poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

アルゼンチン・パラグアイ・ウルグアイ篇 その2

2021年01月10日 | 南米
南部パタゴニアまで飛んで氷河を見た後、ブエノス・アイレスに戻ってウロウロ・・・
旅の後半篇スタートです。
なお、下の地図中の②③は旅の前半で訪れた場所です。後半訪れる場所は黒丸数字で示しています。また、後の下線部の数字にも対応しています。



4 エル・カラファテ ⇔ぺリト・モレノ氷河 (2012年3月30日)

朝7時半にホテルでピックアップしてもらったが、何のことはない、端のホテルから拾っていくので、結局最後の客を乗せてツアーバスが目的地へ向けて走り出したのは1時間後だった。ツアー客の中に東洋人を発見。一瞬日本人かと思ったが、韓国人カップルらしいと判明。たぶん20代。
英語ツアーだと思ってたら、半分くらいはスペイン語ツアーの人々で、トイレ休憩などのアナウンスはスペイン語のみだった。数字と単語が分かったのでセーフ、いぇい

港に着いたところでスペイン語ツアーの人々とは分けられ、ツアーの行程が発表される。英語だ、ホッ まずボートで氷河に渡って氷上トレッキング(1.5時間)、その後ボートで展望台へ向かうらしい。イラストを用いながら地理的な説明もしてくれた。リコ水道とテンパノス水道がぶつかる地点にせり出したぺリト・モレノ氷河は、10~15m低いテンパノス側へ向かう水流によって水面下で圧力が加わり、崩落するという(←英語だから確信はないけど、大体こんなこと言ってたはず)。なるほどな~
下の写真は、遠望したぺリト・モレノ氷河。手前に白く浮かぶ船と比較して、そのスケールを感じてもらえるとうれしい。
ちなみに、私たちは氷河に向かって左側からトレッキングした。

船上から眺める氷河、陽光の加減で目まぐるしく色が変わる。

ボートを降りて、トレッキングに向かう。

幌小屋の中で貸し出しアイゼンをつけてもらう。一段高い椅子に座ると、手前の黄緑色のジャンパーを着ているスタッフがやってくれた。フランス人かと見まごう白人系美形ロン毛のお兄ちゃんは、私が日本人と知ると、“アシヲ ヒライテクダサイ”と言ったのだ、完璧なイントネーションで 日本の団体ツアー恐るべし。需要があるから、日本語をしゃべる人が世界各地にいてくれる。その恩恵に浴す自分はラッキー

アイゼン装着完了 足元の雪は美しい水色。

アイゼンをつけて歩くのは人生で2度目。大学時代、ちょっとだけ山に登るサークルにいて、夏前の早池峰に行った時以来。
すっかり感覚を忘れていた。けっこう重い。・・・が、下りが苦手なのは昔と変わらない
私たちは15人くらいのグループでまわった。

他にもいくつものグループが氷上を歩いていた。下の写真、豆粒のように見えるのがそれ。

目の前に広がる氷の原は別天地。あぁ・・・いい 

基本的に曇ったり照ったりの天気だったが、雲間から太陽が顔をのぞかせると氷がきらめく。
ちなみに、シルエットは私たちの先頭を歩くガイドさん(アイゼンつけてくれたのとは別人、帽子にグラサンで人相不明だけどやはり金髪白人系)。

今回見かけた中で最も青いと思ったのがこちらの雪。
淵を覗き込みながら、吸い込まれそうな深さだなーと思ってたら、例の人相不明ガイドさんが “アシヲ ヒライテクダサイ”と話しかけてきた。
いやいや、この場面でそのセリフはダメだってば


トレッキングの最後には、ガイドさんが作ってくれた氷河入りウィスキーで乾杯 (←いつもながら、写真撮ってなくて残念
ガイドさんは、私と同様1人でツアーに参加しているらしき西洋人にも何がしか話しかけていた。さっきの“アシヲ~”は連れがいない客への目配りなのね。じんわり
氷上トレッキングできて、ホントによかった これからパタゴニアを目指す人にオススメします。絶対楽しいです

