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歴史へのパースペクティブについて・・中江兆民

2014-08-14 02:42:37 | 日記
A.意見が割れている?から凍結?
 過去の歴史に対する評価というものは、唯一の事実があって、そこから自動的に導き出されるわけではなく、事実そのものも目に見える具体的な形で残っているとは限らない。さらに、評価はその評価を行う時点の、支配的な価値観、意味づけの布置状況に大きく左右される。逆にいえば、歴史に対する定説とか通説とかというものは、十数年から数十年で変わってしまうことは珍しくないことになる。問題は、それが何を契機に、いつからどっちの方向で変わったか、だろう。

 朝日新聞8月13日夕刊、1面は一見地味な記事だった。
「戦争資料5040点 さまよう」という見出しで、東京都の計画した平和祈念館と、そこにおさめるために市民から寄贈を募った資料、およびとが独自に購入した資料が、建設構想が頓挫しているため宙に浮いている、という話題だった。資料は宙に浮いている、というか、港区白金台の都庭園美術館の裏手の倉庫に眠っているという。朝日によれば、構想が行き詰まった直接のきっかけは、97年に都が示した展示の案に、「軍事都市東京」という言葉があり、戦争の加害の側面も取り上げる考えに「自虐的」との批判が起ったという。都議会は99年3月、建設予算案を可決する一方で、展示内容について議会の承認を得るように求める付帯決議を付けた。その直後に、石原慎太郎都知事が誕生し、建設を凍結。過去最悪の1068億円の赤字決算となった財政難も、理由に加わったという。
「財政再建は06年に区切りがついたが、議会内の意見対立は、今も解けない。記念館建設を求める陳情を審査した12年2月の文教委員会では、「日本をおとしめる展示になるのでは」と懸念する議員と、「日本は正しい戦争をやったという論が持ち込まれるのでは」と警戒する議員の間で、議論は平行線をたどった。
 来年の戦後70年に向け、東京空襲犠牲者遺族会は先月、改めて記念館建設を都に要望。舛添要一知事は7月31日の定例会見で「付帯決議がある以上、私が勝手にどうしろといえない」と話した。」

 1945年に終わった大戦争は、日本人だけでも300万人、アジア各国の犠牲者、対戦した中国、アメリカ、イギリス、オランダなどの兵士も含め、多くの命を損なった戦争だったから、これを永く後世に伝えることは、ぼくたちの義務であることはいうまでもない。とくに、首都東京は1945年の大空襲で、非戦闘員の住民も多く亡くなった、という事実は若い世代に伝えなければならない。しかし、ただ当時の資料を並べれば、それだけで戦争の事実と意味が伝わるほど簡単ではない。なぜ、こんな恐ろしいことになったのか?この戦争はどうして起ったのか(起こしたのか?)。これを防ぐ方法はなかったのか?子どもたちは当然問うであろう?
 戦争を実際に経験した人々がたくさんいた20年ほど前までなら、戦争の記念館を作るにあたって、おそらく今のような「意見が割れているから、凍結」ということはありえなかったと思う。つまり意見はそんなに割れていなかった。「あの戦争」が悲惨で愚かしいもので、戦争の実態を展示するにあたって「日本をおとしめる危惧」だとか「正しい戦争だった」などという議論の出る幕はなかったはずだからだ。首都を焼き尽くされて「負けた戦争」が正しい戦争である、ということなどどうひっくり返っても無理な話だし、「負けた戦争」だったからといって「日本をおとしめる」ことになると考えるのも相当無理な話だからだ。それでも、今の日本ではこういう形で「意見が割れているから、とりあえず凍結!」ということになってしまうのは、この20年のあいだに、「大日本帝国と日本臣民は正しかったのだ」という主張が、これまでの定説や常識をひっくり返しつつある、ということだ、とみる必要がある。つまり、この国のイデオロギー闘争において、少数派であったものが(まだ表面上かもしれないが)、安倍政権の登場に乗って、少なくとも国政や都政の多数派に躍り出ようとしている、ということになる。
 どうしてこういう事態になっているのか、は考えるに値するが、とりあえず靖国神社遊就館や知覧の特攻平和会館の展示のようなものが一方にあり、他方に北京の抗日戦争記念館やアウシュビッツ収容所の展示のようなものがある。そこには当然、一定の歴史観にもとづく説明がある。その展示を見ることは、現在の政治状況に対してある視点をとること、あるいはその視点への自分のスタンスを問われることになる。それが国や自治体の施設であれば、首相や知事の歴史観、過去への姿勢が反映するとみられるのも当然だろう。
 まずいから凍結!というのは、一番まずい。



