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poliahuの旅日記

これまでに世界43ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

ブログ引っ越しのお知らせ2

2025年06月15日 | その他
お久しぶりです 引っ越し先について、ようやくお知らせできる運びとなりました。
友人の尽力のおかげで、はてなブログに移行しました。以下のアドレスをクリックすると、ブルガリア篇その4が現れるはずです。
https://hulagirl0715.hatenablog.jp/
今後、こちらのサイトに新規記事を掲載することはありません。ご覧いただける方は、上記の新サイトをご確認ください。

そして、大変恐縮なお知らせなのですが・・・
次の記事(ブルガリア篇その5)はお時間をいただき、8月中のアップとさせてください。
目下、ブログ移行に伴って消えてしまった絵文字を入力する作業に時間をとられています おばさん構文なのは百も承知で、でも文字だけだと冷たいニュアンスになる気がして
最後に、季節のお花の画像を。コロナ禍の隙間に、鎌倉の長谷寺で撮影しました。
それでは、8月にお会いしましょう


ブログ引っ越しのお知らせ

2025年05月28日 | その他
諸事情により、5月中にブログの引っ越し先をお知らせすることができなくなりました・・・ごめんなさい
つきましては、6月半ばまでにこちらのサイトに「ブログ引っ越しのお知らせ2」というタイトルでお知らせを載せます。お待たせして申し訳ありません。
今しばらくお待ちくださいませ
  P.S. 文字だけではなんとも味気ないので、季節のお花の画像をば。もう10年近く前になりますが、皇居で撮りました。

ブルガリア篇 その4

2025年05月18日 | ヨーロッパ
旅も終盤に近づき、いよいよ首都ソフィアに向かいます。
この第4弾では、以下の地図の➓~⓬をまわりました。また、後の下線部の数字とも対応しています。


10・11・12 ヒサリャ ⇒プロヴディフ ⇒ソフィア (2024年8月24日)

7時過ぎに起きて朝食をとる。パンの種類が多くてテンション


夜はレストランとして営業している朝食会場、一角にはワイン棚あり。


バスの出発を待ちがてら、考古学博物館へ足を伸ばす。旧市街の中にあるが、前日お散歩した時にかすめていないエリア。

敷地に一歩入って、たわむれる子猫がたくさんいることに驚く。ヴァルナの公園もこんなだったっけ。

リュトン【獣角または動物の頭部をかたどった杯。B.C.11世紀にはペルシアでつくられ、古代にバルカン半島・ローマ一帯に広がった。素材は金属・石・木・陶製など様々】。これはピカピカの金製

別のを横からパシャリ このアングルのほうが全体のフォルムがつかめるかも。

あ、土器のランプを発見【4~6世紀制作】。イスラエルを思い出すな~

牧羊スタイルの男性。

織機と女性。こっちはマネキンじゃないのね

クケリというお祭りの格好らしい。衣服はともかく、マスクに釘付け
【Kukeri; キリスト教が広がる以前の時代にルーツを持つとされる伝統的な儀式。子孫繁栄や健康、豊かな収穫を願って冬(新年前後)に行われる。神話上の生き物を模したマスクをかぶった独身男性たちが通りに出て踊り、腰から吊り下げた鐘の音で悪霊を追い払い、幸運を招こうとする。この記事を書くにあたり調べたところ、ブルガリアに限らずもっと広い範囲で行われているらしい。また、マスクや衣装にもバリエーションがあるようで、毛皮でつくった毛むくじゃらの格好をしている画像も散見された。自分が目にしたマスクと衣装はかなり可愛いバージョンのようである】

博物館を出ようとしたら遭遇。可愛いがすぎる・・・惚れてまうやろ、犬派なのに


旧市街の中心部へ向かう道すがら、露店が出ていた。
手編み製品に、豆などの農産物。

手作りと思われる瓶詰めがズラリ。

フレッシュな果物も並ぶ。

最後に、ホテルの目と鼻の先にある聖ペテロ&パウロ教会に立ち寄った。

横から見るとこんな感じ(前日に撮影)。

お庭も丹念に整えられている。

きらびやかな内部。

民族衣装をまとう教会壁画は珍しいかも。


ホテルに戻り、荷物を持ってバスステーションへ。係員が無人ゆえ 貼り紙に書かれた時刻を信じるしかない状況は前日と同じ。が、既に来て待っている人がいて少しホッ
Cちゃんはその地元人らしき老女に話しかけた。プロヴディフ行きのバスを待っているのか、など世間話から入って身の上を聞く。女性が喋っているのであろうブルガリア語の音声をアプリが拾って翻訳するので、スムーズにコミュニケーションが進む。ウズベキスタンはブハラで若いタクシー運転手と会話が弾んだ時も思ったけど、翻訳アプリってすごいなぁ・・・どこに行っても、世界中の人と仲良くなれそう。
いや、私は使いこなしてないけど
ヒサリャ近くの村に住んでいるという老女が96歳ということにまず驚く。母方の祖父以外は90代まで生きていたけど、その歳で独り遠出はできなかったなぁ、すごい・・・
【ちなみにブルガリア人の平均寿命を調べてみたところ、WHOの2023年統計では75.1歳・世界第75位】
夫を亡くしていて、子どもは独立しているため一人暮らしになってしまったという。結婚してギリシャで32年暮らす長女には双子の娘がいるが病気だという。老女もかつてギリシャに3年暮らしていたらしいが、ギリシャの医療水準がブルガリアのそれよりも低いので心配であると。話しているうち彼女の目には涙が浮かんできて、何ともいえない気持ちになってしまった。明日の法事のために孫娘の家へ向かい、夕食は愛する者たちと共にすると言っていたので、ほんの少しでも寂しさがまぎれることを祈るしかない。

発車時刻をめがけて続々と人が集まって来て、バスは11時50分きっかりにヒサリャを発車した。
終点に近づくにつれ交通量が増え、結局1時間5分かかってプロヴディフ駅前に到着。
ここから15時33分発の列車に乗ってソフィアへ向かうので、コインロッカーがあれば好都合。ロータリーから駅舎に入って探すも見当たらない。
残るは2時間半、荷物を持ったまま観光するしかないと腹をくくる。

お目当ての場所まで2km近くあるので、タクシーに乗る。
地下にあるため一瞬とまどったが、降ろされた場所のすぐそばの階段を降りるとトラカルト文化センターだった【1980年代、地下道の工事中に発見されたローマ時代(3世紀)の邸宅跡。4世紀後半~5世紀初めに制作されたモザイクの床が広がる】。
入館料を支払い、受付に荷物を置かせてもらって館内を見学。概観はこんな感じ。なお、画像奥のガラス壁の向こうは現役の地下道である。

反対側からの眺め【4部屋から成り、列柱で囲んだ中庭もそなえていたことが分かっている】。

ここのメインとなるモザイク【六角形の中央に表されているのが平和をつかさどる女神Eirene(父はギリシャ神話の最高神ゼウス、母は掟の神テミス)。様々な色のタイル片を使用し、優美に仕上げられている。4mm以下の小片で構成するミニチュアモザイクの技法により、まるで絵画のような躍動感あふれる表情となっている】。

林檎のモザイクが可愛い。

真ん中のはイルカ


次のThe Bishop's Basilicaまで100mと離れていなかった。

エントランスを入ると、チケット売り場の前からモザイクが出迎えてくれる。第三の目的地The Small Basilicaとの共通入場券があることに気づき、すかさず入手。
さらに、ロッカーを発見。私たちのように駅で預けようとして果たせない人々がけっこういるんだろうか・・・
しかもかなり大型で、1つのブースに私たち2人分の荷物が余裕で収まった。長旅の観光客への配慮が身にしみるぅ

とにかくここは規模が大きかった。全体はこんな感じで、チケット売り場がある2から入場。
【313年にキリスト教が公認された後、4世紀のうちに建築された。幅36m・奥行き83m、ブルガリアにおける初期キリスト教の教会堂で最大規模を誇る。初期キリスト教の教会堂はたいてい市街の外に建てられたが、これは都市の中心広場の隣りにあったことから、布教の早い段階でこの地には既にキリスト教徒の一大勢力が存在していたことがわかる。
館内を埋め尽くすモザイクは2系統に大別される。最初期(1世紀~)のモザイクはシンプルで、黒・白・黄土色のみを使用した幾何学模様。4世紀後半以降の地中海一帯で隆盛したモザイクは赤・茶・緑・青が加わって虹のような色彩となり、鳥・花・果物などエデンの園を表す物体モチーフが出現する】

かつて教会の玄関間(ナルテックス)だった場所に、ここの中で最も著名な孔雀のモザイクがある(1つ上の画像、◎の部分)。
その周囲にもキジ、ツル、カモなど様々な種類の鳥が配されている。

孔雀をズームアップ。経年でやや褪せているとはいえ、色使いがリアルだわ~
【クジャクは不朽不滅を象徴し初期キリスト教が異教から取り入れたとされ、3世紀のローマのカタコンベ(地下墓所)から中世カトリック美術や初期ルネッサンス絵画に至るまでキリスト教美術に顕著なモチーフである。キリスト教を信じれば永遠の生命を得られる、と訪問者たちに伝える役割を果たした】

