poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

インドネシア篇

2023年05月05日 | アジア
大学時代、インドネシア語を学んでいたαちゃんが旅先のジャワ島から絵葉書を送ってくれた。それ以来、いつか自分も旅してみたいとぼんやり思っていた。三大仏教遺跡のうち未踏のままだったボロブドゥールが気になっていたし、バリ島でヒンドゥー教文化に触れてみたくなった。そんなわけで、叔母(母の妹)を誘ってインドネシアへ飛ぶことにしたのだった。
現地5泊・足かけ7日間の旅で、下の地図中の1と2を訪れました。なお、近接しているためバリ島内の訪問地は1に、ジャワ島内のそれは2に集約しています。 


1 成田 ⇒デンパサール ⇒ヌサドゥア (2006年8月19日)

16時半に離陸した飛行機は23時をまわってバリ島に到着。日本人がインドネシアに入国するにはビザが必要なのだが、空港到着時にビザを取ることにした。事前に大使館へ手続きに行く手間を省きたかったのと、かつて1998年にネパールで同様にアライバルビザを取った際、あまりの簡便さに驚いたことを記憶していたためである。
が、当然ながら国が違えば状況が異なるのであって・・・複数の窓口がオープンし職員が対応しているにもかかわらず、相当な時間を要した。乾季のシーズンで観光客が多いのもあるだろうが、時間が時間だけに眠気をもよおしてきてしんどく、安易に判断した自分を恨めしく思った 

1・2 ヌサドゥア ⇒デンパサール ⇒ジョグジャカルタ ⇔プランバナン (2006年8月20日)

ゆっくりめに起きて、9時半にルームサービスの朝食をとった。
実は今回の旅、パッケージの個人旅行を利用した。バリ島でフリーに過ごしつつジャワ島に飛んでボロブドゥール観光もしたい、という自分のニーズにぴったりのを見つけたので。往復の航空券・現地のホテル・空港送迎はもちろんのこと、ジャワ島では食事やガイドもセットされていた。前夜のチェックインが遅いのを慮って、朝食はルームサービスという細やかな心遣いに脱帽 

ホテルロビーからの眺め。扉はなく壁は最小限で、海風が通り抜ける構造になっていることに驚いた。

しつらえられたプルメリアが南国感を高めてくれる。

ホテル内のtravel agentに足を運び、翌々日から3日間の車を手配してもらった。宿泊しているホテルは島内南部のヌサドゥアというリゾートエリアにあるのだが、訪れたい寺院等は島の中北部~東部までの広範囲に散らばっているため、車をチャーターする必要があった。

11時半、ホテルを出発して30分ほどで空港に到着。13時10分、600㎞西のジョグジャカルタへ向けて離陸。
1時間ほどで到着したが、ここで時刻が1時間戻る。ジャワ島とバリ島では時差があるのだった。横に細長い国なんだなーと実感。
ドライバーさん&ガイドさんとは難なく会えて、プランバナン寺院群へ向かう。北に10㎞ほど。
【9世紀、シャイレンドラ朝(仏教国)と古マタラム王国(ヒンドゥー教国)が拮抗しつつ繁栄した結果、プランバナンにはヒンドゥー教と仏教の寺院が5㎞四方に混在している。中でもロロ・ジョングラン寺院はヒンドゥー教の主神(シヴァ、ブラフマー、ヴィシュヌ)をそれぞれ祀る3つの神殿と、3つのヴァーハナ堂(主神の乗り物ナンディ(牡牛)・ハンザ(白馬)・ガルーダ(神鳥)を祀る)が林立し、遺跡群の中心をなす】
まずは最も西に位置するサンビ・サリ寺院へ【かつては火山灰の中に埋もれており、地表の数m下から発掘されたヒンドゥー教寺院】。
まるでジオラマのようなサイズに感じるのは、高い所から見下ろす格好で撮影したため

