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 水墨の美 10 雪舟等楊の筆致と境地  東洋に裸体画はない?

2024-09-19 17:04:12 | 日記
A.雪舟の破墨山水図
 先年亡くなった橋本治さんの著作はいっぱいあるけれど、この「ひらがな日本美術史」というシリーズは、1990年代に『芸術新潮』に連載されたもので、古代から現代までほぼ網羅的に、しかも橋本的独自の軽やかな視点で、縦横にしつこく論じている。ぼくはこのような本があることを全然知らなくて、最近たまたま区立図書館でみつけ、借りてきて読んだ。やっぱりすごい。橋本さんは、「桃尻娘」の小説家ということで世間に知られたけれど、文章のみならず絵でじゅうぶん「飯が食える技を持っていた人だ。今年横浜の文学館で開かれた回顧展で、その切り絵や編み物まで、多彩な作品を目にして、この人はすごい!と痛感した。その「ひらがな日本美術史」から、室町時代の雪舟の「破墨山水図」について念入りに論じている部分。

「ここにかかげるものは、雪舟が描いた《破墨山水図》である。現在は国宝に指定されている。「雪舟で、室町時代で、国宝で、水墨画――ということになるともうなにがなんだか分からない」の典型のようなものである。
 ここには“なに”が描いてあるのかがよく分からない。どこを見て「いい」といえばいいのかも分からない。大体これは、“絵”なのかどうか?幅が32センチちょっとで縦が1メートル48センチばかりある掛け軸の、上三分の二は字だけである。漢字ばっかりで、やたらハンコが押してあって、その下に“汚れ”だか“しみ”のような“絵らしきもの”が描いてある。タイトルは《破墨山水図》である。「‶破墨"というのがよく分からないが、“山水画”であることだけは確からしいから、これはきっと“風景画”なのだろう」などと思う。墨で描かれているのも確かなんだから、「これはやっぱり“水墨画”なんだろうな」と思う。しかしそう思っても、それ以上は分からない。“墨の汚れ”のようなものの上に難しい漢文がゴチャゴチャ書いてあるから、「これはきっと難しいものなのだろう」という気だけはする。だから、「これは普通の目にはワケが分からない深遠な心の風景を描いたものなのだろう。なるほど、なんだか深い思想がこの絵に込められているような気もする。さすがに雪舟だ」などと思って東京の国立博物館の陳列ケースの前で手を合わせてしまうかもしれない。室町時代の1495年、雪舟が76歳のときに描いた、《破墨山水図》は、そんな作品なのである。
 一体これは“なに”で、ここには“なに”が書かれていて、“なに”が描いてあるのか?
 この掛け軸の上の方――漢文の列が三段ある。その一番下の段が、雪舟の自筆の文章である。前章の《山水長巻》でちょっと触れた文章だけれども、ここには下にある絵の“由来”が書かれている。
 「相陽(そうよう)(相模(さがみ)の国の南=鎌倉)の宗淵(そうえん)という蔵主(ぞうす)(蔵主は禅僧の職掌)は、私について画を何年も学んだ。既に基本はマスターしている。自由に絵を描き、いかにも勉強熱心である。今年の春“国に帰る”と言って、その彼の言うことには、“先生の絵が一点ほしいのです、それを私のところの代々続く家宝(箕裘青氈(ききゅうせいせん))にしたいのです”―-そう何日も私にせがんだ。私は老眼だし頭もぼけて、そういうことのやり方は知らないのだけれども、彼の志に押されて、それでまァ、先のすり切れた筆を持って、淡墨(うすずみ)をそそいで、これを与えて、こう言ったのである。
“私はかつて偉大なる宋の国へ行った。大河を北へ渡り、古い斉や魯の国の郊外を通って北京へ着き、そこで絵の先生を探した。そうはしたんだけれども、筆をふるって(揮染)品格抜群(清抜)である人はほとんどいなかった。その中で、長有声と李在の二人が、世間ではいいということになっていた。会って入門して、色づけのポイントを教わった。破墨のやり方も同時にである。数年たって我が国に帰った。私の絵の親(祖)である如拙・周文両先生の描いたお手本は、すべて先人の作を正しく受けていて、これに何かをつけ加えたり文句を言う必要のないことが非常によく分かった。日本と中国を見て回り、そうして、両先生の見識の高さと精神性の深さをますます尊敬するようになったのだ”
 弟子が書けというので、笑われるのを承知で書きました」

 そう書いてあるのである。最後の「弟子が書けというので、笑われるのを承知で書きました(子ノ求メニ応ジ、不顧嘲書焉(あざけりをかえりみずかく))」は、「でしゃばって書いたんじゃない。“書け”というから書いたんだよ」という意味の、謙遜の決まり文句だからどうでもいい。
 前章で言った通り、如拙と周文は雪舟の師匠に当たる日本人の画僧(周文が直接の先生で、如拙は周文の先生)。「結局幸福の青い鳥は家にいた」ではないが、「中国まで行ってもロクな先生はいなくて、日本に帰って来て見たら、やっぱり如拙先生と周文先生はすごかった」である。中国で雪舟に色づけ(設色)と破墨の方法を教えた、長有声と李在の二人は、実のところたいした画家ではない(らしい)。李在の方はともかく、長有声にいたっては、中国では画家としての認知を受けてもいないような人間なんだそうな。「世間ではいいということになっていた」と訳した「時名ヲ得」は、「たいした腕ではないが、たまたまちょっとだけ流行っていた」ぐらいのもんなのだろう。
「本場に行ったけど、昔はいざ知らず、今の本場にゃロクなものはない。行っただけが幸いで、ロクな相手じゃなかったけど、日本じゃまだ知れらていないやり方があったので、それだけともかく習ってきたよ」というところかもしれない。雪舟が行ったのは明の時代の中国だが、彼はここで「偉大なる宋の国(大宋国)」と書いている。日本で「偉大なる本場中国の水墨画家」と崇められていた人達はみんな宋の時代の人だから、それで雪舟も、あえて「大明国」とは書かず、「大宋国」と書いたのだろう――ということになっている。
 この掛け軸の文章が書かれたのは、雪舟が中国に行った二十八年後なのだけれども、二十八年前に中国へ行こうとした雪舟は、もしかしたら、「大明国に行く」と思っていたかもしれない。中国へ行こうとする十五世紀中頃の雪舟に向かって、「行きたいって言うんなら行けばいいけど、向こうにゃもうロクな画家はいないよ」なんてことを言う人はいないはずなんだから。中国に行く以前、日本にいた雪舟は、如拙・周文の二人を既に立派なすごい画家だと思っていた。だから、「ますます尊敬するようになった(而(しこうし)テ弥仰(いよいよあお)グ)」と書いているんだろう。「自分の前にいる先生は立派な先生で、その先生の描いた立派なお手本だってあるんだから、もしかしたらわざわざ中国へ行く必要なんかないかもしれない――でも、やっぱり中国へ行ってみたい」というのが、雪舟の本音だったろうと思う。
 まァ、そのように雪舟は中国へ行って帰ってきたわけなんだけれども、しかし、「そのこととこの《破墨山水図》という掛け軸の間にはなんか関係があるのか?」ということになったら、実は、よく分からないのだ。
 鎌倉からやって来ていた弟子の宗淵が「国へ帰る」と言って、それで、先生お願いです、家宝にしたいんです。先生の絵がひとつほしいんです(願ワクバ獲ン翁ノ一図)と言った。それで雪舟は、「先のすり切れた筆を持って(拈禿筆)、淡墨をそそいで(洒淡墨)」この絵を描いて与えた。原文にある「禿筆」というのは、穂先のすり切れた、俗に「坊主筆」ともいう筆で、雪舟の強いタッチはこの筆によっている。「禿筆」という言葉には「使い古しのぼろ筆で書いたつまらないものです」という、自分の書いた文字や文章を卑下する謙遜の意味もある。しかし「拈筆」という言葉は「筆を取る」という意味だから、この「拈禿筆」は、ちょっとばかり謙遜が入っているかもしれないが、やっぱり文字通りの「先のすり切れた筆を持って」になるだろう。雪舟は、いつも使っている愛用の禿筆を持って、それから、淡墨を洒(そそ)いだ。なんで「淡墨を洒ぐ」なんてことをしたのかというのは、この掛け軸の絵を見れば分かるだろう。文字通り、この絵は“淡墨を洒ぐ”によって成り立っている絵だからである。
 この《破墨山水図》のなんだかわけのわからないところは、淡墨が主体になっているところにある。何が描いてあるかをはっきり示すような輪郭線がなくて、淡墨がボワンとにじんでいたり、淡墨をこすりつけたりしたようなタッチの上に、ところどころ黒い墨が入っている。これはなんなのかと言うと、つまりは、「霧のなかの風景」なのである。
 遠くに、中国の風景特有の、墓石のように切り立った山がボーっと霞んでいる。その手前(絵の下の方)のゴチャゴチャしたものは、“崖”である。海だか何だか湖だかわからないが、画面の一番下は“水面”である。そこに、“崖”が突き出している。崖の上には木が茂っている。その下は、おそらく剥き出しの岩肌である。崖に向かって右下には、“家”がある。何軒かの家が立ち並ぶ“集落”かもしれない。黒い墨の線で“屋根”が描いてあって、その“前”というか“下”に、黒くて太い墨の線が素早く重ねられているのは、普通には“建物を囲む塀”だと言う。言われてみれば、そのように思える。その“塀”から右の方へ向けて斜めに伸びている線は、“旗竿”だという。この“旗竿”の端にちょっと書き加えられている“旗”だろう――そういうことになっているのだが、しかし私には、この“崖の下の家”が、‶旗竿をつけた漁船”のようにも見える。それはきっと、“愚かな目の錯覚”だろう。
 画面の右下――濃い目の淡墨の筆が、サーッ、サーッと、二筋引かれている。上の方はにじんでぼやけて、いかにも“霧の中の水面”なのだが、そのにじんでいくところに、小さく不思議なものが描いてある。画面の一番右のところにある、細い黒い線である。黒い線の上に“小さな三角”が二つあって、一体この部分がなんなのかと言うと、“霧の水面を行く小舟と、それを漕ぐ二人の人物”なのである。「そう思え」と言うのなら、そう思いましょう。「これを、“霧の水面を行く小舟と、それを漕ぐ二人の人物”と言うのには、ちょっと無理があるなァ……」と思う人もいるかもしれないが、しかし、雪舟が淡墨を使ってこういう描き方をした時の“船”に関しては論評を避けるけれども、それ以外のところは、やっぱりすごいのである。本当に、“霧の中から濃い緑を茂らせた岩の崖がニュッと姿を現している”なのである。遠い山から降りて来た霧が水面にわだかまって、その霧を映した水の表面が、不思議に強い“白”を見せている。白い紙の上に淡墨をにじませて、それによって“暗い水面に映る白い霧”を表現しているのは、やっぱりすごい――画面の左下の、「雪舟筆」というサインのあるちょっと上である。
 そう思って、この上の方を見ると、いたって淡い淡墨の上に、「うっかり墨のついた筆を落したんじゃないだろうか?」と思われるような、あるいはロールシャッハ・テストのような、黒い墨のにじみがある。これは画面の中心部にある“崖の上の緑”が左の方にまで続いていて、それが水面に向かって渦巻いていく霧の中で怪しい姿を見せているところなのだ。この絵の中にある“霧”は、やっぱり“水面から立ち上る霧”ではなくて、“高い山の上から降りて来た霧”だろうと言うのは、遠景になっている中央の高い山の左側がぼかされていて、そこに“濃い一面の霧が舞い降りている”という景色が見えるような気がするからだ。そうであればこそ、この左側の“ロールシャッハ・テスト”が、“霧の中にもつれる暗い緑”のように見える。これは、“墨の濃淡の効果”を存分に発揮するようにして描かれた“霧の中の風景”なのである。そういう絵を描こうとしたからこそ、雪舟は「先のすり切れた筆を持って、淡墨をそそいだ」なのである。この絵を描いた筆が、普通に絵を描く時に使う“穂先の揃った新しい筆”なんかではなくて、“使い古して先のすり切れた筆“であることは、もう分かるだろう。
 弟子の宗淵が、「先生の絵がひとつほしいんです」と言ったとき、雪舟はこういう絵を描いた。そして、そういう絵の上に、「私はかつて偉大なる宋の国へ行った云々」の文章を自分で書いたのである。なんでそんなことを書いたのかと言ったら、この絵を描いた時、出来上った絵を宗淵に渡した後で、「私はかつて偉大なる宋の国へ行ったのだがね、云々」と雪舟が言ったからである。雪舟の書いた文章には、そう書いてある。
 この「霧の中の風景」の上に書かれた文章は。「雪舟自身が語る、この絵を描いた由来」である。その内の、「私はかつて偉大なる宋の国へ行った――」以降は、「雪舟、中国体験を語る」といった貴重な歴史資料として引用されることが多いが、この自筆の文章自体は、あくまでも「弟子の宗淵に送った絵の由来」なのである。」橋本治『ひらがな日本美術史2』新潮社、1997年。pp.164-169.

