poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

韓国(2)篇 その2

2023年10月13日 | アジア
旅の後半スタートです。前半と同様に、下の地図の➊・➋をまわりました。その1と同じ地図なのですが、念のため再掲します。


2 慶州 (2019年8月28日)

この日どこへ行くかイマイチ心決まらぬまま、朝を迎えた。
そーいえば、朝食が何時からか聞いてなかったなぁ。6時に目が覚めたが二度寝。8時に起きてダイニングを遠望すると、欧米人客の姿を発見。だよね~ 
急いで着替えて部屋を出る。下の画像は、ダイニングの入口(撮影は翌日)。庭先に猫がいっぱいいた・・・飼っているのかなぁ


宿のおかみさんにハム・チーズ・トーストを焼いてもらい、卵は目玉焼きをリクエスト。ビュッフェになっている野菜と果物、飲み物を取って食べ始めた(下の画像、撮影は翌日。この日はカメラを部屋に置いてきた)。

すると、後からやって来た欧米人たちが自らキッチンに立ち、卵を焼き始めた。ん、セルフなの やっていただいて申し訳ない
さらにもう1組欧米人たちが入ってきたので、食べ終えて早々に席を立つことにする。先にいたカップルが食器を下げるだけでなく、洗っているぞ。そういうルールなのね、よ~し。今度こそキッチンに立つ。

部屋に戻ってから宿を出るまでムダに時間がかかった。理由は明白、行き先に迷いがあったから。
南山石仏群を見に行きたい。もともと日本で買ったガイドブックには南山の情報が少なかったのだが、こちらに来て入手した観光地図を見ると、予想したよりも時間がかかりそうなのである。そして、前日の観光案内所の係員たちのオススメしません的な様子も思い出された。
石仏群の見学ルートは複数あるのだが、自分が行きたい神仙庵や七石仏は最難関の山奥。時間も装備も不十分。
でも、そうそう海を越えられるわけじゃない・・・この機会に、せめて緩めのコースにでも行ってみるか。
いやいや、絶景を訪れずして行った気になるのは違う気がする・・・。かなりの深さの葛藤だった。
9時少し前に雨が降り始めて、ようやく心が決まった。南山をあきらめて、慶州市内観光に徹しようと。背中を押してくれた恵みの雨だった、私にとって。

市街から1.5㎞東の芬皇寺からまわることにして、バスに乗る。
そして、前日と同じ轍を踏んでしまう。「芬皇寺十字路」という手前の停留所で降りてしまった・・・
つくづく、リスニング(耳)と文字(目)は大事だと思う。韓国語のどちらもてんでダメな自分は、まぎらわしい停留所に易々と騙される
前日と違って、道なりに3分歩けばたどり着いたのが せめてもの救い
あ、看板・・・右から読むんだねぇ。

ここも灯篭だらけだ~
7世紀前半(善徳女王の時期)にさかのぼる古寺だが、中心街から少し離れただけで観光客はまばら。

石塔【かつて9層あったともいわれるが、元の侵攻と豊臣秀吉による朝鮮出兵で失われ、3層のみ残る。高さ9.3m、基壇は一辺13m・高さ1m強】。
四方の入口を飾る金剛力士像はいかにもな復元で全く味気ないが、四隅の獅子像は哀愁を帯びた風情で たたずんでいる。
ただし、作風が2体ずつで異なっている。以下2枚の画像で比較あれ。上のは丸くてアザラシのようなフォルム、下のはキリッとしている。丸いほうが古そうだな~
【この記事を書くにあたり調べたところ、東の2体は海からの敵を防ぐべくオットセイ、西の2体は北からの敵を防ぐべく獅子を模して制作されたと知った。たしかに、慶州から30㎞ほど東には日本海が広がる。無知で失礼しました】 

てか、日本の神社の狛犬にそっくりだよなぁ・・・前日、仏国寺の多宝塔のそれを見た時も思ったけど。

こちらもこの寺に残る数少ない遺構、三龍変魚井【伝説をもつ井戸。ここにはかつて国を守護する3匹の龍が住んでいたが、唐から来た者が龍を魚に変身させて連れ帰ってしまった。翌日そのことを龍の妻(2名の女性)が元聖王に訴えたため、王が龍を奪い返して井戸に戻したという】。