南の側廊のモザイク。画像中央の八角形の中にご着目ください【solar circleといって太陽を象徴している。元来は異教で用いられたデザインだが、初期キリスト教が取り入れたという】。

葉がスペード型にデフォルメされていて面白い。

中央の身廊部は崩れながらも原形をとどめている。


ガラス張りの遊歩道のおかげで、遺跡の真上にいるのだと実感。しかも上部をズカズカ歩けるなんて、幸せ至極


水色のタイルが際立つ。文字も出現。

説明板によると、画像右のウロコ状のは波を表現しているという。

画像左のも波なんだろうか・・・。てか、ここにもスペード型の葉っぱが
【ツタは冬でも緑の葉をつけることから、異教美術では不朽不滅を意味した。これを永遠の信仰の象徴としてキリスト教が取り入れたという】

北の側廊のモザイク。南のとはまた趣が異なっていて面白い。
ちなみに、鳥や壺を囲んでいるのはヘラクレスの結び目【古代ギリシャ・ローマ時代は子孫繁栄や結婚を意味するモチーフであったが、中世・ルネサンス期には永遠の愛や守護の象徴として用いられるようになった】。

なお、説明パネルがあったものの 時間切れで肉眼では見つけられなかったモザイクにも言及しておきたい。
ヒナの世話をする親鳥のモチーフは、教会が信者を守るという象徴とも捉えることができるらしい。

同定されていない植物はひよこ豆、そら豆、キュウリなどが推測されるというが、正解やいかに・・・
そういえば、トラカルト文化センターにも似たモチーフがあったなぁ(17枚上の画像、下をご参照ください)・・・同じ植物を表しているのか?? 
いや、上のはやや丸みがあってヘチマみたいな感じがするけど、どうだろう

これも鳥がいっぱいのモザイク。

北のエリアでまたしても牛頭の彫刻を発見。ブルガリアの中央部では、そこかしこにトラキアの残照を感じる。


道路沿いに700m東のThe Small Basilicaへ向かう。これも工事中に偶然発見されたという現場は、遠目にも鮮やかな外観に仕立てられていた。

教会堂と分かるように復元された内部【幅13m・奥行き20m。5世紀後半に建てられ、6世紀の終わりまで教会としての機能を果たしていたという】。

天井に近い窓から身廊のモザイクに光が差し込んでいる。

十字架をかたどった洗礼槽。深さが1.5mほどあり、これはもはや洗礼「盤」とは言えまい。
それにしても、形もだし 内陣の脇=教会堂の奥という場所設定も不思議・・・これまで自分が見てきた洗礼盤はたいてい入口の脇に置かれていたはずだが。何か意味があったのかも
【今回調べてみたところ、洗礼には➊浸礼=全身を水に浸す、➋滴礼=手で頭部に水滴をつける、➌灌水礼=手または容器で身体に水を注ぐ、の3種類あることが判明。初期のキリスト教では浸礼のために十字架型の浸礼槽を設けていた。独立した洗礼堂が建てられた時期を経て、いつしか形も変わり小さくなって教会堂の出入口付近に置かれるようになった。小型化の理由について幼児洗礼の一般化を理由に挙げる説もあるが、幼児洗礼は初期から行われていたと考える学者もいて見解が割れている。それだけを根拠とするには心もとないと感じるが、無関係でないのは確かだろう。幼児洗礼の影響もありつつ、一部の派閥を除いて滴礼や灌水礼が普及したことがその理由ではないかと個人的には考える。
なお、洗礼盤が出入口付近に移動した点につき、教会堂に出入りする度に目に触れて信者が初心を思い出すように と理由づける向きもあるようだが、もっともらしいようでいて説明になっていない気もする。洗礼は信仰生活の入口であるから教会堂の入口に据える、という説のほうが自分にはしっくりくる。
・・・ともあれ、自身の勉強不足が露呈してお恥ずかしい限り

そして、この洗礼所を取り囲むように鳩と鹿のモザイクが アングルの問題で写っていないが、鳩は1枚上の画像左上、鹿は同画像の右下にある(角が見切れている)。
【キリスト教で鳩は精霊の象徴である。新約聖書のヨハネによる福音書1章32節には、洗礼者ヨハネがイエスに洗礼をほどこした際の証言として「御霊が鳩のように天からくだってこの方の上にとどまるのを私は見ました。」と記されている。また、雄鹿は信者の魂を象徴する。十字架の近くの泉や洗礼盤から水を飲む姿で雄鹿がしばしば表現されるのは、キリスト教徒が信仰を渇望することの暗喩である。旧約聖書の詩篇42篇1~2節には、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私の魂はあなたを慕いあえぎます。」とある】


こちらは側廊。右のは花かごかなぁ、The Bishop's Basilicaでも同種のを見かけて気にはなってたけど(15枚上の画像、右上をご参照ください)。


来た道を戻り、The Bishop's Basilicaのロッカーから荷物を取り出す。駅へ向かうべくポリス3世通りのバス停脇で待つが、タクシーはスピードを緩める気配なくビュンビュン飛ばしていくばかり。あまり時間に余裕ないんだけどなぁ・・・つい苛立ちながら何気なく背後に視線をやると、脇道にタクシーが溜まっているではないか 
大通りは停まっちゃダメなんだわね。
ともかくつかまえることができ、列車に間に合いそうで心底ホッ
入線してきた列車に乗り込む。

15時33分に発車。慌ただしく過ごしたプロヴディフに車窓から別れを告げる。とにかく時計を見ながら動き、時間との闘いだった印象しかない
実は旅の計画段階でここに1泊することを考えなくもなかったが、限りある旅程の中で取捨選択した結果がこれだった(ヒサリャのバス発車時刻が事前調べより遅く、当初予定よりも大幅に巻くハメになったのも否めないが)。なお、モザイク好きの私たちはそれらに的をしぼって訪れたが、トラキア人の要塞跡やローマ時代の劇場跡・競技場跡、オスマン朝のモスクなど、見どころは枚挙に暇がない都市であることを一言付け加えておきたい。

なお、4人用ボックス席の私たちの向かい側は小学生を連れた教員と思われる人々だった(20代と30代と思しき男性)。着席後ほどなくして、ビールのロング缶で乾杯し始める2人。
あらら・・・この国ではその点厳しくないのかな、或いは見てはいけないものを目にしちゃってるのかな
網棚に所狭しと積まれたリュックサック・・・子どもたちは軽登山の帰りと思われる。

そして、窓の外は向日葵畑がこれでもかと続く。うん、徹頭徹尾ヒマワリの国・・・鮮烈な印象が刻み込まれた

窓から午後の陽が容赦なく射し込んでくるが、カーテンは備え付けられていない。Cちゃんが荷物に忍ばせていた薄手ののれんを拝借して結びつけ、当面をしのぐ。車窓を狭めることになったが、向かい側の彼らは特に異議がないようだった。
ブルガリア滞在も残り少なくなったので、友人たちへのハガキ書きにいそしむ私

19時5分、終点のソフィア中央駅に到着。
脈絡なく、駅構内に展示されていた車両。緑と赤は国旗を意識した配色なんだろうな~

首都だけあって、これまで見てきたこの国のどの駅よりも大きい。

ここから少々さまよった。予約してくれたCちゃん曰くホテルはトラムの停留所が近いということで、トラム乗り場に向かう。が、鉄道駅から乗り場までの道中はガラリと空気が変わってさびれているし、ホームにたどり着いたものの漂っている雰囲気に得体の知れない怖さを感じ、地下鉄で行こうと提案。
ところが地下鉄乗り場を探して迷い、見つけたものの乗り場へ向かう通路がこれまたおどろおどろしくて・・・一人ではなく、また暗くなる前で幸いだったと思うしかなかった。
地下鉄駅の構内は小綺麗で、改札内に入ってしまえば車内も含めて大丈夫なんだけど、たどり着くまでの過程がね

これからソフィアに向かわれる方で、中央駅からトラムまたは地下鉄を利用する場合は充分に気をつけてください。決して夜に一人で付近を通らないでくださいね。治安が良くないエリアとガイドブックにも書いてあるし、数十ヵ国まわってきた自分のアンテナが最大級のアラームを感知したので

M2線に2駅乗り、セルディカ駅で下車。地上に出ると、そこは過去と現在が交錯する空間だった。
画像右手前は14世紀築の聖ぺトカ地下教会、左奥が16世紀後半建立のバーニャ・バシ・ジャーミヤ【いずれもオスマン朝支配下で建てられ、異教扱いだったキリスト教の教会は目立たない半地下に置かれた】。

