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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

時間を巻き戻す・・200年ほど・・ね

2014-08-08 19:42:31 | 日記
A.いまは「戦前」なのか?
 今日の朝日新聞に、作家の中島京子さんがその作品、昭和10年の東京郊外に建てられた家に暮らす一家の物語「小さいおうち」を書くにあたって、戦争にじわじわと進んでいく時代の資料を調べた、という話を書いていた。今からは80年ほど前の日本だが、80年という時間は、遠いようでもまだ現在と繋がっていて、その時代の記憶がある人もわずかに生きていらっしゃる過去である。
 ぼくのような社会学研究者も、近い過去のさまざまな出来事を調べる際には、当時の一次資料にあたることが求められる。たとえばその時その場所で暮らしていた人たちは、どんな服装をしてどんなものを食べていたのか、どんな家に住んで一日をどのように過ごしていたのか、昭和の始めであれば、写真もあり新聞記事もあり、多くの記録もある。映画はまだ活動写真からトーキーに変わった時代で、残っている作品は多くはないが、戦後に映画の黄金時代が来た時、観客の多くがよく知っている過去、戦争に向っていった時代を映像化した作品の中にも、具体的な風景や光景として、昭和戦前期は描かれていた。もちろん映画や小説は、フィクションであるのだが、ある時代に生きていた人の記憶を想起し確認する上で、物語よりも具体的に、建物や服装や言葉遣い、道を歩く人びとの表情、食べ物や働く姿などは、鮮明にその時の生活と意識を反映する。
 ぼくたちはもちろん、その時代には生きていなかったので、何も知らないといえば知らないのだが、こうした一次資料、あるいは二次資料を通じて遠い過去が現在に繋がっていることを、たんなる知識としてではなく、歴史の記憶として知ることができる。そこから21世紀の現在を考えるとき、過去に無関心な人は現在にも未来にも、つまり無歴史的な時間を、何も考えずに生きている、ということがわかる。そのことの結果は、恐ろしい、と中島京子さんは言う。

「そこで私は当時書かれた小説、映画、雑誌、新聞、当時の人々の日記などを読んだ。のちになって書かれたものは、戦後的な価値観が入っているので、できるだけ、当時の考え方、当時の価値観がわかるものを調べた。するとだんだんわかってきた。そこには、恋愛も、親子の情も、友情も美しい風景も音楽も美術も文学も、すべてのものがあった。いまを生きる私たちによく似た人たちが、毎日を丁寧に生きる暮らしがあった。私は当時の人々に強い共感を覚えた。
 けれども一方で、そこからは、人々の無知と無関心、批判力のなさ、一方的な宣伝に簡単に騙されてしまう主体性のなさも、浮かび上がってきた。当時の人々に共感を覚えただけに、この事実はショックだった。豊かな都市文化を享受する人たちにとって、戦争は遠い何処かで行われている他人事のようだった。少なくとも、始まった当初は。それどころか、盧溝橋で戦火が上がり日中戦争が始まると、東京は好景気に沸いてしまう。都心ではデパートが連日の大賑わい。調子に乗って、外地の兵士に送るための「慰問袋」を売ったりする。おしゃれな奥様たちは、「じゃ、3円のを送っといて頂戴」なんて、デパートから戦地へ「直送」してもらっていたようだ。これは前線の兵士たちには不評で、せめて詰め直して自分で送るくらいのデリカシーがないものか、と思っていたらしい。つまり、それほどに、戦闘の事実は市井の人から遠かった。これは1939年の「朝日新聞」の記事から読み取れる。盧溝橋事件からは2年が経過している。しかし、この後、戦況は願ったような展開を見せず、煮詰まり、泥沼になってきて、それを打開するためと言って、さらに2年後に日本は太平洋戦争を始める。また勝って景気がよくなるのだと人々は期待する。しかしそうはならない。坂を転げ落ちるように敗戦までの日々が流れる。」朝日新聞2014年8月8日、朝刊「オピニオン」欄寄稿。