バス停は芬皇寺の真横にある。いかめしい正門よりも、素朴な脇口のほうが好みだなぁ

ほどなくしてやって来たバスに乗り込み、支払い箱に1,300ウォンを投入するとドライバーが首を振るので、400ウォン追加すると頷く。往きは1,300だったけどなぁ そういえば、前日に仏国寺や石窟庵まわった時も1,700だったり1,300だったりしたなぁ・・・
ともあれ、市街方面へ戻ること数分。目印となる看板を覚えたので、前日同様にピンポイントで最寄りバス停で下車することができた。
西へ500mほど進み、大陵苑へ向かう。前日の到着時、バスターミナルから宿へ向かう途中に横を通過したのだが、いよいよ入場である。
23基もの古墳が点在するだけあって、敷地は広大(41万㎡)。道はしっかり整備されている。

唯一内部が公開されている天馬塚めがけて、北西へ突き進む。

天馬塚の入口。

棺の周辺はガッチリと保護されている。宝物の実物は国立博物館にあり、ここのはレプリカらしいが雰囲気は充分。
左端の金のクツ・・・奈良は藤ノ木古墳(6世紀後半)であんなのが見つかったんだっけ。
画像左奥、ショーケース内には王冠。すべて純金というから凄い

上の画像の右上部分をズームアップ。

2つ上の画像の中央部をズームアップ。装飾品が絢爛豪華。ヒスイの勾玉は日本との交易の証らしい。ふむふむ。
【この記事を書くにあたり調べたところ、韓国でヒスイは産出せず、近い産地は日本またはミャンマーとなる】


来たのとは別の道を通ってみる。ピンクのは何の花だろう?

古墳が横並び。

真ん中のマーク・・・韓国の国旗に描かれているやつだ【正確には太極という。陽(赤)と陰(青)の相対する2つの気が混ざり合いながら永遠に調和を保つ、という中国古来の陰陽説に基づく】。

門をくぐってみると、味雛王のお墓だった。なんだかこれだけ厳重に守られてるな~
【この記事を書くにあたり調べたところ、苑内で被葬者が確定しているのはこれだけという。12世紀半ばの書物に 新羅13代の味雛王は在位27年で没し大陵に葬られたと記されていることから、この地は大陵苑と名付けられたらしい。また、14代の儒礼王の時に他国が侵攻した際、味雛王が危機を救ったという伝説もあるようで、敬愛されてるんだねぇ】


大陵苑を後にして、月精橋をめざす。前日の宿チェックイン時にオヤジさんが手作りの地図をくれて、ぜひにとオススメしてくれたのだった。
少し遠まわりになるが、観光スポットを経由しながら向かうことにした。まずは瞻星台【7世紀前半、善徳女王の時につくられた。高さ9m強。積み上げられた花崗岩の数361.5は陰暦の1年間の日数を表す。正方形の窓が1つ設けられており、梯子をかけて出入りした痕跡がある。その窓から入る陽光の長さで四季を区分したともいわれるが、天文台ではなく祭壇だったという説もある】。

周囲は公園のように整備されている。

コスモスも咲き始めていた。

次は鶏林に向かって南下。西に目を転じると、やはり古墳群。ここは古都なんだなぁとしみじみ思う。そして芬皇寺と同じく、メインの観光スポットからちょっと逸れただけで急に人が少なくなる。面白いな~

鶏林にあった廟。

中はこんな感じ(隙間から撮影)。この地にまつわる伝説がビッシリと記されているのだろう。
【鶏林; 新羅の王位を世襲した慶州金氏発祥の地。建国神話によると西暦65年、新羅4代脱解王の時に城の西方にある始林の中で何かがキラキラ輝いていた。その正体は木に掛かっていた金の櫃で、中には美しい男児が入っていた。王はその子を金閼智と名付け、またその木の下で鶏が鳴いていたことから始林を鶏林と改めた】


