poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

ヨルダン篇 その1

2021年12月03日 | アジア
前年のイスラエルの続編というべきか・・・死海をはさんで対岸のヨルダンへCちゃんと旅立つことになった。
6日間の旅を2つに分け、前半をその1とする。前半では①から入国し、➋~➎をまわりました。また、後の下線部の数字とも対応しています。


1・2・3 (アブダビ)⇒アンマン ⇒ウンム・アル・ラサース ⇒ペトラ (2013年12月25~26日)

21時20分発の夜便で出国だった。フラダンスのレッスンに出て踊り納めた後、一旦自宅へ戻ってパウスカート(3mの布を使用しており、かさばる)と汗だくのTシャツを置く。空港へ向かう列車の中で年賀状を書いて成田で投函するのがここ数年定着してきた
ギリギリの時間帯にチェックインしつつ搭乗前に夕食を済ませて、乗ってすぐに出された機内食は野菜のみ口にした。前回のモロッコの旅で不調に見舞われた原因を考えていて、珍しく夜便に乗ってガッツリ食べたのが一因かもと思い当たったので。とはいえ、ビールと白ワインはちゃっかり飲んだ(笑) だって、この後アルコールにありつけるのはいつになるやら分からない。事前のガイドブック情報によると、カラク~アカバ間では手に入らないと。3日目まで強制的に禁酒かも・・・
機内オーディオで映画を探したら『カサブランカ』を発見。日本語吹き替えは当然ないので、字幕なしの英語バージョン。セリフの大半は聞き取れなかったけど、脈絡で推測。ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマンの美男美女ぶりにウットリ 白黒フィルムだけど、陰影を活かしたカメラワークで、カラーに慣れた自分の目でもすごく分かりやすい。名作といわれるのはこういうことだろうか・・・
この作品中では、登場人物たちがワインを飲みまくる。舞台となる1940年のモロッコはフランス領だし、第二次大戦中にフランスから亡命してきた人々が集まるナイトクラブの経営者が主人公なので、当然の帰結なのかもしれないが。白黒映画のため判然とはしないが、白あり赤あり、そしてシャンパーニュもクープグラスで優雅に乾杯するのだ。こうなると、気になってくるのは銘柄。エチケットを凝視しようとしても、文字が読めるほど寄った映像はほぼ無し。唯一これはと思ったのは、エチケットの左上から右下に走るライン。G.H.MUMMじゃないのか 確証はなかったが、中継地の免税店で件の瓶を見つけてひとまず創業1827年と知り、メゾンは存在していたと確認。帰国後に調べたら、有名な映画に登場するワインをとりあげた本に出合った。やはり正解、マム・コルドン・ルージュだった、わ~い

成田を発ったエティ〇ド航空は、北京の上空を通りパキスタンとオマーンを越えてアブダビに着陸した。エ〇レーツ航空でドバイに飛ぶ時は、上海よりも南を通る。どちらが近いのか、あるいは同じくらいの距離なのか?? 
アブダビ空港はとてもコンパクトで、5時間とか長時間待ちは厳しそう・・・比べると、ドバイはすごいなぁ。半日くらいは飽きないように施設が充実している。たとえショッピングや飲食に興味がなくても、広大な空港を端から端まで歩くだけで相当時間を費やせる。

アンマンへは予定通り午前10時前に到着。成田発の機内では5~6時間ぶっ通しでしっかり眠ったのに、乗り継ぎ便でも眠りに落ちてしまい、眠気のピークに近いところで降機。かくして、ヨルダン初日は時差ボケでスタート
前夜に到着していたCちゃんとは現地集合。幾度も二人で旅してきたなか初めてのことで、空港で無事会えるかが第一の関門だったが、難なくクリア
スルーガイドとなるψさんもいて、2人で私を迎えてくれた。私を待つ間にψさんとすっかりうちとけた様子で、さらには空港まで乗ったタクシーのドライバーさんと旅の後半のdesert castle行きの値段交渉もしたそうだ。入国半日でCちゃんの旅は着実に前進している。

