poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

中国篇(4)

2021年02月14日 | アジア
大学時代の友人Cちゃんと飲んでいて、ゴールデンウィークを利用して旅に出ようと話がまとまった。短期間だから近場だね、行ってみたい所は?てな感じで、自分が土楼を挙げたところで福建省行きが決まった。
自身にとって4回目の中国訪問なので(4)としている。Cちゃんとは、上川島(2007年)、マカオ&香港(2009年)に次ぐ3度目の中国路になった。

実際には3都市を訪れたのだが、近距離ゆえ表示が重なってしまうので、上の地図では入出国地の厦門のみ示している。

1  成田 ⇒厦門 (2012年5月3日)

10時に飛び立った直行便は14時前に着陸。ホテルに荷物を置いた後、少しだけ市内観光へ出かけた。
で、やって来たのは市の中心から南東にある胡里山砲台【1891年から5年かけて完成。当時としては最高の性能を持つ大砲2門をドイツより購入、1門は現存】。
件のドイツ製大砲は、観光客がガッチリ写っている画像しかなかったので割愛
砲台から眺めた南方の海上。

木々の向こうに厦門市街が見える。


タイミングよく16時から海軍衛兵交代の儀式を見ることができた。
見物客で混みこみ・・・その多くは中国人のようだった。
この広場でひとしきりセレモニーを行なった後、赤・黄の両軍は客の合間を縫って階段をのぼって来た。

別の場所へ移動して第二の儀式の後、ようやく発射。
大砲・・・耳がちぎれるのではと思うくらい、とんでもない爆音だった 人生初なのは平和な国に生まれたおかげだろうな・・・


次は2㎞先の南普陀寺【10世紀創建の古刹】を目指す。
下は道中に撮ったもの。池の向こう側、近代的な建物は厦門大学。
傘にお気づきでしょうか。どんより曇っていたのが、ついに雨


南普陀寺は天王殿の屋根越しに望む五老峰。観光スポットという岩が見える。

境内で見かけたアレンジメント。左の方は一瞬クリスマスツリーに見えたけど、ここは仏教寺院、しかも5月だからなー
にしても、なぜここにあるんだろう

幅3m・高さ4mの天然の岩に金字で「佛」とある。

僧侶たちの法衣はカラシ色だった。


備忘録によると、この後18時過ぎに夕食をとったとあるが、画像がない
晩酌用に入手したワインの画像のみ残る。万里の長城というタイトルに魅かれて買った。ずいぶん甘い赤だった


1 厦門 ⇔永定 (2012年5月4日) 

土楼へのバスツアーはCちゃんが予約してくれていた。7時過ぎにタクシーでホテルを出発し、梧村バスターミナルへ。
鉄道の厦門駅に隣接しており、一帯は市街の中心部と思われた。近代的なビル群を思わずパシャリ


8時半にツアーがスタート。中国語が堪能なCちゃんは中国人観光客が閲覧するサイトを探してくれたので、私たち以外は中国人という状況。
エアコン効きすぎと思うほどバスの設備は整っており、3時間半のドライブは快適だった 
今日もあいにくの天気で、途中から雨が降り出した。着く頃には晴れてるといいなぁ~


トイレ休憩がてら団体客向けの土産物センターに立ち寄りつつ、正午に土楼へ到着。集合時刻まで3時間半、自由行動だった。
まず、ビューポイントから全体像を俯瞰することに。整備された階段をのぼっていく。
点在する円形や方形の土楼【土楼とは、王朝の交代により中原(黄河中流域)から落ち延びてきた漢民族(客家)が築き、同族のみが住むことを許された集合住宅。政敵・野獣・盗賊の襲撃から防衛するために守りの堅い構造になっていった。世界遺産に登録されている全46棟のうち、こちらの永定県高頭郷には4棟あり、高北土楼群と称される】。
ひときわ大きいのが「土楼王」の異名を持つ承啓楼(円形)。その左、木々に隠されつつあるのが世澤楼(方形)。


世澤楼1階・・・台所らしく鍋や壺が並んでいる【土楼の基本的な構造として1階が厨房、2階が倉庫、3階以上が居室】。

足を投げ出して昼寝中の犬。くうぅ~ 無防備なこの姿勢、たまらないなぁ


僑福楼の中庭には木が植えられていた。


近づくとその巨大さに圧倒される承啓楼【直径63m、400部屋を有し最盛期は800名住んでいたとも。現在暮らしているのは300名というが、出稼ぎ等で空けている人もおり実質その3分の1という。1709年建造】。守りを固めるために入口は1ヶ所のみ、外壁は約2mの厚さ、低層に窓は設けない。

