poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

スペイン(2)&ポルトガル篇 その1

2023年06月09日 | ヨーロッパ
久々にザビエルの足跡を追う旅シリーズ。大学時代の友人Cちゃんとともに、ザビエルの生誕地および異国伝道に旅立った地を訪れます。なお、スペインは1997年に続き2度目の訪問となるため(2)としています。旅の序盤、以下の地図中の➊~➍を訪れました。


1 バルセロナ (2008年8月4日)

前夜19時半、バルセロナに着陸。スペイン初日は空港からホテルまでタクシーで移動し、眠るだけのスケジュールだった。
遅い時刻のチェックインあるあるで、通されたのはボロ部屋。床板の一部が剝がれかかっているし、隣室の音がまる聞こえ いくら予約していたとはいえ、オンシーズンだもんなぁ・・・部屋があるだけマシか。
な~んて思いつつ床に入り、明け方4時半ころ眠りを覚まされる。外出から帰ってきたらしい隣室の人々が、なんと房事に突入 薄い壁が女性の息づかいを防ぐべくもなく、漏れ聞こえてくる・・・あちこち旅してきたけど、こんなのは初めて 運が悪かったと思うしかない。ゲンナリしながら目を閉じ、再び眠りに落ちた。

6時に起床、7時から朝食。会場へ行ってみると無人で、フロントに戻って"No hay gente.”と訴えると、伝えたいことが通じたようだった。が、スペイン語の返答を聞き取ることができず、そこはジェスチャーで補い・・・結局場所を勘違いしていたようで、右に曲がるとたどり着いた。ビュッフェは朝から生ハムまで並んでいて、さすがスペイン 果物にスモモまである。コンチネンタルは質素だろうと期待してなかったのもあり、ホテルの印象が急上昇

この日はバルセロナ市内を満喫する行程。泊まったホテルはカテドラルのほど近くにあり、地下鉄駅を目指す途次に見かけた、カタルーニャ自治政府庁脇の小路が素敵だった。




地下鉄の回数券を買い、3号線から5号線に乗り換えてサグラダ・ファミリア駅で下車。地上に上がるとすぐに聖堂が目に飛び込んできた。

Cちゃん共々楽しみにしていた聖堂へ、近づいていく。
【人々が犯した現世の罪をあがなうため、聖家族に捧げられた聖堂。1882年の着工翌年から31歳のガウディが中心となって建設、1926年の死没後も工事が続く】

東の生誕のファサードにズームしてパシャリ【1894年から約30年かけてガウディが完成させた】

扉の上部には、イエスを抱くマリア様と後ろから見守るヨセフの像。

マギの礼拝。

こちらはエジプト逃避


西の受難のファサードは一変して、現代的な表現【1986年から制作開始】。下段右端は十字架を背負い刑場まで歩かされるイエス、中央では聖女ヴェロニカが聖顔布を掲げている【十字架を背負わされてゴルゴタの丘へ歩む途次、額に汗するイエス。それを見かけたヴェロニカが差し出した布でイエスは汗を拭いた。彼女に返された布にはイエスの面影が写っていたという】。
てか、ダース・〇イダーみたいなローマ兵が面白い。言わずもがな、上段は磔刑。

イエスに接吻するイスカリオテのユダ。画像中央、16枚の数字パネルは縦・横・斜めに310通りの4つの数字が組めるが、4つの数字の総計は全て33(=イエスが没した年齢)になるという。

今なお建設が続くこの聖堂について、早く完成させないのかな、ガウディの死後に長々と造ったら異なる様式が入り込んで統一感がなくなるんじゃないのかなぁ、と思っていた自分。なんて浅はかだったんだろう・・・正統派な東ファサードと明らかにテイストが異なる西ファサードをあわせ見て、さまざまな様式を取り混ぜながらひとつの作品をつくりあげる面白さを理解した気がする。

いよいよ中に入る。

椰子の幹を模した柱が支える天井にはシュロの葉【めでたい植物とされ、祝い事に用いられた。イエスがエルサレムへ入城する際、歓迎する人々がその枝を振ったり道に敷いたりしたことで知られる】が表現されている。