この日はモザイクが残る遺跡に立ち寄った後、ペトラまで移動することになっていた。
1時間ほどで50㎞ほど南のウンム・アル・ラサ―スへ到着【まるごと崩れ落ちて廃墟となった村には8世紀のモザイクが残り、世界遺産に登録されている】。
中をのぞき込むと、アーチが見える。家だろうか

入口上部の彫刻・・・写真で見たイスラエルはネゲヴ砂漠のに似ている気がする。

ここのメインは8世紀築の聖スティーブン教会のモザイク。保護のため、上部が覆われている。

右脇に置かれたブロックにも、ネゲヴ砂漠のに似ている彫刻が。

木や植物、鳥などのモチーフが広がる。角であどけない表情を浮かべるのは天使 ラッパを持っている。

もとの教会の形がかなり残っている。馬のモザイク、意外と珍しいかも。

あちらも一段高くなっている。

床一面に敷き詰められたモザイクを拡大すると、こんな感じ。手前はブドウとその蔓、最上段は(左に90度回転すると)周辺都市を表す建物、真ん中は魚や貝に舟・・・紺色のモザイクが素敵なアクセントになっている。

教会の外に出ると三連アーチ、けっこう大きい。

遠景はこんな感じ。廃墟の趣を残しつつ、所々に修復の手が加えられている。

2頭のヒョウが目立つ、落ち着いた色彩のモザイク。

奥の一段高い場所に先ほどの虎のモザイクがあった。
そして、こちらの入り口上部にもうっすら彫刻が。前年のイスラエル旅では日程の都合等もありネゲヴ砂漠を泣く泣く割愛したけど、死海をはさんで文化の共通性にほんの少し触れることができて幸せ


正午過ぎ、途中のドライブインらしき所でランチ。こちらのメゼ(前菜)は、左からホンモス【ひよこ豆をすりつぶし、タヒーナ(白ゴマのペースト)と合わせてニンニクなどで味付けしたペースト】、キュウリとトマトのサラダ、マッシュルームの和え物。

いくつかのメインの中から選んだのは、マンサフ【ルーツは遊牧民ベドウィンの料理。煮込んだ塊肉にソースをかけ、米とともに提供される】。先のモロッコでも感じたことだが、羊をよく食べる国は処理が上手くて臭みがない。絶妙なスパイス使いの肉に舌を巻きつつ、見慣れぬソースを味わう【当時は羊乳から作ったのかと思ったが、この記事を書くにあたり調べたら、肉のゆで汁とヨーグルトを混ぜたものと判明】。やや癖はあるが、珍味で美味しい。結果論にはなるが、この後マンサフに出合うことはなかったので、良い選択だった

併設の土産物屋では、ベドウィンテントを舞台にしたクリッペ【イエス誕生の再現ミニチュア】を見かけた。お国柄が反映されていて面白い。

色とりどりのデザイン・衣装で並ぶムスリム「こけし」も圧巻で、つい買ってしまった ちなみに、高さ10cm・幅2cm強のサイズ(この記事を書くにあたり撮影)。


15時半過ぎ、この日の宿ペトラに到着。ペトラ・バイ・ナイト【日没で追い出される遺跡も、週3回のライトアップイベントの時だけは夜間入場できる。12JD=約1,860円】が催行されると聞き、参加することにする。
空港ではとりあえずの金額しか両替しなかったので、明るいうちに両替屋を物色。しかし、思ったほどレートがよくない気がして断念。
20時半からのイベント前に、洗濯と夕食を済ませる。初日に洗濯というのもヘンな話だが、この旅で連泊はここだけなのでやむを得ない。
ホテルのビュッフェはまずまず ・・・と言いつつ、画像を撮ってなくてごめんなさい。
心配していたワインにあっさり遭遇 ZUMOT社のSt.George、酸味が少なく絶妙なバランス


メインゲートから1.5㎞ほど歩いてたどり着いたエル・ハズネの前には多くの観光客がいた。蝋燭がともる薄明りのなか、ベドウィンが民族音楽を奏でるショーが1時間。
普通のデジカメのためほぼ真っ暗だが、正面にうっすらエル・ハズネが・・・雰囲気だけでも感じ取ってもらえれば幸いです