次に、ロロ・ジョングラン寺院へ。が、残念ながら外観のみの見学しかできず 
実はこの年5月27日に発生したジャワ島中部地震(震源はジョグジャカルタ南南西20㎞・深さ10㎞。マグニチュード6.3)による損傷が大きく、目下修復中だった。よって、遠景のみ載せる。一番右の神殿と2番目のそれの間にご注目あれ。神像(?)が90度傾き、倒れている・・・
一番高いのがシヴァ神殿。高さ47m、外壁には古代インド叙事詩ラーマーヤナをもとにしたレリーフが取り巻いているという。あぁ、見たかったよぉ・・・残念

見学を終えてホテルへ送り届けてもらい、チェックイン。
しばし部屋で休み、18時半に再びピックアップしてもらう。王宮の東方面にあるレストランで19時から夕食、その後 併設の屋外劇場に移動して20時からラーマーヤナ・バレエを観賞【8世紀初め、インドネシア最初のヒンドゥー王朝である古マタラム王国が都としたジョグジャカルタでは、中央ジャワの伝統芸能を楽しむことができる】。
撮影O.Kだったので何度も試みたのだが、シャッター速度が遅くて全然ダメだった・・・。実はこの旅でデジタルカメラ・デビューの自分だったが、面目躍如とはならなかった。家電量販店の店員さんに尋ねられた時、動くものはほとんど撮りませんって言っちゃったもんなぁ 
そんなわけで撮影を断念し、観ることに集中した。緩慢だけれども細かい手足の動きを見つめるうち、高校時代にタイ人留学生から教わったダンスをふと思い出した。文化祭のクラス出し物の一環とかで、ほんの少し習っただけだったが さほど遠くない距離の両国である。何がしか影響しあっているのだろうか・・・
開演から1時間経過したところで席を立った。ホテルまでは30分ほどだが、前夜が前夜だったうえに翌日は超早朝に起床せねばならず・・・パッケージに組み込まれたものとはいえ、舞台が盛り上がる中での撤退は苦渋の決断だった

2・1 ジョグジャカルタ ⇔ボロブドゥール ⇒デンパサール ⇒ヌサドゥア (2006年8月21日)

3時半に起床して4時にホテルを出発、25㎞西へ。ボロブドゥール遺跡の敷地内に唯一存在するホテル マノハラでしばし待機し、5時に遺跡へ向かう。
【ボロブドゥール; 8世紀後半~9世紀前半、シャイレンドラ朝により建立された。基壇の上に5つの方形壇、さらに3つの円壇を重ねた9層の構造で、計504体の仏像を配する巨大な曼荼羅といわれる。ムラピ山(標高3,000m弱の活火山)の噴火によって埋もれ、長らく存在を知られることはなかったが、1814年にこの地を支配していたイギリスの副総督により発見された】
所々ライトはあるものの、かなり暗い。ガイドさんに誘われるまま、高さ42mを誇る遺跡を登っていく。
下の画像は見学後に撮った遠景だが、説明の都合上 先に紹介する。