このアングルだと、低い場所にあることがより明確にわかる(翌々日に撮影)。

背後を振り返ると、旧共産党本部がそびえる。

トドール・アレクサンドル通りに沿って西へ進む。まもなく20時、陽が沈みかけている。
夏の旅ってこれだからいいよね~ 行動できる時間が長くてお得な気がする

フリスト・ボテフ通りにぶつかったら右折。なるほど、トラムが走っている。ほどなくホテルにチェック・イン。
一段落した後、夕食のために外出。めざす繁華街のヴィトシャ通りは、先ほど降りたセルディカ駅の南方面である。
夜の聖ネデリャ教会(画像左上に写るはトラムの架線)。
ちなみに、この向かいにある飲食店は膨大な席数を擁するにもかかわらず、外まで大行列していてビックリ

繁華街の両側にはお店がズラリと並び、通りは行き交う人でひしめいている。
経験上の一般論として、ヨーロッパの飲食店は夕暮れ時に空いているが、夜遅くなるほど混みあう。21時前につき案の定、目ぼしそうなお店は席が埋まっていた。
翌朝はリラ行きが決まっていて、日帰りツアーの集合は早め。サクッと食べ終えてホテルに戻ることを優先し、通りから覗いて空いているお店に飛び込む。絶対にブルガリア料理とこだわるわけにもいかず、なんとギリシャ料理店 野菜のグリルから食す。

ガリデス・サガナキ【オリーブオイルでガリデス(=海老)とチーズを焼いて(=サガナキ)、トマトソースで軽く煮込んだもの。フェタチーズを使うのが一般的らしい】。

これらにビールで、2人分55レヴァ(≒4,626円)。ルセやヒサリャと大体同じ、首都でこれなら決して高値ではないだろう。
入店時は他に1組だったのに、滞在中にあれよあれよと客が入ってきた。価格で敬遠されているわけじゃなさそうだし、空いている=不味い印象を与えるのが原因なのか 人が人を呼ぶの法則かも。

ホテルに戻る道すがら目ざとくリカーショップを発見し、晩酌用のフルボトルを購入。あれっ、既視感のあるセンテンスですねwww
品揃えが多くて迷ったが、ブルガリア産のシラー、1本11.9レヴァ(≒1,000円)。
22時半過ぎにホテルに帰着、交互にシャワーを浴びた後に開栓
翌朝は1km離れた場所に8時45分集合だというのに、日付をまたいでの就寝となった。ま、バカンス中だし


★ 中締め ★

この記事を書きながら、十字架型の洗礼槽を見たのは初めてだよね?!と不安になり、過去の旅を確認していたら・・・クロアチアはスプリットの洗礼室がヒット。
あちゃ~ なんと記憶が曖昧なことよ でも、今回のような地下を掘りくぼめる形式じゃなくて、空間にポンと置かれているタイプで床からの高さが1mあり、自分の身長ではクロスを実感できなかったんだもん・・・はい、言い訳ですね
閑話休題、次回はブルガリア篇の最後です。この国で最も有名な世界遺産といっても過言ではない、リラの修道院などを訪れます。お楽しみに

さて、前回の記事の末尾でもお知らせしたブログサイトの「引っ越し」の件です。今月中(2025年5月末まで)には引っ越し先を具体的にお知らせするため、このサイトに「ブログ引っ越しのお知らせ」というタイトルで記事をアップする予定です(自分の能力をオーバーしているため、このサイトを立ち上げてくれた友人に力を貸してもらうことになっており大船に乗った気持ちでいます。が、万一にも不測の事態が生じて、引っ越しの予定が遅れる可能性もゼロではありません・・・その場合にも、必ず情報をアップしますね)。
なお、引っ越しのドタバタで次の記事(ブルガリア篇その5)のアップはやや遅れて6月末になる予定です。引き続きご覧くださるようでしたら、新サイトをご確認くださいませ。
よろしくお願いいたします



ブルガリア篇 その3

2025年04月18日 | ヨーロッパ
旅の中盤は以下の地図の➑~➓、すなわちブルガリア中部を巡りました。また、後の下線部の数字にも対応しています。


8・9・8・10 カザンラク ⇔スタラ・ザゴラ ⇒ヒサリャ (2024年8月23日)

この日は前夜に到着したカザンラクを観光後、温泉地のヒサリャに移動して泊まることになっていた。
7時に起床。予約してくれたCちゃんがこの旅イチのホテルと言うだけあって、朝食ビュッフェは品数多く見目麗しく並べられていて相当豪華




温かいものを提供しようという心意気が嬉しい。

肉団子入りのシチューが美味だった


9時にホテルを出発。トラキア人の墳墓へ向かう道すがら、セヴトポリス広場を通過【毎年5~6月に開催されるバラ祭りでは、開会式・閉会式の会場となる】。
薔薇の植え込みに囲まれるようにしてそそり立つモニュメント。前夜は薄暗かったためスルーしてしまっていた・・・

広場周辺のカフェで朝食を楽しむ人々を横目にイスクラ通りに入り、さらに北東へ数百m進む。墳墓のある公園へは階段をのぼって行く。

猫を発見。何かを狙っているらしい。

1944年、防空壕を掘っていた兵士により偶然 トラキア人の墳墓が発見された。当時はこんな感じだったという(説明パネルを撮影)。
【B.C.4~3世紀に遡ると推定され、ユネスコの世界遺産に登録されている】

こちらが現在の様子。保存のため建物で覆われ、内部に入ることはできない。

が、その素晴らしさを後世に伝えるため、オリジナルの墳墓から1分もかからない場所にそっくりのレプリカが作成され、見学できるようになっている。

墳墓の全体像【前室・羨道・玄室で構成される。長方形になっている羨道は1.96m×1.12m、高さは2.25m。玄室は直径2.65m・高さ3.25mで蜂の巣あるいは釣鐘のような形をしている。羨道からは粘土製器具と生贄になったと思われる馬の骨が、玄室からは2体の遺骨に加えて 金をほどこした冠やアンフォラ(2つの取っ手付きの壺)などが発掘された】。

前室を通って奥へ進んで行く。4枚上の画像と見比べてくださいね~

来た方角を振り返る。ちなみに画像中央奥はレプリカ施設の入口である。

この羨道の天井は急峻な三角形であり、首が痛くなりそうな角度に戦闘場面が描かれている。てか、壁の亀裂や汚れまでオリジナルそっくりに再現しているのには舌を巻く。
【兵士たちはトラキアとマケドニアの服装をまとっているという。被葬者ロイゴスの父とも祖父とも曽祖父ともいわれるセヴトス3世の頃からマケドニアとは緊張状態にあったらしいので、現実を反映しているのだろう】


最深部、玄室の天井には360度にわたる壁画あり。
そのやわらかな描線や抑えめの色彩が私の心を捉え、この国へ導いた。記事その2で紹介したスヴェシュタリはトラキア王の墓のカリアティードの彫刻と同様に。

この絵は、亡くなったトラキアの王ロイゴス(下の画像右から2人目)が葬送される場面を描く。ディテールはもちろん違うが、スヴェシュタリのトラキア王の墓の壁画とテーマは同じ。
【画像右端の王の妻は夫の死にあたり殉死し、この玄室から見つかった遺骨は王夫妻と推定されている】

 縁に描かれている牛頭のモチーフ・・・スヴェシュタリでも見かけたぞ。あっちは石の彫刻だったけど【この記事を書くにあたり調べたところ、埋葬者の権力を示すらしい】。

なお、この施設の売店にはハガキがたんまり用意されていた。ここまで肩すかしをくらわされてきた反動もあり、ホクホクしながら入手

次は500m西のバラ博物館を目指す。階段を降りて公園を出た後、橋を渡るまではもと来た道である。
ふと、道沿いにギャラリーを発見。先ほど目にした玄室の壁画をベースにしているっぽい。

その入口には犬が横たわっていた。精悍な顔つき、ライトブルーの瞳の色が昔飼っていた愛犬を彷彿とさせた(犬種は違うけど)。

入口の全体像(後刻、付近へ戻って来た時に撮影)。トラキア人の壁画の他に ダ・ヴィンチ、ピカソ、ゴッホなどの著名な作品をアレンジしているようだ。

スタラタ川に架かる橋の欄干も玄室壁画がモチーフになっている。5枚上の画像上部、半円の内側左にご注目ください。
【葬儀の際に戦車競技を開催するしきたりがあったことから、玄室の天井に描かれたらしい】

民家が並ぶ裏通りを西へ進みながら、丹精込めて手入れされた庭先の植物たちに癒される。



大通りに行き当たり、左折するとバラ公園だった。その一角にあるバラ博物館は移転して数年の新しい建物で、一歩中に入るとガラス張りで明るい。
中庭では、子ども連れの団体が説明を聞いていた。
【カザンラク; 北をバルカン山脈、南をスレドナ・ゴラ山脈にはさまれたブルガリア中部は薔薇の谷と呼ばれ、ダマスクローズ及びそれを原料とするローズオイルやローズウォーターの世界的産地である。その中心であるカザンラクは、ローズから精油を抽出する蒸留窯=カザンを地名に冠する。5月中旬から6月にかけて行われる薔薇の収穫を祝うバラ祭りは100年以上の歴史を有し、民族衣装に身を包んだ人々が薔薇を摘み、伝統的な音楽に乗って民族舞踊を披露する】

