A.雪舟の破墨山水図
先年亡くなった橋本治さんの著作はいっぱいあるけれど、この「ひらがな日本美術史」というシリーズは、1990年代に『芸術新潮』に連載されたもので、古代から現代までほぼ網羅的に、しかも橋本的独自の軽やかな視点で、縦横にしつこく論じている。ぼくはこのような本があることを全然知らなくて、最近たまたま区立図書館でみつけ、借りてきて読んだ。やっぱりすごい。橋本さんは、「桃尻娘」の小説家ということで世間に知られたけれど、文章のみならず絵でじゅうぶん「飯が食える技を持っていた人だ。今年横浜の文学館で開かれた回顧展で、その切り絵や編み物まで、多彩な作品を目にして、この人はすごい!と痛感した。その「ひらがな日本美術史」から、室町時代の雪舟の「破墨山水図」について念入りに論じている部分。
「ここにかかげるものは、雪舟が描いた《破墨山水図》である。現在は国宝に指定されている。「雪舟で、室町時代で、国宝で、水墨画――ということになるともうなにがなんだか分からない」の典型のようなものである。
ここには“なに”が描いてあるのかがよく分からない。どこを見て「いい」といえばいいのかも分からない。大体これは、“絵”なのかどうか?幅が32センチちょっとで縦が1メートル48センチばかりある掛け軸の、上三分の二は字だけである。漢字ばっかりで、やたらハンコが押してあって、その下に“汚れ”だか“しみ”のような“絵らしきもの”が描いてある。タイトルは《破墨山水図》である。「‶破墨"というのがよく分からないが、“山水画”であることだけは確からしいから、これはきっと“風景画”なのだろう」などと思う。墨で描かれているのも確かなんだから、「これはやっぱり“水墨画”なんだろうな」と思う。しかしそう思っても、それ以上は分からない。“墨の汚れ”のようなものの上に難しい漢文がゴチャゴチャ書いてあるから、「これはきっと難しいものなのだろう」という気だけはする。だから、「これは普通の目にはワケが分からない深遠な心の風景を描いたものなのだろう。なるほど、なんだか深い思想がこの絵に込められているような気もする。さすがに雪舟だ」などと思って東京の国立博物館の陳列ケースの前で手を合わせてしまうかもしれない。室町時代の1495年、雪舟が76歳のときに描いた、《破墨山水図》は、そんな作品なのである。
一体これは“なに”で、ここには“なに”が書かれていて、“なに”が描いてあるのか?
この掛け軸の上の方――漢文の列が三段ある。その一番下の段が、雪舟の自筆の文章である。前章の《山水長巻》でちょっと触れた文章だけれども、ここには下にある絵の“由来”が書かれている。
「相陽(そうよう)(相模(さがみ)の国の南=鎌倉)の宗淵(そうえん)という蔵主(ぞうす)(蔵主は禅僧の職掌)は、私について画を何年も学んだ。既に基本はマスターしている。自由に絵を描き、いかにも勉強熱心である。今年の春“国に帰る”と言って、その彼の言うことには、“先生の絵が一点ほしいのです、それを私のところの代々続く家宝(箕裘青氈(ききゅうせいせん))にしたいのです”―-そう何日も私にせがんだ。私は老眼だし頭もぼけて、そういうことのやり方は知らないのだけれども、彼の志に押されて、それでまァ、先のすり切れた筆を持って、淡墨(うすずみ)をそそいで、これを与えて、こう言ったのである。
“私はかつて偉大なる宋の国へ行った。大河を北へ渡り、古い斉や魯の国の郊外を通って北京へ着き、そこで絵の先生を探した。そうはしたんだけれども、筆をふるって(揮染)品格抜群(清抜)である人はほとんどいなかった。その中で、長有声と李在の二人が、世間ではいいということになっていた。会って入門して、色づけのポイントを教わった。破墨のやり方も同時にである。数年たって我が国に帰った。私の絵の親(祖)である如拙・周文両先生の描いたお手本は、すべて先人の作を正しく受けていて、これに何かをつけ加えたり文句を言う必要のないことが非常によく分かった。日本と中国を見て回り、そうして、両先生の見識の高さと精神性の深さをますます尊敬するようになったのだ”
弟子が書けというので、笑われるのを承知で書きました」
そう書いてあるのである。最後の「弟子が書けというので、笑われるのを承知で書きました(子ノ求メニ応ジ、不顧嘲書焉(あざけりをかえりみずかく))」は、「でしゃばって書いたんじゃない。“書け”というから書いたんだよ」という意味の、謙遜の決まり文句だからどうでもいい。
前章で言った通り、如拙と周文は雪舟の師匠に当たる日本人の画僧(周文が直接の先生で、如拙は周文の先生)。「結局幸福の青い鳥は家にいた」ではないが、「中国まで行ってもロクな先生はいなくて、日本に帰って来て見たら、やっぱり如拙先生と周文先生はすごかった」である。中国で雪舟に色づけ(設色)と破墨の方法を教えた、長有声と李在の二人は、実のところたいした画家ではない(らしい)。李在の方はともかく、長有声にいたっては、中国では画家としての認知を受けてもいないような人間なんだそうな。「世間ではいいということになっていた」と訳した「時名ヲ得」は、「たいした腕ではないが、たまたまちょっとだけ流行っていた」ぐらいのもんなのだろう。