もう少し近寄ったら、こんな感じ。レリーフを伴う4層の回廊に取り囲まれている。


遺跡の頂上部にたどり着いてストゥーパに囲まれつつ、ひたすら日の出を待つ。

3段のストゥーパの向こう、朝もやが幻想的・・・

 ムラピ山のシルエットが赤みがかってきた・・・そろそろか

いよいよだ・・・

周囲を見まわすと、陽に照らされ明るくなってきている。

6時、ついに陽が昇った。なんて神々しいの


眼下の門まではっきりと見通せるようになった【回廊を上がるごとに設けられた門をくぐると、カーラ(鬼の形相をした守護神)がその人の罪を呑み込んでくれるという】。

頂上部を彩る3段のストゥーパの中には仏像が1体ずつ収められているのだが、覆いが失われてしまっているものもある。

ストゥーパの切り窓から仏像を覗く。ガイドブック情報では、切り窓から手を差し入れて仏像の右手薬指に触れることができたら幸福になれるとあったので、試してみて成功

仏像のお顔もひとつずつ異なっていた。篤い信仰心を以て丁寧に制作されたのだろう。
後方のストゥーパの切り窓にご注目あれ。正方形である。が、1~2枚上の画像のは菱形。実は、頂上部で3重の環状に並ぶストゥーパのうち、外側2層の切り窓は菱形、最も内側のそれは正方形になっている。曰く、菱形は俗人の不安定な心を、正方形は安定した賢者の心を表現しているという(なんだか洛北の源光庵みたいだなぁ・・・あっちは悟りが円形で、迷いが正方形だけど)。
最後方のひときわ大きなストゥーパがいわばラスボス。もはや窓はなく、完全なる悟りの世界。


往きは暗い中を一直線に頂上部まで進んだので、帰路はくだりながら回廊を見てまわった。
修復の手がそこそこ入っているが、仏教譚をモチーフとするレリーフが隙間なく続く。


回廊の途中にて。自分にモザイクをかけた。

第1回廊の上段はブッダの生涯を物語る「仏伝図」のレリーフである。その中の一場面がこれ。
マーヤー夫人(ブッダの母。カピラバストゥの王シュッドーダナの妃)が夢で白いゾウを見て、ブッダを受胎する場面。上部中央で横臥するのが夫人、白象は画像左上にいる。

回廊を見上げる。門の上に、8枚上の画像で言及したカーラが刻まれている。


7時半、見学を終えて朝寄ったホテル マノハラへ戻り、朝食をとる。
その後、遺跡の近くにある市場をブラつく。色鮮やかな野菜の中にど~んと積まれた唐辛子が目を引く。そう、インドネシア料理は基本的に辛いのだった(お料理の画像がなくて、説得力がイマイチだけど)。

巨大な木にビックリ


次はムンドゥッ寺院。遺跡から3㎞東へ向かう。
外観はこんな感じ。ガイドさんが撮ってくれた自分と叔母にモザイクをかけた【ボロブドゥールより少し前、8世紀半ば以降の建立】。

外壁には八大菩薩が彫り出されている。残念ながら頭部は失われているが・・・

入口に向かう左側壁には鬼子母神【1,000人の子を持ちながら、他人の子を取っては食い殺す悪女だった。ブッダが彼女の末子を隠して子の大切さを諭した後、仏教に帰依し出産・保育の守護神となった】。

堂内には3体の仏像がコの字型に鎮座していて、その中央にあるのがこちら【高さ3m、釈迦如来像。両手で転法輪印(説法印)を結ぶ。インドのグプタ様式の影響が見られるという】。両足を下ろす倚像は日本ではあまり作例がないので、興味深かった。そして、仏像の足元と内腿周辺に供えられたお花の素朴な美しさったら

それにしても、両脇の観音菩薩像と金剛手菩薩像をなぜ撮らなかったんだろう・・・あぁ、見る目の無さに凹むわ

昼食は世界有数の高級リゾートが運営するホテル、アマン〇ヲにて。1泊ウン十万円、こんな機会でもなければ足を踏み入れることはない。
11時に到着し昼食開始時間にはまだ早かったので、好奇心に駆られて敷地内をフラフラしていたら、いつのまにか宿泊者専用エリアに立ち入ってしまっていて・・・「すみませんが、ご遠慮ください」と丁重に注意されてしまった
こちらの宿はボロブドゥールの南3㎞に、遺跡を望むように建てられている。風通るテラス・レストランからの眺めがこちら。画像中央奥、ジャングルの向こうにストゥーパがちょこんとのぞいている。

いただいたのはフュージョン料理。味付けはエスニック寄りでインドネシアなのだが、お皿も含めて外見が完璧に洋風アレンジされていた。ホント、画像撮ってないのが悔やまれる