塔の上にのぼり、街を見晴らす。左は、東のファサードの中央上部にしつらえられた木と鳩のモチーフ。9枚上の画像、赤いラインで囲んでいる部分がそれ。

眼下に建設中のパートを見下ろす。松ぼっくりを模している部分がカラフルで可愛い
ガウディは自然にあるものをモチーフにアレンジして、無機質な石と融合させ有機的な世界を表現しようとした。100年以上経って聖堂を形づくる石は古びた茶色に変じているが、彼のプランではグエル公園のように極彩色の外観が広がっているのだと思うと、興味深い。

塔を下りながら垣間見る。sacrificio(生贄)、oracion(祈り)とひっそり書かれている。

螺旋階段を上から覗くと、メッチャ芸術的~ ヴァチカンのと比べると断然シンプルだけど、これもいいなぁ

この聖堂で自分が最も気に入ったのはこちら。sanctus(聖なるかな)が書き散らされた尖塔。
神への篤い信仰を、空に向かって高く突き上げる塔に託す・・・目に見えない思いを形に表すことができるのを才能というのだ、そう思った時 ど素人ながらに今さらに、ガウディは天才だと思った。なんだか泣きそうだった。すばらしい作品に出合えたことに、自分がそれを目の前で見ていることに、天才は存在するのだということに、神に対する信仰とはこういうことなのだということに感じるものがあって、涙が目の縁までせり上がってきた。
吸い寄せられるように、いつまでも見ていたいと思った。抜群としか言いようがない聖堂。


再び地下鉄を乗り継ぎ、グエル公園へ【実業家グエル氏の要望により、19世紀イギリスの田園都市のような分譲住宅をイメージして1900年から建設をスタート。市場・学校を含む60棟をブルジョア向けに売る予定だったが、資金や規制等の面で問題を抱え3棟しか建たず、計画を公園に変更。グエル氏の死去(1918年)後、バルセロナ市庁が買い取って1922年から公開】。
小高い丘の上にあるためバルセロナ市街はおろか、地中海まで見晴らすことができる。

メルヘンチックな建物。

そこかしこが色鮮やかなタイルで彩られていた。


グラシア通りを南下しながら、その他のガウディ建築を愛でる。
カサ・ミラ【実業家ミラ氏の要望に応じて1906~1910年に建設。当時ミラ氏夫妻は3階に住み、他は賃貸であった。直線を全く用いず、波打つ曲線で表現するモデルニスモの典型。白い屋根はカタルーニャの雪山、突き出す煙突は峰を表現しているという】。

500mくらい南東にはカサ・バトリョ【実業家バトリョ氏の要望に応じて1904~1906年に増改築。当初は1877年の建造物を全壊して新築する予定だったが、ガウディがバトリョ氏を説得し増改築にとどめた。海がテーマで、廃棄物のガラスや陶器の破片が埋め込まれた外壁がきらめく様は海面のようだという。内部は海底を表現しており、窓ガラスは青色ベースになっている】。


備忘録によると、サンドイッチをパクつきレモン・フローズンを飲んだようだが、画像がない
軽食後、カタルーニャ広場脇のエル・コルテ・イング〇スでお買い物。こちらはデパートなのだが、地下がスーパーマーケットになっていて、旅人の心強い味方なのである。
吞み助の私たち二人は晩酌用のワインを物色、€2.75(≒480円)の赤フルボトルを入手。実はもっと安く€1(175円)程度のもあった(味が気がかりで、さすがに手を出せなかったが)。観光地では500㎖の水が€1.2~1.5だったので、ヨーロッパのワイン産国では水より安いってのが冗談じゃないんだと実感

一旦ホテルに戻り、1時間半ほど休憩。朝から日射し強烈で暑く、しかも明け方が既述の通りで寝不足気味だったため
18時、カテドラルへ向かう【4世紀にはこの地にキリスト教会(バシリカ)が建てられていたという。10世紀末にイスラム教徒に破壊された後、11世紀にロマネスク様式のカテドラルが建った。現存のは13世紀末に建築が始まり150年かかって完成、カタルーニャ・ゴシック様式。バルセロナの守護聖人エウラリア(4世紀、ディオクレティアヌス帝下の迫害により13歳で殉教した少女)が地下聖堂に眠る】。
陽が射す時刻だったら、ステンドグラスが映えたんだろうなぁ

高さがある天井。

黒いマリア像【バルセロナの北西50kmに位置するモンセラットのそれと並び称される。制作年は明らかではないが、素人の自分が画像を見比べた感じではモンセラットの方が古そうに見える】。