 雪舟が行った中国は、偉大なる宋(南宋)ではなくて、朱元璋の立てた明国であった。その明と交易をして利を得たのは足利将軍家だった。破墨山水図の上部に書かれた雪舟等楊の文章によって、かれが憧れて渡った中国に失望して帰ってきた、という心境を後世のわれわれは想像するんだけれども、ほんとうのところはそうでもなかったんじゃないな、と橋本治は書いちゃう。いや~、橋本さんの文章を書き写していると、この人は相当にしつこいなあ、と思った。繰り返しを重ねてくどいほどだが、真行草でいえば、草書体なんでくそ長い文章でもすらっと読めちゃう。これもすごいな。


B.くりかえし橋本治
 『ひらがな日本美術史』はもうこれでいいや、と思いつつ、とまらない。困ったもんだ。昨日の新聞に、日本人の6割が本を読んでいない、という調査結果の記事があった。本を読めと子どもには言っているくせに、大人も子どもも本なんて面倒なものを読んでいる暇がない、と平気で言う。日本はわざわざ外国語の文字や文章を一から勉強しなくても、世界の情報も文化も、自分たちの日本語で読めるような幸福な言語環境を持っている。それは明治時代のインテレクチュアルな人たちが、言文一致の文学を頑張って作ってくれたおかげだということを、橋本治もしつこく言っていた。だが、電子書籍を含め、いまの日本人は書物を読まなくても、なんでもすぐ知って一人前に通用すると思っている。だとしたら、未来は暗黒に向っている。さて、おまけは「裸体」のお話。

「 日本を含む東アジアの文化圏には、あまり“裸体”というものが登場しない。この文化圏の中心にあった中国人が、それをいやがったからだ。
 中国文学者の中野美代子さんは、朝日選書から出ている『悪魔のいない文学』に収録されている「衣裳としての思想――中国人における肉体不在」の冒頭で、こういうことを書いている――。
 “中国の美術史に裸体画もしくは裸体像がただの一度も登場しないことを、私はかねがね疑問に思っていた。もとより、ポルノグラフィの分野においては、はだかの男女の性戯が描かれていて、私の疑問にいくらかの修正を要求するのであるが、しかし、それはあくまでも性戯を描いたものであって、人間のはだかの肉体を描いたものではない。中国の美術史には、裸体画もしくは裸体像は存在しないのである。”
 また、平凡社イメージ・リーディング叢書の一冊『人の〈かたち〉人の〈からだ〉』(東京国立文化財研究所編)という本では、「民国期中国における裸体画論争」と題して、鶴田武良さんがこう書いている――。

 “東アジアの国々の美術が西洋の美術と異なる点のひとつは、裸体を主題とする美術の伝統を持たなかったことである。 中国の美術は、非常に早い時期から人のかたちを表現しているが、裸体を主題とすることはなかった。”

 鶴田さんによれば、現存する中国のポルノで最も古い明の時代の作品でも、「そこに描かれている裸体はただ『人のかたち』を示すだけで、画家の関心はもっぱら男女の体位にあって、はだかの人のかたちにはなかったと考えられる」なのである。
 日本人は明治の近代化以来、妙に“性”というものに抑圧的になって、「日本人は性的に淡白だ」というへんな迷信を作ってしまった。これはほとんど、「油を使わない日本料理は淡白だが、油を使う西洋料理や中国料理ははこってりしている」の言い換えでしかない。なにしろ“淡白の日本料理”の基本を完成した江戸時代は、浮世絵ポルノの全盛期だったのだから。しかし、若い頃の愚かな私は、そういう突っこんだことをよく考えられなくて、「日本が淡白なら、濃厚な中国を体験してみようか」と、中国の四大奇書に一つである『金瓶梅』を読み始めたのである。噂によれば、、この小説は「いやらしさの極み」であるはずだったのだが、いざ読み始めたらとんでもなく退屈で、四分の三を読んだところで投げ出してしまった。そしてそのことを中国文学の専門家にあったときに話したら、「それはエライ」と言われた。「そんなに忍耐強いのはエライ」ということである。
『金瓶梅』は、たしかにセックス描写ばっかりの小説でもあるのだが、結局は「今日は誰とどこでどういう体位でしました」というだけの記述のオンパレードなのである。さすがに欲望の国・中国だけあって,性行為と一緒に食事のシーンもやたらと登場して、「その日は、誰と一緒にこういうものとこういうものを食べました」という描写もエンエンと続く。だからどうなのかというと、中国料理のメニューをエンエンと読まされているだけなのである。料理のメニューをエンエンと読まされて、満腹したその後で主人公の始めるセックスの描写も、やはり料理のメニューのようにエンエンと続く“性交体位のメニュー”なのである。小説らしい筋立てがあるのは初めのほんのちょっとだけで、後は性欲と食欲のメニューのエンエンたる繰り返しなのである。「これでは誰だって退屈するだろう」というところで、前述の専門家の「それはエライ」発言がくるのである。つまり、「性戯を描いたのであって、人間のはだかの肉体を描いたものではない」とか、「関心はもっぱら男女の体位にあって、はだかの人のかたちにはなかった」ということは、そういうことなのである。
 日本人の肉体表現は、清長や歌麿の出てくる浮世絵の時代になって、やっと本格化する。それ以前にも春画はあるけれども、どうも肉体性は希薄だ。「やっている行為」だけが描かれて、「やっている人間」の方がぼんやりしているからだ。この肉体性の希薄は、別に淡白な日本料理を生んだ国の特性ではなくて、こってりした中国料理を生んだ中国でも同じだ。いや、日本文化の本家である肉食の中国の方がもっとひどい。なにしろ中国人は、長い間“裸体”を描こうともしなかったし、肉体を直視しようともしなかったのだから。伝統的な中国医学の漢方には「解剖図」というものがない。そこにあるのは鍼灸の「経絡図」――ハリのツボとそのつながり方の絵――だけなのだ。『解体新書』の翻訳を始める江戸時代の日本人の方がまだ進んでいる。
 「衣食足りて礼節を知る」の中国人にとって、裸になった人間の肉体というのはどうでもいいもので、その上を飾る衣裳の方が重要だった。「日本人は性的に淡白だ」をいいたがる日本人も、結局はこちらだろう。きちんと着るべきものを着ているのが礼儀正しくて、裸でいるというのは「下賤の者」でしかなかったのだ。そんなことを考えていれば、肉体というものはどっかに行ってしまう。衣服を脱いで裸になって始める性行為は、“いかがわしいもの”になってしまう。いかがわしい肉体は直視されないで、しかし“快楽”であるセックスだけはしたい――ということになったら、どうしたって「肉体性が希薄な体位だけの快楽図」というものにしかならないだろう。我々は中国渡来の儒教道徳のおかげで、「まじめな人間ほど肉体性を軽視する」ということになってしまったのだ。」橋本治『ひらがな日本美術史 2』新潮社、pp.115-117.
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 水墨の美 9 雲・霧・煙の表現  歴史家の妄執

2024-09-16 12:30:39 | 日記
A.牧谿・玉澗・石濤
 水墨で描かれた風景画を「山水」と呼ぶとして、その風景は中国の現実の風景を写生したものとはいえない。実際にある場所で見た景色がもとだとしても、水墨という技法の妙は、写実ではなく幻想的なイメージをかき立てるところにあるのだから、それがどこであるかということはさして重要ではない。そういう例は、本場中国の「山水」でもとくに薄い墨の暈しを効果的に使った「潑墨」の名作によく現れている。それは具体的なモノや人の形態を極端に単純化し抽象化するので、見る人はそれがなんであるのか、目を凝らして見てもすぎには分からないほどである。
 島尾 新『水墨画入門』には、そういう中国の画人の作例が3つ紹介されている。

「牧谿の「煙寺晩鐘図」は、パッと見ただけでは何がえがいてあるのか分からないだろう。「煙寺晩鐘」だから寺があるはずと、濃い墨のところに近づいて見れば、木立とその向こうに寺院の屋根が見えてくる。それがとても淡いのは、手前に霧が流れて霞んでいるから。ということは、その上は曇った空で、下は一面の霧ということになる。小さな図版で説明するのは心苦しいのだが、その表情が実によくあらわされている。
淡墨の空は雨雲というほど重くなく、薄曇りというほどには軽くない。手前に立ちこめる白い夕霧は、寺との距離のみならず湿った空気の感じまでを出している。特徴的なのが、寺の向こうにすーっと横たわる明るいひと筋。寺院や木立の背景となって、それらを浮き立たせているのだが、そんな効果のためだけにえがかれたのではない。これは実際に見えるもの。やや曇った夕暮れ時、日の沈む直前の空低く、水平に薄く明るい帯が現れることがある。それが、淡墨と紙の白さによる微妙な明暗で表されている。
光によって大きく表情を変えるタイプの画であることはすぐ分かる。照らす光を弱めれば、夕霧が次第に濃くなるとともに、淡墨の表情が見えてきて、画面の空間は深みを増しつつ暮れなずむ。さて鐘の声まで聞こえるかどうか。

