poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

ラオス篇 その3

2020年06月28日 | アジア
旅の最終日です しつこいようですが、念のため地図も掲載します。
下の地図の①②は旅の前半、➌は前半・後半の両方、➍➎は旅の後半で訪れた場所です。また、後で出てくる下線部の数字に対応しています。


5 ルアンパバーン ⇒バンコクへ出国 (2016年1月1日)

雨音で夜半に起こされた。2時半だった。
乾季なのになぁ・・・もし降り続いたら、朝の托鉢なくなるんだっけ いや、毎日やるってガイドのO君が言ってたような・・・
ごちゃごちゃ考えながら、再び眠りのなかへ。

5時に目覚まし代わりのスマホが鳴った。ソッコー起きられるはずもなく、寝返りをうつ。
夜中に目覚めた時うっすら気づいてはいたのだが、お腹が痛い。スパイシーなラオス料理を解禁した途端、さっそくやられてしまった。
不幸中の幸いなことには、ミャンマーの時と違って胃ではなく腸が症状を訴えていることだ。どちらかというと、身体にとっての異物を速やかに排出して回復しようとするかのような。11年前の経験で、体が対処法を覚えたのだろうか・・・

この日は托鉢を見学するラストチャンス、気合で眠気を振り払い、5時半過ぎにホテルを出る。
前日同様、お隣りの寺ワット・マノーロムはひっそりとしているが、今日は中心街まで行ってみようと決めていた。
朝とはいえ日の出前につき、真っ暗。一瞬迷った後、いつもどおりの大まわり=人通りの多い道を選ぶ、念のため。
勘を頼りにズイズイ進み、シーサワンワッタナー通りあたり(博物館とワット・シェントーンの間)で止まった。曲がり角、立体的な写真が撮れることを期待しつつ。
被写体は観光客=“なーんちゃって托鉢”である。
托鉢が名物になっているこの地では、信仰の有無を問わず托鉢に加わることもできたが、私は傍観者になることを選んだ。なんとなく直感的に。
でもこれが10年前だったら、結論は違ったかもしれない。安易な批判は避けたい。各人に判断が委ねられ、個々の意思で臨むことが尊重される場である。
5時50分には現場に到着。商店の灯り以外は闇。

明けてゆくのを見ながら、結局小1時間待つことになった。その間に観光客が飛ばしているらしきドローンを見かけた。上空からなら、より良い風景が撮れるだろうな、合理的だなぁ。てか、観光地でドローン見かけるの初めてかも。その方面に全然関心がないのだが、多少は手に入りやすい値段になってきたのかな

ワット・シェントーン方面からやって来る僧侶たち。


中には日本でいう小学生から中学生か、幼い僧たちも混じっている。オレンジ色の法衣の行列は視覚的に圧巻。


喜捨された食料が積み上げられたバスケット。お菓子の袋と一緒くたに入れられた米をどうするのかが気になる。自分が想像する最悪の事態になりませんように・・・


20分ほど見学してホテルへの帰り道、商店の前で僧侶を待つラオス人(真の信仰者と思われる)を見かけた。むしろそれをじっくり見たかった。
が、お腹が限界だった・・・トイレを促す第二の波が来た
無理もない、ダウンでもよかったなと思うくらい冷えた。昼間の気温が嘘のように、北部は朝晩涼しい。
街の中心部からホテルへはざっと1.3㎞。決して近くない距離を競歩よろしく、ひたすら急ぐ。なんとか事なきを得た

この日の朝食はサンドイッチを選択。旧宗主国の名残を漂わせるフランスパンじゃないかと期待して・・・
正解だった パリパリのバゲットを半分に切ったサイズ。具はマヨネーズベースの味付けで、美味しかった