ボートを降りた場所へ戻ると、晴れ間に氷の青さが際立っていた。
こうして見ている間にも、中小規模の崩落がたびたび起きる。生きてるみたいだなぁ。


展望台ではフリータイム。売店で念願の水とポストカード、さらには切手も入手
カラファテの宿には冷蔵庫がなく、水を切らしていた。冷蔵ケースから水のペットボトルを取り出した私に、店員さんが “fria?”と聞いてくれた。私が手にしたのは補充したての冷えていない物だったようだ。アルコール以外は基本的に常温好きの私、“no fria.”と返したのだが、後で “me gusta ~”と言うべきだった、と思いついた。こうやって表現を身につけていくのね・・・
さて、売店に食べ物は売っていない。周囲の人々を見まわすと、何がしか用意している。
そういえば、昨夕のコーディネーターさんがランチボックス用意しろって言ってたよーな気がする・・・うっすら思い返しつつ、カバンにしのばせてあったクッキー2枚をかじるのだった(辛党の自分だが、ケチくさく取っておいた機内食で九死に一生)。

展望台からの眺め。奥から迫ってくる感あるなぁ・・・

手前に浮かんでいるのは崩落した氷。
崩落の音を例えるなら雷のとどろく音が一番近いけど、高くなくて地を這うような重低音。もちろん、人生で初めて耳にした。
アルゼンチンを訪れるなら、ぜひ足を延ばしてほしい場所 ←しつこくてすみません・・・


帰路の車窓、黄土色と茶色を混ぜたような色の、低木しか自生しない山々がペルーを思い出させた。あれはクスコからプーノへ南下する道中だったか。
そういえば、あちらはアンデス山脈の北西部、こちらは遥か南東部。つながっているんだよな~ 氷のある無しでずいぶん雰囲気違うので、当たり前のはずのことが不思議に感じられた。

まだ明るいうちにホテルへ戻れたので、水と栓抜きを買うべくカラファテの中心街へ向かおうとしたが、途中で断念。地図によると、宿は2㎞郊外の丘の上に建っている。まだ明るいとはいえ17時過ぎ、戻るまでに陽が沈んでしまう。ホテル代をケチってエコノミークラスにしたことを、こーいう時に後悔する・・・
気を取り直し、シャワーを浴びることにする。おっ、お湯が出た 
実は前夜、かろうじてぬるいお湯しか出ず閉口していた。21時はダメで19時は大丈夫なのか・・・安宿では早めに入浴すべし、これは鉄則なんだな。
夕食はホテルのレストランで。ランチがクッキー2枚ではさすがに腹ペコ 
オープンの19時半を少しまわって行ったのだが、1時間後に席をたつまで客は終始私1人。経営的にどうなのか、他人事ながら心配になる。
20代と思しきウエイターのお兄ちゃんが超ビジネスライクで、カタコトの私に対して怒涛のようなスペイン語を浴びせる
食べ物はメニューを指さしてクリアしたが、ワインの注文に手間どって結局、ハウスワインらしき赤をグラスでもらうことにした。これがまた、1杯目は冷えたのがグラス入りで登場、2杯目は目の前で栓を開けて常温。ま、こんなこともあるさ
なお、前夜チェックインの際にフロントにいたアフロの少年が厨房にいた。料理は美味しかった
前菜はパタゴニアサーモンのブルスケッタ。

メインはパタゴニア羊肉のトマト煮込み。


4・1 エル・カラファテ ⇒ブエノス・アイレス (2012年3月31日)

この日は昼前にカラファテを発ち、ブエノス・アイレスへ戻ることになっていた。早めに空港へ送り届けられたので、日記を書きながら過ごす。
ふと目を上げれば、滑走路の向こうにアルゼンチン湖が広がっている。光によって刻々と色を変えるその姿は実に美しい。陽が翳っている時は青色にレモンイエローを混ぜた色、午前の早い時間帯には水色、正午に近づくにつれてエメラルドに白を投じた色へ・・・私見にすぎないが、今まで見てきた世界の空港の中で景色ベスト1


15時前、ブエノス・アイレスのホテルに無事到着。20時半のタンゴ・ショーまでフリーだった。
翌日はウルグアイのコロニア・デル・サクラメントへ日帰りで行くつもりだったので、まずはフェリー乗り場(ダルセナ・ノルテ港)を下見して時刻表を確認【コロニアへのフェリーは2社あり、自分は1日5便と本数の多いブケブス社を選んだ。もう一方のコロニアエクスプレス社は発着する場所も異なり、両港は2㎞程離れているので要注意】。