料金を支払って入場すれば、ローズオイルの製造工程を学んだり用具を目にしたりできるが、先を急ぐ私たちは手前の売店だけ物色することに。
薔薇の写真にあふれたハガキと、ローズオイルを購入。シンプルなガラス容器だが、ブルガリアの薔薇とちゃんと書いてあり2mlで1レフ(≒84円)。この後いくつものお店で見かけたが、ここが最安値だった。香りは好みもあって難しいが、バラマキ用のお土産にもいい


次はクラタ民俗博物館へ。実は墳墓の近くにあるので、行ったり来たりに時間を割いた。計画性に少々欠けたかもしれない
ここでも薔薇が出迎えてくれた。

中は2つのパートで構成されているのだが、まずは村の家屋へ。下の画像奥がそれ。

納屋には唐箕などの農具があった。

テラスには糸紡ぎなどの道具。

リビング。その中央には木製のゆりかご。

キッチン。

敷地内でくつろぐ猫。

第二のパート、都市の家屋は2階建て【ローズオイルで財を成した人物が19世紀に建てた家】。

2階の廊下。

寝室。こちらのゆりかご(画像左)は金属製か。

台所。さっきの村の家屋でも思ったが、日当たりがあまり良くない。食料の保存とか、何か意味があったのか

リビング。壁沿いに座るような配置は村のそれと共通している。

都市の家屋の1階部分が博物館のオフィスになっていて、最後に薔薇のジャムとリキュールをふるまってくれた。

辛党につき、薔薇のリキュールを購入。200mlで10レヴァ(≒841円)。
いつかこの旅を思い出しながら味わいたいと思いつつ、いまだ開けていない(この記事を書くにあたり撮影)


街の中心部へ向かいながら、目につく土産物屋に何軒か入った。友人たちへのお土産はバラ関連にしようと決めていたので、ここぞとばかりに
こちらのお店では、バラの香りのリップクリームを購入(1つ3レヴァ≒252円)。

再びセヴトポリス広場に戻った。音楽モチーフの街灯が可愛い

なお、今回私たちがまわったのは下の画像のピンク色の丸で囲んだ部分である。
カザンラクの西、下の画像中央でひときわ目立っているのはかつてのセヴトポリス【B.C.4世紀末、トラキアの王セヴトス3世が築いた王宮と神殿。B.C.3世紀初めまで栄えたが、ケルト人に襲撃されたのち放棄された。第二次世界大戦後、コプリンカダムの建設に伴いその底に沈んだ。なお、セヴトス3世は先ほど訪れたトラキア人の墳墓に埋葬されたロイゴスの父または祖父または曾祖父】。
そしてカザンラクの北方はトラキア王の谷とよばれ、墳墓が無数に存在するという。日本で流通しているガイドブックではあまり言及しておらず、自分たちも含めて訪れる日本人は少なそうだが・・・古代トラキア人の繁栄ぶりは想像に余りある。


12時半、聖キリル・メトディー通りでタクシーをつかまえる。目指すは30㎞南東にあるスタラ・ザゴラ。ここを訪問することになったのは偶然の導きによる。
実はこの日の宿ヒサリャまでの公共交通機関が不便なため、泊まらずに日帰りツアーで行けないものかと現地発着ツアーを検索していたところ、パーソナライズド機能によりPC画面に表示されるようになったスタラ・ザゴラのモザイクに見惚れてしまった。Cちゃんに相談し、モザイク好きの私たちは訪問を即決。カザンラクの観光を午前中で済ませて向かうことにした。
【スタラ・ザゴラ; 新石器時代には人が住んでいたという。B.C.6世紀にはトラキア人が都市を築いた。1世紀にローマ帝国に征服された後、2世紀初めにトラヤヌス帝がここをアウグスタ・トラヤナと命名、交通の要衝として発展した。9世紀には第一次ブルガリア帝国の支配下に入るが、14世紀にオスマン帝国が侵略。露土戦争の後、19世紀にブルガリアに復帰した】
40分かかって町に入ったところで降ろしてもらい、お目当てのローマの家(Late antique mosaic from a Roman private house)を目指す。あっけなく見つかったのだが、閉まっていた(下の画像中央が入口)。

休館日とは不運だなぁと嘆きつつ、ほど近くの地域歴史博物館(Regional museum of history)へ向かう。入館料を払おうとして、共通券の存在にはたと気づく。
窓口の係員に確認したところ、先ほどのローマの家は学芸員による案内で見学するシステムになっているという。自分が読んだガイドブックにはスタラ・ザゴラ自体が載っていないので事前情報に乏しかったのだが、どうにかなった・・・ホッ なによりも、愛しのモザイクに正対できるのがうれしい。
窓口の方の連絡によりほどなくしてやって来た学芸員とともに博物館を出て、3分ほど歩いてとんぼ返り。
鍵を開けてもらい、階段で地下へ降りていく。事前に釘を刺されたので覚悟していたが、とてつもなく湿度が高い空間だった。画像右上が学芸員。涼を取ろうと扇を手にしている。
そう遠くないとはいえ、わざわざ博物館まで行って申し込まないと見学できないなんて・・・と頭をかすめていたが、中に入って納得。常駐するには過酷すぎる環境だわ

画像中央には漁をする人と魚、その下は動物たち。八角形のは井戸だろうか。

ここにも魚がたくさん。

そして・・・この鹿に会いたくてこの町へやって来た。可愛すぎる
背景のブドウの木に、緑の色使いが効いてるな~


再び歴史博物館へ足を運び、見学を開始。エントランスのある階で目についた、土偶のような物体。

ゴールドでつくられた装飾品。

古代のブルガリア人をイメージしたと思われるマネキン。隣りに座って撮影どうぞのあつらえなのだが、勇気が出ないなぁ

階下に降りるとローマ時代の石畳が広がり、当時を彷彿とさせる。
【この場所を狙って博物館を建設したのではなく、その工事中に偶然にもローマ帝国時代に町の南門と北門を結んでいたメインストリートを発見したのだというから驚くばかり

大通りの脇、家屋があったと思われる場所の床にはモザイクが。

あっ、スヴェシュタリの墳墓で見かけた牛頭の彫刻がここにも

グラディエーターの墓石、3世紀制作【グラディエーター; 古代ローマ期、見世物として観客の前で戦った剣闘士】。

オルフェウスの彫刻、3世紀制作【オルフェウス; ギリシャ神話の英雄で、詩と竪琴の名手。父はアポロンともトラキア王のオイアグロスとも。ミューズ(学芸の女神)である母カリオペの影響を受け、その竪琴は鳥獣草木を魅了したという。妻エウリュディケを亡くすと冥界にくだり、竪琴で冥王ハデスを篭絡し妻を連れ帰る許可を得るが、振り向いてはならぬという交換条件を守れず果たせなかった。ひとり現世に戻ったオルフェウスは妻を思うあまり女性に興味を一切示さず、トラキアの女性たちの怒りを買い八つ裂きにされ川に捨てられた】。
この記事を書くにあたり調べて知ったのだが、トラキアに縁の深い神だったのね・・・

ディオニュソスの彫刻、2~3世紀制作【ディオニュソス; ギリシャ神話における豊穣と酒の神。ゼウスの子で、長じて葡萄の木を発見しその栽培法とワインの製法を普及させたという。ギリシャより北方に位置するトラキアの陶酔的な豊穣神信仰を背景に成立したとされ、オリンポスの神々とは異なる性格を有する】。
この神もトラキアがバックグラウンドなのねぇ、知らなんだわ

トラキア人の騎乗者、2~3世紀制作。

かなりサイズの大きいモザイク。

あでやかな色彩で立体感がすごい。

何フロアもあるこの博物館、真剣に見たら何時間もかかりそうだった。が、ほどほどで切り上げて去ることに。
博物館の目の前にもローマ時代の遺跡が広がっていた。

ときに15時前、さすがに空腹をおぼえて自販機でジュースを購入。こーいう時の炭酸ったら・・・のど越し最高

さて、この町の地図も持っていないので 目に見える範囲でタクシーを探す。大通りは交通量が多く停まってくれそうにないので、脇道に入ってみる。路上駐車しているタクシーを見つけてダメもとで声をかけたら乗せてくれた、ラッキー