帰り道、高さ数十mの岩と岩の間からのぞく満天の星空を見つめ、太古のナバテア人もこんな景色を見たのかな・・・物思いにふける。
上ばかり見ていると足元がおろそかになり、何の動物のだかよく分からないフンを踏みつけてしまった ホテルへ戻り、ヘアピンを使ってスニーカーの溝からブツをほじり出す。死海で髪の毛を留めるために持ってきたモノが、よもやこんな用途で活きてこようとは。トホホ
入国日に遅くまで観光という近年になく無謀なスケジュール。身体は正直なもので、猛烈な睡魔に襲われて22時半には床についた。Cちゃんを置き去りにして

3 ペトラ (2013年12月27日)

この日はじっくりペトラ遺跡をまわった。とにかく歩いて登って下った1日だった。
8時の集合に数分遅れてやって来た現地ガイドとともにホテルを出発。前夜は暗くて何が何だかよく分からなかった道を行く。シークまでの道はきっちり整備されている。

馬に乗る人とすれ違う。

よ~く見ると、岩に文字が刻まれている。

オベリスクの墓。

入場ゲートから500mほどで、シーク【岩の裂け目が連なる峡谷】に到着。ここからは、岩の隙間を縫うように進んで行く。

道中、岩壁の所々に彫刻が施されていた。

馬車と行き交う。

岩を彫り出した像のテーマは「ラクダを引く隊商」。人物の足元だけ残されているのは、偶像崇拝を嫌ってのことだろうか。

1㎞歩いて、いよいよ遺跡内部に到着。シークから垣間見るエル・ハズネの美しいこと


前夜のライトアップ・ショーはこの前で行われた。ペトラ遺跡の玄関にしてメインスポット、観光客やラクダでごった返している。
エル・ハズネ=宝物館と呼ばれるのは、入口上部の壺の中に宝物があるのではという伝説からで、実際のところは霊廟らしい。高さ43m、幅30m。

近づいて、見上げてみた。それにしても、匂いたつような美しい色 陽光の加減で1日に50通りの薔薇色に変化するというのも、あながち誇張ではないかも。
ちなみに、中には入ることができない。昔は入れたようだが・・・悲しい

ロバ・ステーション。

こちらはラクダ・ステーション。

別の角度からエル・ハズネをパシャリ

ファサード通りを西へ、遺跡の奥へ向かう。途中、ベドウィンの楽器を弾く祖父と孫(?)を見かけた。

500mほど進むと、開けた場所に出た。

こちらは円形劇場【ローマ帝国支配下の時代に築造、5,000人収容】。

おびただしい数の柱が目立つ大寺院。

たまには来た道を振り返ってみなくちゃね

しっかり残る壁が目を引くカスール・アル・ビント。

ガイドさんとはここでお別れ。2時間ほどのビジネスライクな案内だった。別れ際、最奥のエド・ディルへはロバで登るかと聞かれた。歩くと言ったら一瞬絶句していたが、乗ると答えていたら海千山千のロバ引きたちとたぶん交渉してくれたのだろう。
私たちは数百m戻る形で、モザイク目当てにビザンチン教会へ。
右には植物と鳥。そして左は・・・前日にウンム・アル・ラサ―スで見かけたのと似ている。円形に模様を彫り出すのはナバテア彫刻の特徴だろうか・・・

床に広がるモザイクには動物や人物が大らかに描き出されている。

と、ここで事件発生。デジカメの充電切れが発覚 だって、昨夜はフル表示だったじゃ~ん・・・とグチったところで後の祭 
ここから先の半日は自分が撮った画像は皆無なのだが、この記事を書くにあたりCちゃんに相談したら、気前よく画像を使っていいよと言ってくれた。
というわけで、この日の残りは全てCちゃんが撮った画像と共にお送りします
こちらはビザンチン教会に残る柱頭。


昼食にはまだ時間があり、その前に犠牲祭壇かエド・ディルのどちらへ行くか迷ったが、キツイほうを先に済ませたいと自分が押し切り、エド・ディルへ向かった。
北に分岐する道のところで「歩くと1時間、ロバだと20分」と言われたが、実際は30分ほどでたどり着いた。確かに人より速いペースだったとは思うが、1時間というのはロバに乗せるための方便なんだろうなぁ 
こちらがペトラの奥の院(?)、標高1,000mの地に忽然と現れるエド・ディル【ナバテア人が建てた神殿。ディル=修道院の謂れは、ローマ帝国時代にこの周辺に修道士がいたことから】。

