poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

ウズベキスタン篇 その4

2024年04月19日 | アジア
旅の第4弾は引き続きヒヴァ(下の地図の➍)からお届けします。地図中の①~③は旅の前半に訪れた場所です。
また、後の下線部の数字にも対応しています。


4 ヒヴァ (2023年8月26日)

うたた寝から目を覚ましたのは、部屋の電話が鳴ったから。
例によって英語の一部しか聞き取れなかったが、Wi-Fiが届いたらしい。急いでフロントへ駆けつけると、チェックイン時の人より若い男女の担当者に交代していた。
あなたが頼んだのかと尋ねられたので首肯すると、男性のフロントマンに連れられてホテルの外はおろか西門の外まで出た。それほど距離はないのだが、まだ雨は降り続いていたため びしょ濡れでWi-Fiを受け取った私。何はともあれ、ホッ

正午、観光に出かける。まず西門で共通入場券を購入。15万スム(≒1,800円)也。
西門から東を望む。中央にそびえるは、記事その3で紹介したカルタミノル。

手描き風の城壁内地図【上下(東西)が約500m、左右(南北)が約800m】。ちなみに、中央下部の黒い印が西門(現在地)。


カルタミノルを右目に左折し、クフナアルクへ向かう。下の画像、右の壁はクフナアルクの。

ヒヴァの街のそこかしこにお茶目なブロンズ像があった。見た感じ近年整備されたものなんだろうけど、観光の合間に目を楽しませてくれた。
ここのは、メロンを手に少年が談笑している。

クフナアルクに入場【ヒヴァ・ハン国の歴代ハン(王)の居城として17世紀後半に建立。執務室・謁見室・モスク・最高裁判所・造幣局など種々の施設が建ち並ぶエリアだった。この記事の後半で訪れるタシュハウリ宮殿と対比し、「古い宮殿」と呼ばれる】。
考古学発掘現場さながらの宮殿遺構。

建物の中は博物館になっていて、ここヒヴァを含むホレズムの歴史を学べるようになっていた。
下の地図の中央上部にカスピ海があり、その右のアラル海の下にXORAZM(ホレズム)と書かれている。

復元されたホレズムの人々の風貌【科学者・人類学者の研究によると、ホレズムの人々は広い肩幅を持ち背が高く、青い瞳・黄色い髪・広い額・鷲鼻で、肌の色はヨーロッパの人種と同様だったという】。

B.C.5世紀~B.C.3世紀頃の住居(復元)。

復元された神殿。

1~2世紀には城壁を築いて生活している。

座る人をモチーフにした骨壺(B.C.1世紀~A.D.1世紀制作)。こちらの方が早いんだけど、日本の埴輪に雰囲気が似てるなぁ・・・

7~8世紀に制作された骨壺の一部。死を悼む人々が描かれている。

13世紀、モンゴル軍による侵攻を受けた際の武具。


謁見室のアイヴァン(イスラーム建築のテラス)【オリジナルは18世紀のイラン軍侵入時に破壊され、19世紀初めに再建された】。
青系タイルの壁面は言わずもがな、木柱とその土台石の彫刻、赤が印象的な天井の木彫、全てが麗しい。

構内の建造物の隙間を縫うように歩く。

藁を固めた壁も。

モスクのアイヴァン【19世紀前半築】。

美しき階段。

壁面と天井の接合部。

モスクに隣接する旧造幣局の中は、貨幣博物館になっていた。
ウズベキスタンで現在使用されている紙幣&硬貨。画像中央手前の10万スム札には、このヒヴァの街が描かれている。

