く、自分の見る目の無さ&訪問前の勉強不足にガッカリせざるを得ない。当時はブログをやる心づもりがなかったとはいえ、メキシコの魅力を十分に伝えきれず残念である。
が、この記事に触れた方々の中からメキシコに興味を持たれる稀有な方がいらっしゃるかもしれない、とかそけき望みをつなぐ図太い私なのだった

 おしまい 


コメント
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メキシコ篇 その2

2023年03月05日 | 中米
旅の中盤では、以下の地図の➌~➎を訪れました。なお、ウシュマルとカバーは近いため➎に集約しています。
また、あとの下線部の数字とも対応しています。


3 サカテカス (2008年3月26日)

朝に弱い自分、しかも睡眠不足気味のはずなのに 6時には目が覚めてしまった。軽い高山病なのか(サカテカスの平均標高は2,250m)
ともあれ、この日はサカテカス終日フリー。

まずはホテルを出て数十m、サントドミンゴ教会へ【18世紀半ば、イエズス会が建立。注意して眺めると、IHSのマークあり。また、桃色がかった砂岩で造られていることにお気づきでしょうか。この地の教会はいずれもこの色調のため、ピンクシティと呼ばれるらしい】。

入ってまず驚いたのは、床が木造であること。ピンボケ画像ながら伝わるといいな~

壁はフツーに石造りなんだけど・・・

ファサードはシンプルだったのに、内部には金ぴかの装飾がいくつもある。

上の画像とは別のに近寄るとこんな感じ。


十字架を背負うイエス。セマナサンタだからか【聖週間。いわゆるイースターで、イエス・キリストの受難と復活を祝う祭典】


次に、エデン鉱坑へ。東入り口の方が断然近いのだが、1㎞歩いて西入り口を目指す。迷わずにたどり着けるかがこの日一番のハイライトだったが、迷いそうな角でパンを売っていたオジサマが"Mina?”(鉱坑か?)と声をかけてくれた。こちらから尋ねずとも・・・なんて親切なんだろう
【サカテカスは、16~17世紀にメキシコ有数の銀鉱として繁栄。20世紀後半に鉱山は閉鎖されたが、その後まもなくしてその一部が公開されるようになり、ガイドが先導するグループツアーにて採掘場を見学することができる。西入り口からはトロッコで、東入り口からはエレベーターで坑道へ下りる】
トロッコ これに乗るため、わざわざ遠まわりしたのだった

発掘物が展示されていた。

砂漠の薔薇【石膏(硫酸カルシウム)または重晶石(硫酸バリウム)から成る鉱物】。のちにモロッコでも出くわすことになる。

所々に蝋人形があり、採掘の様子が再現されている。画像で薄明るい部分の左、カゴを背負いハシゴにのぼる坑夫。その足元にご注目あれ。子どもも働かされている。
【16世紀当時この地には先住民5部族が暮らしていたが、キリスト教への改宗を強要され、また鉱山で酷使される中で激減。現在、ウィチョル族のみ末裔が生存する】

ガイドブック情報でスペイン語ガイドしかないと知り、覚悟はしていた。ガイドのオジサマはしきりに他の観光客たちを笑わせていたが、こちとら全く意味不明 言葉って大事だなぁ・・・

鉱坑を出て、迷うことなくTeleferico(ケーブルカー)乗り場に到着できた。ひっきりなしにケーブルカーが行き交う。
南南東のブーファの丘まで7分、片道25ペソ(≒300円)也。

朝イチで訪れたサントドミンゴ教会が眼下に。画像右がそれ、左の大きいのはカテドラル【銀で巨万の財を築いた貴族たちは、贅を尽くしてバロック様式の邸宅や教会を建てた。その街並みは世界遺産に登録されている】。

南西を望むと、水道橋が映る。

山頂には教会があった。

 ファサードに近寄ると、太陽と月に目を奪われた。ヨーロッパの教会では見られない意匠だろう。メキシコの土着文化と融合してるなぁ・・・

メキシコ革命のモニュメント【1914年、この丘に立てこもる連邦政府軍と激戦のすえに革命軍が勝利した】。

再びケーブルカーに乗り、くだっていく。


ケーブルカーを降りた後、町なかへ戻るべくサントドミンゴ教会を目指す。迷わずにたどり着くと、時刻は12時半過ぎ。
この国に来てからというもの、遅めの昼食にすっかり慣れてしまった自分。教会に隣接する博物館を見学してから食事をとることにした。
【ペドロ・コロネル博物館は、この地出身の画家ペドロが集めた世界中の美術品を擁する。エジプト・ギリシャ・インド・中国などの宝物に、メキシコ古代文明のも全土から蒐集。そのほか、絵画も充実している】 館内で全く撮影しておらず、文章のみでごめんなさい
「メキシコ北部で最も訪れる価値のある博物館」とガイドブックが銘打つのもそのはず、素人目にも良品が集められていたように思う。絵画でいうなら、シャガール1点・ピカソ数点に大量のゴヤ 喜多川歌麿(1点)のほか浮世絵が多数、狩野探幽が3点、作者不詳の六双金屏風もあり。日本との交流がさほど密ではなかったメキシコの、しかも地方都市でこんなシロモノに出合うとは・・・想像を超えていた
メキシコ考古学のコレクションでは、土偶や埴輪に類似した遺物がゴロゴロ・・・メキシコのほうが細かさや彩色において格段上なので、そっくりと言うには語弊があるが
そして、ペドロさんは仮面に強く興味を抱いていたらしく、ありとあらゆる国の仮面が集結していた(日本の能面、なまはげ、天狗もあり)。それらを眺めていると、どこか似通った仮面は必ずあるもので。文化的交流が想像できる範囲のはともかく、そうでない場合の共通性の根拠は何ぞや 人間が生み出すものは普遍性をもつのだろうか・・・
鑑賞の合間に窓の外を見ると、カテドラルが視界に入ってくる。ネヴァ川が映ったロシアはエルミタージュ美術館をふと思い出した。ペドロ・コロネル博物館は環境にも恵まれていた。