ガイドさんが言っていたとおり、こちらは静かでエル・ハズネの喧騒がウソのよう。見た感じ、ここまでやって来る人は10%くらいだろうか。
エド・ディルを正面に眺めるカフェで、ザクロ生絞りジュースを飲む。エグみはあるものの酸味が心地よく、乾燥した喉に沁みわたる。日頃ザクロを口にすることはほぼないが、土地のものが合うのは自然の摂理だろうか・・・15分ほど休憩していると、身体が若干冷えてきた。日射しはキツイが、日陰は涼しいのだ。
なお、このカフェには猫がたくさんいた。こちらは自分の足元にやってきた仔。犬はともかくとして猫に好かれる自信はないのだが、人に馴れているのだろう。

根が生えそうになり、慌てて重い腰を上げる。ビュー・ポイントを目指さねば。内部をチラリとのぞくと、派手なファサードに比して中は驚くほどシンプル。

角度によって見え方も変わる。ちなみにエル・ハズネよりもやや大きく、高さは大差ないが幅は50mある。

途中で出会った動物たちはお休み中だった。あぁ、身体を横たえる犬の愛らしさったら

山の向こうにまた黄色い山が覗く。そして、へばりつくような木の生え方が高地。

ずいぶん登ってきた感がある。

ヤギの群れに遭遇。

なんて恐ろしい崖っぷちにいるの、ロバさん。


のんびり下ってきて、13時にランチ。ホテル系列という遺跡内レストランのビュッフェは美味。例によって画像はないのだが
ここで赤ワインMt.Neboに初めて出合う。ペロニーリョ(罪人のさらし柱)のような独特のエチケットにテンション 前日味わったSt.Georgeよりも、ずっしりと重い味わい。
フルボトルをCちゃんと仲良く分けて、ペトラ巡りの後半はほろ酔いで。うっすら気持ちよくなりながら遺跡をさまよう、これぞholiday

青空に堂々とそびえる凱旋門。

柱廊通りを東下し、王家の墓ゾーンへ。
まずは、えもいわれぬ岩肌を持つシルクの墓。

正面がコリンティアンの墓。

壁面に彫られた階段彫刻にご注目あれ。ナバテア人は死者の魂がこの階段を歩いて天に昇ると信じていたという。

こちらは宮殿の墓。王家の墓群の中では最大規模で、コリント式の柱彫刻が特徴。


最後に犠牲祭壇へ向かう。意外に登りがキツイ・・・ワインが効いているのだろう
英訳がHigh Place of Sacrificeというだけあって、かなり高所にある。儀式をおこなう特別な場所として区分されていたのだろうか。
画像右の壁の残骸は祭司の住宅跡という。

真ん中の尖っているのはオベリスク。

画像右上に見えるのがワディ・ムーサの町【ペトラから3㎞ほど東にあり、遺跡を訪れる人々が滞在するホテルが集まるエリア】。
モザイクがかかっているのは体育座りで放心している私。Cちゃんが撮ってくれていた

下山中、凄腕のムスリム少女に遭遇した。これは途中の画像で、この後ロバの背に直立した彼女はかなり長い時間その姿勢を保っていた。marvellous
ちなみに、画像右下に見切れているのがファサード通り。犠牲祭壇までの道のりの高低差を感じていただければ幸いである。


帰り道、宮殿の墓からエル・ハズネまで驢馬に乗った観光客がロバ引きとモメていた。シークの終点までかと思ったら、こんな短距離であの値段か!というトラブルらしい。
モロッコでラクダは経験済みの自分、愛らしいロバに乗ってみたいと思わなくもなかったが、面倒そうだった。ここペトラに限っていえば、ラクダより馬よりとにかく圧倒的にロバ引きが多く、客を奪い合っている。正直、巻き込まれたくない感じ
ちなみにペトラ遺跡の入場券には、入場ゲート~シーク入口までの片道horse rideの権利が含まれている。上り道になる復路で利用するつもりだったが、馬引きに渡すチップの額でモメそうだねとCちゃんと話し合い、権利を放棄し歩き通した。こうして、ヨルダンでは動物の背に乗ることなく旅が終了するのだった。

