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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

奥尻島の帰りに、東條英機について読んだ。

2014-08-22 20:55:40 | 日記
A.北の島を訪ねて
 さきほど北海道から飛行機で羽田に戻ったところである。
 今回訪ねたのは、「奥尻島」。この島は、北海道南西部の日本海上に浮かぶ島。面積は142.97km²であり北海道では5番めに面積の広い島(北方領土の国後島、択捉島、色丹島を除くと利尻島に次ぐ2位)ということになる。島全体で北海道奥尻郡奥尻町となっていて、人口3,675人(2006年)。島内最高峰は神威山(標高584m)である。町の町制施行は1966年1月1日。主な産業は漁業および観光。特に夏はとれたてのウニやイカが食べられる。奥尻空港があり、函館空港から1日1往復就航する。また奥尻港には江差町との間に通年で日に往復2便、せたな町との間に夏季のみ日に1便または2便、フェリーが運航。
 ぼくは、函館からプロペラ機に乗り継いで、約25分で島の空港に着いた。
 この島の名が全国に知られたのは、1993年7月12日夜に起こった北海道南西沖地震(マグニチュード7.8、推定震度6の烈震、日本海側で発生した地震としては近代以降最大規模)で、島の南西部の青苗地区を中心に津波の被害を受け多くの死者を出したからである。当時約4,700人ほどあった人口は、被害による転出などもあり年々減少傾向にある。北海道南西沖地震のあと、防波堤などの大規模な津波対策がなされた。スマトラ沖地震に続く、東日本大震災の津波災害で、この島が津波対策の先進地ということで各地の防災担当者から注目をあびることとなった。震源に近い奥尻島を中心に、火災や津波で大きな被害を出し、死者202人、行方不明者28人を出した。さらに、ロシアでも行方不明者3人。奥尻島の震度が推定になっている理由は、当時の奥尻島に地震計が置かれていなかったためだという。
 被害は、津波だけでなく、崖崩れ、火災など、集落が全滅に近い所もあった。実際に行ってみると、もう21年経っているので、復旧・復興事業はほぼ完了していて、一番被害の大きかった青苗地区も、高台移転や護岸堤防などが整備されて新しい家並みができている。島を車で一周しても約1時間弱、夏の観光シーズンはすでに過ぎているが、宿泊した西岸の神威脇温泉は静かな集落で、450円で入れる温泉に浸かり、非常に美味なアワビ、イカなどの海の幸料理を満喫した。
 実は、同僚にこの神威脇を故郷とする人がいたおかげで、災害の事だけではなく、この島の過去の歴史についていろいろと有意義なお話を聴くことができて、とても有意義な旅になった。詳しくは改めてお話ししたい。



B.東條英機という人について
 この旅に携行した一冊の本は、保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫、2005.で、飛行機の中で最初の部分を読んだ。いうまでもなく、東條英機という人物は、日本が20世紀の半ば、世界を相手に戦った大戦争の最高指導者、東京裁判でA級戦犯として処刑された軍人・政治家・独裁者として知られる。この本は、綿密な調査によって、東條英機とは何者だったのか、をその出自から最後までを描いた名著として知られる。これもだいぶ前に購入して、ちらほら読んではいたのだが、今回きちんと読もうと思ってこの本だけを荷に入れた。
 とりあえず「まえがき」で著者はこう書いている。

「〈なぜ東條英機を書くのか〉――この五年間、私はしばしば自らに問うた。
 東條英機という人物を、私は、戦後民主主義の持つ概念〈自由とか平和とかヒューマニズムといったものだが・・〉の対極で捉えていた。昭和二十年代、私は小学校、中学校教育を受けたのだが、そのとき〈東條英機〉は前時代を否定する象徴として、私の目の前にあった。学校教育でそうであっただけではない。当時の社会情勢においても、東條はそのような位置づけをされていたと思う。
 正直に告白すれば、私の潜在心理には嘔吐感の伴った人物として、〈東條英機〉が存在しているのを隠そうとは思わない。いやそれは、私の前後の世代に共通のものではないかとも思う。
 しかし、日本近代史に関心をもち、多くの資料、文献を読み、当時の関係者に話をきくにつれ、実は、東條英機をこうした生理的感覚の範疇にとどめておくのは、戦後日本の政治状況の本質的な局面や、そこから生じる課題を隠蔽しておくための効果的な手段ではなかったかと、私は考えるようになった。
 東條英機と陸軍中枢をスケープ・ゴートにすることによって、極東国際軍事裁判の論理は一貫しているし、その判決文の断面は戦後民主主義の土台をもなしてきた。私は、民主主義のイデーが現実の社会から乖離していくのを自覚するたびに、極東国際軍事裁判と連結した戦後民主主義の詐術と作為と、そしてその脆弱さをはっきりと意識するようになった。
 当時東條英機に抗したことが、なぜ戦後の一時期、指導者たりうる効果的な条件のひとつになったのか。アメリカを中心とする連合軍は「デス・バイ・ハンギング」と、東條英機と大日本帝国を断罪したが、はたして彼らに断罪するだけの歴史的役割が与えられていただろうか。
 ひるがえってここから、私はふたつの問題をひきだしてきた。
 ひとつは、東條英機と陸軍中枢だけが、昭和前期における全き否定的存在なのか否かという問題である。それともうひとつは、東條英機の指導者としての資質や性向を、巧みに近代の政治・軍事形態の負の局面に重ね合わせることによって、問題の本質が歪曲されていないかという点である。
 東條英機を悪罵する論者も、肯定の側に経つ論者も、意図的と思われるほど、しばしば論理が類似しているのは驚くべきことだ。そのことは近代日本の政治・軍事形態が、制度的に明確さを欠いていたことをものがたっている。統帥権という、だれも理解しえない魔物の存在などその例だ。
 具体的にいえば、昭和十九年二月に、東條が首相・陸相のほかに参謀総長を兼ねた状況は、「東條が権力欲に憑かれて独裁体制を布いた」という側面と、「大日本帝国憲法を現実的に運用して、東條は国務と統帥の一体化をはかった」という側面の、ふたつの論で比較できる。実際このふたつの論は、基本的には異なっているのに、論理構造だけは表裏のように類似しているのである。
 東條英機をとにかくいちど解剖する必要を感じるのは、この段階にとどまっていてはいけないと思うからだ。そして東條英機を〈普通名詞〉から〈固有名詞〉に戻し、そこで東條の性格と東條がなしたことを明確に区分しておくことが、ふたつの問題を見るうえでの前提になる。東條英機は、歴史的には山県有朋や伊藤博文がつくりだした大日本帝国の〈拡大された矛盾の清算人〉であったと思う。誰かがどこかの地点で、清算人になる宿命をもっていたのだ。そのことを踏まえつつ、東條英機の性格が権力者としての立場にどう反映し、時代の様相をどのように変えたのかを検証していきたいと思った。」保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫、2005. pp.7-9.

まだ、途中までしか読んでいないので、東條についても保坂の論についても、ぼく自身の評価はまだ固まっていないが、これは歴史の細部の確認と、あの戦争についてじっくりと考える上で、避けて通れない課題だと思うことしきりである。
コメント
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