 ほとんど空が夕霧のなかに、寺と木々を霞ませただけの、極めて象徴的な表現に見えながら、その一方で牧谿は「実際の感覚」を呼び覚ましてもいる。ここでは「象徴性」と「再現性」という、ふつうは相反するように思われるものが両立しているのである。「象徴的なイリュージョニズム」とでも呼べるだろうか。
  洗練された「潑墨」
 もうひとつの玉澗の「山市晴嵐図」も、象徴的な表現だけれどタイプはまったく異なっている。えがかれたものを確認してゆけば、中央に人が二人いる。目鼻も見えない、ほとんど記号のような表現だけれど、ひとりが杖をついて、ともに右へと歩んでいることは分かる。その行く先にはこれまた簡単にえがかれた家の屋根が連なり、「山市」――山の中の集落もそうである。実は「水墨山水」には繊細な墨の表現とともに、お決まりの記号やルールもあって、それには素直に従わねばならない。
 こうして、どんな風景かが分かってくる。橋の両側は岩か土だろうし、その下は川でなければ。集落の上には山が連なり、人の周囲は真っ白だけれど、虚空を飛んでいるのではなく、「山気」にけむる山を登っている……。全体へと戻れば、手前の橋から山を登り、集落のところで左上へと向きを変えて奥まってゆく空間が見えてくる。
 とはいっても、個々の部分がどうなっているのかは、依然として判然としない。牧谿の「煙寺晩鐘」とは異なって、橋の両側の黒いところを、いくら見つめていてもどんな地面だかは分からない。山も同様で、すぐに見える以上の情報はない。結局のところ、人や家や橋を取り去ってしまえば、残るのは意味不明の墨の面。それでも、白い紙と濃い墨のコントラスト、薄い墨を加えた配置とバランスで、なんとなく画にはなっている。この「水墨山水」は、半分は抽象画のようなものなのである。

  画との対話
 いずれにしても、ここに「山水の景」を浮かび上がらせるのは、半分は観る人の想像力である。玉澗がやっているのは、そんな想像力を刺激すること。そこが画家の腕なのだが、それにしても「見よう」と思わなければ、見えてはこない。たとえば、屋根の横や上にあるもわもわした墨は何なのか。実はここも「晴嵐」なのである。夏の山に揺らめく陽炎のむこうに見える木々?しかしこれも確とは分からない。そうと思えば、そんなふうに見えてくる‥‥‥。
 「そんな面倒な」と思われるかも知れないが、そこを楽しむのが南宋という時代だった。牧谿の「煙寺晩鐘」も、見たとたんに目に飛び込んでくる画ではない。画とのコミュニケーションをとるには「相手に合わせる」ことも必要で、画の要求に身をゆだねると、下の方から迫る夕霧と、その中に霞む木々や家の屋根などが浮かび上がり、吹く風とやや湿った大気までが感じられるようになる。
 私がこのような画を好きなのは、「画との対話」が成り立つから。観る者の想像力が、画のイメージ形成に関わる「参加型」で、描く側だけでなく観る側の「胸中の丘壑」ともなる。すべてがえがかれているのと違って、押しつけがましくないのもよい‥‥‥。
 芸術の質は「創る者」と「観る者」との緊張関係によって変化する。北宋・南宋は「画が好きな」時代、そして「眼のいい」時代だった。蘇軾や米芾のような厳しい批評家がおり、今語ったようなプロセスを楽しむ人々が多くいて、画家たちもそれに応じてえがいていた。
 しかし、この鑑賞のプロセスには、それなりの時間がかかる。現在の日本の特別展では、展示品の数は100点以上。会場に二時間いても、一点あたりの時間は平均一分。かつ人の頭も見えてじっくりというわけにはいかない。しかし、どこの美術館でも常設展示はすいている。「特別展主義」から少しこちらへシフトするといいと思う。
  水墨のカラリスト 
 さて、「胸中の丘壑」がさらに進むと、いわゆる「心象風景」に近いものも現れる。清初の画僧・石濤(1642~1707)がえがいた黄山の風景。
 黄山は奇峰の連なることで知られる安徽省にある名山で、現在「黄山名勝区」とされるところは150平方キロもあり、山中のピークは七二峰。古くから知られるが、人々が「黄山めぐり」をするようになるのは明末の頃だという。桂林とともに「水墨画のふるさと」といわれ、水墨山水のような風景が見えることは確かだが、歴史的には少々眉唾である。
 石濤は三度ここを訪れ、山中の八つの景を画帳にまとめた。これはそのひとつで、よくえがかれる奇峰ではなく麓の風景に、自ら「何れの年か石虎に来り、臥して鳴弦泉を聴かん」と題している。「いつかまた黄山を訪れ、虎頭岩に寝ころんで、ゆったりと鳴弦泉の音を聴きたいものだ」。そんな願いをえがき出したもので、左上の小さな瀧が「鳴弦泉」。岩に落ちる水の音の響きを琴の音に喩えた名付けである。右下の変わったかたちの岩が「虎頭岩」。こちらは文字通り、虎の頭に似ているから。その下に傘をかぶって杖をもつのが石濤自身。体の下半分は余白に溶ける。
 石濤 鳴弦泉
 実際には、鳴弦泉と虎頭岩とのあいだはかなり離れていて、こんなふうではない。虎頭岩で鳴弦泉の音を聴きたいという願望が、余白を隔てて瀧のある、夢のような風景をえがかせた。この世白は石濤に水の音を伝える「胸中の空間」なのである。
 その夢幻を演出しているのが、淡い青と緑そしてピンクの色彩感。「水墨の色」についても触れる暇がなくなったが、基本のパターンはふたつで、ひとつは牧谿の鶴で見たような、モノクロームのなかのワンポイントに印象的に使うもの。やり方によっては強烈な表現も可能である。淡く柔らかできれいな色が文字どおり「水彩画」を思わせ、やわらかなタッチの墨もその透明感にマッチしている。和風にいえば、そのなかでの余白の「間」が絶妙。ついでにいえば石濤の題の墨も効いていて、これをなくすと左がぼける。濃墨が画面の左サイドを押さえているわけだ。」島尾 新『水墨画入門』岩波新書、2019年。pp.196-202.

 石濤の「鳴弦泉」は、モノクロームではなく色がついているが、その墨線のあざやかな効果はやはり水墨ならではである。このような技は、日本でも雪舟の「破墨山水図」で見事に実現しているが、それについては次回。


B.どうしてそうなるの?
 8月19日に死去した東大名誉教授の近現代史学者・伊藤隆氏(91)への追悼文が朝日新聞に載っていた。去年、斉加尚代という人が監督したドキュメンタリー映画「教育と国家」2022を見たとき、そのなかに登場した東大名誉教授の近現代史学者・伊藤隆氏の発言には、ほんとうに驚いた。「反日左翼」への敵意むきだしで、学問や思想以前の、感情的生理的憎悪が迸っていた。実証主義的歴史研究で知られる学者が、どうしてこんな感情的な極右発言をするんだろうと不思議だったが、その弟子の追悼というこの記事を読んで、そうなのか、とある意味呑み込めた。

「伊藤隆さんを悼む 近現代史、実証的手法で開拓  寄稿 古川隆久 日大教授(日本近現代史)
 史料発掘・聴き取りを徹底、広く公開 後年は右派論客
 伊藤隆先生は、日本近現代政治史研究に実証的手法を定着させた意味で一時代を画した歴史学者である。私は、学部から大学院にかけて通算8年間、門下で学んだ。まさに感謝すべき「恩師」である。しかし研究を進めるうちに、日本近現代史や歴史について考え方が異なっていった面があることも事実である。そうした前提から、恩師の「遺産」について考えてみたい。
 伊藤氏は、東大生時代に日本共産党系の活動家となり、やがて党を離れて左翼系学生組織で活動、1960年の安保闘争を機に活動から手を引き、歴史研究者を目指した。当時、日本近現代史はまだ歴史学の守備範囲とは考えられておらず、氏は日本近現代政治史研究の開拓者の一人となった(伊藤隆『歴史と私』)。
 学問上の功績の一つは、日本近現代政治史、特に大正・昭和期の政治史の実証的研究という手法の開拓である。一次史料(日記、書簡、書類など)の発掘と当事者への聞き取り調査を徹底し、同時代の全体状況を踏まえて読み込むことで、政治学の理論や特定の政治信条(イデオロギー)から解き放たれた、まさに「当時そうであった」状況を探ることを可能にした。その方法論は、デビュー作にして代表作の『昭和初期政治史研究』(69年)ですでに確立している。
 人はどうしても過去の自分を美化しがちである。日本近現代政治史の場合、敗戦に至る過程で国家の重職にあって戦後生き残った人ほど、人生を美化する程度は激しくなる。だから、結果を知らないうちに書いた日記、手紙、業務日誌や書類、当時刊行された新聞、雑誌、書籍、当時の画像、録音は歴史研究では必須の資料である。しかし時代が近い場合、個人や組織の名誉にかかわるという理由で公開されない、あるいは廃棄されてしまう場合が少なくない。
 伊藤氏は、国政の中枢に関わった人に会いに行き、自宅に残されている資料の発掘作業を独力で始めた。読み解く手がかりとするため、そうした人々への聞き取り調査にも尽力した。調査の範囲は軍部、官僚、政党、労組、マスコミなど多岐にわたり、のちに戦後史にも及んだ。明治史関係を含む膨大な数の資料集、聴き取り記録集を刊行し、国立国会図書館憲政資料室で史料を公開した。日本近現代政治史の研究者で、伊藤氏の史料発掘の恩恵を受けない人はいない。多くの研究者仲間や大学院生らとの共同作業で、大量の資料があっという間に広く使えるようになった。
 一方で、伊藤氏には負の遺産もある。93年の東大退官後、いわゆる右派の論客として知られるようになった。ただし、考え方を急に変えたのではない。東大在任中から歴史学会や歴史教育の世界が左翼主流だとして違和感を表明していた。
 歴史研究の成果をもとに日本近現代史を学ぶと、国家についての批判になりがちで愛国心が育たず、国家の超越を目指す左翼思想(マルクス主義)に染まって、日本は滅びてしまう。それを避けるため、国家を愛する気持ちになるような歴史教育をすればよいのだ、という考え方である。しかし、こうした歴史教育がどのような結果をもたらしたかは、80年前の日本を振り返ればわかることである。
 多くの研究成果をもたらした歴史学者として、より広い視野で歴史の見方について提言をしてもらえていたら、どんなにすばらしかったことか。伊藤氏の歴史学者としての軌跡は、歴史学と国家や政治との関係を考える上での痛ましい事例として今後研究されていくことだろう。」朝日新聞2024年9月13朝刊24面文化欄。

 前から思っていたことだが、この人たちは戦争中、皇国史観で洗脳された軍国少年で敗戦を経験し、大学生の頃は戦後民主主義の全盛期だった。伊藤氏も戦後しばらくの学生時代は、左翼運動に邁進していたという。あの時代には、いまの安倍晋三的復古的国粋的なことを言えばインテリにあるまじき「お前バカか!」と軽蔑された体験が、根深い怨念、トラウマになっていると思われる。
 伊藤氏の年齢を逆算すると、1933(昭和8)年生れ。ということは、敗戦時は12歳だから軍隊には行っていない。東大生で左翼学生だった頃は1950年代前半で、朝鮮戦争と共産党の暴力革命路線の弾圧と挫折、逆コースの時代。運動を離れ歴史研究をめざした1960年は、27歳の大学院生ということになる。その記憶が、屈折した左翼への憎悪として噴き出ているのだろう。ある意味不幸な人たちだな。
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 水墨の美 8 牧谿と玉澗  防毒面?