 戦争というのは、自分の国で戦われている場合、身近な人間が殺されたり殺したりする苛酷な現実そのものである。人はそこで、戦場から逃げ回るか、自分も武器をとって戦うか、しかない。しかし、昭和10年代(1935~45年)の日本がやっていた戦争は、最後の段階に至る前までは、日本本土が戦場になると国民は思っていなかった。つまり、戦争はどこか遥か離れた中国大陸や南方の島、海外の戦場で強い日本軍“皇軍”が戦っているものだと思っていた。いずれ日本は勝利を収め、万歳の提灯行列をする日が来る、それまでは「欲しがりません、勝つまでは」で戦争に協力しなければいけない。銃後の国民は、戦地の兵隊さんの苦労を思って慰問袋を送っていればよかったのだ。
 しかし、それが大きな間違いだとわかったのは、近所の若者が次々戦死して白木の箱で還ってくるようになり、やがて自分の住む町に爆弾が降ってきたとき。家を焼かれ、兵士ではなく、老人子どもが空襲爆撃で死んでしまった。どうしてこんなことになっちゃったのか?そこではじめて人々は考えたのだが、すべては遅く、この国は滅びた。

「人々の無関心を一方的に責めるわけにはいかない。戦争が始まれば、情報は隠され、統制され、一般市民の耳には入らなくなった。それこそ「秘密保護法」のような法律が機能した。怖いのは、市井の人々が、毒にちょっとずつ慣らされるように、思想統制や言論弾圧にも慣れていってしまったことだ。現代の視点でみれば、さすがにどんどんおかしくなっていっているとわかる状況も、人々は受け入れていく。当時流行していた言葉「非常時」は、日常の中にすんなりと同居していってしまう。
 昨年あたりから、私はいろいろな人に、「『小さいおうち』の時代と(今の空気が)似てきましたね」と言われるようになった。出版された2010年よりも、2014年のいまのほうが、残念ながら現実と呼応する部分が多い。
 一番心配なのは、現実の日本人々を支配する無関心だ。戦前とは違い、戦後の日本は民主主義国家なのだから、きちんと情報が伝えられる中で、主権者である国民がまともな選択をすれば、世の中はそんなにはおかしな方向に行かないはずだ。それなのに、たいへんな数の主権者が、投票に行かず、選挙権を放棄している。そのことによって、あきらかに自分自身を苦しめることになる政策や法律が国会を通ってしまっても、結果的にそれを支持したことになると気づいていない。そうした人たちが、だんだんと日常に入り込んでくる非日常を、毒に身体を慣らすように受け入れてしまうかと思うとほんとうに怖い。
 「集団的自衛権」に関して言えば、これを「検討が十分に尽くされていない」と感じている人は、共同通信の世論調査結果で82%に上る。高い数字の中には、防衛政策云々の前に、内閣が立憲主義を無視した暴挙に対する批判も含まれるだろう。こうした意識が有権者に芽生えたのには、報道も寄与したはずだ。「集団的自衛権」に関しては、どの報道機関もかなり力を入れて報道していた。国民のほとんどが、「よく検討されていない」と感じるくらいには、報道されたわけだ。逆説のようだが、きちんと報道されなかった事柄に対しては、人は「検討が十分でない」ことすら判断できない。
 日常の中に入り込んでくる戦争の予兆とは、人々の慢性的な無関心、報道の怠惰あるいは自粛、そして法整備などによる権力からの抑圧の三つが作用して、「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿状態が作られることに始まるのではないだろうか。その状態が準備されたところに本当に戦争がやってきたら、後戻りすることはほんとうに難しくなる。平和な日常は必ずしも戦争の非日常性と相反するものではなく、気味悪くも同居してしまえるのだと、歴史は教えている」
(同上、中島京子「戦前」という時代)

