ユリイカ - deep breathing

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自然にかえる

2011-10-18 12:34:35 | 家族

 

10/17の深夜に義父が亡くなりました。

86歳でした。

20年ぐらい前、よく油絵を描いておられました。

絵はがきを元に自然の風景を描くことが多くて

こんな色調の絵もありましたね。

あれはどこの湖でしたっけ。

 

葬儀の時も会場に何枚か飾ることにしていますよ

お義父さん。


ちょっと機嫌をなおしたハワード

2009-11-26 13:23:45 | 家族

どうも最近ハワードがよってきません。
ホカホカ竹カーペットの上でくつろいでいるので人間の膝がいらないのかもしれませんが
写真を撮ろうとしてもカメラ目線くれないし~
ブラッシングしたりなでなでしてあげてちょっと機嫌をなおしたハワードです。
やっぱり私も入院で家にいなかったり、その後も調子が悪かったりで気持ちに余裕がなかったのかな。

夫とも今後の治療方針のことで食い違いがありました。
彼は元々科学者ですから、あらゆる西洋医学を駆使して現在寛解状態になっている
ある肺癌の男性患者さんのブログをバイブルのようにしていて
この方はこうやって治っているんだから... とよく言われました。
でも、私とその方は同じ体ではありません。
とにかく、私は明日のCT、血液検査などの結果が良かろうと悪かろうと抗癌剤治療を
続ける意志はないので、それを尊重して欲しいとお願いしました。

不本意な様子でしたが、なんとか了解してもらいました。

男性の考え方と女性の感じ方は違うし
体の不調の感覚はなかなか伝わらず、面倒だけれど
言葉を尽くして家族に伝えないとなかなか判ってもらえないようです。

患者本人と患者の家族の気持ちというのもまた違います。

猫のハワードですら、何か変化を感じているのですから
家族の心労はなおさら。
わかってはいるけれど、這うようにして食事や掃除をし身の回りの事を
やっている私としては家族の気持ちを理解する余裕が少ないと反省することしきりです。

もちろん夫もゴミ捨てや洗濯、洗い物など、一生懸命やってくれています。
そして私にとって今は食事作りはリハビリのようなものなので
ちょっと体がだるくても自分でやることで元気になっているところがあります。

私は今、自分の命の可能性に積極的になれない気持ちがどうしてもあるので
(医師から肯定的な見解を聞いたことがない)
そういう思い込みを捨てること、自分の体の力を信じること
家族と体調や考え方について、折に触れて話し合うこと
そういう事をすることが、今大切だなと感じています。

木果(パパイヤ)

2009-05-15 10:44:29 | 家族
久しぶりに実家に来ています。
車を自分で運転してきましたが、それほど疲れませんでした。

台湾のおみやげの中国茶を一緒に飲んだり
当時の話を母として盛り上がっています。

私はアルバムを見るのが昔から余り好きではありませんでした。
過去を懐かしんでもしょうがないと思ったのか
自分の写真が気に入らなかったのか
理由は自分でもよくわかりません。

今回、第二のふるさとである台湾の高雄に旅行に行った事で
改めて、昔の子供時代の写真を見たり
当時の日本人会報に載った小学校2,3年生の頃の自分の作文を読みました。

う~ん、中身は余り変わってないんですね。
作文を読んでも、他の子の書いたのと比べると観察しているところが違い
「自分がどんな風に感じたのか」というのが中心です。
良くもわるくも、これが個性っていうものなんでしょうね ^^;

写真は高雄の市場で買ったパパイヤ
昔は木果と言っていました。
ホテルに持ち帰って食べました。

きれいに洗って、切ったらミルクのような白い液が
勢い良く吹き出してきました。
それを見た途端、木果の木自体がイチジクの木のように
こういう白い液が出る木だった事を思い出しました。

今回の旅行では市中では昔のようにこの木を見ることはありませんでした。
だから、市場で見た時に買いたくなったのでした。
田舎からやってきたらしいおばさんが昔ながらの市場で地べたに
色々な果物を並べていました。

「甘い?」「どれがいい?」と、私
「そっちの方がきれいだよ」と、おばさん
私がつかんだのを見て
「あ、それそれ」
「スイカも持ってかない?」と、おばさん

昔と同じようなやりとりをしながら
ふと私が当時の母より年がいっていることが
不思議な感じがしました。

月日が経つのは早いですが
木果の味は昔と変わらず
味が濃くてとっても美味しかったのでした ^^



千の風になって

2007-12-26 11:32:56 | 家族
2007年12月23日に父が亡くなりました。83才でした。6年前から末期の前立腺がんでしたが、ここ数年は3ヶ月に一度の通院で自宅で療養していました。段々体が不自由になっていましたが、痛みもなく好きなお酒も少し飲む事ができました。

一週間位前から風邪をひいているという話は聞いていました。全体に体が弱っていたようです。自宅で傍らで母がベッドメーキングをしている間、自分で歩いて椅子に座り、待っている間に眠るように息を引き取りました。家で死にたいと言っていた父の希望通りの旅立ちでした。

22日の23時頃一報を受けて、近くに住む妹と一緒に23時半頃、東京から茨城までタクシーで向かいました。すでに息がないということで準備をしていきましたが、車中でおばから医学的に今亡くなったと連絡を受けました。

自宅近くの葬祭場で通夜、葬儀をしました。家族だけの内輪の葬儀にしましたが、ご近所の方も親族よりも沢山参列して頂いて本当に有り難いと思いました。両親が茨城に移り住んで14年ぐらい。父は最初の頃から余り外に出ませんでしたが、多くの方に見守って頂いたのだと知り、普段地域の縁とほとんど関係なく生きている私や妹は反省しました。

色々な事で疎遠になっていた親戚もたまたま関東に来ていたこともあり一家揃って参列して下さいました。本当に本当に有り難いと思いました。

すべての親戚に私の病気を知らせてはいませんでしたが、私の顔も見に来て下さったのだと思います。

両親が茨城に移り住んだのは私の家の近くに住みたかったから。それなのに病気が分かって、通院に便利なように私は8月から東京に居を移してしまいました。茨城では満足な治療が受けられなかったし、東京までの通院が段々難しくなっていたからです。父は理解してくれましたが、さびしかったと思います。

良かったことはちょうど一ヶ月前、茨城に帰れたこと。数年前から耳が極端に遠くなっていたのに補聴器を嫌ったので、会話が難しく、元気そうな顔を父に見せる事ができて本当に良かった。それと亡くなる2日前に、私が今飲んでいる新薬がかなり期待できるということを、母を通してですが伝えることができた事。父はとてもとても喜んでいたそうです。

私は父より先に死んではいけない。悲しませてはいけない。そういう思いがとても強かったので、こうして父が安らかに旅立つことができ、私が、父を見送ることができて、正直安堵しております。事情を知らない人からみたら変に思われるかもしれませんが、父の死のショックよりも、最低限の親孝行ができたことにほっとしています。

棺の中の父に「お父さん、すぐにそちらの世界に行くことはなさそうよ。できるだけ、がんばって生きるから、大分先になるけれど待っていてね。」と声をかけました。

何よりも母のことを案じていた父。数年後にはフランスに帰る妹と体にリスクのある私。でも、お母さんのことはちゃんと考えるからお父さん心配しないでね。

「千の風になって」の曲が流れていました。妹の子供も歌ってくれました。いい歌ですね。病は炎が焼き払ってくれました。今は不自由な体から解放されて、自由に好きな所に出かけて下さい。