画像手前、200スム札の意匠は我が愛しの人面太陽&獅子(記事その1で紹介した、サマルカンドはシェルドル・メドレセの)。

かつて使用されていた紙幣。

短命だったホレズム共和国(1920~1923年)の紙幣。縦10cmはあろうかという大きめサイズ。


他の建物に移ると、かつて最高裁判所があった縁で いにしえの刑罰を描いた絵もあった。
塔の上から突き落とされる刑。

生き埋めにされる刑。

裁判の様子を再現した蝋人形まで・・・


クフナアルクを出ると、広場をはさんで向かい側の大きな建造物が目に入った。

ムハンマド・ラヒム・ハン・メドレセのファサード。

門前に並ぶ土産物の中で、圧倒的な存在感を示す書見台。

ジュマ・モスクをめざして東南東へ進むと、西門と東門を結ぶメインストリートに出た。
毛の帽子を売るお店。さっきの蝋人形たちがかぶってたヤツだ。にしても、まだ夏なんだけどな。たしかにこの日は半袖だとうすら寒い気温だったが、違和感が若干・・・

ブハラにひき続き、この中央大路でも結婚式の人々に遭遇した。参列者が多くて、画像中央に新郎新婦が埋もれてしまっている
酔っ払っているのだろう、踊りまくる新郎友人と思われる人々を横目に通り抜ける。新婦がメッチャ美しいよなぁ ブラウンの髪と瞳・・・ペネロペ・ク〇スだっけ、あんな感じの美人さん(彼女はスペイン人だけども、今回あらためて画像を確認してみてもやっぱり あんなイメージなんだってばぁ)。

メインストリート沿いの建物。チラ見でも絵になるぅ

カフェの店先の木に瓢箪が吊るされていた。ザクロが描かれていて、可愛すぎる

例の帽子をかぶり、皇帝とその家来(?)に仮装して撮影する人々。


ジュマ・モスクの扉を振り返る。
【ジュマ・モスク; ジュマ=金曜、イスラム教では金曜の礼拝が最も重要とされる。10世紀に最初のモスクが建てられた後、現在の形に整ったのは18世紀。約3m間隔で立つ212本の木柱の多くは18世紀のものだが、うち21本は10~12世紀の古いものという】

時間帯をやや外して訪れた甲斐あって、人影はまばらだった。
列柱の奥、光射し込む場所がある。明るい所に集まる虫の如く、吸い寄せられる私。

周囲にロープスタンドを巡らせてある柱が古いものなのだろう(←ガイドなし観光の習性から推測)。


柱の上部にズームアップ。

柱の下部。画像上部にご注目あれ。文字が刻まれているようだ。

絨毯が敷かれ、祈りを捧げる空間がつくられていた。

数百年の間に何度も手が加えられただけあって、柱の様式はまちまちである。大きな礎石を持つもの(画像右端・画像右奥)、礎石がないタイプ(画像中央手前)、かそけき礎石を持つもの(画像左端・画像左奥)などなど。それにしても、仏教寺院の回廊みたいな印象だなぁ・・・

そう思っていたら、奥にミフラーブが登場。俄然モスク感が高まった。

この記事を書くにあたり調べたところ、ここは天井が平坦でドームを持たず、古代のアラビアに作例がある古式のモスクと判明。自分が抱くモスクのイメージと異なっているのが何となくの違和感の正体だったのか、なるほど・・・

バシャバシャ撮影していたら、デジカメの充電切れが迫っていた。あぁ~失敗 前夜は車中だからどうしようもないとして、午前中に充電しておくべきだった・・・
ともあれ、宿へ戻ることにする。ときに13時50分。2時間足らずで引き揚げねばならぬとは・・・トホホ
いつのまにやら雨は上がっていて、青空がのぞきはじめていた。

朝干したのがほぼ乾いていたのに味をしめ、2回目の洗濯 ベッドに横たわったら、いつのまにやら眠りに落ちていて・・・16時過ぎ、充電の状況を確認して再び外出。
カルタミノルの横にもブロンズ像があり、老人がお茶を飲みつつ爆笑中(記念撮影中の小さな旅人にモザイクをかけた)。