翌々日も半日フリーだったため十分な時間があったが、ガイドブック情報で土日しか見学できないという大統領府へ向かった。この日は土曜日。せっかくの巡り合わせ、見ないテはない
美しいピンク色が青空に映える。その外観から、カサ・ロサーダの別名を持つ【19世紀、由緒ある建物はピンク色だったという。牛の血と石灰を混ぜて塗ったのが起源】。

外観とはうって変わって、内装はクリーム色主体の落ち着いた雰囲気。


さて、ここの見学はガイドツアーに参加しなければならず、整理券を渡された。大勢の人々がエントランスにたむろして待つ中、係員が立て板に水のようなスペイン語で説明するのだが、カタコトの自分にはさっぱり分からない。英語ガイドなど無い。ただ並べばいいわけではないようだ・・・一筋縄ではいかなさそうな予感ひしめきつつ、待つこと15分。“naranja” =オレンジという単語が耳に飛び込んできた。周囲の人々の動きを見て、整理券が色分けしてあり同じ色の人々が呼び集められていることにようやく気づく。急ぎ『指さし会話帳』で黄色を調べ、後はひたすらアマリージャと聞こえるまで待った。整理券を受け取って30分、ようやく案内してもらえることになった。スペイン語の説明が分かるはずもないので難しいことは考えず、雰囲気を味わうことに徹した。
旅の前半篇で紹介したエビータ(大統領夫人エヴァ・ペロン)の肖像画。

素敵なムードの中庭。

やはり室内は絢爛豪華。パリッとした制服を身にまとう警備員が所々に配されている。

細やかな天井画からシャンデリアが下がる。

ひときわ目についたのは、握手のシンボル。月桂樹に囲まれた楕円形の中にご注目あれ。半分ほど顔を出した太陽の下、棒状のモチーフの手前では左右から伸びた手ががっちりと握手を交わしている。館内のあちこちで見かけたから重要な意味があるのだろうけど、いったい何だろう
【この記事を書くにあたり調べたら、淵源が1813年にさかのぼるアルゼンチンの国章と判明。国旗にも登場する太陽は独立の精神を、月桂樹は勝利と栄光、握手は諸州の連合を意味する。棒状のモチーフは槍(パイク)にフリギア帽。古代ローマではフリギア帽が自由を獲得した奴隷を象徴したことから、このモチーフは力を持って自由を防衛する意志を表すそうだ】


バルコニーから見下ろす5月広場【グアラニー人による襲撃の後、ブエノス・アイレス再建にあたり16世紀後半からこの広場を中心に街づくりが行われた。1810年、スペインからの独立の端緒となった5月革命が発生した場所でもあり、歴史的に重要な意味を持つ】。件のエビータが人気を誇った時期には、エビータ見たさに集まった10万人の群衆を前にこのバルコニーからペロン大統領が演説したという。そのバルコニーに立つことができる、というのも大統領府の観光ポイントらしい。ふ~む。

ちなみに、館内には有名なアルゼンチン人の写真などを展示する特集コーナーもあった。が、マラドーナしか分からなかった自分・・・勉強不足を痛感

大統領府を出て、同じく5月広場に面したカテドラルへ向かう(以下、翌々日の再訪時に撮影した画像とが混在することをご了承ください)。
パリのマドレーヌ教会のようなギリシャ風の柱を擁するモダンなファサード。12本の柱は使徒を表すという。下は遠景。


ミサの最中にもかかわらず入れてもらえたが、教会内には轟音が響いていた(セマナ・サンタ【受難週・聖週間などという。エルサレム入城から復活祭の前日までの1週間を指し、イエス・キリストがエルサレムで受けた苦難に思いを馳せる】の一環で、年に1度のカーレースが催されていたことを後で知る)。
あの騒音の中、ミサを進行する人も祈りを捧げる人もすごいよ。集中力だけじゃないよなぁ・・・信仰深さなのだろうか。
正面の祭壇はこんな感じ。