その内部は四重になっている。最も外側が4階建て=①、その内円に円形土楼が2つあり=②③、中心部には祖先を祀る廟=④が鎮座する。
4階から下を覗き込むように撮影できればよかったのだが、チャンスに恵まれなかった(この記事を書くにあたり調べていたら、案内と称する住人にいくらか支払えば、階上に行って部屋の内部も見学させてもらえることを知った。なんなら宿泊もできるらしい、客家料理付きで
・・・というわけで、1階からの目線で撮った写真を載せる。少しでも構造を伝えることができればと願いつつ。
下の写真、最外周①とすぐ内側の楼②の間に立って撮影。

セオリーどおり①の1階で見かけた厨房。煤の跡が生活を感じさせる。

桂花酒に青梅酒 昼間にもかかわらず、思わず舌なめずり


内円部の様子。物置として使われているらしい楼の向こう側、さらに内側の楼の壁が見える。よく見ると、鳥籠がいくつも架かっている。


外から3つ目の楼③と廟④の間に立って撮影。

観光客向けにお茶を売っていた。ズラリと並ぶ細工絵、民族衣装が可愛い

こちらは絵を売っている。

承啓楼の中心、祖堂の内部はこんな感じ【この楼の先祖は煙草で財を成した江氏。隣の世澤楼、五雲楼も江一族によるもの】。


世澤楼(左)と五雲楼(右)は軒が重なるような近さ。

五雲楼の正面。この土楼群で最も古く、明代に建てられ500年経過している。

入口は多少手が入っているようだが、奥の屋根は苔むしている。

老朽化による倒壊を防ぐためか、鉄骨が張り巡らされている。茶色に塗っているのは雰囲気を損なわないための せめてもの配慮だろうか。

内部は趣があり、かなり好みだった

祖廟の人形も心なしか古めかしい気がする。


見学を終え、土産物屋をブラブラする。少しだけ高級な(といっても半両で25元≒350円の)紅茶をCちゃんと折半。
繊細な細工に感心し、ガラスの茶器も入手した(画像はこの記事を書くにあたり撮影したもの)。
かぶさっているフタを取ると中は入れ子の構造になっていて、内側に茶葉を入れてお湯を注ぐと、引っかき傷のような隙間からお茶が抽出される仕組みになっている。


15時半に永定を発った。帰路、車窓をボーッと眺めていると、えらく趣のある円形の土楼群が目に入った。うわぁ、じっくり見たいよぉ~ 私の心の叫びなど知らぬまま、バスは無慈悲に進んで行く 後で調べたら、先ほどの場所から10㎞ほど南の田螺坑土楼群のようだった【18世紀末以降の建築で新しめだが、方楼を4つの円楼が取り囲む景観は梅の花にたとえられ、フォトジェニックなためカレンダー等にも採用される人気スポットという】。ツアーだから仕方ない・・・楽だけど、自分の思うままにはいかない部分もある。そう自分に言い聞かせるしかなかった

18時に梧村バスターミナルへ帰着。余計な立ち寄りをしないせいか、復路のほうが1時間早かった。
バスターミナルからホテルへ歩きながら、途中でスーパーに寄り、夕食をとった。ビールに海鮮セットと備忘録に書いてあるが、画像がなくて残念。まさか旅ブログやるとは思いもよらなかったあの頃・・・と、いつもながらのつぶやき
晩酌のワインのみ記録しているのは前夜と同じ


1 鼓浪島 ⇒泉州 ⇒厦門 (2012年5月5日)

厦門の西南に位置する鼓浪(コロンス)島【アヘン戦争後に厦門を開港、20世紀初めに共同租界地となった厦門沖の小島(面積1.78㎢)には列強18ヵ国が進出したため、西洋建築が残り独特な景観を有する】。翌日訪れる予定になっていたが、思ったよりも早く支度してホテルを出ることができたので、下見がてら渡って2時間ほど過ごした。
日光岩へ向かう途上、さっそく出くわした洋館。厦門は都会ではあるけど近代的であって、こーいう建築は見かけなかった・・・やっぱり雰囲気違うなぁ。