13時半、前夜泊まったホテルに戻ってしばし休息。早朝から動くスケジュールだったのでデイユースを設定してくれる、至れり尽くせり
15時過ぎ、ピックアップしてもらってバティック工房へ【バティック; ろうけつ染めの布。いまやインドネシア以外の国でも制作されるが、ジャワ島のものが特に優れており、2009年に世界無形文化遺産に登録された】。日本語で作り方を説明したプリントをもらった(裏写りしているのは、デモンストレーションしてもらった蝋引きのお花)。日本人客がよく訪れるんだろーな。

この日のうちにバリ島へ戻ることになっていたので、17時半に早めの夕食(これまた画像なし)。
19時55分発の便に搭乗するというのに、空港に着いたのはたった40分前だった。いかに国内線とはいえ、ちょっとヒヤッとした
ジョグジャカルタ市街から空港までは10㎞ほどしかないのだが、渋滞がすごかった 道幅に対して、交通量が多すぎるのだ。日本でいう奈良に匹敵する古都だもんなぁ・・・景観を壊すような大規模な道路整備ができないんだろうな
往きと同様に1時間余りでデンパサールに到着なのだが、ここで時刻が1時間進むため一挙に22時過ぎとなる。時差の重み・・・
23時10分前、前日にチェックアウトしたばかりのホテルに再度チェックイン。

なかなかハードな1日だったけど、個人で手配していたら これほど詰め込めなかっただろうから、やっぱりパッケージツアーを選んで正解
特に、ボロブドゥール遺跡のサンライズ・ツアーは超絶おすすめ 天気に恵まれ美しい朝陽を拝めたのもラッキーだったが、個人的には日の出を待つ1時間のあいだ眺めていた朝もやの景色が印象的だった この寺院が栄えていたころ 古の人々もこんな風にここから日の出を眺めたのかなぁ・・・
空想に耽っていると、夢幻のような光景の前に自分が存在していることの喜びが沸々と湧きあがってきて、静かに幸福感に満たされていった。
ホテル マノハラが主催しているツアーのようだが、私たちのように泊まらなくても利用することができる。遺跡の開門は6時なので、このツアーに参加しなければ遺跡の上から日の出を望むことはできない(自分のときは6時だったが、他の方々のブログを見たら5時半に昇ったと書かれているのもあった)。ボロブドゥールを何倍も堪能することができる、絶対に あと、意外に寒いので防寒着は必須(自分は長袖Tシャツ+パーカーでも身体が冷えた)

1 ヌサドゥア ⇒ウブド ⇒タナロット ⇒クタ ⇒ヌサドゥア (2006年8月22日)

この日は13時からエステを予約していた。9時にホテルを出て、40㎞北のウブドへ向かう。2日前に手配したドライバーのθさんは川〇慈英を少しふくよかにした感じの方だった。
10時半に到着し、モンキーフォレスト通りでウインドゥショッピングした後、ガイドブックで目星をつけていたお店で昼食 お店が推すアヤム・リチャリチャ【アヤム=鶏肉、リチャ=唐辛子。すりつぶした唐辛子・様々な香辛料入りのトマトソースで鶏肉を煮込んだ料理】とペペス・イカン【香辛料をまぶした魚をバナナの葉で包んで焼きあげた料理】を食べたのだが、これまた画像がない

エステはバリ島の魅力のひとつゆえ、スパも星の数ほどあって選ぶのに迷ったが、日本の資〇堂が運営する所に決めた。ウブド中心部から数㎞北西へ移動。
一歩足を踏み入れると、雰囲気抜群。なんだかカエルに見えてしまうんだけど、お供えが置かれているところを見るとヒンドゥー教絡みかな

1.8万㎡の敷地内に点在するヴィラのひとつに移動し、120分の施術を受けた。いくつかのコースから選ぶことができたので、ボディーマッサージをチョイス。
アユン渓谷からの風が吹き抜ける部屋に横たわり ほぐされているうち、気づいたら寝オチしていたといういつものパターンだった
施術後、水着に着替えて併設のプール・ジャグジーへ。内観だけの画像がなかったので、モザイクをかけて載せる。