2024-09-13 17:22:37 | 日記
A.観音猿鶴図
 牧谿(もっけい、生没年不詳)は、13世紀後半、中国南宋末元初の僧。法諱は法常で、牧谿は号だが、こちらで呼ばれるのが通例。俗姓は李。水墨画家として名高く、日本の水墨画に大きな影響を与え、最も高く評価されてきた画家の一人。以下、Wikipediaの記述によれば、崇慶府の出身。その後、紹興府に移り、禅宗の高僧無準師範の門下に入ったとされる。南宋の首都臨安にあり、風光明媚な西湖の畔に臨む六通寺(現在は廃寺)に住み活動していた。中国ではあまり評価されなかったといわれるが、賈似道のような大物政治家と関係があったことから、当時は画家として十分評価され、江南山水画の主流に位置づけられていたと考えられる。しかし、中国では死後次第に忘却され、既に元代には「粗放にして古法なし」(元末の絵画史家、夏文彦『図絵宝鑑』巻四など)とする悪評がある。後代の文人画の流行により、牧谿が連なる院体画系の絵師や仏教美術は相対的に低く評価されてしまい、牧谿もそのあおりを受けてしまったというが正しいだろう。
日本の室町時代の禅僧が、渡来した牧谿の画を珍重したことで、結果的に日本の水墨画の模範とされた。「院体画」という語についても、中国における宮廷画家の画風を指す。伝統を重視し、花鳥や山水など写実的で精密に描くのが特徴。唐代に起源を持つ画院(翰林図画院、徽宗の時代に最も盛ん)で描かれるような画であり、花鳥・人物・山水などを宮廷趣味に即して描いた。代表的画家としては、北宋の徽宗や南宋の夏珪、馬遠、梁楷などがあげられる。

「牧谿の「観音猿鶴図」を眺めながら、改めてまとめておこう。矢代幸雄の『水墨画』(岩波新書1969年)で、真っ先に引かれていたこの三幅対の大幅は「水墨画の最高傑作」として常に挙げられるもの。その主な理由は、「水墨表現」の基本となるヴェリエーションが詰め込まれ、かつ見事に効果を発揮しているからである。
 主題については諸説あるが、絹にえがかれた大幅だから、寺院で公に用いられたとすれば、基本は観音の礼拝像に鶴と猿を添えたものだろう。ただし礼拝像に通例の、正面向きの姿ではないのが気にかかる。白衣の観音は、人々を慈しむ身近な仏として、在俗の信者にも広く拝まれた。これに子を抱く猿と、子を呼ぶ鶴との組み合わせは、すべてが母性を思わせる。有力な在俗の信者の求めに応じて、このようなテーマをえがいたのかも知れない。
 中央の観音は、白い衣をまとって洞窟のなかの岩に座り、、しっかりとした墨線がそのフォルムをえがきだす。西洋流にいえば、少々のデッサンの狂いはあるものの、「筆」の基本を見せている。そして周囲の世界を表現するのが「墨」の世界を表現するのが「墨」のトーンとグラデーション、岩は、手前の輪郭を濃く、奥ではやや薄くして奥行を出し、その内側に塗られ引かれた濃淡の墨が立体感を表しながら、上の方では漂う烟霞へと滑らかに繋がっている。その上の岩を加えて、観音の座す洞窟の空間のイリュージョンの表現は見事。細かなところでは、花瓶に挿された揚柳の枝が、花瓶の中では薄く塗られて、ガラスの透明感を表しながら、ちょっとしたアクセントにもなっている。
 向かって左幅は、鶴が竹林から歩み出て、首を上げ一声鳴くところ。まず目立つのは「白」と「黒」との対比である。「外隈」によって表された鶴の白い体は、きれいに塗られた尾羽の濃墨との対照をなし、さらに鶴の頭のてっぺんに点された赤が、モノクロームの世界のなかでの色彩の効果をよく示す。濃墨の面には「重み」も感じられ、鶴の尾羽はすべてが下を向き、鶴の歩みとともに揺れるよう。一筆でえがける典型的なモチーフの竹は、ここでは重なる葉が静かに垂れて、烟霞とともに深遠な雰囲気を醸し出す。鶴の尾羽と同じ濃墨だけれど、「線」と「面」の扱い方そしてテクスチャーに違いを見せている。
 右幅の中心は、子猿を右手に抱きかかえた母猿。「毛描き」と呼ばれる細かな線で、体の丸みをだしている。この可愛い猿は「牧谿猿」と呼ばれ、日本では水墨の猿の典型となった。左右対称の母猿は、ほとんど動きを感じさせず、動いているのはさっとなびく松の枝。葉をえがく細い線が風の向きを示しながら、葉の一つ一つはよく見えないという、実際の視覚に近づけるために擦れ、また暈されている。猿の毛と合わせて、異なるタイプの細かな「筆」を同居させているわけだ。そして猿のいる枯木の幹は、手前から奥へと伸びる。水墨ではけっこう難しいのだが、筆遣いを粗くしてゆくことでうまく表現されている。
 全体としてみても、たとえば左幅では鶴の「動」と竹の「静」、左幅では逆に猿が「静」で枝が「動」。そして「墨」の目立つ左幅と、「筆」の目立つ右幅というように、水墨表現のさまざまを取り入れて、しかもそれぞれが凝っている。牧谿が三幅のなかに、自らのもつ「水墨」を表現しようとは間違いない。
 そこからさまざまな方向に展開した表現について語る余裕はなくなった。許された紙数で、「水墨山水」のいくつかの典型的な事象に触れて終りにしよう。
象徴的な表現の山水画
 北宋の山水画は、郭煕が「山のすべてを知れ」といい、その「早春図」に「世界図」の趣があったように、常に「山水の全体」を意識していた。したがって大観的な構図が多く、范寛の「谿山行旅図」のように、その一部を切り取るにしても、造化の「大きさ」を感じさせるものとなっていた。これが北宋の末から南宋になると、小さな風景を象徴的にえがくものが目立ってくる。
 その表現には、大まかにいって三つのパターンがあった。
 ひとつめは、画面に小さな風景を切り取るという、表現の向きとしては比較的素直なものである。たとえば「高士観月図」では、松の木の生える大きな岩の下に高士が座って月を見ている。「松声」―-松の葉に吹く風の音――を聞きながら月を眺める、というのは風雅の基本。画中の景は、ヒューマンスケールへと引き戻されて、個別の情趣が盛り込まれ、観る人は画の全体を眺め、また画中の人となって月を見て、それを感じることになる。
 「早春図」で山水のなかを歩き回ったまなざしは、「外から」と「内に入って」の二つへと整理されるのだが、それをシンプルに実現しているのが、左下に人を、右上に月を置く「対角線構図」。この構図方は、南宋の「院体」―-画院のスタイルの基本となってゆく。
 このような変化には、詩的な情趣を画に込めるべし、という北宋の皇帝・徽宗(在位1100~1125)の意向が関わったといわれている。徽宗は画院の画家を選ぶに際し、「野水無人渡、孤舟尽日横」や「乱山蔵古寺」というような詩句をえがかせて試験した(『画継』)。
 前者の「野中に川の渡し場に、渡る人の影はなく、船がぽつんと日もすがら横たわっている」に対しては、多くの画家が岸辺に繋がれる無人の舟をえがき、鷺や鴉を添えたりしたのだが、一番に評価されたのは、船人はいる、閑かでのどかなイメージを思い浮かべ、吹かれない笛を転がして、それを強調してみせた。他の画家とは異なって、この句をえがくのに「人は見えないだけ」と、ひねってみせたわけである。
 前章で見たように「画は無声の詩」であり、「えがくべき詩」は『林泉高知』にも挙げられていた。しかし、そこに詠まれていたのは豊かな風景で、例の王維の「行きて水の窮まる処に到り、座して雲の起る時を看る」も、この二句だけで、川に沿って登る長い山道とそこを歩きながら見えるもの、そして最後にひらける雲の湧く風景を思い起させる。
 実はいま見た句も、真宗朝の宰相・寇準(961~1023)が、楼閣に登って眼下に広がる景色を見渡し、遥かな故郷に思いを馳せた、「春日登楼懐帰」という詩から取られたもので、全体として小さな景を詠んでいるわけではない。さらにそのもとには、中唐の詩人・韋応物の「野渡無人船自横」(「滁州西澗」)があるのだが、それらは切り捨て「野水無人渡、孤舟尽日横」のみを摘句して、ぐっとテーマを絞り込んでいる。
 またもうひとつの「乱山蔵古寺」は、高低入り乱れて連なる山々に抱かれて立つ古寺、という題である。多くの画家が、山々のなかに寺の塔や鴟尾(しび)をのぞかせ、なかには堂舎をえがく物もいるなかで、最高の評価を得たのは、一面の乱山のなかに、画題は少々謎めいて、見えない寺が、観る者の想像力をくすぐることになる。このように徽宗の趣味は、単に詩情を画に入れるのではなく、独自の解釈による、またひねりをきかせた象徴的な、知的でおしゃれな表現にあった。
 南宋の中期に入ると、「辺角の景」と呼ばれる、より典型化された小さな風景のパターンが生まれる。それを作ったのが、12世紀末から13世紀初頭にかけて活躍した、馬遠と夏珪という2人の画院画家で、その画風は「馬一角・夏一辺」などと呼ばれた。
 夏珪の方で見ておけば、「山水図」は、画自体も幅が25センチほど―現状は少々切り詰められているのだがーの小さなもの。夏珪自身の筆によるとは思われていないが、その画風をよく伝えている。画面の対角線の右下に近景、左上に遠くの山がえがかれて、あいだの余白が水面と空。えがかれるモチーフも数少なく、水辺に船が繋がれ、木立とその下に家の屋根、右には小さな橋があって、家の方へと渡る人がいるくらい、とても閑かな風景のなかに、気ままな暮らしを象徴する漁夫の住まいが、これまたひそやかに置かれている。
 もちろん、こんな上手い具合に切り取れる、実際の風景などありはしない。象徴的なモチーフを「対角線構図」のなかにきれいに配置して、理想的な小世界を作り上げるのである。前章で見た「江天遠意図」は、このような中国画をもとにして室町時代にえがかれたもの。テーマも共通する「隠逸の山水」だった。
  瀟湘八景
 これらの傾向を一般化すれば、一幅の「水墨山水」にえがかれるテーマが、絞り込まれるようになったということになる。その好例のひとつに「瀟湘八景」がある。
「張素敗壁」の宋迪がはじめてえがいたという画題で(『無溪筆談』)、徽宗もとても気に入っていたという。「瀟湘」は瀟推と湘水という湖南省を流れる川の名。瀟水は湘水へと合流し、北上して洞庭湖にそそぐ。洞庭湖は、ご承知の風光明媚な中国第二の淡水湖で、杜甫が「昔聞く洞庭の水、今上る岳陽楼」(「登岳陽楼」)と詠んだ岳陽楼が東北の隅にある。
 「そのあたりの八つの美しい風景をえがいたもの」といわれると、思い浮かぶのは「名所」をえがいたものだろう。実際、これを真似た日本の「近江八景」はそうなっていて、「石山の秋月」「比良の暮雪」「瀬田の夕照」「矢橋の帰帆」「三井の晩鍾」「唐崎の夜雨」「堅田の落雁」「粟津の晴嵐」と、すべて具体的な土地が入っている。
 ところが「瀟湘八景」は、「山市晴嵐」「遠浦帰帆」「漁村夕照」「煙寺晩鍾」「瀟湘夜雨」「洞庭秋月」「平沙落雁」「江天暮雪」で、実在の地名が入っているのは「瀟湘夜雨」と「洞庭秋月」だけである。そもそも洞庭湖から瀟湘の合流地点までは400キロほどもある広大な地域。実際に行ってきた人の話を聞くと、洞庭湖以外はどこやら分からなかったという。現在は観光地化を目的として、八景の場所が割り当てられたりするけれど、歴史的な根拠はまったくない。
 逆に一見して気づくのは夕方や夜が多いこと。もちろん「水墨」に馴染みのよい時間帯だからである。日が落ちるとともに世界は色を失って、モノクロームに近づいてゆく。そのなかに、さらに具体的な表現上のテーマが設定されてゆく。
 「漁村夕照」は水辺の村にさす夕日――夕暮れの「光」の表現であり、「煙寺晩鍾」は「遠寺晩鐘」とも書いて、烟霞にかすむ寺である。まず思い浮かぶのは夕霧で、湿り気のある大気に、そこに伝わる鐘の音までを「無声の詩」で感じさせられれば最高ということになる。同じ烟霞でも「山市晴嵐」は大きく異なって、「嵐」は「あらし」ではなく「山気」。晴れた日の夏の山に、もうもうと湧き上がる水蒸気を思いおこせばいいだろうか。「遠浦帰帆」では、遥かに浮かぶ船とのあいだの空間と、その船の帆に吹く風の表現が問われることになる。
 「洞庭秋月」の月と「江天暮雪」の雪山は「外隈」で、それ自体をえがくことなく、周りを墨で塗って浮かび上がらせる。塗った墨もただの輪郭ではなく、月の浮かぶ空になり、雪を降らせる雲となる。そして「瀟湘夜雨」は夜の雨。漆黒の闇のなかにふる雨という難しいテーマである。「平沙落雁」は、州浜に降りてくる雁に、寂寥感を加える秋の芦原の情景。「鴫立つ沢の……」ではないけれど。
 雪に霞に風、月に光に雪の色、そして山中の村に寺に船に雁……。そんな水墨向きのモチーフに季節の要素までが加わって、多彩なメニューになっている。宋迪が考えたのは「瀟湘」という土地にかこつけて、水墨山水の課題を提示することだったのだろう。特定の風景でもなく、ただの「山水」でもなく、ということろが絶妙で、しかも八つがセットだから、すべてをえがきわけなければならない。画家にとって取り組みがいがあるもので、個々のテーマは「瀟湘八景」のみならず、水墨山水のなかで長く受け継がれてゆく。
 その中で、牧谿の「煙寺晩鍾図」と玉澖の「山市晴嵐図」には、本章冒頭で予告した二つめと三つめの表現のパターンを見ることができる。玉澖は天台の僧で、日本では牧谿とならんで人気があった人。どちらの「瀟湘八景図」も足利将軍家に所蔵され、「東山御物」の名品として知られている。」島尾 新『水墨画入門』岩波新書、2019年。pp.186-196.

