poliahuの旅日記

これまでに世界41ヵ国をフラフラしてきました~ 思いつきで旅先を選んでて、系統性ゼロですが(^^;)

モロッコ篇 その1

2021年09月03日 | アフリカ
中学・高校時代の友人Dちゃんと十数年ぶりに旅に出ようと話がまとまった。行き先は当初決まっておらず、お互いに興味ある国をいくつか挙げたなかでモロッコに決定 
11日間の旅を3つに分け、第1弾をその1としてお送りします。下の地図の➊~➎はその1で訪れた場所です(ただし、近接するヴォルビリスとムーレイ・イドリスはまとめて➍としています)。また、後の下線部の数字にも対応しています。


1・2・3 (ドバイ)⇒カサブランカ ⇒ラバト ⇒メクネス (2013年7月26日)

ドバイで乗り継いだ飛行機は、予定通り12時過ぎにカサブランカに着陸。ドライバーと難なく落ち合い、その夜の宿泊地メクネスを目指す。200㎞以上東、かなりの大移動である。途中でラバトに寄ろうか?とドライバーに聞かれ、寄らなくていいと伝えたはずなのに車は停まった。単純な会話だ、poorな英語とはいえ通じなかったはずはない・・・せっかく近くを通るから休憩がてら立ち寄ろう、オススメだよということなのかなぁ 一筆書きにまわる旅程ゆえ、このタイミングを逃したら訪れる機会はないし、ま、いっか
車を降りると容赦なく照りつける日射しに、この旅の間にガッツリ灼けるだろうなと予感する。
駐車して、ウダイヤのカスバに向かって歩いた小路がキレイだった。鮮やかな水色が陽光にきらめく。あぁ、シャウエンみたい・・・旅程を決める過程で泣く泣く割愛した水色の街【ラバトから北東200㎞以上の場所にある】。もっとも、あちらは壁面全体が水色だった気がするけど、ちょっとだけ気分味わえた。ラッキー (なお、私とDちゃんの姿が写っている画像しかなかったので、塗りつぶして載せます)


こちらがウダイヤのカスバ【12世紀、ムワッヒド朝が建てた城壁を利用し、17世紀にアラウィー朝が築いた城塞。カスバ=砦】。立ち寄りなので庭園や博物館には入らず、外壁を見るにとどめる。


お次はハッサンの塔へ【高さ44m、未完のミナレット(モスク付属の尖塔)。12世紀末にムワッヒド朝のヤークブ・アル・マンスールが建設に着手したものの、死去により工事が途絶。当時世界一の高さを目指し、倍の高さになる予定だったという】。

同じ敷地内にある、ムハンマド5世の霊廟。

1956年にフランスから独立を勝ち取った人物ということで、丁重に葬られている。古式ゆかしい制服に身を包んだ衛兵が入口と廟内の四隅を守る。


敷地の出口にも騎乗する衛兵がいた。伝統的な壁だろうか、無数の穴が目を引いた。降雨による崩壊を防ぐための穴なのだろうか??


17時前、メクネスに到着。車を降りた後、道を覚えようと意識しながら曲がりくねった旧市街の小路を歩く。たどり着いたのはこじんまりとしたリヤド(邸宅をリノベーションした宿泊施設)だった。小さいパティオ(中庭)はまとまっていて、初リヤド体験の自分にはとても新鮮に映った。

無造作に飾られたタペストリーも板扉も古そう・・・何代にもわたりここでリヤドを営んできたのだろうか。

泊まったお部屋はこんな感じ。広がった荷物の見苦しさ、ご容赦ください。


出国以来1日半ぶりのシャワーを浴び、19時ころ外出。迷わずにエディム広場へ出ることができた。よかった、リヤドまでの道はわりと分かりやすい、ホッ
調子が悪く夕食はいらないというDちゃんに付き合ってもらい、広場に並ぶ食堂のひとつに入った。テキトーに選んだ店なのだが、メニューを見ていると明記された金額にポテトフライ代だのサービス料だのを上乗せすると説明されて、交渉スタート。この国の旅も一筋縄ではいかなさそうだと予感させる。ま、事前に言ってくれるだけ親切だよね。
備忘録によるとシュワルマサンドを食べたらしいが、あるのはミントティーの画像のみ。モロッコ式ミントティー初体験、葉で埋め尽くされる液体はまあまあ圧巻