 「秘密保護法」も「集団的自衛権」も、べつにこっちから戦争をしようっていうんじゃない、ただ危険な周辺国(つまり中国)の野望に備えて牽制し、国民の生命財産を守るために必要な措置を早く用意するのだ、という首相がいる。「戦後日本」は敗戦の失敗に懲りて、国民は「戦争アレルギー」に罹り、占領下に押し付けられた憲法9条をまともに受け取って、とにかく戦争はしない、戦争は怖い、戦争はいけない、と呪文のように繰り返してきた、これをもうひっくり返そう、戦争はできるようにしておこう、というのが安倍氏だけでなく、国会多数を握る政治家の気分になっている。
 ぼくは思う。問題はどういう方向でひっくり返すか、である。自由に戦争ができる軍隊を持って、この国が何をやろうというのか?侵略戦争?それは大義名分がない。では、国際紛争への介入?その場合の大義名分は何?「国際社会が共有する価値観」?でも、安倍氏の言葉からはアメリカ合衆国へのしっぽ振りと、姑息な言い訳しか出てこない。国民に説明すべきなのは、この国が世界に向って何を実現したいのか、アメリカの威光にぶら下がる卑屈さではなく、戦争を根絶するビジョンを示すのでなければ、ぼくたちは納得できないし、世界も納得しないと思う。
 まがりなりにも選挙という手段をまだぼくたちは持っている。このいかがわしい政権を、権力の座から引きずり落とすチャンスはないわけではない。



B.平田派神道と水戸学
 加藤周一『日本文学史序説』に依拠しながら、日本思想史・文化史を駆け足で追いかけてきたが、安倍自民党が衆議院選挙で圧勝した2013年末に始めたこのブログの出発点、あのとき予感したこの先の日本が向かっていく重苦しい時代を、明治維新前夜に戻り振り返って考えるという課題に、ようやく舞い戻った。遠回りした気もするが、文脈を理解することの重要性を改めて噛みしめる。
  つまり、平田派神道と水戸学(後期水戸学)である。日本の「右」勢力の思想的バックボーンは、多かれ少なかれ平田派神道と水戸学に由来すると考えてもいいだろう。それは、外国とくに西洋という存在を意識しなくてもよかった18世紀までの日本にはほとんど必要のなかった思想で、西洋文明はただの知識・技術でしかなかった。19世紀のはじめ、日本周辺にロシア、イギリス、フランス、アメリカといった西洋列強の武力を具えた船舶が出現してから、「東アジアの安全保障環境が劇的に変化し」幕府は鎖国政策により「外国船打ち払い令」を出した。「戦争」が起こるかもしれない状況が訪れた。しかも敵は強力な武器を持っている。物を考える人たちは、一気に切迫感をもって「日本」とは何かを考えはじめ、その時に注目を集めた思想が平田派神道と水戸学だった。