2018年12月発行のガイドブックには「工事中」と書かれていた月精橋。再建ほやほやで風情に乏しいと言ってしまえばそれまでだが、ベトナムはホイアンの来遠橋や(行ったことないけど)中国広西省の風雨橋を思い起こさせる。失われた橋は昔日さぞや趣があったことだろう。
【月精橋; 760年頃に木造で架けられ南山と王城周辺を結んでいたが、朝鮮国時代に失われた。長さ66.15m、幅13mで再建】

北側の入口から橋にあがる。

橋の上はこんな感じ。率直に、ものすごく涼しいことに驚く。実は瞻星台のあたりで雨は止んだのだが、汗ばむほど蒸し暑くなっていた。ところが、橋の上は風が通ってスーッとする。欄干の脇には座るスペースもあった。昔はここで暑さをしのいだのかもなぁ・・・

南側の入口。屋根には鴟尾【古代の建築で大棟の両端につけた飾り。鳥の尾または魚、沓に似た形。源流は中国漢代の反羽(両端の高さを上げる様式)で、晋代から両端に別物を取り付けるようになった。火災除けのまじないだったとされる。日本では奈良時代の途中から鬼瓦に移行、近世前後からはシャチホコへと変貌していった】。
ちなみに、前日訪れた石窟庵の屋根にもほどこされていたのだが、その時は気づかなかった

地図で確認し歩いて行けると考え、国立慶州博物館を目指す。校洞および仁旺洞の北にある道を東へ1㎞。全然悪路ではないが、完全なる裏道のようで・・・歩くは我ただ一人。
車はビュンビュン通り過ぎていく。振り返ってみると、先ほどの月精橋もいつしか遠くなっていた。

橋の下を流れていた南川は直角に湾曲して南へ流れていく。月城橋を渡れば、博物館はもうすぐそこ。

ひっそりとたたずむ鳥を発見。


ついに博物館にたどり着いた。バスや車でやってくる人々の反対側から登場
ありがたいことに大英博物館並みの無料 が、受付は形式上存在して、チケットを渡してくれる。そして国籍を聞かれる。外交関係が最悪な現下、居心地悪いのだがやむを得ない。日本と答えると、受付の方がマイクで"O.K!”と応じる。それにしても、なぜ どこの国から来館するのかデータを取ってるんだろうか・・・

敷地内には4つの建物があるのだが、敷地内の芝生に無造作に置かれている彫刻たちもスゴイ。さすが国立だなぁ、収蔵数ハンパないわ。

亀の台座・・・広島平和記念公園の韓国人原爆犠牲者慰霊碑をなんだか思い出した。この記事を書くにあたり調べたところ、死者の霊は亀の背中に乗り昇天すると考えるそうだ。ということは、これも慰霊のために制作されたのかもなぁ。

鐘も屋外展示。てか、石窟庵の駐車場にあった鐘と似てるなぁ・・・

優美な飛天の彫刻にウットリ 8世紀制作か、法隆寺金堂壁画とほぼ同時期だ・・・
【飛天; 空中を飛ぶ天人、多くは女性の姿で表されるため天女とも。エジプト及びメソポタミアで生まれ、西洋ではギリシャやローマで有翼の神々(ニケやキューピッドなど)に発展したが、東洋では翼を持たず天衣をまとうスタイルが完成。天の花を振り撒き、天の音楽を奏し、香を薫じて仏を讃える】


まず本館に入場。原始からの歴史が順に説明されている。
石包丁だぁ~

朝鮮式小銅鐸。日本の銅鐸の原型がこれだとはにわかに信じがたいほどのミニサイズ(ピンボケ画像しかなく、ごめんなさい)。
【日本の銅鐸の起源は、中国の銅鈴および朝鮮の小銅鐸と推定される。殷や周の青銅器文化がB.C.4~3世紀に朝鮮へ伝播し、高さ10~15cmで内部に舌(ぜつ)を下げ、身に触れて音を発する朝鮮式小銅鐸に発展。弥生時代中期までに日本へ伝わったが、高さが20cm前後で表面を精緻な文様で飾るなど当初から日本独自の特徴を有する銅鐸となる。それでも内部に舌を持ち音を鳴らす朝鮮式の名残りはあったが、次第に高さ1.3m超まで大型化し見る・飾る祭器へと変容していった】