なお、テラス席のテーブル下にやって来た猫に軽~い気持ちでポテトフライを1本投げたら、そこらじゅうの野良猫が来るわ、くるわ。厚かましいのは私の椅子の上にも乗ってきて大騒ぎ。金輪際、ノラ猫にエサをやるのはやめようと決意する

広場では少年たちがサッカーにいそしんでいる。視界の右端には夕映えのマンスール門。思えば、この旅でいくつもの門を見かけたけど、一番好みだった。ベージュにグリーンの配色、ヘンな修復の手が入ってなくてひなびた感じがいい塩梅だった【メクネスの最盛期は17世紀、アラウィー朝のムーレイ・イスマイルの時代。ルイ14世をリスペクトした彼は「モロッコのヴェルサイユ」建設を目指して古い建物をあれこれ壊し、新しく建て替えていった。彼が手がけた最後の建造物がこの門で、死後の18世紀前半、その息子によって完成】。

19時34分、モスクから大音量の放送。日没が告げられると、みんな一斉に姿を消していく。広場にも人がまばらになった。各家で食卓を囲むんだろうな。
ちなみに、放送が入った瞬間にタバコの火を点けた人をDちゃんは目撃したらしい。こーいうのも、ラマダーン中の旅行だからこそ目にする光景なんだろうなぁ。この旅の日程は私の仕事の都合にDちゃんが合わせてくれて決まり、ラマダーンの時期を選んだわけでは全くないんだけど、なんだか面白くなりそう【ラマダーンとはイスラム暦の第9月であり、イスラム教徒はこの月に日の出から日没まで断食しなければならない。日没~日の出までは飲食できる。ちなみに、2013年のラマダーンは7月9日~8月7日】
日没といっても残光があるので、しばらくはまだ明るい。人気のひいた旧市街をそぞろ歩いて宿へ戻った。


3・4・5 メクネス ⇒ヴォルビリス ⇒ムーレイ・イドリス ⇒メクネス ⇒フェズ (2013年7月27日)

モロッコ2日目、3ヶ所観光しながらフェズへ移動する日。8時に宿を出て、駐車場までの道すがら路地を歩く。


まずはメクネスの北方30㎞にあるヴォルビリス遺跡へ【モロッコに残る最大規模の古代ローマ遺跡。先史時代から集落が存在したが、B.C.40年にはローマの属領となった。帝国の西端として栄え、40ha超の領域に最盛期は2万人が暮らしたという】。
これまで旅を重ねてくるうちに、いつしかモザイクが好きになっていた私。ガイドブックによると、北アフリカのモチーフにはディオニュソスが多いらしい。ワイン党としては楽しみ

遺跡の入口で "ガイド” と称する人に声をかけられたが、断わって自力でまわろうとする。が、順路やポイントを示す標識はなく、人の流れについて行こうにも人影はなし・・・広大な敷地を前にして5分後には迷うハメに もたついていると、"警備員” と名乗る男性が案内役をかって出てくれた。これ、ガイドじゃないけど後でお金を請求されるんだろーな・・・予想しながら、迷って時間を無駄にするよりも着実に進むことを選択。
最初はヴィーナスの家へ。モザイクの意匠は神話。ヴィーナス(左)がニンフ(中央)と水浴びしているところを狩人のアクタエオン(左上、ヴィーナスの頭上)に見られてしまう場面。

イルカと思われるモザイクもあった。

当時の大通り、デクマヌス・マクシムス。通りの奥に、カラカラ帝を記念した凱旋門がわずかに見える。

柱頭は失われているが、牛の頭部と思われる装飾がわずかに残る。

ディオニュソスと四季の家のモザイク。一番下の段(最も手前)の真ん中、黄色い衣装がディオニュソス。たなびく赤いストールが印象的である。わが待望のワインの神
その左右は四季を擬人化した顔。

大通りに面して残るアーチ。アーチ上部の人頭彫刻は明らかに新しい。このあたりが世界遺産だなぁ・・・しっかり修復の手が入っている。

ここは浴場、こういうふうに入るんだよと警備員のωさんが実演してくれた。背もたれ、いいなぁ~

騎士の家のモザイクもかなり大きい。眠っているアリアドネ(右)をディオニュソス(左)が見つける場面。

こちらがカラカラ帝を記念した凱旋門【212年、ローマ皇帝カラカラはアントニヌス勅令を発し、全属州の自由民にローマ市民権を与え、また属州民に課していた税を廃止。この門は3世紀後半、カラカラ帝への感謝を込めて建てられた】。かつてのヴォルビリスの西の入口でもあった。