ロバにまたがり入城するイエスの人形、この時期ならではなのだろう。

側廊には紫の衣をまとうイエスの人形【ユダの裏切りによって逮捕されたイエスは、十字架にかけられる前にローマ帝国の兵士によって茨の冠をかぶせられ、紫の衣を着せられて「ユダヤ人の王」と囃したてられ鞭打たれた。福音書によっては「赤(緋色)」と記されており、兵士が着ていた外套の赤紫が正しいという説もある。いずれにせよ、処刑直前のイエスを表す】。
ここに至って、前半篇のピラール聖堂で見かけた、ひざまずく緋色の衣の人形はイエスに間違いなかったと気づく。遅っ


20時半の予約にあわせて、コーディネーターのLさんが迎えに来てくれた。アルゼンチン初日、空港ピックアップでお世話になってから4日ぶり。
タンゲリアは超人気店のLa Ventanaにあたった。夜の外出は送迎が不可欠なので事前に日本から申し込んでおいたのだが、Lさん曰くとてもラッキーなことらしい。
お店に行くと、客のうち日本人は私とLさんだけで他は欧米人が占めていたが、こーいう状況はレアだそうだ。満席はいつものことながら、真ん中の前方という席に通されたのもラッキー
ショーは22時~0時で、先に食事をするシステムだった。いくつかの選択肢から牛のアサード(炭火焼き肉)をチョイス。ガウチョの国へ来たからには、ぜひ味わいたい【ガウチョ =アルゼンチン・ウルグアイ・ブラジル南部などの草原地帯に暮らす牧童。先住民と白人入植者の混血者が多い。16世紀半ばにスペイン人が持ち込んだ牛は環境に適合し、繁殖して野生化した。それらを捕らえて革を輸出することがパンパの一大産業となった】(フラッシュ付きで撮った画像しかなくて、ごめんなさい) 
chimichurri【香草・刻み野菜入りビネガーオイル。オレガノ、玉ねぎ、ピーマン、ニンニク、パセリなどを使用】というタレが気に入って、最終日にスーパーで買ってしまった

肉にあわせてワインは赤メインで注文。飲み放題のこのワインが美味しくて このタンゲリアのハウスワインだそうだが、小瓶で求めて部屋飲みしたのも含めアルゼンチンで飲んだ中で一番だった。白も悪くなかったけど、赤に軍配 売ってくれるなら、お土産に買って帰りたかったなぁ~ 
照明が絞られて薄暗いうえに遠近感ゼロ、見づらいエチケットですが参考までに。タンゲリアらしく、色香のある女性の足の意匠

結局ツアーなどで日本人と出会えなかったので、久々に日本語で会話できることがうれしい。食事しながらたくさん話をして、コーディネーターのLさんはアルゼンチン人の夫と離婚して娘を育てているシングルマザーと知った。日本に戻るつもりはないらしい。さすがに年齢は聞けなかったけど、お子さんの年齢からして自分より年上だろうと思われた。異国で結婚・離婚して一人で子育て、何ひとつ自分はできないだろうな。肝の据わった人だわぁ・・・ワインの酔いに身を任せつつ、目の前の女性をただただ尊敬の眼差しで見つめるばかりだった。

1・5 ブエノス・アイレス ⇔コロニア・デル・サクラメント(ウルグアイ) (2012年4月1日)

前夜ホテルへ戻ったのは0時15分、にもかかわらず6時半起きで8時45分のフェリーに乗るべく支度。30分前にターミナルへ到着した時は、してやったりと思っていたが・・・国境越えをナメていた 
船であっても、そこは飛行機と同じなのだ。セマナ・サンタの休日とも重なったので、日帰り観光や里帰り客でごった返したせいもある。
結局お目当ての便は満席で、次の便(正午発)になってしまった。チェックインが1時間前とはいえ、急に2時間も空いてしまう。好天のなかターミナルで日記を書くのもさすがに芸がないと思い、周辺 =プエルト・マデーロ地区の散策に出かけた。
ウォーターフロントは美しく整備されている。どうやら高級住宅街のようで、行き交うジョギングの人や子連れの人々は裕福そう。そっか、日曜なんだな・・・みんな休日をエンジョイしてるなぁ  

係留されている船は博物館になっているもよう。

真ん中に架かる乙女の橋の奥、レンガの建物はかつての保税倉庫。再開発されて、いまやブエノス・アイレス随一のオシャレなレストラン街らしい。
アルゼンチン初日、カミニートから空港へ戻る途中に車窓から眺め、ステキだなと思っていたエリア。実際に歩くことができてよかった