帰路は30分で到着。ホテルに預けた荷物を取りに戻ったついでに、両替所はないかとフロントの女性に尋ねる。手持ちが心細くなっていたが、この日泊まるヒサリャは小さそうな町で見当たらない可能性があるし、翌日はソフィア到着が夜のため、ここで補充しておきたかった。
言われたとおりに歩いて行くと、ホテルのほど近くの大通り沿いに間口の狭い両替屋さんを発見。ん~ これは教えてもらわないとダメだわ、自力では見つけられないな。
窓口にいた老夫婦にどこから来たのと聞かれ日本と答えたら、ニコニコしてくれてとても感じが良かった
懐が暖かくなったところで、ヒサリャへ向かうためホテルのフロントにタクシーを呼んでもらう(事前に調べてはみたものの、結局はタクシーで移動することにしたのだった)。
スタラ・ザゴラ往き帰りのタクシーがわりと簡単につかまったので軽く考えていたのだが、フロントの方は眉根を寄せた。どうやら長距離の片道というのがネックらしい。清掃スタッフの女性と何やら会話すると、今度はその女性が電話をかけ始めた。バックヤードに姿を消し、数分後に出てきた彼女は制服から私服に着替えていた。
フロントの方曰く、清掃スタッフの夫がタクシー運転手なんだそうだ。ただしこの日は非番のため自家用車での移動になるが、ヒサリャまで運転してくれるという。なんてありがたい 
かくして助手席に清掃スタッフの女性、後部座席に私たちが座り4人で出発した。女性は夫の手を握り、ひっきりなしに話しかけている。ブルガリア語の会話はもちろん分からなかったが様子から察するに、休日に渋々呼び出された夫の労をねぎらっているらしかった。
結局ヒサリャには17時に到着。カザンラクを出たのが16時5分前だったので、1時間強といったところ。料金は2人で90レヴァ(≒7,569円)。カザンラクとスタラ・ザゴラの往復(計1時間10分)で支払ったのが2人分91.8レヴァ(≒7,720円)なので、妥当な額だろう。

ホテルにチェック・イン後、まずは温泉へ。バスローブで館内を歩いてもよいとのことだったので、部屋で着替えて向かう。
温泉の一角にあるロッカーに荷物を預けて鍵をかけるのは日本と同じだが、しきたりの違いから水着着用でないとダメで、スパ施設といった雰囲気。

こちらは泳げそうな広さ。水温が低めで、長時間 肩まで浸かるのは難しかった。

画像右、モザイクをかけたCちゃんが入っている浴槽は温かくて気に入った

サウナも備えられていた。

30分近く滞在したが、すれ違ったのは3人のみ。翌朝の朝食会場の埋まり具合からしてそれなりに宿泊者がいたはずなのだが、利用した時間帯ゆえか閑散としていたのが意外だった。
なお、このヒサリャのホテルだけは自分がリクエストした。ブルガリア旅行について検索していた時に、現地取材したライターの紹介記事に偶然ヒット。もともと温泉好きなのもあり、ガイドブックに掲載されていないヒサリャに興味を持ったのが始まり。宿泊サイトで他のホテルも調べてみたが、屋外に浴槽を配置するのが主流なようで、いかにもプール然としていて自分好みではなかった。記事のホテルに泊まりたいと思ったものの、入国以後の移動手段などを確保して8月23日宿泊が確定した頃には予約が埋まっており、やむなく他のホテルを予約した。すっかりあきらめていた自分だったが、Cちゃんは粘り強くサイトをチェックしてくれていて、キャンセルが出たタイミングで即おさえてくれたのだった。わ~い

翌日はバスでプロヴディフに移動することになっていた。フロントの男性に尋ねると、時刻表の用意はないからバス・ステーションで確認が必要と告げられ、場所を教えてもらう。
18時半にホテルを出てバス・ステーションへ向かう。歩いて5分とかからない、ラッキー
時刻表を見ると、最も早いのが11時50分発だった・・・日本でネット検索した時には、もっと早い時間帯の便もあった気がするのだが 念のため係員に確かめようにも、ガラス張りのステーションの建物には鍵がかかっていて無人。書かれている通りの時刻を目指して来るしかないね、が我々の結論。

頭を切り替えて、まだ陽が落ちていない街をそぞろ歩くことにする。ホテル到着の直前、車窓から見えた遺跡を間近に仰ぐ。

野生らしき葡萄を発見。ヨーロッパで、ワインは造られるべくしてつくられてきたんだろうな・・・

旧市街の中心部にて。ダチョウのプランターにキュン

ぬるめの温泉が湧き出す蛇口があった【2世紀末~3世紀に在位した皇帝が訪れたともいわれ、ローマ帝国時代にはすでに知られていた名湯ヒサリャ。泉源は20を超えるという】。

脇道に入り南下していくと、いにしえの遺跡が出現。

ローマ時代の浴場跡。ずいぶん修復の手が入ってるな・・・


さらに南下した場所にも温泉が流出するスポットがあり、これも程々の温度。Lady’s Raindropというのだそうだ。

さらに南下したあと東へ進むと、Camel Gateに到着。アーチの上の角状のを2つのコブにたとえて、ラクダなのだろうか・・・
ちなみに、翌日訪れた考古学博物館の売店で この門を描いたハガキを売っていた。この町のシンボルのひとつなのだろう。

来たのとは違う道を北上し、レストランを目指す。ホテルのほど近くにあるステキな感じのお店は満席で振られたので、別の場所へ。
このお店は新しそうで、テラス席は客でかなりにぎわっていた。室内にも席はあるのだが、こぞってテラス。ヨーロッパあるあるだよなぁ
画像右中央、木々の向こうに今や遺跡となっている要塞壁がチラ見え。このレストランは旧市街のわずかばかり外に位置しているのだった。

ガストロノミー・サラダ。

仔牛ほほ肉のグリル、セロリのソース添え。

ブルガリア料理というよりは、欧風モダンにアレンジされていた。ワインは安くなかったので、ビール(Tuborg/500ml)だけ飲んだ。

22時過ぎ、ホテルに帰着して交互にシャワーを浴び、晩酌タイム。実はヒサリャの街歩きの途中で抜け目なくお店を見つけ、アルコールをゲット
山脈のイラストに魅かれたビール、500mlで2レヴァ(≒168円)。

飲む前に撮り忘れ、翌朝撮影したカベルネ・ソ―ヴィニヨンは375mlで4.2レヴァ(≒353円)。


★ 中締め ★

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、goo blogのサービスが11月に終了することになりました。寝耳に水で、率直に言って驚いています
別のサービスサイトに「引越し」するつもりですが、現時点では時期が未確定です。詳細が決まったらお知らせしますね。

しばらくは新規投稿できるそうなので、ひとまず来月(2025年5月)はこちらのgoo blogに新しい記事をアップする予定です。
というわけで、次回はプロヴディフを経由して首都ソフィアに向かいます。またお会いしましょう

ブルガリア篇 その2

2025年03月16日 | ヨーロッパ
旅の第2弾では以下の地図の➋を出発して、➌~➑をまわりました。なお、後の下線部の数字にも対応しています。


2・3・4・5 ルセ ⇒スヴェシュタリ ⇒シューメン ⇒ヴァルナ (2024年8月21日)

7時過ぎに起き、ヴァイキングの朝食をとる。テラス席に座ったのだが、まもなく近くの席にやってきた人がタバコを吸い始めた・・・アンラッキー

エレベーターホールにある扉を開け、ベランダに出てドナウ川を眺める(南西の方角)。

北東は前日に国境越えの橋を渡ってきた方角で、画像右奥には工業地帯が垣間見える。


この日はチャーターしておいたタクシーでスヴェシュタリを観光した後、シューメンまで連れて行ってもらうことになっていた。前日にブカレストから国境越え&イヴァノヴォへの往復をお願いしたのと同じタクシー会社なのですっかり安心していたが、10時にホテルでpick upの約束なのに時間を過ぎても現れない。いてもたってもいられずロビーを出てホテルの入口に立ってみたが、一向に来る気配がない。
ホテルのフロントの方に協力していただいてタクシー会社に電話してもらったところ、15分遅れでやって来た。初老のドライバーは別のホテルで私たちを待っていたという。タクシーとホテルを予約してくれたCちゃん曰く、当初は別のホテルに予約を入れていて変更の連絡をしたのだが、その情報がどこかで止まっていたらしい。ま、結果よければ全て良し

ルセからスヴェシュタリへは東へ50㎞ほど。道中の車窓で私たちの目を釘付けにしたのは、前日同様にヒマワリ畑だった。ルーマニアだけでなく、この国でもたくさん栽培しているらしい。何枚もピンボケ写真を生産した後、なんとか撮れたのがこれ。旬を過ぎたのか暑さにやられたのか、頭を垂れた姿である。
【この記事を書くにあたり調べたところ、ヒマワリの生産量世界1・2位をロシアとウクライナが争っていて、ルーマニアとブルガリアも10傑に名を連ねていることが判明】

1時間20分でスヴェシュタリに到着。メインであるトラキア王の墓は、ガイドによる数人ずつの見学しか認められていない。先着の待ち人がいてくれたおかげで、私たちはすぐに見学することになった。こちらが入口。
【豊富な水源に恵まれ重要な交易路につながるこの地は、B.C.3世紀前半には何千人もの人口を有するゲタイ(古代トラキアの一部族)の首都として繁栄した。ゲタイの王ドロミケテス(B.C.280年没、推定30~35歳)とその妻が埋葬されている。墳墓は直径70m、高さ11.5m】