壁に囲まれたこの都市を上から眺めたい というわけで、イスラーム・ホジャ・ミナレットへ向かう。300m歩けば到着。
自らの不注意で無駄にホテルへ出入りする羽目になったが、内城の宿にしていたのがもっけの幸い
てか、手前の建設現場・・・木の幹で鉄骨を押さえている。場合によっては、はしごの代わりかも。面白いなぁ

ミナレットの左手にはメドレセ【20世紀初め、ヒヴァ・ハン国最後の王の時に大臣だったイスラーム・ホジャが建設。メドレセのフジュラは42でヒヴァ最小だが、ミナレットはヒヴァで最も高い45m】。
その前の広場には、例によって皇帝気分になれる撮影スポットや、笛吹きのブロンズ像が(画像右手前)。

マーケットも開かれていて、ちょっぴり賑わっているのだった(イスラーム・ホジャ・ミナレットの側から撮影。右奥のはジュマ・モスクのミナレット、ややこしい)。

メドレセの中庭はひっそりとしている。

花壇のお花たち。

メドレセの中は博物館になっていた。
寒色の植物文が美しい。椅子なのか小さいテーブルなのか分からなかったが、後に訪れたタシュハウリ宮殿で同種のものを見かけ、椅子と判明。

19世紀の女性の衣装、絹製。


柱の礎石(20世紀制作)。

排水溝の蓋(20世紀制作)。

ここのミナレットを織り込んだ絨緞(20世紀制作)。

古そうなタイル。手描きが温かい

風車みたいな形のタイル。


馬などに使用する鞭。

手前は女性の長靴、奥右は油用の壷。奥左は紅茶を煮出す袋。手袋のように見えたが、sack for teaと表記されていた。大量の茶葉を用いて大人数分の紅茶を淹れたのだろうか。

鞘だけでなく、刀身にも線刻をほどこした包丁。


いざ塔へ。見上げると、かなり高い。

頂上へ導くらせん階段は急峻かつ、すれ違うのがやっとなほどの狭さ。


ツアー客が行き交う混雑時にはここで待たされるのだろう。暇つぶしに書かれたと思われる落書きが散見された。

途中、小窓で切り取られた景色に てっぺんへの期待がふくらむ

息を切らして118段をのぼりきると、先客のウズベク人のおばさまたちがいた。日本人かと聞かれてうなずくと、例によって満面の笑みで歓迎してくれたのだった【ウズベキスタン人が親日的な理由については、記事その2をご参照ください】。
ウズベク語で怒涛のように話しかけられたが、チンプンカンプン 会話は成立しなかったが、おばさまの1人がカメラマンとなり、取り囲まれて記念撮影 いっぽう私は自分を入れず、おばさまたちをパシャリ。相当ハイテンションな彼女たちと ささやかな国際交流と相成った。お互いに友好的な気持ちがあれば、言葉がなくても心は通う。
語学が不得手な人間の言い訳っぽいけど

おばさまたちを笑顔で見送り、静寂の中ひとり 塔の上から都市を見下ろす。360度ぐるりと視界が開けていた。
西北西の眺め。大きな緑のドームはパフラヴァン・マフムド廟【13世紀後半~14世紀前半、詩人・哲学者・格闘家(後述するクラッシュ)・実業家として活躍したパフラヴァン・マフムドが葬られている。聖者のそばで永眠すると来世は幸福になれるとの言い伝えから、その墓の周囲が後世に共同墓地として発展。現存する廟は19世紀初頭の再建】。

わが宿にズームアップ【旧ムハンマド・アミン・ハン・メドレセ; 19世紀半ば築。125のフジュラを有し、260名の生徒を受容したかつての神学校】。ホテルへの改装にあたって塗り直したのであろう白壁が目立つ。その規模ゆえ中にいると実感しにくいが、ここからは全貌がはっきり見てとれる。