須恵器ね~

動物をかたどったのもある、可愛い

おっ、土師器。

コミカルなモチーフで装飾された壺。

高さ数㎝、ずいぶんミニサイズの土偶。小さいのに、表情豊かにつくられてるわ~

踊ってる感じがする・・・

古代のものほど共通性が多く、日本の博物館にあったとしても違和感ないと思うような物ばかり。いかに同じく中国の影響を受けたか、そして日本と朝鮮半島が深く交流していたかを示しているんだわね。

モチーフの面白さ てか、これ土器なのかぁ・・・

色とりどりのガラス製品。

先ほど訪れた、天馬塚出土の本物。


鬼瓦【この記事を書くにあたり調べたところ、7世紀にはこのような蓮華文が一般的だったという(日本最古の鬼瓦は法隆寺の若草伽藍出土の蓮華文の)。正真正銘の鬼を意匠に用いるようになるのは8世紀以降らしい】。

あっ 前日来、慶州の街中でこれをデフォルメしたマークを見かけて気になってたんだよな~ そうか、鬼瓦だったか。ほんのり笑っているようにも見えるなぁ。

これはキテレツな獣文様。

孔雀のような一対の鳥。

これも瓦。解説がなければ、飛天とは分からなかったかも


第二の建物(特別展示館)には金の冠があって、その発掘物語の映像が流れていた。コンパクトだったこともあり、あっさり見終わった。
外に出て時計を見たら、1時間経っていた。まだ2分の1・・・
屋外の石塔を見に行った。他の場所にあったのを移築してきた、本物。
解説を読んで、慶州周辺ではお寺のシンボルは三重の石塔なのだと知った。木造は火災に弱いため、石造が発達したんだそうだ。このへんは日本と異なるな~

石塔の周辺にあった彫刻たち。金剛力士像か??

左手に水瓶もってる、そして十一面観音像っぽい大きな頭部だな~

ひと息入れようと、敷地内のコンビニ(セブン〇レブン)へ。ベンチに腰かけて、ブラックのミニ缶をすすった。


第三の建物は「美術館」と書かれていてだったが、入ってすぐ小躍り(心の中で)。仏像コレクションなのだった。
入口の目の前には、石窟庵のご本尊を取り巻いている天部や菩薩の立体拓本があった。現地では7m先だったから想像しかなかったけど、目の前にするとすごい迫力。

さらに奥へ進むと、石仏たち。この日の朝 足を運んだ芬皇寺や、我が憧れの南山地域から集められている。


こちらの陀羅尼経は、仏国寺の釈迦塔(記事「その1」で紹介。大雄殿の手前に多宝塔と並んで建つ)の中から出土したもののレプリカ。

10cm程の小仏像コーナーもあった。
法隆寺金堂の釈迦三尊像を彷彿とさせるような・・・(いまいちピンボケでごめんなさい

半跏思惟像が戴く王冠は平べったく、サイズは違えど広隆寺のそれを連想させる。

智拳印を結ぶ仏像。


ここから再び 通常サイズの彫刻。
瞑想するかのような表情に、端正な装飾が印象的。

上部は損傷しているものの、下部にほどこされた彫刻の細やかなこと

獅子像。

金剛力士像。「キ〇肉マン」に見えるのは気のせいか

鴟尾。東大寺大仏殿を思い出させる。

埴輪のような作風、何ともいえない造形がツボだった

頭部と両腕が失われている半跏思惟像。
この作品の解説を読むと、「南山の神仙庵の仏像群には半跏思惟像が刻まれており、新羅時代には一般的な表現だったと考えられる。」
この一文の前半 なんだってぇぇ~ あぁ、やっぱり登りたい。私を呼んでいる(気がする)