博物館前から南東を望む。

昼食をとるべく、目星をつけていたレストランのあるオルテガ市場へ向かう。盆地ゆえ、道は傾斜している。前方にそびえるはカテドラルの鐘楼。

昼食は初のモーレ料理、Mole Zacatecanoを注文【モーレ =チョコレートに唐辛子やスパイス、木の実などを加えたソース。一般的に、鶏肉などにかけて食す】。画像を撮っていなくてごめんなさい。残念至極・・・まさかブログやるとは思ってもいなかったあの頃
ガイドブックで目にした時から、絶対に口にしようと決めていた。怖いもの見たさ、好奇心ビンビンで
外見はまさにチョコレートそのものだが、甘味が消失しコクだけが残り、シナモンが効いていた。たしかに独特の味だが、私は嫌いではない メキシコまで行かずとも、興味を持った方にはぜひ試してもらいたいな~ メキシコ料理屋に行くとか、レシピを検索して作ってみるとか。

食後、腹ごなしに水道橋まで行ってみた【18世紀後半築】。

再び歩いて北東へ600m戻り、カテドラルへ。とにかく起伏の多い町である。しばらくすると、カテドラルが見えてきた(画像左奥)。

さらに近づく。

このカテドラルは、豪奢なファサードで知られている。メキシコを旅しようと決意した後、ガイドブックをめくっていて一目で心奪われ・・・これを見るためにサカテカスまで足を伸ばした 
【17世紀前半に着工し18世紀半ばに完成、メキシコ・コロニアルの最高傑作といわれる。チュリゲラ様式 =17世紀末~18世紀にチュリゲラ一族(彫刻家・建築家を多数輩出したスペインの名家)が生み出したバロック様式の一派。絢爛豪華なおびただしい装飾が特徴で、ねじれ柱・逆ピラミッド状角柱を持つ。イエスと12弟子のファサードは、西洋のバロック様式と先住民の装飾技術が融合している】

昼食前に撮影した上の画像と見比べてほしい。時間の経過により光線の具合が変化し、写りが激変。

外観とは対照的に、内装は簡素である。メキシコ革命の際に失われたという。


カテドラルを出て目と鼻の先にあるオルテガ市場に再び足を運び、お土産をゲット。ええ、前日のことは忘れましたとも。失くしたものを嘆いても戻ってこない、先に進むしかないもんね 
えもいわれぬ色彩の壁飾りに魅かれて買った(98ペソ×3つ)。これまた撮っていないのが悔やまれる
ウナギの寝床のように間口の狭いお店はクオリティーの高そうな商品を並べていたが、商売っ気はないようで・・・自分が買ったあと他のお店をウロウロしているうちに閉まっていた。明るい時間なのになー てか、絶妙なタイミングで入店したんだわ、ラッキー

翌日のピックアップが早いのも構わず、風呂あがりにビールを楽しんだ。銘柄はBohemiaとSol(画像なし)。
部屋には大音量が響いていた。元凶はホテルから100mほどのカテドラル脇で催しているコンサート。前日はホテル内のショーで、今日はこれかい セマナサンタで盛り上がっているのだろう、二晩ともにぎやかだった 出歩いて自分も楽しめるといいんだけど、一人旅ゆえ日没後は部屋にこもるしかない。

3・1・4 サカテカス ⇒(メキシコシティ経由) ⇒メリダ (2008年3月27日)

この日はユカタン半島のメリダまで飛ぶことになっていた。
前々日夜にもお世話になったドライバーさんに空港まで送り届けてもらい、まずメキシコシティへ1時間半ほどのフライト。
国内便ゆえ、メキシコシティで荷物をピックアップする必要もなく、チェックイン作業もナシ。しかもサカテカスからの便が15分早く着いたので、けっこう時間を持て余した。空港内のショップを見てまわったが、いまひとつピンとこず。座って待ちながら、思考は午後をどう過ごすかに流れていった。もともとの予定では、翌日からの3日連続遺跡めぐりに備えて宿でゆったり過ごすつもりだった。が、移動だけで1日つぶすのも勿体ない気がしてきて、メリダ郊外の宿にチェックイン後 市内を観光してみようかなと思い始める。宿と市内がどのくらい離れているかだよな~ そして、往きはいいとして帰りにまともなタクシー(SitioかTurismo)拾えるかが問題だよ・・・楽しい妄想で時間は過ぎていく。

メキシコシティを発って2時間、正午前 メリダに着陸。13時過ぎにこの日の宿へ到着したが、市内観光はふっ飛んだ。
待てど暮らせど、自分の預け荷物が出てこない・・・一人、二人と乗客は荷物を引き取り去って行き、ついにターンテーブルが空になってしまった時の衝撃
噂には聞いていたが、これがロストバゲージか ひとまず、出迎えのガイドさんを探して事情を説明し、航空会社にクレームをつけてもらった。スペイン語しゃべれる方がいてくれて、ホントよかった。宿が市内だったら、昼間のフライトに出迎えは依頼しなかったはずなので、そーいう意味では不幸中の幸いかも
ガイドさんによると、乗り継ぎ地のメキシコシティにとどまってるんだろう、見つけしだい飛行機に載せて17時頃には宿まで直接届けてくれるとのこと。
その通りになるなら問題ないけど、う~む・・・本当にそうなんだろうか、すっかり疑心暗鬼 もしも無くなっていたら、と最悪の想像をしてしまう。一番困るのはコンタクト、このあとメガネで通すのは嫌だなぁ(両方0.1以下のド近眼ゆえ、裸眼ではムリ) その次は下着と靴下。この宿までの車窓、見渡す限り草原だったけど買いに行けるんだろーか・・・
考えてみたところで、詮無いのである。これほど頻繁に旅に出ながら よくぞここまで被害に遭わなかったと感心し、やむを得ないとあきらめるしかないのか、もはや。

というわけですっかり心折れてしまい、当初の予定どおり宿で身体を休めることにした。
この日の宿は今回の旅の中で最も贅沢なもので、Haciendaである【アシエンダ=荘園。15世紀以降、入植したスペイン人たちは大規模なプランテーションを経営する領主となり、農園内に館を建てた。それらに手を入れ、こんにち宿として提供している。私が泊まったアシエンダは、18世紀に繫栄したものを2年かけて修復したという】。
通されたお部屋の外観。

上の画像の右はこんな感じ(撮影は後刻)。 

入口は雨戸のように閉じることができる仕組みになっている。

素敵なベッド。

ベッドだけでなく、洗面台もお花で彩られていた。


気になっていたマヤ・マッサージを受けてみた(50分、95ドル也)。月並みな感想になるが、心地よくリラックスすることができた
日本にいてもマッサージ大好きな自分、他者にほぐしてもらえるだけでどんな時もハッピーになれる
農園時代の雰囲気を残した施術室。