B.中江兆民という人
 明治維新は、日本の歴史のなかでは奇跡的に、名もなき20歳前後の若者がいきなり表舞台に出て、活躍してしまった時代だった。もちろんそうはいっても、そういうチャンスに巡り合ったのは、たまたま才能に恵まれてしかも運がよかった下級武士層の若者だったのだが、そのなかでも、動乱の初期に命を落としてしまった人もいれば、うまく生き延びて明治政府の高官になった人もいたし、その道をあえて拒否して独自の言論人になった人もいた。

 「維新前後の時期に「独り別物」であったのは、福沢諭吉だけではなかった。兆民中江篤助(一八四七~一九〇一)は、福沢と同じように、下級武士(土佐藩の足軽)の家に生れ、藩校で漢学を修めた後、福沢が英語を学んだように、一八歳の頃(一八六五)からまず長崎で、次いで江戸で、フランス語を学んだ。福沢は幕府の翻訳官として、勤皇対佐幕の争いを局外から眺めていたが、兆民は幕末のフランス公使レオン・ロッシュLéon Roche の通訳をしたことがあり、おそらく勤皇対佐幕の理論的対立に興奮するよりも、維新の騒動を権力政治の争いとして、冷静に見つめていたにちがいない。福沢は維新前に三度外遊した。兆民が維新後最初に実行したことは、一八七一年末に出発した岩倉使節団と共に洋行して、およそ二年半ほど外国に暮らしたことである(一八七二~七四)。彼らは二人とも、かくして直接に知った西洋社会での経験を踏まえながら、「西洋化」に進みはじめた日本の「ジャーナリズム」で、独特の論陣を張ったのである。福沢は「時事新報」を創刊したが、兆民は多くの新聞の主筆として活動した(『東洋自由新聞』一八八一、「東雲新聞」一八八八、「立憲自由新聞」一八九一、「毎夕新聞」一九〇〇~〇一、など)。彼らの論説の内容に共通点があるとすれば、西洋近代の政治的社会的価値を、文化の相違を超えて普遍的なものとみなし、その立場から日本社会の具体的な問題に接近して生涯を通じ決して後退しなかったということであろう。
 しかし福沢と兆民とは、少なくとも二つの点で全く異なっていた。その一つは、伝統的文化に対する態度であり、もう一つは、明治政府の権力に対する態度である。
 福沢の伝統文化、殊に儒学教育に対する態度は、徹底して否定的で、それを洋学で置き換えることが、その念願であった。兆民はみずから洋学に拠りながら、洋学塾においても漢学を教えることを主張していた。彼が東京外国語学校の校長に就任し、三か月足らずで辞任した(一八七五)のも、文部省が西洋語専修をもとめ、彼が教授科目に漢学を含めることを要求して、意見が一致しなかったからだといわれている。兆民の主張の根拠は、あきらかでない。しかし彼の念頭には、古典語を重んじるフランスの教育思想の影響があったのだろう。フランスの学校における古典教育に相当するものを、一九世紀の日本にもとめれば、漢学の古典教育以外にあるはずがなかった。しかしおそらくそれだけではない。
 兆民には有名なルソオ『民約訳解』(Le Contrat Social の部分漢訳ならびに註解、一八八二~八三)をはじめ、西洋哲学の翻訳が多い。その経験もまた漢学の教養の必要を彼に痛感させたにちがいない。哲学用語の訳には、「経子語録及ヒ仏典ノ類」を探して適当な訳語を見つける必要があるが、訳者の教養が充分でなく、訳語が鄙陋にわたるかもしれない。とみずから書いている(『理学鉤玄』、「凡例」、一八八六)。また森田思軒の翻訳を評価して、その「学漢洋を兼て、而して殊に漢学の根底有る」点を強調してもいる。しかも兆民の伝統的文化との深い係りは、漢学にとどまらなかった。「我邦文章、義太夫本第一等也」として、浄瑠璃がヨーロッパの劇にも劣らないと考えていたらしい(『一年有半』、第二、一九〇一)。すでに喉頭癌を病んで、大阪文楽座の「忠臣蔵七段」を三度聞いた後では、「余既に三たび此偉観に接す、一年半決して促には非ざる也、孔聖云はずや朝に道を聞て夕に死すとも可也」(同上、第一)とさえ書いた。それほど深い美的・感情的経験は、その外部からの、いかなる知的考慮も拭い去ることができないだろう。死と相対してさえも揺るがない超越的経験を、兆民は文楽座の浄瑠璃に見出していたのである。しかるに文楽座の浄瑠璃は、伝統的な文化である。浄瑠璃と漢学とは、一方は町人層の、他方は武士層の文化に属して、直接には係らない。しかしその双方を包みこむ徳川時代の文化の全体は、兆民の血肉の一部分であった、ということはできるだろう。」加藤周一『日本文学史序説』下、ちくま学芸文庫、1999.pp.258-260.