第四の建物には、1970年代の発掘調査時に雁鴨池から引き上げられた宝物が展示されていた。10世紀前半、新羅が滅亡する際に宮殿から投げ捨てられたモノたち。
金銅製の小さなレリーフ(壁掛け用らしい)が精緻。

ここにも飛天(左下)。


2時間はかかると予想していたが、見終えると3時間半の長居だった 時刻は17時前。
時間が余ったら行くつもりだった金廋信将軍墓は断念。十二神将像の実物(下の画像)は博物館内で見ることができたけど、現地にも足を運んでみたかったな~
日本最古の作例、新薬師寺のが8世紀。時期が近しいと思うんだよなぁ・・・次回訪問時の宿題かな。
精緻な彫刻も素晴らしいけど、石材がすごい。ツヤ光りしてるわぁ~


博物館を出て、来た道を戻り月精橋へ向かい、さらに北上。前日にフラれたレストランを目指す。一般的な夕食時間より早めだったが 混雑を避けるため、また1日2食の身としてはタイムリーでもあった。はたして、ガイドブック情報どおり通し営業で、難なく入れた
注文したのはゴンダルビ・ビビンパプ【ガイドブックによると、慶州市が名物にしようと推している料理らしい。ゴンダルビの和名はオタカラコウ、小さいフキのような野草。味噌(下の画像で、スプーン&箸の左にある)を入れて混ぜ合わせて食す。コチュジャンではない味噌を用いるのが特徴なんだとか】。下の画像、手前中央の大きな器の中、時計でいう12の位置に青菜、時計まわりで右の白いのが大根、その下は人参、その左は薄焼き卵、その上はキノコ、中央はひき肉。肝心のゴンダルビはそれらの下に敷かれている、遠目には海苔のように見えるブツである。日本で食べる石焼ビビンパには生卵が乗っかってるけど、違うんだね。面白い

ビビンパプ自体も野菜たっぷりだが、副菜もいっぱい付いていてテンション上がるわ
左下の白米で副菜を食べていたら、店員のお兄ちゃんが中央の器にお米を投入するんだよと教えてくれた。食べ方が分かってないと心配してくれたのね、優しい
混ぜ合わせる味噌は辛くなくて、自分の好みどストライクだった。来店できてよかったな

宿への帰り道、大陵苑入口前の土産物店に入った、絵ハガキを求めて。窓ガラス越しに見えたのはイラストハガキだったが、あれでもと思い足を踏み入れてみると、あった ものすご~く目立たない場所に雑に置かれていた。インスタの時代だからなぁ・・・ハガキ売れないのかね。そのうち見かけなくなるんじゃあなかろうか。エアメール・マニアとしては不安を感じずにはいられない ともあれ、慶州名所の写真ハガキ18枚入りを3,000ウォン(≒300円)で入手。14枚で4000ウォンだった石窟庵シリーズより なんなら安い。何事も粘りが肝心、心にかみしめながら意気揚々と宿へ。途中のコンビニで晩酌アルコールを買うことも勿論忘れない 
家路ならぬ宿路(?)を東へ急ぎつつ、南を臨むと点在する古墳たち・・・のんびり具合が奈良と通底する感じ。


部屋でハガキを書きながら暗くなるのを待ち、20時に宿を出て雁鴨池へ歩いて行く。道中は同じ目的の人たちでいっぱいで、全然危なさを感じない。暗くなったら外に出ないというmy旅ポリシー破っちゃってるけど・・・慶州は治安がいいから、全然O.K
途中、遠望した瞻星台。

たどり着いたら、完全に夜市だった。入場口付近は風船やらを売る屋台でにぎやか。しかも22時半閉館とは、30分延びてるし
【雁鴨池; 674年、朝鮮半島の三国統一前夜に築かれた、離宮に付属する人工池の遺構(周囲1.26㎞。また離宮とはいえ、王宮まで5分程の至近距離)。かつては月池といい貴族たちが舟遊びを楽しんだというが、新羅滅亡後は荒廃の一途をたどって鳥たちの水場となり、後世に雁鴨池と呼ばれるようになった。なお、いにしえの離宮(臨海殿)は新羅滅亡時に破壊され、こんにち眺めることができるのは再建された3つの楼閣】
人々の流れに逆らわず、フラッとまわった。オレンジ色のライトが遺構を浮かび上がらせる。下に広がる闇のような部分は池。
その美しき光景とは裏腹に、敷地内は人々であふれかえり、風情も何もなく・・・夜祭に来ている感じ。イベントだと割り切れば、そんなものかな~