そのまま敷地内を探索する。無造作に置かれたクラシック車両たち・・・


何を吊り上げていたのか・・・

上3枚の画像の横に広がる風景。


プールもあった。なお、奥の赤い建物の2階はレストランになっている。

レールを発見。かつては農作物などを運んだのだろうか。

レストラン側からプール方面を望む。煙突が目立つ。

全体的に、赤と白のコントラストが鮮やか。

上の画像の階段上、右手はこんな感じ。立体的な構造なんである。


ひとまわりして部屋に戻り、ウエルカム・フルーツを食す。何だろう、これ

19時のディナーまで何もない。日ごろ、5分・10分刻みで仕事する生活が噓のよう・・・バカンスとはこーいうことなんだろうなぁ
18時前、無事に荷物が届いた。中身も異常なし。17時をまわった時点でかなり諦めていたので、相当嬉しかった

ディナーは民族舞踊を観賞しながらだった。白い民族衣装がまぶしい。特に、色とりどりのお花の刺繍をほどこした女性のドレスが可愛い

メイポールのようなダンス。

他にも、頭にお盆をのせて踊るダンスを見たが、画像なし。
お料理はSopa de Lima【鶏ベースのスープに、炒めた玉ねぎ・ニンニク・トマト・青唐辛子にオレガノやアニスを加え、リマという柑橘類をしぼった酸味のあるスープ】とPollo a la Yucateca【様々なスパイスで鶏肉に下味をつけ、カリカリに焼く】、いずれもユカタン半島の郷土料理。
ここまでビールばかりだったので、テキーラを飲んだ。なんで画像撮ってないんだろう・・・ごめんなさい

部屋に引き揚げて、ビックリ 空けていた1時間半足らずの間にルームクリーニングが入っていた、布団を敷かなきゃならない和風旅館でもないのに。ウェルカム・フルーツの食べかすは片付いてるし、ロウソクが灯されている。そして何よりも度肝を抜かれたのは、ランプ。実はディナー前に少し薄暗いなと思い、ベッド脇のナイトランプのそばにイスを移動して本を読んでいた。そのままにして部屋を出たら、背丈もあろうかという大きなルームランプが出現したのだった。これって、暗いなと思っていたのを察してくれたんだよね?! すごいわ
欧米式サービスを行う宿では、あれこれリクエストすればそつなく応じてくれるだろう。が、自分はよっぽどのことでない限り工夫して凌ぐのが常(モロッコ篇で言及したクーラー故障のレベルになるとさすがに苦情を訴えたが、それにしても友人Dちゃんに交渉を任せっきりだった)。英語力の問題でうまく主張できないのだから、ある程度はやむを得ないと割り切っている。それなのに・・・世界各地の様々な宿に泊まってきたが、これほどまでに忖度したサービスを受けた経験は後にも先にもない。これがホスピタリティーというものか。

ランプの存在に気を取られる一方で、ハンモックが出現したのも嬉しかった。昼間、敷地内をフラフラしていた時に見かけて(4枚上の画像を御覧あれ)、いいな~と思っていたので こぼしそうでビールを飲むのはやめておいたが、ゆらゆら揺れながら本を読んで堪能


4・5・4 メリダ ⇒ウシュマル ⇒カバー ⇒メリダ (2008年3月28日)

この日はマヤ文明の遺跡を2ヶ所訪れることになっていた。9時に迎えに来てくれたドライバー兼ガイドのΛさんは、パ〇チ佐藤が老けた感じの風貌だった。
まずは、メリダから80㎞南南西のウシュマル遺跡へ。
【7世紀に草創、10世紀まで栄えた。マヤ文明は時代が下るにつれ周辺の文明の影響を受けて独自の要素と混淆していくのだが、この遺跡はマヤ古典期のオリジナル色豊かなプウク様式の建造物を多く残している。カルスト台地で河川がないという土地柄、熱烈に崇拝された雨の神チャックがあらゆる所に彫り出されている】

入場すると、丸みのあるピラミッドが出迎えてくれた【この独特な形をもつピラミッドはメキシコ唯一という。一夜のうちに完成したという伝説から「魔法使いのピラミッド」と呼ばれているが、実際は8世紀から300年かけて徐々に完成。高さ38m、階段は118段。神に捧げるためにつくられ、内部に4つの神殿を持つ】。

正面から見ると、こんな感じ。傾いてるのは私の撮影技術の問題
てか、手前のアーチにも目を奪われるのである。切り裂くように鋭いマヤ・アーチ【専門的には持送りアーチという。石を両側から徐々に張り出すように積み、頂点でつなぐ】。

これが雨の神チャック【メソアメリカでは古くから雨の神に対する信仰が見られ、その1で紹介したテオティワカン遺跡のトラロックもそのひとつ。マヤ文明ではチャックとなる。丸い目、ギザギザの歯などの共通点を持つ】。

チャック像が魔法使いのピラミッドの階段側面に連なっている。
チャック像の左、階段にもご注目を。幅がメッチャ狭いし角度は急だし・・・上るのも怖いけど下りられない気がする、高所恐怖症気味の自分は。ま、心配しなくても禁止されててのぼれないんだけど。のぼらなくてもいい安堵感と、階段上の神殿をこの目で見られない悔しさと、どちらが勝るのか・・・禁じられていなかったら、結局のぼるんだろうなぁ私。つまり、悔しさに軍配が上がるわ

遠景はこちら。階段の左にチャックが積み上がっている。

点在する黒ずんだ彫刻は何だろう・・・鳥に見えるのは気のせいか


ピラミッドのすぐ西に位置する尼僧院へ【小部屋の多さから名づけられたが、実際は宮殿だったともいわれる。中庭を囲む形で並ぶ4つの建物は、各々異なる意匠を持つ】。
北側の建物は、東西南北のうちで最も高さがある。中央手前の白いのは祭壇、その左奥の柱がある部分はヴィーナスの神殿。

北側の建物壁面。象の鼻のように見えるのは雨の神チャックのそれ。チャックは鼻を持つのだが失われていることが多い、先ほど紹介した魔法使いのピラミッドの群のように。上向きの鼻は雨乞い、下向きの鼻は降雨に感謝の意味を持つというが、途中で折れていると判別が難しい