 足利将軍家の宝として大事にされた牧谿、玉澖の画は今日国宝として美術館にある。


B.毒ガス戦の記録
 第2次大戦時の旧日本軍の装備として、防毒面(ガスマスク)があったことを思いだした。あまり考えたことがなかったが、兵士が防毒マスクをつけてする戦争とは、敵が毒ガス兵器を使うことへの備え、ではなく、自軍の毒ガスから身を護るためだったのだな。日本軍は瀬戸内海の島で毒ガスの製造や実験を行っていて、中国戦では実際に毒ガス作戦を実行したといわれる。その広島県竹原市にある大久野島には、毒ガス資料館があるということも、この記事ではじめて知った。歴史資料を保存し、それを後世に伝えることは大事なことであるのはいうまでもない。「なかったこと」としたい人たちがいるのだろうが、あったことは隠せない。

「社会時評:日本軍毒ガス展示「指摘」受け変更 「加害の歴史」誠実に継承を 安田 菜津紀
 広島県竹原市、忠海港からフェリーに乗り15分ほどで到着する大久野島は、一周が4キロほどしかない小さな島だ。ここに建設された日本軍の工場で毒ガス製造が始まったのは1929年。日本軍の毒ガスは主に中国戦線で使用され、日本の敗戦後も、遺棄されたガスによって多くの被害を生み出してきた。
 こうしたかつての「機密」が広く知られるようになったのは、80年頃からだ。学者らの研究によって米国の保持する公文書から、日本軍の毒ガス使用命令書など、関連資料が次々と発見されたのだ。そのうちの一つ、陸軍習志野学校案「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」のコピーが大久野島にある「毒ガス資料館」に展示されている。その展示の前に、下記のようなただし書きが貼ってある。
 「※一般的に用いられた戦術ではなく、緊急的に対応した稀な事例である。(防衛省防衛研究所)」
 この「化学戦例証集」は、日中戦争開始から42年までの、日本軍による毒ガス戦の例が56例、掲載されている。毒ガス資料館を運営する竹原市の担当課に問い合わせると、2020年12月に「ある団体の方」から指摘を受け、調査のために当時の市担当職員が「防衛省防衛研究所」へ直接問い合わせ、同月中にただし書きを加えたのだという。その「ある団体」について尋ねても、「団体名は回答できない。主な活動内容も詳細に知らない」という。
 中央大学名誉教授の吉見義明さんは、この「ただし書き」に疑問を呈する。「嘔吐性ガスは、中国戦線で、特に1938年の武漢攻略戦以降常用しています」。「例証集」には、その嘔吐性ガスである「あか剤」を用いた作戦例が並び、大規模使用した例も含まれている。
 実は展示の内容が「指摘」を受けて変わった例が他にもある。小高い丘の上から、ヘルメットをかぶった兵士が、もくもくと煙のたちのぼる平野部を見下ろしている一枚の写真――吉見さん著「毒ガスと日本軍」(2004年 岩波書店)に詳しいが、これは「アサヒグラフ」(1939年10月18日号)に掲載された、中国戦線・新墻河渡河作戦(39年9月)の写真であることが分かっている。
 竹原市は写真について、実際に「抗議があったことを認め、毒ガス資料館の展示から2020年10月ごろに外したとして、こう見解を示した。「写真は旧日本軍の毒ガス戦のものではないと認識している。この戦闘において毒ガスが使用された事実もない」
 驚いた。確かに過去、同じ場面を別角度からとらえた写真について、「毒ガスではなくただの発煙筒の煙」であるという旧軍人たちの証言が新聞で報じられたことがあった。しかし作戦にあたった第十一軍の報告(「呂集団軍状一般」)にも、「瓦斯(ガス)放射」を行ったことが記され、後に編纂された兵士らの体験記(町尻部隊編「第六師団転戦実話」贛湘(かんしょう)編)にも、「初めての瓦斯に大慌て」と題する文章や、ガスが一部逆流し現地住民が被害に遭ったこと、ガスマスクが与えられなかった新兵がガスを吸って目も見えず口もきけなくなるほど苦しむ様子が細かに記されている。
 この写真が「アサヒグラフ」に掲載された当時、キャプションには毒ガス戦であることは記されていなかったが、吉見さんは著書の中で、軍の検閲を通るよう、毒ガス使用の事実を隠す意図があったと分析している。逆に「この写真は毒ガス戦ではなく、毒ガスが使用された事実もない」と、竹原市が断定的に示す根拠となるものはあるのか?残念ながら市の側は、特によってたつ公文書や資料は確認できないとした。歴史を伝える資料館を運営する自治体としては、不誠実な態度ではないだろうか。
 大久野島に限らず、日本の「加害の歴史」が公権力によって十分に検証がなされてきたとは言い難い。しかしさまざまな学術研究が、過去をふりかえるための手がかりを丹念に見つけ、歴史を少しづつひもといてきた。「過ちを繰り返さない」のであれば、それらと徹底していく記憶を、歪めないための取り組みが不可欠なはずだ。 (やすだ・なつき=フォトジャーナリスト)」東京新聞2024年9月10日夕刊5面。
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 水墨の美 7 詩書画三絶って?  大家族犯罪?