「本場に行ったけど、昔はいざ知らず、今の本場にゃロクなものはない。行っただけが幸いで、ロクな相手じゃなかったけど、日本じゃまだ知れらていないやり方があったので、それだけともかく習ってきたよ」というところかもしれない。雪舟が行ったのは明の時代の中国だが、彼はここで「偉大なる宋の国(大宋国)」と書いている。日本で「偉大なる本場中国の水墨画家」と崇められていた人達はみんな宋の時代の人だから、それで雪舟も、あえて「大明国」とは書かず、「大宋国」と書いたのだろう――ということになっている。
この掛け軸の文章が書かれたのは、雪舟が中国に行った二十八年後なのだけれども、二十八年前に中国へ行こうとした雪舟は、もしかしたら、「大明国に行く」と思っていたかもしれない。中国へ行こうとする十五世紀中頃の雪舟に向かって、「行きたいって言うんなら行けばいいけど、向こうにゃもうロクな画家はいないよ」なんてことを言う人はいないはずなんだから。中国に行く以前、日本にいた雪舟は、如拙・周文の二人を既に立派なすごい画家だと思っていた。だから、「ますます尊敬するようになった(而(しこうし)テ弥仰(いよいよあお)グ)」と書いているんだろう。「自分の前にいる先生は立派な先生で、その先生の描いた立派なお手本だってあるんだから、もしかしたらわざわざ中国へ行く必要なんかないかもしれない――でも、やっぱり中国へ行ってみたい」というのが、雪舟の本音だったろうと思う。
まァ、そのように雪舟は中国へ行って帰ってきたわけなんだけれども、しかし、「そのこととこの《破墨山水図》という掛け軸の間にはなんか関係があるのか?」ということになったら、実は、よく分からないのだ。
鎌倉からやって来ていた弟子の宗淵が「国へ帰る」と言って、それで、先生お願いです、家宝にしたいんです。先生の絵がひとつほしいんです(願ワクバ獲ン翁ノ一図)と言った。それで雪舟は、「先のすり切れた筆を持って(拈禿筆)、淡墨をそそいで(洒淡墨)」この絵を描いて与えた。原文にある「禿筆」というのは、穂先のすり切れた、俗に「坊主筆」ともいう筆で、雪舟の強いタッチはこの筆によっている。「禿筆」という言葉には「使い古しのぼろ筆で書いたつまらないものです」という、自分の書いた文字や文章を卑下する謙遜の意味もある。しかし「拈筆」という言葉は「筆を取る」という意味だから、この「拈禿筆」は、ちょっとばかり謙遜が入っているかもしれないが、やっぱり文字通りの「先のすり切れた筆を持って」になるだろう。雪舟は、いつも使っている愛用の禿筆を持って、それから、淡墨を洒(そそ)いだ。なんで「淡墨を洒ぐ」なんてことをしたのかというのは、この掛け軸の絵を見れば分かるだろう。文字通り、この絵は“淡墨を洒ぐ”によって成り立っている絵だからである。
この《破墨山水図》のなんだかわけのわからないところは、淡墨が主体になっているところにある。何が描いてあるかをはっきり示すような輪郭線がなくて、淡墨がボワンとにじんでいたり、淡墨をこすりつけたりしたようなタッチの上に、ところどころ黒い墨が入っている。これはなんなのかと言うと、つまりは、「霧のなかの風景」なのである。
遠くに、中国の風景特有の、墓石のように切り立った山がボーっと霞んでいる。その手前(絵の下の方)のゴチャゴチャしたものは、“崖”である。海だか何だか湖だかわからないが、画面の一番下は“水面”である。そこに、“崖”が突き出している。崖の上には木が茂っている。その下は、おそらく剥き出しの岩肌である。崖に向かって右下には、“家”がある。何軒かの家が立ち並ぶ“集落”かもしれない。黒い墨の線で“屋根”が描いてあって、その“前”というか“下”に、黒くて太い墨の線が素早く重ねられているのは、普通には“建物を囲む塀”だと言う。言われてみれば、そのように思える。その“塀”から右の方へ向けて斜めに伸びている線は、“旗竿”だという。この“旗竿”の端にちょっと書き加えられている“旗”だろう――そういうことになっているのだが、しかし私には、この“崖の下の家”が、‶旗竿をつけた漁船”のようにも見える。それはきっと、“愚かな目の錯覚”だろう。