人気があるらしく、参拝者の捧げるロウソクが揺らめいていた。

次は、目と鼻の先の王の広場へ【旧王宮の一角にある。アメリカ「発見」の航海から戻ったコロンブスが、イサベル女王に謁見する際にのぼった階段が残る】。
今やすっかり憩いの場となっていた。


300mほど歩き、中央郵便局で切手を2枚ゲット。ポルトガルからも投函するため、控えめにしておいた。
このあと夕食をとったのだが、これまた画像がない。遠出せず、宿近くの通りすがりのレストランに入ったとうっすら記憶している。
メニューはカタルーニャ風サラダ、野菜のパエリア、生ビール(大)、Cちゃんと2人分でしめて€24.1(≒4,217円)。

1・2 バルセロナ ⇒パンプローナ (2008年8月5日)

この日は12時半発の列車でパンプローナへ移動することになっていた。
7時半に起床して出かけるつもりが、目覚まし時計が鳴ったにもかかわらず8時半まで寝坊。ん~ このあたり、2日前の晩が響いてるな
ホテルから数百m圏内のピカソ美術館へは開館10分前になんとかたどり着いたものの、並んでいて入場まで20分待たされる始末。
【1881年にスペイン南部のマラガに生まれたピカソは14歳でバルセロナに引っ越し、パリへ移るまでの数年間をこの地で過ごした。幼くして既に画才を発揮していたらしいが、この地の美術学校にも通ったという。ピカソ本人の要望で1963年に美術館がオープン】
館内では、お目当てだった「青の時代」の作品群の前で多くの時間を割いた。意外に印象に残ったのが、ベラスケスの作品"ラス・メニーナス”をデフォルメした連作。2日後にマドリードはプラド美術館でベラスケスにまみえる予定だったので、タイムリーだった 

ホテルで荷物をピックアップし、3㎞西の鉄道駅サンツを目指す。地下鉄を1度乗り換えて行くつもりだったが、5号線の乗り換え駅が廃止されていた そうとは知らずに地上へ出て探したりしたため、駅まで2㎞を残して発車時刻40分前に迫っていた 
頭を切り替え、大通りに出てタクシーを拾うことに成功。怪しげなスペイン語も通じたようで、発車20分前にサンツ駅へ到着。2人で€7.25は予定外の出費だったけど、とにかく間に合ってよかった、ふぅ 
乗車前にパシャリ(自分にモザイクをかけた)

昼食を買って乗る余裕はなかったが、食堂車にてサンドイッチとビールを入手。昼からアルコールなんて、いい身分だわぁ
車窓は赤茶けた大地に、背の低い緑の木、そして川。地図で確認するとエブロ川らしい。遥か西までつながっているようだ。飛行機だとすっ飛ばしてしまう光景を、鉄道が「点と線」にしてくれる。なんて贅沢な時間の過ごし方なんだろう・・・心が洗われていく

途中、列車の一部が切り離されて二方向に分かれる旨のアナウンスが入った。スペイン語はもちろんのこと英語の聞き取りもおぼつかないものだから、自分たちの乗っている車両が目的地へ向かうのか、とんと分からない。Cちゃんが “パンプローナ?パンプローナ?” と叫びながらホームを爆走し、駅員らしき人に確認する。どうやら大丈夫なようだった・・・
そんなこんなで18時41分、ナバラ地方の州都パンプローナへ到着。駅から宿へはタクシーを利用。

夕食は町の中心カスティーリョ広場にある、カフェ・イルーニャ【1888年創業の老舗で、小説『日はまた昇る』にも登場するという。アメリカ出身のヘミングウェイはこの地の牛追い祭をいたく気に入り、数回パンプローナへ足を運んだという。前出の小説は1926年に発表された、初の長編作品】へ。
備忘録によるとワインのかたわらガスパチョ【アンダルシア地方で生まれた冷製野菜スープ。トマトを中心に、玉ねぎ・きゅうり・ピーマンなどの野菜、ニンニク・パン・オリーブオイル・ワインビネガー・調味料・香辛料などをミキサーにかけてつくる。パンで粘度を出しつつ、暑い夏に野菜をたっぷり摂取できる料理】、ナバラ風マス料理【鱒に生ハムのスライスを詰めて、揚げる又は焼く。このナバラ地方の郷土料理】を食したようだが、これまた画像なし。ぜひともお伝えしたかった・・・ごめんなさい 
カフェの外観はこんな感じ(撮影は翌日)。


2・3 パンプローナ ⇔ハビエル (2008年8月6日)

この日はザビエルの生誕地ハビエルまで日帰り旅行【日本の教科書には“ザビエル”と書いてあるが、現代スペイン語ではJavier="ハビエル”となる。ちなみに、日本布教時に本人がXavierをイタリア風に読んで“サヴェーリョ”と名乗っていたため、ザビエルが定着したらしい】。
バスで向かうのだが、その前にサンフランシスコ広場へ。ザビエルの銅像がで~んと屹立していた。うつむき気味の頭部に、あろうことか鳥の糞が付着してたのが気の毒だったけど


ハビエルまでの直通バスは1日1便(平日のみ)のため、8㎞手前のサングエサ行きのバスに乗り、そこからタクシーで向かうことにした。
地図によると、プリンシペ・デ・ビアナ広場の西方にバスステーションがあるはずなのだが、全然見つからない。場所の見当が間違っているのかと、付近をウロウロしたが一向に見当たらない・・・。頭の中は???だらけ、焦るばかり
しばらくして、はたと地下の存在に思い至った。そう、バスステーションは質素かつ透明な地下入口の下に広がっていたのだった 下の画像、後方がその入口。


パンプローナの南東22㎞のサングエサへ向かう途上、車窓には丘の上に林立する風車・風車・風車 風が強い地域なのかなぁ・・・そして、エコなエネルギーに注力してるのかなぁ【この記事を書くにあたり調べたところ、スペインの再生可能エネルギー比率は48%。そのうち風力発電23%・水力発電12%・太陽光発電10%で、ダントツの1位だった(2021年)】
サングエサはこぢんまりした静かな町だったが、観光シーズンゆえか旅行者をちらほら見かけた。


ガイドブックに情報が皆無だったため不安だったが、サングエサの観光案内所の方はとても親切だった。タクシーを呼んでもらい、待つ間に付近をフラつく。
何はなくとも、目についた教会に足を運んでみる。

直通バスに乗っていれば、決して寄ることはなかっただろう。ガイドブック頼み且つ効率重視で旅していると、このように密やかな美しさを易々と見落として通り過ぎてゆくんだろうな・・・不自由なアクセスがもたらしてくれたひとときに感謝


ザビエルの生家、ハビエル城に到着。ナバラ王国の重臣貴族の家に生まれたからして・・・がっつり城なんだわな

さっそくザビエルのパネルに遭遇。

薔薇窓を持つファサードに近づく。

中はチャペルになっていた。祭壇にはやはりザビエル。

チャペルを外から見るとこんな感じ。

チャペルは独立している構造だったため、いったん外に出て城内へ向かう。下の画像、赤いラインで囲んだ所から入場した。

なんと、吊り橋になっている まるで物語の世界じゃん

天然の岩場を利用しながら建てられた城のようだ。

これは井戸だろうか・・・

面白い石畳。


城内は博物館になっている。まずは、ザビエルの生涯を説明するジオラマが広がる(全部を撮影しておらず、一部を載せる)。
このお城で誕生した場面。

パリ留学時代、イグナティウス・デ・ロヨラと語る。

異国伝道に召命される。

リスボンから喜望峰をまわる長~い航路の旅。

インドでの布教。ヒンドゥー教寺院の前っぽい。

1546年、ザビエルはマルク諸島のアンボン島からセラム島へ向かう途中で嵐に遭い、海に浸して祈っていた十字架を失ってしまった。なんとか海が静まり上陸したところ、蟹が十字架を運んできてくれたという伝説の場面。

日本到着後のザビエル。松の木とか城とか、しっかり雰囲気出てるなぁ


上川島にて病に伏すザビエル。


次は絵のコーナー。
保存状態がイマイチな水墨画風のこの絵、ザビエルの後方に座る人がちょんまげを結っているので、日本での様子を描いたと思われる。

絵の右上には文字も書かれていた。「神より愛されし人ありて その名を フランシスコと云う」と読める。
この絵を眺めていたら、欧米人観光客から英語で話しかけられた、「何と書いてあるの?」と。
直訳して、たしか"There is a man God loves,whose name is Francisco." と答えたように記憶している。私に尋ねた人達はうなずいているようだったが、伝わったかは定かではない そもそも自分が難なく聞き取れたということは英語が母語の方ではないんじゃないかなぁ・・・髪も瞳も黒くて、スペイン人っぽい風貌だった気がする。

こちらは、大名の前で説教するザビエル。


窓の外、北方に見ゆるはピレネー山脈か?

テラスに出て、別の方角を眺める。

再び館内に戻る。小礼拝堂の磔刑像を取り巻く黒い壁画には骸骨があふれ、世界観が独特・・・

敷地内に併設された売店で葉書などを買い求めた後、再びタクシーでサングエサへ。そこからバスに乗り継いでパンプローナへ戻ったのだった。

夕食をとるレストランを探して街をふらつく。カスティーリョ広場へやって来ると、Cちゃんは昨夜と同じお店でいいよと言う。その無欲さに唸りつつも、俗な私はせっかくだからと別のお店に引っ張っていったのだった。お店の名前は覚えていないが、前夜のお店の90°東で広場に面していた。
備忘録によると、ビールの中ジョッキを片手に豆&ベーコンと、ウサギ肉の煮込みを食したようだが画像はない ウサギはこれより前に日本のビストロで口にしたことがあり初めてではなかったが、クセがなく淡白な食べやすいお料理だった。知らされなければ気づかず、鶏肉あたりと勘違いしてしまいそうだった【フランスやスペインでウサギ肉はポピュラーだという。バレンシア地方ではパエリアに入れるらしい】。

この日入手したワインは、その名も「ハビエル城」 このナバラ地方ではロゼワインが名産なのだった。 
旅ブログやるなどゆめにも思わなかったこの頃、この南欧旅であまたのワインを飲みたおしながら、画像を残しているのはこれだけ。よっぽど嬉しかったのである


2・4 パンプローナ ⇒マドリード (⇒リスボン) (2008年8月7日)

この日はマドリードで日中を過ごした後、夜行列車で隣国ポルトガルはリスボンへ発つことになっていた。
タクシーでパンプローナ駅まで行き、まずはマドリード行きの列車をつかまえる。ホームにてパシャリ 6時45分発なのでまだ薄暗い。

車内から撮影。ピンボケの看板にご注目を パンプローナの下にイルーニャ(=バスク語でパンプローナの意)と並記されている。

ふとした車窓の建物が絵になるな~


3時間ほどでマドリード・アトーチャ駅に到着。近郊線に乗り換えて10分、チャマルティン駅に向かい、ロッカーに荷物を預ける。
いよいよのフリータイムは、Cちゃんのリクエストでプラド美術館へ【1819年に王立美術館として開館し、革命後の1868年に現在の呼称となった。スペイン絵画の他に、16~17世紀に領土であったフランドル(オランダ・ルクセンブルク・ベルギー)の絵画コレクションが充実している】。
印象派が好きだなぁ程度で絵画に疎い自分には未知のラインナップだったが、造詣の深いCちゃんの邪魔をしないようにつかず離れず、館内を見学した。初回のスペイン訪問時にトレドの教会でエル・グレコを見た記憶があったくらいで、恥ずかしながらベラスケスやボッシュをこの旅で初めて知ったのだった

この時ヨーロッパ初訪問だったCちゃんはテンション高く、美術館で実に7時間を過ごしてチャマルティン駅へ。
夜行列車ルシタニア号の食堂車前にて。なるほど、発車前にも食べることができるんだね~

扉の前にてパシャリ モザイクの形がいびつなのは、後ろを通りがかった人の顔も覆ったため。

22時45分に発車、おもむろに食堂車へ移動。ワイングラス片手に微笑む自分にモザイクをかけた。
日本では食事が出る列車に乗る機会に恵まれないので(人気だったり高価だったりで、手が出せないというべきか)、気分爆上げになるのを止められなかった


★ 中締め ★

旅の中盤では、リスボン近郊とポルトガルの地方都市を訪れます。
が、旅に出るまえ所持金を計算した際に間違えて少なく見積もっており(←宿泊研修の直後に、ほろ酔いでやったのが元凶)、旅行社に事前手配してもらった部分(ホテル・長距離列車など)は問題なかったものの、現地払いの手持ちが不足。予想外の節約旅になってしまう体たらく 
そんな続編ですが、お楽しみに
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