出航がしっかり30分遅れてくれたので、私のウルグアイ滞在は当初予定していた半分以下の3時間となってしまった。出入国手続きを考慮すれば実質2時間かぁ
計画を大きく練り直す必要に迫られつつ、ともかく進むしかない。
高速フェリーは想像以上に大きかった。2階建てで広々としている。

船内にはduty free shopもあった。買う気はないが好奇心につられてチラ見したら、香水がほとんどを占めていた。
座席は色々なクラスがあって、遠目に見た1等席は、革張りのシートにワイン(シャンパンの可能性も?)のサービス付きのようだった。たった1時間とはいえ、そこはやっぱり国境越えなんだと実感する。しかし、お値段はいくらなんだろう ウルグアイでのランチをあきらめ、急きょ買ったサンドイッチを頬ばりつつturistクラス(片道200ペソ=約4,000円)に腰掛ける私であった。何のこっちゃ


コロニア・デル・サクラメントは1680年にポルトガルが築いた港湾都市で、奪い合いの後1777年からスペインの植民地となった。両国の影響を受けた街並みが残る旧市街は、ウルグアイ初の世界遺産として登録された。
下船してから旧市街までの数百m、時間を惜しむように早足で歩く。海沿いの道をずんずん突き進むと、なんとなく城門に到着した。この内側が旧市街となる。
下の写真はアズレージョ風に描かれた旧市街図【アズレージョ =ポルトガル語でタイルを意味する。イスラム教徒によるイベリア半島侵攻により、ムーア人がもたらした北アフリカのセラミック技術がスペインで流行。ポルトガルでは16世紀、マヌエル1世の時代に国内生産を開始。彩色は青と黄色の組合せや多色など時期によって様々だが、18世紀頃にはオランダのデルフト焼や中国・日本の陶磁器の影響により白地に青で描く単色タイルが隆盛】。



旧市街の中心、マヨール広場を横切って灯台へ向かう。登っている人がたくさんいる。上からラプラタ川を眺めたかったな・・・でも、時間がない
ちなみに、手前の廃墟はサンフランシスコ修道院跡【17世紀後半に建てられるも、20年ほどで焼失】。

さらに西、岬の先端にあるサン・ペドロ要塞を目指す。その途上、番地を示すアズレージョ風タイルや花々が目に美しい。




たどり着いた砦には、語らう人々が2組と釣り人のみ。砦と思って見ればそれらしく見えないこともない廃墟となっていた。
400mほど北に位置するもうひとつのサンタ・リタ要塞と雰囲気を比べてみたかったが、時間の都合で割愛。残念
砦にそびえるウルグアイ国旗をまじまじと見つめる。太陽のモチーフ、青色系の横縞・・・基本的にアルゼンチンと似てるよな~ 素人感覚だが。


この後、旧市街北部の土産物屋へと向かうのだが、結果的にこの判断を後悔することになった・・・18世紀の面影を残すsuspiros通りを見逃してしまったのだ。
コロニアの観光写真で必ず目にする場所 ~海に向かってやや下っていく石畳の道の両側にコロニアル風の建物が並ぶ風景~ にたどり着くことができなかった
もちろん、歩きまわったので街の雰囲気は十分味わったんだけど・・・この目で見たかったという気持ちは残った。
短時間の滞在ながら、なんともいえぬ赤色の壁をもつ建物がこの街の特徴だと感じた。参考までに、ナカレーリョの家【植民地時代の生活を再現した博物館】を載せておく。訪問する予定だったが、こちらも時間の都合で割愛


いっぽう、マトリス教会(サクラメント聖堂)を覗いたのは完全なる気まぐれだった。ガイドブックに特筆されているわけでもなく、白漆喰の壁と石が組み合わさったファサードが面白かったので、なんとなく中に入った。

内装は小綺麗で、一見なんの変哲もない感じだが・・・


そこかしこに飾ってある彫像や絵は17世紀のものだった。ウルグアイ独立はもちろんのこと、スペイン入植の遥か前、古い部類。

そして、目に入った40cm位の小像はザビエルだった (この画像では切れているが、足元のプレートに書かれている)