東側の建物。台形を逆さにしたような幾何学模様が目立つ。

近づくとこんな感じ。入口上部に雨の神チャックが彫られている。そして、逆さ台形を構成しているのは なんと8匹の双頭の蛇

南側の建物。

西側の建物。中央の大蛇が印象的だった。テオティワカン遺跡でも思ったのだが、これまでに自分がどの国でも見たことがない類なのである。メソアメリカを初めて訪れてみて、やっぱり独特だとしみじみ・・・


次は球戯場。中央やや左の丸い輪がゴール【マヤ人にとっての球戯は娯楽ではなく、神に捧げる宗教儀式だった。上腕または足で打ったボールを輪にくぐらせるのを競った】。
ちなみに、画像左上に写っているのが亀の家、その左に見切れているのが総督宮殿。

最後に、遺跡の最南部エリアへ。階段の上にそびえるは鳩の家。壁面しか残っていない。

この遺跡内で最も高い大ピラミッドにのぼり北西を見晴らすと、緑の地平線の中に遺跡群が忽然と浮かび上がる。
よくもまあ、こんなジャングルの中に・・・

たしかに、自然が豊かな遺跡なのだ。実に多くの種類の鳥たちが木々を飛びまわり、そしてイグアナが遺跡中を闊歩しているのには心底驚いた。





来た道を戻り、入場口脇のレストランにてガイドのΛさんと昼食。
「アステカ人やトルテカ人と比較して、マヤ人の特徴は何だと思う?」と質問されて、答えられるわけもない。曰く、人間の生贄をつくるか否か、なんだそうだ。
たしかに、テオティワカン遺跡にはいけにえを捧げる祭壇があったし、テノチティトランの広場でも生贄を捧げる儀式が行われた旨の説明文を見かけた【なお、トルテカ =メキシコの中央高原北部を支配した勢力で、テオティワカンが廃れた後に繫栄。メキシコシティの北65㎞にあるトゥーラ遺跡がその中心部】。むやみに生命を奪わず、自然と共生したのがマヤ人だという。
また、現在目にしているウシュマル遺跡は全体の40%で、残りはジャングルに眠っているのだそうだ。マヤ人は移動する際に土や泥をかけて建物を隠したらしい。もしも全貌が現れたなら、チチェン・イツァー遺跡(100㎞東北東に位置する)以上の規模だという。ガイドΛさんの語りは熱く、自分の英語力の問題で全ては聞き取れていないにせよ、マヤ人をこよなく愛しているのが伝わってきた。

ウシュマル遺跡を後にして、15㎞南東のカバー遺跡へ向かう【9~10世紀にかけて、ユカタン半島で2番目に大きな都市として繁栄したらしい。260もの雨神チャックの彫刻で壁面が埋め尽くされているコズ・ポープが有名。語意はrolled mat、チャックの鼻のカーブにちなむという。先ほどのウシュマルと同じく、プウク様式】。

近寄ると、こんな感じ。チャックの目に圧倒されるぅ~

北側は一転して、また違う雰囲気。神とか動物じゃなくて、人物が彫られているのね。


夕食後にシャワーを浴び、ビールを飲みながらガイドΛさんの言葉を思い出す。「言葉には普遍性がある」
曰く、“キン”はマヤ語で太陽≒支配者を意味し、英語のkingに通じる。日本語で“キン”は何を意味するのと問われ、goldと答えた私に、Λさんは興奮気味に太陽の色ではないかと言った。たしかに・・・もう少し多くの単語を精査する必要はあるけど、一理あるなぁ。
サカテカスの博物館で仮面に感じた文化の普遍性。それは時として言葉にもあらわれるのか 
とはいえ、現実は英単語と似ても似つかぬスペイン語に苦労する日々・・・お風呂の栓がCとFの2択で、C =coldと思いFをひねって冷たいシャワーを浴びる始末  
F=fria=cold、C=caliente =hotだと実践で学ぶ私

★ 中締め ★

薄々お気づきだったかもしれませんが・・・ウシュマル遺跡を巡っている途中でデジカメのバッテリーが怪しくなり、撮影数を控えざるを得ませんでした
ウシュマルの最南部はほとんど画像を残せず、残念至極です 特に、総督の宮殿はお伝えしたかった・・・興味を持たれた方は、ぜひ検索してみてくださいね。
さて、次回は引き続きユカタン半島です。旅の最後にチチェン・イツァー遺跡とトゥルム遺跡を訪れます。お楽しみに


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メキシコ篇 その1

2023年02月03日 | 中米
5年に及ぶ一連の仕事がクライマックスにさしかかっていた。特に最後の1年はクタクタで、そんな時ふと 美しい海のそばに遺跡がたたずむポスターを見かけた。なにこれ?! 仕事が一段落したらメキシコに行こう、と決意したのだった。
現地行動7日間の旅を3つに分け、冒頭部分を「その1」としてお送りします。その1では、以下の地図中の➊~➌を訪れました。なお、近いためテオティワカンは➊のメキシコシティに集約しています。

1 (ヒューストン経由) ⇒メキシコシティ (2008年3月23日)

成田空港で忘れ物に気づき、目覚まし時計と変圧器を買いに走った。時差15時間だから睡眠中はケータイの電源切るのでアラーム機能が使えないし、ドライヤーも髭剃りも使わないけど、デジカメだけは充電しないとどうしようもない。
そんなドタバタでチェックインが遅くなったため、座席はドン詰まりの後部。機内食は選べなかった。最初の夕食はステーキor魚のはずが、ブロックのサーモン1択。パスタorオムレツの朝食は、オムレツが提供された。オムレツに付いてたポテトフライはきつかったけど、普通に選択できたとしても魚とオムレツだわ。自分の嗜好は少数派なのね・・・