乾かす手間を省こうと、髪を塗らしたりはしなかったのだが、何やかやと身支度に時間がかかり、スパを出たのは16時過ぎだった。3時間以上も滞在した計算になる。

次は、夕焼けが美しいといわれるタナロット寺院を目指し、20㎞南西へ。たっぷり1時間以上かかったが、サンセット前に無事たどり着くことができた。
【干潮時には陸続きとなる海辺の岩の上に建てられたヒンドゥー教寺院の歴史は16世紀にさかのぼるという。ジャワ島からやって来たヒンドゥー教の高僧ニラルタがこの景勝に感心し、海の神を祀らせたらしい】
時刻は17時50分、陽が傾き始めている。

異教徒は寺院に入れないので、遠くから眺めるほかない。ここでのベスト・ショットはこちら。
上空の雲がぶ厚い・・・ボロブドゥールで運を使い果たしたんだろーな

少し高い位置から見下ろす。自分たちが見ているあいだは終始陸続きだったが、次第に波が打ち寄せてきているのが分かる。夜半には海に浮かぶのだろう。

18時半、10数㎞南東のクタへ向かう。1時間で到着、大型免税店でショッピングを楽しんだ後、館内で夕食を済ませる。
ホテルに帰着したのは22時過ぎだった。

1 ヌサドゥア ⇒ブサキ寺院 ⇒スマラプラ ⇒ギャニャール ⇒ウブド ⇒スミニャック ⇒ヌサドゥア (2006年8月23日)

この日は島の東部をまわることにしていた。泊まっていたヌサドゥアから北東へ50㎞超、移動に時間がかかるため7時半にホテルを出発。
2時間半近くかかって、ブサキ寺院に到着【アグン山の中腹900mに位置する、バリ・ヒンドゥー教の総本山。8世紀初め、ジャワ島東部の高僧ルシ・マリカンディアが建立したと伝わる。16世紀、バリ島全土を支配するゲルゲル王朝の帰依を受けて以後、随一の寺格を持つようになった。シヴァ神をまつるプナタラン・アグン寺院を中心に、大小30の寺院から成る。こんにちインドネシアの9割がイスラム教徒だが、バリ島は例外的にヒンドゥー教徒が9割を占める。これは、16世紀以降にジャワ島のイスラーム化が進みマジャパイト王国(インドネシア最後のヒンドゥー教国)が衰えると、それを好まない人々がバリ島に移住し、ヒンドゥー色が強化されたという歴史に由来する】。
さすが、堂宇が林立している。晴れていれば後方にそびえるアグン山(標高3,014mの活火山。火の神が住む霊峰とされる)が見えるはずだったが、あいにくの天気だった

この寺院の中心をなすプナタラン・アグン寺院。

エキゾチックな割れ門【バリ・ヒンドゥー教の特色のひとつ。山に対する信仰心が篤く、それを2つに割った形の割れ門は邪悪なものを通さないため、人がここを通ると浄化されるという。また、神の世界に近づくという意味を持つ】・・・

1枚上の画像のとおり、階段に沿って彫刻が並ぶなか一番上にあるのがこちら(門に向かって左のほう)。

見かけたお供えをパシャリ

境内のそこかしこで何がしかのイベントが行われるようで、バリ人の参拝者でにぎわっていた【バリ人はまず家族寺(出身地や階級により先祖代々決まっている)にお参りした後、本殿たるプナタラン・アグン寺院に参拝するという】。


黒・白・黄・赤の傘もバリ・ヒンドゥー教の特色のひとつ。神を迎えるためのもので、黒=ヴィシュヌ、白・黄=シヴァ、赤=ブラフマーという。

これは神ではなく、人なのか?? ヒンドゥー教の知識が無さすぎて不明

手前の塔、何ともいえない形をしている。台座が亀に見えるのは気のせいか・・・

突き出す数多のメル【多重塔。バリ・ヒンドゥー教の特色のひとつ】のはるか向こうまで平原が広がっている。

供物を持って参拝にやって来た人々とすれ違う。バリの正装に身を包んでいる模様【女性(右)の上衣がクバヤ、ベルトのように巻いているのがスレンダン、男女とも下に穿いているのがサルン。男性(左の2名)が頭に巻くはウドゥン、上衣はサファリ、そして下半身を飾る布がサプッ(左の男性はクリーム色、真ん中の男性はオレンジ色)】。