  明治の初めに、実際に西洋に渡って一定期間その社会を体験した人はごくわずかな人間だった。これがどれほど凄いことだったかは、その後の日本の行く末に、この人たちがどういう役割を果たしたかを見れば歴然とする。それは政府の中枢にいた貴族や役人よりも、その洋行団に紛れ込んだ下級武士において著しい。お札になった福沢諭吉は、九州の小藩の武士だったが、蘭学そして英語を習得することで、西洋に行く船に乗れた。中江兆民も土佐の下級武士の子だったが、フランス語を習得したお蔭で、ヨーロッパに行くことができた。19世紀後半のフランスは、自由・平等・博愛の先進大国だった。「自由民権」は輝いていた。ヨーロッパ市民社会がどういうものか、中江兆民は実体験したのだ。

「けだし日本国において、「行われずして而かも且言論として陳腐となれる」ものは、「自由」に限らず、「民権」にかぎらなかったろう。すべて外来の思想は、行われずして古くなったばかりでなく、むしろ古くなること、まさに言論として陳腐となることが早かったからこそ行われなかったのである。兆民はそのことを指摘したときに、民権の主張と共に歩んだその生涯の感慨を要約していたばかりでなく、また実に鋭く明治以後今日までの日本言論史の全体の特徴をも要約していた。
 兆民にとっての「自由民権」は、国境を超える普遍的価値であった。「民権是れ至理也、自由平等是れ大義也、……欧米の専有に非ざる也」(『一年有半』第二、一九〇一)。したがってその価値の立場から、欧米帝国主義そのものをも批判することができる。彼はその欧米旅行中に「文明開化」の手本を見たばかりでなく、英仏人がトルコ人やインド人を扱うこと犬豚の如き実情をも見抜いていた。「抑々欧州人ノ自ラ文明ト称シテ而シテ此行有ルハ、之ヲ何ト謂ハン哉。……土耳古印度ノ人民モ亦人ナリ」(「論外交」、「自由新聞」第三八・四〇・四二号、一八九〇)。これは福沢の「脱亜」論を隔たること遠い。
 国内においても、彼の自由主義は、中産階級の枠を超える。一揆の貧農について、福沢が彼らの貧はみずから招くところだといったのとは、根本的に異なる態度である。兆民は「貧人の中にも自ら数種有る」ことを指摘し、当人の不心得の他にも、病気や、児息過多や、失業や、薄給のあることをいって、「救済の策を講ぜざるは残忍」とした(「貧民救助の策について」、掲載紙不明、『四民の目さまし』一八九二、所収)。したがって彼らが一揆に起ち上がり、バスティーユに迫るときには、その責任は彼らにはなくて権力の側にある。「蓋シ民ナル者ハ其最モ暴悍ナルモノト雖モ、自ラ好ミテ乱ヲ作スニ非ズ……民ヲシテ乱ヲ作スニ至ラシムルトキハ、是レ其罪民ニ在ラズシテ在上ノ人ニ在ルナリ」(「防禍于萌」、「東洋自由新聞」第二六号、一八八一・四・二一)。また兆民はその平等の原理を、被差別民にも貫徹させようとしていた。彼はその解放を公然と唱えることの、もっとも早かった知識人の一人である。
 「公等妄に平等旨義に浸淫して、公等の頭上に在る所の貴族を喜ばざるも、公等の脚下に在る所の新民を敬することを知らず、平等旨義の実果して何くに在る哉」
  (「新民世界」、「東雲新聞」第三一号、一八八八・二・一五)
 女性差別に対する兆民の態度は、平等主義に徹底していなかった。「男女、其の権を異にするは、天の道なり、性の常なり」(「男女異権論」、「奎運鳴盛録」第三号、一八七八)。「男子どしの噺し最中に女人が横から飛び込むこと」を、「生意気抔と云ふは、自家の野蛮習気をさらけ出すに外ならざるなり」(「婦人改良の一策」、『国民の友』第二五号、一八八八)。「我邦婦女の交際の趣味を解せざるは、芸妓有りて男子の歓を擅にするが為め也」。故に芸妓廃すべし。しかし娼家は「人情已めんと欲して已む可らざる者有り」(『一年有半』第二、一九〇一)。故に娼妓は之を保存すべし。――この点については、福沢の方が、より革新的であったとはいえないかもしれないが、はるかに周到な議論をしていたにちがいない。
 しかし自由平等の原理を、帝国主義批判に及ぼし、貧民の反抗権に拡張し、被差別民の差別反対にまで徹底させると、福沢の場合とは異なり、もはや明治国家の権力と正面から衝突せざるをえない。福沢が基本的には対立しなかった権力と、兆民は対立した。したがって福沢は成功したが、兆民は失敗した。かくして福沢の後には小泉信三(一八八八~一九六六)が続き、兆民の後には幸徳秋水(一八七一~一九一一)が来るだろう。兆民はその晩年に鉄道事業などに手を出し、それにも失敗した。喉頭癌で死んだとき、彼には金も、地位もなく、あったのは、ただ、その叛骨と明晰な思想だけであった。」加藤周一『日本文学史序説』下、ちくま学芸文庫、1999.pp.262-265.