 「宣長の弟子を自称した平田篤胤(一七七六~一八四三)は、神話の綿密な文献学的解釈に全力を注いだ宣長とはちがって、神話を素材として彼自身の世界観の体系を作った。その世界観の構造は、キリスト教の来世観に強く影響されている。その意味では、徂徠の古文辞学にその方法を学んで儒者を攻撃した宣長と、キリスト教に学びながら排外的な「ナショナリズム」を唱えた篤胤とは似ていたといえるかもしれない。
 篤胤は秋田の下級武士の四男に生れ、二十歳で脱藩して江戸へのぼり(一七九五)、その五年後に同じく江戸定住の下級武士、平田氏の養嗣子となった(一八〇〇)。その時までの生活は困難を極めていたにちがいないが、その詳細は知られていない。その後の篤胤は、多くの著作を発表し、その門弟も晩年には五〇〇人余に及んだ。しかし仕官をもとめて果さず(一八三〇~三四、尾張家より三人扶持を支給されただけである)、五九歳で水戸の史館に出仕を願って(一八三四、藤田東湖宛願書)、それもかなわず、かえって幕府から江戸退去と著作禁止を命じられた(一八四一)。幕府による弾圧の理由はわからない。篤胤が江戸退去の後三年足らず、秋田で病没したのは、六八歳のときである。
 篤胤の多数の著作のなかで、『本教外篇』(稿本、一八〇六成立)は、村岡典嗣の指摘したように(「平田篤胤の神学における耶蘇教の影響」『日本思想史研究』)、利瑪寶Matheus Ricci 等の中国語訳キリスト教書に拠るところが多い。キリスト教の「天主・天帝」の代りに、アメノミナカヌシを中心として、タカミムスビ・カミムスビの二神を、天地万物の創造者とする。主著『霊能真柱』(たまのみはしら:一八一二成立、翌年刊)と『古史伝』(一八一一~二五)は、全宇宙が「天(あめ)・地(つち)・泉(よみ)」から成ると説いて、天はアマテラス、泉はスサノヲが支配するという。地は「顕世」と「幽世」の二重構造を具え、「顕世」は天皇の支配、「幽世」はオオクニヌシの支配の場所である。人が死ねば、身体は土に帰り、霊は不滅で「幽世」に入る。「幽世」では、当人の現世における行いがオオクニヌシの審判を受けて、善人は天上へ、悪人はヨミノ国へ行くという。これは、死後すべての人がヨミノ国へ行くという宣長の説とは異なり、かえって霊魂不滅と死後の審判を説くキリスト教の来世観に酷似している。かくして現世の不幸も、その徳行が来世において報いられるかぎり、実は幸福の種であり得る。現世は「寓(かり)の世」にすぎず、来世が「本つ世」であって、「こはまことに、外国籍(とつくにぶみ)にいふごとくにぞありける」(『古史伝』二十三之巻)ということになる。
 しかし篤胤の世界には、現在やキリストに相当する観念が、みられない。厳しく禁じられていたキリスト教に彼がひきつけられたのは、おそらくその不遇の生涯の償いを彼が来世にもとめたからにちがいない。そしてそれ以外の理由によってではなかったのであろう。儒教も、宣長の神道も、死後の救いを説かない。仏教は、少なくともその大衆的な教義が、それを説くが、キリスト教のように鋭く差別的にではない。
 しかも宣長の時代にはまだ遠かった西洋が、篤胤の時代には戸口まで来ていたのだ。しかし篤胤がキリスト教に回心しなかったことはいうまでもない。彼の「幽界」は、キリスト教的または仏教的彼岸のように此岸から遠く離れた超越的世界ではなく、「顕界」に重なり、眼にはみえぬが「顕界」との交渉の成りたち得る世界であった。「幽界」に居る霊は、ほとんど先祖の霊が生家の近くに止まっているのに似ていた。あるいはむしろ伝統的な祖先崇拝の合理化の一つの形式が、「顕界」と「幽界」の二重構造であったとさえいえるだろう。それならば、「幽界」は「顕界」の延長である。さればこそ篤胤は、一方で「顕界」は「寓の世」で、「幽界」こそが「本つ世」だと主張しながら、他方では、「さうは云ひつつ、拙者は毛虫と仏と死ぬことはきつい嫌ひじゃ」といい、「極楽よりは此の世が楽しみだ」と言っていたのである(『伊吹於呂志』、第十一)。