画面の右下――濃い目の淡墨の筆が、サーッ、サーッと、二筋引かれている。上の方はにじんでぼやけて、いかにも“霧の中の水面”なのだが、そのにじんでいくところに、小さく不思議なものが描いてある。画面の一番右のところにある、細い黒い線である。黒い線の上に“小さな三角”が二つあって、一体この部分がなんなのかと言うと、“霧の水面を行く小舟と、それを漕ぐ二人の人物”なのである。「そう思え」と言うのなら、そう思いましょう。「これを、“霧の水面を行く小舟と、それを漕ぐ二人の人物”と言うのには、ちょっと無理があるなァ……」と思う人もいるかもしれないが、しかし、雪舟が淡墨を使ってこういう描き方をした時の“船”に関しては論評を避けるけれども、それ以外のところは、やっぱりすごいのである。本当に、“霧の中から濃い緑を茂らせた岩の崖がニュッと姿を現している”なのである。遠い山から降りて来た霧が水面にわだかまって、その霧を映した水の表面が、不思議に強い“白”を見せている。白い紙の上に淡墨をにじませて、それによって“暗い水面に映る白い霧”を表現しているのは、やっぱりすごい――画面の左下の、「雪舟筆」というサインのあるちょっと上である。
そう思って、この上の方を見ると、いたって淡い淡墨の上に、「うっかり墨のついた筆を落したんじゃないだろうか?」と思われるような、あるいはロールシャッハ・テストのような、黒い墨のにじみがある。これは画面の中心部にある“崖の上の緑”が左の方にまで続いていて、それが水面に向かって渦巻いていく霧の中で怪しい姿を見せているところなのだ。この絵の中にある“霧”は、やっぱり“水面から立ち上る霧”ではなくて、“高い山の上から降りて来た霧”だろうと言うのは、遠景になっている中央の高い山の左側がぼかされていて、そこに“濃い一面の霧が舞い降りている”という景色が見えるような気がするからだ。そうであればこそ、この左側の“ロールシャッハ・テスト”が、“霧の中にもつれる暗い緑”のように見える。これは、“墨の濃淡の効果”を存分に発揮するようにして描かれた“霧の中の風景”なのである。そういう絵を描こうとしたからこそ、雪舟は「先のすり切れた筆を持って、淡墨をそそいだ」なのである。この絵を描いた筆が、普通に絵を描く時に使う“穂先の揃った新しい筆”なんかではなくて、“使い古して先のすり切れた筆“であることは、もう分かるだろう。
弟子の宗淵が、「先生の絵がひとつほしいんです」と言ったとき、雪舟はこういう絵を描いた。そして、そういう絵の上に、「私はかつて偉大なる宋の国へ行った云々」の文章を自分で書いたのである。なんでそんなことを書いたのかと言ったら、この絵を描いた時、出来上った絵を宗淵に渡した後で、「私はかつて偉大なる宋の国へ行ったのだがね、云々」と雪舟が言ったからである。雪舟の書いた文章には、そう書いてある。
この「霧の中の風景」の上に書かれた文章は。「雪舟自身が語る、この絵を描いた由来」である。その内の、「私はかつて偉大なる宋の国へ行った――」以降は、「雪舟、中国体験を語る」といった貴重な歴史資料として引用されることが多いが、この自筆の文章自体は、あくまでも「弟子の宗淵に送った絵の由来」なのである。」橋本治『ひらがな日本美術史2』新潮社、1997年。pp.164-169.
雪舟が行った中国は、偉大なる宋(南宋)ではなくて、朱元璋の立てた明国であった。その明と交易をして利を得たのは足利将軍家だった。破墨山水図の上部に書かれた雪舟等楊の文章によって、かれが憧れて渡った中国に失望して帰ってきた、という心境を後世のわれわれは想像するんだけれども、ほんとうのところはそうでもなかったんじゃないな、と橋本治は書いちゃう。いや~、橋本さんの文章を書き写していると、この人は相当にしつこいなあ、と思った。繰り返しを重ねてくどいほどだが、真行草でいえば、草書体なんでくそ長い文章でもすらっと読めちゃう。これもすごいな。
B.くりかえし橋本治
『ひらがな日本美術史』はもうこれでいいや、と思いつつ、とまらない。困ったもんだ。昨日の新聞に、日本人の6割が本を読んでいない、という調査結果の記事があった。本を読めと子どもには言っているくせに、大人も子どもも本なんて面倒なものを読んでいる暇がない、と平気で言う。日本はわざわざ外国語の文字や文章を一から勉強しなくても、世界の情報も文化も、自分たちの日本語で読めるような幸福な言語環境を持っている。それは明治時代のインテレクチュアルな人たちが、言文一致の文学を頑張って作ってくれたおかげだということを、橋本治もしつこく言っていた。だが、電子書籍を含め、いまの日本人は書物を読まなくても、なんでもすぐ知って一人前に通用すると思っている。だとしたら、未来は暗黒に向っている。さて、おまけは「裸体」のお話。
「 日本を含む東アジアの文化圏には、あまり“裸体”というものが登場しない。この文化圏の中心にあった中国人が、それをいやがったからだ。
中国文学者の中野美代子さんは、朝日選書から出ている『悪魔のいない文学』に収録されている「衣裳としての思想――中国人における肉体不在」の冒頭で、こういうことを書いている――。