最後、往きに一瞥した売店へ寄る。あっ、ココだ 慶州の観光名所敷地内にあるショップの中で最も品揃えが充実している。花瓶、香炉、マグカップ、マグネット、布バッグ、コースターなどなど・・・良質でちょっと高めのモノからバラマキ用のお土産まで、痒い所に手が届くラインナップ 今後、慶州へ出かける方々がいらっしゃったら、ぜひ足を運ばれるようオススメしたい。

宿へ戻りつつ、心は満ち足りていた。実はチェックイン時に宿のオヤジさんに勧められたけど、夜の外出が引っ掛かって前夜はパスした。でも、南山や金廋信将軍墓に行けなかったから、気が変わって足を延ばしたのだった。
夜景でよかったと思う。昼間見たなら、古びたもの好きな自分は整備した痕跡が気になってしまうだろう、きっと。闇が色々隠してくれて幻想的だった。昼間に博物館で見た、池から引き上げられた宝物を思い起こしながらまわったのも雰囲気をかきたててくれた。そして、この宿の立地だから夜に出入りできた。雁鴨池の北西数百m、片道10分ほどの距離。旧市街徒歩を重視して宿をセレクトして正解

この夜の晩酌は・・・

右のロング缶、ステキな慶州のイラストに魅かれて購入したのだが、美味しかった あと2種類あったので、再訪したら試したいな~



2・1 慶州 ⇒釜山 (⇒出国) (2019年8月29日)

前日のようなドタンバタンはなく、静かな朝だった。あまり泊まっていないのかと思いきや、自分が朝食を終える頃にどんどん人がダイニングへ集まってきた。
思ったよりも床を出たのが遅かったので、釜山での自由時間はあまり残されていない。翌日から仕事なのでやむなく早めの帰国便にしたのだが、まさに帰るだけとなりそうな最終日

チェックアウト時、まだダイニングには客人がいっぱいだった。部屋の鍵を持って、宿のおかみさんに近づく。荷物を預かるよと言ってくれたけど、もう発たねばならない。庭先まで送ってくれた彼女に韓国語で別れを告げた。“さようなら”に感激してくれた様子で、お花のシールを4枚くれて、さらにバス停へ向かう私を小路の角まで案内してくれた。
旅は一期一会だと思う。旧市街を存分に歩きまわりたかったから、ゲストハウスにした【大型ホテルは旧市街の東3㎞郊外、普門観光団地にしかない】。しかも、台風で7月の旅がキャンセルにならなかったら、別の所に泊まる予定だった。この宿を自分が訪れたのは巡り合わせだろう。





教えてもらった道を進むと、本当にすぐバス停に到着、時間は半分以下。バスターミナルへ向かう10番バスがほどなくやって来た。
財布の中には100ウォン硬貨が8枚。まず1,000ウォン札を入れ、コイン3枚の後に もっとかな?とドライバーを見ると、首を振る。このバスは1,300ウォンでいいようだ。う~ん、1,700ウォンのバスとの違いは何だろう??結局最後まで分からずじまいだった
【後でガイドブックをよく読むと、慶州の市内バスには一般バスと座席バスの2種類あり、前者が1,300ウォン、後者が1,700ウォンと判明。両者が混在する路線は限られているが、自分が利用した10番・11番はガッツリ該当していた・・・バスターミナルと旧市街間、そして旧市街と仏国寺間は要注意 また、旧市街ではなく普門観光団地(大型ホテル)に泊まったとしても、バスターミナル及び仏国寺へは10番・11番を利用することになるので、用心してくださいね
そして何となく「station」とつぶやいた私。すると、慶州駅近くに停まったところでバックミラー越しに私の姿を見て、ドライバーが"慶州station"と言ってくれた
自分の誤りにはたと気づき、立ち上がって“No,bus terminal."と言い直す。そしたら、高速バスターミナルで ここだぞ的にまた教えてくれたのだ。なんて親切 かなりゴツイ風貌のオヤジさんだったけど、見た目で判断しちゃダメだね。ありがとう。
実は市外バスターミナルで降りるつもりだった、往きに乗ってきて勝手知ったるため。が、せっかく気をきかせてもらったので予定変更、降りて高速バスに乗ることにする【両ターミナルは300mくらい離れている】。時刻は9時52分、なんと10時ジャスト出発のバスがあった。なんというナイスタイミング