そのそばには実をつける木。

墳墓は厳重に保護されているため、荷物は鍵付きのロッカーに預け、靴にはカバーをかけて入場することになる。

内部に入る前にガイドによる説明があり、パネルや発掘品が展示されているのだが、墳墓内は一切の撮影禁止 
しかし画像が皆無では想像を膨らませようもないので、ビジターセンターでもらったDVDからCちゃんがスクショしてくれた画像を以下に載せる。

トラキア王の墓 玄室の彫刻、これが私をこの国へ呼び寄せた。
ほんのわずかではあるが、一部に彩色が残っているのを確認できた。顔だちが一体一体異なるのもいい
【B.C.3世紀末~半ば築、ゲタイの文化とヘレニズム文化が融合している。石造りの羨道(墳墓の最深部へ導く通路)・前室・玄室(遺体を安置する空間)という3部構成のうち、玄室には2つの棺を取り囲むように10体のカリアティードが彫られている。カリアティードとは、古代ギリシャの神殿建築に淵源を持ち、円柱に代わって梁を支える女性をかたどった彫刻。アテネのアクロポリスにあるエレクテイオンが最も有名な作例】

ここのカリアティードは他に類例のない半人半植物だという。植物であることを示すのが下半身のこの部分。一見スカートのようにも見えるが、花のがく片を逆さにした表現と解釈されている。

玄室の壁の上部には鉛筆画と見紛うような壁画が残っている。これが今日まで失われず守られてきてよかったと、心うち震えるかそけさである。
【壺・槍・刀・盾を手にする4人の従者、神格化された支配者ドロミケテス、彼に月桂冠を授けようとする女神が描かれている。なお トラキア人の死生観は独特で、死後も魂は消滅することなく幸せな場所へ移るものと信じていた】

時計を見ていたわけではないが、内部には10分もいられなかったと思う。ガイドに促され、後ろ髪引かれつつ去らねばならなかった。内部の室温を保つためには致し方ないんだけど・・・許されるのならば、いつまでも見ていたかった

墓を出たところで解散。私たち2人はガイドさんに先導され、他の墳墓に向かう。王の墓のみと、それプラスαの2つの料金体系があり、せっかくだからとプラスを選んだ私たち。
ちなみに、スヴェシュタリの全体図はこちら。私たちがまわったのはピンク色の丸で囲んだ部分で、その中の最も大きいオレンジ色のマークがトラキア王の墓である。
【この全体図に示されている一帯は、先史時代~中世にわたる140以上の遺跡を擁する。1982年に前出のトラキア王の墓が発見されると、その数年後には世界遺産に登録された】

2番目に入場したのはこちら。かまぼこ型の金属で覆われた部分にいざなわれた(ここも内部の撮影禁止)。ガイドさんの説明によるとB.C.9世紀につくられたが、B.C.3世紀前半の地震により崩壊してしまったという。石造物の断片が転がる空間にトラキアらしい特徴があったかと問われれば首をひねるしかない・・・

3番目に入場したのがこちら、青い扉を入る。

ここも内部の撮影禁止だったので、ビジターセンターでもらったカードを撮影して載せる。
内部への入口は1m強しかなく、大人はかがむしかないサイズ【下の画像の扉は新しいものに変わっているが、元々は石で閉じられていた。そのようなスタイルは古代トラキアで類例がなく、小アジア(アナトリア)の影響が見てとれるという】
中には入れず、ガイドの説明を聞くだけだった。曰く、先ほどの墳墓と同じくB.C.9世紀のものだが、こちらは地震の被害を受けなかったらしい。人間の骸骨や生贄と思われる動物の骨などが発見されたという。プラス料金を支払ってこれか・・・なんだかコスパ悪い気がする。中に入れてもらえるなら、全然違うんだけどなぁ

出たところでガイドと別れ、周囲を散歩することに。墳墓の周囲には、とりどりの草花が顔をのぞかせていた。

タンポポ。綿毛をつけているものも。


先ほどまでいた墳墓を見晴らす。

更に道沿いで見かけた花々。


いわゆる支石墓タイプのお墓が屋根で保護されている。
【これもプラス料金で入場した墳墓と同じくB.C.9世紀のもの。板状の石でつくった棺の中に死者を納めて地中に埋め、さらにその上を別の石で覆っている】

マメ科の植物に、アザミ系


やはりトラキア王の墓はひときわ大きい。
てか、こんな光景に既視感アリ。韓国は慶州の大陵苑もこんな感じだったなぁ・・・時期はブルガリアのが何百年も前、断然早いけど。

ひとまわりして、最初にタクシーが停まった場所に戻った。その脇のビジターセンターに入ると、パネルによる説明と売店があった。
マネキンはトラキア人を想像・復元したものか

売店でハガキを探すと、撮影できないためか墳墓内部のは売れに売れていて、1枚しか買えなかった。イヴァノヴォがよみがえる・・・この国では8月下旬に在庫が切れがちなのか
ビジターセンターの前には郵便ポストもあった。

乗り込む前に、タクシーを撮影 2日間、この会社にはお世話になった


結局スヴェシュタリで1時間半過ごし、13時に出発。
シューメンまで50㎞南下する道中、引き続きヒマワリ畑に目を奪われた。

1時間余りでシューメンの中心部に入ると、行く手にそびえる丘の上に要塞が見えた。アフトガーラ(バスステーション)で降ろしてもらい、ドライバーさんとはお別れ。
この日の宿があるヴァルナ行きバスの発車までたっぷり時間があったが、要塞へ行くには足りない。2階建てのバスステーションを上から見下ろしてみる。

バスステーションに隣接する食堂でビールを注文し、飲みながら時間をつぶす。ここシューメンの地ビールであるシューメンスコを求めたら、置いてないと
やむなくカメニツァにした。これもシェアの多い銘柄、初めてありつけて満足

バス乗り場が明確に示されていないため、待ち合い客の動きを観察しつつ今かいまかと待った。バスステーションの様子はこんな感じ。

結局15時45分に出発、シューメン滞在はたったの1時間半。単なる通過地点になってしまった
【公共交通機関を極力使いたいと思いつつ、スヴェシュタリはそれのみでのアクセスが不便である。全体の旅程を勘案すると この日のうちにヴァルナに着く必要があり、タクシーを利用ついでに交通の要衝であるシューメンまで乗せてもらうことにしたのだった】

80㎞東のヴァルナへは1時間20分ほどで到着【ヴァルナ; ブルガリアの海の首都の異名を持ち、国内で3番目に多い人口を擁する黒海沿岸の都市。ビーチリゾートのひとつ】。
バスステーションから宿のある海岸付近までは距離があるので、タクシーをつかまえた。
個人経営のゲストハウスだったため、住所を頼りにドライバーに探してもらってなんとか到着。門を入り、インターホンを押してしばらくするとオーナーのおじちゃんが階上から下りてきた。エレベーターはなく、階段をのぼって4階の部屋に案内された。扉を入ると2畳くらいのスペース(前室?)があり、左手にトイレ&バス、中央奥にダイニングキッチンとベッドルームが一体化した20畳くらいの空間が広がっていた。全面窓で、すこぶる見通しがよい。
古いアパートメントをコンドミニアムに転用した感じ。どちらかというと、連泊する海水浴客がターゲットなんだろうなぁ
オーナーは部屋の設備や鍵についてあれこれ説明し、せかせかと去って行った。

明朝にはここを発つので、すぐに出かけねば。水着の上に服を重ねて街に飛び出す。夏で日が長いのが幸いである
海岸の手前に広がるプリモルスキ公園では、子どもたちが声をあげて遊びに興じていたり、演歌のように聞こえる歌謡曲をマイクで歌う人がいたり。かと思えば、ふと目に入った植え込みの陰にはホームレスと思われる家族が座っていたりして、なかなかに雑多な様相を呈している。
海岸沿いの道に出ると、人出は少なくない。海辺には猫が多いと聞くが、ここも例外ではないらしく集結していた。

ビーチ沿いに北上していく。1998年のトルコ訪問以来、久々に間近にする黒海である。


私たちの目的は海水浴ではなく、海沿いの公共露天風呂だった
Cちゃんが情報をゲットしたこちら、水着を着ていれば誰でも無料で利用できる。下の画像手前の屋根の下が男女別の更衣室になっているが、扉はなく壁に囲まれた2畳くらいのスペースがあるだけ。鍵付きのロッカーなど勿論ないから更衣室の外の棚に置き、湯船につかりながら荷物を見張る感じ。露天風呂からあがったら宿に直帰するつもりで財布やパスポートなどは部屋に置いてきたが、デジカメと部屋の鍵は貴重品になってしまう。

別の角度から露天風呂をパシャリ 丁度よい温度でもあり、のんびり長湯をする人々が多かった。

持参したタオルで手足を拭いた後、濡れるのもかまわず水着の上に再び服を着て、来た道を戻る。こんなトレインも走っていた。

途中でビールを飲んだきりなので、さすがにお腹がすいている。夕食はどこで食べようか・・・ひしめきあう飲食店を物色しながら歩いていると、眺めの良さげな2階建ての食堂に行きあたった。入口に立っていた呼び込みの女性店員にメニューを見せてもらうと、値段は問題なさそう。店内はまだ空いていたが念のため、20時に必ず来るから、と名前を告げて予約。

