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 スピノザ入門を読む 3 善悪のちがいを決めるもの  ジャニーズ・スキャンダル報道

2023-05-28 19:34:37 | 日記
A.スピノザ哲学の核心 
 善悪とはなにによって決まるのか?というのが倫理学のテーマだとすると、普通は善なる行為と悪なる行為を分別分類して、善なる行為を推奨し悪なる行為を禁ずるということになる。しかしその善悪を分ける基準というものは、必ずしもはっきり決まっているとはいえない。犯罪のように法律で決められた禁止行為を破る場合でも、実際は個々の行為ごとにこれはどのくらい悪なのか、どれほどの罰を与えるのか、時間をかけて審査し判定する手続きが必要だ。それでも善悪はわかるはずで、誰でもそれを内面化した良心のようなものを教育を通じて身につけている、と考える人々は多い。
 しかし、スピノザはそのような善悪があらかじめ決まってある、という考えはとらないという。まずは『エチカ』の前半部分の基本にある考え方を、國分氏はこう語る。

「前半は自然界に善悪が存在しないことを述べています。事物は「それ自体で見られる限り」、善いとか悪いとかは言えない。つまり、それ自体として善いものとか、それ自体として悪いものは存在しない。それは自然界に完全/不完全の区別がないのと同じである。興味深いのはその理由を示す後半部です。完全/不完全の考えは、我々が形成する一般的観念との比較によってもたらされるのでした。では、自然界には存在しない善悪の考えが私たちのもとにもたらされるのはどのようにしてでしょうか。
 スピノザはここで、組み合わせとしての善悪という考え方を提案します。例として取り上げられているのは音楽です。
「憂鬱の人」、つまり落ち込んでいる人と音楽が組み合わされると、その人には力が湧いてきます。その意味で落ち込んでいる人にとっては音楽は善いものです。「悲傷の人」というのは、たとえば亡き人を悼んでいる状態にある人のことです。そのような人にとっては、音は悲しみに浸るにあたって邪魔であるかもしれません。そのような意味でその人にとって音楽は悪い。「聾者」、つまり耳が不自由な人には、音楽は善くも悪くもありません。
 音楽それ自体は善くも悪くもない。ただそれは組み合わせによって善くも悪くもなる。つまり、自然界にはそれ自体として善いものや悪いものはないけれども、うまく組み合わさるものとうまく組み合わさらないものが存在する。それが善悪の起源だとスピノザは考えているわけです。
 たとえばトリカブトという植物について考えてみましょう。よく知られているように、トリカブトが人間の中に入ると、人間の肉体組織を何らかの仕方で破壊します。だからトリカブトは「毒」と言われます。しかし、それはトリカブトと人間の組み合わせが悪いということを示しているにすぎません。トリカブト自体はただ一つの完全な植物として自然界に存在しているだけです。トリカブト自体は悪くない。人間とうまく組み合わさることができないだけなのです。
 あるいは、私がよく挙げるのが鼻水の薬の例です。鼻水の薬というのは、鼻水が出て困っている人にとっては、鼻水が止まるので善いものです。この薬によって普段通りに活動できるようになる。けれども、鼻水の薬は涙腺や唾液腺の分泌を抑えることで鼻水を止めています。ですから、鼻水に困っていない人が飲むと、喉が渇いて非常に困ることになる。その人にとっては鼻水の薬は悪いものだということです。
 さて、スピノザはこうして、世間一般で用いられている完全/不完全、善/悪の考え方のどこに問題があるかを明らかにしました。自然界には完全/不完全の区別などないし、それ自体として善であるものも悪であるものも存在しません。
 では、完全/不完全、善/悪といった言葉を使うのはやめようということなのかというと、そうではありません。スピノザは以上を踏まえた上で、これらの言葉を再定義して使い続けることにしようと提案します。
 理由は別に難しいことではありません。
 いまスピノザが考えようとしているのは、いかに生きるべきかという問いです。この倫理学的問いに答えるためには、望ましい生き方と望ましくない生き方を区別することが必要です。もし完全も不完全もないし、善も悪もないというだけだったら、どんな生き方をしても変わりないということになってしまいます。ですから、世間一般でのこれらの用語の用いられ方を一度批判的に検討した上で、やはり善い生き方、悪い生き方を考えなければならないと提案しているわけです。少し別の言い方をすると、もし善いとか悪いとか言うならば、こういう意味でいうべきじゃないかと提案しているわけです。
 では何が善くて何が悪いのでしょうか。スピノザはあくまでも組み合わせで考え続けます。
 先ほどの例に戻ってみましょう。なぜ音楽は「憂鬱の人」にとって善いのでしょうか。それは音楽が落ち込んでいる人の心を癒し、もっていた力を取り戻す手助けをしてくれるからでしょう。つまり力を高めてくれるからです。スピノザはこのことを「活動能力が高まる」という言い方で表現します。第四部ではこのことが次の定理で説明されています。