“中国の美術史に裸体画もしくは裸体像がただの一度も登場しないことを、私はかねがね疑問に思っていた。もとより、ポルノグラフィの分野においては、はだかの男女の性戯が描かれていて、私の疑問にいくらかの修正を要求するのであるが、しかし、それはあくまでも性戯を描いたものであって、人間のはだかの肉体を描いたものではない。中国の美術史には、裸体画もしくは裸体像は存在しないのである。”
また、平凡社イメージ・リーディング叢書の一冊『人の〈かたち〉人の〈からだ〉』(東京国立文化財研究所編)という本では、「民国期中国における裸体画論争」と題して、鶴田武良さんがこう書いている――。
“東アジアの国々の美術が西洋の美術と異なる点のひとつは、裸体を主題とする美術の伝統を持たなかったことである。 中国の美術は、非常に早い時期から人のかたちを表現しているが、裸体を主題とすることはなかった。”
鶴田さんによれば、現存する中国のポルノで最も古い明の時代の作品でも、「そこに描かれている裸体はただ『人のかたち』を示すだけで、画家の関心はもっぱら男女の体位にあって、はだかの人のかたちにはなかったと考えられる」なのである。
日本人は明治の近代化以来、妙に“性”というものに抑圧的になって、「日本人は性的に淡白だ」というへんな迷信を作ってしまった。これはほとんど、「油を使わない日本料理は淡白だが、油を使う西洋料理や中国料理ははこってりしている」の言い換えでしかない。なにしろ“淡白の日本料理”の基本を完成した江戸時代は、浮世絵ポルノの全盛期だったのだから。しかし、若い頃の愚かな私は、そういう突っこんだことをよく考えられなくて、「日本が淡白なら、濃厚な中国を体験してみようか」と、中国の四大奇書に一つである『金瓶梅』を読み始めたのである。噂によれば、、この小説は「いやらしさの極み」であるはずだったのだが、いざ読み始めたらとんでもなく退屈で、四分の三を読んだところで投げ出してしまった。そしてそのことを中国文学の専門家にあったときに話したら、「それはエライ」と言われた。「そんなに忍耐強いのはエライ」ということである。
『金瓶梅』は、たしかにセックス描写ばっかりの小説でもあるのだが、結局は「今日は誰とどこでどういう体位でしました」というだけの記述のオンパレードなのである。さすがに欲望の国・中国だけあって,性行為と一緒に食事のシーンもやたらと登場して、「その日は、誰と一緒にこういうものとこういうものを食べました」という描写もエンエンと続く。だからどうなのかというと、中国料理のメニューをエンエンと読まされているだけなのである。料理のメニューをエンエンと読まされて、満腹したその後で主人公の始めるセックスの描写も、やはり料理のメニューのようにエンエンと続く“性交体位のメニュー”なのである。小説らしい筋立てがあるのは初めのほんのちょっとだけで、後は性欲と食欲のメニューのエンエンたる繰り返しなのである。「これでは誰だって退屈するだろう」というところで、前述の専門家の「それはエライ」発言がくるのである。つまり、「性戯を描いたのであって、人間のはだかの肉体を描いたものではない」とか、「関心はもっぱら男女の体位にあって、はだかの人のかたちにはなかった」ということは、そういうことなのである。
日本人の肉体表現は、清長や歌麿の出てくる浮世絵の時代になって、やっと本格化する。それ以前にも春画はあるけれども、どうも肉体性は希薄だ。「やっている行為」だけが描かれて、「やっている人間」の方がぼんやりしているからだ。この肉体性の希薄は、別に淡白な日本料理を生んだ国の特性ではなくて、こってりした中国料理を生んだ中国でも同じだ。いや、日本文化の本家である肉食の中国の方がもっとひどい。なにしろ中国人は、長い間“裸体”を描こうともしなかったし、肉体を直視しようともしなかったのだから。伝統的な中国医学の漢方には「解剖図」というものがない。そこにあるのは鍼灸の「経絡図」――ハリのツボとそのつながり方の絵――だけなのだ。『解体新書』の翻訳を始める江戸時代の日本人の方がまだ進んでいる。
「衣食足りて礼節を知る」の中国人にとって、裸になった人間の肉体というのはどうでもいいもので、その上を飾る衣裳の方が重要だった。「日本人は性的に淡白だ」をいいたがる日本人も、結局はこちらだろう。きちんと着るべきものを着ているのが礼儀正しくて、裸でいるというのは「下賤の者」でしかなかったのだ。そんなことを考えていれば、肉体というものはどっかに行ってしまう。衣服を脱いで裸になって始める性行為は、“いかがわしいもの”になってしまう。いかがわしい肉体は直視されないで、しかし“快楽”であるセックスだけはしたい――ということになったら、どうしたって「肉体性が希薄な体位だけの快楽図」というものにしかならないだろう。我々は中国渡来の儒教道徳のおかげで、「まじめな人間ほど肉体性を軽視する」ということになってしまったのだ。」橋本治『ひらがな日本美術史 2』新潮社、pp.115-117.