3・4・5 ペトラ ⇒アカバ ⇒ワディ・ラム (2013年12月28日)

この日は、ヨルダン最南部といっても過言ではない場所に泊まることになっていた。
8時にホテルを発って、ペトラ遺跡を構成する岩山群を眼下に見晴らす丘へ。前日に見上げていたような高所に立つのはなんだか不思議な感じがした。


100㎞南南西のアカバへは2時間弱で到着。ヨルダンで唯一 海に面する都市、貿易が盛んだからか 途中で検問所を通過した。
10㎞対岸というイスラエルはエイラットの町がはっきり見える。夜景も綺麗なんだろーなぁ・・・
自分にとっては初めての紅海。

平均気温20℃と温暖なため、リゾート地として国内外の人々でにぎわうという。美しい海なのだろう、グラスボートが構えており、その向こうにはビーチパラソルが並んでいる。


持ち金がわずかになっていた私たちは、まず両替所を探す。結果的にはペトラと同じレート・・・何のこっちゃ というか、旅の後半にマダバで両替した際も大して違いはなかった。自分が旅した範囲では、場所によるレートの良し悪しはさほどないと感じた。
今夜泊まる砂漠にアルコールは無いものと予想し、ここで入手する気満々だった。と、労せずして両替所の向かい側にliquor shopを見つけた。
決して広い店ではないのだが、品ぞろえは豊富 結局ここ以外ではお目にかかれなかったMt.Neboのロゼもあった。値段はハーフボトルが4.5JD(=約700円)、フルボトルが8JD(=約1,200円)。レストランではフルが11~13JDだったことを思うと、やはり安い。しかしまだ旅の先行きは長いため持ち歩くのは見送り、砂漠の一夜の1本だけ購入。Jordan Riverという赤。画像がなくてごめんなさい
ちなみにその夜の宿はワインを置いていたので、持ち込み料10JDを支払うことになり、結局レストラン価格よりも割高になってしまった。が、砂漠の宿にアルコールありと期待して買わないでおく勇気はないので、やむを得ない出費かな
片付けるべき用事を終え、ようやく観光。町の南外れにあるアカバ要塞へ向かったが、あいにく閉まっていた【入口上部の紋章は、イギリス&アラブ軍がオスマン軍を追い払った後、ヨルダン王家によって掲げられたという】。

隣りの考古学博物館に入ったところ、要塞を遠望することができた。

博物館で出会ったヨルダン人と思われる女児(6~7歳?)に、フィリピン人かと質問された。アジア人は皆同じように見えるんだなぁ~ 旅先あるあるだわ。

滞在1.5時間でアカバを去り、数十㎞東のワディ・ラムへ。ヨルダンを訪れると話したCちゃんに、旅好きの友人が是非にと薦めてくれたのがここ。
宿名がcampとなっていたのでテントを予想していたら、通されたのは簡素なバンガロー(例によって、画像なしでごめんなさい)。
敷地内にはテントもあり、泊まっているらしき勇士もいたけど、バス・トイレは無さそうだし、この時期は寒いんじゃなかろーか・・・


一旦チェック・インした後、スルーガイドのψさんとは別のガイドさんと待ち合わせ、4WD車に乗り換えて砂漠見学へ。
英語があまり得意ではないというガイドさんは独特の衣装を身にまとっていた。詰襟のワンピース状の長衣の下に、ゆったりとしたズボンを合わせた格好。
12時半過ぎ、砂漠内のレストランで昼食。画像奥、屋根のある所へ通された。

まずはメゼ(前菜)。どんな時も野菜が出てくるのが嬉しい。

メインはスパイスの効いた炊き込みご飯にラム肉。このラムも臭みゼロ、本当に美味しい。いつもの自分なら多いと思う肉の量だが、お腹が空いていて全部食べられると思った。
が、敢えて残したのは数ヶ月前のモロッコの記憶がよみがえったため。乾燥した気候にスパイシーなお料理、状況が似すぎていやしないか 同じ轍は踏むまいと、懐疑的な私。まだ旅の中盤、体をいたわることにしよう。