ペルー以来5年ぶりに11時間もの長時間搭乗し、乗り継ぎ地で降りたら心なしか足がしびれているよーな・・・体力の衰えか
直行便が些少(当時、週4便)だから仕方ないのだが、アメリカ乗り継ぎってややこしい 入国審査は長蛇の列だし、空港が広すぎてターミナルの移動は早足でも15分はかかる。9.11テロ以降セキュリティーチェックが相当厳しくなっていて、預け荷物に鍵かけられないし、靴まで脱がされる徹底ぶり。あれやこれやで、乗り継ぎ2時間だと結構タイト。帰国時は1.5時間しかないんだけどな・・・大丈夫なんだろか
メキシコに隣接するテキサス州だけあって、空港内の表示も放送も英語とスペイン語が併用されている。メキシコに足を踏み入れたら、スペイン語の洪水だよなぁ・・・この地で既に超スピードの英語に気圧されている語学不得手な自分だが、そうはいっても意思疎通のツールとして英語にいかに救われているかが身に沁みる。うん、いざとなったら単語で筆談するしかない スペイン語できないけど、旅したいんだもん

タイヤ交換で20分ほどdelayした飛行機は、夕刻のメキシコシティに着陸。出迎えのガイドξさんとは最初すれ違って一瞬焦ったけど、会うことができた。治安があまり良くないとされるメキシコシティでフリーとなる翌日のことを色々相談したら、丁寧に教えてくれた。

平均標高2,240mの地に順応するため、さしもの自分もこの日はアルコールを我慢して就寝
【国全体の平均標高は1,111mだが、3,000m超えの山を複数擁するメキシコシティは高めで、標高の高い世界の首都ベスト10入り。1,500mを超えると高山病になることがあり要注意。ちなみに、日本一平均標高が高い長野県は1,132m】

1 メキシコシティ ⇔テオティワカン (2008年3月24日) 

この日は、メキシコシティの北東50㎞にあるテオティワカン遺跡へ行こうと決めていた。ホテルから6㎞ほどの北方面バスターミナルから15分おきにバスが出ているのだが、ターミナルまでは地下鉄ではなくタクシーで行くことにした【治安に難ありのメキシコシティでは、地下鉄もタクシーも要警戒。特にタクシーは5種類あり、①空港専用(24時間乗車可能。空港内のカウンターでチケットを購入)、②Sitio(専用の停留所に待機、料金はメーター制。電話で呼ぶことも可能)、③Turismo(4つ星以上のホテル前に停車。料金は移動エリアで決まり、Sitioよりも割高)、④Libre(流し。料金はメーター制でSitioの半額程度)、⑤白タク(無認可で営業)。④⑤は料金のぼったくりや、タクシー強盗の被害に遭った実例多数(タクシー強盗; ひと気のない場所へ連れて行かれ、場合によっては仲間が合流して金品を奪われる。時間帯に関係なく昼でも発生)、しかもSitio停留所の近くに駐車して誤りを誘うケースもあるという】。ホテルのフロントに頼んだら、Turismoがやって来た。泊まっていたのは4つ星じゃなかったからSitioかと思ったけど、まっいいか。乗車して「Terminal Central Autobuses del Norte」と書いたメモをドライバーに見せたら、料金は150ペソと書いてくれた(≒1,800円也)。

バスターミナルは広すぎてチケット売り場が分かりにくかったものの、ガイドのξさんに教えられた通り左へ進むと端のあたりにブースがあり、すぐに出発するバスをおさえることができた。ガイドブック情報で、「Los Piramides」に停まることを確認しないと「Teotihuacan」(遺跡から2㎞ の町)で降ろされてしまうとあったので、乗る際にドライバーに聞いたらうなずいてくれた。
バス停の標識など無く、停留所に着くたびにドライバーが地名を叫ぶ。ひとまず遺跡に向かっていることに安心しつつ郊外らしい車窓を眺めること1時間、ドライバーが何がしか口走った。自分をはじめとする乗客の多くが座ったままでいると、運転手がひときわ大きな声で怒鳴った。あっ、Los Piramidesだ あわてて立ち上がる私たち遺跡見学者。スペイン語聞き取れなかったんだな~ てへっ

料金を支払い、遺跡に入場。
【黎明の時期についてはB.C.2~1世紀など諸説あるが、都市国家として栄え最盛期の人口は15~20万人だったという。7世紀後半に突如滅んだが、文字記録がないため原因は不明。12世紀にアステカ人が遺跡を発見し、「神々が集う場所」=テオティワカンと命名。高度な天文学・数学の知識をもとに、碁盤の目状に設計されている】
北北東に向かって伸びる「死者の道」【幅45m・全長2.5㎞。発見当時、道沿いに並ぶ20以上の神殿をアステカ人が墓と捉えてネーミングされた】、その奥には月のピラミッドがわずかに覗く。右手前にそびえるは太陽のピラミッド。

遺跡の最南部、ケツァルコアトルの神殿【高さ20m、一辺65m】。

近寄るとこんな感じ。階段の周辺には、ケツァルコアトル【ケツァル=鳥、コアトル=蛇;「羽毛を持つ蛇」。水と農耕の神】とトラロック【雨の女神。メソアメリカで古くから信仰されていたという】の彫刻。下の画像で、ライオンのように見えるのがケツァルコアトル(たてがみっぽいのが羽毛)、丸い目・隆起した上唇・牙を持つのがトラロック。

太陽のピラミッド(右)に向かって800mほど北上していく。

道中には石組みの遺構あり【復元した部分は大きな石の間に小石をはさんでおり、オリジナルにはそれがない。下の画像で中央上部は前者、その左が後者】。

この遺跡最大の太陽のピラミッド【高さ65m・底辺の一辺225m。エジプトはクフ王・カフラー王のに次ぎ、世界で3番目に高いピラミッド。1万人が10年間労働して建設した規模という。夏至に太陽が正面に沈むように設計されている】。頂上に立っている人間がまさに豆粒のよう。

表面は石でゴツゴツしている。

いつもの自分なら迷うことなく登頂するが、高地トレーニング状態にやや不安があったため、のぼらず先へ進む【体力に自信がある方にはぜひ登ることをオススメする。ここから眺める月のピラミッドは絶景らしい】。
死者の道沿いで見かけた壁画。ジャガーは最強の動物として恐れられたという。

月のピラミッドの近くに位置するケツァルパパロトルの宮殿は、この遺跡内で最も修復が進んでいるという【ケツァルパパロトル=羽を広げた様子が蝶のように見える鳥で、雨をもたらすと信仰された。この宮殿は神官の住居だったらしい】。