レンガと石で造られた寺院も見かけた。


境内には他にもヴィシュヌ神とブラフマ神をまつる寺院などがあり、全てまわるなら相当の時間を要するのだが、ヒンドゥー教寺院の雰囲気に触れただけで満足した私たちは1時間ほどで辞去することにした。

10数㎞南南西のブキッ・ジャンブルへは30分ほどで到着。棚田を見ながら昼食をとった。


食後、7km南のスマラプラへ。
【14世紀半ば、ワルマデワ王朝(10世紀初め以降、バリを統一)がマジャパイト王国(ジャワ東部を拠点に勢力を誇ったヒンドゥー教国)に滅ぼされると、マジャパイト王国の傀儡であるゲルゲル王朝がバリ島に成立。既述の通り、16世紀以降にイスラム教勢力の拡大によりマジャパイト王国が衰えるとゲルゲル王朝の勢力が強まり、この王朝のもとで音楽・舞踊・美術などのバリ文化の基礎が築かれた。17世紀半ばのクーデターにより弱体化したゲルゲル王朝は、18世紀初めにスマラプラへ遷都。以後、各地の有力者が台頭してバリ島内に8つの王国が分立した。ゲルゲル王朝はそのうちのひとつ、クルンクン王国と称されるようになった】。
スマラプラ王宮敷地内にあるバレ・カンバン【宮殿。1940年代に、ゲルゲル王朝時代の王族の休憩所を復元】

天井にはビッシリとラーマーヤナの神話が描かれている。鮮やかな赤が目立つ彫像も。

次はクルタ・ゴサ【サンスクリット語で「裁判所」を意味する。王国時代、いわゆる最高裁判所として機能した】。こちらも天井画がすごいんである。


ただし、絵のテーマは先ほどのバレ・カンバンとは異なり、道徳心を喚起し罪を戒めるような地獄絵図が広がっている。こちらは生前に罪を犯した人が釜茹でにされる場面

あの椅子に腰かけて裁いたんだな・・・思わず想像してしまう。

椅子に近づいてみると、精緻な彫刻がほどこされている。褪せて尚この色彩・・・かつてはどんなに煌びやかだったことか。

王宮の敷地は四つ辻にあり、ロータリーには祠らしきものがあった。女性がお供えをしている。

道路をはさんで王宮の北にそそり立つププタン記念碑【19世紀後半からバリ島に侵入したオランダに最後まで抗い続けたクルンクン王国だが、1908年ついにその軍門に降った。ププタンは「壮絶な戦闘」の意で、最後の戦いに参加した兵たちを慰霊するモニュメントである】。


次は数㎞西のギャニャールへ。イカットを見たいという叔母のリクエストで、工房を見てまわった【イカット; インドネシア語で「縛る」「括る」の意味。13,500を超えるインドネシアの島々で独自の模様が継承されてきた、伝統的な手織布。括った部分には色が付かないため、たて糸をくくって染色した後に織る経絣、よこ糸をくくって染色した後に織る緯絣、両方の糸をくくるダブルイカットがある。特に、シルク地に金糸・銀糸を織り込んだのはソンケットという。正装として、冠婚葬祭などで着用】。この時に自分が購入したイカットは、現在もCちゃん家の電子オルガンの上でカバーとして役目を果たしている。

ギャニャールから北西へ10㎞、2回目のウブド。夕焼けに間に合わせるべく前日は時間切れ、心残りだったため再訪した。
ウブドの中心部にある王宮、サレン・アグン宮殿である【19世紀からこの地を支配するスカワティ王家の末裔が現在も暮らしているため、一部のみ公開】。