先年亡くなった橋本治さんの著作はいっぱいあるけれど、この「ひらがな日本美術史」というシリーズは、1990年代に『芸術新潮』に連載されたもので、古代から現代までほぼ網羅的に、しかも橋本的独自の軽やかな視点で、縦横にしつこく論じている。ぼくはこのような本があることを全然知らなくて、最近たまたま区立図書館でみつけ、借りてきて読んだ。やっぱりすごい。橋本さんは、「桃尻娘」の小説家ということで世間に知られたけれど、文章のみならず絵でじゅうぶん「飯が食える技を持っていた人だ。今年横浜の文学館で開かれた回顧展で、その切り絵や編み物まで、多彩な作品を目にして、この人はすごい!と痛感した。その「ひらがな日本美術史」から、室町時代の雪舟の「破墨山水図」について念入りに論じている部分。
「ここにかかげるものは、雪舟が描いた《破墨山水図》である。現在は国宝に指定されている。「雪舟で、室町時代で、国宝で、水墨画――ということになるともうなにがなんだか分からない」の典型のようなものである。
ここには“なに”が描いてあるのかがよく分からない。どこを見て「いい」といえばいいのかも分からない。大体これは、“絵”なのかどうか?幅が32センチちょっとで縦が1メートル48センチばかりある掛け軸の、上三分の二は字だけである。漢字ばっかりで、やたらハンコが押してあって、その下に“汚れ”だか“しみ”のような“絵らしきもの”が描いてある。タイトルは《破墨山水図》である。「‶破墨"というのがよく分からないが、“山水画”であることだけは確からしいから、これはきっと“風景画”なのだろう」などと思う。墨で描かれているのも確かなんだから、「これはやっぱり“水墨画”なんだろうな」と思う。しかしそう思っても、それ以上は分からない。“墨の汚れ”のようなものの上に難しい漢文がゴチャゴチャ書いてあるから、「これはきっと難しいものなのだろう」という気だけはする。だから、「これは普通の目にはワケが分からない深遠な心の風景を描いたものなのだろう。なるほど、なんだか深い思想がこの絵に込められているような気もする。さすがに雪舟だ」などと思って東京の国立博物館の陳列ケースの前で手を合わせてしまうかもしれない。室町時代の1495年、雪舟が76歳のときに描いた、《破墨山水図》は、そんな作品なのである。
一体これは“なに”で、ここには“なに”が書かれていて、“なに”が描いてあるのか?
この掛け軸の上の方――漢文の列が三段ある。その一番下の段が、雪舟の自筆の文章である。前章の《山水長巻》でちょっと触れた文章だけれども、ここには下にある絵の“由来”が書かれている。
「相陽(そうよう)(相模(さがみ)の国の南=鎌倉)の宗淵(そうえん)という蔵主(ぞうす)(蔵主は禅僧の職掌)は、私について画を何年も学んだ。既に基本はマスターしている。自由に絵を描き、いかにも勉強熱心である。今年の春“国に帰る”と言って、その彼の言うことには、“先生の絵が一点ほしいのです、それを私のところの代々続く家宝(箕裘青氈(ききゅうせいせん))にしたいのです”―-そう何日も私にせがんだ。私は老眼だし頭もぼけて、そういうことのやり方は知らないのだけれども、彼の志に押されて、それでまァ、先のすり切れた筆を持って、淡墨(うすずみ)をそそいで、これを与えて、こう言ったのである。
“私はかつて偉大なる宋の国へ行った。大河を北へ渡り、古い斉や魯の国の郊外を通って北京へ着き、そこで絵の先生を探した。そうはしたんだけれども、筆をふるって(揮染)品格抜群(清抜)である人はほとんどいなかった。その中で、長有声と李在の二人が、世間ではいいということになっていた。会って入門して、色づけのポイントを教わった。破墨のやり方も同時にである。数年たって我が国に帰った。私の絵の親(祖)である如拙・周文両先生の描いたお手本は、すべて先人の作を正しく受けていて、これに何かをつけ加えたり文句を言う必要のないことが非常によく分かった。日本と中国を見て回り、そうして、両先生の見識の高さと精神性の深さをますます尊敬するようになったのだ”
弟子が書けというので、笑われるのを承知で書きました」
そう書いてあるのである。最後の「弟子が書けというので、笑われるのを承知で書きました(子ノ求メニ応ジ、不顧嘲書焉(あざけりをかえりみずかく))」は、「でしゃばって書いたんじゃない。“書け”というから書いたんだよ」という意味の、謙遜の決まり文句だからどうでもいい。
前章で言った通り、如拙と周文は雪舟の師匠に当たる日本人の画僧(周文が直接の先生で、如拙は周文の先生)。「結局幸福の青い鳥は家にいた」ではないが、「中国まで行ってもロクな先生はいなくて、日本に帰って来て見たら、やっぱり如拙先生と周文先生はすごかった」である。中国で雪舟に色づけ(設色)と破墨の方法を教えた、長有声と李在の二人は、実のところたいした画家ではない(らしい)。李在の方はともかく、長有声にいたっては、中国では画家としての認知を受けてもいないような人間なんだそうな。「世間ではいいということになっていた」と訳した「時名ヲ得」は、「たいした腕ではないが、たまたまちょっとだけ流行っていた」ぐらいのもんなのだろう。