ということは、この教会はイエズス会か 
併設された小さなミュージアムショップでIHSのシルバーアクセサリーを発見し、疑問は確信に変わった。
この旅の前半でイエズス会のレドゥクシオン跡を訪れたのも然り、Cちゃんと続けているザビエルの足跡を追う旅へ間接的につながる片鱗に触れることができた、予期せずウルグアイで。偶然が生んでくれた幸運に感謝しかない
【なお、この記事を書くにあたり調べたら、ここは17世紀創建のウルグアイ最古の教会のひとつと判明。また、景観を保持するために高い建物が禁止されている旧市街の中で、この教会の尖塔と先ほどの灯台のみが例外的に許されていると。ガイドブックが詳報していないだけで、メッチャ由緒ある教会だった

往きと同様、先を急ぎつつ旧市街を後にしてフェリー乗り場を目指す。出発が1便遅くなった時点で、訪れるはずだった博物館は全て断念した。切手を買ってポストカードを投函する野望も果たせなかった。はりきって両替した20ドル分のウルグアイ・ペソはお土産でまたたく間に消え、手元に残ったのはコイン1枚のみ。
心残りが多いものの、リベンジも容易ではない地球の裏側・・・ま、行き当たりばったり、思い通りにいかないこともあるから面白くて、また旅に出ようと思うんだろーなぁ。遠吠えかもしれないが(笑)
ガイドブックには、クラシック・カーが似合う街とも書かれていた。いささか俗な気もするが、街歩きの途次 目に映った車を載せておきたい。


面白いデザインに魅かれ、フェリー乗り場で撮った画像。
調べてみたら、ウルグアイの国章だった【楕円形の上の半分な太陽はアルゼンチンと同じく、独立の精神を表す。楕円を取り囲む植物はよく見ると左右で異なっており、右がオリーブ、左が月桂樹で平和と名誉を意味する。4等分された楕円形の中、左上の天秤は平等と正義を、右上のモンテビデオの丘(セーロ要塞)は力を、右下の牛は豊穣を、左下の馬は自由を表す】。


16時45分に出航したフェリーは、きっかり1時間でブエノス・アイレスに到着した。
船上から眺めるブエノス・アイレスは、高層ビルの林立する都会だった。さすが、南米のパリ


夕食はホテル近くのショッピングモール(パシフィコ)のフードコートにて。
19時前は夕食には早いらしく、すいていた。サーモン入り野菜炒飯・・・己の欲望に忠実に選んだため南米らしさのかけらもないメニューだが、久々に口にした米は美味しかった。やっぱり自分は米党 (ピンボケ画像しかなくて、ごめんなさい)


そして、偶然見つけたリカーショップでワインを購入、念願の栓抜きも手に入れた。いわゆるソムリエナイフというヤツで、ビールも開けられる。次の旅からは必ずこれを帯同しよう 
アルゼンチンで買ったのに、made in チャイナなんだが
部屋に戻って洗濯&入浴後、開けられないがゆえに旅の初日から持ち歩いてきたビールを平らげ、赤のハーフボトルへ進む。アルゼンチン最後の夜に乾杯

1 ブエノス・アイレス (⇒アトランタへ出国) (2012年4月2日)

前日があわただしかったので、ゆっくりめに起きて10時過ぎにホテルを出た。
ポストカード投函のため、まず国際中央郵便局へ。祝日なので半ばあきらめていたが、やはり閉まっていた【4月2日 =マルビナスの戦争における戦没者の日。マルビナスの戦争とは、南大西洋上の諸島の領有をめぐり1982年4~6月にイギリスとの間で勃発したフォークランド紛争を指す】。結局、後で空港へ送ってもらったコーディネーターのLさんにチップとともにハガキを託すことになった。
レティーロ通り周辺は治安が悪い旨、初日にLさんから聞いていたが、郵便局へ向かう途中、アルゼンチン空軍広場の南東にある公園ではホームレスのファミリーを見かけた。すれ違う人々の風体も今までに出会ったことのないカンジの人が多く、この旅の中で最も危険を肌で感じ、集中力を高めた時間だった。
郵便局にフラレた後、コロン劇場へ向かうべくレティーロ駅から地下鉄C線に乗った。駅の壁のタイルはアズレージョ風、青と黄の色合いが美しい。