猿、かなぁ・・・

奥行きがすごい。

かつての建物はこんな感じだったんだね・・・

なんだか憎めない表情だなぁ ウドゥンを頭に巻いてるってことは、正装なのかな。
【この記事を書くにあたり調べたところ、白黒チェック柄の布はヒンドゥー教の哲学ルワ・ビネダ(2つの特性の調和とバランス)を反映しており、儀式の際に身に着ける聖なるものと判明。白=善または聖、黒=悪。この画像のは灰色との3色スダマラ(灰色=善悪のバランス)、他に赤との3色トリダトゥ(赤=アグレッシブでエネルギッシュな野心)もあるらしい】


17時20分、ウブドを出てホテルへ戻る途中、スミニャックにて夕食&散歩。
お目当てのレストランでナシチャンプル【ナシ=米、チャンプル=混ぜる。ご飯の周りに何種類もの総菜を盛り合わせる料理】を食したと思われるが、これまた画像なし
ホテルに帰着したら20時40分だった。

この日、車窓から不思議な行列を見かけた。ドライバーのθさんに尋ねると、ガベン(バリ・ヒンドゥー教のお葬式)だろうと。輪廻転生を信じる人々にとって、とても大切な儀式で盛大に執り行うんだそう。かなり費用がかかるため個人では難しく、何年かに一度 地域ぐるみで合同のガベンを催す。そのため、亡くなってすぐには焼かないことが多く、一旦お墓に埋めてガベン前に掘り起こして火葬するという。いずれも初耳なことばかり、死生観って本当に多種多様ね・・・。θさん曰く、我々が日本に到着する8月25日にウブドで盛大なガベンが行なわれるとのことだった。

1 ヌサドゥア ⇒スミニャック ⇒ブラタン湖 ⇒クロボカン ⇒クタ ⇒ジンバラン ⇒ヌサドゥア ⇒デンパサール ⇒(出国) (2006年8月24日)

この日深夜の便で出国することになっていた。連日遅くまで出ずっぱりでもなお欲望は果てしなく、6時に起床して7時半にホテルを出発。
前夜ホテルに送り届けてもらった際、朝の出発時刻を伝えたらドライバーのθさんは絶句していた。日本人はタフだなーと思われたかもしれない
部屋のある階の廊下から海を眺める。今日は天気良さそうだな~


宿から60㎞北に位置するウルン・ダヌ・ブラタン寺院へ向かう途中、前夜フラレたお店に寄ってもらった。アタ製品のみを扱っている【アタ=草。イグサに似た植物の茎を縦に裂いて編む。防虫のためにココナッツの皮で燻し、独特の色に仕上がる】。ティッシュペーパー・ボックスやランチョンマットには目もくれず、一目散にカゴバッグの元へ。様々なデザインの中から、店頭にたったひとつ置かれていたこちらを購入。どんなワンピースにも似合い、今なお夏のお供に大活躍してくれている 横幅30.5cm、奥行き13cm。

中はこんな感じ。イカットの布が貼ってある。


9時半、スミニャックを出て一路ブラタン湖へ。11時に到着。
バリを訪れようとガイドブックを読んだ時からひとめ惚れだったのだが、目の前に広がる景色は想像をはるかに超えていた。陽光を受けてきらめく湖畔にそびえるメル・・・
桃源郷もかくやと思われ、南部のリゾートエリア・緑を残しつつも観光地化が進むウブド・参拝者がひしめくブサキとは明らかに異なる、静かなバリがそこにあった。霧が出やすい土地柄ともいう。いまひとつ曇りがちだった前日に訪れていたら、見えるものは全然違っていただろう。天候に感謝

さらに絶景をお届けしたいところだが、なんと ここでまさかのデジカメ充電切れ デビュー戦ゆえ、どのくらいの頻度で充電すればよいのか、またどの程度バッテリーが残っていれば問題ないのか把握できていなかった そして、デジカメ購入の際に勧められながら替えのバッテリーを買わなかったことを激しく後悔したのだった(帰国後、ソッコーで買いに走った)。