中庭を取り囲む建物。薄赤い部分には幾何学的な模様も。

色石を組み合わせた石柱には、ケツァルパパロトルの精緻なレリーフ。

鮮やかに彩色が残る壁画。黄色いくちばしを持つ緑の鳥のような頭が見える【絵も壁もオリジナルで、3~4世紀半ばのものとされる】。

南西に隣接するジャガー宮殿の壁画。頭に羽飾りをつけて法螺貝を吹くジャガー【ずいぶん退色しているが かつては真っ赤だったとされ、テオティワカンはこのような赤で覆われた都市だったという】。

150m先に垣間見える月のピラミッド。高さ42m・底辺150m×130m。アングルが悪く下半分が遮られて迫力不足なのだが、なんとこれ1枚しか全景を撮っていない

最後、月のピラミッドにのぼり南南西の方角を望む。メインストリートの右奥から遺跡をぐるりとまわってきた。
【ご覧のとおりテオティワカン遺跡の中心はこのピラミッドであり、儀礼がおこなわれる最も重要な場所だったという。土地が傾斜しているため、太陽と月 両ピラミッドの高さはほぼ同じになる】

南に目を転じると、遺跡の周囲にはのどかな風景が広がっている。
歩きまわった疲れを癒すべく、しばし呆然。あまりに長く居て、吹く風に寒さを感じるほどに

メキシコシティへ戻るバスの停留標識はない。ガイドξさんに教えてもらった場所で外国人数人と待っていたら、数分でバスが来た 
ところが乗って安泰とはいかず、途中でどんどん乗客が降りていき、自分を含めて4人になってしまう。しかもドライバーは交通違反をとられて警察官と10分くらいモメる始末 不安になったので、朝書いたメモを差し出して地元人っぽいオジサマの乗客に「北方面バスターミナルへ行く?」とジェスチャーでたずねると、大丈夫と言われ・・・ターミナルに着いたら目配せしてくれた。ありがとう

このあとメキシコシティの中心街をブラブラするつもりだった。ターミナル構内でタクシーチケット売り場を見つけて購入。ブースが10もあってよく分からなかったので、係員らしきオバサマにチケットを見せたらブース7に連れて行ってくれた。ありがとう ホテル→ターミナルよりやや近いとはいえ半額近い85ペソだったということは、Sitioに乗ったのだろう。ともかく、タクシーで中心街Zocaloへ行くことに成功
メトロポリタン・カテドラル付近で降りると、なるほど うっかりしてると危ないわ。とにかく人が多くて、中には怪しい人も混じっていそう
お腹が空いていたので、ガイドブックで目星をつけていたレストランを目指す。が、探しているうちに自分が進む方向に疑念が生じ、来た道を戻ってカテドラルに入った。治安が気がかりな国では道端でガイドブックを広げるのはアウト、不案内がもろバレし種々のリスクが高まる。そーいう時は聖なる場所に逃げ込んで確認するべし。メキシコに限ったことではないが、経験から編み出した自分なりの治安対策 こちらがカテドラルの外観(撮影は翌日)。
【アステカ帝国を滅ぼしたスペイン人コルテスの命令により、帝国の都テノチティトランを破壊して跡地に建設。250年がかりで1818年に完成、ルネサンス・バロック・ネオクラシックなどの様式が混在。幅59m・長さ110m・高さ65mで、アメリカ大陸最大規模の教会】

所どころレンガが使用されている。


中に入ると、沈痛なイエスの像にビビる てか、足元のゴミ箱・・・移動してあげられないのかな~


ベースは石造りだが、祭壇は金ピカ【手前の磔刑イエス像は「毒薬のキリスト」と呼ばれる。毒に侵された信者からそれを吸い取って治し、肌が黒くなったという言い伝えがある】。

重厚なパイプオルガン。

しっかり着席し本を広げて地図を確認したところ、先ほどの道で間違っていなかった
カテドラルを出て、やおらお目当てのレストランを発見
あっさり通されたはいいけど思いっきりカジュアルなお店で、オンブル?と聞かれた。何だか分からずまごついていると案内係の店員さんは明らかに当惑していたが、ひとまず席に案内してもらった。注文を取りに来たのは英語を話せる若いお兄ちゃん店員だったのでスムーズに頼めた、ホッ【今になって思えば、Hombre=男・人を意味するので、「お一人様ですか?」だったと思われる】
レモネードとトルティージャ料理、ポソレ【豚骨(しかも頭)でとった出汁に唐辛子やスパイスで味を付け、肉やトウモロコシを煮込んだスープ。cacahuacinteという白くて大粒のトウモロコシを使用するのが特徴。刻み玉ねぎ、スライスしたラディッシュなどをトッピングして食す】を注文して96ペソ(≒1,152円)。画像がなくて、ごめんなさい
高地で胃が縮んでいるのか、大した量でもないわりにけっこう満腹と感じる。

レストランを出て、街を歩く。ポルトガルと見紛うような青いタイルの建物に目を惹かれた。

新旧の建物が入り乱れる市街。

そして、マックもケン〇ッキーも定番カラーを捨てて市街に溶け込んでいたのが面白かった。


そして、ガイドのξさんに薦められたショップを探し当て、お買い物 博物館に所蔵されているような壺を再現した焼き物など、artisticで上質なものが置いてあった。店内空間もハイセンスだし、純粋なお土産物屋というより メキシコのエッセンスを取り入れたインテリア好きのnativeが足を運ぶようなお店だった。

さて、いよいよ地下鉄でホテルへ戻るのだが・・・
ソカロ駅の入口はあっけなく見つかり切符も買えた。が、ホームの表示は「~方面」 そりゃそうよね、日本でもそうだったわ。乗り換える駅はあらかじめ頭に入れていたが、方面は盲点だった・・・仕方なくガイドブックを開く。ま、ホームや乗り換え通路に警察官がたくさん立ってたから、少なくとも16時過ぎの地下鉄駅構内は大丈夫だった。
車両はオレンジ色の外観に、中は大江戸線を思わせる幅の狭さ、椅子は日本のホームにあるような硬いタイプで色はグリーン。
1駅で2号線を降り、1号線に乗り換えて5つめのInsurgentes駅まで。車内では終始アラートをフル稼働していた自分、とりあえず“押さえつけスリ”には遭わずにすんだ、ホッ 
問題は降りてから。7つの道路が伸びるロータリーなので元々怪しんではいたんだけど、地上に出てからが方向分からなくなって かなりグルグル歩いてしまった ソナ・ロッサ自体は危なくない地域とはいえ、夜だとマズかっただろうな・・・
ホテルへ戻る前に、郵便局へ向かう。駅から西へ500mたらずなのだが、フローレンシア通りを越えると少し寂しくなるから気を付けて、とガイドξさんから言われたとおりのさびれ具合だった。ともあれ、無事に切手を10枚ゲット ホテルへ戻りながら、セブン〇レブンで水やビールを買い込んだ(この国にセブンはかなり進出している模様で、各地で見かけた)。