後でLさんに話したら、「乗ったの?」と驚愕された。スリなど治安は悪く、一介の観光客が試すにはハードル高めらしい。が、明るい時間帯だからか、ヤバいとは感じなかった。うふっ

9 de Julio駅で降り、コロン劇場へ【ミラノのスカラ座、パリのオペラ座に並ぶ世界3大劇場のひとつ。1908年に完成、1階から6階まで立ち見を含めて4,000人収容】。正面からパシャリ。
おもむろに入口に近づき、中に入れるか尋ねたら、断わられた。祝日だからとアッサリあきらめたが、画像に違和感をおぼえて後で確認したら最高裁判所だったことが判明 どうりで入れてもらえないわけだよー なんとマヌケな・・・


カテドラル駅で地下鉄を降り、2度目の5月広場の横をかすめてサント・ドミンゴ教会へ【1807年、イギリスが侵攻してきた際に戦闘の場となった。この教会に立てこもったイギリス軍を植民地政府軍が取り囲んで攻撃】。下の写真、左の塔に残る無数の穴はその際の射撃によるものらしい。
ガイドブック情報では無休とあったが、閉まっていた。呪うべきは今日が祝日であること。国内最大といわれるパイプオルガンを見ることができず、残念


残った時間はフロリダ通りの散策に費やす。
流行の発信地といわれるブエノス・アイレスいちの目抜き通り、確かに華やかではある。が、そこかしこに「両替」と声かけてくる人や客引きがいるし、中には“ s〇x shop”の札を持つ女性も立っていたりする。各所に警察官が配備されてるのも分かる気するわぁ・・・光と対をなす影の部分も見え隠れする街。


親向けのちょっと値が張るお土産を買うべく、レザーショップに入る。
常駐する日本人店員から質問攻めされ、日常会話のカタコトしかスペイン語をしゃべれず、一人で旅してきたと答えたら、何事もなかったのは幸運だったと言われる始末  
う~ん・・・そういうものなのか? 暗くなったら単独で外を出歩かないとか、一応あれこれ気をつけてるから必然的に無事だったと思うんだけどなぁ。
なんだか釈然としないまま、カピバラの手袋などを買って辞去した。

その後、そぞろ歩いたショッピングモールの食器コーナーに、こんなディスプレイが。寿司ブームは南米も席捲しているのか・・・
蒸籠が置いてあるのはナゾだし、幟に書かれている文字は何て読むんだろう 【この記事を書くにあたり調べたら、左側の文字(“悦”の右だけ)は日本で使用しない漢字のようだった。中日辞典にはかろうじて載っており、右側の“泰”と共通して易の卦だと判明。縁起の良い文字なんだろーか】
総じて日本文化が正確に理解されていない気もするが、細かいことに目くじら立てるのは野暮というもの。寿司をきっかけに日本に興味を持ってくれる人が少しでもいてくれれば嬉しい


★ 終わりに ★  

まずは恒例の郵便事情から。ハガキ届いたよと友人達からの連絡がないまま5月が過ぎ、すっかり諦めていたところへ6月初めに届けられた。2ヶ月は自分史上最長記録(←当時。その後、パレスチナ自治区からの便りが記録を更新)。ガイドブック情報では10日で届くとある。Por Aviónと書いたので、船便にまわったとは考えにくい・・・もはや何が起きたのか知りようもないが、経験上、日本への直行便が飛んでいない国からは時間がかかることが多い。それでも届くなら御の字だ

今回の手配は、南米を専門とする旅行社にお願いした。出国日・帰国日と訪問希望地を伝えて旅程をアレンジしてもらったのだが、イグアスの滝に行かないのかと担当者の方から確認された。世界三大瀑布にして、アルゼンチンとブラジルにまたがる名高き世界遺産。しかも、旅の前半篇で訪れたポサーダスからは200㎞余、南北の全長3,800㎞ものこの国でいえば至近距離にある。旅のプロからすれば口を挟まざるを得なかったんだろーなぁ。
もちろんイグアスに興味がないわけでもなかった。が、限られた日程の中に組み込むには氷河かレドゥクシオン遺跡を割愛しなければならず、それは違うなと思った。
単純な感覚にすぎないが、心ときめいた場所に出かけたい。それが私の旅のスタイル
 おしまい 





































































































コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする