gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

森 鷗外 オット マリ アンヌ フリッツ ルイ・・・

2014-08-20 02:08:10 | 日記
A.子どもの名前について
 生れた赤ん坊の名前は、誰がどうやってつけるか?昨年このブログでも、日本人の名前のことを書いたが、江戸時代の武士や貴族階級は、幼名、成人後の名乗り(諱)、官名を流用した通称など複数の名前を使っていた。さらに自分で考えた号(俳号、雅号など)を称した。広く知られる森鷗外、夏目漱石、島崎藤村、正宗白鳥、永井荷風など、作家の名前はいずれも自分が作品を発表する際に自称した号である。いまはこういう号はあまり使わないが、ペンネームを使う作家は多い。
 森鷗外は日本の文学史に特筆される名前だが、鷗外が自分の子どもにつけた名前は、ちょっと変っている。長男の於菟(オットー)、長女の茉莉(マリ)、次女の杏奴(アンヌ)、次男の不律(フリッツ)、三男が類(ルイ)である。さらに於菟の子ども、つまり鷗外の孫の名前も、真章(マクス)、富(トム)、礼於(レオ)、樊須(ハンス)、常治(ジョージ)で、いずれもドイツ語、フランス語ではよくある人名である。ヨーロッパに長く滞在した鷗外は、自分の子や孫が将来ヨーロッパに行くか、ヨーロッパ人と交わることを予想して、このような命名をしたのだろうか。あるいはただたんに親の特権を使った遊びだったのか。
 実は、何を隠そう、ぼくもこれをやっているのだ。二人の息子に史門(シモン)と類(ルイ)の名をつけた。出生届を出すさいに、迷って森鷗外を見習った。西洋人の名は、キリスト教の聖人に由来するから、イエスの弟子、漁師のシモン・ペテロの名を与えられた息子は、図らずもクリスチャンになった。
ついでに鷗外の妻、森志げという女性は、絶世の美人である。実際写真を見るとそのとおり。『青鞜』などに小説を発表した才女としても知られるが、夫に対しては心を許さぬ悪妻だったといわれる。夫婦のことなど、第三者にはうかがい知れぬことながら、漱石の鏡子夫人が癇癪持ちの夫に振り回された、理解可能な女性だったイメージに比べると、あの鷗外が一所懸命気を使っている気がして、どこかミステリアスである。



B.森鷗外という人
 ずっと昔、大学生の頃、八王子セミナーハウスという所で時々開催されていた、大学生とゲストが一泊泊まり込みで行われる特別セミナーがあって、ぼくが何度か参加したひとつに、「鷗外と漱石」という企画があった。その時に呼ばれた講師は、確かメインゲストが江藤淳、他に鷗外漱石研究家として知られる大学教授が五人ほどいて、全体会の講演と分科会としてのゼミに分れていたのだが、希望者が多いと他に回されて、ぼくは早大教授の鷗外のゼミに入った。それは鷗外の小説「半日」と「かのやうに」を読み解く、というのがテーマだった。そのときどんな議論をしたのか、もう覚えていないが、それまで江藤淳の漱石論を熱心に読んでいただけのぼくは(実際、そのセミナーに参加したのは、江藤淳の実物から話を聞きたかっただけなのだが、そして目の前で聞いた江藤の講演は、当時話題になっていた「登勢という嫂」の問題を中心にした話で、わくわくして聴いたのだが)、なかば不本意な気持ちで鷗外論に触れたので会う。
 しかし、その頃でていた山崎正和の『鷗外 闘う家長』ぐらいは読んでいたので、突然森鷗外に興味を触発された。鷗外の経歴と足跡は、あまりに輝かしく明治のエリートとはこういう人間かと思うだけでなく、その足元にも辿りつけない自分の不甲斐なさに、今思えば若者らしく?(笑)八王子の山のなかで足掻いたのである。

「鷗外の時代は、帝国憲法公布(一八八九)の後にはじまる。明治維新の制度上の改革が終わった後、その制度的枠組みのなかで、科学技術と文化の各領域での改革の時期が続いた。改革の内容は、つまるところ西洋の近代文化と徳川時代以来の文化的遺産との対決と総合である。その対決を最も広い範囲にわたって生き、二つの文化のもっとも洗練された綜合を試みた人物は、おそらく森鷗外(一八六二~一九二二)であった。憲法公布の前年にヨーロッパから帰ってただちに文筆活動を開始してから、関東大震災(一九二二)の前年に病に倒れるまで、その三十年余の仕事のなかには、近代日本の文化のほとんどすべての問題が含まれている。その意味で、鷗外は時代の人格化であった。

 鷗外森林太郎は、明治維新に先立つこと六年、石見国(島根県津和野町)の典医の家に、長男として生れ、六歳で素読を習い、八歳でオランダ語を学び、一〇歳で東京へ出ると、同郷の学者西周(一八二九~九七)のもとに寄寓して、ドイツ語を習い、十五歳で東京医学校へ入り、卒業すると陸軍軍医となった(一八八一)。衛生学研究のためドイツに留学したのは二二歳のときで(一八八四)、帰国はその四年後である(一八八八)。四年間のヨーロッパ生活が鷗外に及ぼした影響は、漱石の二年間のロンドン生活の場合よりも、はるかに広汎で、はるかに決定的であった。鷗外は漱石よりも一〇歳ほど若いときに、漱石の二倍の年月をヨーロッパで送ったのである。
 鷗外はドイツ(ライプチッヒ、ミュンヘン、ベルリン)で、彼のヨーロッパと同時におそらくは日本を発見した。鷗外にとってのヨーロッパは、第一に、プロイセン官僚機構であったはずである。彼は帝国陸軍から派遣されてビスマルクのドイツへ行った。その後の彼は日本陸軍の機構のなかで、軍医として最高の地位に就く(軍医総監兼医務局長、一九〇七~一六)。政府権力の内部で自由主義的な官僚ではあったが、漱石のように権力に対して自由主義的な立場を主張することは、なかったし、またそもそもあり得なかった。第二に、実験科学の精神。学問の上で、鷗外が学んだのは、ペッテンコーファーPettenkoferやコッホKochの研究室である。前者は衛生学の、後者は細菌学の創設者であり、おそらく当時の世界でもっとも先進的な医学を代表していた。彼らの研究室には、学問への献身と鋭い方法的自覚があったはずだろう。その影響は、鷗外の生涯を一貫する。帰国後の鷗外は医学雑誌を主宰して(『衛生新誌』および『医事新論』の創刊、一八八九)、和漢の医術を却け、唯一の真の医学は西洋流の実験医学であることを、力説した。またおそらくドイツの研究室での自己の経験を想起しながら、「学問の果実」を輸入すること以上に大切なのは「学問の種子」を移植することだろう、と説いた(「洋学の盛衰を論ず」一九〇二)。またその文学的な仕事においてさえも、晩年の伝記に「自然科学の余勢」の影響をみずから指摘していたのである(「なかじきり」一九一七)。第三にドイツ語をとおしてのヨーロッパ近代文学。『即興詩人』(一八九二~一九〇一)から『ファウスト』(一九一三)まで、鷗外はヨーロッパ近代の文学作品を翻訳し、それによって明治時代の文壇に大きな影響をあたえた。その翻訳の過程を通じて、西洋流の思考のすじ道を辿れるのに適しい日本語の散文の文体を、彼は次第に作り上げたといってよいだろう。一方には彼が熟知していた漢文をふまえての日本語の表現の可能性があり、他方には彼が読んだばかりでなく話しかつ書くことのできたドイツ語の文章の知的な豊かさがあった。その相互作用が鷗外のなかで、晩年の歴史小説や伝記の簡潔かつ明晰で、力強い文体を生みだしたのである。第四に青年鷗外にとってのヨーロッパ生活が、感覚および感情の解放を意味したであろうことにも、疑の余地はない。彼は男女三歳にして席を同じくしない旧武士社会の伝統から、突然帝政ドイツの貴族=軍人が愉しんでいた舞踏会のなかへとび込んだ。その生涯において稀な激しい恋愛を鷗外が初めて経験したのは、ドイツにおいてである。相手の女については、名前さえもわからない。今日わかっているのは、彼女が帰国した恋人の後を追って、日本へ来たということ(一八八八)、陸軍の上官および家族の圧力に屈して鷗外が彼女を送り返し、その翌年、陸軍の高官であった西周の媒酌で、海軍の有力者の娘と結婚した(一八八九)ということである。鷗外はヨーロッパでの恋愛を、日本での家族主義(長男の責任)と出世主義(官吏の私生活への権力の干渉)のために、切り捨てた。しかし実生活の上で切り捨てられた恋愛は、当人の心のなかで忘れられたのではない。それどころかその文学的活動の原動力となり、結婚後一年も経たぬうちに発表された小説「舞姫」(一八九〇)の裡に蘇った。実生活の上での妥協を文学的創造力に転化するという鷗外の一生を貫く原則は、このときにはじまる。彼が正面から権力に抵抗したのは、ただ一度、死の三日前に友人に口述した「遺書」のなかにおいてだけであった。宮内省や陸軍の側からの一切の栄典を拒否し、ただ「石見人森林太郎」として死にたいといい、「如何なる官権威力」も、このことに容喙するのを許さない、といったときに、彼はその恋愛に容喙した「官権威力」を想出していたのかもしれない。」加藤周一『日本文学史序説』上、1980 ちくま学芸文庫、pp.329-332.

 「舞姫」をはじめに読んだ時、なんかこれってヒデ~話だ、と思った。主人公は自分を慕うエリスを、冷たく捨てる。日本という極東の小国に生れたエリートが、ヨーロッパ文明の中心のひとつであるベルリンで、恋愛する。その構図だけを見れば、ありふれた恋愛と世間体と妥協した男の逃走の物語である。しかし、明治の日本でこのような作品を書いて公表するということの意味は、現在のわれわれとは別の言説空間で、きわめて画期的なことだったと思う。
 森鷗外の到達した高みの作品群は、晩年の史伝にあるという。これを読むには、しかるべき覚悟がいると思う。ぼくは10年前読もうと思って手元に『澁江抽齋』『北条霞亭』『伊澤蘭軒』を購入したのだが。いまだちゃんと読んでいない。人生還暦を過ぎれば、これを読む資格はあるのだろうが、未だ未熟なわれ、である。死ぬまでに一度は読もう!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする