poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

スペイン(2)&ポルトガル篇 その2

2023年07月09日 | ヨーロッパ
ここからポルトガルに突入 リスボンを拠点に、西へ東へ北へと出かけます。
旅の中盤には、以下の地図中の➎~➐を訪れました。ただし、近いためリスボンとシントラ,ロカ岬は➎に、オビドスと(旅の終盤=その3で足を伸ばす)ナザレ,バターリャは➐に集約しています。①~④は旅の序盤に訪れた場所です。


4・5 (マドリード ⇒)リスボン ⇒シントラ ⇔ロカ岬 ⇒リスボン (2008年8月8日)

一夜明け、食堂車にて朝食をとる。いかにも眠たそうな顔をしている自分にモザイクをかけた。

前夜23時前にマドリードを出た夜行列車は、翌8時にリスボンのサンタ・アポローニア駅に到着。タクシーをつかまえて、ポンバル侯爵広場付近のホテルへ。チェックインできない時間なので、荷物だけ預けてすぐに観光へ出発。列車やホテルの手配をお願いした旅行社を通じてあらかじめホテルに話を通してあったので、実にスムーズだった 
滞在中、何度も行き来したポンバル侯爵広場(撮影は後日)。


この日の目的地ロカ岬行きのバスが出るシントラを目指す。まずは地下鉄のイエローラインに乗り4駅、降りてエントレ・カンポス駅から国鉄に乗り換える(当時、ロシオ駅は改装工事中で閉鎖されていた)。
西北西へ28㎞、40分ほどで到着。ロカ岬とシントラを結ぶバスは1時間15分に1本のため、まずはシントラを観光して向かうことにした。
大西洋を望みたい、とムーアの城跡へ【ムーア=アフリカ大陸北西部に住むイスラム教徒。スペイン語でMoros、Moorは英語読み。ムーア人は8世紀にイベリア半島に侵攻し、標高450mのこの山頂に9世紀までには砦を築いた。12世紀半ばにアフォンソ・エンリケス(のちのアフォンソ1世、初代ポルトガル王)が攻略、1755年のリスボン大地震で多くが崩壊、19世紀の補修を経た城壁のみ現存する】。

シントラの町の奥に大西洋を見晴らす。天気が良すぎて、空と海の境界が判然としないとは

Cちゃんに振り返ってとリクエスト、そしてパシャリ

ポルトガルの旗、目立つなぁ~


数百m南にぺーナ宮殿がそびえる【フェルナンド2世が16世紀の修道院を改築させて、19世紀後半に完成。標高528mの山頂にそびえ、20世紀初頭までポルトガル王家が使用】。


お次は王宮へ【ムーア人による建築物をジョアン1世が改築して礎が築かれ、15世紀から王家が夏の離宮として使用。特にマヌエル1世が16世紀に改築した箇所は、大航海時代に繁栄したポルトガルの国勢を反映している】。Cちゃんはあまり乗り気ではなかったが、せっかく来たんだからと押し切った。我ながら、世界遺産に貪欲だなぁ
しかし、ここら辺りからデジカメのバッテリーが怪しくなり・・・撮影をケチったため画像が少ない この記事を書くにあたりCちゃんに相談したら、好きな画像を使っていいよと言ってくれたので、所々で掲載する。

右の壁、顔にビックリ

白鳥の間。天井に広がる白鳥は各々異なるポーズをとるという手の込みよう。

動物の頭を模した調度品は何だろう (Cちゃんが撮影)

カササギの間の天井はこんな感じ。

壁面はアラブっぽいタイルで装飾されている(Cちゃんが撮影)。

右の入口の奥には・・・

葡萄の葉のタイル。

人魚が登場する部屋もあり。

半円状の天井には帆船が描かれている。このあたり、大航海時代を牽引したポルトガルっぽい雰囲気だな~

ふと窓の外を見ると、先ほどまでいたムーアの城跡がかすかに見える(Cちゃんが撮影)。

紋章の間の天井。

壁はアズレージョ(青が印象的なポルトガルのタイル)、斬新な組み合わせ (Cちゃんが撮影)

小さな礼拝堂(Cちゃんが撮影)。

キッチン。


数百m東のシントラ駅に戻ってバスに乗り、30分余りでロカ岬に到着。
ポルトガルに来たなら絶対に訪れようと決めていた場所。北緯38度47分・西経9度30分、まぎれもなくユーラシア大陸の最西端。


詩人ルイス・デ・カモンエスの石碑(Cちゃんが撮影)。「ここに地果て、海始まる」の一節に、否が応でも郷愁がそそられる・・・
【カモンエス; 叙事詩『ウズ・ルジアダス』(1571年)で歴代の航海者を賛美し、ポルトガル最大の詩人と謳われる。従軍中に片目を失明、投獄やインド,マカオでの軍務など、その生涯は波乱に満ちていたという】

岬の観光情報所(Cちゃんが撮影)。壁の赤いのはポストだが、切手は売ってない・・・。この国に到着したばかり、さすがに備えがなく諦める。

予定通り、最西端到達証明書はゲット(€5也。€10のもある)。蝋印(中央右の赤いヤツ)が押されていて、本格的(この記事を書くにあたり撮影。右下の日付と同様の独特の字体で書き込まれた自分の氏名にモザイクをかけた)

他にも観光客がいなくもなかったが、全体的にのんびりとした時間が流れていた。犬もまったり・・・(Cちゃんが撮影)


来た道を再びバスと国鉄でたどりリスボンに戻った私たちだが、この日の夕食はレストランではなく部屋食となった。残りの滞在日数と手持ちの現金を計算すると心もとなく、外食をセーブしてお金を極力温存せざるを得なかった。よって、スペインでもお世話になったエル・コルテ・イン〇レスの地下にあるスーパーへ(私たちの宿から北に1㎞、地下鉄ブルーラインで2駅のサン・セバスティアン駅直結)。黒パン・ハム・チーズとパテの缶詰を入手、2人分でしめて€10.84

5・6 リスボン ⇔エヴォラ (2008年8月9日)

この日はエヴォラへ日帰り旅。
地下鉄のブルーラインに乗り4駅、市の北西部にあるセッテ・リオス・バスターミナルへ向かう。110㎞東南東へバスはひた走り、2時間ほどで到着。

エヴォラのバスターミナルは町はずれにあるため、1㎞ほど東へてくてく歩いて行く。
【エヴォラ; 旧石器時代前期には人が暮らしていた痕跡があるという。B.C.10世紀以降、移住してきたケルト人と先住民ルシタニア人の混血が進む。B.C.57年にはローマ帝国の軍門に降り、交易路の中継地として繁栄。8世紀以降はムーア人に支配されるが、レコンキスタの中で1166年に解放される。大学も開設され、15世紀後半からはポルトガル・ルネサンスの中心地として、芸術・学問・宗教が隆盛】
表札がいいなぁ

教会


Cちゃんが撮ってくれた自分にモザイクをかけた。南欧の多くの街がそうなのかもしれないが、強い日射しのもとでは白い建物が目に涼やか


お目当てのカテドラルに到着【12世紀後半~13世紀、ロマネスクからゴシックへの移行期に建設された。その後も14世紀・16世紀・18世紀と断続的に手が入ったため、マヌエル様式やバロックの影響も受けている】。

入口はゴシック様式で、十二使徒の彫像が並ぶ。

向かって左を拡大すると・・・

お次は右のほう。

さらに中央扉寄りの彫刻をズームアップ(退出時に撮影)。しつこくてごめんなさい・・・好きなもので


この教会の屋根の一部はテラスになっていて、のぼることができる。下の画像中央に写る円の下が階段になっている。他の観光客が記念撮影しているのを背後から撮った

中庭を囲むようにつくられているテラス屋根。

中庭を見下ろす。

カテドラルの頂上部はテラスよりはるかに高い。三角のウロコ屋根が可愛い

テラスから教会の外を眺めると、のどかな光景が広がっている。ここがアレンテージョ地方の中心都市と言われなければ、気づかないかもしれない。

中庭に下りて、回廊の柱。

シンプルだけど重厚な回廊【14世紀に完成、ゴシック】。

金属製レリーフの右端にはこの教会。てか、面白い形の木だなぁ【この記事を書くにあたり調べたところ、コルク樫と思われる。ポルトガルはコルクの生産量が世界一(31万t、シェア52%[2018年])なのだが、中でもこのアレンテージョ地方が一大産地という。なんでも、十分な雨量と湿気があり、夏は乾燥して日照時間が長い気候が適しているらしいのだ】。

回廊には棺のある空間も。

画像中央左寄りの彫刻をズームアップ。

別の角度から、他の彫刻にも寄ってみる。


いよいよカテドラルの中へ。このパイプオルガン、日本にも多少縁がある【1584年、リスボンに到着した天正の遣欧使節はエヴォラまで足を伸ばし、伊東マンショと千々石ミゲルがこのオルガンを演奏したと伝えられる】。

側廊脇を彩る聖母マリアの祭壇は金ピカ。

その向かい側には天使ガブリエル像。足元にご注目あれ、鷲が黒ウサギを抱えている。珍しい意匠ではないか

正面の祭壇。この辺りはがっつりバロック様式だなー

振り返るとこんな感じ。

下段のアズレージョは新しそうだけど、上段の絵は雰囲気あるような・・・


カテドラルを出て数十m北西へ。ローマ帝国時代に建てられたというディアナ神殿【1世紀、ローマのアウグストゥス帝を祀るため建てられたが、2世紀末~3世紀に改築され月の女神ディアナに捧げられた。コリント様式の柱14本が残る】。

別の角度から。垣間見える三角屋根が先ほどまで居たカテドラル。
左端に写る低い建物は旧ロイオス修道院、現在はポサーダとして人気がある。実は宿泊をちょっとだけ検討したのだが、旅程全体を鑑みて断念したのだった【ポサーダ; 古城・修道院・貴族の館などの歴史的建造物を改修した宿泊施設。1942年に1軒目がオープンし、いまや35軒を数える(2022年6月時点)。当初は国営だったが、現在は民営】。

神殿付近は高台に位置するため、街を見晴らすことができる。


再びバスターミナルへ戻り、リスボン行きのバスに乗った。2時間飽くことなく車窓を眺めていると、最後に予想外のサプライズが待っていた
あれ、キリストの像だよね・・・(以下2枚、車窓から撮影)

角度的に正面はムリだったが、少しだけ尊顔を仰ぐ。

存在は認識しつつも、訪れる予定のなかったクリスト・レイだよね【ブラジルはリオデジャネイロのコルコバードのキリスト像を模して、1959年に完成。台座75m・本体28m】。
と、いうことは・・・期待ふくらむ私の眼前、テージョ川を隔てた対岸にリスボンの街が飛び込んできた。
たしかに事前のガイドブック情報で、エヴォラ ー リスボン間のバスは南北2つのルートをとると書かれていた。たぶん往きは北のルートでヴァスコ・ダ・ガマ橋を経由し、復路は南のルートで4月25日橋を通ったのだろう。こんもりとした丘のようなリスボンの街を遠望してみたいと密かに思っていた、フェリーや列車に乗ればクリスト・レイまで足を伸ばすのは可能ではあったが 時間の都合で割愛するしかなかった、それをバスが実現してくれるとは 狙って南ルートのバスをつかまえたわけではなく、ただただ観光を終えて飛び乗ったのがそれだったので、本当に幸運としか言いようがない

閑話休題。
この日パンとビールを買い足して、前夜の残り物のパテで夕食を済ませた私たち。トホホ

5・7 リスボン ⇒オビドス (2008年8月10日)

オビドスへ移動する前に、リスボン中心部から6㎞西のはずれにあるベレン地区へ寄った。
地下鉄を乗り継いでカイス・ド・ソドレ駅まで行き、市電に乗り換えてベレン駅付近で下車。テージョ川を左に見ながら、数百m西へ向かう。ふと振り返ると、前日に通過した4月25日橋とクリスト・レイが目に入った。

まもなくすると、前方にお目当てのモニュメントが見えてきた。この辺りはリスボン郊外に暮らす人々の良き散歩道になっているようで、ゆっくりと時間が流れている感じだった【ガイドブック情報によると、市内を観光した人々が押し寄せる午後は激混みらしい。落ち着いた雰囲気を味わいたいなら、朝早めに訪れることをオススメしたい】。

ヨットハーバーが水辺の雰囲気を醸し出す。目指すは、帆船をかたどった発見のモニュメント【高さ52m。1960年 エンリケ航海王子の500回忌を記念して、ヴァスコ・ダ・ガマがインドへ向けて船出した地に建てられた。近代のものゆえコンクリート製で、内部にエレベーターを有する】。

先頭に立つエンリケ王子の後ろには航海士・天文学者・宣教師・地理学者など、ポルトガルを大海原へと押し出した職業の人々が続く。

わが愛しの(?)ザビエルは最後尾付近に控えている。

反対側(西)の彫刻。

東西総計32名のうち、唯一の女性はエンリケ航海王子の母ドナ(ジョアン1世の妃)。

モニュメント脇の広場、床には大理石モザイクの世界地図が広がっており、大航海時代の立役者だったポルトガルが各国を何年に「発見」したかが刻まれている。
日本の部分はこちら、1541年となっている【種子島での鉄砲伝来より遡って、豊後の神宮寺浦にポルトガル船が漂着した年。このときカンボジア原産のかぼちゃの種が持ち込まれ、領主の大友宗麟に伝えられたという】。


川沿いをさらに西へ数百m進む。先ほどのモニュメントがみるみる遠ざかっていく。

ベレンの塔に到着【高さ35m、地下・地上合わせて6層。16世紀前半、マヌエル1世の命令によりテージョ川に出入りする船を監視する目的でつくられた。1755年のリスボン大地震では被害を免れ、当初の面影を残す】。

さっそく入場。目についた大砲にぎょっとするが、河口警備の塔だもんなぁ・・・

南の方角、対岸のアルマダを眺める。

西に広がる河口までは5㎞ほど、その先は大西洋に出る。

上層から見下ろしてみる。

遠く東には件の橋とキリスト像が垣間見える。欄干の十字架がいいなぁ

下りて、塔の南面を見上げる。


再び市電に乗車し、リスボン中心部へ戻る。泊まっていたホテルに預けていた荷物を引き取り、地下鉄でセッテ・リオス・バスターミナルへ。
90㎞ほど北のカルダス・ダ・ライーニャへは1時間余りで到着、バスを乗り換えて10分ほど南下しオビドスに到着。
【オビドスはローマ帝国の時代(B.C.300年ころ)に築かれた砦に歴史がさかのぼるという。西ゴート人やムーア人による支配を経て、12世紀半ばにアフォンソ1世が奪回後、再建された。13世紀後半に王妃イザベルがこの町を気に入って以来、19世紀前半まで代々王妃の直轄領となり、中世の面影をよく残し「谷間の真珠」と称えられる。現在の人口は約800人】
門(?)をくぐって、バスは到着。(以下2枚、撮影は翌日)

バスを降りると、もう城壁が見える。

町の入口、ポルタ・ダ・ヴィラから入る。(以下2枚は一旦チェックイン後、城壁を歩いている時に撮影)