 我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるものを〔……〕、言いかえれば〔……〕我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。(第四部定理八証明)

 私にとって善いものとは、私とうまく組み合わさって私の「活動能力を増大」させるものです。そのことを指してスピノザは、「より小なる完全性から、より大なる完全性へと移る」とも述べます。完全性という言葉もこのような意味で使い続けようというわけです。
 この考え方は、言うまでもなく、自然界にはそれ自体としては善いものも悪いものも存在しないという考え方と矛盾しません。たとえば胃が丈夫な人にとって、ステーキは元気になって活動能力を高める善い食べ物かもしれませんが、胃弱の人には、お腹が痛くなって活動能力を弱めてしまう悪しき食べ物かもしれません。すべては組み合わせであり、善い組み合わせと悪い組み合わせがあるだけです。
 ここからもう一度、いわゆる道徳とスピノザ的な倫理の違いについて考えることができるでしょう。
 道徳は既存の超越的な価値を個々人に強制します。そこでは個々人の差は問題になりません。
 それに対しスピノザ的な倫理はあくまでも組み合わせで考えますから、個々人の差を考慮するわけです。たとえば、この人にとって善いものはあの人にとっては善くないかもしれない。この人はこの勉強法でうまく知識が得られるけれども、あの人はそうではないかもしれない。そのように個別具体的に考えることを、スピノザの倫理は求めます。
 個別具体的に組み合わせを考えるということは、何と何がうまく組み合うかはあらかじめ分からないということでもあります。たとえばこのトレーニングの仕方が自分には合っているかどうか、それはやってみないと分かりません。その意味で、スピノザの倫理学は実験することを求めます。どれとどれがうまく組み合うかを試してみるということです。
 もともとは道徳もそのような実験に基づいていたはずです。それが忘れられて結果だけが残っているのです。ですから、道徳だから拒否すべきだということにはなりません。ただ、個々人の差異や状況を考慮に入れずに強制されることがあるならば、注意が必要になるわけです。
 スピノザの善悪の考え方は、その感情論と直結しています。簡単に見ておきたいと思います。
 スピノザは感情を大きく喜びと悲しみの二つに分けているのですが、より大なる完全性へと移る際には、我々は喜びの感情に満たされるのだと言っています。反対の場合は悲しみです。『エチカ』では、大きく二つに分けられた感情がさらに細かく分析されます。たとえば愛という喜び、共感の喜びなどです。
 興味深いのはむしろ悲しみの感情の分析のほうで、たとえば、ねたみの分析などは実に見事です。
 スピノザは「何びとも自分と同等でないものをその徳ゆえにねたみはしない」と言います(第三部定理五五系)。たとえば鳥が空を飛んでいるのを見ても私たちは「なんであいつらだけ飛べるんだ!ずるい!」などとは思いません。鳥は自分たちと同等だとは思っていないからです。
 しかし、たとえば自分が同等だと思っていたクラスメートが優遇されたり、自分よりも高い能力を示したりすると、とたんに私たちはねたみの感情に襲われます。同等だと思うがゆえにねたむわけです。「なんであいつだけ……」というわけです。
 スピノザによれば、ねたみは憎しみそのものであり、したがって悲しみの感情です。そうやってねたんでいる時、私たちはより小なる完全性へと向かいつつあり、活動能力を低下させていることになります。つまり自分のもっている力を十分に発揮できない状態です。自分の外側にある原因(ねたみの対象)に自分が強く突き動かされてしまっているわけですから、自分の力を十分に発揮できない、つまり活動能力が低下しているのです。
 スピノザにおける善悪の考え方の基本的なラインを説明しました。まだ疑問に思う点もあるかもしれませんが、関係する論点はこの後、一つひとつ取り上げていくつもりですので、ゆっくりお付き合いください。」國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』講談社現代新書、2020.pp.46-54. 

 これを現実の問題、たとえば先日長野県で起こった殺人事件のことで考えてみると、どうなるだろうか。散歩の途中で談笑していた二人の高齢女性を、自分のことを笑っていると感じた31歳の男が路上で刃物で殺害し、通報を受けてやってきた警官二人も猟銃で射殺したという事件。もちろんこの殺人は、どうみても悪であり許しがたい犯罪だけれども、ただこの男を悪人だというだけでは何も説明したことにならない。第一、彼がこの行為をする以前は、何を考えていたにしても、悪人とか犯罪者とか決めつけることは難しい。スピノザ的に言えば、彼が悪人だからこんなことをした、のではなく、彼を取り巻いていた原因(ずっと孤独・・自分が通常の社会関係がもてない人間だと周囲に見られていた、という)に強く突き動かされてこんな行為に至ってしまったわけで、自らの活動能力を低下させた状態にあったゆえに、他者への攻撃に向かったことになる。通常の理解の範囲を超えた行為だけれど、その状況と結びつきを考慮せずに「悪人だから」こんなことをする、という説明よりはずっと納得につながる考え方だろう。