風呂あがりにビール(5ペソ≒60円)を飲みつつ、トマト&チリペッパー味のポテトチップス(6.5ペソ≒78円)をつまむ。Coronaじゃなくて、なぜCoronita 日記にそう記しながら放置していて、この記事を書くにあたり調べてみた。通常サイズは355㎖のところ、小容量207㎖のを指すんだそうだ。そっか・・・セブンにはこれしか置いてなかったんだけど、もし両方あったら迷わず大きいのを買うだろうから、この謎に気づかなかったかもなぁ
本日の食事はこれにて終了。遅めのランチをしっかり食べて夜は軽めに、というガイドξさんのアドバイスを参考に。TECATEという缶ビールも飲んだのだが、画像はこれだけ【TECATE; バハカリフォルニアのテカテ市発祥、なんとアメリカとの国境地帯。羽を広げた黒いワシの胸に白いTのロゴマーク】

今回の旅は中南米に強い旅行社に日程と希望訪問地を伝えてアレンジしてもらったのだが、スケジュール表を見た時にこの日が最大の難関だと思った。国情を十分に吞み込めていない到着早々のフリータイム が、思い描いていた場所を巡ることができたし、危ない目にも遭遇せず1日を終えることができた。やったね
てか、この日の成功はガイドξさんの助言があってこそ 迷わないようにと地図に書き込んでくれたホテルの位置にも助けられたし、教えてもらったことが要所要所で活きた。空港からホテルまでの短い時間の付き合いだったけど、まさに一期一会・・・心から感謝している

1・2・1・3 メキシコシティ ⇔クエルナバカ ⇒サカテカス (2008年3月25日)

この日はメキシコシティとクエルナバカを観光後、500㎞北西のサカテカスへ飛ぶことになっていた。荷物を持ち歩くわけにいかないため車をチャーターしており、ドライバーとガイドさんがホテルへ迎えに来てくれた。
自己紹介が終わるなり、グアダルーペ寺院に行きたいのだが、と切り出した。しばし考えたガイドさん曰く、治安がよくない場所にあるので難しい、と。やっぱりかあぁ~ 
ダメもとで言ってみたんだけど、無理だったか。事前のガイドブック情報でもそうだったし、現地の方も言うなら諦めるほかない。かくして、黒い髪・褐色の肌を持つグアダルーペの聖母には会えずじまい

気を取り直して出発。まずはホテルのほど近く、フローレンシア通りとレフォルマ通りが交差するロータリーにある独立記念塔【メキシコ独立革命開始100周年を記念して1910年に建立。全長48m、頂上に24金で覆われたニケ(ギリシャ神話の勝利の女神)像を戴く。左手に持つちぎれた鎖は自由を象徴する。右手に掲げた桂冠を独立の英雄ミゲル・イダルゴおよびメキシコにかぶせようとしており、勝利を意味する。柱の内部には200の階段があり、ニケの足元の展望台まで登ることができる】。青天に映えるわぁ


メトロポリタン・カテドラルの目と鼻の先にある、テンプロ・マヨールへ。
【1913年に発掘された、アステカ帝国の中央神殿跡。同様の遺跡がソカロ付近のカテドラル・広場・宮殿の地下に埋まっているという】

次は国立宮殿へ行くはずだった。が、この日は入れないという。確かに、行事等が催される日は入場できないとガイドブックに書いてあったけれども
というわけで、画家ディエゴ・リベラの最高傑作を見損ねてしまった。残念【1920年代にメキシコ壁画運動を牽引した画家で、宮殿の空間を埋め尽くすかのような大規模な壁画「メキシコの歴史」には、アステカ帝国時代から現代までが描かれているという】
前日と違って、ガイドさんと一緒に歩いていると物売りが寄ってきた。が、一度断ると 粘らず去って行く。アジアのそれに比べてあっさりしすぎ・・・拍子抜け

そして、75㎞南のクエルナバカへ向かう。
目的のカテドラルで車を停める。駐車場に美しく咲く紫の花・・・何の木だろう

右前方に鐘楼がのぞいている。

外壁を越えて入場する。要塞?と思われた方、正解 この教会が建てられた16世紀前半はアステカ帝国を滅ぼした直後で、承服していない先住民の襲撃にあうこともしばしばだったといい、宣教師たちは身を守るため域内に逃げ込んだらしい。

入場口を拡大すると、こんな感じ。フランシスコ会による教会なので、ドクロが掲げられている。

入域し、カテドラルに近づいていく。


木製の重厚な扉。

これを見るためにクエルナバカへ来た。以下2枚の画像、合わせてひとつのフレスコ壁画である(広角の狭いデジカメにつき1枚に収まらず、ごめんなさい)。
上の画像の右に、下の画像が広がる。
文字にご注目あれ。EMPERADOR TAYCOSAMA MANDO MARTIRIZAR(=皇帝太閤様が殉教を命じた)とある【豊臣秀吉は1587年のバテレン追放令以降、キリスト教弾圧に転化。1596年のサン・フェリペ号事件を機に、翌年キリスト教徒・宣教師26名を長崎で処刑。日本から遥か離れたメキシコでこの出来事が伝えられているのは、メキシコ初の聖人となった宣教師フェリペ・デ・ヘススが含まれていたためらしい。彼が列聖された1629年以降にこの壁画が描かれたという。19世紀に漆喰で覆われたが、20世紀後半の改修時に発見された】。



逆サイドの壁には船と魚が描かれていた。

洗礼盤はビッグサイズ。ちなみに、写っているのはドライバーさん&ガイドさん。

このカテドラルは修道院群のひとつゆえ、敷地内に種々の建造物が存在する。こちらは聖母マリアのチャペル。

続いて、第三修道会チャペル【18世紀前半に建立。ファサードに天使や聖人が彫られているが、その一部は先住民の頭飾りを着けている。のち神学校となり、19世紀のクエルナバカで重要な教育機関として繁栄】。赤い石とのコントラストが印象的だった