 『霊能真柱』と『古史伝』にみえる宇宙論は、古代文献の自説に好都合な箇所を好都合に解釈して、手あたり次第に証拠として列挙する。その意味では、こじつけの議論の集大成であり、まさに藤田東湖のいわゆる「怪妄浮証」にすぎないだろう(会沢正志斎宛、天保五年五月二十九日、書簡)。たしかに篤胤は、中世以来の神道理論の極端なこじつけ主義の伝統に掉さしていた。しかしそれだけではない。講演筆記『伊吹於呂志』(一八一一)は、また彼がどれほど深く江戸町人の世界と係っていたかを、示している。街の人々の現世主義、日常的実際的な態度、川柳に典型的な偶像破壊の精神……それはたとえば仏教についての次の言葉にも、実に躍如としている。
 「極楽といふものは、段々申す通り、一向に跡もなき所なり、よしまた有るにしたところが、一向おもしろくないことぢや。まづ十万億土といふ長い道をブラブラ行って行きおふせた所が、《蛙さへ重きに蓮の仏たち》といふ口ずさみの如く、水中に生えて居る蓮の葉の上にただ一人つくねんとしては、さう居ずまいのよい人ばかりではあるまいし、‥‥‥ただちぢこまって居ることは、何と、いやなことではないか」(『伊吹於呂志』第十一)
 この文章にあらわれているような感受性とものの考え方が、仏教の「極楽」を嘲弄していたばかりでなく、キリスト教の「天国」をも容易に受けいれなかったろうことに、疑の余地はない。
 しかし篤胤は、西洋人について、そのキリスト教ばかりでなく、彼らの技術的な優越も充分に意識していた。彼はオランダ人について、「人品は軽々しく」、「犬の如く淫乱」だという。しかし他方では、「かの国人は、甚だ深く物を考へる国で、何によらず、あらゆる事の根から底から穿鑿しつめる」といい、天文地理・細工物・医療などは、「万国最上に委しく確か」だとしていた(同上、第八)。オランダ人の技術の「万国最上」をいう「蘭学」者は、すでに十八世紀後半から稀ではなかった。しかしその事実を彼らが「甚だ深く物を考へる」習慣から説明しようとしたのは、誰にもできることではなかったはずだろう。篤胤はその説をどこに学んだのだろうか。漢訳天主教の経験は、ここにも生きていたのかもしれない。
 篤胤は生前の宣長の弟子ではなく、しかも鈴屋学舎の後裔とは折合わなかった。仏家を嫌い、「唐人形気」の儒者にも批判的であったことは、いうまでもない。彼は孤立し、権力から遠く生きていて、水戸の学者たちとは対照的に、極端な逆境と戦いながら、独学していた。まさに周辺的存在であった篤胤は、おそらく宣長以上に、世界の中心としての日本と自己を同定する必要を感じたであろうし、また宣長以上に、あらゆる「イデオロギー」を、キリスト教のそれさえも含めて、自家の目的に利用する必要も感じていたはずであろう。水戸学派の用語をかりれば、彼こそは天皇中心の「国体」を、その包括的な宇宙論によって基礎づけざるをえなかった。かくして平田篤胤による「国学」の「イデオロギー」化はおこった。しかしそのイデオロギーの性質は、本来形而上学であって、政策上の水準で、「尊王」や「攘夷」を具体化しようとするものではなかった。」加藤周一『日本文学史序説』下、ちくま学芸文庫、1999. pp.160-164.