B.ジャニーズの疑惑?
 芸能話題とくに人気タレントのゴシップなどを扱うのは主に女性週刊誌、あるいはスポーツ新聞など大衆向けメディアで、大手の大新聞は興味本位の芸能人記事は載せない、という常識があったことは確かだろう。人気タレントが多く所属する芸能プロダクションとの関係を重視するテレビが、ジャニーズ事務所のスキャンダルを抹殺するということも、あるのかもしれない。しかし、この所属タレントへの性加害という問題は、そうした芸能話題などとは質の違うものだと思う。それを大手新聞メディアがまともに採り上げなかったことは、おおいに反省すべきだった。少なくとも「週刊文春」に対する訴訟でジャニーズ側が敗訴したという事実もあったのに、メディア全体が軽視していた、ということを英国メディアの指摘から気がついた、とすれば迂闊だ。

「ジャニーズ性加害問題 新聞に欠けていたものは :論説委員 田玉 恵美 
 新聞はなぜ報じてこなかったのか。ジャニーズ事務所の創業者ジャニー喜多川氏による性暴力疑惑に注目が集まるなか、厳しい批判の声が耳に届く。
 そう言われるのも当然だろう。疑惑の報道は長きにわたってあった。だが、朝日新聞が本格的に論じたのは、被害を訴える男性が顔を出して実名で記者会見をした4月になってからだ。なぜ見過ごしてきたのか。自分なりに考えてみたい。
  •     *     *  
 調べると、この問題を伝える報道は、週刊誌などで1960年代から散発的に続いていた。大きな転機は、99年から「週刊文春」が手がけたキャンペーン報道だろう。
 喜多川氏による「セクハラ」について匿名の少年たちの訴えなどを14回にわたって伝えたものだ。ジャニーズ事務所と喜多川氏は名誉棄損だと訴えたが、03年の東京高裁判決はセクハラに関する記事の重要部分を真実と認定。04年に最高裁で確定した。
 朝日新聞は一連の判決をすべて報じている。ただ、多くは記者の署名もないベタ記事だ。今思えば、扱いが小さすぎるように思う。事情を知っていそうな同僚やOB・OGらにできる限り聞いたが、そもそも文書の記事の内容や裁判の詳細について当時の状況を覚えている人がいなかった。
 ただ、多くの人が同じ推測をした。この「セクハラ」が性暴力で、深刻な人権侵害にあたるとの認識が欠落していたことだ。女性への性暴力を精力的に取材していた記者でも「男性が被害者になるという感覚を持てていなかった」という。当時の編集幹部は「家庭で子どもの眼にも触れる新聞に、性の話題はふさわしくないという古い考えも根強かったと思う」といった。
 この疑惑は週刊誌が得意とする「芸能界のゴシップ」であり、新聞が扱う題材ではないと頭ごなしに考えてしまったのではないかと省みる人も多かった。芸能界は「そういうこともある」特殊な世界だと思い込んでいたため、ジャニーズ事務所も新聞が監視すべき権力のひとつであるという意識を持てなかった可能性がある。
 ジャニーズがタブーだから報じなかったのではないか。そんな声も聞くが、少なくとも私が知る限り、朝日新聞の取材現場がジャニーズに忖度しなければならない理由はないように思う。実際、真相を探ろうと取材した同僚もいた。
 経済部の男性記者(46)は別の部署にいた08年、複数の元ジャニーズの男性を見つけて話を聞いたが、記事化に至らなかった。「被害者意識を持ち、それを訴えたいという人に会えなかった。その他の取材結果も合わせて検討し、この状況では記事にはできないと当時は判断した。ジャニーズはタブーではなかったし、新聞なら書けると思って取材をした。結果として、記事にできるだけの材料をそろえられなかったのは情けないのだけれど」
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 テレビがこの問題を取り上げていたら大問題になるはずなので、ジャニーズに入ることはなかったんじゃないか。被害を訴えた男性が会見で発したその言葉は、新聞社で働く自分にも重く響いた。
 私は10~13年に文化部にいた際、ジャニーズの役者に主演ドラマの見どころなどを聞いた記事を5本書いた。「良からぬうわさ」があるのは漠然と知っていたが、具体的に知ろうとしなかった。目を向けていたのは、事務所や放送局に都合のいい華やかな側面だけだ。そのビジネスに組み込まれた重大な疑惑で、新聞こそが取材すべき案件であると考えることができなかった。
 世の中にある問題をくまなく把握して十分に伝えることはとても難しい。メディアはいつだって不完全だ。常になにかを見落としているだろう。でもだからこそ、それをたえず自覚して、いまの常識や価値観に安住していてはいけない。この苦い経験にあらためてそのことを教えられた。」朝日新聞2023年5月27日朝刊、13面オピニオン欄 多事奏論。
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