再びメキシコシティに戻り、国立人類学博物館へ【国内に点在する遺跡から発掘された彫刻や壁画のうち、永久保存に値するクオリティのものを集めている。1階は考古学フロアで、12の部屋に分かれている】。
まず、1階の第7室=アステカの部屋へ連れて行かれた。この博物館最大の見どころといわれる太陽の石(アステカ・カレンダー)がある。

近づくとこんな感じ【直径3.6m・重さ24tの玄武岩の中央に太陽神トナティウが鎮座。その周囲の4つの四角形は過去に経てきた4つの時代を表し、右上=第1の時代はジャガーに喰われて、左上=第2の時代は暴風で、左下=第3の時代は火山の噴火で、右下=第4の時代は洪水で滅びたという。また、表面に刻まれた細かいモチーフの組み合わせにより、1年=365日の暦を示す。アステカ文明ではこの暦をもとに農耕を行い、節目には血のいけにえを伴う祭事を催した。かつて神殿に掲げられていたのをスペイン侵攻前にアステカ人が地中に隠したとも、アステカ帝国が滅ぼされた後 道端にうち捨てられていたこの石を先住民が拝んでいたため大司教の命令で埋められたともいい、1790年に地中から発見された】。

アステカの彫刻。左の人物が右の人物の頭を叩いているような・・・戦いの様子か?? 何かを授けているように見えなくもないが・・・

スペインに征服される前のアステカ帝国の中心部の様子【正確にはテノチティトランといい、湖上に浮かぶ都市だった。中央部の広場にはピラミッドが並んでいた。スペイン軍に随行した記録係はこの都を初めて目にした時の感想を夢幻の世界、夢を見ているのかと思った、と残したらしい。しかし征服者コルテスの命令により神殿や宮殿は破壊され、その石材でスペイン風の建築物が築かれ、湖は埋め立てられた】。いまや水辺の面影ひとつないメキシコシティがかつてこんな姿だったとは、にわかに信じられない 
知識として知ってはいたが、歴史の現実を突きつけられる。侵略とはこういうこと・・・

次に、第10室=マヤの部屋へ案内された。ここの目玉は、実物大で復元されたパレンケ遺跡の王墓。ちなみに、旅程の都合でやむなく訪問を断念した遺跡である。
以下2枚、ピンボケ画像でごめんなさい 赤いのは、生命を象徴するためという。

見事なヒスイの装身具。

他にもチャックモールや降臨する神の像を撮影したのだが、現地を訪れた続編の記事内で紹介したい。

2階の民族学フロアには立ち入ることなく博物館を後にした。このあと国内線に乗らねばならず、渋滞を心配するガイドさんに急かされたからだが、自分としては後ろ髪引かれる思いだった【メキシコシティの渋滞は世界ワースト10といわれる。人口が増えている地域への公共交通機関が十分に整備されておらず、移動手段として車を使用せざるを得ないのが原因らしい】
そして16時半、空港に到着。予想以上に道路がすいていて、3時間も時間をつぶすハメに。あ~あ 
ファストフードで夕食をとる。タコス19ペソ(≒228円)也。

Sopa de tortilla【ニンニクの効いたトマトベースのスープに、揚げたトルティージャ(トウモロコシ粉の生地を薄く焼いたもの)の細切りを浮かべた料理。具は肉やアボカドなど様々】、35ペソ(≒420円)也。

暇にまかせて空港内をブラつく。籠と、同じ素材でつくったらしき人形が展示されていた。カラフルで可愛い

花瓶というか、壺型のカゴと花たち。

民族衣装を現代風にアレンジした服装のマネキンたちがズラリ。



離陸がやや遅れた飛行機は21時15分にサカテカスへ到着。シートベルトサインが消える前に多くの人が立ち上がるが、CAはそれを注意しない。メキシコ人って短気なのかなぁ そーいえば、渋滞で2~3分車が動かないとドライバーさんはクラクション鳴らして明らかにイライラしてたな~
降機後に徒歩で建物まで行くパターンの空港だったんだけど、夜空の美しさにハッとした。東京だと見えないオリオン座の間の星々が矯正視力1.0の自分でもゴッソリ見える だもんで、上を見ながら歩いてたら動線をそれてしまったようで、そっちを歩けと注意される始末 
出迎えのドライバーさんに会ったら、スペイン語のみの方だった・・・旅行社との契約では英語話せる人のはずだったんだけどなぁ
ま、ともかく宿まで連れて行ってもらうしかない。会話が成立しないため し~んとした車内で、大変なことに気づいた私。飛行機の棚に入れた手荷物を取り出し忘れた 軽い高山病なのか 緊張からくる疲れなのか、搭乗してすぐにウトウトしてしまい、降りる時はうすら寝ぼけてたんだよなー 隣の席には誰もいなかったし、手元に置いておくべきだったか。中身は前日にartisticなお店で買ったコワレモノのお土産たち、被害額1万円強。気に入ってたのでショック大 
後悔は尽きないけど、貴重品・生活必需品がなくなったわけじゃないからと自分をなだめるしかない、もはや。
沈んだ気持ちで漆黒の車窓をしばらく眺めていると、視界に盆地の夜景が広がった。らせん状の道路をくだって底に位置する中心街へ向かう途次、家々の灯がまばゆく この地に自分を誘ったカテドラルらしき建物はライトアップされていた。こぼれる宝石のようなその美しさは何年経っても瞼に焼き付いている。一人旅では夜出歩かないので、ナイトフライトでなければ決して目にすることのなかった光景。本当にラッキー、地獄から天国へとテンションup

予約済みのホテルに無事チェックインしたところで、ドライバーさんが何がしか話しかけてきた。雰囲気からして、どうやら明後日 空港へ送ってくれるのもこの方らしい。ピックアップの時間を何度も確認し、去って行った。スペイン語の数字、なんとか理解できてセーフ
2泊するお部屋はこんな感じだった。

バスルームの装飾がきらびやか。

館内で催しているらしいディナーショーの音楽がうるさく、冷蔵庫が備え付けられてないためアルコールはおあずけ・・・心の中で舌打ち
が、0時には音も止んだし、アルコール抜くのは身体にいいし。何事も捉え方しだい

★ 中締め ★

次回はサカテカスを巡った後、ユカタン半島へ飛びます。お楽しみに




















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