「本場に行ったけど、昔はいざ知らず、今の本場にゃロクなものはない。行っただけが幸いで、ロクな相手じゃなかったけど、日本じゃまだ知れらていないやり方があったので、それだけともかく習ってきたよ」というところかもしれない。雪舟が行ったのは明の時代の中国だが、彼はここで「偉大なる宋の国(大宋国)」と書いている。日本で「偉大なる本場中国の水墨画家」と崇められていた人達はみんな宋の時代の人だから、それで雪舟も、あえて「大明国」とは書かず、「大宋国」と書いたのだろう――ということになっている。
この掛け軸の文章が書かれたのは、雪舟が中国に行った二十八年後なのだけれども、二十八年前に中国へ行こうとした雪舟は、もしかしたら、「大明国に行く」と思っていたかもしれない。中国へ行こうとする十五世紀中頃の雪舟に向かって、「行きたいって言うんなら行けばいいけど、向こうにゃもうロクな画家はいないよ」なんてことを言う人はいないはずなんだから。中国に行く以前、日本にいた雪舟は、如拙・周文の二人を既に立派なすごい画家だと思っていた。だから、「ますます尊敬するようになった(而(しこうし)テ弥仰(いよいよあお)グ)」と書いているんだろう。「自分の前にいる先生は立派な先生で、その先生の描いた立派なお手本だってあるんだから、もしかしたらわざわざ中国へ行く必要なんかないかもしれない――でも、やっぱり中国へ行ってみたい」というのが、雪舟の本音だったろうと思う。
まァ、そのように雪舟は中国へ行って帰ってきたわけなんだけれども、しかし、「そのこととこの《破墨山水図》という掛け軸の間にはなんか関係があるのか?」ということになったら、実は、よく分からないのだ。
鎌倉からやって来ていた弟子の宗淵が「国へ帰る」と言って、それで、先生お願いです、家宝にしたいんです。先生の絵がひとつほしいんです(願ワクバ獲ン翁ノ一図)と言った。それで雪舟は、「先のすり切れた筆を持って(拈禿筆)、淡墨をそそいで(洒淡墨)」この絵を描いて与えた。原文にある「禿筆」というのは、穂先のすり切れた、俗に「坊主筆」ともいう筆で、雪舟の強いタッチはこの筆によっている。「禿筆」という言葉には「使い古しのぼろ筆で書いたつまらないものです」という、自分の書いた文字や文章を卑下する謙遜の意味もある。しかし「拈筆」という言葉は「筆を取る」という意味だから、この「拈禿筆」は、ちょっとばかり謙遜が入っているかもしれないが、やっぱり文字通りの「先のすり切れた筆を持って」になるだろう。雪舟は、いつも使っている愛用の禿筆を持って、それから、淡墨を洒(そそ)いだ。なんで「淡墨を洒ぐ」なんてことをしたのかというのは、この掛け軸の絵を見れば分かるだろう。文字通り、この絵は“淡墨を洒ぐ”によって成り立っている絵だからである。
この《破墨山水図》のなんだかわけのわからないところは、淡墨が主体になっているところにある。何が描いてあるかをはっきり示すような輪郭線がなくて、淡墨がボワンとにじんでいたり、淡墨をこすりつけたりしたようなタッチの上に、ところどころ黒い墨が入っている。これはなんなのかと言うと、つまりは、「霧のなかの風景」なのである。
遠くに、中国の風景特有の、墓石のように切り立った山がボーっと霞んでいる。その手前(絵の下の方)のゴチャゴチャしたものは、“崖”である。海だか何だか湖だかわからないが、画面の一番下は“水面”である。そこに、“崖”が突き出している。崖の上には木が茂っている。その下は、おそらく剥き出しの岩肌である。崖に向かって右下には、“家”がある。何軒かの家が立ち並ぶ“集落”かもしれない。黒い墨の線で“屋根”が描いてあって、その“前”というか“下”に、黒くて太い墨の線が素早く重ねられているのは、普通には“建物を囲む塀”だと言う。言われてみれば、そのように思える。その“塀”から右の方へ向けて斜めに伸びている線は、“旗竿”だという。この“旗竿”の端にちょっと書き加えられている“旗”だろう――そういうことになっているのだが、しかし私には、この“崖の下の家”が、‶旗竿をつけた漁船”のようにも見える。それはきっと、“愚かな目の錯覚”だろう。