地面に張りつくように生える植物。降雨の少ない場所で生き延びるための形態か。花は小さいが、色は鮮やか。

バシリカ(集会所、のち礼拝堂)はこの遺跡の中で最も大きな遺構だった。

中央奥、階段の上に数本の柱がそびえる場所はキャピトル(ジュピターを祀る神殿)。

オリーブ製油所。

オルフェウスの家にて。円中央に竪琴を弾くオルフェウス、音色に魅かれて集まってきた動物たちが周囲に配されている。この遺跡の中で最も精緻だったモザイク

その隣のモザイクは作風が一変。海の生き物たちが黒一色で大胆に描かれている。

ひととおり見学を終えたところで、警備員のωさんにチップを渡した。観光地あるあるの声かけに始まったのでかなり警戒したものの、ギラついた商売っ気は皆無のωさん。柱頭に彫られているのと同じ葉を探して見せてくれたり、日時計を実演してくれたり、学者肌の人だった。丁寧に1時間案内してもらった対価はいくらか・・・少なすぎては失礼だし、多すぎれば「悪しき前例」となり後の訪問客に迷惑をかけてしまう。Dちゃんと熟考したすえに金額を決めた。想定内だったのか、四の五の言わずωさんは爽やかに去って行った。

次は南東へ3.5㎞、ムーレイ・イドリスへ【イスラム教の開祖ムハンマドの娘ファティマと第4代カリフであるアリーの末裔、ムーレイ・イドリス(イドリス1世ともいう)が葬られている。アッバース朝内の争いに敗れてモロッコへ亡命した彼はベルベル人の助けを借りながら、8世紀末にモロッコ初のイスラム王朝(イドリス朝)を設立。今なおムーレイ(聖者)としてあがめられ、その霊廟に巡礼者が絶えない聖者の町】。2つの丘にまたがって広がる町は、細くて急な坂道が特徴。
広場の柱につながれたロバ・・・住民が乗って来て、買い物のあいだ待たせているのだろうか。

ガイドブックに地図は載っていないし、観光案内所が存在するのかも不明。が、町の中心にあるムーレイ・イドリス廟へは何となくたどり着いた。
この奥が霊廟だが、イスラム教徒でない私たちがこれ以上近づくのは恐れ多い雰囲気・・・

さて次はどうするかDちゃんと相談していたら、町を見下ろすビュー・ポイントはこっちだよ、と自称ガイドが声をかけてくる。これもお金が発生するんだろうなぁ・・・思いつつも、手がかりゼロなのでついて行く。
道中で見かけた民家の扉にご注目あれ。金色の「ファティマの手」【魔除けのお守り。先述したムハンマドの娘ファティマが貧しい人・病人等を救済したという伝説にちなんで、彼女の手をかたどった物を持てば救われると信じられている。ユダヤ教圏では、同様のものをミリアムの手と呼ぶ】

自力では到底発見できないような道を進んで行く。途中の眺め・・・ずいぶん上ってきた。

ビュー・ポイントから見下ろすと、丘の形が一目瞭然。ひときわ目立つ緑色の屋根・・・件のムーレイ・イドリス廟である。

路地のそこかしこで猫を見かけた。

元いた場所へ戻って来て、チップの時間である。ヴォルビリスと対照的に、ここでは金額でモメた。100DH(約1,200円)を要求されたので、とんでもないと首を振った。
ビュー・ポイントまで表示もなく何の変哲もない道だったので、自力でたどり着くことはできなかっただろう。案内してもらったことには感謝している。しかし、高すぎるものは断固として払えない。最終的に、40DH(約480円)で引き取ってもらった。20DHで十分と主張するDちゃんを自分がなだめたのだが、今となって思えば20が適正だった気がする。吹っかけられた額の半分以下に値切って安心している場合じゃなかった、反省