日光岩はこの島最高峰(高さ92.7m、直径40m)のビュースポット、いつも観光客でギッシリらしい。
下の写真は屋根越しに望む日光岩(翌日に撮影)。

16世紀前半には山腹にあったという寺【当初は蓮花庵という尼寺で、17世紀半ばに日光寺と改名】。屋根の左奥に岩が写る。

対岸に霞む厦門のビル群。500mほどしか隔てていないだけあって、かなり近く感じる。


下山後、麓の鄭成功記念館に寄った。
恥ずかしながら、訪れる前は明の復興に奔走した遺臣、『国姓爺合戦』の主人公、くらいの知識しかなかった・・・
見学した結果、母親は日本人で平戸に生まれ7歳まで日本で暮らしていたことを知り、なんだか急に興味をそそられた。勝手な親近感
下の写真は、記念館を背景にする鄭成功の像。


港へ戻る途中に出会った行商の女性。天秤棒には果物が詰まっている。


フェリーで対岸に渡り、タクシーでバスターミナルへ向かう。前日もお世話になった梧村ふたたび。
この日のメインは泉州。土楼を訪れるべく厦門をゲートシティにすることが決まった後、Cちゃんがリクエストした。彼女は司馬氏の『街道をゆく』のファンなのだ
10時45分に出発したバスは1時間半で泉州に到着。
不勉強な私は、Cちゃんに連れられて歩くばかり。まず、バスで開元寺を目指す。
寺の周辺はまさに門前町、商店がズラリとひしめいていた。さすが、686年創建の古刹 
箒と思われる物体を肩に担いでいく男性が目に映った。


境内はとにかく広い。

金ピカの仏像よりも、その周辺の細かい装飾彫刻に目を奪われた。



素朴な彫刻・・・仏教界のロマネスクは言いすぎか それにしても、不思議な形の石塔だわ。インドっぽい
この記事を書くにあたり調べたら、12世紀半ばに奉献された宝篋印塔という【陀羅尼(如来の呪文)を収める塔で、これを拝むと罪が消滅し苦を逃れ長寿を得るとされる】。



このお寺の名物、ふたつの塔は泉州を代表する景観となっている。自分が撮った画像は逆光で良さが伝わらないので、代わりに入場券の写真を載せる。
いずれも45m超の高さだが、東の鎮国塔は西の仁寿塔より3mほど大きい【9世紀後半~10世紀前半に木塔として建立されたが、その後レンガ造りに変わり、最終的に八角五重の石塔となった】。

近づいてみても、自分の安デジカメでは望遠にも限界が かろうじて彫刻が写る。


14時前、開元寺の近くで遅い昼食をとった。地元民が利用するローカルな食堂で、Cちゃんは人懐こくお店の人に話しかけてオススメ料理を注文してくれた。
出てきた料理を見てアッと驚き、食べてみても驚愕 これはチャンポン麺ではないだろうか・・・
お店の方に料理名を書いてもらったら、「鹵麺」。19世紀末、日本の植民地となった台湾の対岸が福建省。チャンポンのルーツはこの辺りなのかもしれない、と尤もらしいことを思いながら帰国したのだった。
この記事を書くにあたり調べたら、日本でチャンポン麺を創出したとされる長崎の有名店のHPには、福州(=泉州の150㎞北東)出身の創業者が「湯肉絲麺」を参考にしたとある。
いっぽう、鹵麺は漳州(=前日に訪れた永定の近くで、泉州の100㎞西南西)の料理らしい。泉州・漳州・厦門の一帯は福建省南部沿岸地域として一括りにされ、閩南料理と分類されるようだ。
一方を食べたことがないので何とも言えないが、湯肉絲麺と鹵麺について描写する文を比較する限り、同一の料理ではなさそう。他方で、件の長崎の店より前にチャンポン麺を考案した店があったという説もあり、細かいことは謎だが・・・チャンポンは福建省で広く食されている麵料理に似ているということは実感できた。


お腹を満たした後、歩いて清浄寺へ【1009年、ダマスカスのイスラム礼拝堂をモデルに建立された、中国を代表するイスラム建築】。
この画像だけを見て、ここは中国と思い浮かべる人がどれほどいるだろうか。それほど独特の雰囲気が漂っていた。
海のシルクロードの起点として、7~14世紀にアラビアからも多くの貿易商人が集まって来ていた泉州の歴史を裏付ける。



お次はバスで海外交通史博物館へ向かう。
入口前には泉州湾から引き揚げられた木造船が展示されていた。

館内にはたくさんの墓碑が展示されていた。交易のために泉州にやって来て没した異国の人々の。
十字架・・・キリスト教徒なのだろう。面白い文字、何処の

諸外国の銭貨もあった。
手前は寛永通宝【1636年から発行。その前年から日本人の海外渡航は一切禁止となったので、このコインを泉州にもたらしたのは日本人ではなく、鎖国下の長崎で取り引きした中国商人だと思われる】。なお、奥の赤い布の上の壺・コインはスペインのものらしい。