高速バスは指定席。チケットに記された席へ座る。と、後から乗ってきた乗客がQRコードをスキャンしていた。そうなのか・・・見倣って自分もscan。するとバス前方に表示されている座席見取り図に色がつく。出発前、ドライバーはその図と座席を見比べていたから、スキャンが改札の代わりなんだねぇ。市外バスと高速バス、決定的な差はないけど細々とした流儀は違っていて。両方乗れて楽しかったな

時間ピッタリに出発したバスの車窓から景色を眺める。また必ず来るぞ、南山登るぞ絶対と念を込めつつ。
曇り空が広がっている。前日はこの時間にはもう降っていたが、今日はこれからなのだろうか・・・。いまの時期は雨がち? 登山には適さないのか? 天気の良い時期に再訪したい。思いを残しつつ、町を去る。

車内ではガイドブックをひっくり返しつつ、釜山での過ごし方を考えた。もともとの予定では、海の玄関口 国際港ターミナルに行ってみるつもりだった。が、そんな時間はない。到着時に見まわした感じでは空港にポストが見当たらなかったので、どこかの郵便局でハガキたちを投函したいと思った、せめて。空港への乗り継ぎが便利だし、繁華街をチラ見したい思いから西面へ(バスターミナルと直結している老圃駅から地下鉄1号線で15駅)。西面郵便局の建物の外に赤ポストを発見したが、差し入れ口にはハングル表示のみ。ガイドブック情報を信じて右側に差し込み、完了

西面から地下鉄2号線で8駅、沙上駅で軽電鉄に乗り継いで3駅、空港に到着。2時間前に間に合った。帰国便はJALにしたのだが、チェックインは1時間前まで可能だって~ まるで国内線並み。こーいうところが人気の所以だろうな、物理的にホントに近い
再両替の心配もなく、残ウォンはわずかになっていた。時刻は13時半、せっかくだから最後にローカルフードを楽しもうと食堂へ。
コムタンスープ麺【牛骨スープで煮込んだうどん】を注文。多すぎるほどのメニューの中から何となく選んだのだが、今回調べてみたところ定番というよりはアレンジ料理のようだった。豚骨スープほどの臭みはなく、舌の上に広がる甘い旨味・・・韓国料理、おいしいなぁ。辛くないのをセレクトさえすれば、かなり好みだなぁ(他国の記事で既報のとおり、辛すぎるのは身体が受け付けない自分


★ 終わりに ★

この旅に出発する日の朝、ソウルで日本人女性が髪を引っ張られて暴行されたというニュースがテレビから流れてきた。気にならなくもなかったが、自分が行くのはソウルじゃないし、と言い聞かせて入国した。その結果は、既にお伝えしてきた通りである。どれほど多くの韓国人に親切にしてもらったことか・・・
外交関係が最悪であっても、一介の旅行者にはいたって普通に接してくれて、不快とか恐怖だとか感じることは皆無だった。フレンドリーな人々に直接出会った自分は、草の根レベルでは決して関係はまずくないと感じた。
あれから数年が経過し、当時より両国関係は改善している。ホッ

南山石仏群にまみえるため、わりと近いうちに再訪する気満々で帰国したが、それから半年もしないうちにコロナ禍に陥った。この記事を書いている時点では野望が実現していないが、いつか韓国(3)篇をお届けしたいと思っている

 おしまい 




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