西の内壁にラインを引いてみた【8世紀には街が存在したというここヒヴァは、1592年からヒヴァ・ハン国の首都として繁栄。19世紀、外敵から守るために全長6㎞の外壁と、さらにその中に内壁を築く。かつて内壁の内側(=イチャンカラ。内城とも)には王族の他に高級官僚・聖職者・裕福な商人が、内壁と外壁の間(=ディシャンカラ)にはその他の人々が暮らした。1990年、内城が保存されている稀有な例としてイチャンカラはこの国初の世界遺産に登録され、今なお賑わう】。

北の方角。中央の長方形の建物がジュマ・モスク。


ミナレットを下り、パフラヴァン・マフムド廟へ向かう。

狭い道の両側に建物が並ぶ。ふと右に目をやると、その奥行きにビックリ

伝統衣装に身を包み、そぞろ歩く人々も。京都みたいに貸し出しサービスやってるのかな

廟の門前では土産物屋が商品を広げていた。
ウズベク人の子ども向けかな・・・おもちゃ主体、お祭り屋台のような品ぞろえ。

こちらはティケッチ(ナンに型押しするスタンプ)。

廟に入ろうとしたが、共通入場券では入れず別料金といわれたので あっさりあきらめ、無料で立ち入れる共同墓地をフラついた。

思うに、イスラーム・ホジャ・ミナレットから西へのびるこの通りが一番雰囲気あったと思う。道幅が広くなくて起伏もあって、ひと昔前の名残をとどめているような気がした。もちろん修復の手は入っているのだろうけど。

古めかしい建物はそのままに、土産物屋も軒を連ねる。

キャメルウールの室内履き。ガイドブック情報でヒヴァの名産と心得ていたが、他に目当てのお店があったのでここはスルー(後で悔やむことになるのだが)。

民族衣装をまとった人形たち。


この日の朝、駅から宿へ向かう途中に目にした城壁が印象的だったので、西門の外へ出てみようと思いたつ。その道中、またもブロンズ像に遭遇。
音楽を奏でる3人。

この国に相撲を伝えたのはモンゴルかなぁ
【この記事を書くにあたり調べてみると、この国にはクラッシュという格闘技があるらしい。一説によると、その源流は紀元前にさかのぼるという。う~ん、知らないことがいっぱいあるなぁ

折りしも西門の外ではイベントが行われる模様で、警備員と思われる人々がうろついていて、写真を撮りにくい雰囲気だったのは不運だった
下の画像、左に見切れているのが西門【オリジナルは1920年に破壊され、1970年代に再建】。中央に写るカルタミノルの右はわが宿。

上の画像で右に見切れている隊商のブロンズ像をズームアップ。なお、この画像右端に城壁が写っている。

西門の北にのびる内壁【高さ7~8m、全長は2,200mにも及ぶという】。
こうして、ヒヴァ特有の青というより緑の色調が強いタイルが隠れるアングルで城壁を見上げていると、ここはどこの国だろうと思ってしまう。中央アジアだと言われてみればそうだなと思うけど、アフリカと言われたとしてもさほど疑問を持たないような・・・無国籍な感じの内陸の風景なのだった。


タシュハウリ宮殿めざして、再び西門から入場。カルタミノルまでの右手に並ぶお店でハガキを買う。2軒ならんでハガキを売っていたので何となくお店を選び、奥にいたおっちゃんに声をかけたら日本語が返ってきた。ややっ これまでまわってきた都市のように商品売るために日本語で話しかけてくるんじゃなくて、なんというか、商売っ気なくてのんびりしてるんだよなぁ・・・この感じ好きだわ そしてハガキ1枚5,000スム(≒60円)、サマルカンドやブハラの半額だった(ちなみに、この町の他所ではハガキを見かけなかった。ジュマ・モスクと東門の間で発見したスケルトン構造の郵便ブースは閉まっていた)。

ジュマ・モスクの北の小路に入った。壁の上部がとりどりのタイルで装飾されているのを発見し、手の込み具合に感心していたら、それがタシュハウリ宮殿だった。
下の画像、右上部をご覧あれ。