この日は昨日まわりきれなかったお寺をポツポツ見てまわるつもりで、最初はホテル近くのワット・タートルアン【ランサーン王国最後の国王シーサワンウォンが埋葬されている】と決めていた。
昨日訪れたワット・シェントーンから霊柩車に乗せられた国王の遺体がこの寺に運ばれ、火葬されたのか・・・
昔は格式が高かったんだろうけど、今はさびれてる感じのお寺だった。中心街から離れた場所だしなぁ。

仏塔の手前の像に注目。ラオスの境内では、このモチーフを何度も見かけた。動きが面白いなぁ

扉絵、立体的ではないけどその緻密さに圧倒される。

石塔の四隅には仰ぎ合掌する像が配置されている。

木の下には3体の座像。


中心街のスパへ向かう。旅先で時間があったら積極的にマッサージを受ける私。
焼畑など重労働を行うカム族が編み出したという文言に魅かれ、ガイドブックで目をつけていたお店は予約なしでもスッと入れた。
預けて手元にカメラがないなど、スパでは写真がなかなか撮れないのだが、他の客が居合わせなかったという偶然にも恵まれ、施術室をパシャリ。

担当者はまだ20代と思われる女性だった。ストロークの強い押しで、階段昇降などで凝っていたふくらはぎによく効いた 60分で60,000k(約800円)。

前日にサッカリン通りを通った時、目に入っていたワット・セーンを訪れる。
視覚に赤の色調が強く訴えかけてくる。近寄ると、赤に金ベースの精緻な装飾が美しい。


動物に乗る構図がなんともカワイイ 連子窓の柱への装飾も細かくて、思わずため息


スッカースーム通りを進み、中心街を後にして南下。昼食の前に、目についたお寺(Wat Aham)に入ってみた。石塔が林立する境内。


さて、ラオス最後の食事は目をつけていたお店でカオ・ソーイ【辛味噌がのった幅太麺】 ルアンパバーン名物なんだって。
店構えが街並みに溶け込んでいて、一旦は通り過ぎてしまった
最初は自分しかいなかったが、そうこうしているうちに2組入ってきた。欧米人の客はHappy new year!なんて言っている。そうだよね、今日は元旦なんだった。

辛味噌がそう多く入ってるわけでもないのに、やはり辛かった(前夜のラオス式ソーセージほどではないが)。
味わいはトマトの酸味が全体をひきたてており、わずかに入ったパクチーもイイ感じ。そう、大量に入れないんだけど、効かせ方がニクイんだよね。
あぁ・・・もう少し辛さ控えめならなぁ。好みのどストライクなんだけど

辛さにひと汗かいて、最後のショッピングに出陣。
ラオス人はもちろんのこと、ルアンパバーンに魅了された外国人が開いたセンスあふれるお店が立ち並んでいる。
出国を目前にして残金は27,000k、気に入ったクオリティーの商品は手に負えず断念。両替やドル払いもできなくはないだろうけど、まぁいっか~
心の中で町に別れを告げつつ、サッカリン通りからシーサワンウォン通りを歩く。
下の写真、欄干に飾られた星は新年を祝う装飾だろうか。

博物館の向かい側(シーサワンウォン通りの南側)のお寺がふと目に入った。
少しだけ斜面を登ると、木に囲まれてひっそりとした小堂が現れた。正面上の彫刻は3頭の像に乗った仏様。


堂内には19世紀半ばの壁画が残されていた。

他に参拝客はいない。ガイドブックには寺名すら載っていない。片や、お向かいの博物館は千客万来。通りひとつ隔てるだけでこんなにも差があるのか・・・
珍しく殊勝な気持ちになって寄付箱に近づくと、手作りのお土産が置いてあった。ワット・マイの壁面を埋めていた小仏像を思い起こさせる。あちらは金製で、こちらは素焼きなのだが。
入場料を取らないこのお寺で、20,000kは献金の意味が込められた価格設定なのだろう・・・残金でこれを買おう。
悩んで、朱色を選んだ。我が家の本棚の一角に並べよう。願わくは、すでに各地からお連れしているキリストの神とケンカしませんように。
紙に包みゴムで止めてくれたオバちゃんは、差し出しながら“コーブチャイ”。ニカッと笑った。
こーいうお金の使い方はいいね。心が清々しい。
下の写真は、この記事を書くにあたって撮影したもの。