2024-09-10 16:18:38 | 日記
A.理想の文人
 「万能の天才」といえば西洋ではレオナルド・ダ・ヴィンチがまず思い浮かぶ。絵画、彫刻だけでなく、科学技術、建築など多方面に才能を発揮した。だがレオナルドは東洋の「文人」とは違う。王侯貴族の保護を受けて作品をつくる職人であり専門技術者だったから、趣味で才能を発揮する「文人」ではない。中国の「文人」は、詩と書と画をどれもよくする知識人であり、それらは紙や布の上に墨と筆でさらさらと書く才能である。山水を描いてその上に漢詩を書きこむ。それを見て感心したら、さらに讃という詩か文章を書き加える。これは唐(618 - 907年)から宋(北宋960~1127年、南宋1127~1279年)そして元(1271~1368年)と続く中華帝国で、高尚な文化的伝統となった。
 日本では、この詩書画の現物が伝わってくるのは少し遅れて、南北朝から室町時代はじめの14世紀。とくに禅宗寺院で中国の書画骨董から多くを学んだ禅僧たちによって、実作を試みるようになったけれど、その頃の中国は元が滅びて(元は北方モンゴルに撤退して続くが)、新たな帝国明の時代になっている。すでに元のときに、仏教とくに禅宗は弾圧されていて、「詩書画の文化」は衰弱を始めていた。

「いま「ショガサンゼツ」と発音して、漢字を思い浮かべられる人はどれだけいるだろうか。「詩書画三絶」と書いて、詩と書と画のすべてに優れていること。絶品というときの「絶」で、これが文人の理想的な姿だった。
 古くは、南朝梁の元帝(げんてい)(簫繹(しょうえき)、在位552~554)が、孔子の像をえがき、これに自分で賛を書いて、時の人々から「三絶」と称され(『南史』)、玄宗は、仕えていた学者の鄭虔(ていけん)が、自らかいて献上した詩と画の後に「鄭虔三絶」と大書したという(『新唐書』)。蘇軾も、文同の詩・楚辞・草書・画を「四絶」と呼んでいる(『書文與可墨竹幷序』)。
 本書の冒頭でも触れたが、いまもっとも縁遠くなってしまったのがこの世界。それぞれにプロの作家も趣味にする人もいるが、すべてをよくする人はまずいない。このようなことを書きながら、私も書をほんの少々という程度、画は素人以下で、漢詩は平仄(ひょうそく)も頭にはない。しかし「水墨」を語るとき触れずにすまないことも先述のとおり。「書画同源」「書画同体」といい、また「画は無声の詩」「詩は無声の画」といって張彦遠の『歴代名画記』から見ておこう。
「書画同体」
 「書画同体」の説明としてよく知られるのは、「象形文字」を根拠とするものだろう。「山」も「目」も「鳥」もそれらを象ったものだから、おおもとでは字も画も同じ、という論理である。「象形」は、いうまでもなく後漢の許慎(きょしん)が『説文解字』で漢字を分類した「六書(りくしょ)」(象形(しょうけい)・指事(しじ)・会意(かいい)・形声(けいせい)・転注(てんちゅう)・仮借(かしゃ))のひとつ。『歴代名画記』もこれを引いて「是の故に知る、書画は異名にして同体なることを」と主張する。
 しかしその前にはより根本的なイメージが記されていて、張彦遠は「古の聖王がその位につくと、神秘的な字をもつ亀と、めずらしい図をもつ龍が現れる」というところから話を始めている。中国の王は天命を受けて位につくが、そのときに天から秘書を授かるといい、『易教(えききょう)(周易)』には「河(か)は図(と)を出し、洛(らく)は書(しょ)を出す、聖人これに則(のっと)る」(「繋辞(けいじ)」)とある。いわゆる「河図洛書」で、「河図」は黄河から出現した龍馬の背に、「洛書」は洛水から出現した神亀の背にかかれていたという。前漢末の劉歆(りゅうきん)が、伏羲(ふくぎ)は「河図」をもとに八卦(はっけ)を作り、禹(う)は「洛書」から『書経(しょきょう)』の「洪範(こうはん)」を作ったという説をとなえ(『漢書』「五行志(ごぎょうし)」)、これを受けて唐の孔潁達(くようだつ)が「河図洛書を論じるものはみな「龍が図を負い亀が書を負う」といっている」と記すなど、聖王が天から授かるのが「図」と「書」のセットであるというイメージは定着していった。
もちろんこの「図」のイメージは、易の卦へと整理され得るような不思議な図形で絵画ではなく、「書」も文字とそれによって書かれたもので、「筆墨」による書のことではない。しかし、ヴィジュアルとリテラルのセットという点でみれば、「書画同体」のもととなるイメージは、ほとんど「歴史の始まり」とともにあったと信じられていたことになる。」島尾 新『水墨画入門』岩波新書、2019年。pp.148-150.

 唐、宋、元と500年ほどの時間のなかで、漢詩と水墨とが練り上げた世界は熟したが、日本ではどうだったかというと、さらに100年ほど遅れて「詩書画の文化」は花開く。

「隠逸の山水画の詩画の分かりやすい例を、時代も地域も飛ぶが、日本の室町時代に見ておこう。大きな岩の陰に、松に抱かれた粗末な庵が建ち、裏には竹の一叢。水辺に小舟が繋がれて、遥かに山が望まれる。清らかな隠逸の理想郷である。その上には十二人の京都の禅僧が詩を寄せて、それぞれに、画中の景を愛で、都の喧騒を離れてこのようなところに隠棲したいと詠んでいる。
 このような「詩書画」の文化を日本へ運んできたのも、「水墨」と同じく禅僧だった。前章に見たように、鎌倉から南北朝時代にかけては多くの僧が中国へ渡って、漢詩文はもとより「唐物」と呼ばれる美術工芸品から茶まで、さまざまな文化を持ち帰り、禅宗は禅という宗教のみならず、中国文化全体の受け皿となってゆく。室町時代に入るとこの性格はより明確になって、禅僧は「漢」を体現する社会的な階層となる。漢詩文を作り、水墨をえがき、あちらの歴史に精通するなど、中国通の文化人ともなるのである。僧侶でかつ文人・詩人と思えばいいだろう。
 それにしても、すでに俗世を捨てたはずの禅僧が、さらに隠逸願望をもつというのもおかしな話なのだが、この時代のはじめ頃、京都に住む禅僧たちは、矛盾する二つの気分を抱いていた。南北朝の合一を成し遂げ権力を握った足利義満は、禅宗を自らの宗教的・文化的バックボーンとして社会の前面へと押し出した。有能な僧を京都へ呼び集め。相国寺のような直轄の大寺を建て、五山のシステムを整える。自派の躍進は禅僧たちにとって喜ばしいことである。
 しかしパトロネージの充実は、当然にも世俗への密着に繋がる。相国寺は、義満の住む「花の御所」のすぐ隣にあって、高位の僧は、政治のブレーン・外交のスタッフともなり、寺院の格付けや僧侶の昇進のシステムの整備されるなか、宮仕えの気分も増してくる。「本来のところへ帰りたい」と思うのだけれど、脱サラ志向のようなもので、なかなか脱出は叶わない。実は心からその実現を望んでいるとも言い難いところがあって、「せめても」と心を遊ばせたひとつが、このような水墨の世界だった。幅が30センチ余りの小さな世界。マンションの居間に掛けられたレマン湖畔の別荘のようなものである。
 ただし「どこの風景?」と聞かれても答えようはない。詩を題したひとり、惟肖得厳は「五年曽て住めり海崎の寺、数点の青螺、淡山に対す」と、尼崎の栖賢寺から海を隔てて望んだ淡路島を思い出しているが、基本的なイメージは中国の風景である。そして、この画のもとになったのは中国の山水画。具体的には南宋時代のそれで、えがいた者は彼の地の風景など見たこともない。要するに「画からつくった画」なのである。
 その中国の山水画も「胸中の丘壑」だった。実景をそのままに写しはせず、とくに南宋のものには象徴的な表現が多い。「江天遠意図」は、えがかれた土地のリアリティの感じられない画をもとに、見たことのない地のイメージをえがく、という二重の意味での「空想の山水」なのである。逆にこのリアリティのなさが、自分たちの夢見た隠逸の地のイメージを素直にえがきださせた。
「江天遠意図」で、その気分を表現するのは明快な「対角線構図」。画面に対角線が引かれているわけではないが、右下から左上への対角線が、近景と遠景を分かち、あいだの広い「余白」が水面となっている。もう一つの対角線が表すのが近景と遠景との関係で、こちらが象徴的な機能を担う。この画の場合に両者を繋ぐのは松の梢。遠くの山へと向かって「遠」を表現していうのだが、ただ空間の広がりを示しているだけではない。庵の門は開いて人はいない。庵の主は、画を観る者なのだ。
 この感情移入の窓に誘われて、庵へと入り込むと気分は松の幹そして梢に導かれて遠くの山へと向かう。その山は禅僧たちにとって、隠逸の理想郷の一部としての近景の属性であると同時に、手に入れがたい願望の対象でもある。松の梢はそんな心の動き、精神的な「遠」をも表現している。水墨山水の遠近法は、空間の奥行きを表現するだけでなく、「精神の遠近法」であることも多い。
 ここには「禅」も関わっていて、同じような理想の風景をえがいた「溪陰小築図」(金地院蔵)を、時の高僧・太白真玄は「心画」と呼んでいる。画中の景が「蓋し是れ心に得たるにして、外に境するに非ざるなり」というのがその理由。たがかれたのは、外に見える風景ではなく、心の内に湧きあがったもの。だから「心画」と呼ぶのが相応しというのである。ここは山水を見尽くして、画家の中で再構成する「胸中の丘壑」とは異なる感覚。「心」を重視する禅ならでは、たとえば唐末の承古も、修行のすすむ心のさまを画にたとえ、「心画」が成るといっている。
「江天遠意図」は、私の大好きな絵なのだが、こういう「小さく閑かに」は「大きく強く」かつ「分かりやすく」が全盛のいまは旗色が悪い。しかも読みづらい詩が全体の三分の一を占めていて、「ヴィジュアル全盛」の風潮にも反している。もともとが住房に掛けて仲間内で楽しむ画だから、展覧会芸術とは縁がなく、大きなギャラリーでの展示にむくはずもない……。しかし「大きく強く」の後で見るとほっとする。水墨の小世界にしっとりと遊ぶのもいいものである。
 このような多数の「詩」と「画」のコンビネーションが生まれたのは、もちろん中国の文人画の影響による。元時代の後半の江南では、「雅楽」とよばれる文人たちの集いのなかで、詩書画をつくるのが流行する。
「荊溪図(けいけいず)」は元末の至栖19年(1359)、王允同が陳汝言に、水郷として知られる故郷の荊溪(江蘇省宜興)の風景をえがいたもらったもの。陳汝言は、文人仲間の故郷への思いを込めて、広大な太湖の西岸にある、柳の植えられた穏やかな街並みを、細やかな筆致でえがきだした。画上には、そんな画の成り立ちの事情を、元の四大家として知られる文人画家・倪瓉が記し、その後にやはり四大家の一人である王莽ら11人の文人が、詩を寄せている。
 あげれば、盧領陵(江西省吉安)の王禮(1314~1386)は、この地の長官だった曹氏が任地を去るにあたって「群斎の士友が相い率いて、送別の図を䌫き、惜別の句を賦した」という(「秋江送別図詩序」)。役所の人々が「やろうやろう」と盛り上がり、「秋江送別図」をえがいてその後に詩を続けた。図柄は船で去ってゆく人を、川辺で多くの人々が見送るところだろう。こちらは掛幅ではなく巻子だが、いってみれば、去る者に贈る雅な「寄せ書き」である。
 元時代の後期には文人との交友のなかで、このような場に加わる禅僧も増え、禅林でも似たようなものが作られるようになる。留学した日本の僧もそれを見聞きして、南北朝時代の終り頃に「私たちも‥…」と始まったのが、日本における新たな詩書画の世界。これが大流行して室町時代の初期には「江天遠意図」のようなものが数多く作られた。
 もちろん「あちらそのまま」ではない。「荊溪図」も詩が書かれることは予想されているけれど、「江天遠意図」ほどには画上のスペースを空けていない。あくまでも、著名な文人画家がえがいたものの余白に詩を入れる、という感覚である。一方、禅宗の絵画では、高僧が偈頌(宗教的な内容の詩)を書くために、画上にスペースを用意することがよくあるから、おそらくこの感覚が反映しているのだだろう。
 そして根本的な違いは、日本の禅僧のなかに「文人画家」がほとんどいないこと。「江天遠意図」のように、ほとんど画家の名は分からず、「工に命じて」つまり画工にえがかせたと記されたものもある。禅の高僧たちは「詩書」には熱心だったが、一人で「詩書画」を兼ねる人は、鉄舟徳済や玉畹梵芳などごく限られていた。これも禅の影響なのだろう。教団内で禅宗絵画をえがく画僧はほとんどが無名で、詩文を能くするものは稀だった。
 室町時代の「詩書画」は、「文人画」と「禅宗絵画」の性格が入り交じる「文人画家なき文人画」だったのである。江戸時代の中期には、あらたな文人画である「南画」が興るが、そこでも詩を作れることは必須ではなく、主体となる知識人のありようを含めて、「和」に独特のものとなってゆく。」島尾 新『水墨画入門』岩波新書、2019年。pp.167-173.