前日泊まったメクネスに戻って、観光。しかし、デジカメの充電が切れてしまう 前夜に充電しなかったのが失敗だった・・・こうなっては、大好きなモザイクを撮れただけでも幸運だったと思い込むしかない。
備忘録によると、クミス門、ムーレイ・イスマイル廟、アグダルの貯水池を訪れた【画像がないまま言及するのは恐縮ながら、ムーレイ・イスマイル廟をオススメしたい。この後いくつかの都市を訪れたが、非イスラム教徒が入れる聖廟はほとんどない中、ここは例外である。メクネスを訪れるなら、ぜひ寄ってほしいと願う】。
その後、昼食。ドライバーさん曰く、ラマダーン中に営業しているレストランは限られているそうで、案内されたムーレイ・イスマイル廟近くの食堂は我々のような外国人観光客でにぎわっていた。メクネスはワインの産地なので淡い期待を抱いていたが、メニューにはない。気を取り直して、チキンのタジン クスクス添えを注文。結果的に、これがモロッコ最初で最後のクスクスとなった。画像がなくて残念至極

ランチの後、さらにメクネスを観光するかとドライバーさんに聞かれた。まだ足を踏み入れていない場所も残っていて、自分としてはもう少し観光したい気分だった。
が、Dちゃんは前日来の体調不良でもう十分と言う。長い旅の初めに無理は禁物だし、どうせデジカメで撮れないし・・・メクネスを切り上げるとドライバーに伝えた。
一路フェズへと思ったが、ドライバーからスーパーへ行くかと提案される。予想以上にスケジュールが前倒しなんだろうか フェズへ着くのは夕刻、土地勘のない場所でスーパーを探し当てられる保証もない。何はなくとも毎日水は買わねばならない、とスーパーへ向かった。
水を入手した後、ついでにワインを探したが、アルコールの類は見当たらない。モロッコ有数のワイン産地と期待していただけに、ガッカリ感はハンパなかった

メクネスから西へ60㎞進み、フェズに到着。まずマリーン朝の墓地に寄った【フェズを都として13世紀半ばから約200年、モロッコを支配したマリーン朝。スルタンたちの墓は失われ壁を残すのみだが、小高い丘の上にあるため旧市街を見下ろす絶景スポット】。充電切れが口惜しい
15時過ぎ、宿へチェック・イン。リヤドより小規模なダールである。事前に見たガイドブックでひとめぼれ、熱望して予約してもらった。
素敵な内装にテンション ここに2泊できるなんて幸せ
こちらは廊下、さりげなく配置された家具がイイ(以下2枚の撮影は翌々朝)。

ダブルベッドを2人で使用 洗面台は2つあり、珍しくバスタブも付いている。

夕食は付いていないのだが、宿が中心街から外れていることと、Dちゃんの体調が思わしくないことから、宿でディナーをとることにした。
20時半スタートと言われたので時間にパティオへ降りたが、誰もいない。5分くらい経って、スタッフが3人やってきて準備開始。
結局、席に着いたのは21時ジャスト。その時間に予約を入れていた欧米人に合わせて支度したんじゃないだろうか・・・
下の画像は上階から見下ろしたパティオ。

パティオ脇の小部屋が食事処となっている。私たちが通されたのはこんな場所。ほの暗く照らし出される水色の壁が何ともいえないムードを醸し出す。

メニューに載っていないのを知りながら「ヘタな鉄砲」戦法でワインはあるかと尋ねたところ、「出していない。普段はあるが、今はラマダーン中だから」と若旦那に一蹴され、シッポを巻くのみ 手前はハリラ【具だくさんのスープ。ラマダーン中、日没後の最初の食事の定番メニューでもある】。

ラムとプラムのタジンも食す。ワインボトルのない食卓にはミネラルウォーターがどっかり鎮座、ワイングラスに水を注ぐとは・・・アルコール党にとってこの上なく味気ない

部屋に戻って思わずワインのことをぼやくと、スマホで情報検索したDちゃんが高級ホテルでもないと難しいんじゃないと言う。曰く、禁酒を旨とするイスラム教の国だし、そのうえラマダーン中だからと。う~ん。正論だけどなぁ・・・
Dちゃんはアルコールを受け付けない体質である。この旅でアルコールに関しては孤軍奮闘になることを予想していたし、自分のそれへの執着が度を越していることを十分認識しつつも、一抹のわびしさ漂う夜であった。グスン

5 フェズ (2013年7月28日)