画面の右下――濃い目の淡墨の筆が、サーッ、サーッと、二筋引かれている。上の方はにじんでぼやけて、いかにも“霧の中の水面”なのだが、そのにじんでいくところに、小さく不思議なものが描いてある。画面の一番右のところにある、細い黒い線である。黒い線の上に“小さな三角”が二つあって、一体この部分がなんなのかと言うと、“霧の水面を行く小舟と、それを漕ぐ二人の人物”なのである。「そう思え」と言うのなら、そう思いましょう。「これを、“霧の水面を行く小舟と、それを漕ぐ二人の人物”と言うのには、ちょっと無理があるなァ……」と思う人もいるかもしれないが、しかし、雪舟が淡墨を使ってこういう描き方をした時の“船”に関しては論評を避けるけれども、それ以外のところは、やっぱりすごいのである。本当に、“霧の中から濃い緑を茂らせた岩の崖がニュッと姿を現している”なのである。遠い山から降りて来た霧が水面にわだかまって、その霧を映した水の表面が、不思議に強い“白”を見せている。白い紙の上に淡墨をにじませて、それによって“暗い水面に映る白い霧”を表現しているのは、やっぱりすごい――画面の左下の、「雪舟筆」というサインのあるちょっと上である。
そう思って、この上の方を見ると、いたって淡い淡墨の上に、「うっかり墨のついた筆を落したんじゃないだろうか?」と思われるような、あるいはロールシャッハ・テストのような、黒い墨のにじみがある。これは画面の中心部にある“崖の上の緑”が左の方にまで続いていて、それが水面に向かって渦巻いていく霧の中で怪しい姿を見せているところなのだ。この絵の中にある“霧”は、やっぱり“水面から立ち上る霧”ではなくて、“高い山の上から降りて来た霧”だろうと言うのは、遠景になっている中央の高い山の左側がぼかされていて、そこに“濃い一面の霧が舞い降りている”という景色が見えるような気がするからだ。そうであればこそ、この左側の“ロールシャッハ・テスト”が、“霧の中にもつれる暗い緑”のように見える。これは、“墨の濃淡の効果”を存分に発揮するようにして描かれた“霧の中の風景”なのである。そういう絵を描こうとしたからこそ、雪舟は「先のすり切れた筆を持って、淡墨をそそいだ」なのである。この絵を描いた筆が、普通に絵を描く時に使う“穂先の揃った新しい筆”なんかではなくて、“使い古して先のすり切れた筆“であることは、もう分かるだろう。
弟子の宗淵が、「先生の絵がひとつほしいんです」と言ったとき、雪舟はこういう絵を描いた。そして、そういう絵の上に、「私はかつて偉大なる宋の国へ行った云々」の文章を自分で書いたのである。なんでそんなことを書いたのかと言ったら、この絵を描いた時、出来上った絵を宗淵に渡した後で、「私はかつて偉大なる宋の国へ行ったのだがね、云々」と雪舟が言ったからである。雪舟の書いた文章には、そう書いてある。
この「霧の中の風景」の上に書かれた文章は。「雪舟自身が語る、この絵を描いた由来」である。その内の、「私はかつて偉大なる宋の国へ行った――」以降は、「雪舟、中国体験を語る」といった貴重な歴史資料として引用されることが多いが、この自筆の文章自体は、あくまでも「弟子の宗淵に送った絵の由来」なのである。」橋本治『ひらがな日本美術史2』新潮社、1997年。pp.164-169.
雪舟が行った中国は、偉大なる宋(南宋)ではなくて、朱元璋の立てた明国であった。その明と交易をして利を得たのは足利将軍家だった。破墨山水図の上部に書かれた雪舟等楊の文章によって、かれが憧れて渡った中国に失望して帰ってきた、という心境を後世のわれわれは想像するんだけれども、ほんとうのところはそうでもなかったんじゃないな、と橋本治は書いちゃう。いや~、橋本さんの文章を書き写していると、この人は相当にしつこいなあ、と思った。繰り返しを重ねてくどいほどだが、真行草でいえば、草書体なんでくそ長い文章でもすらっと読めちゃう。これもすごいな。
B.くりかえし橋本治
『ひらがな日本美術史』はもうこれでいいや、と思いつつ、とまらない。困ったもんだ。昨日の新聞に、日本人の6割が本を読んでいない、という調査結果の記事があった。本を読めと子どもには言っているくせに、大人も子どもも本なんて面倒なものを読んでいる暇がない、と平気で言う。日本はわざわざ外国語の文字や文章を一から勉強しなくても、世界の情報も文化も、自分たちの日本語で読めるような幸福な言語環境を持っている。それは明治時代のインテレクチュアルな人たちが、言文一致の文学を頑張って作ってくれたおかげだということを、橋本治もしつこく言っていた。だが、電子書籍を含め、いまの日本人は書物を読まなくても、なんでもすぐ知って一人前に通用すると思っている。だとしたら、未来は暗黒に向っている。さて、おまけは「裸体」のお話。
「 日本を含む東アジアの文化圏には、あまり“裸体”というものが登場しない。この文化圏の中心にあった中国人が、それをいやがったからだ。
中国文学者の中野美代子さんは、朝日選書から出ている『悪魔のいない文学』に収録されている「衣裳としての思想――中国人における肉体不在」の冒頭で、こういうことを書いている――。