さらにズームアップ。

共通入場券で入り、係員に英語は分かるかと聞かれたのでうなずく。“ここはハレムよ”と告げられた。
【タシュハウリ宮殿; 19世紀前半、クフナアルクに取って代わるヒヴァの政治的中心として建設され、「新しい宮殿」と呼ばれる。北部にハン(王)の執務室とハレム(婦人部屋/後宮とも)、東南部に応接室、西南部に法廷を持つ】
なお 説明の都合上、実際の撮影順序と違えて以下に画像を掲載する。
ハレムの南東方向を望む【画像右側がハンと正妻(4人)の部屋、左側がその他の夫人や使用人たちの部屋】。

上の画像右側には、1本柱のアイヴァンが並ぶ【それぞれが正妻の部屋で、ヒヴァの建築技術・芸術の粋を集めたという】。

上の画像のとは別のアイヴァン。柱・礎石・タイルはもちろんのこと、天井の装飾も全て異なっている。1枚上の赤系に対し、こちらは寒色系。

更に他のアイヴァン。

天井と柱頭にズームアップ。

土産物が広がっているアイヴァンもあった。

所狭しと並ぶ陶器。

背後の壁の本物のタイルが紛れてしまいそう

 ていうか、よ~く見ると縦リボン型のタイルにもバリエーションがある・・・

アイヴァンから内部に入ると、これまた別世界。


さて、10枚上の画像左側、2階の天井を下から仰ぎ見る。

これもまた ひとつひとつ模様が異なっている。

1階部分は博物館になっていた(念のため、中央奥の3体は蝋人形)。

色鮮やかな衣装。男性用もあったのだが、なんだか女性のばかり撮ってしまった


木製の糸紡ぎ器。

もっこもこの靴。

ブーツ。てか、この地方の冬は厳寒なんだろうなぁ・・・

当時の人々の写真も飾ってあった。男女のペア。

こちらは女性群。

壁画が鮮やかな小部屋も保存されていた。

唐辛子のような植物も・・・

こちらの部屋はライトアップされていて明るい。


クフナアルクよりもこちらが精緻だなぁ・・・大満足して退出(記事を書くに先立ち調べたところ、クフナアルクが古いといっても アイヴァンに関しては19世紀前半築でほぼ同時代と判明。あとは好みの問題だろう)。
こちらは宮殿の東壁。

あっ、アースカラーの縦リボン型タイルを発見 珍しいんじゃあないだろうか・・・少なくとも、自分がまわったこの国の他の場所では見かけなかった。

斜向かい(東)はアラクリ・ハン・メドレセ(19世紀前半築)。その隣が当てにしていた土産物屋だったのだが、どうやらつぶれたようで、ショック大 
時間も遅いし、タシケントでお土産購入に方針変更を余儀なくされる。

実は、タシュハウリ宮殿は2つのゾーンに分かれていて、それぞれの入口から入場する必要があった。ガイドブック斜め読みの横着がたたり、そうとは知らず1ゾーンだけ見て通過したことに後々気づく。今思えば、先ほどの係員は隣接する別棟としてハレムと紹介してくれたんだろうなぁ・・・覆水盆に返らず、やむなし

東門近くで見かけた床屋さん(電話番号と思われる部分にモザイクをかけた)。

奥にズームイン。

再び、お気に入りの壁へ向かう。しつこくてスミマセン

やっぱ、いいわぁ~

さらに北の小路をブラつく。工房のようで、一所懸命作業していた。遠すぎて何をつくっているかは分からずじまい。
なお、撮った直後のタイミングで青年たちに気づかれ、照れ笑いで見送られることに