部屋で水着を脱ぎ捨ててお店に戻ったら、呼び込み係は交代していたがちゃんと引き継がれていて、すんなり通された。案の定混み始めていた店内で2階の窓際席を確保できたのは、あのタイミングで予約した功名だろうと思っている
私たちの座席からの眺め。ビーチに立てたパラソルの下にも1階席があるようだった。

昼間に振られたビール、シューメンスコにまみえる。ワイン党の自分だが、暑い時にグビッと飲むビールはたまらない

ミートボールのトマトソース煮込み。

イカのグリル、ディル&レモン風味(ピンボケでごめんなさい)。スライスしたレモンがしっかり入っていて、爽やかな味わいだった。

タリアテッレ・イル・ディ・マーレ。オイルベースと思い込んでいたら、クリームソースだった。意外だったけど、美味ければ全てよし

魚介に合わせて、ロゼワインをデキャンタで追加。

そうこうしているうち、黒海に陽が沈んだ。う~ん、特等席

さらには花火まで。打ち上げ場所はかなり向こうのようだが、恩恵にあずかってラッキー


お料理、景色もろともに満足して席を立つ。宿までは10分弱だが、途中に見かけたリカーショップでペットボトルの水(1リットルで1.4レヴァ≒118円)を購入。あいにく50レヴァ札しかなかったが、赤いアロハシャツにグラサンの店員は嫌な顔ひとつしなかった。うれしいなぁ

宿に着いたら22時をまわっていた。交互にシャワーを浴びた後、晩酌タイム
実はこれ、前日にルセで買ったものだった。見学できなかった神殿と道路をはさんで向かい側に目ざとく酒屋を見つけ、フラリと入ったところ国内外のワインを多種そろえていた。もちろんブルガリア産、どうせなら訪れる場所のがいいよね、とトラキア渓谷産のを購入【バルカン山脈とロドピ山脈にはさまれた一帯で、カザンラクやプロヴディフなどが該当する】。
値段もピンキリだったが、普段使いなので中庸をセレクト、しめて7.5レヴァ(≒630円)。ワイングラスはこの部屋に備え付けのを借用。


5・6・7・8 ヴァルナ ⇒ネセバル ⇒ブルガス ⇒カザンラク (2024年8月22日)

前夜が0時過ぎての就寝で惰眠をむさぼっていると、CちゃんからのLINEで7時過ぎに起こされた。朝に強い彼女はひと足早く起きて海辺で日の出を見た後、全然方角の異なる大聖堂まで出かけ、それらの画像を送ってくれたのだった。
ゲストハウスに朝食は付いていないので、戻ってきたCちゃんが道中で見かけたというベーカリーまで出かけた。ケーキなど洒落たもののほうが種類豊富だったが、やはりパンにする。


テイクアウトして部屋にて食す。エスプレッソとパンで4.6レヴァ(≒387円)。


この日はまずネセバルに寄ることになっていた。バスステーションまで遠いのでオーナーにタクシーを呼んでもらおうとしたが、有料で送るよと。最初は20レヴァ(≒1,682円)と言われたが、Cちゃんがすかさず値切ってくれて10レヴァ(≒841円)に落ち着いた。前日のタクシーが9.2レヴァだったので、妥当な額ではないだろうか。
8時半に宿を出発。9時発のバスは売り切れていたため、1時間少々待つことに。その間に構内のトイレを利用したが、有料(1レヴァ≒84円)だった。
10時頃、やって来たのはワゴンのような小型車両だった。

内観はこんな感じ。

2時間余りバスに揺られ、私たちは半島の手前の大通りで降ろされた。半島まで連れて行ってくれるバスとそうでないのの2種類あると事前情報で知っていたが、後者だったか・・・
嘆いたところでどうしようもなく、大きな荷物を抱えながら半島の入口まで1.5㎞歩くのみ。
緩やかな坂をのぼっていくと、木々の隙間からネセバルの半島が見えてきた。

この角度からだと、半島へつながる道がはっきりと感じられる。まるで江の島のようだ。
【ネセバル; B.C.2000年以降にトラキア人がつくった集落メセンブリアに始まる。ネセバルはスラブ語名。B.C.6世紀にはギリシャの植民地となり、その後もローマ帝国、ビザンツ帝国、第一次ブルガリア帝国、第二次ブルガリア帝国、オスマン帝国と次々に支配者が変わりつつ、黒海やエーゲ海交易の中心として繁栄した。もともとは島だったが、現在は人工の地峡で結ばれている。様々な時代の遺構を残すこの地は1983年 世界遺産に登録された】

半島の入口には黒い風車がそびえる【18世紀後半~19世紀築、当時の風車は土台が石造りで円筒形。1年中吹き寄せる海風を利用して製粉などの動力として活用した】。

大きな荷物を抱えながらの観光はしんどいので、どこかで預かってもらいたい。思案してお土産を買うだろうという予想のもと、民族衣装を売るお店のおばちゃんにお願いしたら気前よく置かせてくれた(去り際に撮影)。


ここから35㎞離れたブルガスを16時に出る列車に乗らねばならないので、逆算してネセバルに滞在できるのは2時間のみ。限られた時間を無駄にするまいと歩き出す。
半島内に点在する教会のうち、まず最初に目に飛び込んできたのが聖パントクラトール教会【13~14世紀築】。美しく整えられた花壇に目を奪われつつ、脇を通過して右折。

道なりに数十m進むと、左手に洗礼者ヨハネ教会が見えてきた【10世紀末建築。ネセバルにある中世の史跡のうち最もよく保存されているもののひとつで、バシリカ式からドームを擁する十字型の教会への変遷を示す典型例である。赤いモルタルで接着した石造りだが、扉の上や窓の周囲にはレンガによる装飾も見てとれる。考古学的調査により、ここはB.C.4~B.C.2世紀に栄えたギリシャ神殿の跡地であることが判明。時代が下って4世紀の洗礼堂の遺構と思われるものも発掘された。さらに6世紀には、3つの身廊を持つ初期ビザンツ期の大聖堂が建てられていたことも明らかになっている】。


ノブを回すと扉は閉まっていたが、すぐに開けてもらえた。ここで共通入場券を購入【5つの教会・考古学博物館・民族博物館への共通入場券は何種類かあり、私たちが選んだのは4churches(15レヴァ≒1,262円)】。
かつて祭壇だったと思われる教会の中心部にはイコンが並んでいる。

画像左、マリア様の壁画は色彩鮮やかで新しそう・・・その奥(画像中央)のは古そうだなぁ。
てか、左手に悪魔を引っつかみ右手でハンマーを振り上げ、こちらに視線を送るマリア様ってシュール・・・斬新かも

古そうなフレスコ画にズームアップ。

人の流れに沿って通りを進んで行くと、廃墟となった教会にたどり着いた(こちらは無料である)。
【聖ソフィア教会; 5世紀後半~6世紀前半築、ネセバル最古の歴史を持つ。地下にはアポロン神殿の遺構があり、かつてこの場所はアクロポリスだった】

惚れ惚れするようなアーチ。

聖ソフィア教会から北へ伸びる道を行く。ワイン売ってる、覗きたいけど時間ないよぉ

石造りの上(2階)に木造が乗っかっている、面白い
【今回調べてみたら、これはブルガリア土着の建築様式らしい。建てられたのは、オスマン帝国の支配を脱却しブルガリア文化の再生を目指した民族復興運動期(18~19世紀)】

半島最北部に位置する生神女エレウサ・バシリカに行き当たった【6世紀、聖母マリアに捧げるために建てられたが、14世紀以降に倒壊したという】。

その傍らには塔らしきものも残っている。なお、画像奥に垣間見えているのが本土のサニー・ビーチ。

半島北岸沿いの道を左折し、聖パラスケヴァ教会へ【13~14世紀築。アーチの上に緑色の陶器がはめ込まれている。なお、聖パントクラトール教会(11枚上の画像)も同様の装飾を持つ】。

この教会、内部にフレスコ画が残っていないのを逆手に取り、他の教会のものだったフレスコ画を運んできて展示している。画像の左右中央に着目ください。

収監された聖ジョージ(17世紀制作、聖ジョージ教会にあった作品)。
【現在、ネセバルに聖ジョージ教会なるものはない。第2次ブルガリア帝国統治下の14世紀、この地には40もの教会が建ち並び、人口あたりの教会数でヨーロッパ随一を誇ったといわれるが、その多くが現存していない。島の衰退とともに消えていった教会のひとつなのだろう】

このフレスコ画について説明しているパネルを撮り忘れ・・・詳細不明でごめんなさい


通りすがりの教会。廃屋と化し、ガイドブックには名称すら載っていない。先ほどの教会と同じく、アーチの上に陶器を埋め込んだ装飾である。

聖スパス教会【17世紀築。当時のフレスコ画がよく保存されている】。

教会の脇に立つイチジクの木。

中に入って係員に共通券を見せたら、あと10分で閉まるという。14時から30分間、中休みがあるんだそうだ というわけで、急いで見学するハメに。私たち以外にも観光客がいるから心強いけど。
最上段には聖母マリアの生涯が描かれている。