昼食を済ませて12時半、湖を発った。後はホテルに向かって南下しながら、お買い物タイムに突入。最終日ならでは
1時間半かかって40km南のクロボカンに到着、家具屋へ。アジアの家具を配するインテリアに憧れていたのだが、ゆうに3mはある1枚板のダイニング・テーブルなどなど、わが矮小住宅には収まりきらない品々ばかり・・・ため息つきつつ去るほかなかった
次に、クタのショッピング・モール(2日前に足を運んだのとは異なる店舗)に入り、友人・知人へのお土産を最終調整。
さらに、5km南のジンバランにてお目当ての陶器屋さんへ。バリの風物をモチーフにしているのがツボで、以下の商品をゲット。
バナナの葉を模した深い緑色はエスニック料理だけでなく、どんな料理にも映える。カットした果物を載せるのが自分はお気に入り 長さ25cm、幅最大17cm。

同じくバナナの葉シリーズ。コーヒーや紅茶の横にお菓子等を載せられるソーサーが秀逸 ソーサーの長さ19.5cm、幅最大13.5cm。カップの直径7cm、高さ6.5cm。
ご存じのとおりアルコール好きの辛党でお菓子はめったに口にしない自分だが、友人が遊びに来た時用に購入。


最後は10㎞南東へ進み、17時前にホテルへ帰着。部屋に戻ってしばし休憩後、この日の戦利品を荷造り
19時、ホテル内のプール脇にあるレストランで海を見ながら、この国で最後となる食事(例によって画像なし・・・)
21時過ぎにホテルを出て空港へ。30分強で到着、23時55分に成田へ向けて離陸 到着は翌朝8時(日本時間)だった。

旅の最中から感じてはいたが、あらためて振り返ってみて相当精力的に行動したなと思う。それでもなおウルワトゥ寺院、ゴア・ガジャ、テガララン等あきらめざるを得なかった場所もあるが、朝から晩まで目一杯出歩いての結果なので、悔いはない。
あくまでも2006年当時の話になるが、空港ーヌサドゥア間のような幹線道路はスムーズなのだが、そこから外れた道を通るとなると距離のわりに時間を要した。島の中北部を訪れるというのに、南部リゾートエリアの中でも最も奥まっているヌサドゥアに泊まったのも移動時間増に拍車をかけた。個人旅行パッケージの中で選べるホテルが数か所に限定されていたのもあるが、そもそも自分たちのようにバリ島内を縦横無尽に動きまわるニーズを旅行社は想定していないのだろう。が、既述のとおりボロブドゥールとバリ島をセットにしたこのパッケージのおかげで、個人手配よりもはるかに効率的にまわることができた。満足至極

★ 終わりに ★

今回初めて登場した叔母は、土埃にまみれながら遺跡を巡るのが好きな人である。友人に誘われて出かけたネパール個人旅行の話を叔母から聞いたのは、自分が中学生か高校生の頃だった。1996年の北京短期留学以降 海外旅行に興味を抱き始めた自分と、仕事を辞めた叔母とのタイミングが合い、1998年のトルコを皮切りにカンボジア~タイ、インド(1回目)、ベトナム、ミャンマー、そしてこの記事のインドネシア・・・6回の旅を共にした。次第に母方の祖母の介護が必要となり叔母は旅から離れてゆき、私は一人で或いは友人と旅に出るようになっていった。英語がからきしの叔母は、私と一緒だから自由に個人旅行ができるのだと言っていたが、今思えば 個人旅行者として青かった自分に叔母が寄り添い、見守ってくれたのだと思う。そもそも私の英語力は叔母より少々マシという程度にすぎないし

叔母との他の旅道中についてもいずれ紹介したいと考えている。ただし、デジカメではなくネガ・フィルムで撮っているため処理が必要で・・・
いつになることやら
 おしまい 
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