ホテルへの帰り道、ワット・タートルアンを探してる中国人女性2人に声をかけられた。同国人と思われたのだろう。
逆方向へ歩いていたので修正し、次の角を左へ曲がって、と拙き英語で伝えた。こういう時に中国語が口をついて出てくるとかっこいいのだが、ムリだわな
ホテルの前にトゥクトゥクが停まっていた。出がけにフロントで頼んでおいたのが早めに来てくれたらしい。
預けていた荷物を受け取って“ソークディードゥー”と伝えると、毎日フロントで見かけたお兄ちゃんは、爽やかにSee you next year!
“I like Laos”と返す私、トゥクトゥクで走り去る。

★ 終わりに ★

まず初めに、「その1」の記事を公開した段階では最終日までを「その2」としてひとつにまとめる予定でした。しかし、書いていくうちに文字数がオーバーしてしまい、急きょ最終日だけを独立させて「その3」とするハメになりました。「その1」の冒頭で、旅を2分して後半を「その2」とする旨明記しているのですが、異なる結末となりました。申し訳ありません m(_ _)m

ラオス篇では、自分は唐辛子辛いものが苦手であるという件が何度か出てくる。2005年7~8月、ミャンマーを訪れた私は初日にヤンゴンの食堂で料理に舌鼓を打ち、翌朝から胃腸の激しい不調に数日間悩まされた(同じ物を食した同行者に異変はなかったので、料理自体に問題はない。最終的には中華料理屋のスープで起死回生するのだが、その辺りはいつかミャンマー篇で詳述したい)。
以来、辛いものは用心することにしているが、口にしないわけではない。
個人的な意見であるが、食は習慣だと思う。生育環境の中で身近にあって度々口にするものに身体は慣れていくし、美味しいと感じるようになる。
振り返れば、生家を離れるまでの18年間、自分は辛いものを食す機会がほとんどなかった。故郷では辛い味付けが一般的ではなかったし、思えば父母も辛いものが好きではなかったので 食卓に並ぶことがなかったのだろう。
上京後、大学のサークルの先輩方に連れられて食べに行ったテグタン【タラにセリ・豆モヤシ・大根・ネギなどの野菜を入れ、ニンニク・生姜のきいた真っ赤なスープで煮込む韓国料理】の衝撃は今でも鮮明に覚えている。
その後も自炊の際に辛いメニューに挑戦することはなかったし、各国料理店が軒を連ねる東京にいながら辛い料理のお店に入ることもほとんどなかった。避けるわけではないが選んでおらず、私の辛さ耐性は脆弱なままだったといえる。とはいえ、辛いものが苦手であるという自覚はそこまでなかった。そこへ、ミャンマーでの出来事である。
食事は旅の楽しみのひとつである。入国から出国まで、その国の料理を心ゆくまで味わいたい。
辛い料理が特徴の国へいつ行きたくなるとも限らない。ミャンマーから帰国後、辛いものに慣れようと、意識して口にするようにした。最初はキムチさえ辛いと感じたが、今やスンドゥブチゲ【出汁にネギ・ニンニク・唐辛子・ゴマ油を入れて豆腐を煮込む韓国料理】あたりまでは食べられるようになった。しかし、一食で終わらず辛い料理が続くとどうしても胃腸がおかしくなってしまう
残念ながら自分の身体は辛いものが得意ではないようだが、食べないという選択肢は自分にはない。旅に支障が出ない程度に量を調節しながら、口にせずにはいられない。この好奇心以て、これからも私は放浪するのだろう。
 おしまい 






















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