琉球王国のコインもあった。


最後に、徒歩でイスラム教聖墓へ向かった。ゲートからしてしっかりイスラム風。

2基の墓はイスラム教の開祖ムハンマド在世中の7世紀前半、布教のため泉州を訪れた弟子のものという。中国における最古のイスラム教蹟である。
ザビエルの足跡を追っている私たちであるが、布教という一大使命のもとに未知の異国へ向かうのは宗教を問わずだなとしみじみ思った。
信仰を持たない自分には測り知ることができないその情熱


帰りのバスも1時間半で泉州に到着。スーパーで買い物した後、21時過ぎに海鮮豆腐・辛いキノコ炒め・紫菜炒飯の夕食をとった(これまた画像が残ってない)。
贅沢にタクシーを使ってホテルへ戻ったのが22時20分。一人旅ではこんなに遅くまで出歩くことはできない。同行者のいる旅のありがたさ

1 厦門 ⇔鼓浪島 ⇒成田 (2012年5月6日)

旅の最終日。午後早めの便で発つので、残された時間は正午までのきっかり半日。
パッキングして荷物をフロントに預け、前日と同じくバスで港⇒フェリーでコロンス島へ移動。
フェリー乗り場から南方面を振り向くと、鄭成功像が屹立していた。その視線の先には、彼自身がオランダを駆逐した台湾があるという。


前日は素通りした場所の街歩きを楽しむ。
天主堂は1917年、スペイン人の設計によりゴシック様式で建てられた。

お祈りしている人がいて内部の撮影は憚られたので、入口外からパシャリ。

ルルドの聖母 まさかね・・・


次は海天堂構【フィリピン華僑の黄氏が中国・スペイン融合様式で建てた3棟。1921年築】へ。
一番奥の建物から手前の2棟を望む。正面の入口は中国風、左右は西洋風、折衷のさまが面白い

内部は基本的に洋館なのだが・・・

観音様の頭上、天蓋は西洋の影響も感じる作風。


こちらの推しは、2種類のパフォーマンス【お昼を除いて1時間おきに上演、所要20分。それぞれ時間をずらしてあるので、片方を鑑賞した後すぐもう一方も楽しむことができる】。
まず、南音【泉州を起源とする室内楽。琵琶・三弦・洞簫・哨吶・拍板などの楽器を用い、閩南語で歌う。漢唐代~明清代までの古代音楽の要素を残し、現存最古の漢民族音楽のひとつとしてユネスコの無形文化遺産に登録されている】。撮影したのだが、演奏者がはっきり写っているため画像は割愛

2つめ、指人形は17世紀の泉州あるいは漳州に起源をもち、今日では台湾や東南アジアにも広く伝わっている。


海天堂構と入場券がセットになっていた黄榮遠堂へ【1920年築、華僑の別荘】。
そろそろタイムリミットが迫って来たので、外観撮影のみに終わってしまった


一応、旧日本領事館にも行ってみたのだが、観光地化されておらず敷地内には入れなかった。画像すら残していない・・・赤レンガ造りの建物だった。
ノンビリまわったからか、気づけば3時間も経過していた
11時35分にフェリーで島を発ち、港からタクシーでホテルへ戻り、荷物をピックアップ。なんとか時間を捻出して空港に滑りこんだ。セーフ

★ 終わりに ★

この記事を書くにあたり検索していたら、2017年にコロンス島が世界遺産に登録されたことを知った。それ以来、中国人観光客が押し寄せるようになり、島に渡るフェリーは予約なしではかなり待たされるらしい。港に着けば乗り放題だった頃が夢幻のよう・・・。観光スポットや土産物屋など、街並みも更ににぎわっていることだろう。

最後は、根拠のない戯言で締めたい。
念願だった土楼を訪れた際、非常にしっくりくるものがあった。ジメッとした高湿度の空気をまとった時、DNAが刺激されるのを感じた。昔から蒸し暑いのは得意、汗かきなのだが意に介さない。自分のルーツはこの辺りかもしれないと強く思った【永定付近の湿度は調べきれなかったが、厦門の4~5月の平均湿度は81%(東京の年間平均湿度が70%)】。
これまで各記事でたびたび言及してきたとおり、中国人に間違われる風貌の自分。現実にたどることのできる先祖は中四国地方までなのだが、遥か昔にさかのぼれば大陸に行き着くのかもしれない・・・そう信じていよう、国内外を問わず よりインスピレーションを感じる場所に巡り合うまでは

 おしまい 




























































































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