 日本では、のちに「書」は独自の領域に発展するが、「画」と「詩」はそれぞれ分岐し絵師は絵をかき、詩人は詩を書くだけで、両方に達人であるような人は出なかった、というわけか。いずれも趣味の余技であって、職業化したわけじゃないからね。


B.「大家族犯罪」?
 日本の組織犯罪集団は、むかしから「ヤクザ」と呼ばれ、「組」という擬制家族のしきたりを持っていた。親分子分関係は、実際の血縁親子ではなく、盃を交わして疑似家族のようなものを作る。親分は子分の面倒を見、子分は親分のために骨を折って尽すのが仁義である。こういう組織は、どこの国にもあって、それが移民家族にルーツがあれば、民族集団の家父長制が結束のイデオロギーになる。マフィアが国境を越えた犯罪暴力組織になるのは、珍しいことではない。でも、このドイツの「大家族犯罪」組織の規模は、想像以上に大きいという。実際に血のつながりで成り立っているのなら、かなり強力なネットワークになる。

「移民ルーツの一族 社会統合の失策と差別の末に 「大家族犯罪」ドイツの模索
 ドイツでは近年「大家族犯罪」が問題になっています。日本語で「大家族犯罪」というと聞きなれない言葉のようですが、ドイツメディアは、和訳すると「アラブ系大家族による犯罪」や「クラン(氏族)による犯罪」といった言葉を用いて報道しています。その実態と、犯罪が多発する状態になった背景・そしてドイツが今もなおもさくちゅうのあ解決への糸口について紹介します。(サンドラ・ヘフェリン=コラムニスト)
 ドイツで近年、問題になっている「大家族犯罪」の「大家族」に厳密な定義はありません。一般的にドイツに移民してきた歴史的背景を持つ民族集団で、一族の長を中心に、大勢の子どもだけでなく、いとこや結婚で結ばれた姻族も含み、ドイツ生まれの2世、3世も含む大きな集団を指します。
 一つの家族が数百人規模、数千人規模であることも珍しくありません。「大家族」の中で犯罪に関わっているのは「一部」ではあるものの、その「一部」の数が多いため、ドイツで深刻な問題となっているのです。
 「大家族犯罪」について、ドイツの警察はほかに「マラミエ・クルド人」という言い方もします。ドイツ連邦刑事庁によるとドイツには約200万人のマラミエ・クルド人が住んでいて、その数は北部や西部に集中しています。
 ベルリンでは組織的犯罪の5分の1が「氏族による犯罪」であることが明らかになっています。
 大家族による有名な犯罪には、2017年にベルリンで起きた「ボーデ博物館の巨大金貨盗難事件」があります、この事件では375万ユーロ(現在の換算レートで約6.3億円)の100キロの純金の巨大金貨が盗まれましたが、実行犯3人はいずれも同じ氏族の人物だということが判明しています。
 氏族間の暴力沙汰も目立ちます。21年にはベルリンのホームセンターの駐車場で氏族同士が大人数でけんかをし、ナイフで刺されたり、撃たれたりする事件がありました。とレブルの下人は違法な「みかじめ料」でした。
 ドイツで問題になっている「大家族」のルーツは、シリアやイラクとも近いトルコの南東アナトリア地方にあると言われています。
多くは1975年のレバノン内戦をきっかけに70~80年代にベイルートから東ドイツを経由して当時の西ドイツにやってきました。 (以下引用略)」朝日新聞2024年9月9日夕刊3面 GLOBE+
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 水墨の美 6 禅僧と山水画   イタリアの慰安婦像

2024-09-07 16:02:22 | 日記
A.「水墨」の窓口としての禅宗
 「和」の伝統というとき、たとえば茶の湯とか華道とか、謡とか日本舞踊とか、あるいは「和室」や「和装=着物」とかという具体例がたくさんある。茶室は小さな木造建物だけれど、畳を敷き詰め、障子や襖で囲われ、床の間に掛軸や花卉が置かれ、着物を着てそこに座って茶と菓子をいただく作法が決まっている。外には池に石が置かれた庭が見える。これぞ現代にもしっかり残る「和の極致!」ということになるが、これらはみな鎌倉時代までの日本にはなかった。源氏物語が書かれた平安時代には、宮殿に障子はなく床は板の間で畳は敷き詰められていなかった。貴族たちが来ている衣装は、のちの着物とはだいぶ違っていた。
 要するに「和風=日本文化の原型」はみな中世室町時代に生まれたもの、といっていい。筆墨で文字や絵を描くことは、平安貴族も得意だったけれど、床の間に飾る掛軸や襖に絵を描く水墨画は、宋から元、そして明という中国で発達したものが日本に伝わって人気になったことからくる。そして、それは主に禅僧によって持ちこまれた輸入文化だった。書院造りも床の間も禅宗寺院の影響から生まれてくる。この中国直輸入の貴重品は「唐物」と呼ばれた。物だけでなく本場の中国から禅僧もやってきた。同時に、中国の文化に憧れて彼の地に渡る日本人も出てきた。
かつて遣隋使・遣唐使として中国に渡るにはたいへんな苦難を越えなければならず、選ばれたエリートだけが留学を果して帰国したけれど、ごく少数だった。しかし、15世紀の室町時代になると、もちろん海を越えるのは楽ではないが、人も物も交流は盛んになり、足利幕府は遣明船を出して貿易を図った。そうした風潮の中で、中国文化の直輸入から「日本化」へとすすみ、それが建築や書画骨董や文学、そして水墨画の伝統にまでつながっている。