反対側の壁の最上段にはイエスの生涯が展開していた。こちらはラザロの蘇生【新約聖書に記されている、イエスが起こしたと伝えられる奇跡のひとつ。ラザロが病死して4日後にイエスが墓の前で「出てきなさい」と呼びかけると、埋葬用の布で巻かれたラザロが生き返った。なお、ラザロはキリストが十字架で処刑された後も伝道に生涯を捧げ、殉死した(殉死の地はマルセイユやキプロス島など諸説あり)】。ラザロ(右端の包帯グルグル巻きの人)の一番近くにいる人物(赤い服)が鼻をつまんでいて、コミカルな感じ。

エルサレム入城【十字架で処刑される数日前にイエスはエルサレムに入った。その際、自らが救世主であることを示すために旧約聖書(ゼカリヤ書)の預言に基づきロバの子に乗って入城した。ラザロを生き返らせたという噂が広まる中での登場に、人々はイエスを熱狂的に迎えた】。
歓迎のあかしとして木の枝や上着が地面に敷かれたという聖書の記述を丁寧に再現している。

弟子の足を洗うイエス。

教会の中心となるアプシス。

出窓やくぼみ(壁龕)に至るまで、精緻にフレスコ画がほどこされている。

壁の下部には植物文様も出現。


最後に聖ステファン教会【11~13世紀築。16~18世紀に増改築】が残った。実はここ、荷物を預かってもらった民族衣装屋の目の前にある。つまりは、ひとまわりしてきたのだった。
この教会だけ塀に囲まれていて、厳重な感じである。

庭には発掘品と思しき品々が陳列されていた。

質素な入口をくぐって、振り返る。

幅4mほどの玄関間(ナルテックスとも。18世紀の増築)に壁画がど~んと広がっていた。

その一部に寄ってみる。上部中央の円の中にイエスがおり、最後の審判の場面が描かれている。

中に入ると、ここネセバルで見てきた教会の中で明らかに大きい。中心となる教会だったのだろう、至聖所が大きく区切られているし、柱の彫刻は豪華で、高い天井を埋め尽くすかのようにフレスコ画であふれている。

祭壇側から振り返る(Cちゃんにモザイクをかけた)。司教座と説教壇(18世紀制作)も堂々として立派。

左端はイエス、そのすぐ右はペテロ? とすると、題材はペテロの召命か【ガリラヤ湖畔を歩いていたイエスは、漁をしていたペテロ(シモン)とアンデレの兄弟に「私についてきなさい。あなたたちを人間をとる漁師にしよう」と声をかけた。彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った、と新約聖書にある】。

セバステの40人の殉教者【313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したが、共同支配者であるリキニウス帝はキリスト教徒を迫害。セバステの街(現アルメニア)でキリスト教徒であると告白した40人の兵士が拷問のすえ殉教した。石で打たれ歯を折られたうえに寒空の下で身ぐるみ剥がれて氷の張る池に放り込まれた。夜が明けた時わずかに生きている者もいたが、全員が灰になるまで焼かれたという壮絶な最期であった】。

この教会を出て南に少し進むと、これまたガイドブックに記載されていない廃教会があった。自分たちが気づかなかっただけで、他にもあるんだろうなぁ・・・

やおらお店に戻り、民族衣装風の刺繍をほどこしたTシャツをCちゃんが購入。お礼を言って店を出る。
この半島のメインストリート(メセンブリア通り)を西へ歩いていると、郵便局を発見。これ幸いと、切手をまとめ買いする。

かつてこの都市を守っていたゲートに向かって、下り坂になっている。両脇に並ぶ店を見まわしながらポストカードを探したが、ついぞ買えずじまい。いかんせん、時間がなかった

ゲートを出たすぐ脇がバスの乗降所である(ヴァルナ発のバスで私たちが降ろされた場所とは異なる)。その一角にある有料トイレを使用した後、14時半からバスを待った。が、一向にブルガス行きは来ない(今思うと、半島を出て別のバス停まで行かなければならなかったのだろう)。
そうして20分近く経った時、タクシーに乗らないかとドライバーが声をかけてきた。もはや迷う余地はなく、即決。
バス乗降所の隅に停まっていた車に近づくと、私たちに声をかけたドライバーに他のドライバーが何がしか言っていた。言葉は全く分からなかったが状況や雰囲気から察するに、抜け駆けしたことを非難したと思われる。文句を言ったドライバーのほうが先に来て客待ちしていたのだろう、来た順に客を乗せていくのがルールであるならば先を越すのはよくない。しかし、何本もバスを見送る私たちを見かねて声をかけてくれたドライバーに救われたのは間違いない。複雑な気持ちにならざるを得なかったが、観察してタイミングを見計らい行動するのが商才なのだと印象に残った。自分の生業は全く違うが、双方の祖父が商人の家に生まれ育ったゆえの雑感かもしれないが・・・

結局50分かかってブルガスに到着、40レヴァ(≒3,364円)だった。16時の発車まで20分に迫っていたことを思うと、綱渡りだったと今さらながらに思う。
シューメンと同様に単なる通過地点となってしまったブルガス【ヴァルナに次ぐ第4の都市で、黒海に面する。ブルガリア東部の交通の要衝】。
駅だけでもファインダーに残そうと歩きまわった。駅の外観。

木製の扉がクラシカル。

天上から下がっているモチーフ(画像右上)が美しい。

切符売り場。一瞬ひじ掛けと思ったモノは、列を仕切るチェーンポールの代わり

美しき2階のアーチ。ロシアもこんなだったなぁ・・・公共交通機関絡みの建造物のたたずまいに かつてこの国が共産主義だった名残りを感じる。

ブルガスは、首都ソフィアから東へ伸びる数多の鉄道路線の終着駅のひとつである。よって、車止めがある。

私たちが乗った列車はこちら。

比較的新しい車両で、内部は小綺麗だった。

8時にパンを食べた後に水分以外は口にしておらず、さすがに空腹を感じてスナックをつまむ。ブルガス駅の売店で入手したもので、1.6レヴァ(≒269円)。サンドイッチなどジャンキーでないものもあったが、夕食にさしつかえそうだったのでやめておいた。


ブルガスから西へ160㎞、カザンラクで途中下車。2時間45分経っていた。
カザンラク駅にて。画面中央奥がブルガス方面。夏なので、まもなく19時というのに明るい。

鉄道駅は町の中心となるセヴトポリス広場から直線距離で400m離れている。迷わないように大通り沿いに遠まわりし、ホテルまで10分かかった。
この旅の全てのホテルを検索・予約してくれたCちゃん曰く、ここが一番良いのだそうだ。
たしかにドアを開けると玄関のような空間があり、部屋全体が広々としていた。

ソファ(画像右端)もゆったりしている。窓が2方向(写っているの以外に、画像左端の外)にあって明るい。

バス&トイレは白く清潔だった。


口コミの良さげなレストランを調べ、19時半頃にホテルを出る。200mも離れていない近場にあった。
私たちが座ったのはテラス席。陽光まぶしき昼間は広げるのであろう日除けシェードは閉じられていた。

まずはビールでのどを潤す。暑い中を歩きまわった後の1杯はたまらなく良い
BECK’Sはてっきりブルガリアのだと思っていたが、今回調べてみてドイツ産しかもシェアの首位を争う銘柄と知った。だってビールに疎いし、ドイツを訪れてないし

夏野菜がてんこ盛りのバルカンサラダ。白いのはチーズ。卓上のビネガーやオイルを振りかけて食した。

画像右はケバプチェ【ブルガリア料理の定番。ひき肉をクミンや胡椒で味付けし棒状の細長い形にして炭火焼にしたもの。パン粉や卵・牛乳などを使用しないため、肉らしい食感が特徴。オスマン帝国が起源の料理で、帝国の支配拡大に伴いバルカン半島に広がり、同種の料理はこんにち中欧に至るまでの各国で見られる】。
どう見てもポテトフライの方が存在感大だけど

食後、セヴトポリス広場へ足を向ける。広場に面した小売店で水をゲットした際に、ヒマワリの種も購入。昨日からずっと車窓中がヒマワリ畑だったもんね、何に使うのか気になっていた。食用にもしているんだなぁ、興味深い これをつまみに、前夜に引き続きトラキア渓谷産の赤ワインを舐めた(さすがに1晩では空けることができず、栓をして運んできたのだった)。ヒマワリの種は素朴な味わい。ピーナッツやカシューナッツと比べると油分の含有量が少ないのだろう、淡白だがこれはまたこれでいい。

部屋の窓を開けると、ライトアップされた教会が闇に浮かび上がっていた。


★ 中締め ★

次回はカザンラクを観光した後、ブルガリア中部をまわります。日本で刊行されているガイドブック等ではあまり取り上げられていないスポットを巡り、紹介する予定です。
お楽しみに