  外来思想は、新しいがゆえにまずは歓迎され、年寄りを否定したい若者にもてはやされ、やがて一時の昂揚が過ぎるとさっさと捨てられ、あるいはいつのまにか形を変え、もう古いと罵倒される。結局、誰もまともにその本質を理解することなく、超越的な原理としての価値を発揮することなく、共同体と伝統的思考の中に形骸化して沈んでいく。兆民は、江戸時代の漢学的世界観の語彙と浄瑠璃的町人文化に足場を置いたまま、近代フランスの革命思想を最後まで捨てることはなかった。この姿勢は、その後の日本に叛骨と抵抗の細いけれども強靭な思想的血脈を残したと思う。

「『山酔人経綸問答』は、三人の酒に酔った男が、それぞれの政治的信条を戦わせる話で、その豊富な内容は、明治初期の政治文学のなかで、群を抜く。登場人物の一人は、「豪傑君」という右翼軍国主義者で、アジア大陸への拡張政策を唱える。もう一人は「洋学紳士」とよばれ、急進的な平和主義者で、国内における自由主義的な政策を主張する。第三の人物は、以上二人の客を迎える主人、「南海先生」で、現実定な漸進主義の立場をとる。たとえば対外政策について、南海先生は侵略的軍国主義に与せず、また無防備の絶対平和主義にも賛成しない。日本の将来を「小邦」の条件のもとに考え、「世界孰れの国を論ぜず与に和好を敦くし、万已むを得ざるに及ては防禦の戦略を守り、懸軍出征の労費を避け」るのが、良策だろうという。また国内の民主平等の制――一院制・普選・地方官公選・無料教育・死刑廃止・言論結社の自由など――についても、直ちにその実現をもとめる洋学紳士と、それを非現実として軍備を強調する豪傑君の説を、それぞれしりぞける。そして民主思想が直ちに実を結ぶことは期待できないといい、しかし「君真に民主思想を喜ぶときは、之を口に挙げ、之を書に筆して、其種子を人々の脳髄中に蒔ゆるに於て」、遠い将来にそれが実現されるかもしれない、という。
  この三人の人物は、いずれも戯画化され、批判されている。豪傑君は、単純な国権論者で、時代遅れだとされる。しかしその議論の中には、いわゆる「戸閉り」論がある。洋学紳士は、夢想的な民権論者で、改革のための改革をもとめ、政府を攻撃のために攻撃するといわれる。しかしそこには、大国間の争いに中立する小国の民主制の強調がある。南海先生は、あまりに常識的なことで胡麻化していると二客から批判されるが、政治的理想はただちに実現されなくても、公然と表明されなければならない、というのである。けだし三酔人のいうところの多くは、ほとんどそのまま一世紀後の今日の政論家の説に通じる。鶏声暁を報じて、二客が去り、『三酔人経綸問答』は、政治殊に国際政治に関して、異なる意見乃至立場を、目的と手段、あるいは価値と現実、の関係の解釈のし方にしたがって、相互につき合わせ、それぞれの立場を相対化している。それぞれの立場が、兆民その人の考えの三つの面を代表していたことは、いうまでもないだろう。両極端の立場の仲介者としての南海先生が、必ずしも兆民の立場なのではない。すべての政治的意見――すなわち価値と現実との関係の具体的な定義――このような相対化は、一九世紀の日本社会において画期的であり、またその相対化が、基本的な価値――自由平等と民権――を相対化せず、むしろその普遍的妥当性への確信を前提として行われたという点で、殊に画期的である。」加藤周一『日本文学史序説』下、ちくま学芸文庫、1999.pp.265-267.

  兆民の中には、右翼軍国主義・アジア拡張主義も、左翼急進的平和主義・自由主義も、中道的妥協的漸進主義も同居している。右と左は極端だから足して2で割る中道、というような無節操無歴史的なスタンスではなく、もっと確かな視野を兆民は持っていた。リアリストであるということは、ある方向に進行する現実に仕方なく追随することではなく、高い理想を今すぐ実現しようと飛び跳ねることもでもなく、現実が生起している条件と、その進む方向の歴史的な意味について、普遍妥当性への確信から展望できるかどうか、なのだ。
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