 西洋についてもキリスト教についても十分な知識のなかった多くの日本人は、「攘夷」の必要性とは、神の国の神聖性を汚すヤソ教の夷狄を一歩も日本に入れてはいけない、という素朴な呪術性信仰と「日本」というreflexiveな民族意識の昂揚にあった。それを言語化したのが、平田篤胤と水戸学だったのだが、よくみるとこの両者は近いようで遠い。宣長の「国学」を継ぐと称した篤胤のイデオロギーは、記紀的古代を指向して、朱子学的な儒教や武士の忠孝道徳を重視していなかったし、水戸学は徳川幕藩体制への叛逆をはじめから排除した「尊王攘夷」だった。共通するのは、呪術化したナショナリズムと外国人を忌み嫌う排外主義である。

 「水戸学派は、逆に、「国体」の根拠としての宇宙論よりも、政策の根拠としての「国体」に興味をもっていた。徳川光圀が『大日本史』の編纂をはじめたのは十七世紀の中葉(一六五七)であり、その仕事の終ったのが、一八世紀初めである(一七一五、『史記』に倣って「本紀」七三巻、「列伝」一七〇巻の脱稿)。それ以後一八世紀を通じて、史書編纂を目的としていた「彰考館」は、沈滞していたが、一八世紀末のロシア船以来欧米の船が日本の、殊に水戸藩の沿岸にあらわれるに及んで、藩主徳川斉昭と共に彰考館の儒者たちもにわかに活発な反応を示すようになった。反応の内容は、「尊王」の「イデオロギー」と「攘夷」の政策である。この傾向は早くも藤田幽谷(一七七四~一八二八)にあらわれていたが、その息子東湖(一八〇六~五五)と会沢正志斎(一七八二~一八六三)においていよいよ強まった。会沢は幕府外国船の打ち払いを指令した年(一八二五)に『新論』を書いて、「攘夷」論を唱えた。日米和親条約(一八五四)の後八年、『時務策』(一八六二)で彼が通商支持論に変わってきたことについては、すでに。触れたとおりである藤田東湖は、斉昭の『弘道館記』の草稿を作り(一八三八)、免職蟄居の間に(斉昭の致仕謹慎に従う)、自伝的回想『回天詩史』(一八四四)、「正気歌」(一八四五)、『弘道館記述義』(一八四六)を書いた。幽谷は農家に生れて彰考館総裁となったが、会沢は水戸藩の下士の子で、東湖と共に幽谷の弟子である。
 会沢の『新論』は、五部から成り、その第一部「国体」では、建国の神話から尚武と民命を重んじる政治的結論までを説く。「国体」の語は、ここでは明瞭に定義されていない。しかしおよそ外国と比べての日本国の特徴を意味し、天皇を中心とする共同体を漠然とさしていたと考えてよいだろう。そこでは易姓革命の不在と天皇家の神道祭祀が、日本国の万国にすぐれた点として、強調されている。この「国体」論は、外来の「イデオロギー」としての仏法とヤソ教とを排して、「忠孝」の儒教的語彙を用いるという点では、いくらか平田流の神道に似ている。しかし篤胤の場合よりも当面の「攘夷」の必要を説くことに急で、鋭く排外的である。このような排外的天皇中心主義を内容とする――しかし天皇から委託された統治権の行使者としての徳川政権を排除しない――「国体」論は、ほとんどそのまま『弘道館記』にもひきつがれていた。『弘道館記』では、「宝祚以之無窮」の語が、「国体以之尊厳」をはさんで、「蒼生以之安寧」につづく(「以之」の「之」は、弘道館の「道」である)。かくして「国体」を支えるものは、一方では天皇家の連続であり、他方では人民の協力である。「蛮夷戎狄」の征伐は、そこから生じるだろう。水戸学の「国体」論は、明治維新の原動力にはならなかったが、維新後の政府の官製「イデオロギー」の支柱としては役立った。またさらに下って一九三〇年代の天皇制超国家主義の「スローガン」になったことは、われわれの記憶に新しい。」加藤周一『日本文学史序説』下、ちくま学芸文庫、1999. pp.164-166.

 水戸学の志士たちの末路は悲惨であった。「尊王攘夷」の実行という政策課題は、桜田門外の変のテロリストを生み、開国論者への暗殺を呼び、気がつけば仲間であったはずの長州薩摩の志士は開国路線に転向し討幕の準備に動いている。時代の流れに置き去りを喰った天狗党の志士たちは、雪の北陸をさまよって国家への反逆者として処刑される。
 後に、明治政府が靖国神社を作って国家のために命を捨てた“護国の鬼”、尊王に殉じた人々を顕彰する際に、さすがに水戸学の犠牲者は無視できなかったらしく、天狗党の死者は率先して靖国に祀られた。しかし、これは悠久の日本の歴史に掉さした民族の英雄なのではなくて、ある特殊な時代に偏狭なイデオロギーに扇動されて、空しく散っていった哀しい若者たちだとぼくは思う。戊辰戦争の敗北側の死者、会津の白虎隊や五稜郭の敗者は、靖国には祀られない。戦争の後始末はつねに勝者の論理で行われる。近代日本は、このような犠牲の上に成立した。

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