がっつりフェズを観光する日。「モロッコ最大の迷宮」と評される旧市街を自力でまわるのは難しいと考え、ガイドを雇った。メッチャ早口でおしゃべりな人で、泳がないと死んでしまうマグロのごとく絶え間なく話し続ける。
この日最初に訪れたのは西の旧市街フェズ・エル・ジュディドにある王宮。一般公開されていないので、正門を見るのみ。青いタイルに金色の扉、コントラストが鮮やかである。

その後、ユダヤ人街を経由して駐車場へ。そこから旧市街南東の丘へ向かう。眼下に広がるフェズのパノラマ【旧市街はフェズ・エル・バリと、先述したフェズ・エル・ジュディドの2つに大別される。前日に廟を訪れたムーレイ・イドリスの子(イドリス2世)が9世紀初めに築いた都がフェズ・エル・バリ。13世紀後半、マリーン朝によりその西方に築かれたのがフェズ・エル・ジュディド。これらとは別に新市街も存在するが、いずれにせよ旧市街は1000年以上にわたり繁栄してきた 日本でいう京都のような場所・・・創成の時期も近い】。

フェズ・エル・バリをズームアップ。画像中央、緑色の三角屋根3つにひときわ高いベージュの塔がカラウィン・モスク【9世紀創建。当初は礼拝所だったが、のち学問所となり世界最古の大学のひとつとして繁栄。今日も大学として機能している】。前日にムーレイ・イドリスでも感じたが、遠目に緑色の屋根が印象的である。

その後、手工芸品をつくる工房へ連れて行かれた。職人さんたちが黙々と作業にうちこんでいる。


事前情報でフェズの陶器はブルーが特徴と知り、青色好きの自分はここでタジン鍋を買おうと思っていた。渡りに船 
説明を聞くと、火にかけられるものとそうでない仕様があり、火がO.Kかつ希望する中ぶりの大きさだと3択だった。こちらが購入したモノ(撮影は帰国後、自宅キッチンにて)。
ちなみに、緩衝材で厳重にグルグル巻きにしてくれたのでスーツケースには入らず、旅の前半にして手荷物となった・・・もちろん割れなくてよかったんだけども

旧市街に戻って来て、いよいよ街歩き。フェズ・エル・バリの西の入口、ブー・ジュルード門から入る。

雰囲気バツグンの街並みに魅せられ、ひたすら撮影しまくる私が最後で、前を行くガイドさんとDちゃんを追いかけるスタイルがいつのまにか定着した。
以下はいずれもアッタリーン・マドラサまでの道中に見かけた風景。

細やかな彩色が残っている。

さりげないタイル使い。

路地を馬で行く人に遭遇。

通り沿いの扉から垣間見えた玄関。

地元の人々とも行き交う。

青果店の軒先。玉ねぎのバスケットの下、極小の子猫が可愛いすぎる

ロバが待機中。

アッタリーン・マドラサに到着【14世紀前半、マリーン朝が建てた神学校】。こじんまりとした空間はひっそりとしている。


繊細な木彫と石彫の組み合わせに幾何学模様のタイル・・・全体が緻密に構成されている。

マドラサからやや南下してサファリーン広場へ。ここには伝統的な製法でつくられた銅製品を扱うお店が並ぶ。
各国からやって来た観光客でにぎわっているのは、買い物というよりカラウィン・モスクやタンネリなど観光ポイントが近いからだろう。

タンネリ目指して、広場から東へ進んで行く。日よけだろうか、網目状に編まれたアーケードが面白い。

一転してこちらは古そうなスーク。ふと現れるアーチが美しい。

川らしきものを渡った。あとで調べてフェズ川と知る。

ここでも道を行くロバを発見。

ガイドさん曰く、山のように積み上がっている茶色いのはラマダーン中に食する典型的な食べ物だという。日中に摂れないカロリーを手軽に補う・・・合理的だなぁ。

途中、案内された絨緞屋さんの店内。モロッコのインテリアを現代的にするとこんな感じなんだろうか・・・妄想。
勿論じゅうたんなど買えない。てか、買ったところでウチに敷くスペースはない

タンネリ(皮なめし&染色の加工場)に到着。その入り口で、ミントと思われる植物の茎を数本渡された。ん 正直とまどったが、どうやらニオイ消しらしい。
確かに、これまで嗅いだことのないような臭気だったけど・・・自分としてはそこまででもなかった。でも、合わない人はキツイんだろうか・・・
作業場を上から覗かせてもらった。画像左上の白いプールで皮の組織を壊しやわらかくして脂肪・毛などを取り除く「なめし」作業をおこない、手前の茶色いプールで革を染めるという。