「大きく変化したのは、平安時代の末から鎌倉時代にかけて。中国から新たな文化の波が入ってくるのだが、その主な窓口となったのが禅宗だった。「日本文化」は行き詰ると、新たなものを求めて外へと目を向ける。平安時代の末もその時期で、天台宗の行き詰まりから特に仏教界でそれが起きることになった。比叡山から出た僧侶たちのなかには、法然や親鸞のように国内でどうにかしようとした人の一方に、聖地である中国そしてインドへと思いを馳せた人々がいた。臨済宗を伝えた栄西や曹洞宗を伝えた道元、そして新たな律宗を伝えた俊芿(しゅんじょう)など。
 しかし「水墨」にとってより重要なのは、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(1213~1278)や無学祖元(むがくそげん)(1226~1286)といった来朝僧である。生粋の中国人が、本場の禅と中国文化を身にまとってやってきたのだから。蘭渓は、寛元四年(1246)に博多に着き、京都を経て北条時頼(ほうじょうときより)の招きで鎌倉に入る。異国での布教を考える僧が、一人で乗り込んでくるはずはない。中国流の寺院システムを運営するための最低限のスタッフは同行したはずだ。名が知られるのは、弟子の義翁紹仁と龍江応宣くらいだが、寺も建てねばならないし、儀礼に必要なものもある。仏画や「頂相(ちんそう)」と呼ばれる僧の肖像画も必要だから、画師(画僧)も連れてきたに違いない。
 そして、建長五年(1253)に、時頼のパトロネージで完成したのが建長寺、中国風の大寺院で「完全にあちらと同じ」というわけにはいかなかったが、左右対称を基本に、いわゆる七堂伽藍が整然と建ち並び、母国から持ってきた、またこちらで作られた中国風の彫刻や仏画が混じるなか、寺内では中国語が飛び交った。いってみれば、鎌倉駅前にハーヴァード大学の分校が出現したようなものである。
 水墨の世界で、その雰囲気を感じさせるのが、「達磨図」(向嶽寺)と「蘭渓道隆像」(建長寺)。ともに画上に蘭渓の賛(さん)(像主を賛嘆する詩文)があるのだが、どちらもかなり本格的な「中国風」なのである。禅をインドから中国へ伝えた達磨のがっちりとした体は、力強く抑揚のある濃墨の線で、インドアーリアンらしい彫りの深い顔立ちは、鋭く細い線で、えがき込まれている。こういう堂々たる立体感とリアリティは、日本の画にはあまり見られないもの。蘭渓の頂相も、衣には丁寧に立体感がつけられて、その風貌がリアルに再現されている。
 日本の水墨としては最も早い時期の画なのだが、どちらもとても完成度が高く、蘭渓が連れてきた中国の画師(画師)か、そのもとで鍛えられた日本の画師(画僧)がえがいたものらしい。異国の美術を受け入れるとき、モノだけがやって来るのと、作り手が技術と現地の感覚をともなってくるのとでは大きく違う。画だけを見ての「見よう見まね」では、最初は下手でだんだんと上手くなるのだが、「最初が立派」なところに、この時代の特徴があった。
 この時代の禅宗は、日本の歴史のなかでも稀にみる「国際性」を持っていた。蘭渓の後にも中国の僧の来朝は続き、こちらからも数多くの禅僧が禅の本場へと留学して、彼の地の情報や文物を持ち帰る。寺院のシステムから漢詩文、書画や工芸や茶……。禅だけではなく、同時代の中国文化が、この窓口を通じて流れ込んだ。留学して中国語を覚え、禅宗寺院が中心ではあるが、各地を旅してあちらの文化を実感する。絵画についても、どのようなものがどのように使われ語られているかを知っていた。
 日本で「水墨画」が「禅」に結びつけられるのも、このような事情のためである。たとえば栄西が伝えたという「茶」も、中国ではもちろん禅宗の専売特許ではなく、富裕な人々の一般的な飲み物だった。禅宗と禅僧が、中国文化全体の受け皿となっていたために、持ち込まれたすべてに「禅」のレッテルが貼られる傾向が生じたのである。「水墨」も同様で、禅宗寺院にもさまざまな性格の書画があった。
 それを垣間見せてくれるのが、鎌倉の円覚寺にある『仏日庵公物目録(ぶつにちあんこうもつもくろく)』という所蔵品のリストである。円覚寺は、蘭渓道隆に次いでやって来た無学祖元を開山として、時の執権・北条時宗(ほうじょうときむね)が建てた寺。仏日庵は、その時宗を祀るところで、その什物は最高権力者のコレクションの面も持っていた。
 記された書画をざっと見てゆくと、まず「頂相」が四〇幅ほどあり、その後にさまざまな画壇がならんでいる。布袋・寒山拾得(かんざんじっとく)らの「散聖(さんせい)」は、すぐ後で紹介するように「禅の水墨」に独特なもので、またまた呂洞賓(りょどうひん)・鍾離権(しょうりけん)といった道教の仙人がおり、龍虎の対幅も禅寺でよく目にする水墨の画題である。
 一方で、猿や猫の絵に宗教色はなく、墨梅・墨竹は「水墨四君子」と呼ばれる中国の文人画の典型的な画題の二つ。そして数は少ないが山水画もあって、画のメニューはかなり揃っている。書では、禅僧の書である「墨蹟」に交じって、張即之(ちょうそくし)という書で知られた南宋の文人の名も見える。さらに後ろの方には、筆・筆架(ぴつか)(筆置き)や硯などの文房具も見える。全体として見れば、あちらの禅寺にあったものが一セット、そっくりやって来たという雰囲気で、そのなかに「水墨」もあった。
 あちらの文物を取り入れるうえで幸運だったのは、初期の留学僧たちが目指した江南に中国の都があったこと。宋王朝は、北方の女真(じょしん)の王朝・金に追われて南へと逃れ、建炎元年(1127)に杭州に仮の都を置く。
 宮城があったのは今も観光地として賑わう西湖(せいこ)のほとり。古来の景勝地で、文人墨客の遺蹟も多く、湖のなかに伸びる白提(はくてい)・蘇堤(そてい)は、それぞれ唐と北宋の大詩人、白居易と蘇軾が築いたもの。湖中の孤山は北宋の隠逸の詩人・林逋(りんぽ)(林和靖(りんなせい))が籠もっていたところ。そんな豊かな文化のイメージに加えて、仏教の聖地でもあり、湖は数多くの寺院に取り巻かれていた。禅宗寺院も「五山」と呼ばれるトップランクの五つの寺のうち、第二位の霊隠寺(りんにんじ)がここにある。
 そのような地に、皇帝と官僚そして画院の画家たちもやってきたわけである。そもそも西湖の周囲は15キロほどしかない。この小さな地域に、政治と宗教と芸術そして江南の都市文化が折り重なるという、中国の歴史のなかでも稀な状況が生まれたのである。杭州市街の南西に置かれた宮城も、広大とは言い難いものだった。北京も都の機能のすべてを備えてはいるが、広大かつ人工的な大都市で、雰囲気はまったく違う。
 「上に天堂有り、下に蘇杭有り」と、蘇州とともに地上の楽園にたとえられた杭州には、この距離感のなかで細やかで濃密な文化が育ち、絵画にも小ぶりだけれど神経の行きとどいたものが生まれてゆく。皇帝に庇護された禅宗の世界でも、すぐそばに画院画家がいるという環境のなか、「禅の水墨」が洗練されてゆくのである。その杭州が元の攻撃にあって無血開城するのが1276年。それまでに入宋した初期の留学僧たちは、この都の空気を吸うことができた。そこで洗練された「禅の水墨」のなかから、最も特徴的な水墨の人物画を見ておこう。
  牧谿の「老子図」
 「老子図」は、南宋を代表する禅僧画家・牧谿がえがいたもの。画面に見えるのは、いやな目つきの鼻毛がぼうぼうとはえたおっさんで、とても偉大な思想家には見えない。後に「東山御物」と呼ばれる足利将軍家のコレクションの大名品、といっても素直に納得する人はまずいないだろう。「洗練された禅の水墨」の最初の例がこれ、というのもどうかと思ったが、この種の水墨の特徴からよくわかる。
 まずは目。すこし横長の濃墨の点が打たれているだけだが、一筆でやや宙に泳ぐようなまなざしまで表現できているのはすごいこと。それ以前の問題として、素人がやると両目の視線がずれてしまうことが多い。着衣の線は震えているが、こんな線しか引けなかったからではない。わざと震わせて、老子の着衣の「よれよれ感」を表しているのだ。そして伸び放題の髪や髭や鼻毛に、口も細かいところは分からないが力なく開いた雰囲気が出ている。数少ない筆でここまでえがき出しているのだから、やはり「名品」なのである。
 それにしても、なぜこのような変わり者がえがかれるのか。いまは「奇人」というとマイナスのイメージがあるが、本来は悪い意味ではない。たとえば、荘子は「畸人(奇人)とは人に畸りて、天に侔しきものなり」(『荘子』「大宗師」)といっている。「奇人」は、ふつうではないけれど天の道――世界の原理――に通じている。逆にいえば、道に通じた人は、こざかしい世間のルールなどには縛られない。見かけなど気にすることはないから、ふつうでない方が当たり前なのである。
 老子は耳がとても大きいので「老耼」というなど、身体的な特徴が加わることもある。この画の人物も耳が大きいので「老子」と呼ばれているのだが、牧谿の自画像ではないかという説もある。いずれにしても漂うのは「奇」の雰囲気で、それが「禅の水墨」の獲得した人物画の表現でもあった。
 禅は生真面目な僧よりも、破天荒なタイプを好む。弟子を接化(せつけ)(指導)するに当たっても、「臨済の喝、徳山の棒」といわれるように、臨済宗の祖・臨済義玄(りんざいぎげん)(?~867)はやたらと怒鳴り、同じ時代の徳山宣鑑(とくやませんかん)(780~865)は棒でひっぱたく。小舟に寝起きして、教えを乞いにやってくる層を、櫂で水に突き落とした船子徳誠(せんすとくじょう)のような人もいる。それを代表するのが「散聖」と呼ばれる、正統な僧ではなく奇行で知られ、しかし「道」には通じた人たち、独特のキャラクターと風貌で、「禅の水墨」の好画題となってきた。
 まず挙げられるのは、森鷗外の短編でも知られる寒山拾得だろう。唐時代に天台山――浙江省の東北部にあり、六世紀に智顗が天台の法門を開いた聖なる山――に居たとされる伝説的な人物で、寒山は山中の寒巌という洞窟に住み、拾得は寒山に拾われて、天台の本拠・国清寺の庫裏(台所)で使い走りや釜たたきをしていた。乞食のようななりをして、ぶつぶつとひとりごとをいい、人々を罵倒し、また高笑いをする。正気ともみえないのだが、いうことはいちいち「道」にかなっていたといい、寒山は文殊の、拾得は普賢の化身ともされた。
 とくに寒山には『寒山詩』と呼ばれる詩集があって、気ままに暮らす風狂の達道の「楽道」(仏教の道を楽しむ)の象徴的存在とされてきた。実在は疑われる人たちだが、世俗を罵倒し超越する独特の「笑い」が彼らの表象となっている。」島尾 新『水墨画入門』岩波新書、2019年。pp.117-124.

 「寒山拾得」という人がいるのではなく、寒山と拾得は別人なんだけど、「奇人変人」で脱俗散聖の象徴になっている。これは禅の仏教思想というよりは、荘子などの道教に近いな。


B.イタリア・サルディーニャの慰安婦像
 従軍慰安婦を描いた少女像は、日本ではさまざま物議を醸す危険物のような扱われ方もするが、遠いヨーロッパのそれも地中海の島、イタリア領のサルディーニャ島の海辺に設置されたというニュースがあった。どうしてここに?と聞けば、以下のような事情らしい。

「慰安婦の記憶 伊の地でも 性暴力への警戒喚起 「日本への嫌がらせではない」
 旧日本軍の慰安婦問題を象徴する「平和の少女像」が6月、イタリアに建てられた。設置を支援した韓国の市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義蓮)は、近い将来に全ての元慰安婦がなくなっても、被害の記憶を伝える活動を続ける方針を示している。日本政府が撤去を求める中、あくまで設置を続けるのはなぜか。李娜栄(イナヨン)理事長(56)に聞いた。(聞き手=ソウル・木下大資)
 -イタリアに少女像を設置した経緯は?
 元教師でBTS(K-POPグループ)ファンのイタリア人女性が韓国の歴史に興味を持ち、私たちに連絡してきた。性暴力への警戒心を喚起するため、地元に少女像を立てたいと考えたようだ。現地のスティンティーノ市長は人権弁護士出身で関心が深く、話しが早く進んだ。最終的に正義蓮が同市に提案する形を取り、像の制作費と運送費も負担した。
 -海外で少女像の建立を進めようとしているのか。
 その地域の要請を受けたときだけ支援するのであって、正義蓮がどこかに「必ず建てる」という意図を持って進めることはない。私が理事長に就いた2020年につくった内規で、海外の公共の場所に建てる場合に限り費用などの支援ができる。ドイツ・ベルリンの少女像などが該当する。韓国内に約140体ある少女像については、11年に前身の韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)がソウルの日本大使館前に設置した1体を除き、まったく干渉していない。
 -日本では少女像に否定的な反応が強い。日本政府も世界各国への設置に抗議している。
 少女は過去にあった痛みを記憶し、亡くなった方々を追慕し、現在も起きている戦時性暴力と、日常の性暴力に対する警戒心を喚起するものだ。日本への嫌がらせや、攻撃するような意味はない。日本政府が像を撤去しようとする過剰反応を続ければ、むしろ韓国人の敵対心を刺激する。実際、韓国内にある少女像の多くは、15年の日韓慰安婦合意で像の撤去問題が浮上して以降に建てられた。
 -今後の正義蓮の活動方針は?
 少女像の建立を特別に重要な事業とは考えていない。最も重視しているのは慰安婦問題関する資料の整理や保存、博物館の活性化だ。現在9人が生存している被害当事者が亡くなれば、運動の熱気は下がるかもしれないが、日本政府が責任を認めなければこの問題がなくなることはない。重要なのは、より良い世の中をつくるために(被害者の)記憶をどのように継承するかだ。」東京新聞2024年9月4日夕刊3面。
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