“中国の美術史に裸体画もしくは裸体像がただの一度も登場しないことを、私はかねがね疑問に思っていた。もとより、ポルノグラフィの分野においては、はだかの男女の性戯が描かれていて、私の疑問にいくらかの修正を要求するのであるが、しかし、それはあくまでも性戯を描いたものであって、人間のはだかの肉体を描いたものではない。中国の美術史には、裸体画もしくは裸体像は存在しないのである。”
また、平凡社イメージ・リーディング叢書の一冊『人の〈かたち〉人の〈からだ〉』(東京国立文化財研究所編)という本では、「民国期中国における裸体画論争」と題して、鶴田武良さんがこう書いている――。
“東アジアの国々の美術が西洋の美術と異なる点のひとつは、裸体を主題とする美術の伝統を持たなかったことである。 中国の美術は、非常に早い時期から人のかたちを表現しているが、裸体を主題とすることはなかった。”
鶴田さんによれば、現存する中国のポルノで最も古い明の時代の作品でも、「そこに描かれている裸体はただ『人のかたち』を示すだけで、画家の関心はもっぱら男女の体位にあって、はだかの人のかたちにはなかったと考えられる」なのである。
日本人は明治の近代化以来、妙に“性”というものに抑圧的になって、「日本人は性的に淡白だ」というへんな迷信を作ってしまった。これはほとんど、「油を使わない日本料理は淡白だが、油を使う西洋料理や中国料理ははこってりしている」の言い換えでしかない。なにしろ“淡白の日本料理”の基本を完成した江戸時代は、浮世絵ポルノの全盛期だったのだから。しかし、若い頃の愚かな私は、そういう突っこんだことをよく考えられなくて、「日本が淡白なら、濃厚な中国を体験してみようか」と、中国の四大奇書に一つである『金瓶梅』を読み始めたのである。噂によれば、、この小説は「いやらしさの極み」であるはずだったのだが、いざ読み始めたらとんでもなく退屈で、四分の三を読んだところで投げ出してしまった。そしてそのことを中国文学の専門家にあったときに話したら、「それはエライ」と言われた。「そんなに忍耐強いのはエライ」ということである。
『金瓶梅』は、たしかにセックス描写ばっかりの小説でもあるのだが、結局は「今日は誰とどこでどういう体位でしました」というだけの記述のオンパレードなのである。さすがに欲望の国・中国だけあって,性行為と一緒に食事のシーンもやたらと登場して、「その日は、誰と一緒にこういうものとこういうものを食べました」という描写もエンエンと続く。だからどうなのかというと、中国料理のメニューをエンエンと読まされているだけなのである。料理のメニューをエンエンと読まされて、満腹したその後で主人公の始めるセックスの描写も、やはり料理のメニューのようにエンエンと続く“性交体位のメニュー”なのである。小説らしい筋立てがあるのは初めのほんのちょっとだけで、後は性欲と食欲のメニューのエンエンたる繰り返しなのである。「これでは誰だって退屈するだろう」というところで、前述の専門家の「それはエライ」発言がくるのである。つまり、「性戯を描いたのであって、人間のはだかの肉体を描いたものではない」とか、「関心はもっぱら男女の体位にあって、はだかの人のかたちにはなかった」ということは、そういうことなのである。
日本人の肉体表現は、清長や歌麿の出てくる浮世絵の時代になって、やっと本格化する。それ以前にも春画はあるけれども、どうも肉体性は希薄だ。「やっている行為」だけが描かれて、「やっている人間」の方がぼんやりしているからだ。この肉体性の希薄は、別に淡白な日本料理を生んだ国の特性ではなくて、こってりした中国料理を生んだ中国でも同じだ。いや、日本文化の本家である肉食の中国の方がもっとひどい。なにしろ中国人は、長い間“裸体”を描こうともしなかったし、肉体を直視しようともしなかったのだから。伝統的な中国医学の漢方には「解剖図」というものがない。そこにあるのは鍼灸の「経絡図」――ハリのツボとそのつながり方の絵――だけなのだ。『解体新書』の翻訳を始める江戸時代の日本人の方がまだ進んでいる。
「衣食足りて礼節を知る」の中国人にとって、裸になった人間の肉体というのはどうでもいいもので、その上を飾る衣裳の方が重要だった。「日本人は性的に淡白だ」をいいたがる日本人も、結局はこちらだろう。きちんと着るべきものを着ているのが礼儀正しくて、裸でいるというのは「下賤の者」でしかなかったのだ。そんなことを考えていれば、肉体というものはどっかに行ってしまう。衣服を脱いで裸になって始める性行為は、“いかがわしいもの”になってしまう。いかがわしい肉体は直視されないで、しかし“快楽”であるセックスだけはしたい――ということになったら、どうしたって「肉体性が希薄な体位だけの快楽図」というものにしかならないだろう。我々は中国渡来の儒教道徳のおかげで、「まじめな人間ほど肉体性を軽視する」ということになってしまったのだ。」橋本治『ひらがな日本美術史 2』新潮社、pp.115-117.