染液は微妙に色が異なる。染め分けてるんだろうなぁ。


バブーシュを衝動買い。色とりどりでデザイン豊富な製品をながめていたら、つい ビーズ刺繍の黒をチョイス。画像はこの記事を書くにあたり撮影した。

もと来た道を戻り、カラウィン・モスクへ。朝、高台から町を見下ろした時に最も目立っていた場所である。残念ながら非イスラム教徒は入場できないので、入口から内観をパシャリ 相当数の人々が出入りして、活気にあふれていた。

下の画像は、ザウィア・ムーレイ・イドリス廟へ向かう途上で撮影。キオスクみたいな店舗。

お土産用だろうか、陶器やタイルがぎっしり。

備忘録によるとザウィア・ムーレイ・イドリス廟に寄ったようだが、画像はない。こちらもイスラム教徒以外は入れない【ザウィア=修道院。このフェズを都として築いたイドリス2世の墓があり、旧市街で最も神聖な場所とされる】。

あれこれ見学したので、昼食は遅めの13時20分だった。ガイドさんに案内されたレストランは、結果的にこの旅の中で最も美味しかったと思う。
数々の前菜・・・旅先で不足しがちな野菜もふんだんに提供される。コメ派としては、手前左の皿(トルコでいうピラウのような米料理)にテンション上昇

いくつかから選べたメインは、ケフタ(=肉団子)のタジン。スパイスの味付けが絶妙で、私の好みだった

フルーツも付いていた。白いのはメロンのようなウリ科の果物。


15時、ホテルに送り届けてもらってガイドさんと別れた。シャワーを浴び、夕食まで休憩タイム。
前日はホテルで済ませたが翌朝フェズを発つこともあり、外で夕食をとることにし、ガイドブックに載っていたブー・ジュルード門近くのお店へ行くことに決めた。
が、旧市街のほぼ外れにある宿からそれなりの距離を案内なしで歩けるのかが最大の問題だった。地図を見ると、南下して大通り(タラア・ケビーラ通りあるいはタラア・セギーラ通り)に出てひたすら西へ向かえば門にたどり着く。ざっくり言うとそうなのだが、大通りに出るまでが相当複雑な模様だった
日没前の18時、ホテルを出発。「アリアドネの糸作戦」で角を曲がるたびにスマホで撮影していったが、特徴のない場所も多く、見返してもきっと役に立たないだろうなとやがて思い始めた。案の定、大通りへ出る前に迷ってしまったところへ “ガイド” を称するオジサンが登場。最短ルートだったかは不明だが、20分くらいで門のそばまで案内してくれた。高値を吹っかけられるも10DH(約120円)を譲らずDちゃんに交渉してもらったところ、不満だったのかオジサンは最後にDちゃんの首を叩いて去った。後味の悪い幕切れだったが、こちらとてムーレイ・イドリスの過ちを繰り返すわけにもいかない。Dちゃんに感謝

18時半、お目当てのカフェへたどり着いた。野菜のタジンとブロシェット(串焼き)mixを食べたようだが、画像がなくてごめんなさい 
食後、帰り道を検討した。前提として、来たルートを再現するのは困難であると二人の意見は一致していた。
私は①カフェでプチタクシーを呼んでもらい、宿近くの高級ホテルまで行く、あるいは②旧市街の外側を通る道路(フェズ北通り)を歩いて、宿近くの高級ホテルまで行く、を提案。その所以は、一度も自力で歩けていない旧市街を避けることと、高級ホテルから宿までの小路は複数回歩いており自信があることだった(前日にメクネスから到着した時とこの日の朝迎えに来てもらった時、駐車場所と宿の間を歩いた)。
いっぽう、Dちゃんは地図を広げて目印を指しながら、旧市街の大通りから脇道に入って宿を目指そうと主張。
結局、正攻法で旧市街を進むことに決まった。この国最大といわれる迷宮をちゃんと歩けるのか不安だったが、かといってDちゃんを論破して自分の意見を押し通す自信もなかった。