18世紀のアズレージョが美しい【この城門、14世紀後半のムーア人支配下に築かれた。中央扉の内側は、聖母マリアとオビドスの守護聖人ピエダデに捧げられた祈祷室という】。

ポルタ・ダ・ヴィラから北東へ400m、今夜の宿はこちら。そう、お城なのだった。(撮影はチェックイン後、城壁を歩いている時)
ポルトガル行きを決めた時、どこかでポサーダに泊まりたいと思った。既出のエヴォラのと迷ったが、やはりお城の魅力には勝てず・・・
だって、こんな機会でもなければ夢のまた夢だもんね

敷地に入るだけでドキドキ、否が応でもテンションが上がる

通された部屋の窓を開けると、そこは城壁。

バスルームにはアズレージョ風のタイル。

トイレの水にお花が浮かんでたのにはビックリ 色々泊まり歩いてきたけど、こんなサービスは初めて。

ウェルカムドリンクはジンジャ【ジンジーニャとも。サクランボを漬けた果実酒、アルコール20%前後。特産品というわけではないが、この地のは良質らしい】。


お城を出て、城壁の南東部分を歩く【一部途切れており1周することはできないが、5ヶ所ある階段から城壁にのぼり、1.5㎞歩くことができる】。
町の西側を見晴らす。画像左の白い三角屋根がサンタ・マリア教会。

城壁の外、南東部は緑が多い。

来た道を振り返ってみると、お城がで~んと存在する。画像左寄りの白い建物、サンティアゴ教会は終始閉まっていて見学できなかった

城壁にへばりつく自分にモザイクをかけた。

馬車が通りすがる。


城壁を下り、町の中心部サンタ・マリア教会へ向かう【8世紀にモスクとして建てられたものを12世紀にロマネスク教会へと改築、この町最古の教会。1448年、アフォンソ5世(10歳。父の急死により6歳で即位)がいとこのイザベラ(8歳)とここで結婚式を挙げたという】。

ファサードにズームアップ。

内部の壁面はビッシリとアズレージョ 他の国の教会では見られない光景だろうな・・・


板に描かれたと思われる天井の絵も独特。

教会を擁するサンタ・マリア広場の北に建つペロリーニョ【罪人のさらし柱。見せしめのため、籠に入れられてこの柱に吊るされたという。かつてこの広場に、裁判所の機能も持つ市庁舎があった名残り】。

街をぶらぶらしていると、廃教会のような空間に現代的なオブジェを発見。救いを求めている構図か?

街の建物に青と黄色が用いられているのは、町旗にちなむという。陽が翳っていて映えない画像になっているが、ブーゲンビリアが咲き誇っていた。

さっき下りたところから再び城壁にのぼり、そぞろ歩く。中央奥にわずかに見ゆるは我らが(?)お城。

城壁の外、西には水道橋が見える【全長3㎞。16世紀、カタリナ王妃(ジョアン3世の妻)がオビドスに水を供給するためにつくらせたという】。

風車も見えちゃったりして。

ついにお城へ帰還

次は城内探索 雰囲気あるダイニングルーム。

窓の外の景色も抜群

テラスに腰掛け、気取ってみる


金欠気味の私たちは、素敵なダイニングルームでディナーと洒落こむ余裕はなく・・・。居酒屋風バーにて ソーセージ、チーズ、パン、ビール(2人分で€17)が関の山だった カウンターに立つマスター(?)はなんだか元横綱(ハワイ出身。貴乃花とともに一時代を築いた)に似ていた
翌朝 出立時にお店の前を通りかかったので、外観をパシャリ 壁面、3行目に「オビドスのジンジーニャ」と書かれている。たしかに前夜、あけ〇のは何度も瓶から注いでサーブしてたな~


★ 中締め ★

旅の終盤にはさらに北へ進み バターリャ,ナザレを訪れた後、リスボンへ戻ります。
お楽しみに
コメント
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