そそり立つ急峻な岩。

最初に訪れたのは、水が湧き出している“ロレンスの泉”。ラクダが水飲み中だった。
ちなみに、ラクダの向こうに見える男性の衣装もガイドさんと同様の長衣である。この後、砂漠内で行き交ったベドウィンの人々は圧倒的に長衣が多く、褐色の肌に黒髪、黒い瞳、エキゾチックな雰囲気だった。また、頭にうまく布を巻いているのだ。白地に赤のチェック柄が多いものの、無地の鮮やかな布もあり色とりどりだった。

泉の前には、観光客を乗せてきた4WD車やラクダが集まっていた。


5㎞ほど南下し、"小さい砂山”へ。下の画像のオレンジの砂山を左へのぼっていった。


登りきったところでCちゃんに撮ってもらった。アメリカのモニュメントバレーも真っ青な景色ではなかろうか(行ったことないけど)。
なお、両足のスニーカーの中、はては靴下の中にまでオレンジ色の砂がこんもり入っていた(笑)


次はハザリ峡谷へ。下の画像で真ん中、岩山の割れ目を進んで行った。

峡谷入口でまったりしていたラクダたちと子ども。後ろ足をあんな風に折りたたむのかぁ~ モロッコでは観察不十分だったので、今さらながらに。
あれっ メルズーガのラクダにはついていたT字の取っ手がないなぁ・・・慣れてない人はどうやって乗るのかな
 
岩にはところどころ、ナバテア人が描いたという動物の絵や文字が残されていた。全然タッチは違うけど、オーストラリアはカカドゥを思い出した。行ったことはないけど、ヨーロッパのラスコーやアルタミラも然り。動物を描くのは世界共通の現象なのね・・・面白いな~

岩の隙間をよじ登ったりもした。


最後は、ワダック石橋へ【ハザリ峡谷周辺に3つある石橋のひとつ】。下は、石橋の遠景。

この石橋は最も幅の狭い部分が1mもなく、ここで強風が吹いたらなーんて想像しちゃったものだから、高所恐怖症気味の自分はお尻の下あたりがゾワワ・・・とした
もちろんカメラを構える余裕はなく画像なし、残念
橋を渡った先の景色がこちら。

 右に何か見えるなぁ・・・拡大してみると、3頭のラクダだった。

しばし休憩していると、スルーガイドのψさんから渡されていた携帯電話が鳴った。砂漠ガイドさんは問題ないか、ちゃんと観光できているか、の確認だった。マメだなぁ。
てか、電波は砂漠の岩山をも穿つ。凄すぎる

こちらは橋の上で見かけたベドウィンの男性。半袖の長衣は夏用? 長袖と違って詰襟ではないのか、首に布を巻いている。頭には紫の布・・・なんとはなしにファッションチェックになってしまったが、面白かった


7㎞ほど砂漠を北上し、16時にホテルへ送り届けてもらった。
ここで時間ができるのを見越して、フラを踊りたいとCちゃんに伝えてあった。陽が落ちる前にホテルの裏手へ移動、傍から見たら何やってるんだろうと思われたに違いない。
モロッコの時よりも事前リハーサルをおろそかにしたせいか、納得のいく仕上がりにはならなかった。やっぱり練習は大事 サハラ砂漠と比べると、石つぶてが多くて足の裏に食い込んだのが印象に残った。
私の趣味に快くつきあってくれたCちゃんは、踊り終えた私に「モナリザみたいだったよ」と。たしかに背景は岩山だし、風貌はグレーのマキシワンピに腰まで伸びようかという超ロングヘア(当時)、自分の踊れなさについ出てしまった自嘲的な笑み・・・図らずも条件がそろったのかもしれない


★ 中締め ★ 

旅の後半では死海に浮かんだり、ヘブライ人(イスラエル人、ユダヤ人)にとっての“約束の地”をネボ山から眺めたり。
またお会いしましょう



































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