19時30分、日没を知らせる放送が入ってまもなくカフェを出た。宵に浮かびあがるブー・ジュルード門。

市街も昼間とは異なる雰囲気が漂う。

大通りは奥へ進むほど店じまいが進んでいた。断食明けで食卓を囲むタイミングゆえか、明らかに人が減っている。目印にする予定だった肉屋もレストランも閉まっていて、見分けがつかなくなっていた(日本の店舗と違って、看板などはない)。しかも、道は予想外に下っていく。地図では高低差までは分からない。もう脇道に折れなければならないのでは、行き過ぎなのでは・・・不安が誤った判断を誘った。
後から考えると、予定よりかなり早い場所で左折してしまったようだ。そしてどんどん袋小路に入り込み、観光客が踏み込まない、ローカルな人間しかいないようなエリアへ突入。折から薄暗くなっている。
迷ったと自覚し意を決して、ある小路にたむろしていたモロッコ人に宿近くの高級ホテルの場所をたずねると、近くにいた12歳前後と思われる少年ψを案内役にするからついて行けと言われる。これもガイド料が必要だよなぁと思いながら背中を追うと、便乗して他にも少年が数人ついてくる。中でも自分の後方に来た目つきの悪い黄色いTシャツの少年がイヤな感じだな・・・と思い、手回り品に警戒しつつ、「We can't pay anything.」と2回告げると早々に離脱していった。ホッ
さて、少年ψ自体は見たところ悪い子ではなさそうだったが、ψより年長の後追い少年が肩を組んで何やらヒソヒソやっている。交渉してやるから分け前をよこせとでも言っている風だ。進んでいくうち、さらに取り巻きが2人増えた。これはよくない雰囲気だなと思い、年長の少年に「We can't pay anything.」とキッパリ伝える。すると、"お金くれないんだってよ” とでも吐き捨てたのか、少年たちは一人もいなくなった。う~ん・・・最初の少年ψ1人になら払うつもりだったんだけどなぁ

気を取り直してDちゃんと2人、また迷宮と闘う。もはや完全に道を見失っているのは明白、辺りはどんどん暗くなるばかり・・・
やはり、ここは案内してもらうしかないと思い、街角に座っていた青年(15~16歳くらい?)に高級ホテルの場所をたずねてみた。幸い、今度は余計な取り巻きはいない。ついて行くと、急な上り坂をけっこう進んだ後、城壁の外に出た。街灯もなく薄暗い。こんな所に彼の仲間数人が現れたなら追い剥がれるな・・・一瞬よぎったものの、杞憂に終わった。ふぅ
青年は少し向こうのホテルを指さして呑気に説明している。やや遅れて息を切らしながら坂を上ってきたDちゃんが、どこまで連れて行かれるの?と言う。
たしかに、おおよその場所を把握しなければ。城外に出たということは、青年が指すホテルの右にライトアップされているのは前日に訪れたマリーン朝の墓ではないだろうか・・・
見当をつけながら、件の高級ホテルはどこかと青年を促す。こっちだよと導かれるまま進むと、目の前に広がった光景には見覚えがあった。昨日通った道路だ そう確信した瞬間、私たちは助かったと悟った。もうこれで、確実に宿にたどり着ける 
あとは青年にいくら払うかだ。ともあれ窮地を救ってもらったわけだから、多めにあげようかなと一瞬浮かんだが、待てよと思い直す。物価を考えて20DH(約240円)を渡すと、青年はもっともらえると期待していたのだろう、去り際は未練たっぷりのようだった。
青年と別れた後、フェズ北通り沿いに高級ホテルの前まで行き、おなじみの小路をたどって20時30分ころ宿に到着した。
カフェを出て1時間足らずのことであるが、体感ではとても長く感じた。北京以来十数年 海外を旅してきた中で、最も冷や汗をかいた出来事だった。無事に宿へ戻れたのは、ただただ運が良かったというほかない。あるいは、誰かに守られていたのかもしれない。このとき父は存命だったので、母方の祖父だろうか・・・

★ 中締め ★

旅の第2弾ではサハラ砂漠の北西端あたりに足を踏み入れ、また世界遺産のアイト・ベン・ハッドゥやマラケシュを訪れます。
それから・・・機内でワインを飲んで以降、ほぼ強制的にアルコールを断たれて3日の私 この先、切望するモロッコ産ワインに巡り合えるのでしょうか
お楽しみに

























































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