テキトーな所で左折し、西を目指す。メインストリートからほんの少し脇に逸れただけで、地元民の生活圏なかんじ。

クフナアルクに突き当たった。ひときわ高い所は見張り台。ここからの夕景も良いらしく、観光客が詰めかけている。

ブロンズ像シリーズは、伴奏に合わせて踊る女性。


夕食はホレズム地方の郷土料理、シュヴィト・オシュと決めていた。第1候補にしていたイスラーム・ホジャ・メドレセ脇のレストランへ行ってみると、テラス席の卓上セッティングに忙しそうだった。ダメそうな雰囲気ありありだけど、尋ねないでは引き下がれない。中でも上役っぽい人をつかまえて話しかけると、にべもなく"No!”と。ツアー客でも入るのかな、あきらめるしかない。
お店の外に出した焼き網で、まだ小学生と思しき男児が串刺し肉をひっくり返していた。準備している席数からして30人くらい来るのだろう。大忙しだわね。サマルカンドでも感じたが、この国では子どもが本当によく働いている。

第2候補のお店は外から見た感じ薄暗く、一抹の不安はあったが勇気を出して扉を開くと、案内してもらえた。一番乗りだったが、自分が退出する頃には6組くらい入っていた。
何種類ものサラダのメニューからキャベツのをチョイス。お供のビールはバルティカ【ロシアが本社だが、この国でもポピュラー】。

シュヴィト・オシュ、画像で知っていたとはいえやはり色鮮やかな麵がインパクト大 
ディルとコリアンダー、そう知って口にすると確かにそうなのだが、知らずに食したら「何かハーブ」どまりの自信(?)はある。香草の清涼感と煮込み肉の脂がコントラストをなす味わいだった。画像右のヨーグルトソースを混ぜてみたりもした。
なお、本来は夏季限定の料理だが、年中サーブするお店も増えているらしい。季節外れに訪れても、ぜひ試してみてほしい。

今夜の部屋にはポットがないので、最後にgreen teaを注文。入国して6日、幸いまだお腹は正常だったが、気を抜いてはいかん
列車などの手配を依頼したエージェントの方曰く、日本人にはなじみのない油で胃腸に不調をきたすことがあるので、食後は熱いお茶で油を流すべしと。素直に実践するのみ。
【お茶は19世紀に中国から伝わった。喉の渇きをおさえる効用があるといい、冬に限らず年中熱いのを飲むという。緑茶が一番人気だが、タシケント周辺では紅茶が好まれる】


20時前にレストランを出ると まだほの明るかったので、街をブラついてみた。
遠くにのぞくミナレットのすぐ左には月(下の画像中央)。

中央がジュマ・モスクのミナレット、左奥がイスラーム・ホジャ・ミナレット【前者は後者より低いのだが、遠近法の不思議】。

三たび、お気に入りの壁へ足を運ぶ(画像右)。

その左手(西)の建物はライトアップされ、素敵なかんじ

宿へ戻るべく、メインストリートに出る。

カルタミノルの奥は西の方角ゆえ、まだ空が明るい。

逆にカルタミノルから東を振り返ると、とっぷり暮れていた。

たどり着きし我が宿。

そのファサード。

フロントはチェックイン時の男性にまた交代していて、私の顔を見るなりパスポートを返してくれた。
実はこの日の朝、一旦部屋に入った後すぐに引き返してパスポートを請求したのだった。すると、"心配しなくても後で返すから。こうやって、宿泊者の分を集めて登録しているのさ。作業に時間かかるんだよ” とパスポートの束を見せながら釈明された。こちとら翌早朝出発なので、寝ぼけ頭で忘れては一大事と警戒アラームをmaxにしていたので、戻りしなも顔に出ていたのだろう。ともかく、無事手元に戻ってきてよかった 海外では、これなくしては裸も同然なのである。

★ 中締め ★

旅の最後は、タシケントに戻って1泊の模様をお伝えします。
記事を書き始めた時は「その4」で終わると思っていたのですが、予想以上にヒヴァが気に入ってしまい画像撮りまくりでした
それでは、また

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